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潮流

 タクシー運転手の広瀬哲也は、中年夫婦を乗せて函館空港にむかっていた。夫婦は島巡りが趣味らしく、これから奥尻島の観光に出向くようだ。潮の匂いがたまらなく好きだ、と語り合っていた。哲也はその話題にそれとなく協力するように、啄木小公園にさしかかると、運転席側のガラス窓をおろした。五月の空気には、潮の匂いとともに肌寒い冷気の残りが感じられた。   

 斜め上空には東京発らしいANAの機体が着陸態勢に入っていた。あの旅客機で到着した客を首尾よくひろえたならば、空港行きと帰りの効率のいい運行になる。ツキのある一日になるだろう。剰な期待は失望を伴うことが多い。それがわかっていながら、遠距離の客がひろえる幸運を抱いてみた。

 空港の降車場で夫婦をおろすと、哲也は間髪を入れず、客待ちタクシーの列の後方についた。やがて、大小の荷物をもった大勢の人並みが空港ロビーからあふれ出てきた。バスとタクシー乗り場とに分かれていく。タバコを吸いながら車外で立ち話をしていた、先頭集団のタクシー・ドライバーがみな急いで運転席にもどった。 

 タクシーの列が動きはじめた。次つぎ客をひろってはみな勢いよく走りだす。どんな客を乗せたのか。大半が函館市内だろう。哲也の目にはどれもが遠方の上客をひろったように思えて仕方なかった。

(おれにはどんな客がつくのか。最低料金の、湯の川ならば、いやだな)

 哲也の車がタクシー乗り場に近づくほどに、ANAから降りた客の列が細く短くなってきた。自分の番までまわってくるだろうか。あと三番目。ここで客がひろえなかったら、次の旅客機の到着を待つよりも、JR函館駅か、市内の観光地に移ったほうがいいかもしれない。

 客足が途絶えた。しばらく待つことにきめた。客のなかには到着ゲートで荷物が見あたらず、遅くロビーから出てくるひともいる。あわてる乞食はもらいが少ない、とかれは自分自身に言い聞かせた。運転席から一歩外にでた哲也は、マイルドセブンに火を点けた。タバコのけむりが車内に残っていると、このごろの客は乗るのを拒否する。そんな気遣いも怠らなかった。 

 前二台のタクシーが旅客機の制服乗務員をひろった。客がすべて途切れたようだ。空港関係者が時折りビルから現れるが、みなマイカーだ。こんな調子では、きょうの水揚げは二万円をきるだろうな。かれはもう一本、タバコに火を点けた。ミラーが暗褐色の自分の顔を映しだす。三〇年余りも海で焼けた色は生涯消えそうにもない。若いころは眉が濃く、厳つい顔だといわれたものだ。いまは五〇歳過ぎの皺が目尻と頬下に浮かぶ。初老らしくなったものだ。そのうえ、頭髪には目立つほど白髪が混じる。鏡に映る自分の顔を凝視したくない年齢になったことはたしか。

 突如として、エンジン音がひびいた。頭上を見上げると、奥尻行の小型機が快晴の空に飛び立つ。さっきの中年夫婦はあれに乗っているはずだ。

 哲也は自販機でペットボトルのお茶を買うと、さっきコンビニで買ったおにぎりの残り分を食べた。春になると、どうも眠気に襲われる。かれは運転席の座席シートを倒した。ウトウトしてきた。ガラス窓がノックされた。四〇代後半の男性がのぞき見ている。哲也はあわててシートを起こし、後部ドアを開けた。スーツを着たビジネスマン風の客だった。きっと市内だな、と推量できた。

「どちらまで?」

「船で、奥尻島に渡りたい」

「江差行のバス乗り場でいいんですね?」

 それは函館駅前から出ている。

「このまま江差の船着場までいってもらいたい」

 ずいぶん遠距離だ。ラッキーな客だと思うまえに、金をもっているだろうな、と哲也は疑った。後部座席の客はビジネスの革かばんひとつで、宿泊の準備すらしていない。下心はないだろうか。

「クレジットカードは利用できるかね」

 この質問からしても、料金が踏み倒される心配はなさそうだ。

「カード払いは歓迎です」

「一三時ちょうどのフェリー船に乗りたい」

 客は船便の時間まで調べている。つまり、予定の行動のようだ。問題はなさそうだ。

「いま飛び立った奥尻行の飛行機には、乗れなかったんですか」

 哲也は車をスタートさせた。

「きょうの奥尻行は、全便が満席だったから。羽田を発つまえから、それはわかっていた。函館空港にくれば、何とかなるだろう、とキャンセルを期待してきたが、搭乗人員の少ない機だけに、甘かったみたいだ。函館空港からの次の奥尻島行は一三時一五分だから、ここでキャンセル待ちするよりも、船便のほうが確実だとおもって」

「奥尻はビジネスで? 島には自衛隊のレーダー基地があるから、その関係の方です?」

「いや、ちがう。私のかつて部下だった女性が、出身地の奥尻島で結婚して三年目で亡くなった。有能なひとだった。その墓参りなんだ」

「大地震で犠牲に?」

「そうじゃなくて、骨髄の病気で亡くなった。若いのに、血液のガンで。彼女が函館の病院に入院しているとき、見舞いに一度きたきりで、亡くなったとき、私はすでに海外勤務で、葬儀に参列できなかった。前々から、墓参りしたいとおもいながら、もう五年近くが経ってしまった」

 このたび本社の会議に帰国する飛行機のなかで、彼女の夢をみた。だから、思い切って、とんぼ返りの墓参りで奥尻島に足をむけた。明後日には成田空港を発つという。

「夢で呼ばれたんですね」

「そうかもしれないな。函館からの飛行機がつかえなくなったから、奥尻への日帰りはだめになった。一泊になるけど、島でゆっくりもと部下の冥福を祈る、という気持ちに切り替えた」

 お客はこの場でも、冥福を祈るように無言となった。

 哲也にはひとつの不安が生じていた。地理の疎い遠距離客はとかく支払いの段になると、遠回りしたのではないか、と疑いの目を向けてくる。料金が高いといわれて、釈明などしたくない。それは避けたかった。

「ルートですけど、最短で大野町、峠を越え、厚沢部町を通り、江差に入りますから。それでいいですね」

「峠越えというと、渡島の内陸だよね。できれば、函館の市街地や海岸線からの景色をみたい」

「遠回りになるけれど」

「学生時代に、サイクリング車で松前半島をまわり、津軽海峡の美しさに感動したことがある。今日は五月晴れだし、あの感動の一端でも味わいたい。日を改めて観光でくるとなると、もっと高いものにつく。船に乗れる時間までに、江差につけばいいことだから」

「松前半島の突端まで、ぐるりとまわりますか」

「そこまでする必要ない。遊びでなく、あくまで墓参りだから。ただ、あさって日本を離れる。この機会だから北海道の風光明媚な景色を、すこしでも心に刻んでおきたい」

「じゃあ、木古内まで海岸線を通っていきます」

 哲也の車がすぐさま方向を変え、湯の川温泉から函館市内に入った。路面電車を追い越していく。先刻、無線で本社に江差行きを伝えていた。それを知る、すれ違う同僚ドライバーの目が妙にねたましそうにみえた。

「……さっき、地震の話しがでたけど、彼女の身内でも大地震の被害に遭ったひとがいると聞いた。青苗の漁師で、叔父とかいっていた。深夜の大津波で家ごとさらわれて亡くなったらしい。泳ぎは達者だったらしいが、津波にはかなわなかったみたいだ」

「津波か……、波の力は底知れないほど怖ろしい。漁船でも平気で叩きつぶす。経験したものじゃないと、波の恐さはわからない。大波に遭えば、人間の力なんて、微々たるもの。まして、津波となると、どうしょうもない」

「運転手さんは漁師だったの。肌が日焼けしているし、その話しぶりでは」

「北洋の漁師をやっていた。運が悪いところがあって、三度も抑留された」

「さすが北海道だな、抑留経験者に出会うなんて。何歳から漁船に乗っていたの?」

「海に出たのは一六歳のときだった。うちの両親がはやくに死んだから……。母親の顔はぜんぜん憶えてないし、自分が高校一年のとき、漁師だった親父が死んだ。借金は残せても、財産は何ひとつなかった親だった。借家だし、学費すら払えなかった。働きにでるしか道はなかった」

「海の遭難で亡くなったの?」

「いや、長患いで死んだ。病院の支払いも滞るくらい、貧しかった。だから、親父の四九日のときには、もう北洋漁船に乗っていた。最初はママ炊きと呼ばれる、下っ端の炊事係だった。あのころは漁労長に食事をはこぶ時間になると、途轍もなくこわかった。ドキドキしながらはこんでた。機嫌が悪いと、一口食べて、こんな不味いもの食べられるか、ばかやろう、飯も満足に炊けないのか、と海に投げ捨てられたものだ」

「かなり傲慢だな。すると、船長も?」

「漁船では、船長よりも漁労長のほうが偉い。漁労長の腕次第で、水揚げ高が決まるから……。船長も漁労長には気をつかう」

 哲也は朝夕に、そんな権限をみせつけられたから、自分も将来、かならず漁労長になってやるぞ、と心に誓った。漁労長は目標だけれど、それは何十年も先のはなし。高校中退だから、なにか腕に技術がほしくて独学で、三二歳のときには船舶操縦士の免許をとった。

「漁労長にはなれたの?」

「四〇歳ちょっとまえで、漁労長にはなれたけど。漁船で四〇歳はまだ若造だから、それはそれで苦労が多かった」

 上磯の街を抜けたタクシーは、湾内にそびえる函館山の表情が変わっていく海岸を走っていた。そのさき下北半島までも、よく見通せた。

「抑留生活はどんなものなの?」

 客の興味ある視線が、運転する背中につよく感じられた。

「最初は二〇歳のときで、カムチャッカ沖で捕まった。日ソ関係が最も悪いときだったから、ナホトカに連行され、連日、厳しい取調べをうけた。スパイ扱いで、いくら否定しても自衛隊との関連が問われた」

 だ捕された漁船が刑務所代わりで、一歩も上陸が許されず、一年七ヶ月も閉じこめられていた。狭く密閉された男ばかりの世界。それはじつに気が狂いそうだった、とかれはつけ加えた。

「二度目に、だ捕されたのは択捉島沖だった。まだ新婚気分のときで、あれもつらかった。女房がほかの男に取られないか、誘惑されないかと、なにかと嫉妬心で胸を痛める毎日だった。抑留生活といえば聞こえがいいが、しょせん外国での獄中生活。望郷の想いがつのるばかりだった。帰還してきて、出迎えの女房の顔を見たとき、それは踊りたくなるほどうれしかった」  

「わかるな、その気持ちは」

「三度目はちょっと変わっただ捕だった。あれからもう何年になるかな。ソ連時代が崩壊したあとで、新生ロシアになっていた」

 哲也は遠距離の上客だという意識から、胸襟を開いて語りはじめた。

     *

 哲也の乗った漁船が四月初めに、オホーツク海から母港の釧路に帰ってきた。東港に入出航する船舶の間をゆっくり縫う。かれはブリッジ(船橋)から夜明けで忙しい港の情景を見つめていた。

 釧路港の埠頭にはロシア漁船が三隻ばかり停泊する。水揚げがもはや終わったのか、甲板では白人漁師の数人がくつろぐ姿があった。さっき釧路沖で、米軍の艦船とすれ違った。略服姿の水兵がはっきりみえる近距離だった。沖では米軍、港ではロシア船。かつての敵と味方が日本の海上を行き交う、まさに呉越同舟。日ソが対立する時代には決してありえなかったことだった。

 日本からみて永年、ソ連は北の仮想敵国であり、日ソラインの海はつねに一発触発の緊張でにらみあっていた。漁船とはいえロシア船が、釧路に入港する光景など一切なかった。ソ連が崩壊し、新生ロシアになっただけで、こうも状況が一変するものなのか、と哲也はなおも信じがたい気持ちにとらわれていた。

 漁業埠頭へと静かに接舷していく。一三人の乗組員はそれぞれ着岸への役割を持ちながらも、感慨深い目で陸をみていた。沖に出ても、漁は五日から一週間の範囲内で母港にもどってくる。それでも、だれもが上陸を最大の愉しみにしているのだ。

「おらのカカアだ、娘っ子もきてるだ」

 接岸ロープを用意した漁師が、顔面いっぱいに笑みを浮かべる。この男はいつも船舶電話で白糠町の自宅に連絡をとり、毎回、女房を乗用車で迎えにこさせている。今回は中学生の末っ娘が一緒だと喜んでいた。その一方で、今晩はカカアを寝させねえぞ、と喜びを卑猥なことばで表していた。

 埠頭に立つ妻が、ここよ、とちょっと倦怠ふうにかるく手をあげた。娘のほうは父親からなにか高額品を買ってもらいたげな、愛想のいい笑みを浮かべている。派手な迎えではないが、家族の情が哲也にまで伝わってきた。ある種のうらやましさすら感じた。

 哲也の場合は船舶電話や釧路の宿泊所から電話で、女房の志乃(しの)や子どもたちの声をきく程度だった。

 獲れた魚の水揚げ作業が一段落すると、哲也は船主の会社に出向き、辞表を出した。退職手続きが終わった夕暮れにはタクシーで馴染みの酒場にむかった。一時間ほど飲んでいると、旧知の、南茅部町出身の漁労長が入ってきた。

「哲、男ひとりで呑むとはさびしいの」 

 寺田源吉は五七歳で、現役の漁労長だった。シワの多い潮焼け顔で、歳以上に瞼が垂れ下がる。魚場の知識は豊富で、いい腕を持つ。源吉の生まれ育った家は昆布漁の漁師だったらしい。一五歳で夢をもって北洋漁船に乗ったと、過去には何度も聞かされてきた。

「きょう漁船を下りた。つぎに乗る船をきめてから、一度、函館に帰るつもりだ。今回ははじめて漁労長として乗せてもらったが、新米扱いでおもしろくなかった。船長までが、おれを顎でつかってた。毎日ムシャクシャさせられた。我慢してたが、とうとう堪忍袋が切れた。退職手続きまですませてきた」。

「そんな船は辞めて、正解じゃ。どうだ、次の船が決まるまで、四ヶ月ほど、根室で特攻船に乗ってみないか」

 源吉がたばこに火をつけた。すぼめた口先から円い輪のけむりを吐きだす。

「ヤクザがらみだろう。特攻船は違法だ、取締りがうるさくて、ほとんど廃船だときいてる」

 ソ連のゴルバチョフ大統領がはじめて日本にきたとき、政府はソ連との交渉をまえに、北方四島付近の密漁が外交交渉の不利をまねくという理由から、密漁のカニの所持も、販売すらも強行に禁止した。特攻船が水揚げした花咲きガニは店先にならべることも、他人に無料であげることもできなくなった。

 取締当局者は、違反した町の販売業者までも逮捕した。単価の高いカニの密漁で荒稼ぎができなければ、ガソリンを大量につかう特攻船は採算が悪く使い道もない。ほとんど陸上に引き揚げられて残骸となっているようだ。

「まじめな学術研究の手伝いじゃ。藤原教授という海洋学者が腕のいい漁労長と脚の速い船をチャーターしたがってる。ここは哲と共同出資で特攻船を買い取り、教授の仕事を引き受ける。使い道のない特攻船は、二束三文で買えるはずじゃ」

 千島列島沖は世界の三大漁場のひとつで、魚の宝庫である。藤原教授はこの海域の海洋研究において第一人者。おもに魚群の回遊と海流との研究をおこなっている。

「そういう仕事もあるんだな」

「哲は船舶操縦士の免許を持ってる。魚場をみる目が肥えたわしと手を組めば、いい仕事ができる」

 酒の勢いもあって、ふたりは意気投合した。

 妻子がすむ函館にもどらず、哲也はさっそく根室に出向いた。足しげく特攻船の持ち主を訪ねた。特攻船の密漁で逮捕された、苦い経験がある人物を聞き当てた。哲也がその自宅を訪ねると、波止場の特攻船にはもはやみじんも関心がない態度で、むしろ縁起の悪い船だと位置づけていた。哲也が四ヶ月間のリースで一〇万円と申し出ると、簡単に承諾した。……もう一押しできる、と判断した。

『書類はリース契約でなく、売買にしたい』

 広瀬哲也が持ち主から五月一日付で、一〇〇万円で買い取る。九月一日には船主側が広瀬から九〇万円で買いもどす。その売買契約書と譲渡書類はいま同時に交わしたい、という条件を出してみた。ややこしい書類のはなしは苦手だし、まずそっちで作成してみせてくれ。問題なければ、印鑑を捺す、と応じた。 

 哲也の思惑通りで、四ヶ月間は書類上いちおう所有権が移った。

     *

 藤原教授による研究捕獲の漁がはじまった。たちまち二ヶ月が経った。この間、教授は学会に参加とか、授業の関係とか、出版物の打ち合わせとかで、沖に出たのは数えるほどだ。北洋船に乗れば二〇時間のハードな勤務が何日間もつづく。乗組員は水揚げによる歩合制の収入だから、だれもが必死で働く。それに比べると、なにかしら間延びしたものだった。 

 六月末の空気はまだ冷たく、息が白く広がる。一週間ぶりの船出だった。ジャンパー姿の哲也は早め花咲港にきて、エンジンの調子を確認していた。

 早朝の濃霧が段々うす靄のように、半透明となってきた。ほとんど霧が消えたころ、寺田源吉が子犬を抱えて乗り込んだ。厚手の作業用防寒着は使い古した感じで、(うろこ)が幾重にも光る。ズボンはコールテンで、ゴム長靴をはく。これが源吉のいつもの姿だった。

「源さん、そろそろかかった費用の清算をしなければな。おれは一〇万円払った。源吉さんには保険料を立て替えてもらった」

 哲也は、源吉を介して根室の懇意な漁業会社に、四ヶ月の期限付で、この特攻船の所有者になってもらったのだ。ふたりは形のうえで、漁業会社に雇われの身になったのである。

 漁船損害補償法、漁船乗組員給与保険法では、漁船がだ捕されたとき、その損害に対して保険金の支払いがおこなわれる。これが単なる個人の持ち船で、これらの保険に加入していなければ、万が一、ロシア国境警備隊にだ捕されると、妻子を泣かせてしまう。それは哲也の本意ではなかった。

「わしが立て替えた保険料の数字をこまかく並べて清算すれば、哲から差額をもらうことになる。多少の足は出たけど、千円、百円の単位で、とやかく言いたくない。男気じゃ。チャラにしておく」

「保険料がそんなにも高い? 四ヶ月分で」

「二人分の保険料じゃ。この話を持ち込んだとき、漁業会社に頭から断られた。……悪質な違反船は、だ捕されても、支払いの対象にならない、と。わしなりに知恵を出して、違法な特攻船とはわけが違う、学術調査船じゃ、学者を乗せるんじゃ。海洋研究は根室の水産業にも役立つ、と能書きをならべた」

 源吉はさらにこう説明した。特攻船はわしらが一〇〇万円ちょうどで買った。この先、だ捕されて船が没収になれば、法律(漁船損害補償法)で、新船なみの一〇〇〇万円くらいで申請すれば、全額とはいかなくても、いい金がもらえる。わしらには一〇〇万円返してくれるだけでいい。差額分は漁業会社が儲かる。それでも、漁業会社の幹部は首を縦に振らなかった。事業主が払う保険料は、こっちで全額を出すといい、やっと納得させた。

「保険料なんて、だいいち国が決める、わしが値切れる代物じゃない」

 これらの法律では事業主が保険料を払い、乗組員に負担させてはならないことになっている。哲也は事業主になったことがないので、どの程度の金額かわからなかった。

「臭いな。漁業会社は、源さんとは長い付き合いだ、漁労長としていろいろやってくれた、ふたり分くらい面倒をみようといった?」

 哲也は、漁網の点検をはじめた源吉の横顔をのぞきこんだ。

「どこまで疑っておる。わしの顔はもちろん利用した。だから、名義料は払わず、保険料だけですんだんじゃ。証拠はみせた」

 源吉はたしかに漁業会社が発効した、ふたり分の雇入れ契約書を持ってきた。それをもって哲也の船員手帳には履歴関係のひとつとして記載されたから、間違いない。

「哲、そもそも、わしは別に保険なんて必要ないんじゃ。聾唖者の真似すれば、すぐに釈放される。抑留が半月以内だと、見舞金すらもらえん。哲がどこか所属先を探してくれというから、このはなしに乗ったまでよ」

「源さんはうそをつく人間じゃない。約束どおり、雇入れ契約書をもらってきてくれた。ただ、金額は上手にごまかせる知恵がある」

「ひとを信用できなくなったら、仕舞いよ」

 藤原教授がやってきた。四二歳の教授はカーキー色のポケットの数が多い作業服の上下だった。メガネをかけた藤原教授は角張った濃い髭面である。見た目にはこわそうな顔だが、割りに細い神経の持ち主だった。

「きょうは根室海峡で、おねがいします」

 教授が歩み板をわたってきた。

 特攻船は低速で、しなやかな曲線をもった友知湾にそって東方に針路を取った。甲板では茶色の子犬が胴体を横たえ、首だけを左右にむけて景観をながめている。納沙布岬(のさっぷみさき)の海域に入ると、歯舞(はぼまい)諸島のいちばん南の端の貝殻島(かいがらしま)灯台がみえてきた。ここは潮の流れがかなり速い。灯台の台座の岩礁が、まるで船波をきって航行しているようにみえる。

「源さん、左舷の見張りを頼む」

「わかってる」

 水晶島付近には無数の海鳥が、鳴声というよりも、わめきちらし、群れで飛舞する。それは何度みても壮観な情景であった。

 藤原教授は寡黙で、とっつきにくい人物だった。しかし、近ごろはかなり打ち解けていた。質問を向けたならば、研究内容を語ってくれる。教授はいつもの癖で、話しはじめると肩までの長い頭髪を後に二度、三度と送る。その都度、長髪が耳もとから落ちてきた。

 藤原教授の研究テーマは、黒潮の一部が千切れる暖水塊(だんすいかい)の北限調査と魚群との関係である。釧路沖から北方四島には親潮と黒潮がぶつかりあう潮目がある。それが世界の三大漁場のひとつといわれる、豊富な海洋資源をもたらす。国後島と北海道の間は、〇・五度で単位水温が目まぐるしく変わる特徴ある海域である。

 藤原教授はセスナ機から海面温度を測定したり、漁船をチャーターし、海面に潮の模様ができる潮影現象(スリック)を追ったりする。

 スリックの先端が北方四島に延びると、日ロ中間ラインぎりぎりまで船を近づける。研究捕獲し、その魚体を調べる。こうした漁道の調査結果をまとめあげ、研究論文として発表しているのだという。

 国後島の高くそびえる山が羅臼山(らうすさん)だった。「あの島がいつ日本に帰ることやら。わしが生きているうちにかなうかな」

 源吉が国後島を見て毎回おなじことをいう。

 近くに巡視船が航行する。

「源さん、じろじろ視ないほうがいい。ロシア警備艇にだ捕されたら、抑留者だ。巡視船に捕まり、特攻船の密漁だとなん癖をつけられて逮捕されたら、日本の刑務所送りだ。ただの前科者だ」

「おっ怖い」

 二ヶ月前には実際に、特攻船による違法な操業だとみられて巡視船の臨検をうけた。教授が海上保安官に身分証明書や道庁発行の調査許可書を提示して解放された経緯がある。

 藤原教授の指図で、研究捕獲の漁網が海中に投げ込まれたのは昼過ぎだった。二時間後には引き揚げられた。教授は甲板で飛び跳ねる魚種の割り合いを調べていた。さらにサンプル魚の体長測定や重さを計ったり、魚体の撮影をしたりする。それらの調査が終わると、捕獲した魚は海にもどされる。運悪く死んだ魚は源吉が調理し、食卓にあがるのだった。 

 二回目の研究捕獲の指示がでない。教授は魚群探知機のデータを整理し、海図に潮色を塗りこみ、腕時計を見て源吉に水深一〇メートルの海中温度を測らせたりしていた。

「漁網を入れたいの、いい潮目なのに。腕が鳴る」

 源吉が物足りない顔で、何度もいうのだ。

「……国後島に近づいてプランクトン採取ができれば、最高だけど、そうはいかないし。日ロ中間ラインが研究者にとって、実にじゃまな存在だ」

 この海域には、春から初夏にかけて海水温の上昇とともに、ブルーミング現象という、植物性と動物性のプランクトンの大発生があるという。それが海の生態系を支えている。つまり、国後島の河川からの栄養分が海に流れ込み、魚場を豊かにしている。プランクトン採取ができれば、海中の光と栄養との関係から、科学的に魚道がとらえられるというのだ。

「北方四島は日本領土。先生、ライン越えは遠慮せんでもええ。海洋研究は世のため。わしらライン越えはびくともしない、な、哲」

「漁労長が指示する魚場に船をすすめる。それが船長のしごとだ」

「捕まったら、あなたがた漁師は密漁、私の場合は海洋調査でスパイ扱いだ」

「目に見えない微細(ちいさな)プランクトンをすこし持ち帰ったところで、資源が枯れるわけじゃない。それに、この特攻船は逃げ足が速い。先生、目をつぶって、わしらに任せな」

 日ロ中間ラインを越えた特攻船が国後島のケラムイ崎を利用し、その陰に隠れるようにして、プランクトンの採取が行われた。

 藤原教授が貴重品を得たような表情だった。顕微鏡でプランクトンの観察をはじめた。まわりが見えない集中した姿だった。

 源吉が無言で哲也に目配せした。その指先は漁網をさす。

「まずいよ、ここでは」

 なあに、怖れることはないと、源吉が流し網を入れた。それすら教授は気づかず顕微鏡から目が外れない。やがて、雲の割れ目から、金色の夕日が海面まで落ちてきた。国境など関心のないオウジロワシが悠然と羽をひろげて滑空する。漁網の回収に入った。

「やばい。ロシア警備艇だ」

 その船体文字が鮮明に読みとれる距離まで迫っていた。信号弾による停船命令が出された。無視して逃げようにも、海中に残る漁網が錨のように船体を引き止めていた。

 何したんだ、と教授が驚きの声をあげた。

漁網(あみ)を捨てろ。ブイがついているから、そのまま捨てろ」

 操舵室からとびだした哲也は、源吉とともに、魚が飛びはねる漁網をうす闇の海に投げ捨てる。漁網のロープの先端がやっと海に落ちた。

「甲板に伏せろ。逃げはじめたら、機関銃の弾が飛んでくるぞ」

 哲也がエンジンレバーを全開にした。銃弾が船窓のガラスを破った。その衝撃の破壊音が三人を震えあがらせた。

 特攻船の船首がもちあがり急激に速度を増す。警備艇との距離が開きはじめた。銃声が立てつづけにひびく。威嚇(いかく)ではなく狙い射ちだ。

 特攻船は波のうえを飛び跳ねる。バンドして逃げる。船の全長はわずかに一三メートル。そこに巨大な二百馬力のエンジンが四基も搭載されている。緊急レバーで四基のバルブが全開となった。

 速度計の針は三八ノットを差し、びりびり震えていた。

 哲也が船舵を左へ目いっぱいにきった。右舷が水中に沈みこんでいくような錯覚に陥る。傾いたまま、高速で走る。直線で逃げると、格好の標的となり、狙い撃ちされてしまう。

 こんどは右に目いっぱいきる。全速でジグザグに逃げていく。特攻船は全速力でなおも海上を疾走する。

 銃声が止んだ。

「奴らはいまごろ双眼鏡をのぞきながら、くやしがってるぜ。もう日本の海域だ」

 哲也がロシア警備艇にむけてVサインをつくった。

「勝手なまねをされたら困る」

 藤原教授の顔には怒りとともに、いつまでも動悸が静まらない表情が浮かんでいた。出来心で、と哲也は頭を下げて詫びた。

「非常に、危なかった。間一髪、逃げ切れたからよかったものの、まかり間違うと大変なことになっていた。きょうはもう止めだ」  

「あの網は安くないしの。引き揚げたい」

「ロシアに捕まると、大事になる。身柄を拘束されるし、調査資料が没収される」

「漁網は漁師の魂じゃ。一晩経てば、ロシア警備艇のほとぼりが冷める。夜明け前にこっそり引き揚げたいんじゃ」

「あなた方の漁網だから、致し方ない……。納得はできないけれど」

 子犬が三人の足もとにやってきた。

「おい、銃弾に脅えて隠れていたな。どこにいってた? 臆病者め」

 哲也はこの場の緊張した雰囲気を解きほぐすように、両手で子犬を抱えあげた。高い、高いと赤子をあやすように、天井にその頭をかるくつけた。両足がだらしなく垂れ下った。

「晩飯の仕度でもするかの。わしは漁労長なのに、飯炊きもかねておる。せわしいの」

 皮肉をいった源吉が横目でみている。

 そこには船長のほうが格下だ、という表情があった。無視した哲也はなおロシア警備艇のうごきを警戒していた。根室海峡は狭いし、日本の海域とはいえ、警戒は欠かせない。夜間になれば、レーダーでは日本船か、ロシア船か判別ができない。

 食後、源吉と教授が船室で仮眠に入った。

 夜の海は曇天を映した、沼のような鈍い色合いだった。国後島の南端にあるゴロブニノ(泊村(とまりむら))の灯りとともに、ケラムイ崎の灯台が点滅する。銃撃による精神的な疲れから哲也は睡魔に襲われた。ウトウトし、はっと気づいたら、時計の短針はその都度、数字をすすませていた。やがて三時半になった。

「さあ、これから漁網を回収にいくぞ」  

 特攻船が神経を尖らせたように、日ソ国境ラインを越えた。さらに奥へとそっと侵入していく。夜明けまで、時間があまりない。

「漁網のブイがうまく発見できるといいな」

「だれに言ってるんじゃ」

 源吉が自信のある目で、にらみつけた。

 源吉の頭には精緻な海図が入っている。経験豊かな漁師の目で、全方位の岬、島、町並みなどを結び、三角測量なみに現在地を測定する。そのうえで潮の流れを加味するから、殆ど狂いがない。源吉の独特の勘は、哲也からみれば、足もとにも及ばないものがある。

 源吉の勘が冴えていた。海上の漁網ブイが思いのほかはやく発見できた。鼻高々の源吉が先端のロープをウインチに巻きつけた。スイッチが入り、ドラムが回転する。日本漁船がいない海域だけに、漁網なかにはシャケが目一杯かかっているのだろう、かなり重い。

 航空機の爆音がひびいた。超低空で近づいてきて旋回する。やばい。哲也の心臓が締めつけられた。漁網は巻き上げるにしろ、捨てるにしろ、時間が必要だった。哲也の目がロープを切断する道具をさがしはじめた。

「漁網はもったいない。捨てるんじゃない」

「そんなこと、言ってられないだろう」

 哨戒機から、昼光色の照明弾が投下された。その照度は船上でも針穴に糸が通せるほどの明るさだった。

 警備艇はあっちだ。藤原教授が右の方角を指す。二隻の警備艇が猪のように勢いよく突進してくる。

 威嚇射撃の銃弾が、船体の近くの海面で飛びはねた。さらに、もう一隻現れたと、おしえる。それを見る源吉の神経が漁網ロープから外れた。と同時に、大声をあげて甲板に倒れた。

 軍手をはめた左手の指が、ロープでウインチにもっていかれ、三本ほど挽きちぎられたようだ。源吉の防寒着とコールテンズボンが吹き飛んだ血で、真っ赤に汚れている。逃走をあきらめた哲也は、源吉の手にタオルをまきつけた。さらに、腕を縛りつけて止血を施す。

「これで、三度目の抑留になるのか……」

 哲也はつよい落胆をおぼえた。

 接舷した警備艇から、銃をもったロシア隊員が特攻船に乗込んできた。そして、銃口をむけた。甲板に転がる源吉は、執念なのか、ことばを発せず、聾唖者のようなうめき声のみをあげていた。

 ロシア隊員が特攻船の船内を隅々まで調べていた。やがて、国後島の国境警備隊駐屯地まで曳航された。

 哲也のみが国後島の古釜布(ふるかまっぷ)拘置所に移監された。雑居房のなかはロシア人ばかり。誰ともことばが通じない。会話のできない奴として、のけ者にされていく。

 時間の経過とともに自閉的な精神状態に追い込まれた。それは長い苦痛の拘禁生活であった。

     *

 帰還してきた哲也は、早朝の函館駅プラットホームに降り立った。笛が霧の底を這ってきた。漁船の汽笛がひびく根室とはちがう。大型貨物船や客船の汽笛こそが、生れ故郷を感じさせる函館そのものだ。

 志乃の姿は見あたらなかった。濃霧のせいで女房がホームから消えてしまったのか。そう考えるには無理があった。

 国後島からの身柄を引き取りの巡視船が入港した根室港には志乃の姿がなかった。港の公衆電話から函館の自宅に電話を入れたが、だれもでなかった。長期抑留による型どおりの入院検査のさなか、速達はがきで、この列車で帰ると家族には知らせている。しかしながら、女房の迎えがなかったのだ。

 函館から根室までは遠い。それは理解できる。しかしながら、せめて函館駅には迎えにきているだろう、と期待して帰ってきたのに。

 二年余りも亭主が家を空ければ、夫婦の鮮度は落ちるものらしい。亭主の帰還など、もはや感動する出来事ではなくなってしまったのだ。こんな夫婦では、このさき陸にあがり、毎日顔をつきあわせて暮すことができるのか。自分は器用な陸上生活もできず、函館から逃げだし、北洋漁船に乗るのではないか。そんなモヤモヤした不安と苛立ちをおぼえた。

 札幌から到着した夜行のカーペット列車が息ぬきの蒸気を車輪の隙間からしつこく吐きだす。この列車から降りた大勢の客がホーム向かい側の列車に次つぎ乗りこむ。青函連絡船への専用桟橋に、争って足早になる、あの乗客たちはまったくいない。

 夜行列車は霧のなかで迷子になり、とんでもない駅に到着してしまったのだろうか。それも考えにくい。頭上の構内スピーカーから、海峡線の乗換え案内がはじまった。目を凝らすと、青い列車には青森行の表示があった。

「そうか、ソ連崩壊のまえに、連絡船の時代は終わってたんだ」

 哲也の頭にはいまなお函館駅の象徴が青函連絡船として根づいていた。

 こんかいの抑留生活は二年五ヶ月だった。自分にとってはただ日数を数える、時間の経過にすぎなかった。しかし、世の政治体制や鉄道の仕組みが刻々と変化するように、女房の心も変わるものらしい。歳月とは心の変化なのだと、哲也は認識させられた。

「好きで、だ捕されたんじゃないんだぜ。一家の生活がかかってる、とおもうから、おれは北の海で漁をしてきたんだ」

 哲也は一段とむしゃくしゃしてきた。それでも、なお期待して駅舎のなかを一通りさがした。さらなる腹立たしさから、この足ですぐ家に帰る気にもなれなかった。

 かれは駅裏の朝市に足をむけた。道の両側から店員たちの大声の呼び込みが流れる。年配女が哲也の肩をかるくたたいた。兄さん、安くしておくから、この鮭を買わないかねとすすめる。

「おれが観光客にみえるのかい」

 哲也は、函館のにおいが消えている自分を意識させられた。となりの店でも、威勢のよい中年男が銀鮭をすすめる。

 どこの店頭にも一本物の鮭が豊富にならぶ。買い物客がやみくもに値切り、売り子はいとも簡単に応じる。鱗を光らせる鮭はかつてのような貴重品扱いもされず、たたき売りの魚に落ちぶれていた。

 北洋の漁場はかぎりなく狭められている。一方で、養殖技術がすすみ、鮭の値段が暴落しているのだ。理屈ではわかっていても、漁師自身が安っぽく、投げ売りされているような、いやな気分に陥った。

 哲也はラーメン屋の暖簾をくぐった。かつては市場の玄人だけではやる店だった。どうまちがったのか、都会の若者ばかりだった。

「テツじゃないか。生きてたのか」

 店主とは小中学校の同級生だった。

 まあな。短い言葉で、哲也は再会をなつかしんだ。一杯一〇〇〇円のカモメラーメンをたのんだ。以前から、魚介類があふれる、ここのみそラーメンが好きだった。ビールを注文した哲也は、ロシアの厳しい獄中生活から無事に帰還できたと、一人歓迎会をはじめた。

「店の景気はどうだ? 順調か」

まあまあだ、と店主は釜の湯気から顔をむけながら応えた。

 盛り付けで顔が下向きになると、脂で光る若禿が目立つ。店主の禿がことし四三歳だという、自分の年齢までも意識させられた。

 お待たせ。店主が両手でラーメンの丼をカウンターにのせた。蟹、海老のにおいが、哲也の鼻孔の奥まで心地よくしみ込んでいた。

「北洋船に乗ってる連中は、たまにはもどってくるか」

「ちょこちょこ、この店に寄ってくれる。テツは知らないだろうな、恵山出身の常連の一人が、だ捕の危険がある北方は稼ぎがうすいし、ロシアの牢獄はもう懲り懲りだといい、高知のマグロはえなわ漁船に乗ってたら、グアム沖で嵐にやられて遭難だ。四〇日間も漂流したらしい。外国の貨物船に助けられた、と話していた」

「北のだ捕を恐れたら、南で遭難か。海の仕事は楽をさせてくれないな」

 哲也は手酌でビールをついだ。

「板っ子一枚下が地獄、とはよくいったものだ」

「それにしても、鮭が安くなったな」

「それを見越して陸にあがった漁師は多い」

「職はあるのか」

「大半がタクシーの運ちゃんだ。青函トンネルができて観光ブームがつづいてるからな」

 ラーメン屋は麺を()でる一方で、単パン姿の都会女にラーメンをさしだす。

「このさい陸にあがろうと考えてるんだ。年貢のおさめどきだ。いままで、ツキばかりで命拾いしてきたからな。このままだと、そのうち死神が迎えにくる」

 北洋船が秋口の嵐で千島・ウルップ島の海岸に座礁し、転覆し、海に投げ出されたことがある。あるときはレーダーの配線が悪くなり、マストに登ったところ、船体の横ゆれから転落し、甲板に叩きつけられて腰を痛めたこともある。数えれば、きりがない。

「運ちゃんたちは陸にあがった河童で、仕事に満足してないらしいぞ。そうはいっても、生命あっての人生だ」

「この歳で、まだ死にたくないし」

「……テツの奥さんは大変な目に遭って、気の毒だったな。よくいのちが助かったものだ」

「おれの女房に、なにかあったのか?」

「えっ、知らなかったのか。奥さんがパートで働いてた、缶詰工場がボイラーの爆発事故を起こして、大やけどだ。二ヶ月ほどまえの事故だったが、まだ入院しているはずだ」

 店主が病院名をおしえた。

「いまからいってみるが、ケガはどんな具合だった?」

「気の毒に熱湯をかぶり、顔から足にかけて右半分が火傷だ。亭主にみせたくないからだになったと泣いてた。熱湯のかかった衣服が肌に張りついてたから、それでかなり広範囲にやられたらしい」

「病院にいってみる」

「テツ。加工工場は爆発事故がもとで、不渡りを出した。補償はむずかしいだろう。泣きっ面に蜂だ。あとで知るよりいいだろう」

「もちろんだ。おまえは昔からいい友だちだ」

 哲也はズボンの後ポケットから財布をとりだした。根室でもらった交通費(節約した特急代)と見舞い金が入っていた。……北方領土近海での、だ捕の場合は国や根室市役所から、交通費と抑留期間一ヶ月に対して一万円の見舞い金がでる。哲也の場合は三八ヶ月の計算になっていた。その一万円札一枚をカウンターにおいた。

 帰還祝いだ。店主がそれを押しかえしてきた。

 かれはタクシーを五稜郭公園まえの病院に停めさせた。外来の受付はずいぶん混み合っていたが、強引に割り込み、妻の病室番号を聞きだした。エレベーターホールで、手提げ袋を抱えた長女の祥子をみつけた。高校の制服スカートを着、上がTシャツ姿だった。声をかけると、おどろきの表情を浮かべた。

「死ぬかとおもった。母さんが死ぬかと…」

「父さんがいなくて悪かったな。祥子ががんばって、看病したんだろう」

 バッグをもった哲也の胸元に、ことばを失った娘が顔をうずめた。祥子には事故当日のショックがなおも残っているようだ。哲也は嗚咽をもらす娘の頭髪をなでてやった。

 ふたりはいっしょにエレベーターに乗った。ナースステーションに近い、六人部屋の病室だった。カーテンで仕切られた一角には、ベッドに座る志乃の姿があった。顔面の傷口にはガーゼが貼られている。夫婦の視線が交わったとたん、鼻筋の通った細面の志乃が、急に火傷の右頬を隠すように、上半身をひねった。

「迎えにいけなくて、ごめんなさい。案内をもらったんだけど」

「気にするな」

「留守の間に、こんな羽目になってごめんさい。こんなからだになって」

 泣く志乃がそばのタオルを目にあてた。

「詫びることなど、ひとつもないんだ」

「私の不注意もあったの。ボイラーの圧力をあげすぎて。だから事故ったの」

 志乃は事故までの経緯を説明した。缶詰工場のパート収入と保険金(だ捕抑留された漁船員の家族は、国が法律で定めた《漁船乗組員給与保険は法の援護処置》で、給与月額の六割以上が支給される)だけの生活ではぎりぎり。三人の子供たちが上に進学していく、そんな将来を見据えると、いまの収入では教育費を捻出できない。

 そこで、独学でボイラー免許をとった志乃は、会社に掛合い、技術手当てを上乗せしてもらった。その矢先に事故に遭ってしまったのだという。

「警察がここに何度も事情聴取にきたわ。大勢のひとをケガさせてしまったし、業務上過失傷害で送検されたの。前科者になるわ。あなた、ごめんなさい。前科者の嫁になって」

「なにいってるんだ。おれなんか、ロシアにいけば、だ捕で前科三犯だ。どの程度の火傷だ。みせてみな」

「恥ずかしいから」

「夫婦だろう。ばかだな」

 志乃は浴衣の寝巻のまえを広げた。肩から乳房まで火傷一つひとつの状態を説明した。そのうえで、太ももの皮膚をとって傷に張り付ける、移植手術をする予定だという。志乃がふいに祥子にジュースを買いにいかせた。

「自宅は手放したの。あなたに相談しないで。私の判断で」

 妻は謝りの口調でいった。病院の治療は労災で無料だけど、この先はどうみても生活が成り立たない。祥子は大学進学の希望をもっているし、成績もよい。勝手な判断だったけど、この病院に不動産屋を呼び、家を手放し、借家住まいにしたばかりだという。

「いい判断だよ、それでいいんだ。おれが帰ってきた以上、子は大学まで進学させる」

「できれば、あなたが函館にいてくれると、助かるんだけれど。いざというときに、一家の大黒柱がいないと、女の私では無理だわ」

「この際だ、陸にあがる。家族と連絡ひとつも取れない抑留にはおれもコリゴリだ。腰を据え、いい職をさがす。この函館で」

 祥子が缶ジュースを抱えてもどってきた。

 子供たちの近況が話題となったが、三〇分ほど経つと、父さんを家に案内してあげなさい、抑留生活で疲れているんだから、ゆっくり休んでもらって、と志乃が気遣った。

「別に疲れてないけどよ、まあ、汗だけでも流して出直してくるか」

「借家よ」

「母さんからきいた。二年半近くもコンクリートの獄中だと、畳の部屋があれば、それだけで天国だ。それ以上の贅沢はいわないさ」

 祥子とふたりして函館ドック行の市電に乗った。函館駅前にでた路面電車は直角に折れてから、港沿いを走る。

「このさき仕事はどうするの?」

「陸にあがる、と母さんと約束してきた」

「喜んだでしょ。きょう夢見が悪かった、父さんは大丈夫かしら、といつも恐がってたのよ。これから安心して眠れるとおもうわ」

「臆病な性格だからな。寺に生まれ育ってながら、墓がこわい、松前の実家には泊りがけで帰りたくない、というくらいだからな」

 哲也がかつて志乃から聞いた話を思い浮かべた。中学一年生のとき、母の死顔を見た瞬間、背筋が震えた。実母でありながら、見たくもない、恐ろしい存在に変貌していた。そのさき死体とか、墓場とか、霊柩車とかに、得体の知れない恐怖を持つ、トラウマになったのだという。

「ここで降りて、歩いていかないか」

 赤煉瓦の倉庫がならぶ末広町の停車場で下りた。母さんが焼き餅をやくかしら、と祥子が腕を組んできた。心地よいものだった。

 赤レンガの金森倉庫の横から海岸まで、ふたりは散策なみの足取りだった。そのさき遊覧船乗り場、北海道第一歩の地碑、左手には整備された坂道をみた。函館山の裾野の教会から鐘がなりひびく。

「いいものだ、ふるさと函館は心がしびれる」

「父さん。だ捕された漁師は犯罪者なの?」

「ロシアからみれば、そうだ。でも、北方四島はもともと日本古来の領土だ。江戸時代から、松前藩が漁場を開いてきた歴史がある。だから、だ捕の乗組員には国から補償金がでるし、犯罪者じゃない」

「牢獄に入れられても、悪人じゃないのね」

「戦争の捕虜みたいなものだ。兵士一人ひとりは平凡な市民だ。北洋船の、だ捕された漁船員もおなじだ。領土を奪った奴らが悪い」

 函館ドックの巨大なクレーンがひときわ目立つ。外人墓地の方角への海岸沿いの道をいくと、岸辺にへばりついた平屋があった。これがわが家だと祥子がおしえた。

 上等じゃないか。哲也は微笑んでみせた。

 かれは本気で陸の職をさがしはじめた。かつての漁船仲間からはタクシーの運転手、米屋の配達、八百屋の店員と、いろいろすすめられた。どれも気乗りがせず、かれは断った。

 日が経つにつれて、失業意識が深まり、こんなにも存在感のうすい毎日なら、海で働きたいとも思った。しかし、今回は自分でも辛抱強いと感じるほど、陸の職場さがしに拘泥し、海にむかいたがる脚を引き止めていた。

 志乃が退院してきた。哲也は女房から買い物をたのまれて朝市まで出向いた。久しぶりにラーメン屋に入り、きまった注文をした。

「職はどうなった?」

「まだだ。いつまでも遊んでるようで、居心地が悪い」

「その気があれば、魚市場の仲買人なら紹介できる」

「おもしろそうだな。紹介してもらおうか」

 北洋漁船での経験が活かせそうな職場だと思った。

「電話しておくから、山二水産の事務所に行って、条件を話し合ってみな」

「この足でいってみる、どうせ暇なんだ。もつべきものは友だな」

「子どものころ、いじめられてもな」

 と笑う店主に見送られた。

 山二水産の専務は、ことばがとび跳ねるような威勢のよい口調で、仕事内容を説明した。仲買専門だから、仕事に()れたら、セリにもだすという。がんばれば、将来は仲買人権利を得られるとにおわす。その場で勤め口をきめた。快く家にもどってきた哲也は、笑顔で志乃に報告できた。

 翌朝から魚市場通いがはじまった。無我夢中で働いた。志乃が真夜中の三時ごろ、哲也のために朝食をつくりはじめる。卓袱台のうえに朝食の皿がならんだころ、決まって志乃が起こしてくれた。

 魚市場に出勤する哲也は毎日、身近に女房の存在が感じられた。と同時に、陸の生活の心地よさには満足をおぼえていた。四時過ぎになると、かれは乗用車のライトをつけて魚市場にむかう。

 陽が昇るまえから働く生活は北洋の漁場でもおなじ。北緯の高い白夜の海では、漁網を入れると、乗組員は三時間程度の睡眠をとりながら、交替で働きづめになる。その精神が生かされた哲也は活発に働いた。そして、五ヶ月で山二水産の戦力になってきた。  

 雪景色が港の全景を支配する春先だった。ここ数日つづいた降雪は昨夕、息切れし、夜明け前には星と月に空の支配を奪われていた。

 かれは海岸通りで、車を停めてみた。ライトの光芒が横に広がり、波止場に舳先をならべている係留中の小型船までも照らしだす。甲板の雪が白い夜光塗料を塗ったかのように、車のライトに反射する。目を凝らしてみると、船体がさざ波でかすかにゆれ動く。

 哲也は車のライトを消してみた。煌々と照る月光が函館湾の中央を射す。静かな情景だった。漁船や小型船がせわしなく月光の輝く銀波を横切る。順番待ちしていたかのように、大型船がおもむろに銀波を横切った。

 対岸の多彩な灯火が、湾内の曲線を一分の狂いもなく縁取っていた。海岸から山肌の太い光の塊が、横へと流れ、葛登支岬、サラキ岬の方角へと延びる。やがて細長く小粒な光の束となった。

 幻想的な光景に見惚れていた哲也はふいに腕時計を見た。港の魅惑の情景に未練を残しながら、かれは車をスタートさせた。

 哲也の車が魚市場の駐車場に入った。建物の一角ではドラムカンから炎と火の粉が高く吹きあがる。番号の入った帽子を被った男たちが背中を温めていた。哲也は呼び込まれても断り、市場内のあちらこちら歩きまわり、セリまえの魚を丹念に見てまわった。

 地元の蟹、海老、イカをはじめとし、箱に入った鮭、鱈。それに遠く焼津港からトラックではこばれてきたマグロ。これらの下見はセリの相場を読むうえで、じつに重要だった。

 悪天候のあとは魚の価格が敏感に反応して高騰するし、豊漁だと暴落する。海の状況を考え、競り落す値と小売商に売る値を頭に入れておかなければ、高く買い過ぎて損をしてしまう。この緊張感がたまらなく好きだった。

 相場がうまく当たると、のんびり火にあたっていた連中が愚かにみえてくる。

 市場のセリがはじまった。活気と熱気があふれ、汐嗄れた勇ましい声があちらこちらで飛び交う。毛ガニを思い通りの値段で落とした哲也は、次のセリの場所へと駆けだす。哲也はセリ仲間の三人にとり囲まれた。

「テツ、おれたちに喧嘩を売ってるのか」

「別に、そんな気はない。おれが惚れた魚に良い値をつけてる。それだけのことだ」

「カケダシが勝手な値をつけるんじゃねえ」

 一人の男が長靴で哲也の太股を蹴った。

「市場の魚はセリだ。良い魚には欲しい値をつけて落とす。当たり前のことじゃないか」

「むかしから、習わしがあるんだ」

 市場には陰で価格を操るボスがいることを臭わす。それを知らない哲也ではないが、ただ、そうした古い体質を嫌っていた。

「お前たちがいくら暴力をつかっても、おれは思い通りのセリをやるぜ。伊達や推挙で、北洋の漁師をやってたんじゃないんだ。三度もだ捕されりゃあ、警備兵の銃もこわくなくなら。お前らの素手にビクビクするかよ」

「岸壁から突き落としてやっても、いいんだぜ。春先の海は冷たいぜ」

「やれるものなら、やってみろ。嵐で遭難したこともあるおれだ。岸に近い海に落とされたくらいで、怖じけづくか」

 哲也が妥協する気配をみせないとなると、捨て台詞を吐いて立ち去った。

 乱暴な三人の男を相手にしても、哲也が一歩も引かなかった。その噂が市場を駆けまわり、哲也をみる目がちがってきた。それは好意的でもあり、哲也をひとり異邦人として扱う目でもあった。

(きょうは哲也がどんな魚を落とすのか)

 相乗りするセリ仲間がふえてきた。こうした背景から、哲也は山二水産のなかでも、一段と重宝がられる存在になりはじめた。

 哲也への嫌がらせは一年目のみならず、二年目もつづいた。他方で、かれは悶々としていた。

 仕事が終わったある日、哲也の車が家路にむかって雨上がりの市電通りを走っていた。歩道をいく寺田源吉の姿をみつけた。車窓から身を乗り出し、声をかけると、おどろいていた。ふたりはことのほか懐かしがった。

「きのう南茅部に墓参りに帰ってきたんじゃ。哲に会いたいとはおもってたが、ここで会うとはな。まあ、奇遇じゃ」

 お茶でも飲もう。ふたりは赤煉瓦造りの倉庫が改良された洒落たレストラン街に入った。

 コーヒーをたのむと、源吉がまず左手をみせた。第二関節からの三本が切断されていた。哲也は、これだけの大けがでも、聾唖者を演じたすさまじい執念を誉めた。

「わしはロシアの国境警備隊員をみると、本能的に聾唖者になれるんじゃ。大けがの聾唖者など抱え込んだら治療費も、手間もかかる。人道的な処置だといい、すぐ解放された」

「いい特技だ。おれは二年五ヶ月くらってた。真冬もコンクリートの牢獄で、からだも凍ってた。ところで、藤原教授はどうなった?」

「半月くらいで、釈放されたらしい。おおかた大学とか、国とかが学術研究だといい、抗議したんだろうな。あれからこっちは教授に会ってないけれど、人づてに聞いた」

「源さんはいま、どうしてる?」

 その質問は源吉の得意な自慢話を誘ってしまった。いまだに魚場を発見する自分の目は北洋随一で、指がなくても、北洋漁船の船主から引っ張りだこだと胸を張るのだ。

「そういう話を聞くと、身体が燃えてくる」

「こんど一度、新米漁労長と、北洋漁船で腕を競うか。魚道や潮の目は教わるよりも、競争で腕を磨いたほうがいい。上達が早い」

「いま市場の仲買の仕事をしているんだ」

 哲也はこれまでの経緯をおしえた。

「女房が離さないんじゃ、仕方ないな。哲に海心がついたら、連絡してくれ。ええ船を紹介できるとおもう」

「そのときは頼むよ。船長じゃなくて、漁労長で」

 哲也は源吉と別れた。

     *

 志乃の実家の住職から、桜前線が津軽海峡を渡りかけたから、家族で花を見にいらっしゃい、と誘いがあった。志乃が日帰りで、家族全員でいきましょう、と日程をきめた。末っ子が列車好きで、海峡線に乗りたいという。函館から松前まで直通バスがあるのに、木古内(きこない)駅からバスに乗り換えるのは面倒だ。しかし、子どもの希望は聞き入れてやった。

 青森行の青い列車は、五月の連休で、都会の若者たちで混み合う。それでも、広瀬家の全員がうまく席を確保できた。高校三年生の祥子がすぐに参考書を開いた。眼鏡をかけた中学一年生の長男は本好きで、文庫本をとりだす。志乃から、ゆれる列車ではダメよと取りあげられた。

「お姉ちゃんだって」

「受験勉強と、趣味とはちがうの」

「いいな、受験勉強って」

「バカ、苦しいのよ」

 祥子が参考書の角で、長男の頭をこつんとやった。

 小学四年生の末っ子はやや肥満で、さっそくリュックから菓子をとりだす。これも志乃に取りあげられた。何年ぶりかの家族旅行で、皆はことのほかはしゃいでいた。

 列車が市街地を抜けると、湾内にそびえる函館山が方角を変えてきた。沖合いの海は青く透きとおり、大小の船舶が静かに航行する。手前の磯には釣人が大勢でていた。 

 哲也はこうした情景を見ながら、この頃の自分を考えた。……魚市場の仕事はおもしろく、やりがいがある。けれど、市場のなかの人間関係は複雑だし、かれこれ一年半ほど耐えてきたが、ほどほど嫌になった。そのうえ同族会社の山二水産は社長派だの、専務派だの、という上下関係が陰湿にからむ。考えていたよりも、陸上の人間関係はじつにむずかしい。

 漁船ならば全員の気心が知れている。言い争っても、殴りあうような大喧嘩でも、数日後には仲直りするコツを心得ている。漁労長や船長が気に入らなければ、乗る船を変えてしまえば、解消される。

 しかし、陸上のものは何年経っても心を開かず、湿地の苔のようにジメジメしている。陸ではそう簡単に職を変えられない。

(陸の仕事はやはりおれに似合ってないな)

 哲也の思考がそこに辿り着いてしまうのだ。

 木古内駅で下車した広瀬家の五人は、駅前から松前行のバスに乗った。複雑な地形の海岸線を縫い、小さな岬を幾つもまわる。眼下には奇怪な岩礁がたのしめた。最後のカーブをまわって天守閣がそびえる城下町に入った。

 家族全員がバスから降りると、末っ子が先導役をつとめた。川沿いの階段状の小道は城址へとつづく。城址公園では花を観賞する大勢の人出があった。蝦夷霞桜の花弁が澄んだ青空に張りついていた。

 城の裏手には寺町がある。この一帯には数多くの寺がならぶ。志乃の実家はその一角にあった。急勾配の石段をあがると、境内には欅や銀杏の樹木が茂る。南国の花の椿が北限を越え、ここにも咲いていた。苔の張りついた石畳は禅寺の本堂までつづく。さきに駆けだした末っ子が、袈裟をかけた住職の義父を本堂のまえに呼びだしていた。

「座敷にあがってもらいなさい」

 といわれた志乃が、案内したところは白い障子がまぶしい書院造り風の部屋だった。鶯の啼き声がよくきこえた。夫婦はならんで座ったが、子どもは落ち着いていなかった。べこ餅とお茶をもってきた若い僧侶が正座し、丁寧に挨拶した。

 住職が静かな足取りでやってきた。若い僧は入れ替わるように、引き下がった。三人の間で、抑留生活や、志乃のその後の容態などが話題としてあがっていた。さらには魚市場の仲買の仕事におよんだ。

 海に未練は? と住職が訊いた。

「父さん、寝た子を起こさせないで」

 志乃が父親に不快な顔をしてみせた。

「これはまずい質問だった」

「じつはまだ志乃にも喋ってないけど、漁船仲間から誘いがかかった。心が動いてる」

「ほらみなさい。切りだす口実ばかり探していたんだから。近ごろ、いつもなにか言いたげだったのよ」

「他人が捕った魚を扱うよりも、やはり自分の手で魚を捕りたい。もう一度だけ、海に出させてくれないか、体力のあるうちにと」

「懲りないひとね。いまやっと生活が安定したというのに。これでまただ捕されたら、収入も減り、どん底の生活よ。祥子の進学にも影響するわ。祥子だけじゃないわ、子どもたち全員よ。もしも冬の海で遭難したらどうするの。氷の海は二分で死ぬというわ。そんな心配ばかりの生活はもういや。この歳で、白髪だらけになるわ」

「用心深くやるさ。危険なことは避ける。おれの仕事のやりがいは北洋の海にあるんだ。漁労長にもなれた」

 魚群を発見したときの感動が、いまなお胸のうちに彷彿するのだ。それがこのところ漁労長として海にでたい、寝ても覚めても、そのつよい執着心から解き放されないとつけ加えた。哲也がどんなに説明しても、機嫌の悪くなった志乃はつよい反発の姿勢を崩さなかった。

「私ぜったい反対よ。海にいくより、いっそう父に弟子入りして仏門にでも入ったら。心を洗うことで、すこしは家族想いになるわ」

「なにをいうんですか。ご主人さまにむかって。家族のために、危険な海で生命を張っておられたかたですよ。男としてやりがいのある仕事に理解を示す。それが女のつとめ」

「不満だわ。漁船員と結婚したことまで遡って後悔してしまう」

「よしなさい。惚れあって一緒になったのに。なんですか」

 住職がほんきで叱っていた。哲也は志乃の気持ちも理解できるだけにただ黙っていた。

 志乃が函館の墓のない寺に下宿し、市内の進学校に通っていたころ、ふたりは知合った。彼女が高校二年生のときだった。市電のなかで、彼女は与太者に因縁をつけられて困っていた。乗りあわせていた哲也が、その男を電車から引きずりおろし、殴り倒したのだ。交通警官に目撃されたことから、哲也は暴行傷害の現行犯で留置場に入れられた。志乃は気の毒がった。それから、ふたりは交際へと発展していったのである。彼女が札幌の北大に入った翌年の夏休み、哲也は嫁にほしいと、この寺を訪ねた。

「大学を中退してまで、結婚した志乃でしょ。いまさら、なんですか」

 志乃は黙ってしまった。

 住職は裏手に用意した、花見用のゴザを取りに立ち上がった。書院造りの部屋には、哲也と志乃とふたりだけになった。

ほんきなの? と志乃が訊いた。本気だ。絶対に死なないでよ。わかってる。ほんとうよ。もし死んだら、子供を道連れに一家心中してあげる。そんな会話がつづいた。

     *

 だ捕は絶対にされない、三ヶ月に一度の割合で函館に帰る。志乃との間で約束ができても、こんどは山二水産のほうでなかなか辞めさせてくれなかった。

 哲也が根室にむかったのは、道東の海岸から流氷が消える、海明け、と呼ばれる時期だった。源吉の紹介から、北洋漁船の第六北洋丸に漁労長として、乗りこむことができたのだ。

 春から夏はサケ漁が中心となる。秋口からは秋刀魚。晩秋からは時としてカムチャッカ半島まで出かけていく。それらのサイクルで、かれは順調に一巡できた。ひとたび陸から離れてみると、函館帰りが楽しみで、その都度、妻子との新鮮な出会いがあった。

 二度目の海明けの季節から、はや一ヶ月が経った。根室花咲港で、三人ばかり漁船員の入れ替えがあった。出航した第六北洋丸は舳先で、群れて舞う海鳥を蹴散らし、北上をはじめた。真冬の海は氷点下二〇度の厳しいものだったが、もはや寒気がゆるみ、外気は平均マイナス一〇度前後にあがってきた。暖かい日には氷点下にもならない。厳しい酷寒で漁をつづけてきた漁船員にとっては、ぽかぽか陽気で、潮風すら心地よく感じられた。

 この季節は油断がならない。真冬に逆戻りし、降雪を見る。気が許せない。

 国後島の富士山に似た爺々岳を遠望にして、北東にすすむ。第六北洋丸が択捉島の沖合いへとさしかかった。機械油で汚れた五〇男がエンジンルームからあがってきた。

 総トン数七〇トンの第六北洋丸には専任の機関長はおいていない。船長、漁労長のみが役職で、ほかの一三人は部員、つまり甲板員だった。しかし、この男は、ふだん漁網にはほとんど手を触れず、エンジンばかりをにらんでいる。まわりから機関長と揶揄されているが、当人も真顔でその気でいる。根室の船主はクビにしたくても、過去のしがらみなのか、腐れ縁から雇いつづけているようだ。

 ウイスキーのボトルを手にした機関長は、暖代わりにちびちび飲む。酒を飲まなければ、からだが寒さから解放されないのだという。酒がなくても、もはや寒さが充分に耐えられる季節なのに。

 機関長の目がすれ違うロシア漁船の航行をおしえた。錆の目立つロシア船が漁を終えたらしく、これから根室花咲港にむかうようだ。花咲港だけでも、年間にロシア漁船が一〇〇〇隻以上も入港している。

「外貨の日本円が稼げるからといって、乱獲もいいところだ。ロシアは乱獲で天然資源を荒らしてから、北方四島を返還する気か」

 毒突いた機関長がウイスキーを口に含むと、ロシア船の方角に吹きつけた。自分の目で航行する海域の確認ができたのか、船内に入っていった。まわりは漁場に着くまえの準備で、なにかと忙しいのに。

 第六北洋丸は速度をゆるめることなく、一路、めざす漁場へと進んでいた。

 哲也がブリッジから、双眼鏡で潮流や潮目を観察していた。船首と船尾にはヘルメットをかぶり、ライフジャケットをつけた甲板員ら四人が見張りに立つ。

 海面には潮の筋がはっきり浮かぶ潮影(スリック)があった。またしても、機関長がやってきた。

「まだ漁網(あみ)は入れないのか」

「ここはロシア警備艇の目が光っている場所だ、危険だ」

「見張りを立てておけば、大丈夫だ」

「ロシア警備艇は甘く見ないほうがいい。だ捕されたら、乗組員の家族全員が泣くぞ」

「漁網を入れる場所は漁労長の判断だ。とやかくいわないけどな」

 そして、エンジンルームにもどっていった。

 哲也が操舵室の窓をノックした。船長が窓ガラスをおろした。

「ここから東北東七〇度に舵を切ってくれ」

「東北東七〇度。承知した」

 船長がピッチングで、春の風でうねる波を一波、ひと波とかわす。船舷に寄せる波頭の飛沫が時折り、頭上高く飛び散る。マストやレーダーやアンテナに張りついて氷柱となる。

「天気予報は? 水平線にいやな雲がある」

 哲也が操舵室に入ってきて、船長に訊いた。

「あしたの夕方は低気圧の通過があるようだ」

「荒れるまえに、いい魚群を発見したいな」

 哲也は船長と肩をならべ、潮流や空の変化までも注意深く神経を張り巡らせていた。

 僚船から無線が入ってきた。僚船とはつねに無線で情報をかわす。そこにはたいがい駆け引きがある。声の持ち主は漁労長の浜田源吉だった。

──そっちの網はどうじゃ? 穴場でもみつけたか?

 まだ漁網は入れてない。こちらの状況を説明した哲也は、先に漁場に到着している源吉のほうを訊いた。源吉はすでに漁網を入れているのに、狡猾にも漁獲量を伏せている。哲也は無線を切った。

 夕暮れまえには北風が強まり、気温が下がってきた。船窓の窓ガラスが、時折り強い風でビリビリ小刻みに震える。

 漁場に近くなると、哲也の目が海上をつねに凝視していた。船長には左右前後に方向を変えさせる。魚群探知機に映る魚影の数がやや増してきた。まだ納得できないな、とつぶやいた。映像がふいに魚の群れをとらえた。

(ここらで、折り合いをつけるか)

 哲也は胸のうちで、勘の冴えどころになってくれたらいいけれど、と自分に期待した。

 かれの指示で、ヘルメット姿の甲板員が漁網を投げ入れた。漁網が海中に沈むと、第六北洋丸はロープを牽きながらゆっくり航行する。漁労長の哲也が魚の群れを追い込めるように、船長にはさらに進路をこまかく指図していく。しばらく経って、哲也は漁網の引き揚げを命じた。

 ウインチには漁網のロープが巻き上げられていく。漁網が孕んだ女のように膨らんで、海面にあがってきた。甲板は活気づいた。吊り上げた網から海水が滝のように船上に散った。予想以上のいい魚道に当たったようだ。

 獲れた魚がライト下で飛び跳ねる。漁船員たちの顔が明るくなり、笑いが耐えなかった。

 低気圧が急速に発達して接近してきたのか、暗い海面がしだいに荒波となり、船体の上下のゆれが大きくなった。船の灯火がとどく範囲で、白波が走りまわる。ここは最後の一番。そうきめてから哲也は漁網を入れさせた。

 水揚げ高に応じた歩合給だから、皆はがむしゃらに働く。かれらのがんばりの姿が、哲也をいい気分にさせてくれた。 

 マスト灯がさっきから薄雪を浮かび上がらせる。雪は光をもとめる小さな虫の群れのように飛ぶ。その群れはときに消えたりもする。頃合いをみた哲也は、漁網の引き揚げを命じた。期待した二番網も予想を裏切らなかった。

「上々の水揚げだ。これでストップだ」

「漁労長、もうひと網入れようじゃないか」

 機関長がまたやってきた。

「これ以上は危険だ。波を見てみろ。かなり荒れてきた」

「わしらの手取りも考えてほしい。危険を怖れてばかりいたら、第六北洋丸の漁船員はみな干上がってしまう。歩合制の稼ぎでメシを食ってるんだ」

 機関長がまわりの漁船員を煽る口調でいった。だれもが収入を欲しがる目をむけてきた。ここは危険回避の姿勢から毅然とした態度をみせるべきか、みんなのやる気を尊重すべきか。哲也は判断に迷った。よし、もう一丁いこう、と網入れをきめた。

 第六北洋丸は投げ込まれた漁網を牽きはじめた。夜の底の海面がおそろしく高波になってきた。マストが一段と海面に倒れこむように、船体がゆれた。このまま無理すると、漁網が錨となり、船体コントロールを失う。

 ここは網をはやく回収しなければ、危険だ。かれは自分自身に即刻の決断をもとめた。網をあげろ。哲也が大声をあげた。

「まだ早すぎる。魚がかかってない」

 そんな批判の声が背中からきこえてきた。漁労長の職権で、哲也は強引に引き揚げを命じた。甲板のウインチが(うな)る。

 横波が船舷に叩きつける。漁網を引き揚げてしまえば、この程度の高波はかわせる。

 第六北洋丸の船長は経験豊富で、それだけの腕がある。高い横波がくり返し船底をもちあげた。その都度、船体が極度に傾く。

「ロープをゆるめ。ゆるめるんだ」

 ぴーんと張っていたロープがたわむと、船体が水平に復元した。危うく転覆するところだった。

 ロープを巻きはじめると、また高波だ。急遽、ゆるめさせる。それが幾度もくり返された。ここは船体安全のために、ロープを切断して数百万円もする漁網を棄てるべきか。

 哲也は船主への責任から、もう一度だけチャレンジだ、と天にも祈る気持ちで命じた。ウインチのクラッチが入れられた。順調に巻上げがすすむ。これはいいぞ、あと三分だ。

 水平線が明るくなってきた。空には重い雲が幾重にも浮かぶ。乾いた粉雪が風に舞う。

 突如として、これまでにない大波が鋭い牙をむき出し、船舷から噛みついてきた。激しい衝撃が哲也のからだまで伝わった。海底からのロープが、船体を斜め横に、強引にひっぱり倒す。マストが海面へと横倒しになっていく。

「ロープをゆるめろ。はやくしろ」

 かれの指示もむなしく、船体は復元力をなくしていた。甲板から、海水が船内に浸水してきた。

 転覆するぞ。だれもが悲鳴に似た大声をあげた。哲也の背筋にはぞっとする恐怖が走った。

 船体が反転した。真冬に逆戻りした海に投げだされた。心臓マヒを起こすような、寒気の海水が全身をつつんだ。ライフジャケットが哲也のからだを海面までもちあげた。転覆した船底がクジラの背中のように波間に漂う。

 衣服と長靴姿では泳げるものではない。まわりの波間には五、六人の頭が見える。ひとり若い甲板員が心臓マヒを起こしたのだろう、流木のように動かなくなり、波間に消えた。哲也の全身がしびれてきた。むしろ、生きていることのほうが不思議だ。

 目のまえに救命いかだが漂う。手を伸ばした。あとすこしだ。泳いでは手を伸ばす。哲也は救命いかだのロープをつかんだ。

「こっちにこい。こっちにこい」

 哲也が大声で叫んだ。三人ほどが懸命にやってきて、ロープにつかまった。

 二〇メートル先の波間に、救命ボートが見つかったと、部員のひとりがおしえる。哲也はまず海中で長靴を脱いだ。大波で、どの程度泳げるのか。自信はなかった。

 救命いかだのロープから、手を放した。かれは懸命な泳ぎで、救命ボートにむかった。高波が頭から襲いかかる。からだが上下に激しく浮き沈みする。大きな波が視界を消してしまう。泳ぐ方向が狂えば、それで死だ。

 救命ボートの位置がまったく判らなくなってしまった。

 四肢の筋肉がマヒ状態だ。息をするたびに、海水が胃袋や肺臓まで入ってくる。苦しい。内臓の筋肉までもが痙攣するようだ。ここで死ぬのか。死とはこんなに恐ろしく、淋しいものなのか。

 ここで死ねるか。気を取り直し、両手を動かす。見失っていた救命ボートが背後にあった。やみくもに泳ぐ。息苦しくて空気をもとめれば、またしても海水が喉から大量に入ってくる。

 ボートに手が触れた。筋肉の疲労から、からだが救命ボートまで持ちあがらない。両手はしびれて感覚がない。このままでは、無感覚の手がボートから離れてしまう。

 くそっ。最後の賭けのように、全身の力を込めた。かろうじて乗りこめた。 

 こんどは、北からの強風がずぶ濡れのからだの体温を奪う。吹雪となった雪が顔に張りつく。歯がガチガチ鳴る。海水にいたほうがむしろ暖かかったくらいだ。

 すべておれの責任だ。

 かれはその意識で、救命ボートの櫂を漕ぎながら、生存者をさがす。厚岸出身の漁船員がすぐそばにいた。両手でつかまえ、引き揚げた。青い唇が震えている。

 波浪がボートのうえを越えていく。さらに救命ボートから四方を見ると、ふたりが確認できた。なかなか辿り着けない。ひとりは引き揚げたが、もうひとりは見失ってしまった。

「抱きあえ。抱きあえ」

 哲也はそれぞれの体温を大切にさせた。遭難信号が僚船や巡視船にとどいているのか。このまま漂流すれば、全員が死体になろう。長万部出身の最年少のひとりが加わり、救命ボートのなかは四人になった。

 吹き荒ぶ風のなかに、志乃の声をきいた。

──助かるわよ、あなたって運がいいんだから。遭難ははじめてじゃないでしょ。絶望は死よ。私や子供に逢いたければ、歌でもうたったら。助け船はきっと来るから。生きることは信じることよ。

 志乃が耳もとで勇気づけてくれる。

「歌だ。歌をうたうぞ。勇ましいやつだ」

 哲也が声を張りあげてソーラン節を歌う。からだの底から体温がよみがえる。それは不思議な現象だった。さらに、甲板員をひとり助けあげることができた。五人のうち三人が次つぎにもち唄を出す。声がでないものもいる。哲也は歌え、うたえと怒鳴った。

 厚岸の男は割に声がでていた。しかしながら、最後に引き揚げた甲板員は息を引き取った。口惜しさと同時に、このまま皆が死ぬのではないかと、そんな絶望感に襲われた。

「きたぞ、きたぞ。僚船(ふね)だ」

 波の間を縫う漁船が、目視できた。マストが大きくゆれる。僚船の甲板からロープが投げられた。

 ゆれる救命ボートとの接舷が思うようにならない。僚船のタラップがおろされた。救けるほうも命懸けだ。まず長万部出身の男から助けあげられた。

 頭から毛布をかぶった哲也は甲板に立った。救助船の甲板員が、悪寒で震える哲也を船室に誘う。いまなお生死をさ迷う同僚を想うと、暖などとる気にはなれなかった。船長や、自称機関長はまだ見つかっていない。この荒れた海では時間との戦いだ。

(一人でも多く助かってくれ、どうか生き長らえてくれ)

かれは祈った。

「この荒海でよう生きてたな。奇跡じゃ」

 背後からの声は浜田源吉だった。

「もうひと網と欲の皮が突っ張った、おれのせいで、大勢を遭難させてしまった。この転覆はすべておれの責任だ。漁労長のおれのせいなんだ」

 哲也は自責の念から震える唇を噛みしめた。

「きょうの海は機嫌が悪かったんじゃ」

「犠牲になった仲間の女房や子どもに、どう詫びたらいいんだ。死んで詫びたい」

 哲也の目から涙が落ちた。

「自分を責めんほうがええ。だれも、哲を責めん。だれかが魚を捕らなければならんのじゃ。危険を承知でな」

「あそこに一人いるぞ。黄色い救命胴衣だ」

 僚船の甲板員が叫んだ。

「おれがいく。救けてやる」

 哲也は身を乗りだした。わしらに任せておけ、と源吉たちに両脇から引き止められた。

     *

 哲也の運転するタクシーが、道道五号線の天ノ川に沿走ってきて、上の国町に入った。前方にはまた青い海が広がる。車は先刻より、JR江差線の二両編成のジーゼル列車とくり返し並行して走る。哲也はバックミラーに映った客の顔をみた。まじめな表情で聞いてくれていた。

「氷の海から救助されたとき、どのくらい入院されたんです?」

「肋骨にひびが入り、肺に海水が入っていたから、根室の病院に、三週間ほど入院した」

「その後、函館のタクシー運転手になられた……」

「この仕事はもっとあとのこと。女房にも相談せず、自分は退院すると、根室から函館を素通りし、松前の寺にむかった。住職の義父には、犠牲者の冥福を終身祈りたいから、仏門に入らせてほしいと、たのみ込んだ。剃髪して本山にも出向き、修験者のような、禅宗の厳しい生活も送ってきた」

 僧侶になって四年経ったとき、義父が病いで倒れた。志乃が松前の寺に父親をおいておけば、無理にムリを重ねるにきまっている、函館に引き取って面倒を看たい、余生をのんびりさせてあげたいとつよく望んだ。

「家族で松前の寺に入る、そんな話はなかったんですか」

「義父はそれを望んでいた。しかし、女房はこの歳になって寺で暮らしたくないの、一点張り。自分は住職という器じゃない、松前の寺に残るわけにはいかなかった。これを機会に、自分も函館に引き揚げることにきめた」

 そこで、また人生の潮流が変わった、と哲也はつけ加えた。

「住職の器を云々する、それ以外にも、別の理由があったんでしょ」

「お客さんはお見通しだな。仏門に入ってから四年経っても、自分はただの俗人だった。かえりみれば、僧侶の生活は、寺そのものが獄中とおなじで、毎日、妻子を想っていた。ロシアの獄中と、自分の心は変わりがなかった。率直に自分の心をのぞき見ると、妻子との生活を大切にしたがっている自分がいた」

 海の男だったとはいえ、長年、女房には心配をかけ放し、精神的な負担も数多く与えてきた。自宅を売り払うほどの貧困に突き落とした。亡き同僚の冥福も大切だが、火傷の後遺症がある妻の負担を減らすことも大切。残る人生は妻のそばにいて金銭、精神の支えになろうときめた。その気持ちに素直に生きようと考え、妻子のいる函館にもどってきた。

「いい判断だったとおもうな。話を聞くほどに。松前の寺は、いまは? 」

「寺は宗教法人で、私有財産じゃないから、住職に跡継ぎがいなければ、本山から指名された僧侶がくる。どの寺もそうじゃないかな。……あの帆船が明治元年に、江差沖で沈没した開陽丸です。その先が奥尻島行の乗場です」

 昭和五〇年に引き揚げられた開陽丸の三本マストが、青空を突き破るように屹立する。近づくほどに、船体が輝いていた。

「時間を忘れた、いい旅になった。人生には移り変わる潮流がある、と考えさせられた。ひとつ言えることは、運転手さんは奥さんとお子さんを心底から愛しているひとだ」

 といわれて、哲也はすこし照れた。

「お客さんは聞き上手だ。こんなに本心から語ったのははじめてだ」

 哲也のタクシーが船着場に着いた。奥尻島行の大型フェリーがすでに入港していた。客がクレジットカードを差し向けてきた。

「……あしたのことだけど、奥尻空港からの飛行機が満席だったら、復路も船便になる。そのときは電話を入れるから、江差港から函館空港までおねがいしたい。迎えとしては遠すぎるかな?」

「いいえ。喜んで江差まで迎えにきますよ。会社に、広瀬哲也と指名してもらえば」

「もちろん、指名するよ」

 そう言い残した客がフェリー船のデッキにあがり、こちらにかるく手を振った。出航の汽笛が鳴った。どこの港で聞いても、このひびきは心の底から震えるものがあった。

「船の汽笛以上に、心底、おまえが好きだよ。一度は面と向って女房に、そういってやりたいものだ」

 哲也がつぶやいた。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2009/08/05

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穂高 健一

ホダカ ケンイチ
ほだか けんいち 小説家。1943(昭和18)年、広島県生まれ。「千年杉」で第42回地上文学賞受賞。

掲載作「潮流」は第7回いさり火文学賞(北海道新聞社、2004年)受賞、2004年9月13日から10月5日まで北海道新聞に掲載。

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