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ふるさとびと ―或素描―

   

 

 おえふがまだ二十(はたち)かそこいらで、もう夫と別居し、幼児をひとりかかへて、生みの親たちと一しよに住むことになつた分去(わかさ)れの村は、その頃、みるかげもない寒村になつてゐた。

 浅間根腰の宿場の一つとしての、瓦解前の繁栄にひきかへ、いまは吹きさらしの原野の中に、いかにも宿場らしい造りの、大きな二階建の家が漸く三十戸ほど散在してゐるきりだつた。しかもそのなかには半ば廃屋になりながら、まだ人の棲んでゐるのがあつたり、さすがにもう人が棲まずになり、やぶれた床の下を水だけがもとの儘せせらぎの音を立てて流れてゐるやうなのも()じつてゐた。

 村の西のはづれには、大名も下乗(げじよう)したといはれる、桝形(ますがた)石積(いしづみ)がいまもわづかに残つてゐる。その少し先きのところで、街道が二つに分かれ、一つは北国街道となりそのまま林のなかへ、もう一つは、遠くの八ヶ岳の裾までひろがつてゐる佐久(さく)(たひら)を見下ろしながら中山道(なかせんだう)となつて低くなつてゆく。そこのあたりが、この村を印象ぶかいものにさせてゐる、分去(わかさ)れである。

 その分去(わかさ)れのあたり、いまだに昔の松並木らしいものが残つてゐたり、供養塔などがいくつも立つたりしてゐる。秋晴れの日などに、かすかに煙を立ててゐる火の山をぼんやり眺めながら、貧しい旅びとらしいものがそこに休んでゐる姿を今でもときどき見かけることもあるのだつた。

 おえふの生れた家、牡丹屋(ぼたんや)は、もとはこの宿(しゆく)の本陣だつた。何もかも昔のつくりで、二階はいかめしい出格子になり、軒さきに突きでた彫りものの龍にはまだ古い彩色があるかないかに消え残つてゐた。……

 

 おえふたちは小さいときから、この生れた家を離れたきりでゐたのだつた。――もともと、おえふの父の草平といふ人は、郡はおなじでも、ここから五里ほど離れた或村の赤屋敷といはれてゐる旧家の出で、牡丹屋とは血つづきだつたが、此の村の人ではなかつた。が、明治のはじめ頃にその牡丹屋の主人がまだ稚い子を残して亡くなると、後見に頼まれて、瓦解以来何度も倒れさうになつてゐたその世帯を引き受けることになつた。しかし、牡丹屋は、――といふより、この古い宿全体がいよいよいけなくなるばかりだつた。――そこへ鉄道が出来た。が、村は素通りをされる。――おえふの父の、草平は、その預つてゐる牡丹屋をみすみすその儘仆(たふ)れるのにまかせてゐるときではないと思つた。そこで自分の一存で、隣村の原野のまんなかに出来た停車場の前へ、率先して、牡丹屋の裏にあつた、厩舎をそつくりそのまま移した。さうしてそこで蕎麦を売り、汽車弁を一手にまかなつた。それが見事にあたつて、牡丹屋は徐々に立ちなほり出した。

 おえふも、弟の五郎も、その駅前にできた新店から、たつつけ姿で、旧道のはうにある寺を校舎にした小学校へかよつた。

 そこの村も村で、それまではほかの宿場とおなじやうな運命をたどつて、ひどく衰へ、みるかげもない一古駅となり果ててゐた。が、その村のなかに停車場のできるのと前後して、そこいら一帯の風物がそのすこし前からはうばうに夏を過ごす高原を捜してゐた外人の宣教師たちの目がねにかなつて、夏だけ、そこに風変りな部落がいつのまにか出来るやうになつてゐた。

 おえふは弟たちと寺の小学校にかよひながら、さういふ村の急激な変化を、――村のあちこちに紅殻塗(べんがらぬ)りの小屋が急にたち、萵苣(ちさ)やキヤベツなどの畑ができ、又、その近くに牛や羊の飼はれてゐる牧柵などができてゆくのを、何か目をみはるやうな驚きと、一種の憧がれをさへもつて見てゐた。しかし、それも夏のあひだだけのことで、冬になると、おえふたちは又いかにも山の中の娘らしい娘に立ちかへつてゐた。

 

 おえふが年頃になると、その村の蔦ホテルから、突然、長男の(よめ)にと懇望(こんまう)された。

 大体、その蔦ホテルといふのは、もうその頃は村の北方にある森の中にいかにも山のホテルらしいものになつてゐたが、ついその前までは、旧道のなかほどにあつたほんの小さな蔦屋といふ旅籠屋だつた。――若い頃村を飛び出して、静岡あたりで伝道師をしてゐた当主の耕助は、このごろ自分の郷里が外人のおほく集つてくる避暑地として(ひら)かれだしてゐるのを知ると、こんな事をして妻子をかかへながらうろうろしてゐるよりはと、自分の家に戻ってきて、そこで日曜学校をひらき、かたはら英語がすこし話せるので通訳などをやつてゐた。そのうちに知合の外人たちに頼まれて、自分の家にも二人三人泊めるやうになり、その客たちにいろいろ教はつて、畳の上に花の模様のあるうすべりを敷いたり、縄でベツドを編んだりすることを覚え、だんだんホテルらしい恰好になつて来はじめてゐた。

 そのうちに好いパトロンが見つかつた。独逸人の寡婦で、二三度泊りに来てゐるうちに、この村がすつかり気に入り、本気でホテルをやる気があるなら金を出してやるから此処にもつといいホテルをつくつてはどうだと、向うから言ひ出した。そこで、その独逸婦人の提案で、村の北にある小ぢんまりとした森のなかに場所を選んで、そこにともかくもさうしたホテルらしいものを建てた。さうしてそれから数年のうちに、ずんずん発展して、そのうち本陣でもやりはじめたホテルを凌駕して、村で一流のホテルになつてゐた。

 ただ、さうやつて稼業のはうは一番工合のいいホテルになつてはゐた。――だが、この狭い山のなかの村、ことに古い家柄のものをいふ此の村では、なんとしても蔦屋の一家は家柄が悪かつた。同じ稼業をしてゐる本陣とは、何かにつけ、とても太刀打ちできなかつた。……そこで長男の(よめ)として、牡丹屋のおえふが真先きに選ばれた。牡丹屋といへば、いまでこそ昔ほどの羽ぶりは利かなかつたが、隣りの村の本陣。――そしておえふの父の草平は、たとへ本家すぢではないとはいへ、いろいろ牡丹屋のためにも、村のためにも尽してきた人で、いまではもう押しも押されないその村の顔役になつてゐた。

 おえふが、親の云ふなりになつて、蔦ホテルに嫁いでいつたのは、明治の末、かの女が十九の春だつた。……

 結婚して一年。――おえふは、はじめて出来た子の初枝を生みに、母親のもとに帰つてくると、そのままどうしてももうホテルに戻らうとはしなかつた。理由はなんとも云はなかつた。それを云つても、誰にも分かつてもらへさうもないから、一そ云はずにゐようと思ひ込んでゐるやうな容子だつた。……

 おえふは、それまでとは打つて変つて、急に勝気な女になつた。誰になんと云はれようと平気なやうに、店さきなどで背なかにした初枝をあやしてゐるおえふの姿は、いかにも屈託のなささうに見えた。

 

 さうしておえふの父がいままで面倒をみて相当のものに仕上げた駅前の店を、もう成人した本家のあととりに譲つて、それと入れ代つて、隣りの村のもとの牡丹屋に隠居をすることになつたとき、おえふも初枝を連れてそちらへ一しよに往つた。さうしてそれきり遂にホテルヘは戻らなかつた。

 弟の五郎は、それを機会に、東京に出た。

 

 おえふは初枝を漸くふところから離せるやうになつた頃、ホテルでは草津の有名な温泉旅館からそこの評判娘を(よめ)にしたといふ噂を耳にした。

 が、それからまだ一年と立たないうちに、その娵も離縁になつたことを知つても、おえふはもうなんとも思はないやうになつてゐた。一たん(あき)らめると、かうも気が強くなれるものかとおもはれるほど、かの女は全くいまの境涯に安んじてゐるやうにさへ見えた。さうしてそこいらの村の女たちと同じやうになりふり構はない容子をしてゐたが、さすがに何処か品があり、それがかへつてかの女のまはりに一抹の淋しさを漂はせてゐたことはゐた、――が、そんな事にも無頓着らしく、いかにも何気なささうにしてゐるおえふには、ああ不しあはせな(ひと)だと人々に云はせないやうなものがあつた。

 

 こちらの旧牡丹屋は、もうながいこと廃業同様になつてゐたが、おえふたちが移つて来てから、夏など人に頼まれて学生を二人三人預かつてゐるうちに、それからそれへと聞きつたへて、夏休みになると学生たちが行李に一ぱい本を詰めて勉強に来だした。そのうち、村の南にある谷間に夏場だけの仮停車場ができ、使ひ古しの乗合馬車が一台きりで、松林の中を伐りひらいた道をとほり、そこと宿(しゆく)との間を往復するやうになつた。

 おえふはその夏のあひだ、学生の世話を一人で引き受け、小女などを相手に、昔の自分に立ち返つたやうに、赤い(たすき)がけで娘らしく立ち働いた。年よりもずつと若く見せてゐるおえふの美貌は、学生たちの間に、何かと噂の種を播いてゐた。しかし、おえふはそんな事にはいつかう気もとめず、身なりかまはずに働いてゐるばかりだつた。さうして夏だけ手つだひに帰ってきてゐる弟の五郎などに何かぞんざいにものを云つてゐるときなどは、これがあのおえふさんかと思ふほど、きびきびしたものの云ひ方をしてゐた。

 

 そんな夏の或日のことだつた。おえふが小女と一しよに流しもとで働いてゐると、丁度日ざかりなのでさつきから人けの絶えてゐる街道のはうに、急に人影がみとめられた。見てみると、三村さんの奥さんと、娘の菜穂子と、もう一人、見かけたことのない、痩せて背の高い、画家かなんぞらしい男との三人づれだつた。三村夫人は日傘の中からおえふとふと目を合はせると、何か見られたくないやうに、無言で会釈をして、すうつと通り過ぎていつた。おえふはその夫人の素ぶりに何か異様なものを感じた。……連れの画家かなんぞらしい男は家の前に立ち止まり、菜穂子とならんで、まぶしさうに軒さきに突きでた龍の彫りものなどを見上げてゐたが、ふと家の中から夫人と会釈をかはしたおえふの姿に目をとめると、何か意外なやうな(まな)ざしでかの女の方をじつと見た。が、そのまま菜穂子と何か話し出しながら、いかにも疲れてゐるやうな容子をして、そこから歩き去つた。

 こんな山国にはこんな女もゐるのか、――男の目はさう云つてゐた。おえふはそんな切ない(まな)ざしでこれまでついぞ人に見られたことがないやうに思つた。

 

   

 

 さういふおえふは、それから何年立つても、その頃のままのおえふでゐた。そんな山の中でずんずん年をとつてゆくこともいつかう苦にならないらしく、いつも何気なささうに暮らしてゐたが、それでゐておえふは不思議にいつまでも若く美しかつた。

 しかし、おえふの背負はされてゐる運命はそれだけではなかつた。

 娘の初枝が十二の冬、村の小学校への往きがけに、()みついた雪の上に誰かに突きころがされたやうに(ころ)んで、それがもとで脊髄を患ふやうになつた。

 一年たち、二年たつても、その病気はすこしも快くならなかつた。とうとう上田の病院に入れて、いやがるのを無理に手術させたが、結果ははかばかしくなかつた。その上、初枝は自分の病気に怖気(おぢけ)づき、もうすつかり寝たきりになつてしまつた。

 おえふは、自分の娘がみすみすそんな廃人同様になつてゆくのを自分の力ではどうにもならないことを、そのときまざまざと知らせられた。

 それから二三年の間といふもの、おえふの心痛には、殆ど量り知れないものがあつたはずだ。――だが、みたところ、おえふは相変らずもとの儘のおえふでゐた。

 

 その春ごろ、東京から帰つてきた弟の五郎は、やつと村に落ちつくやうになつても、すこしも家業に身を入れず、夏には学生たちを誘つて小諸(こもろ)へ酒をのみにいつたり、冬は冬で、猟に夢中になり、ジヤツクといふ犬をつれて出たまま、何処へ猟にいくのか、二日も三日も帰つて来ないことがあつた。

「むゝ、あいつは家に落ちついてゐようなんて考へもしないんだ。若いうちにや、好きなやうにするがいいさ。」

 老人はいつも為様(しやう)がないといつた顔をしていふのだつた。

 そのまま、その冬も、なにもかも吸ひつくやうな寒さのうちに過ぎていつた。

 

 その翌年。――何か暗いかげが、家全体をおほひ出してゐることはかくせなかつた。

 そんな年の、秋になつてからだつた。ときどきおえふの(もと)に東京から手紙が届いた。おえふはよく何処かの物陰へいつて、一人でそれをよんで来ると、そのあとでしばらく淋しさうな顔つきをしてゐた。

「どうせ生きられても、ちやんとした身体になれない位なら、いつそ此の()でも死んでくれたら……」

 おえふはさう心の隅でおもふこともある。ふいと何か希望のやうなものがかすかに涌いてくる。

 何度も山に雪がふつて、麓の村にもやがて雪がおとづれさうになつた頃、初枝の工合の悪い日が続き出した。それまで何か外のことに気をとられてゐたやうに見えるおえふは、急に我に返つたやうになつて、初枝の看護に身を入れるやうになった。

「この()は、この頃、ずつと一人で苦しんでゐたのだわ。何か云ひたさうに、いつも大きい眼でじつと私を見つめてゐたけれど、云ひたいことも云へなかつたのだ。……私はもうすこしその傍に坐つてゐてやらなければいけなかつた。……」

 さうおもふと、自分ひとりだけの考への中にとぢこもつてゐた此の頃の自分が、無性に悔やまれて来た。

 おえふはもうすべてを(あきら)めた。初枝のために、自分のすべてを棄てようとした。――が、さういふ自分がさぞ惨めに見えるだらうと、ふと自分を見かへしてみたとき、おえふは其処に、もとの儘の自分をみいだしたばかりだつた。

 

 もう冬だ。明けがた、暗いうちに猟に出かけたぎり、五郎は日が暮れても帰らないことが多かつた。暗くなつて帰つてきても、何もいはずに、獲物をはふり出し、囲炉裡に土足のまま這入つて、いつまでも一人きりで、冷え切つた体を温めてゐた。その間、うすぐらい土間で、ただジヤツクの白いすがたが何やら蠢いてゐるばかりだつた。……

 

   

 

老人は、たまにこの古駅を見にくる山好きの旅びとなどがあると、その客を相手に、若いころからの此の村の変りやうをさまざまに思ひ出し、夜のふけるのも知らぬやうに語りきかせてゐた。

 その頃は、まだ何処にもいまのやうな官有林ができてゐず、わづかに赤松がまばらに立つてゐただけで、村から火の山の裾野は一目だつた。

   吹きとばす石もあさまの野分かな

 さういふ古人の句さながらに、昔噴き上げられて落ちてきた焼石があちこち草の中に見えてゐるきりの、果てしない裾野がこの村を過ぎる旅びとの足もとまで迫つてきてゐ、見あげると、ついもうそこに火の山の火口がちぎれちぎれに煙を飛ばせてゐる。……

 さういつた野分のころの一昔前の村のありさまを、老人はさういふ話の折には、いつも好んで思ひ浮べるらしかつた。

 

 その老人が一生のあひだ自分の骨折つてやつてきたすべての事は殆ど忘れ、たださういった野分の日のありさまだけを自分の前に浮べながら、一と月ほど(わづら)つただけで死んでいつたのは、まださういふ冬の立ち去らないうちだつた。

 老人の死後、思ひがけない困難がおえふたちのまへに生じた。老人に旧牡丹屋を預けたのは老人一代といふ約束だ、と本家のはうで云ひ出したのだつた。それはおえふたちには寐耳に水だつた。その本家のあととりと老人とのあひだにどういふ約束があつたのか、誰もそれについては知らなかつた。――しかし、おえふたちにしてみれば、こちらの牡丹屋は自分たちのもの、といふ気もちになり切つてゐた。それが当然のことと思へてゐた。――だが、本家からさう云ひ出されてみると、何分ほんの口約束だけだつたのだらうから、どうにも為様(しやう)がないことだつた。結局、どちらに()があるといふこともない儘に、紛糾(いざこざ)はいつ果てるともつかなかつた。……

 そんななかで、五郎は、もと小諸(こもろ)で藝者に出てゐて、二年ほど前からすこし体をこはして東京に帰ってゐたおしげといふ女を家内にした。おしげが小諸にゐた頃からの約束であつたのを老人には隠してゐたのだつた。おえふたちはそれをうすうす知つてゐたので、こんどの事にも何も云ふことはなかつたけれど、場合が場合だけに、困つたことになつたと思つた。

 おしげは、しかしそんな稼業をしてゐた女にも似ず、いかにも気立のいい女だつた。もうすつかり体もよくなり、牡丹屋にきた日から、たつつけ姿で、おえふと一しよになつて働いた。こんな山奥で、かうやつてなりふり構はずに働いてゐる方が、この東京の女にはかへつて何んの気苦労もなくていいらしかつた。

 おえふたちもそれを見て、思はずほつとした。

 ただ、これからみんなで唯一の頼みにしようとしてゐた五郎が、その梅雨(つゆ)さきから、突然足を患ひ出した。リウマチスといふ診断だつた。――が、何しろ、この二三年つづけて雪の中で猟ばかりしてゐたので、すつかり冷え込んでゐたと見え、それはかなり悪性らしく、梅雨がすぎ、夏になつても、立てなくなつてゐた。

 そんな五郎の病気のおかげで、ここしばらく、本家とのいざこざもその儘になつたきりでゐた。

 夏になり、また学生たちがやつて来た。をととし頃からその学生たちの間に、自分のことが何かと陰口にのぼつてゐるらしいのを、おえふも知らないことはない。おえふにはそれが何よりもつらいことだつた。が、この夏は、おしげにすつかり学生のはうの事は任せてゐられたので、自分は殆どひきこもつて初枝や五郎の看護に向ひ、あまりそんな噂には心をわづらはせずにゐられた。

 九月になつて、学生たちがみんな帰つてしまひ、家のものだけになると、いつになくおえふは自分のまはりが急に淋しくなつたやうな気がした。なんとなくいつもとは工合がちがふやうに見えた。「また自分たちだけが取残された――」なぜか、そんな滅入(めい)るやうな気がしてならなかつた。

 秋が深くなつて、朝など山の方から猟銃の音がきこえ出すと、老犬のジヤツクはなんだかじつとしてゐられないやうに走りまはり、不意と見えなくなる。さうして日暮れ頃枯葉を一ぱい身につけて帰つてきては、囲炉裡のそばにさびしさうに上り込んでゐた。ひとりで山へいつては雉子などを追つてくるらしかつた。

 冬になると、襤褸(ぼろ)のやうなものにくるまつて、村の子たちが大きいのも小さいのも一かたまりになりながら、ほかにはもう殆ど人どほりのなくなつた街道を、朝夕小学校にかよふ姿が目立つやうになる。

「あれが越後屋の子さ。ああ、あつちかい、あれは……」そんなことを老母がおしげに教へてやつてゐる。見馴れないおしげには、まだ、どの子もおなじやうに見えるらしかつた。……

 十二月も末になつた頃、突然、見知らない洋装の男女が村のなかに姿を現はした。

 林のなかをしばらくさまよひ、それから村はづれまで往つて雪のある山を見たりしてから、村の子に案内をさせて、牡丹屋にきた。三村さんの知りびとらしく、そこの別荘を明けて一と冬使はせてもらへまいかと云ふのだつた。どうも様子が変なので、それまで二人を泊めて、返事を待つことにした。が、三村夫人からは何んの返事もなかつた。その代り、有名な小説家の森さんといふ人から牡丹屋に宛てて為替を送つてよこし、もしそちらにさういふ二人づれがいつてゐたら何分よろしく頼むと云つて来た。そこで、おえふは病中の五郎と相談して、丁度いま東の林のなかに一軒小さな家が()いてゐる、何年にも人が住んだことがないので大ぶ荒れてゐるだらうけれど、それでよかつたら借りて上げませう、といつた。二人はそれに同意した。そこで、牡丹屋では一通りのものを揃へてやつて、そこに二人を住まはせた。

 雪深い林のなかで、二人はそれきり滅多に村へも出て来ずに、ひつそりと暮らしてゐた……

 おえふはいつしか二人の身の上を知るやうになつてゐた。男は或雑誌の記者で、女は良家の娘だつた。現在の二人にとつては、自分たち以外には、世間もなにもないらしかつた。山のなかの寒さも何んともないらしかつた。――さういふやうな二人の生活が何かしらおえふを脅やかした。……

 二月の末、おえふは誰もほかにゐなかつたので、森さんの送つてよこした書留をもつて、その林のなかの家まで届けてやつたことがある。

 林の中には、まだ雪がところどころに薄汚く残つてゐた。おえふはジヤツクを先に立てて、そんな中を歩きにくさうに往つた。

 林の奥から、ふと、人の(いさか)ひ合ふ声がきこえて来た。おえふは悪いときに来合はせたとおもつた。が、ジヤツクがひとりでずんずん先きにその中にはひつてしまふので、やむをえず、かの女も柴折戸(しをりど)の前に立ち止まつた。

「お手紙がこちらに参つてをりましたので――」と少しためらひながら言葉をかけた。

 ()つと男が外套すがたで出て来た。なんだか髪を逆立ててゐた。

 おえふはそちらを見ないやうにして手紙だけ渡した。

「これはどうも――」

 男はそれを受けとつて、封筒を見ると、何か待ち切れずにゐたもののやうに、おえふの前でもうそれを(ひら)いてゐた。

「おい。」男は急に物陰にゐる女のはうに声をかけた。「森さんは北京に往かれるんだとよ。……」

 おえふはいそいで柴折戸のそばを離れた。

 それから再びジヤツクを先立たせ、残雪の間を拾つて歩き歩き、いま見てきたばかりの(すさ)んだ二人の生活を心に(うか)べながら、かの女は何か思ひがけない思ひに充たされた。さうしてふいと、かうやつて林の中をひとりで歩くことなど殆ど無いといつていい此の頃の自分のことをかへりみた。

 その林を出ると、冬の日がぱあつとかの女の顔にあたつた。おえふはいつになく()けて見えた。

 それから二三日後、林のなかにはもう住んでゐるものがゐなかつた。……

 

   

 

 この頃になつて、誰が云ひだすともなく、古駅としておもかげをよく残してゐるこの村の家並み、ことに昔の本陣だつたままの家作りの牡丹屋や桝形(ますがた)の茶屋の古びた美しさや、その村はづれの分去(わかさ)れのあたりの山々の眺めなどをなつかしんで、東京などからわざわざ訪れてくる人が多くなり出した。

 昔この宿に遊女がゐてその墓の一とむれがいまも残つてゐるさうだが、といつて、その墓のありどころを尋ねてくる学者らしい外人などもゐた。そんなときには、おえふが出て、故人になつた老人がよく客などに話してゐたのを聞き覚えてゐるまま、それはたぶんあそこのことでせうと、うちでは奉公人どもの墓といつてゐる、寺の墓地とは別になつて、もつと先きの森のなかにある一とむれの古い墓を教へるのだつた。

 或日、老母がなんといふこともなしに昔話を思ひ出して、初枝にきかせてやつてゐる。――昔、この村に古い狐が住んでゐて、それが人知れず毎晩のやうに数年まへ武家に殺害せられた或遊女の墓のほとりをさまよひ、ときどきそつとそれに近づいてはそれを舐めてやつてゐた。村びとがやつとその事を知つて、其処へいつてみると、その墓にもひとりでに深い傷ができてゐたのだつた……

 おえふはそばで、そんな話をききながら、自分もはじめてそれを聞いた子供のころの事、――秋など、森のなかで真つ紅になつた蔦のからみついてゐる古い小さな墓などを見かけると、きまつてその狐の話を聯想し、何だかかはいさうにおもつたりした事のあるのを思ひ浮べてゐた。……

 

「初枝もすぐ二十(はたち)になる。――」おえふはさう考へて、急に何かに(おどろ)かされるやうな気もちになることがある。

 考へてみると、十二のときに病気をしてから、いつまでもその日の儘の心もちで、自分にすつかり甘え切つてゐる初枝を相手にして暮らしてきたせゐか、自分までが一しよにその日から殆ど年をとるのをも忘れてしまつてゐたかのやうだつた。

 おえふには、その日から後の事はなにもかもついこないだの事のやうに思へる代り、それより先きにあつた出来事はすべてがもう夢の中のやうに思へるばかりだつた。

 こんないまの初枝のやうな年頃に、自分はもうあんな不しあはせな結婚をさせられてしまつて。――と、さう強ひて思つてみても、その頃の自分のすべてが何ひとつ目を外らせたいほど痛ましい姿をして蘇つて来ないのである。……

 おえふは、まだ四十にもならないうちに、こんなこだはらない気もちで、自分の若い日のことが思ひ出されようとは思ひも及ばぬ事だつた。

 

 いそがしい夏場だけ、高崎の(ざい)から飯炊きの婆さんがよく働きに来てゐた。目が悪いので、いつも孫ぐらゐの小娘を連れてきてゐた。去年帰るときに小僧でもあつたらと頼んでおいたら、こんどはもう自分は働けないからといつて、十八になる捨吉といふ自分の甥を世話してよこした。――夏のはじめ、その捨吉が来てみると、生れつきのひどい(びつこ)だつた。まあ、この若いものまでが――と、おえふは老母やおしげとおもはず顔をみあはせた。

 しかし、今年も非常に客の立て込んだ夏の間、まだ五郎がリウマチスで寝たきりになつてゐる始末なので、そんな捨吉でもゐてくれた方がずつとよかつた。

「こちらが上段の間といつて殿様がお泊りになつたお部屋です。それからあちらがお小姓(こしやう)の間で……」捨吉は、昔の本陣の構へを見せてもらひに牡丹屋をおとづれる外人たちの一行の先きに立つて、(びつこ)を引き引き、説明して歩かなければならないこともある。

 お殿様の間に泊つてゐる、松平といふ、美術史専攻の学生は、いつもその部屋の奥で静かにレンブラントの画集なぞを見ながら、さういふ捨吉の説明ををかしさうに聞いてゐた。

「捨さんもなかなか牡丹屋の説明がうまくなつたな。」

 松平は捨吉の顔をみると、よくさう云つて冷やかした。

 

 或日、捨吉が学生たちのしてゐた話を聞いてきて、おしげに云ひつけてゐた。

「さつき藤棚の下に五六人集つて、何かおもしろさうに話し合つてゐるので、ちよつと聞いてましたら、みんなで此の牡丹屋の最後の日のことを勝手に想像しあつてゐるんです。誰かが、もう五六年もしたらひとりでに突然目の前でがらがらと崩れてしまふやうな気がすると云ふと、いや、まだこのまま百年位はもちこたへて、この次ぎの浅間の爆発でやられるさなどと云つてゐる人もゐました。……」

 おしげはそんな事をきくと、本気になつて腹を立てた。

「馬鹿をおいひでないよ。お前はまたそんな事をとんまな顔をして聞いてたんだらう」

 捨吉はさも困つたやうに、ただ、人のよささうな笑ひを浮べてゐた。

「私、なんだかこはくなつたわ。」初枝は陰でそれを聞きながら、おえふの方を何か訴へるやうな目つきで見あげてゐた。おえふは縫物をしながら、こともなげに云つた。「そんな、お前、ばかばかしいことを。」

 さう云つたきり、おえふは娘から目を外らせてゐた。おえふはそのとき心のなかでこんな事を考へ出してゐた。――いまこそ弟の病気のおかげで本家との問題が小康を得てゐるものの、いつまたそれが再燃して、自分たちを(おびや)かすやうになるか分からない、()しかして自分たちがこの家を手放なさなければならないやうな破目にでもなつたりするのよりか、一そのこと、その前にこの牡丹屋がひとりでにさうやつて崩壊して自分たちも一しよに死なれたらいい。……

「そんなことをこはがつてゐた事には、お前……」

 おえふはさう云ひながら、しけじけと初枝のはうへ目をやつた。

 

 九月になると、学生たちはあらかた帰つてしまふ。急にひつそりとなつた牡丹屋の前に、或秋らしくなつた日、一台の最新型の自動車が着いて、そのなかから若い外人の男女が下りた。蔦ホテルかなんかで知合になつた同志が、人目を避けて、此処まであひびきに来たらしかつた。

 二人とも日本語がよく分からず、おしげは困つて、まだ滞在してゐた松平に来てもらつて、通訳をたのんだ。

 松平も困つたやうな顔をして二人と何やら押問答をしてゐたが、()つと笑ひながらおしげの方をみて云つた。この二人は、二三時間でいい、どこか静かな部屋があいてゐたら、其処で休ませてくれ、といつてゐるんですよ。さうしてあちらのホテルはどこも人が多過ぎる、と勝手な文句まで抜かしてゐるんですよ、と付け加へた。

 おしげも笑ひながら、その厄介な客を連れて、裏二階にあがつていつた。

 松平はそのまま小さな本を懐に入れて、宿を出て、東の林のはうへ往つた。……

 夕方近くなつて、松平が林から帰つてくると、ずつと遠くの方から牡丹屋の大きな建物の前にまださつきの外人の乗つてきた自動車の駐まつてゐるのが小さく見えた。それが何か異様に西日にぴかぴかと光つてゐた。

 

 九月の末になつて、一番最後まで滞在してゐた松平もとうとう帰つていつた。

 捨吉は自転車にその荷物をつけ、一しよについてきたジヤツクとあとになり先きになりしながら、森のなかにさきに姿を消した。

 その森にはひる前に、松平は急にふり返つて、最後に村全体を見わたした。村のあちこちの森から、炭を焼いてゐるらしい烟りがいくつとなく立ち上がつてゐた。

 松平は、自分の去つたあともこの古駅に残る人達のことを考へながら、そのまま森のなかへはひつて往つた。

 谷間の駅には、捨吉が自転車に手をかけたまま、何かぼんやりとして待つてゐた。その足もとに、老犬もうづくまつてゐた。

 汽車のくるまでまだ()があるので、松平もそこいらの柵によりかかりながら、山の方を眺めてゐた。

「信州つて随分淋しいところですね。」捨吉がふいに松平のはうを向いて云つた。

 松平は意外なやうな(おも)もちで捨吉の方を見た。さうしてこのかたはな若者がこの村のものでなく、高崎の在から雇はれて来てゐることに()つと気がついた。

「ふん、捨さんでも淋しいなんぞとおもふのかい。」

 さう事もなげに云つてしまつてから、ああ、もうすこし何んとか云つてやればよかつた、と松平はおもつた。

「さういへば、捨さんははじめて此処で冬を過ごすんだね。冬は寒さうだなあ、ここは……」

 捨吉は黙つたまま、足もとの老犬のはうへ目を落してゐた。

 松平もそれきり黙つて、もうすつかり秋めいて近かぢかと見える火の山の火口のあたりに小さな雲がたえず移つてゐるのを見やつてゐた。小さな雲がひとつづつ立ち去ると、そのあとに火の山の煙らしいものが一すぢ、かすかに立ちのぼつてゐた。……    (了)

 

 

堀辰雄文学記念館

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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堀 辰雄

ホリ タツオ
ほり たつお 小説家 1904・12・28~1953・5・28 東京麹町平河町に生まれる。再婚した母の家庭で幼少時を東京下町で過ごし、同じ下町出で中学・高校・大学の先輩でもあった芥川龍之介に親昵。1927(昭和2)年の芥川自殺に遭い、深く新文学の創作へと志す。「聖家族」「風立ちぬ」「菜穂子」などフランス文学や日本の古典の感化を受けた代表作をもつ。結核療養のため長く信州に住み、晩年は病床生活が続いた。

静かな諦念をも湛えた戦中1943(昭和18)年「新潮」1月号初出の掲載作は、この作家のほとんど最後の小説である。

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