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白い秋の庭の

 朝、千六本の味噌汁と納豆で軽い食事をすませたあと、モリがいつものように庭へ降りようと、縁側の端に腰をおろすと、敷居の雨戸の通り道に蟻が数匹いた。あまり見かけぬ小柄な赤蟻で、最初は古敷居のよごれかとも思えたが、向うが時折り、まるで字でも描くかのようにくるっと回ってみせるので、それと知れた。

 モリが縁側に片肘をついて目をこらすと、赤蟻はふだん庭の中ほどで見る黒蟻と違って、いくぶん体が透けて花車(きゃしゃ)に見えた。触角や口の具合はさすがによく見えなかったが、三角形の頭と胴の間はちぎれそうなほど細い首でつながり、蟻たちはその首をしきりに動かしては四角いパン屑ようの獲物を咥え、運んでいた。パン屑は上にずらりと吊るされた鳥籠から落ちたものだろう。それともばあさんが自分の掌からこぼしたものか。

 蟻たちは時折り休んだり、まだパンを咥えていない者は行く先を窺うようにぐるぐる回ったあと立止ったりしたが、改めて動き出す時は、庭の黒蟻たち同様、左の真中の足から、一歩を踏みだすようだった。色は違っても、蟻は蟻でみな同じらしい。馬なら四ッ足全部が地から離れる時があるが、蟻は走ったりせぬからそんなことはなさそうだった。いや、走っているのかもしれないが、ともかくそんなことはなかった。

 赤蟻が三、四匹、縁側に立てかけてあった竹杖の上を通っていたので、モリは暫く待ってからトントンと杖を踏石に突き、まだいるかもしれぬ蟻たちを軽くふるい落すと、藁草履をひきずって庭へ出た。もう十月だが、今年はまだ台風が一度も来ぬせいか、庭の草木の葉っぱはだいぶ多い。柿や一重の山吹、忍冬(すいかづら)、漆、枇杷、あけび、梅、それに朝顔や白粉花(おしろいばな)、コスモスなど、青々としたものも少し枯れかけたものも、どれも葉はまだ幹や蔓についたままのが多い。いずれ風でも吹けば一晩で沢山の葉が落ち、いくらかさっぱりもしようが、今のところは近所の噂通り半分ジャングルだ。

 その庭の片隅のかまどの前で、モリは坐りこんでゴミを燃やし始めた。かまどは煉瓦を四段ほどに組み上げ、上にスレートの煙突をつけただけの粗野な物だが、それでも自分で作ってからもう三十年になる。煉瓦は時々崩れたり割れたりするから、一番上の段の外まわりには太針金を二本張り、屋根部分の上には石で重しをしたりしているが、これで中々堅牢なのだった。

 ゴミはモリが自分で仕事場から持ってきたもの少しに、あとの大半はばあさんが前もって置いておいたものだ。紙屑や木ぎれや段ボール箱の潰したもの、それにどこかから出てくる棒きれや枯れ枝に枯れ葉––。落葉の類は人間同様、大半の木々がまだ青々としている時でも、いつもどこぞで少しづつは出来るもので、それらは湿り気のある朝より、乾いた夕方に掃き集めて()した方が、音も燃え方もいいのでそうしているのだが、手近の落葉くらいはついいとおしくなってかき集めたりしてしまうため、多少はまじるのだ。尤も、音の方はこのごろでは補聴器を通じて聞くので、雑音まじりになりがちだが、それでもパチパチとはぜる音だけは耳に心地よい。

 乾いた紙屑に少し湿った台所の紙屑、泥のついた棒きれに自然に朽ちた小枝、どれも少しづつ燃え方が違う。魚の包みだった紙は煙まで少し魚くさいし、ねじった新聞広告なぞは中々燃えない上、燃え上がる段になるとインクか紙のせいか、ボッと青い燐光のようなものを放ったりする。湿った落葉はそれらの脇で乾かしておいてから、おいおい一枚づつ()していくのだが、十分に乾いた葉が、全体の形をはっきり残したまま、一瞬メラメラッと炎に()っていく瞬間が一番面白いといえば面白い。そんな時モリは、無意識のうちに綿入れの懐からとり出したいつもの四角パイプを口に咥え、こちらもすっかり湿り気も脂っ気も抜けた長い白顎鬚に、パイプの火が飛ばぬようにだけ気をつけながら、じいっと焔に見入っていたりするのだった。

 一時間ほどもそうしていただろうか。気がつくとゴミも落葉もなくなっていたので、モリはゆっくりパイプを懐にしまってから、カルサンの膝のあたりを二、三度丁寧にはたき、杖に右の重心をかけて立ち上った。カルサンは男のモンペのようなものだが、戦前から四十年以上も使っていたのは、もう擦り切れて夏物以外には使えなくなった。今のは二、三年前、ばあさんが薄い綿入れ式に仕立ててくれたもので、暖いが布地がまだ気張っているため、立ち上る時など膝に少しよそよそしい。

 居間に戻ると、モリはとりあえずすることは何もなかった。今日は十時に来客がある筈だが、それまでにはまだ二時間近くもある。ばあさんは鳥の世話に手一杯だった。今いるのは黒(つぐみ)に十姉妹、頬白、斑鳩(いかる)、小斑鳩、小木菟(みみずく)、錦鶏鳥、銀鳩など。どれもモリが好きで飼っているのだが、いつのまにか世話はばあさんにまかせきりになってしまった。モリは見るだけだ。いや、時々は籠に人さし指だけ突っこんで、撫でたり咥えさせたりはする。去年は、そのうちの一羽、十二、三年も飼っていた黒鶫が死んだ。モリはその一年ほど前から鳴き声がおかしいと分っていたのだが、ばあさんは信じなかった。耳が悪いのにそんなことが分る筈がないと言うのだ。死骸は二人で庭に埋めてやった。これまでのは皆そうで、モリは、鳥たちは土に還って木の肥しになるだろうと思っている。

 モリは万年炬燵に足を入れると、スイッチを「弱」に入れた。以前は寒さに強かったのだが、さすがにこの頃では暖房が有難い。パイプに紙巻きからほぐした刻み煙草と軽いパイプ煙草のまぜものをつめたり、火をつけたりしながら、モリはばあさんの仕事ぶりを見るともなしに見ていた。すると、ばあさんのうなじから束ねにかけてのうしろ髪が相当白くなっている。日頃、よく動く顔の表情やテキパキした歩き方だけ見ていると、二十近くも年下のせいかいつも若いと思えていたのに、やはり向うも年は年のようだった。若い頃ふっくらしていた首から襟もとにかけての柔かさも、腰のまろみもだいぶ欠けた。

 ばあさんの仕事が終りかけたので、モリが炬燵の上に碁盤を置きかけると、ばあさんがつとこちらを見て、

「あ、今日はモリが白ね」

 と、ちょっとわざとらしく目を見開いて言った。昨日いや一昨日だったか、モリが珍しく最後に一番だけ勝ったのでそう言うのだ。「モリ」というのは、もともと名前の初めの一字分をとって、ばあさんが若いときにそう呼び出したのだ。

 モリとしては白だろうが黒だろうがどちらでもいい。だいたいモリの考えでは、碁や勝負事は意地の悪い方が勝つのであって、勝負にまるで関心のない身は何も考えず、両手に石を持って、ただホイホイと置いていくだけだ。だからスピードも早い。一時間に四番は打つだろう。

 が、ばあさんが前掛けで手を拭き拭き、やっと炬燵に坐って石を持ったとき、庭先で声がした。見ると、見知らぬ背広姿の若い男が小脇に風呂敷包を抱え、こちらを見てやけにニコニコしている。モリはうちは門らしい門もないからまた勝手に入ってきたのだろうと思ったが、それにしても約束の客にしては時間も様子も違うしと見つめていると、ばあさんの、

「ハイ、どなたです?」

 という返事とも警戒ともつかぬ一言に、男は自分の方からがらがらとガラス戸をあけ、

「ええ、あのう、(わたくし)、目黒の林と申す者ですが、突然で失礼かとは存じましたが、先生に一つ是非とも見て頂きたい絵がありましてお伺いしたような訳なんですが…」

 と腰をずいぶん低めた。そうして満面笑みの中に窺うような視線を見せながら、モリたちがまだ返事もせぬうちにすぐ、

「それから、あの、これは詰らぬものですが、御挨拶代りに。丁度、松阪牛のいいところが手に入ったものですから」

 と、どこで知ったのか、モリの好物の包みを縁側に置き、名刺をちょっと示すようにしてから上に載せて、板の上をすべらせた。

 男は若いといっても三十五、六は過ぎているだろうか。モリから見るとこの頃は、他人(ひと)はみな若く見えて年の見当がつきにくいが、ともあれ腹の少し出かかった、猪首に赤いネクタイをきちんとしめた色黒の男だった。

「ハア」

 ばあさんがつい答えて、とりあえず名刺だけとってきたのを見ると、「林電器株式会社、林勇、目黒区云々」、とだけ書いてある。最初はあるいはどこぞの画商かと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。名前に心当りはまるでなかった。

「では、コレクターの方ですか」

 モリがそう半ば呟くように言うと、男は年寄りの声のこととて聞きとりにくかっただろうに、

「え、いや、それほどでもありませんが、実は今わたしの手許にこの絵がありましてね」

 とすぐ話を自分の用件につなげ、もう風呂敷包の方を解き始めた。そうして解く時の風呂敷の拡げ具合にことよせて、いつのまにか縁側に腰を下した姿勢になると、

「先生の絵らしいんですが、一つ本物かどうかを確かめて頂きたくて……」

 と早速、両手で絵を拡げ、縁側の方から両腕一杯を突き出して見せた。

 で、モリも絵のこととなるとつい釣りこまれ、身を乗り出してみて、何とも驚かされた。なぜなら、絵は象に乗った普賢菩薩の墨絵で、ちょっと色もついたものなのだが、昨日別の男が持ってきたものと全く同じ物だったからだ。

 その別の男というのは藤川といって、夏前から三、四度モリのところへ出入りしていた画商だった。屋号も何もない、自宅から一人で顧客の間をまわっては商売しているいわゆる風呂敷画商で、年は五十恰好だろうか。最初は知人の名をちょっと出した電話をしてきて現れ、絵よりも書の方をと色紙を頼んだ。何でも画商といっても名刺には「書画骨董」と刷りこんであり、元来は骨董屋の系統の人らしい。小づくりの体に、いつもたいてい茶系統の開襟シャツを着、唇の右上に大きなほくろのある男だった。払いも即金で悪くないことを言うし、昔と違ってこの頃はモリも、画商も商売だからと割り切っているから、頼まれれば書く。で、まあ、気骨の折れぬもの一、二枚ならと引受け、翌週あたりに渡した。

 それが機縁で、藤川はそれからも時々現れるようになった。肉とか鮎とか柔かいチーズとか、中々いい手土産を持ってきては、格別商売気を出すでもなく、自分は実は古くから先生のファンだった、一度身近に触れさせて頂きたいと思っていた、などと言いながら、嬉しげにそこらに坐りこんでお喋りしていく。いや、案外風変りなところもある男で、男のくせに漬物作りが趣味だと言って、頼まれもせぬのに台所の甕に茄子漬や大根の葉漬を仕込んだりし、ばあさんが調法がるようなこともした。表の身はしがない商人(あきんど)だが、これでも俳句の一つぐらいはひねるんですよ、などとも言って、庭を見ながら、

 

  女郎花(おみなえし)見所なきをよしとする

 

 とかいう句を詠んでみせたりもした。モリには俳句だか川柳だか分らぬ、あまり大した句とも思えなかったが、そこらに一本、風が種を運び自然に生えたままにしてあったのを詠んだもので、確かにその通りだ、とちょっと面白い気もした。はっきりは知らぬが、新聞とか雑誌に時々は句を載せたりもしている口振りだった。

 で、そんなこともあって、何となく親しいような気になりかかっていたところ、藤川は昨日の朝九時頃やってきて、いやあ、今度郷里の法事へ帰ったら思わぬ物が出てきました、と言って、絵を一枚大事そうに持参した。それが普賢菩薩の絵で、先年死んだ父親が大切にしまっていたものだという。郷里はと聞くと名古屋だとのこと。お父さんという人の名は知らなかったが、モリは確かに名古屋には何度も行ったことがあるし、昔は旅先で字やちょっとした絵などよくいたずら書きしたことがあるから、あるいはその辺の物かと思った。

 ところが、見てみるとまるで違う物だった。モリのサインも落款もそれらしくあるし、絵の線なども中々巧く真似てあるが、薄桃色の色なぞひどいもので、何とも閉口した。そこでモリとしては、

「わたしならこう描くよ」

 と言って、その場でばあさんに筆・硯を持ってこさせ、十分ほどで普賢菩薩を描いて渡した。ふだん、絵を描くのは仕事場で夜の二時間だけと決めているのだが、それは主に油絵のことで、早く描ける日本画なぞは割合気軽に描くこともあるのだ。すると藤川は大層喜んで、いやあ、これを頂けるんですか、そんなに有難いことはありません、ついでにここにサインも、と言うから、名前の上に「九十一才」とちゃんと年まで書いてやった。満なら九十だけど、モリは昔風に正月が来るたび一つづつ年をとるのが好きだから、いつも数えでやっている。

 藤川は初めの贋物と新しいのと両方を持って帰ったが、いま目の前で全く別人が腕つき出して見せているのが、その贋物の方なのだった。となると、一体これはどういうことなのか。

 思わずモリは「ウーム」と唸り、これまた気づいて横から「ア」と言ってのぞきこんでいるばあさんと顔を見合せた。二人ともあっけにとられた思いで、目ばかりが丸くなっていた。林という男はその様子を、最初に見せたと同じ窺うような視線でじっと見ている風だったが、ばあさんが丸い目のままで、

「あの、お宅、藤川さんのお知合い?」

 とけげんそうに問いかけると、

「え、いや、その方のことは知りませんが」

 そう目を泳がせながら言って、何やら急に落着かなくなった。そうして、恐る恐る、

「あの、やはりこれは先生のではないので……?」

 といつしか初めより随分低めていた姿勢から上眼がちに聞くので、

「そりゃ勿論、贋物です」

 そうはっきり言ってやると、暫く一人で唸ったり、歌舞伎の見得の真似のように口をへの字に曲げたり、両眉を釣り上げてみたりしていた。そうして結局、人から昨日預ったというだけで詳しいことは何も言わず、早々に帰って行ってしまった。

 あとに残ったばあさんと二人は、また暫く顔を見合せ、一体どういうことだろうと言い合った。ばあさんによると、思わぬ本物が手に入った藤川があのあとすぐ贋物の方を売ったか売ろうとしたか、あるいは話を聞きこんだ林か誰かが、素知らぬ顔で贋物を持っていけばまた本物を描いてくれるかもしれぬと思ってやってきたのでは、と言うのだが、どちらにしろ、それならそれで、なぜそんなヌケヌケしたことが出来るかが分らない。それに、では、ひょっとしたら藤川は最初からあの絵が贋物だと承知していたのではないかとか、郷里の父親云々も全部嘘だったのだろうかなどと、嫌な考えも浮んできてしまうのだった。

 ばあさんはこれからすぐ藤川に電話してみようかとも言ったが、モリはそれをとめた。そんなことをしても面倒なだけだし、それにどうせもう藤川はモリの所へは来ぬだろう。いや、それともまた、平気で現れるのだろうか。どちらにしても、モリたちには、人はなぜこんなうるさいことをするのかと、訳の分らぬ思いだけが残った。

「おい、やるか」

 モリは暫くぼんやりしてから碁盤の方へ向き直り、碁石の入った木箱を右手で撫でながら言った。すると、ばあさんは「そうね」と一旦向き直ってから、

「あ、でも、今日はぼつぼつお客さんの準備をしとかなきゃ。ごめんね」

 そう言って立ち上ってしまった。客の準備といったところで殊更何もないが、それでも炬燵の上をちょっと片付けたり、座蒲団を並べたり、茶の用意ぐらいはしておかねばならない。

 ばあさんがそれをしている間、モリは碁石の箱をばあさんの方にあった黒石の箱ととり替えて、指の腹で撫で続けた。どちらの箱も十年ほど前、自分で板を切り、ゆっくり時間をかけて作った物だが、黒石の方だけはもうすっかり黒ずみ磨滅して、脇の木目は浮き上り、上は四辺とも凹型にくぼんでうまく蓋が閉らなくなっている。大概ばあさんの使う白石の箱の方はまだ色も白く、並べてみると高さが一センチ近くも違うから、不思議なものだ。使った年数は同じなのだが、何というか、箱の主人が違うのだろう。モリはやはり自分には黒の方がいいと思った。

 

 約束の客が来たのは、丁度十時きっかりだった。あまりにタイミングがいいので、あとで聞くと、一行はどうやら五分ほど前に門前に着いていたのに、暫く家の周りをまわってみたりしたあと、十時になるのを見計って玄関を叩いたらしい。

 ばあさんが出迎え、一行はしきりに辞を低くして居間に入ってきた。伊岡周三氏のほか、美術雑誌の若い編集者とカメラマンの計三人だった。伊岡氏は姿勢のいい壮年で、濃茶の上着に臙脂のネクタイをしめ、白皙というのか、広い額に髪を斜めに垂らし、両側に皺が出来るほど口を引き締めた人だった。編集者はひょっとしたらまだ三十前だろう、顔も背も細長く、歯の両側に八重歯があり、カメラマンはそれより少し年上そうな、一人だけジャンパーを着込んだ陽焼けした男だった。

 一行はモリとばあさんが炬燵のまわりの席を勧めると、もう炬燵があることに対してか、ざっくばらんぶりに対してか、ちょっと戸惑ったようにしてから、古座蒲団の上にかしこまった。

 伊岡氏はモリの左手、編集者は右手、カメラマンはいつものばあさんの席になりかかったが、遠慮して編集者の斜めうしろのあたりに座ったので、モリは正面が空という変な形になった。おかげでモリが少し左右に首を振るようにして、

「やあ、皆さん、いらっしゃい」

 と言うと、編集者やカメラマンはもう何度目かの頭を下げ、更にそれらを代表する如く伊岡氏が、まるで青眼に対すとでもいうように、膝に両掌を置き肘を張り、深々と礼をして、

「お初にお目にかかります。伊岡周三でございます」

 と挨拶をした。そうして、仕方なくモリがまた軽く会釈すると、

「いやあ、初めてお伺いしたのですが、お宅だけ木が鬱蒼としているので、すぐ分りました。こうして中へ入れて頂くと、とても東京とは思えません。なるほど、お噂通りの仙人暮しですなあ」

 と、感嘆したように笑った。

 伊岡氏はほめたつもりだろうが、モリはちょっと相手の目を見てしまった。昔から随分「仙人」呼ばわりをされたが、そういう時は大抵、少し騙されるような、まわりに都合のいい扱いをされるようなことが多かったから、いつしか警戒心が根づいてしまったのかもしれない。で、モリは、

「いや、わたしはただ普通に生きているだけです。きっちりするのが性に合わないんですよ」

 そうありていに答えた。実際、モリは子供の頃からぴったり身を締めつけるものとか、よそゆきのものとかが嫌いで、例えばメリヤスのシャツなども袖とか首まわりとかは鋏で切りとってから着たし、祭の日に新しい羽織袴を着せられた時は、わざと往来に寝転んで汚したりもした。頭髪なぞも若い頃から、伸びたところを自分でつまんでジョキジョキ切るだけという風だった。だから、家にしても庭にしても、モリにとってはそれと同じことという気持があった。

 ところが、伊岡氏は、

「いえ、その〝普通〟を通すことが中々出来ません。画伯のは、普通極まった普通、というやつで、只の普通ではありません。今日は一つその普通ならざる普通、を存分にお聞きしたいものです。ね、君」

 などと大仰に、最後は勝手に編集者に相槌を打たせて、初めて渋茶をすすった。モリはよく知らなかったが、何でも伊岡氏は元来はフランス文学者で、自分でも詩を書く上、昨今では中世以来の日本の文人研究に力を注ぎ、折ふしは美術評論のようなものも書く、中々の著名人ということだった。

 が、モリにはその辺のことはよく分らない。そこでモリは、文人学者が湯呑みを片手にしきりに縁側の上の鳥籠を見たり、庭の方を眺めたりしているので、

「なあに、みんな人がくれたり、ばあさんが買ってきてくれたりしたものばかりです。私が自分で買ったのは、今では一羽もいません」

 とか、

「木や草は生えるのが自然ですからね。山の中は皆そうでしょ」

 などと説明のつもりで言った。

 すると、文人学者は一々仔細げに肯き、

「それにしても多種類にわたりますなあ」

 と感心し、やがて仕事場の方も是非一見させて頂けないかと言うので、そうすることになった。仕事場はモリにとっては独りだけの城か(ねぐら)みたいなもので、めったに人はいれぬのだが、今日は相手も雑誌の仕事で来たというから、まあ少しぐらいならとその気になったのだ。

 だが、ところどころ板がしなったりきしんだりする廊下を歩いて、奥の左手の仕事場に入ると、一行はよほど驚いたようだった。まず、それまで一番しゃちほこばっていた若い編集者が、思わずというように「ワア」と声を挙げ、ついで気取った文人学者までが「フーム」と目をキョロつかせた。

 モリにしてみれば、いつもの光景で何の変哲もないのだが、相手の驚きようがあまり真実味がこもっているので、とりあえず彼らの視線を追って部屋を見てみると、まず十二、三畳分ほどの、元は割合広そうな板の間に、絵の具だらけの古イーゼルとダルマストーヴを中心といえば中心にして、棚やら台やら林檎箱、抽出し類、木工具箱などが殆ど一面に積み置かれ、加えてその中や上には絵の具や筆や油瓶はもちろん、金槌や釘や針金や回転研磨器や歯車や木ぎれや石ころ、煙草盆、小皿、湯呑み、油布などがぎっしり詰まり、更に上からは鳥籠、壁には藁籠、縄、古バンド、折れた(たが)、古パレットなどがぶら下っていて、確かに初めての人には心もち埃っぽいような、雑然とした印象を与えるかもしれぬという気はした。で、まあ、

「いつのまにかちょっと物が増えたかな」

 と言うと編集者が、

「え、ちょっとですか。いや、先生、これはどこぞの……」

 と何ごとかを言いかけ、すると脇から文人学者がその先は言うなとでもいうように、

「いや、これは何ですよ、さしづめパリの蚤の市を想い出させます」

 と、口の両脇の皺を更に引き締めてみせた。

 それらの表情からモリは、どうやら彼らがここをどこぞのガラクタ市なみに見ていると知ったが、むろん、ここは絵描きのアトリエなのだ。ちゃんと部屋の右側、一番落着きのいい場所には、イーゼルを中心に羚羊(かもしか)の皮を敷いた制作場所があるし、反対側の左隅には、そこだけ毛氈を敷いた目本画や書のための場所もある。

 藁草履が二組しかないので、モリは自分は裸足のままそれらを客に勧め、中を歩きかけた。すると、うしろに従いつつ文人学者は、上着に何かがひっかからぬかというように体をすぼめながら、

「あ、なるほど、ちゃんと通路はあるんですなあ」

 なぞと言った。モリはまた失敬なことを言うと思いつつ、

「通路じゃないですよ」

 とだけ答えた。実際、ここはもともと広かったところへ、段々に物を置いていくうちにこうなっただけのことで、モリにしてみれば置き場所も順序もきちんとした立派な部屋なのだ。そう体をすぼめずとも、無理に大仰な歩き方さえしなければ、何かにぶつかることもないと言いたかった。

 けれども、文人学者はイーゼルの前で描きかけの石榴(ざくろ)の絵を見、すぐ脇の林檎箱の上の本物の獅子頭をのぞきこんだあと、向きを変える際、うっかり天井からU字形に垂らしてある電気のコードに首をひっかけてしまった。モリは仕事を夜するので、電灯は白い三角笠つき百ワットの白光球を四個、部屋のあちこちに自由に動かせるように垂らしてあったのだ。さいわいコードの首へのからまり方はさしたることはなく、揺れた電灯が鳥籠にぶつかって中の黒鶫が少し鳴き騒いだだけだったが、それでも文人学者はその鳴き声と羽音に驚いて体をひき、危うくかたわらの絵の具箱をひっくり返しそうだった。

 そのためであろう、文人学者は首筋についた埃をハンカチで拭き拭き、ますます体をすぼめ、半まわりほどしたところで早々に入口に戻ってしまった。

 最後に残ったのはカメラマンだけで、この男だけはさも面白そうにあれこれのぞいては、しきりに、

「絵になる、絵になる」

 と言って、写真を撮っていた。「絵になる」とは妙な言い方だが、どうやら面白い写真になり易いといった意味らしかった。職業が違うと、言葉の使い方も色々違う。

 そうして、そのカメラマンはやがて、部屋の中央の木箱の上に綿敷きで置いてあった小石を見つけ、

「これは何でしょう?」

 と中々きれいな目で尋ねた。モリはどう答えようか少し迷ってから、

「それはまあ、ごらんの通りの只の石ですが、わたしにとっては宝物みたいなもんですよ。三十年前に拾ったんですが」

 と言った。拾ったのは近所を散歩中に工事現場の石の山からで、以来、今まで磨き続けてきたものだ。ばあさんに言わせると何がいいのか分らんそうだが、それはモノをあまり好きでないからだ。モノというのは、その外観や一見の美醜、世の中での役回りなぞによって価値が決まるのではない。気になって、何かを感じさせ、だんだんに磨いていきたくなる物、それがいいモノなのだ。尤も、カメラマンもモリの返事に、

「そうですかあ」

 といかにも感嘆したように言って早速カメラを向けたが、だいぶ遠景で撮っていたから、結局、「仕事場の一風景」として撮ったのだろう。

 居問へ戻ると、編集者が録音器をセットするのを待って、「対談」なるものを始めた。一時間ほど話をし合って、それを雑誌に載せるのだそうだ。

 文人学者は録音器がまわり出すと、鷹揚に胡座にした体の上半身を心もち右に傾け、また気取って、すでに知っていた筈なのに、

「画伯、おいくつになられました?」

 などと始めた。そうして二、三、何でもない四方山話風のことを喋ってから、

「いやあ、いまアトリエを改めて見せて頂いて、画伯の絵の一端が分った気もします。あそこには画材類と隣合せに金槌や釘、歯車などが随分あったのですが、ああいうものはやはりお好きなんですか」

 と聞いた。それでモリは一瞬ハテと思ってから、確かに嫌いではないのだから、

「ええ。多分そうなんでしょうね」

 と答えた。

 と、文人学者は続けて、

「それで呑みこめました。つまりですね、わたしの考えでは画伯の絵は、童画的単純さでいながら、同時に明治の職人的手堅さもあり、しかも意表をついた大胆なフォルムが組み合わされ、鮮やかな色彩が使われているにもかかわらず、どこか硬質な鉱物質を感じさせると思うのですが、その鉱物質性・職人性の由縁があの釘なんかに通じているのじゃないでしょうか」

 とも言った。

 モリは他人(ひと)の仕事をえらく手際よく簡単にまとめてくれるという気もしたが、相手の言葉遣いとスピードにまだ慣れぬせいもあって、

「ハア、そうかもしれませんね」

 とだけ答えた。すると文人学者は、

「恐らく無意識のうちにそういうところが出ていると思います。例えばさっきアトリエのイーゼルの上にあった〝石榴〟の絵なぞも、果物にもかかわらず、付いた小枝の形がどこか釘みたいに鋭角的ですし、皿の上に置かれた他の物のフォルムもやはり鉱物質的な感じがします」

 と、また「的」を二度使って言った。言われてみればそういう気もせぬではないので、モリが、

「なるほど」

と肯くと、

 文人学者は更に、

「それに確か一九六八年の御作と記憶していますが、雨蛙を描かれた絵なぞも、動物なのにまるでブリキのおもちゃのようにも見えますし、あるいはもっと以前の〝夕映〟という絵なんかも、風景だというのに黒い枯木がポキポキと折れ釘の如く見え、不思議に無機的でした」

 と、だんだん身を乗り出すように言った。そう言われればまたそういう気もするし、しかしモリとしては、自分の絵はもう少し暖かみがある筈という気もして、結局、

「そうですか」

 と、どっちつかずの返事になった。

 それでも文人学者の方も一向ひるまず、

「まあ、そういういわば〝釘嗜好性〟みたいなものは、一方で童児性にもつながるところがありますね」

 と言葉をつぎ、暫くモリの老年以降の絵の素材が小動物や植物や身のまわりのちょっとした風景が多く、人によっては子供の絵と間違えそうだといった話をしてから、

「それで画伯の絵は、お嬢さんの切り紙を見ていて、その面白さを取りこまれたという話もありますが……」

 などとも言った。そのことは以前、誰かからもそんな説があると聞かされていたので、またかと思ったが、これには脇からばあさんが、

「いえ、それは逆で、娘の方が切り紙にしていったのです」

 と答えてくれて助かった。それから文人学者は、

「いづれにしろ、画伯の絵には何かすっぱりしたものがあります。観る者をアッと思わせ、心のもやを取払ってくれるような要素があります。あれは得がたいですね」

 とか、

「それは最初日本画を学ばれたことと関係あるでしょうね」

 とか言ったあと、

「画伯の絵には赤と白が実に効いているものが多いですね」

 と色のことを聞いてきたから、それにはモリはこう答えた。

「わたしは結局、色としては白と黒が一番きれいだと思います。時々、何も描いてないカンヴァスのままの方が、一番いい絵のような気がします」

 すると、文人学者は、

「画伯はデッサンの時の巧みな線と、あとで本絵を描かれる時の線が違いますが、それはなぜですか」

 と中々つっこんだことも言うので、

「それはまあ、デッサンの線は捨てます。上手だの器用だのいうのは、たかが知れていますから。何にもない方がまだ大事なものがあります」

 と、つい力をこめてしまった。

 そうして多少絵画論が続いたあと、文人学者はここらでとっておきの秘話を伺いたいとでもいうように、

「ところで、画伯は若い頃、木曾の山奥に何年か籠っておられましたが、あれはやはり何かを求めて……」

 と、この時ばかりは急に身を低めるようにして聞いてきたが、

「とんでもない、あれはただ、ままが食えなかったからだけです。食えりゃ何もあんなことはしません」

 と答えた。と、向うは更に、

「じゃ、その間ほとんど絵を描かれなかったのも、描きたくなかったからで…?」

 と言うから、

「描く暇がなかっただけです」

 と正直に言うと、文人学者は一瞬言葉を途切れさせてから、

「なるほどねえ、そういう風に事実をあるがまま認識なさるところが、画伯の絵の良さになって現れていると思います」

 などと一人で肯いていた。思うに学者というものは、そういう風に何でも一言するところが仕事なのだろう。

 あとは、モリが花は一重のものが好きで八重の乙女椿なぞは大嫌いなこととか、焼物のこと、酒はやらないのか、といった雑談じみた話が続いた。

 

 結局、対談は午少し前に終り、ばあさんがそばでもと言うのを一行は断って、「お名残りおしいですが」と言いながら帰っていった。向うは向うで、年寄りに手間をかけさせてはと気を遣ったのだろう。モリはさすがに疲れて、暫くその場でゴロリと横になったあと、ばあさんとそばを食べた。そばは人が送ってくれた山形の方のもので、つなぎの自然薯(じねんじょ)の量がいいのか、つるっとして食べ易い。

 終ると、表の方がぽかぽかして気持がよさそうなので、モリはまた庭へ出、(むしろ)を敷いて昼寝をした。それがモリの日課でもあった。筵はこのごろ東京では中々売っていぬそうだが、ゴザではちょっと薄すぎるし、土の上ではやはりこれが一番よかった。藁屑が多少つくこともあるが、使い慣れた上筵ならもう殆どそんなこともない。

 陽は暖かかった。風は全然ない訳でもなかろうが、何しろ周りに樹が多いから、ここでは感じない。モリは重たげな八ッ手を見、ついで手前のコスモスを見た。花はピンクと白と赤紫のものがある。品格からいえば赤紫が何といっても一番だが、あの色は中々むつかしい色でもある。はかなげなピンクや白がまわりにあって丁度いい気もする。そんなことを考えながらうつらうつらしているうち、モリはいつのまにか一眠りしてしまっていた。

 気がつくと腰から下にタオルケットが掛けてあったが、暑いくらいだった。陽はまだ高い。寝転がったまま土の上を見ると、蟻やフン転がしや亀虫がいた。上から見るとそれらの動きは中々細かいところまでは分らぬが、こうして同じ高さから見るとよく分った。フン転がしはいつも頭と前足でボールをころがし、ボールが止ると横から押したり、前へまわって引っ張ったりした。亀虫はどういう訳か、いつも気ぜわしく下を向いて走る。たまに上を向く時はまるで鼻をうごめかすようにして、ちょっと犀のようにも見える。蟻が左の二本目の足から歩き出すことも、こうして十数年見ていてやっと知ったことだ。そうしてその種のことは一度知ってしまえば、あとはだいぶ遠くから見てもちゃんとそれと分る。分らぬ人間がいるとほんのちょっとしたことだがと思うが、そのほんのちょっとしたことに気づくのに、人間は時間がかかるのかもしれない。

 木曾の山奥で日傭(ヒヨウ)をしていた頃は、蟻のことなどには気づかなかった。ここらより遥かに大きい山蟻がいたのに、その長い足がどう動くかなどには興味が向かなかったのだ。そんなことより、寒さのこととか仕事のこととか、道具のこととか食べ物のこととか、もっと気になることが一杯だった。さっき文人学者が、まるで絵のためか仙人暮しのために山籠りしていたかのように言ったが、そんなことはまるでない。(きこり)をしていたと言う人もいるそうだが、それも違う。ヒヨウというのは樵が伐り出し、仕分け、皮をむいた木を、鳶口でひっかけて谷川へ入れ、ずっと下流の筏が組める所まで運ぶ仕事だった。つまり、樵と筏師の間の役だった。

 やったのは、三十四、五のまだ独り者の頃だった。三十の時、実の母が死んだのを機に、東京から裏木曾の田舎へ戻り、六年ほどを過した、その間の(ふた)冬だった。ヒヨウの仕事は木が乾いている冬場–秋の彼岸から春の彼岸までだけだった。夏場は木に水分が多いから、川に入れると根の方が沈んでしまってうまくいかない。

 場所は実家のある村から更に何里か奥に入った、もう御岳の麓といっていい山中で、東京などより一ヶ月も早く冬が来る上、一月二月ともなればひどい冷えようだった。ヒヨウの仕事は、その中で皮をむいた丸太に乗って川を下るのだから、まるで曲芸のようなものだ。ヒヨウになる前にだいぶ池などで稽古もしたが、それでも時々はどうしても川に落ちる。そうすると水から上ったとたん、もう体は板のように凍った。

 そのため、ヒヨウの川すじ三里ほどの間には、何ヶ所も岸に焚火を用意してあった。落ちたらすぐ駆けつけられるようにだが、ただし、あまり早く岸に上りすぎると、焚火まで行く間に着物が凍りすぎて走れない。だから、出来るだけ水の中を動いて焚火に近づき、パッと上ると全力で駆ける。それでも僅かの間に固くなった着物がこすれて鳴り始めるのだが、その音が何とも微妙な音色に聞えたものだった。

 着ているものは上はふつうより短か目の着物、下はカルサンだった。寒いからといって綿入れは禁物だった。水に落ちたらお陀仏だからだ。あとは腰皮と足袋。腰皮は山仕事の者が皆、腰に巻くもので、いわば携帯座蒲団みたいなものだが、羚羊の皮と犬の皮とあった。犬の皮は安いけれど、濡れると水切れが悪いので、三年使うと病気になると言われた。足袋は大概のヒヨウ仲間は替えを一、二足は持っていたものだが、自分は着物も足袋も一冬中一張羅だったから、終り頃には指先の所がほつれてきて、水に入るとそのほつれの糸が澄んだ水の中でゆらゆら揺れて美しかった。少し覗いた指坊主をひくひく動かしながら、長い間見つめ続けたものだった。そんな風だから手足はいつも紫色、体も栄養が行き屈かぬからヒヨウ仲間はみんな痩せこけていた。何しろ冬の間じゅう、自分たちで作った丸木小屋に住み、食い物も女手などなしの米飯と味噌汁だけだった。その代り(めし)の炊き方にはうるさく、新入りがどやされどやされ上手に炊き上げたものを、みんな日に八合も食べた。おかずが何もなかったせいだろうが、実際あの時の飯はうまかった。中には時折り一人だけ、塩鮭の切り身をちょっと突ついてはなめるように食べている者もいたが、大多数の者の御馳走ときたら、たまに見つけて味噌汁に入れる茸とユリ根くらいのものだった。

 丸木小屋は隙間に笹束をつめてあって結構暖かかったが、それにしても火は絶対にたやす訳にはいかなかった。夜、眠るのに、蒲団のない者もいたし、あっても固い小さな煎餅蒲団一枚だったからだ。だから皆、火をかこむようにして、背中を火に向け、前には着物をはおって寝た。一つの小屋には平均十人くらいが入ったろうか。そんな小屋が一冬に、一つの伐り出し口だけで三戸建ったから、山の中のちょっとした小集落だった。

 麓の村、つまり実家のある村の祭の時などは、ヒヨウ連中にとっては数少ない休日だった。みんな休みをとって山をおり、野菜や衣類を買うのを楽しみにしていた。が、自分だけはきまって一人、小屋に残り、黙って火を燃やしたり、雪の中を羚羊や獣の足跡を捜して歩いたり、鳶口を砥石で研いだりしていた。いい鳶口は七十銭なのに、白分はそれを買えず三十五銭の安物だったから、せめていつも研いでいようと思っていたのだった。火を見ながら誰もいぬ山中で、せっせと銀色に鳶口を研いでいると、不思議に心が安らぎ、時々遠くで木から落ちる雪の音とせせらぎだけが耳に響いたものだ。あれが冬の山の音というものだろう。色でいえばやはり白と黒だ。他には何もなかった。

 …いや、白と黒といえば、木曾の山の中よりもっと以前に、もっと本物を見たことがある。樺太(からふと)でのことだ。あれは美術学校を出てほんのすぐの頃だったから、まだ二十五、六歳の時だろう。農商務省の樺太調査団に雇われて、写真代りに海産物や漁港風景の絵を描く仕事で二年ほど樺太各地をまわったのだが、あそこは本当に寒々とした土地だった。爽やかなのは夏のほんの一ヶ月くらいだけだろう。それを過ぎるともううそ寒く、十月ともなれば雪が降った。風が強いから案外積雪量は少なく、完全に真っ白になる時期は厳冬期だけだったが、その代り冬場中どこもかしこも氷が固まり、ピンと冷えてその方がよほど寒かった。

 そんな冬の早朝、零下二十度以下の折、外へ出ると、時々、空中に無数のダイヤモンドが浮んでいた。ふつうなら朝霧になるべき空中の水分が凍って小さな結晶になり、空は晴れているので、日光がそれをプリズムのように通り抜けてきて、まるで小さな虹の発光体のようになるのらしい。一面の空間がそれでうまると、こめかみのあたりが痺れるような寒さと合せ、我を喪うほど美しかった。自分は酒は飲まなかったが、酒を飲む者の中には夜通し強い酒を飲んだあと、明け方表へ出てこれと出会い、思わず坐りこんで見とれているうち、夢うつつのまま凍死した例も少なくないというほどだった。

 冬を越し五月になると、漸く雪もまだらになったが、人は春だろうと夏だろうといつも少なかった。ところどころにロシア人たちの小さな町がある以外は、辺鄙な所に時々アイヌがいるだけだった。アイヌは髭をはやしていて骨格もがっしりし、自分とよく似ていた。そのせいか随分気に入られ、こちらもまた彼らを非常に好きだった。

 その彼らは漁で暮しをしているのだが、しかし漁を商売にするということはない。自分たちと犬の食べる分だけ獲れると、もうそれ以上は網を入れない。あとは獲った魚を波打際に置いたまま一日、膝小僧をかかえ一列に並んで浜に坐りこんでいる。何もせず、ただ海の方を眺めている。魚が波にさらわれはせぬかとこちらはハラハラしたが、一体あれは何を眺めていたのだろうか。

 またある時は、年老いたアイヌが二人、海上でゆっくり小舟を漕いでいるのを見た。少し灰色がかった白っぽい空のもと、白髪ぼうぼうの、背中の丸まった老人が、ゆっくりゆっくりと櫂を漕いでいく。海も灰色で、その上に白く、あるいは透明にも見える氷塊がところどころに浮んでいた。老人たちは頭に帯をしめ、半纏のような厚手の衣類にも原色の刺子の模様をつけていたが、不思議なことにそれらのすべてが色がないように見えた。ただ氷の海の上を、何者かの影、顔と輪郭をもった影そのものが、いずこからともなく現れ、いずこへともなく永遠に漕ぎ続けていく如くに見えた。それは、この世に神様がいるとしたら、きっとあんな姿をしているのでは、と思えるほどだった。

 あれらもまた、時間の止った白と黒の世界だった。何もないが、そして初めて見た光景なのだが、自分にはずっと以前にも見た気のする本当に懐しい、涙の出るような光景だった……。

 

 目の前では相変らず蟻が動きまわっていた。今朝見た赤蟻より一まわりは大きい。寝転んで見ているから、触角も口もよく見える。何か土の塊のようなものを転がしているのもいるが、あれは果して食べ物なのだろうか。フン転がしととり合いにならねばいいがと思うが、考えてみればそんなことは人間の心配すべきことではないのかもしれぬ。

 モリがゆっくり起き上ると、陽はまださほど傾いていなかった。いつもならもっとぐっすり眠るのに、今日は来客のせいなどで、いくらか神経が昂ぶっているのかもしれない。腰に手をやると、いつもぶら下げているスケッチブック袋がちゃんとあったが、今はスケッチをする気にはなれなかった。

「久し振りに池へでも入ってみるか」

 モリはひとりごちて立ち上ると、杖をつきつき庭の右奥へ向った。

 そこには更に欝蒼とした樹々に囲まれ、池があった。いや、今は水が殆どないから、ただの穴と言うべきかもしれない。広さはさしたることはないが、深さは三、四メートルもあってかなり深い。元々はまだ子供たちがいた頃、近くの石神井川などですくってきたたなごや鮒を入れるため、子供たちが勝手に掘ったものだった。もちろん、最初はほんの二尺ぐらい掘っただけのものだったのだが、このあたりが低地ででもあったのか、雨が降るとすぐ水が湧くのと、子供たちの獲物が増えるのとで、どんどん土掘りが進み、そのうちには子供に代って親のモリが掘るようになった。そうして、たなごが並んで泳げる中々いい池になると、今度は夏、日照りのあと水位が下るのが魚に可哀そうに思え、毎日毎日土掘りをし続け、とうとうこうなったのだった。

 掘り出した土は庭に山になり、その上や周りにスケッチ旅行のさい持ち帰った若木や草を植えるなどして、段々出来ていったのが今の庭だった。池のまわりにも、大雨のあとなど水位が上って危ないので、灌木を中心に色んな木を植えた。山葡萄、蝦蔓(えびづる)、白くち、卯木(うつぎ)、苗代ぐみ、たら、柚子、蜜柑、……。どうも食べられるものが多いのは、家中食いしん坊だったのと、当時は食べ物が少なかったせいだろう。ぐみや山葡萄はもとより、あけびやたらの芽も皆食べた。白くちは皆で楽しみにしていたのに、ちっとも実がつかなくてやきもきしたが、あとで図鑑で調べてみたら、雌雄異株で、植えたのは雄木だったのでがっかりした。

 草も池の縁に羊歯(しだ)、しゃが、華鬘草(けまんそう)、秋海棠などが次第に繁り、その中の水中を蝦やら鯉やらが泳ぎまわるのは中々風情があった。水は地下水で冷たかったが、それでも三十年近くなるうちに鯉も二尺ほどになって、小さな蛇なぞをのみこんだりした。それが今こうしてすっかり水が涸れてしまったのは、最近、近くに下水道が出来たためらしい。残念なことだとモリは思った。

 池には内側に段々がつけてあり、ザイルを垂らしてあるから、モリはそれを伝ってゆっくり下に降りた。ザイルといってもビニールの紐をつないだものだが、モリには丁度いい。底に降り立つと、隅にわずかに水溜りがあり、そこに金魚が数匹いる他は、中央部に木で作った茸型の腰かけが一個あるだけだった。

「よいしょ」

 掛け声をかけると、モリはそこに腰を下した。

 上を見上げると、(まる)い空がぽっかり見えた。周りには草や木が繁っているので、青空はところどころ木の間隠れになり、まるで深い山中にいるような心地がした。羊歯の葉のギザギザがちょっとしたシルエットの如く、美しかった。葉裏の胞子袋が少し生々しい小紋のように見え、垂れた葉先がわずかに揺れると、海草みたいにも思えた。するとモリは深山中にして同時に海底にいることになる。

 静かだった。まだ子供たちがいた頃、水位が下った折などに時々家族で段々の途中まで降り、上を見上げあったものだが、五人の子はいま誰もいなかった。二人は外に出、三人は死んだ。二男は四歳、三女は一歳、長女は戦後まもなく二十一歳の時だった。二男は明らかに栄養不足および医者代不如意が原因であり、長女は結核死だった。

「モリ、モリ」

 子供たちはモリのことをそう呼んだが、こうしているとその声が聞えるようだった。可哀相な子供時代を送らせた気もするが、しかしその代りモリは殆ど毎日一緒にいてやった。少年時代、父の妾宅だった岐阜市の家で過したモリは、九十畳敷きの部屋でいつも一人だけでごはんを食べたものだ。家は旅館を買いとった、だだっ広いものだった。モリは、今でも家はあまり大きくない方がいいと思う。

「ポチャン」

 思いがけず音がし、隅の水溜りで金魚が二、三匹あぶくを吹いていた。餌は時々麩をやる程度だが、それでもちゃんと生きている。場所がら、蚊や虫、みみずといったものが豊富にいるのだ。見ようによってはちょっとした蟻地獄なみだが、金魚の方も案外残酷な顔をして虫たちをパクッとやっているのだろう。可愛げな顔に残酷な顔。それが要するに同じ顔であることが面白い。ひらひらと尾のついた琉金なぞは色っぽくさえ見えた。どれが雌で、どれが雄なのだろうか。モリは鳥の雌雄なら大体分るが、金魚は間近の明るいところで飼ったことがないから分らなかった。

 空が青かった。さっきまでほんの少し揺れていた羊歯の葉先も止って、動くものは何もない。金魚のあぶくの音だけがポツンポツンとした。

 

 モリは随分長くそうしていてから、居間へ戻った。さすがに足腰がだいぶ冷えたので、炬燵のスイッチを入れ、うつらうつらした。

 目が覚めたのは、もう五時近くだったろうか。また庭へ出、落葉を集めて日課の焚火をしていると、

「モリ、また標札がなくなっているわよ」

 ばあさんが来て、そう言った。

「そうか、またか」

「今度は誰かしらね」

 三年前、十一月の祝日に宮中でくれるという勲章を断ってから、ちょくちょく標札が盗まれるようになったのだ。モリが勲章を断ったのは、どう考えても自分はお国の役に立ったことなぞはないし、それにそんなものを貰ってこれ以上客が増えたらかなわぬと思ったからだが、世間はどうとったのか。当初はせっかく国がくれるというものを断ったから、嫌がらせでもされているのかと思ったが、出入りの画商などの話だと、標札の字や手製の感じが面白いのでとられる、中にはそれを好事家に売って商売にする者もいるかもしれぬ、私だって頂けるものなら一つ頂きたい、と言うのだった。実際、その画商とは違うが、いつぞや客が帰りしなに、表の門柱のところで標札を何やらがさがさ言わせていたのを、ばあさんが目撃したことがある。してみると、今度も今日の客のうちだろうか。とすれば、まさかあの文人学者とは思えぬから、最初の得体の知れぬ男、名前はもう忘れたが、あの贋絵の男ででもあろうか。あり得る気もするし、そうでない気もした。だが、いずれにしろ、人間というのは妙なことをするものだった。あれこれ価値をはかって、コソコソ動いて、可哀そうなものだ。

 モリは焚火を中断して仕事場へ入ると、頃合の板きれを捜し、それから羚羊の腰皮の上に坐って、ゆっくり字を書いた。腰皮はもう二代目だが、昔ヒヨウの時使っていたものとなるべく似たものを使っている。筆は小学生用の習字筆の穂先がこすれてチビたもの、住所は町名と番地だけにし、あとは自分の姓名だけを書いた。

 終ると、モリはついでに金槌と釘も持って、そろそろと縁側を降りた。ばあさんが気づいて左腕を支えてくれた。

 外へ出ると、なるほど門柱に標札がなかった。門柱といっても、皮もむかぬ櫟の丸木をただ立ててあるだけだが、それがえらくさっぱりして見える。

「今度はとうとう頑丈に釘づけね」

 モリはそういうばあさんに肯き、出来上ったばかりの標札を押えてもらいながら、金槌で釘を上に一本、下に一本打った。下の一本を打つ時は少し意地の悪いような気もしたが、やむを得ぬ心持だった。標札は真っすぐ打てた。字のうちで名前の「守」という字だけがちょっと歪んでいたが、代りに下の字でバランスをとったから、まずまずの出来に思えた。

 暫く眺めてからモリはばあさんに金槌を渡し、向きを変えて二人で並んで外を見た。考えてみると、これがほぼ一ケ月ぶりの門外への「外出」だったからだ。東南は都心の方角の筈で、二十何年前の空襲のあとは、ここから見渡す限りが焼野原となり、上野の五重の塔までが見えたが、今はびっしり詰った住宅群にはばまれ何も見えなかった。

「フム」

 モリは意味もなく軽く吐息をつき、視線をゆっくり手前におろした。

 と、その時だった。モリの目に何か異物が映った気がした。向いの家の生垣の下あたりに、少し隠れるようにして生き物のような、しかしどこか気配の違う醜怪なものがあったように思えた。

 目の焦点を定めるのにわずかに時間がいったが、ほんの暫くののち、それは猫の死骸だと分った。車にでもはねられた上、更に一、二度轢かれたのだろう、ざっくり割れた額から血糊が流れ、潰れた腹からは赤緑色のはらわたがはみ出していた。開いた口には黄色い歯が虚空の何ものかを噛むように鋭く並んでいた。汚れた毛は薄茶と白のまだらで、見憶えがあった。

 思わずモリが一歩を踏み出し、目をこらしてみると、それは時折りモリの庭先へも現れる野良ふうの猫だった。現れ出したのはほんの二、三年前からだったが、猫としてはかなり老いた、動きの鈍い猫だった。野良猫にそれほどの老猫は珍しいから、あるいはどこぞにあまり熱心でない飼い主がいるのかもしれない。顔や体の毛が随分すりきれ、目にいささか非情の光があった記億がある。

「マア」

 隣でばあさんがそう叫んだようだったが、モリは黙っていた。拾って埋めてやるか、それともどこかにいるかもしれぬ飼い主にまかせるか、それを迷っていたのだ。いや、正直に言えば、あまりの無惨さにモリも半ばは逃げ出したい気があった。

 結局、それから暫くして、モリは猫を庭に埋めてやった。死骸はばあさんが吐き気をこらえながら十能(じゅうのう)に乗せて運び、穴はモリが掘った。さすがに花の咲く木のすぐ下に埋める気にならなかったのは、どこかでその花に血の色が付くのを連想したためかもしれない。墓碑は立てなかった。

 終って、小さな盛土の上を移植(ごて)の背で叩き、立ち上ると、東の空に月が見えた。丁度右半分だけの半月で、それが手前の庭から突き出た百日紅(さるすべり)の幹と、まるで洗濯ひものように伸びた蔦の蔓からぶら下る枯葉の間に、白く浮んでいた。空は昼間の青さからいつしか黄昏の紫じみた濃い青に変っており、その色に月の白がよく映えた。

 それを見ながら、モリは今日はあの月を描いてみるかと思った。日本画にするか、油絵にするか。

 やはり油絵だろうとモリは考えた。黄昏の濃青に月の白、手前の木と蔓と枯葉は思いきって真っ黒にする。そうして、それらは赤の線で太く、くっきり(ふち)どる。それで出来ると思った。他のことはもう何も浮ばなかった。

──了──

  

*この作の執筆にあたっては、故・熊井守一画伯の多くの作品・著作を参考にしました。作者

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/05/19

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夫馬 基彦

フマ モトヒコ
ふま もとひこ 小説家 1943年 愛知県に生まれる。中央公論新人賞。

掲載作は、「海燕」1984(昭和59)年12月号に初出後、単行本『楽平・シンジそして二つの短篇』(福武書店)所収。

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