籠抜け
あるころ、マンション十四階の北側ベランダから見下ろせるすぐ下の川の岸辺にひとりの男が棲みだした。確かまだ盛夏少し前の六月中下旬ごろだったと思う。
川は水幅十数メートルほど、その両側に十メートル程度の小さな河川敷がついただけのもので、コンクリート護岸された左右ほぼ一直線の岸は、鴨など渡り鳥の来る冬ならいざ知らず、このころは何の風情とてない。そのコンクリート岸からほんの五十センチほど引いた草むらに男は段ボールなどをいくつか敷き、いつとはなし寝泊まりしだしたようであった。
ようであったというのは私を含めうちのパートナーも近所の人も誰もその人物について格別言及する者もなく、したがって夜そこで確実に寝ているか否かも断言できなかったからである。
だが、男はおそらくそこで寝泊まりしていたのである。出かけるときなど一階下のエレベーター停止階である十三階の廊下を歩きつつちょっと見ると(実は私の書斎は北側に面してはいるのだが、ベランダのすぐ脇に隣域との境界である衝立状の壁があって直接には見えないのだった)、早朝であれ夕方であれ男はたいていいつもの場所に座り込んで鳩に餌をやったり自分も食べたり、いくつか置いたビニール袋をごそごそ開いたりしているのであった。
男は白ワイシャツかと思えるようなシャツにスッと細身のズボンをはき、こざっぱりしてさえ見えた。歳ははっきりしない。五十代くらいに思えるが、上から見下ろす頭は
「あれはひょっとして寝る所は別にあるのかしら、趣味でやってるのかしら?」
「うーむ」
屋内はすでにクーラーをつけないとどよっと蒸し暑かったし、その点川風の吹く川原は涼しそうだったから、私も一緒に首をひねったのである。
少し歩いてから私は言った。
「だけどこの前はくらくなってからも見かけたよ。だいぶ遅かった気がするが…」
「そう、あたしも見た。火が見えたこともある」
パートナーの部屋からは男の居場所が見えるのである。衝立から離れているし、窓も縦一間のサッシ戸だからだ。いづれにせよ、これでパートナーもまたひそかに男のことを見ていたらしいことが分った。
それでだいぶ歩いてから私は言った。
「だけど虫だっているだろ。蚊やブヨや…」
今度の「だけど」は順接なのか逆接なのか自分でもどういう「だけど」か分らぬままの使い方だったが、とにかく出てしまったのである。それに実際ここらは、ときにブヨやら
「そうだよな。何だろな」
パートナーはそう言ってまだというかまた首を傾げた。パートナーの言い方は少しおとこっぽいところがあり、文字にするとよけいそう見える。おとこっぽいのは性格のせいとも言えるし、生き方のせいとも言える。ずっとひとりで仕事を持って生きてきたし、それもフリーで生きてきた。私と毎日一緒に暮すようになったのもまだここ一年足らずのことなのである。どころか、ひとに言ったり公的な場に届けたりしてからという意味では、ほんの半年ちょっとに過ぎない。いや、その届けというのがまた妙なもので、市役所へ住民登録をしたさい、続柄欄は「妻(未届け)」と記載されたのである。パートナーの年来の主義考えから(それと私自身もその方がいいと思ったからだが)戸籍上の婚姻関係とはしなかったためだが、そんな記載の仕方があるのにも驚いたし、届けたら未届けとされたというか、未届けという届けを出すことになった、についてはもっと驚いたものだ。いづれにせよ、わが妻(未届け)は二昔ほどまえ喧伝されたいわゆる「ウーマンリブ」派であるのだが、私は彼女をいちいち「妻カッコ未届け」「カッコ未届け」というのが煩わしくてパートナーと呼んでいるのである。
「ほんとにな」
私は言い、何年かまえ桜爛漫の季節の早朝にこの同じ土手の桜の幹の二股で妙な物を発見したときのことを想い浮べたりした。それはシート形に組合わされた大型段ボール箱二つに布なぞを敷いたまるで人の
頭のどこかでというか目の先あたりでというか、形はないが強固にちらつくのは昨今の「社会情勢」というものである。で、惑いながらパートナーと向うの橋のたもとまで行くと、いつもはその先ずっとまで当然行くのにどちらからともなく顔を見合わせ、今度はパートナーがこう言った。
「もう一回見るか」
「ああ」
そうして私たちはそのまま折り返し、また反対側から歩きながら
それで以降は妻(未届け)(今後こう呼ぶことにする。ありふれた「パートナー」より何となく面白いし、意味もありそうな気がする)も私も折々男を眺めては暮すことになったのだが、男はなかなか優雅というか悠然としていた。私が見かけるのは朝か夕方が多いのだが、男はたいてい岸辺に座るか立つかして鳩に餌をやったり煙草をくゆらせているのである。鳩はすっかり慣れたらしく数羽から多いときは十数羽が彼のまわりに群れ集っている。孤愁の影もそれなりにあるにはあるが、「結構だなあ」という実感もある。妻(未届け)は、「ありゃあ結構そのものだよ。やってみたいぐらいだよ。おとこはいいよなあ」
と何回か言った。確かにおんなは川原でずっとひとりでなぞいられない。「未届け」でもそれは無理だ。そして妻(未届け)の見解では、男は多分そこで寝泊まりしている、昼間はいないことが多いけど、とのことだった。私は彼はひょっとしたら寝泊まりだけは近くの中央公園の
こうして日々は過ぎていったのだが、けれどそれからあまりいくばくも経たぬころ、ふとその川原の男がいつのまにか二人になっているのに気づいた。
「アレッ」
私たちがそう思ったり言ったりしたのもほとんど同じころで、まずは私が朝夕に二人の男が仲良く並んでハッポースチロール製どんぶりみたいなもので食事をしていたり、鳩に餌をやったりしているのを見て、
「どうもこのごろ一人増えたような気がするが、あれはお客だろうか」
と言ったところ、妻(未届け)はこう答えた。
「いや、ありゃ同居人じゃないかな。テリトリーも広がったぜ」
私は思わずちょっと笑った。なぜなら「同居人」という言い方は、実は妻(未届け)を市役所に届けたとき最初彼女がそうしようとした用語だったからだ。つまり住民登録の続柄欄にはそう書く方法もあったのである。続柄というのはふつう父とか母、妻、長女、次男などといわば家族や血縁のつながりを示すもののような気がするから、同居人が果して続柄なのかどうかちょっと首をひねる。しかしそれを何の異和感もなく「あ、続柄は同居人です」などと市役所の吏員が言ったりすると、なんだか同居人というのはいつも横や縦に並んでつながっているみたいな気がするのである。それで(というこのつなげ方もどこかおかしいけれど)なぜ妻(未届け)が「同居人」にせず「妻(未届け)」にしたかというと、最初彼女が同居人としかけたら脇から訳じりげな五十年輩の吏員が、「あのう、それだと税金のとき〈配偶者控除〉などが受けられなかったり、何かと不利になりますよ。妻カッコ未届けというやり方もありますよ」と言いだしたからだ。もちろん、だからといって妻(未届け)も私もすぐそれにとびついた訳ではなく(じっさい配偶者控除の件は十二月になって間違いだとなった)、「うん?」としばらく考え、その実直そうでかつ頭が悪そうな万年平吏員ふうの相手の顔をじっと見、するとさらに向うから応援にせせり出てきた歳は四十そこそこだが態度その他から明らかに上役らしいもう一人が、
「そうです、その方がいいですよ」
と自信たっぷりに肯くのを見て、「いい」というのには半分くらい「社会通念」上の感覚がまじっているのではと思いつつ、しかしひょっとしたら私の勤め先の大学での年金や保険関係の届け出等には本当にその方がいいかも知れぬとの考えも浮び、
「じゃ、そうしとくか」
とまず私が言い、まだ迷っていた妻(未届け)も、
「ふーむ」
と首を傾げたまま意外にもとにかく肯いてしまったのである。意外にもというのは、十年といわず多分五年前でも彼女は、たとえカッコ付きであれ絶対「妻」などと刺身のつまみたいなものになろうとはしなかったはずであり、私もまたついしばらく前まではそんなふうにする気は殆どなかったからであった。つまり私たちはその意味では二人とも独身でいたかったのであり、家族とか係累は出来るだけ持ちたくなかったのである。それがどういうわけかツルッとこういうことになってしまった。
その同居人を迎えた川原においては、先の男を世帯主と呼ぶべきかどうかはっきりしないので、私たちはとりあえず「先住人」と呼ぶことにしたが、先住人と同居人は心もち同居人の方が年下ふうで、ということは五十代半ば、つまり私たちと同世代ではと思えた。背格好は同居人の方がやや高めだが、猫背気味に姿勢が悪いうえ、動きもどこかのろのろして、身だしなみも悪い。黒っぽいズボンは膝がつきでて折目なぞありそうにないし、よれたポロシャツはたいてい半分ほどがベルトからはみ出ていた。先住人に対してはどうも居候気分でもあるのか、なにがなしいつも下手であり、妻(未届け)に言わせれば「毅然としたところがない。あれじゃダメ」であった。
私はいったい彼らに毅然を求めるのは無理じゃないだろうかと考えていたが、しかし先住人の方は相変らず少なくともシャキッと背骨が伸びていた。二人はうち揃って紙袋などを下げ、団地内のゴミ置き場を覗き込んだり、中央公園への道を歩いたりもしていたが、そういうときでも先住人は物怖じする風情もなく堂々としていたし、同居人はいつもうつむき気味に踵をつぶした靴を引きずるように歩いていた。
妻(未届け)の言う「テリトリー」も確かに増えた。それまでは草を踏んで段ボールなどを敷いた文字通り敷地面積は畳二畳分程度だったのが、まずは明らかに倍くらいに増え、ついで人間というものは単純倍数以上に生活の場を増殖するものらしくチョッ、チョッと段ボール箱一個分くらいづつが周りを浸食していき、やがて全体として五畳分くらいになった。こうなればかなりの存在感はあり、マンションの窓からはもちろん土手を通っても相当目立つ。このころはもう七月も半ばほどになっていたから身の丈を越す草も多く、土手からに関する限り以前の状態なら角度によってはあまり見えなかったのに、場所が土手から水辺にまっすぐ通じている径のすぐ脇のせいもあって、隠しようがないのである。このごろの若者ことばで言えばどうも「うざったい」というやつだろう。じじつ彼らが棲みだしてからは従来水辺を散歩したりしていた人々の姿が格段に減った。私もこの季節だと、五月の連休前後に孵化した鯉のまだ体長十センチほどの若魚が群をなして泳ぐのを見たくて、よく水辺を歩いたものだが、どうも足がとまってしまう。
「フーム、ちょっと問題ありだなあ」
呟くと、妻(未届け)も言う。
「そうね。あれじゃ女や子供は近づけないわね。それにあのゴミ、ポイッポイ、がなあ」
男たちはゴミをポイッポイと川へ捨てるのである。紙でもビニールでも鳥の餌にならない食べ物でもほとんど何でもだ。食事をしていてポイ、新たな紙袋をいじっていてポイ、煙草を吸ってポイ。川はさながら流れる水洗ゴミ処理場だ。見ていると確かに「便利だわなあ」という気もするが、困ることも困る。
「誰かがなんとか言わないかしら」
妻(未届け)はそう言い、私が、
「うーむ。誰かって誰?」
と言うと、言ってしまったことを後悔するかのように眉根に皺を寄せて、
「誰かは誰かよ」
とだけ答えるのだった。
そうして男たちに直接言うこの誰かはなかなか現れなかったが、代りに廊下やらエレベーターで会うとあれこれ言う人はたくさん現れた。お隣の田中さん夫妻(六十代)、同じ階段の大竹さんの奥さん、隣の階段の村井夫人や名前は知らないがよくエレベーターで一緒になる五十代の主婦などである。
「このごろホームレスがいますわねえ」
「二人にもなっちゃって。何をしてるのかしら」
「汚らしくてねえ。川を汚すしぃ」
「警察は何もしないのかしら」
おかげで私たちは川原のことには結構みなが気づいており、よく見ているらしいことも知ってホッとしたが、しかし私は「警察」ということばが出てくると、微妙な気分になった。市民の反応としては当然かなという気もする反面、なんだかよくないという気もするのである。警察が現れ何かをするとなると権力行使という側面がどこか表れるが、そも清潔の維持を求めるのか追い立てるのか。管理というなら河川敷はここだと県土木事務所あたりの管轄であろうし、男たちの存在というかホームレスということならそれ自体が罪ではなかろうと思えるからだ。
私は小さな川原に広がった彼らの巣を見ながら思った。巣にはすっかり真夏になってきた陽射しを避けるべく多分拾ったこうもり傘が何本か棒にくくられ立てられていた。思ったのは「路上生活者」ということばであり、像である。
それはむかしリュックを担いで何度か行ったインドでよくまみえた。どこにでもと言うと語弊があるが、ちょっとした都市ならたいていいた。一番多かったのはカルカッタだ。三度目に行ったときだったか、空港から深夜に乗合タクシーで市街へ向ったとき、郊外から街の入口にかけて道路の片側に
あとで聞くとそれはバングラデッシュ独立戦争による難民の群が多かったためともいうのだが、しかし市の中心部に入ってからも伝統的(?)路上生活者は多かった。ホテルから一歩出るとそこらの路上で、屋根だけの汚いテントやくくりつけられた古いこうもり傘のもと、鳥のように尖った目で煮炊きをする親子などの姿はざらだったし、チョーリンゲー公園の入口あたりで朝ふと躓きかかってよく見たら、それはほとんど地べたと同じ色と汚れ具合の布きれ一枚をまとった年齢不詳の男の、枯れ枝のような
一方で、もっと牧歌的な路上生活者もある。田舎などで時々出会うのだが、大きなバニヤンツリーの下などに斜めに軽く小屋掛けして、日がなのんびりうたた寝したり屑煙草をくゆらし、人が近づくとニコッと笑って「バクシーシ」なぞと手のひらを差し出したり、甚だしい場合は自分からガンジャ(聖なる草の意)のパイプを取り出して一緒に吸えと勧めたりするのである。彼らのなかにはもともとは聖地から聖地への巡礼をこととするサドゥー(行者)の成れの果てだったり、あるいはそのフリをする偽者もいたりで、話してみると
そうしてもう一つ、極めて稀だがこれらのインド人路上生活者とはまるで違う者もいる。それはインド人以外で、というよりヨーロッパなど先進国からの旅人でこの国を放浪しているうちいわばこの国の「気」に染まり、四年五年と流浪の果てについに路銀も市民感覚も定住意識も失い、路上生活を始めてしまう者たちである。それはいつの時代にもほんの少しはいた気もするが、私なぞの世代の、当時ヒッピーと呼ばれた者たちのなかにはチラホラいたのであり、現に私の知人の日本人にも一人というか一組いた。杉さんという名の彼はれっきとした国立大出身で私より四歳年長だったが、二十二、三歳ごろからインドにとり憑かれ、日本との間を行ったり来たりしては放浪を繰り返して十余年、現地でヨーロッパ人ヒッピー女性とカップルとなって子供を二人も作ったうえ、ついに世を「捨てる」気になったのか家族もろとも路上生活に入ったのである。尤も伝え聞くところによると彼がそれに入ったのは、インドでも最も暑い摂氏四十度くらいの真夏のことで、どうせ安宿でも寝られやしない、屋外の方がよほど涼しいし倹約にもなる、といった理由だったそうであり、真意真相はなかなか分らぬけれど、とにかくそれから二、三年は
これなぞ先のインド人の例に当てはめれば、難民でもなく、生まれついてのアンタッチャブル「路上民」でもインドジプシーでもなく、といって妻子持ちとなればサドゥーみたいな「放下」の者でもなく、何とも知れぬ者になるが、しかしとりようによっては「精神の難民」であり、家族ぐるみの放下者と言えなくもなかろう。冷徹にいえば社会からの脱落者であり、度外れた怠け者とも言える。いったい彼はいま生きているのかどこでどうしているのか。
川原の二人の生活は夏中続いた。そして九月になっても十月になっても続いた。寝泊まりも確実にしている。寝泊まりは眠れぬ真夏の月夜なぞに何度か目撃した。私は本来なら八月末から九月にかけて一ヶ月間はいないはずだったのに、その間もずっとマンションからあるいは土手から見続けた。
いないはずというのは、その間私は妻(未届け)も一緒にイスラエルに行く予定だったのである。目的は一番簡単にいえばユダヤの国自体への関心、であったが、もうちょっと具体的には、聖書ゆかりの各地をのんびり経めぐったり、キブツをひとつふたつ訪問するつもりだった。それらはいづれも青年時代以来の願望で、実際私はかつて本気でキブツに住んでみたくて二度ほどイスラエル行きを考えたのだが、一度は第何次かの中東戦争の余波で、もう一度は私自身に金銭と家庭上のゆとりがなくて、いずれも頓挫していた。当時私は妻と子一人をかかえ、極端な貧乏生活のなかにいたのである。
キブツはいわゆる共同体である。背景としてはかつてディアスポーラ(離散民)となったユダヤ人たちが、約束の地に生きるべく世界各地からつどって共に開拓し暮すというものだ。発展するにつれ農場以外に工芸とか芸術キブツといったものも出来、ユダヤ人でなくとも希望する者にはほぼ自由に門戸を開いていた。私が最初にキブツに具体的「近さ」を感じたのは二十四歳のときだ。パリで一年ゴロゴロといわゆる天ぷら学生(衣だけで中身無しの意)をやったあと、当時現代のシルクロードといわれた陸路を伝って日本へ帰ろうとした。その折、ギリシャにさしかかったところでキプロス問題をめぐるギリシャ・トルコ戦争なるものが勃発、おかげで国境は閉鎖、足止めとなり、やむなくユースホステルなぞで
そのほとんどがキブツへ行く者だったのである。最初からそれを目指していた者もいたし、戦争でトルコ経由イラン方面なぞへ抜けられないから、それならイスラエルへ行く、キブツで働きながら滞在すればどうせタダだから、という者もかなりいた。その彼らがキブツのことをあれこれ語るのを聞きながら自分も行ってみたい気がふと兆したのである。じっさい船賃はわずかなもので、折からユースホステルへしきりに勧誘に来ていた買血業者に血を何ccやら一回売ればちょうど間に合う金額だった。そうやって渡っていくいわゆる無銭旅行者も結構いた。
私はそのときはもう一つのコミューン、国家単位のコミュニズムである共産主義を見てみたくてローカルバスを乗り継ぎブルガリアへ入り、そこからトルコ、イランへと抜けたが、キブツへの関心は以来持続したのである。
それでいろんな意味でやっと余裕が出来たこの年になって、キブツ滞在とまではいかぬがちょっと覗くぐらいはと計画したのだが、かなりの時間をかけて準備したところへ田舎の兄の病状悪化の報が届いたのだった。兄は七月初めに突然肺癌の末期症状であることが発見され、しかしまあ半年やそこらはもつだろうと思っていたところ、進行が早くてひょっとしたらみたいなことを八十三歳の母が八月半ばオロオロしながら伝えてきたのである。私たちは二人兄弟で、兄はまだ五十八歳だった。私はそれでイスラエル行きを急きょキャンセルしたのである。
おかげで以降は自づとある種の屈託が身を包んでいたわけだけれど、しかし日常というものは別に変るわけではない。ある意味ではむしろ退屈に続く。今ごろはイスラエルだったのになあとか、イスラエルへ行っていれば新たに書きたいことが生じていたかも知れぬと思いつつ過ごす日々は、あるはずだった目新しい山野の起伏がだらりと平板に続いていくみたいなものだ。視界に残るものは、年齢とともに早く見えるようになった時間の推移だけだったりする。私は秋口から早朝ウォーキングを始めた妻(未届け)と競争するかのように、土手やら界隈をもっぱら歩いた。どこもかしこもすでに飽きるほど見慣れたところばかりで一向面白くもなかったが、ともかく歩いた。腹がだいぶ出ていた。兄に関しては九月に一度見舞いに行ったが、案外元気ともやはり癌は癌とも言え、横這い状態が続いていた。
十一月に入ってしばらくしたころだったか、二つの異変が起った。
一つは川原の世帯ないし共同体が分離したのである。ある日気づくと同居人の方が川原を右(下流側)へ五十メートルほど移動した場所に巣を作っており、先住人の方は先の場所よりほんの四、五メートル左へ行った地に移動していたのだ。しかも左の方は巣というよりむしろもはや「家」といった方がいいかも知れぬような物を作っていたのである。
それは住人たちがいないときに少し手前まで行って確かめたところでは、どこで調達してきたのか細い鉄骨ふうの棒を縦に二本、横に一本、半楕円状に張り、茣蓙と薄緑のビニールシートでおおったもので、大きさも印象もさしづめ冬山用のかまぼこ型一人テントくらいの感じであった。入口もちゃんと付いているみたいだし、いったいいつのまに作ったのか素人づくりとは思えぬほどに手際がよく丈夫そうでもあった。
私はそれを見て「ヘーエ」と思った。実は秋風が吹くころから彼らはそのうちかつてのインドジプシーや偽サドゥーみたいにどこかへ撤退するだろう、ある日消えているだろうと思ってきたのだ。それが一向その気配がないので、十一月に近づくころからは、いったいいつまでどうするつもりだ、寒さはどんどん迫っているのだぞ、と気になっていたのである。
なんだか妙なことになってきたなというのが実感で、私が腕組みしてじーっと眺めていたりすると、妻(未届け)も言った。
「どうしたのかしらね。行き来はしてるみたいだから喧嘩したわけでもなさそうだけど、でもやっぱり喧嘩したのかしら?」
「喧嘩はしたが別れられない。あるいは仲はいいがあんまり顔突き合わせてはうんざりするということもある」
「そうよね。一度聞いてみたいわね。いったいどういう人たちかしら?」
それは同感だった。年齢・昨今の状況からいっていづれリストラ云々といったことが絡むだろうとは思っていたが、しかしひょっとしたらまるで別物ということもないではないし、世の中他人というのはやはり分らない。そんなことを思いながら、しかし私は少しちがうことを言っていた。
「共同体というのは必ず分裂するものだ。人間というものはそういうもんだ」
私はそのとき漠然とだが大小含めて多くのことを考えながら言ったつもりだったが、妻(未届け)は「フフフ」と含み笑いしただけだった。
だが、ともあれそれ以降私は川原の住人をより熱心に見ることになった。ひとつには右へ移動して来た元同居人の位置が私の書斎の窓からまっすぐになったせいもあって、実によく見えるからだ。おかげでこちらが行住坐臥とまではいかぬが(さすがに寝ては見えない)、向うに関しては文字どおり行住坐臥が見下ろせるのである。向うはまさかそんなこととは思っていまいが。
そうしてその結果明らかになってきたのは、元同居人と先住人との違いすぎるほどの性格の違いだ。元同居人は何ともルーズだった。新しい塒はニュータウンのそこらのゴミ捨て場あたりから拾ってきたらしい段ボールをだらしなく敷きちらした上に、これまたどこから持ってきたか布団を二、三枚敷き、さらにまたビニールか段ボールをかぶっただけみたいな印象であり、周りにも紙やゴミが散らばっていた。それに比し先住人の方は手製のかまぼこ小屋がまもなく二棟に増え、一棟はどうやら収納庫に使っているようで周辺もこざっぱりし、このころからもっぱら重さ三キロもある大型双眼鏡で覗き始めた妻(未届け)によると、ブロック片で作った
いや、それどころかまだある。妻(未届け)はそのうちこう言いだしたのである。
「どうもアイツ、勤め先もあるぞお」
それまで先住人と呼んでいたのが急にアイツになっていたが、それはとりあえず置く。
「えっ、まさか」
「いや、だってアイツ毎日十時ころになると布袋下げて、自転車で同じ方向へ出かけていくぞ」
「自転車? そんなもの持ってるの?」
「ああ、こっちの自転車置場の端っこあたりに、ちゃんと鍵かけて」
自転車置場は土手のこちら側駅寄りに市が作ったものだ。驚いた私は次に妻(未届け)が見たとき知らせてもらうことにしたところ、まったくその通りだった。ベージュ色の皺もなさそうなジャンパーをきちんと着た先住人は、茶色のわりあい中身のありそうな布袋を提げて自転車置場まで来ると、鍵をはずして自転車に乗り、慣れた風情でさあーっとニュータウン内へ去っていったのである。
一方そのころ元同居人の方はといえば、ダラーッとまた布団に入って、何か週刊誌のグラビアみたいなものを眺めていたりするのだった。
ただし、とはいえこの二人、食事は朝も夕もどうやら一緒に食べているのである。朝は結構早く、夕は日没前の五時頃からどちらかがビニール袋等をもって一方の巣へ行き、そこでちゃんと鍋なぞを使って煮炊きをし、うどんなぞを長く伸ばしてよそい合い、仲良く川を向いて並んで食べている。ビニール袋はどうも私も見慣れた駅前スーパーの袋みたいだから、食料も買っているようにも見える。
「ううむ、じゃ彼はただ普通の家がないというだけなのか?」
「確かにここなら家賃もいらないわねえ…」
私と妻(未届け)は顔を見合わせたが、むろん結論など出ない。
「キミ一度取材してみろよ」
ノンフィクション作家でもある妻(未届け)が言った。私は曖昧にムニャムニャ呟いておいた。しばらく前から自分でもそんなことはぼんやり思っていたが、だからといってどうも近づいていく気にもなかなかなれない。昔インドでは路上の母子からいきなり「ギエッ」と烏を甲高くしたような声で歯を剥かれたことがあったし、たいていは愛想のいい偽サドゥーからも突き放すような目と手のひらをひらひらと犬でも追うように振って追い払われたことがある。それに私は彼らの内実は知らぬままの方がいいかもしれないとも思っていた。
それからしばらくしてからだった、もう一つの異変というか、川原の彼らとは何の関係もないのだが、私の視界にはどうしても同じように入ってしまうちょっとした異常が川の向うで起った。
だいたい対岸というか川向うは土手の向うが百メートルほど先の通称
最初は土地の売買話でもあってのことかと思っていたが、それにしてはどうも様子が違ううえ、そのうち午近くともなればほぼ常時十人以上が溜っており、バイパスから入ったあたりの畑道には乗用車にライトバン、四輪駆動車類が二、三台から時には四、五台ほど停まったりもしている。そうして目をこらすと、彼らの多くというよりどうやらほぼ全員が三脚付きのカメラを据えたり双眼鏡で梅畑の方を覗いている様子なのである。
それが四、五日から一週間、十日と続き、さらに衰える気配もなく声は聞えぬがなにやら活気じみたものまで感じられるとなると、
「あれはナニ?」
となるのは当然であろう。
で、私はある日の夕方、散歩がてらを装って探索しに橋をまわって行ってみたのである。
すると時間が遅かったせいか数人しか人はいなかったのだが、空き地に上がっていくや、大きくて重そうなえらく立派なカメラを梅畑に向けてどんと据えたアノラック姿などの中年男たちが一斉にこちらを見、私がカメラも何も持っていないのを見てとるやいかにも警戒心に充ちたまなざしで、じっと見たりチラッと見てからわざと視線を逸らしたりするのである。
それは率直に言ってかなり肌触りの悪い気配だったが、私は意識的に明るい声を出して聞いてみた。それまでに梅畑の方を一見二見した限りでは何も格別のものは見えていない。
「何かいるんですか?」
すると革ジャンパーを着たまるで銃のようなカメラを据えた五十年輩の男が、今ごろ知らぬのかというような口調で答えた。
「鳥ですよ」
「ほう、何か変った鳥ですか?」
男は薄ら笑いを浮べて答えなかった。それで私は視線を少し周りにまわした。腹の中ではある種の気分がもやっと兆し始めていた。
するとそれを感じ取ったのか、脇にいた穏やかそうな顔をしたやはり五十年輩の男が、とりなすように言った。
「梟です。多分コキンメフクロウ」
「えっ、コキン、メ?」
「ええ、ちょっと小ぶりで、目が金色なんです。きれいなんですよ、アップで見ると。羽は普通の茶色まだらだけど」
「ヘーエ!」
私は男の好意に答えるべく、わざと感嘆して見せた。男の顔もほころんだ。
「もともとはヨーロッパや大陸にいるものでね、珍しいんですよ。東南アジアに多いのかな」
ここまでいくと反対側から声が飛んだ。
「いや、違うね。東南アジアじゃない、シベリアだ。日本だと稀に北海道で発見されたことがあるらしいね」
言っているのはのっぽのアノラック姿で、四十代後半くらいだった。いかにもマニアふうだ。周りでは肯いている者もいれば、フン、まだ決まったわけではない、というように口を結んで上を向いている者もいる。私はなるほどこういう人種かと思い、少し頬がゆるんだ。
「それでなぜそういうのがここにいるんです?」
私はごく自然に怪訝な気分だった。と、みんなの緊張がいささかスッと揺らいだようになったあと、のっぽが、
「籠抜けだろうね」
とちょっと残念そうに、かつ訳じりそうに言った。
「というと」
「誰かが飼っていたんですよ。それが何かの拍子に逃げたか、放された。まずそれ以外考えられませんね」
説明は先の好人物そうな人だった。
私は肯き、聞いた。
「それで、どこにいるんですか?」
するとまた場に軽い揺らぎが起ったような気がした。
「あの奥の方、向うから二本目の木の右枝あたり」
好人物が教えてくれたが、小腰をかがめてもよく分らない。黒い幹に同じく黒っぽい塊みたいなものがあるだけだ。果して鳥なのか木の瘤なのかじたい判然としない。カメラの砲列の先を見てみてもそちらに向いているものはひとつもない。それでまた怪訝な顔をすると、好人物が言った。
「私らは待ってるんですよ、こっちへ来るのを」
そして指さした先を見ると、誰がしたのか枝打ちされた一番近くの木の股に生きた蛆虫やらバッタの死骸がおかれ、カメラはみなそこに向けられているのだった。
「ははあ、なるほど」
私は思わず笑いだしながらウオッチャーらから離れ、端の方から梅畑に近寄った。もう少しよく鳥を見るためだ。するといきなり鋭い叱責が飛んだ。
「ダメダメッ、そんなに寄っちゃ」
振返ると最初の男が眉間に皺を寄せずいぶん剣呑な顔でにらんでいた。
私は忘れていたもやもやが起り、むっとした。おぬし、いったいいかなる権利があってそんなことを命じられるのだ、そう思ったからだ。そんなことを言うならここは誰の土地だ、実は私が地主だ、そう言ってやろうかとも思った。ウオッチャーたちがよそ者の無断侵入者であることは明らかだったからだ。
それで私はいったん空き地からは降り、脇の田んぼをまわって近づいた。男たちは心配そうに見ていたが、今度は何も言わなかった。大声を出せばどのみち鳥を刺激するし、それに私から何らかの「気」を感じたのかも知れない。
鳥はよく見えた。体の大部分は普通の梟と同じ茶色の地味なものだったが、目だけは確かに金色でキョトンとびっくりしたように見開いていたかと思うとすぐ丸い瞼をゆっくりと
私はこの時はそのまま帰ったが、それから二、三度妻(未届け)を伴ったりしながらこの鳥を見に行った。その結果この小金目梟は羽が少し痛んでいてあまり遠くへは飛べないこと、第一発見者は近所の人だったが、それを知った市内のバードウオッチャーがインターネットで紹介したため、各地から人が来るようになったこと、現に私が確かめただけで広島、静岡、神奈川、千葉などの人がいたこと、彼らはみな一様に「籠抜け」ということばをちょっと秘めるように声を低め気味に使うこと、などを知った。
それで私はその理由はひょっとしたらワシントン条約違反とかいったことが背景にあるのかなどとも思いつつ、しかしもう少し違うニュアンスも感じ、面白いことばだと反芻した。
川原の住人たちはどこから飛んできたのか、それからも独立・友好・非市民社会の生活を営んでいた。こちらが朝起きると向うはたいてい炊事をしており、食事中も食後もそこらにパッパッと食べ物をまいて鳩やこのころから飛来し始めた鴨やユリカモメなどを集めていた。ここらはもともと鳥だけは豊富で、最盛時には数種の鴨が計百五十羽ほど、ほかにユリカモメや川鵜などもやってくるのである。最近増えたユリカモメや川鵜はなんでも他の場所での食糧事情が悪化したためらしい。その鳥たちが男たちの肩先あたりで一斉に羽ばたくときなぞは、遠景から見る限り彼らはさながら「鳥おじさん」みたいに優雅にも見えた。が、汚す方も汚す。餌にならぬ生ゴミはもちろん、紙屑古雑誌雑物類をぽいぽい捨て、川に向って立小便もする。
衣類は十二月の声を聞いたころからちゃんとダウンらしきコートになっており、先住人の方は相変らず昼間はあまり姿が見えない気がした。
私はそれらの姿を見ながら迷っていた。「取材」に行こうか否かをである。彼らがいったいどういう人たちなのか、前職は何か、境遇は、先住人はどこへ出かけているのか。興味はずっと持続しているのだが、しかし具体的に動くのが煩わしくもあった。いや、二、三度ほどは話せるものなら話してみようと思って、散歩がてらすぐ近くまで行ったり前を通ってみたりもした。が、そのつど相手が留守だったり、かまぼこ小屋がぴっちり閉じられていたり、元同居人の方は布団をすっぽりかぶって寝入っているらしかったりで、果たせずじまいだった。つまり私の意志はそれほど強固ではなかったということかもしれない。
「フーム、なかなかインタビューせんなあ。まあなあ」
妻(未届け)もそんなふうに言っていた。「まあなあ」というのは「何となく気持は分る」といったところであろうか。
大事が起ったのは暮れも押しつまった十二月二十八日である。
夕食を初めかけたところへ母から電話があり、すぐそれと分る切迫した調子でついさっき兄が死んだと知らされた。すでに何ヶ月か前から予期してはいることだったから格別驚きはしなかったが、しかしほんの二週間前には母が、兄の状態がわりあい良さそうなので正月そっちへちょっと行きたいなぞと言っていた折でもあり(結局とり止めたが)、少し予想外とも言えた。
私は翌朝早く家を出、新幹線に乗って田舎へ向った。気分は重かった。私は兄とはあまり仲がよくなかったため、見舞いは九月に一度行ったきりなのである。十一月末ごろからはもう一度くらいは行った方がいいかなとは思ったりしたが、しかし行かなかったのは、すでに寝たきりという兄としみじみ話し合えそうな気がしなかったからだ。
兄と私とはタイプがまるで違っていたのである。私はだいぶ回り道をした末、大学は当時としては「社会的生産関係」から殆ど無縁とされた文学部へ行き、そのうえ三年で中退して、以降常道を歩かなかった。国外を流浪したり、国内でも定職なぞは二十五歳の時の三カ月を除いて一切なく、フリーのライターや塾教師、山村でのひとり暮らし、そして売れない物書き業などを細々とやって生きてきた。大学教師の職を得たのは五十歳もいくつか過ぎたたった三年前に過ぎない。
一方兄は亡父の跡を継ぐべく小学校時代からすでに医者になると決められ、以降まっすぐその道を歩み、名古屋大学医学部を出て博士号を取得、医局、大病院勤務を経て四十歳で父祖の地に個人病院を開業した。母のいる家以外へ出たのはインターン時代などの二、三年のみで、外国なぞもいつも入院患者がいるせいで香港へ一度二泊ぐらい行ったことがあるだけだ。本も読まなければ、哲学性も全くない。趣味はゴルフと株・不動産などへの投資ないし投機で、車はいわゆる「アメ車」である。
ゆっくり話し合ったことなど青年時代以来ろくになかった気がするし、その青年時代の思想はまるっきり違った。長い間亡父の遺産を「跡取り」として殆ど専有し、七、八年前その分与問題をめぐって衝突したため、かなり疎遠になってもいた。
それでも私は午前中に実家というか母と兄の家へ着くや、周りの雰囲気もあってただちに通夜と葬儀の準備に入り、通夜の晩は斎場に泊まり込んで四十分ごとの線香守とかをし、それらの合間に兄嫁から兄は資産もだいぶ残したが借金もずいぶん残した話も聞いた。経済は長年自転車操業状態だったらしい。そうして憂鬱で睡眠不足のまま迎えた葬儀の日には、昼食も食べられぬくらいに会場を走りまわって切り盛りした。妻(未届け)もこの日は日帰りで午過ぎ駆けつけ、実はそれが私と住みだして以来母を初め親族への初お目もじとなった。葬儀は親戚、医師会、親戚の中でもえらく守旧派とその他、そして多分に私自身の意見が食い違い、いらいらした。が、一方で何十年ぶりかで会う縁者知人も沢山いて、実に久々に「ふるさと」を感じもした。
そうして葬儀明けの三十一日、つまり大晦日には午前中地元の五軒の寺にお布施を払って歩くいわゆるお寺まわりを済ませ、ようやっとくたびれ果てて列車に乗り夕方自宅マンションに帰り着いたのだった。
この間考える時間なぞまるっきりなかったのである。いや、帰りの列車の中で少し考え出したが、疲れていて頭の中でいろんなことがフラッシュのごとパッパッと咲くだけみたいだった。ただその晩私は妻(未届け)を相手にほとんど独りでずいぶん喋りまくったらしく、彼女は午後十一時過ぎ、早くも鳴り出した除夜の鐘がかすかに聞えてくるなかで私を呆れたようにしげしげと見てこう言ったものだ。
「まるで別世界へ行ってずいぶん興奮してるわね。でも世間ってそういうものなのよね」
私は苦笑しつつ「うん」と肯き、布団へ入って久々に熟睡した。
ところが、翌朝の元旦、まだ寝ていた九時前に兄嫁から電話があり、いきなりこう問いかけられたのである。
「すっかり落ち込んでしまっているの。どうしたら抜けられる?」
向うには母と兄嫁と二人の娘と一人の息子がいる。上の娘はすでに結婚しているが、一番下の息子はまだ十二歳の小学生である。母も長い間母子家庭だったが、兄嫁も今度同じ立場になる。世間は正月だというのに皆がシンと静まっている様が手にとるように分った。
私はとりあえずお屠蘇でも飲めとか、香典の整理でもしたらとか、一言二言言ったが、本質的には何も言えようはずがない。
翌朝になると今度は家族五人から五時間もかけて書いたらしいメールが届いていた。一人少しづつだが、母はパソコンというものに初めて向ったらしい。
三日になると兄嫁一人からメールが来ていて、
「あの人はなぜ死んだの?」
と短く書かれていた。
その午後、私は大きめのみかん四つをポケットに入れて川原に向った。あの住人たちが暮れから正月の間もずっといるので、せめてみかんぐらい差し入れてやろうと思ったのである。土手を歩いていくと対岸には相変らず小金目梟めあてのウオッチャーたちの人群れが十人ほどもいた。なんでもしばらく前には新聞にまで載ったそうだ。
まずかまぼこ小屋へ行って声をかけたが返事がない。かなり大きな声で二度三度呼びかけ、ついには入口の隙間から中を覗いてみたが、留守だった。中には体臭のする布団が体の分だけ黒い穴になって敷きっぱなしにされ、その向うにはラジオか電気器具らしきもの、衣類や箱類などがきちんと置かれていた。外にはブロック竈や鍋二、三、プラスチック製の収納ケース、それに確かに箒があり、あたりはまずまずこぎれいに掃除がされていた。
それらを見届けてから今度は元同居人の所へ行くと、こちらはまさに乱雑そのものだった。意外なことにかなり大型のプラスチック製収納ケースが段ボールなどの間にぽんと置いてあったが、しかしそれはいかにも野ざらしで横を向いており、ひょっとしたら雨も多少入るのではと思えた。布団は文字通り上下左右段ボールの真ん中にあり、背後には段ボール用紙を数本のこうもり傘を支柱に立てて張りめぐらしてあった。岸辺のコンクリート部分には捨てたジャガイモやうどんのようなものが汚らしく散らばっていた。鍋もそこらに転がっている。私は布団の間からわずかに黒い頭が覗いているのを見つけて声をかけた。
すると二度目くらいで元同居人がもぞもぞと顔を出した。扁平な顔に昔白土三平のマンガで見た「すだれ」という登場人物のように髪をばさりと前に垂らし、おどおどしたような目が覗いていた。顔色はよくない。
「近所の者ですが、これをどうぞ。正月だから」
言いながらみかんを差し出すと、元同居人は、
「あ、いや、あ」
などと言いながらすぐは受け取らなかった。口は何本か歯抜けで、黄色い前歯が一本目立った。風邪気味らしくコホコホ咳をしている。
「いやね、いつもよく見えるので同世代じゃないかと思ってたんですよ。ちがう? ぼくは昭和十八年生まれだけど」
言うと元同居人は、
「えっ、よく見える? 見えないと思ってたけど」
そう言ってあわてたように後ろをちょっと振向いた。確かにうしろには葦や
「いや、その、建物からだと見えるのよ」
そう言ってマンションの方へちょっと顔を向けると元同居人も振り仰ぐようにした。そうして見るマンションは巨大で顔がなく、川原からはまったく壁みたいな物に見えると気づいた。そこから毎日ウオッチングしていたとはなんだか申し訳ないようにも思えた。
「ふぅーん」
元同居人もよく納得できぬように曖昧な顔をしていた。それからおどおどがだいぶ減った目で言った。
「歳はもう六十近いのよ。ダメなのよね五十過ぎると。仕事ないのよ」
私はうんうんと肯いた。
「まえ朝霞で働いてたのよ。そうしたらもういいって言われて。あとはどこへ電話しても五十って言ったとたんダメなんよ」
「そうだよね、リストラ時代だから」
「ああ。今年は仕事見つけたいけど…。向うもそうなんよ(と先住人の巣の方を目で指した)、あっちは一回り上。昭和一桁生まれだから」
「えっ、そんなに」
「そう。見えないだろ。みんなに化物って言われてるのよ。歯なんかもちゃんと揃ってるし。だけど仕事はない。やつは大工だけど、こういう鉄筋のなんか(とまたマンションの方へちょっと顔をねじり)は出来ないのよ。木造ばっかりだったから」
「ああ、あの人大工だったの」
私は意外なような成程というような気がした。どうりで小屋作りがうまいわけだ。
「じゃ、おたくは?」
「うん? おれはまあちょっとちがう」
元同居人は顔を少ししかめた。
「前からの知合い?」
「ああ、朝霞で知りあったんよ。ここもそれで聞いてきたのよ」
「まえ一緒だったのに別々になっちゃったね」
元同居人はまたちょっと咳をし、鼻をぐずぐず言わせた。
「ああ。警官が来てあそこは人が通るから移動しろって言ったのよ」
「へーえ」
私はやっぱり警察はそれなりの介入はしていたのかと思った。するとその私のちょっと考えるような様子を感じ取ったらしく、元同居人は言った。
「まあ、警察だってそれ以上は言わないよ」「そりゃそう。そういう権限はない」
「ああ。向うの橋の下なんか何年も前から住み着いてる人もいるっていうから」
それは私も知っていた。小金目梟を二度目に見に行った帰り、向うの土手で犬をつれた地付きの人らしい老人と立話をしたところ、橋の下には以前二人ひとがいたが、一人はしばらく前死んだと聞いたのである。
「ところで、その大工の人、毎日勤めてるんじゃない?」
私は話題を変えた。
「えっ、どうして?」
「だって自転車に乗って出かけて行くみたいじゃない。袋提げて」
すると元同居人は怪訝そうに首をひねった。「そんなことないよ。出かけるのは朝霞の友達んとこへ行ってるだけだよ。風呂なんかもそこで入ってるから」
「へーえ。おたくは風呂どうしてるの?」
「うん? おれは姉んとこで入ってる。すぐそこに住んでるのよ、花木町」
それは駅のすぐ向うだったので私はちょっと驚いた。歩いて五、六分であろう。
「近いねえ」
「ああ。前はおれもそこに住んでたんよ。姉ひとりだから。亭主はおととし喉頭癌で死んじゃったのよ」
私は当人自身がそんなに近くに住んでいたことも意外だったし、癌についてはここにもかと思った。
「だけど仕事なくなったら、姉が嫌がるのよ。おれ、酒飲んじゃったし」
元同居人は目に弱い光を翳らせて視線をちょっと伏せた。私は元同居人の酒の飲み方がだいたい分る気がした。
「それで姉さんはおたくがここにいること知ってるの?」
「いいや。ま、そこら辺で寝てるだろうとは思ってるだろうけど」
私はすぐにはことばを探せなかった。それでしばらく黙っていてからみかんのことを思いだし、
「これ、どうぞ」
と差しだした。すると今度は元同居人も素直に、
「いただいときます」
と両手を出して受けたが、その手は真っ黒でとても最近風呂に入ったとは思えなかった。
私たちはそれからもしばらく話した。元同居人は金はあるとか、ニュータウンのゴミ置場で空き缶を集めるとゴミ用大袋一杯で百五十円にしかならず、古テレビなぞは三千円になるなぞと話し、別れしなに私がもう一度前職を聞くと、
「うん、清掃員よ。朝霞で駅の清掃やってた」
と答えた。
私はそのあと元大工と元清掃員のことを考えつつ土手をゆっくり歩いた。「籠抜け」は自動詞の場合も他動詞の場合もあるなと思いながら。
そうしてマンションに近づいたころふっと思った。
「ひょっとしたら兄も一種の籠抜けをしたのではないか」と。
この世からの籠抜けである。兄嫁の話では兄は死期が迫ったころ、「今度はちがう生き方をしたい」としきりに言っていたそうだった。終生ふるさとを殆ど一歩も出ず、旧来の価値観を持ち続け、働き、稼ぎ、欲を張り続け、走り去った兄は、五十八歳でいったいどこへ旅立ったのか。それをちょっと知りたい気がした。
元大工と元清掃員はその後も川原に住み続けたが、一月下旬になって突然元大工の小屋がなくなっていた。慌ててエレベーターを降りあたりを見歩くと、跡地には鉄骨だけが二本投げ出され、元大工の巣は下流側、つまり元清掃員にやや近く、しかし二十メートルほどは離れた場所へ茣蓙を敷いて移動していた。それは相変らずこざっぱりしていたが、しかしもはや屋根もなくだいぶ小さくなって淋しげでもあった。
ひとりでいた元清掃員に聞くと、前夜何者かがあの小屋にかなり太い棒や石などを投げつけたのだそうだ。私は「オヤジ狩り」なぞという言葉を思い浮べ、暗い気分になった。
二月に入ると、立春の声は聞いたが雪が時々降り、川原はいかにも寒そうであった。私と妻(未届け)は雪が降るたび川原を眺め、ついに吹雪になった晩なぞは夜遅くまで交互に川原を見下ろしたうえ、就寝してからもまた午前三時頃に起きだして、闇の中で白く雪の積もった二人の布団の塊を見続けた。(了)
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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