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ヘッダ、ガブラー論

 イプセンの劇の内で他の特色あるものとして、「へッダ、ガブラー」は「ゴースツ(幽霊)」に於て見る様な広い歴史的な又社会的な基礎はもつて居ないけれども、近代人の内的葛藤を描く事に就て、作者は未だ(かつ)てこれ程の程度に達したことはなかつた、劇全体はへッダ、ガブラーなる中心人物に集まつて居る。同時代の道徳的生活のあらゆる方面を含むこの広き、哲学的概括は、同時に一個の個人的性格を()つて居る。劇中の他の人物は皆中心人物を際立たせる為に寄り集まつて居る。是こそ真の戯曲的肖像である。

 女主人公の像は作者自身によく分つて居た。即ち彼は自分の心を惹いた女のやうに、又其女の為に惨ましい苦痛にも堪へたやうに彼女を美しく、注意して描いて居る。其顔の極々(ちひ)さな皺でも、着物の鳥渡(ちよつと)した襞までも明晰(はつきり)と彼は見届けた。序幕の註に書いてある彼女の容貌は斯うである。

「年齢二十九歳、気高い、貴族的な処のある容貌、風釆。 余り白からぬ皮膚。冷静な、透明な無感覚な(こゝろ)をよく表して居る鋼鉄のやうな灰色の眼、余り濃くはないが、綺麗な栗色の髪の毛。」

 激した瞬間でさへ自若(じじやく)として居る此冷静な透明な無感覚はへッダの人品に貴族的な魅力を賦与して居る。

 大学の文明史の講師である夫、ヨルゲン、テスマンは中流社会の凡庸の権化で、其取るに足らぬ、平凡な粗俗と無能力とは妻が何の理由もなく只無意識に、不可抗的に、其天性の全力を挙げて軽蔑する処で有つた。

 それなら何故彼女は彼と結婚なんかしたのであらう?

 先づ第一の理由としては、彼は他の誰れよりも堅実で、そしてまだしもの人のやうに思はれたからである。それと又困憊(こんぱい)と、冷淡と、静かな意識的の絶望とからでは有るが、恐らく又、学者振つた仕方で自分を大事にして呉れるこの尊敬す可き好人物と一緒に暮すことは他の誰れと伴にするよりも(つま)りは自由に相違あるまいと云ふやうな多少の希望も有つたのであらう。

 彼は幸福と云ふ事に就ては極めて有振(ありふ)れた考へを持つて居る(ごく)家庭的な夫である。彼は理想の豊富からでなく(むし)ろ智力の欠乏に(もとゐ)する非実際的の人間の常として、お目出度い、矛盾だらけな意見を()つて居る。 彼の言語、動作は悉くヘッダの気を損うた。彼は稀に酔ひもしたけれどまづ大低(たいてい)は不利な、面白からぬ位置に置かれて居る。彼は途切れ、途切れでなければ、混乱して、(ひど)吃驚(びつくり)した風に「マア」とか「ナンテ」とか入れなければ只の一句も云はれない。此様な男で有りながら物質上の利益問題、報酬の好い大学教授の公職に関する問題に対した時、彼は狡猾になり、抜目なくなり、邪悪になつて、決して一見して想像したやうな愚物でもなければ又望みのないものでない。(しか)してテスマンとても教授の職を只黄金の源とばかりも見て居ない。彼は書物其物の為めに等しく書物を愛する、記録所の香を吸ふのを喜ぶ、そして(あらた)に購入したる書物の頁を切る事にさへ肉的快感を誘ひ出す。序幕に於て、彼は優しい心遣ひと熱心とを以て、真剣にへッダに見せたのは伯母さんが彼の本宅から持つて来て呉れた、二人の新婚旅行中、家に残してあつた間に()くしたと思つた、彼に取つては大事な古上靴(ふるうはぐつ)であつた。自分はやがて父親になるかも知れないと云ふ単純な考へが彼の内心(うち)に抑へきれぬ喜悦と、(おろか)にも亦高慢な自足心とを起した。彼は耐へ切れないで逢ふ人(ごと)に、下女をも問はず其喜悦を知らせたく思ふ。テスマンはへッダが絶対に自分に反対して居る事を(たしか)に認めるに足る丈けの眼を()つて居ない。

 結婚前、へッダは其父、ガブラー将軍の家でゲルレルト、レエボルグと云ふテスマンの未来の競争者(彼も亦文明史の講座の候補者である)なる一青年学生に会つた。レエボルグはへッダを愛したそして彼女は彼を失望させた。其理由は思ふに彼女が彼に対して冷淡でなかつたからであらう。彼女は彼が()つて居たる偉大な精神力と才能とを知つて居た。此レエボルグと()のお目出度い、物臭(ものぐさ)なテスマンとは実に申分のない好対照である。彼は彼自身たる可き力を有つて居る、彼は書物は愛さないけれども人生の知識を愛する、彼は独創的で大胆でへッダの如く自由と否定には至極の境地にまで突進する。彼は中流社会の公然たる敵で社会からも亦無頼漢のやうに見做(みな)される。

 しかもなほへッダは彼を愛する事が出来ない。レエボルグの性格の或特性がへッダの美に対する生来の争はれぬ本能を(きずつ)ける。

 何等の出口を見出せない才能の力が「ゴースツ」に於けるオスワルドの如く、レエボルグの中にも、同じ種類の不徳と疾病とを発展させるので、それは時として知識の低い人達が彼に対して(いだ)く憎悪の念に正当の理由を与へる。

 彼には少しの平静もなければ、自制もない。彼は憎悪と破滅とを或は容れることも出来やう、併しあらゆるものに対する冷淡と、過度の困憊とが彼を絶望に()つた。彼は酒色に忘却を求める。彼は悪戯をして市のあらゆる有徳な凡俗共を(わざ)と脅かして見て、後では自ら心に()ぢた。此病的敏感の激発が彼からへッダを引離した。是等のことがへッダには不自然とも醜悪とも見えるので、もう此様(こん)な醜いことは死よりも恐れて居る。或は又彼と結婚する気になれなかつたのは彼女の中に犯罪的分子が余りに多く、性質が余りに熱情的であり、其馬鹿々々しさと、滅茶苦茶さ加減がレエボルグと余りに多く似通ひ過ぎて居たからでもあらう、彼女は粗慢な醜悪な、そして不格好な力に対抗するに十分な力を有つて居ることを知らない。だから彼女は自分が愛することの出来た唯一人のレエボルグを棄て、軽蔑はしては居るが、併し自分の自由になる見掛け倒しの価値なきテスマンに生涯を(ゆだ)ねて、彼女の滅亡の原因である此愛の虐殺を犯したのである。斯様(かやう)に其行動は自尊心(プライド)から出て居る。へッダは自分をも(あは)れまない。へッダは人の(いや)しい天性を許す事も出来なければ許さうとも思はない。控目な、併し愛に強い、其の気高い(こゝろ)は、信仰を失つた時、それ(みづか)らを焼き尽して、人生に対する反抗と憎悪とに転じ、其最後の情熱は達し難き美に対する(あだ)なる愛となる。此愛には幸と云ふものが絶えてない。(よこしま)な、疲れ(はて)た、そして望のない情熱――死病のやうなものである。へッダは美を愛した、――しかも地上に於ける其存在の可能を信じて居ない。

 併し総てこれは私共がほんの偶然の論及から知つたのでへッダは彼女自身の内的世界に就ては全く語らない。彼女は人に対する軽蔑の念や、人を嘲笑し、人を損傷せむとする欲求などを自分自身にさへ隠す。

 他人の苦痛が快感を与へる程其心は硬く、そして(ねぢ)けて居たが、最後まで彼女は決して自制力を失はない。取るに足らぬ、むさ苦しいものゝ只中に、或は敗滅の境にあつて他に何物の美も見出されない時でも彼女は独り美しく残つて居る、よし此荒凉な、惨ましい美からは死の冷たさが発散するとも。

 彼女が()つて居る精神的貴族の最高品位即ち純朴と、中庸とは結び付いて全性質に遠ざけ難き魔力を与へて居る。

 滅亡の境からレエボルグを救つた善良なそしておとなしい細君はテーア、エルブステッドで、テーアは此不幸な人に取つては守護の天使で、同時に又同輩でもあり、介抱人でもある。彼女は忍耐と温順と母親のやうな心遣ひとを以つて彼を(いたは)り、放蕩を疾病だと思つて其無法な、無節制に打克つた。今一歩必要である、今一骨折る必要がある、と、そして遂にレエボルグは悉皆(すつかり)救はれたのであらう。彼は書物を出版し、思想界に於て大好評を受ける文明史の講座はテスマンでなくて彼に占められるであらうと云ふやうな風聞さへ伝はる。名声は彼を待つて居る。テスマンに取つては此昔の学校友達で、そして競争者である彼の不意の成功を聞くことはヘッダが云ふ通り落雷だ。

 劇が開ける時、丁度レエボルグは新刊の文明史第二巻で今度又出版しやうとして居る原稿を携へて田舎から出て来た。此書物は彼の書いたものゝ中でも一番好いもので、敵に対する勝利と、偉大な名誉とを彼に(もたら)すものなのである。併しテーアは此病人が健康を全く回復したとは信じてゐない。彼女は心配の余り、彼を監督し、いざと云ふ場合には誘惑から救ひ出そうとひそかに市に出て来た。そして其在所(ありか)を探し廻つたが、偶然にも自分の学校友達のヘッダの家で彼に落合つた。

 さてテーアがレエボルグを感化した事に就てヘッダに語つたところは斯うである。

「あの方は悉皆(すつかり)先の習慣は棄てゝ仕舞ひましたの。それは私が斯うとあの方に強て迫つた(せゐ)ではありません。さう云ふ事は私には決して出来ませんの。只あゝ云ふ慣習を私が嫌ふのに気が付いてあの方が棄たのに相違ありません。」

 ヘッダ(微かな嘲笑を隠して。)「それでは貴女だつたのね、噂の通り。正しい道にあの方を連れ出したのは、ね、テーアさん!」

 気弱なテーアはヘッダより大な力を顕はした。彼の強情の前にも畏縮せず、只単純に温順に其使命を果し、そしてヘッダには出来ない仕方で愛の衝動に身を任せた。ヘッダはレエボルグを妬みもしなければ今は恋しいとさへ思つて居ない。只彼女の心を乱したのはテーアよりも自分が弱いと云ふ考へであつた。自分の滅亡に悶えて居るヘッダは他人の光栄には堪へられない。今が今迄長い間抑へに抑へて居た人生に対する反抗心と人類に対する憎悪の念とは破壊性の抵抗すべからざる本能に身を代へた。どんな障碍物(しやうがいぶつ)もたとへ神聖なものであらうとももう今は止めることが出来ない。彼女は何ものにも憧憬しない、何等の欲求も有たない、彼女は罪悪を私心なく犯し、自分を全然忘れて大苦痛につき、他人の破滅を目撃する事に依つて得られる快感の為に、悪の為の悪をする。彼女の美は云ひやうもなく恐ろしくなり、しかもなほ増して時に恐ろしい破壊的元素の美のやうに見える。へッダは其美と虚偽とによつて自分に近附く者共を皆網にでも入れたやうにくるくると(から)むのである。

 無理押付けではあつたが彼女は柔順なテーアの信用を得る。テーアの自白を巻上げる。テーアの方ではへッダが恐ろしい、どうかされやしないかと心もしどろもどろになつて、キッスされた時は蒼くなる。それでもへッダの美はひた

と面しては恐怖と嘆賞の(かせ)にかゝつてその意志と魔力に抗する力はない。へッダは自分の生贄(いけにへ)に対し切なる温情を有つてゐると云ふことを話した時は全く嘘を云つてゐるのではなかつた。そして彼女を愛撫しながらへッダは其破滅を計画する。 病気の子供でも扱ふやうに彼女を扱ひ、「あんた」と言はしたり、其柔いブロンドの髪毛を撫でたりしながら、とは云へ彼女は相手の耳に罪な言葉、即ちテーアの破滅となり 又レエボルグの破滅となるやうに予定されて居る誘惑的なそして逆意的な忠告を囁く。そこでテーアはへッダの掌中の柔順な武器となつて彼女を尊敬する。彼女の恐怖の大なるに従つて、其服征の度も一層増してゆく。

 思ふ壺にテーアを入れたへッダは今度レエボルグに取りかゝる。彼女はまづ彼に昔を思出させて、今の新しき友達との仲を訊ねる。彼は彼女即へッダに関しては少しも変らないと云ふこと、彼女と、――同じやうに苦しんで居ると云ふこと、彼女を――只彼女をのみ愛すると云ふことを白状する。そこで 、へッダはいよいよ大胆に振舞ふ。

 レエボルグ自身とても正しい道に自分がすつかり立ち返つたものとは信じて居ない。テスマンの友達でへッダの憧憬者の一人の判事ブラックの家で、独身連中の酒や、カルタの会がある。連中はレエボルグを招待して仲間入りさせやうとする。彼は自分を信頼することが出来ないのでそれを断はる。たつた一つの酒杯が、自制力の総てを奪ひ、誘惑に抵抗することが全く出来なくなるに十分だと云ふことを彼は知つて居るので、一度飲み初めると二度は決して止められない。へッダはテーアの眼前で、彼を愚弄し、其自尊心を刺戟し、誘惑的に微笑を湛へてポンチの杯を手渡しする。彼は滓までもとそれを飲み干す。

 テーアは彼を止めやうと力める、そしてこれこそもう明らかに彼女の破滅を證明するものである。忽然として彼は自分の守護者に反抗した。自分の弱さと不如意さを知ることは彼にとつて苦痛だ。彼はテーアに(かま)はず二杯目を飲む。そして三杯目! テーアは彼の為に死ぬばかり苦悶して、へッダに訴へる、へッダは只嘲笑して、さげすむやうな微笑を浮べながら彼女をいたはる。悪魔はレエボルグの中に醒めてへッダの挑みに応へる。酒は利目を現した。もうそれからは自分の激情を恐れない、彼はそれを征服して仕舞つたと信じて居る。或晩彼は来て、自分は変つた、誘惑に打克つたと云ふことを微笑を浮べてテーアとへッダに断言する。そし再び強くなり、悪習慣からも脱した上はもうどんな守護だつて不必要だと云ふ。テーアは彼が失はれたことを信じた。へッダは戯談(じようだん)らしく彼女に斯ういふ。

「貴方は勝手にお疑ひなさるがいゝわ、けれど私は受合つてよ。まあ今にわかるから………」

 テーア「貴方は何か私に隠してゐらつしやるのね、へッダさん。」

 へッダ「えゝ、御察しの通りよ。私、生涯の(うち)一度でいいから人一人の運命を自由にして見たいの。」

 テーア「でも貴方はもうこれ迄になさつたのぢやないの?」

 へッダ「いゝえ、私はそんなことは只の一度だつてしたことは有りませんわ。」

 テーア「でもあの貴方の御主人は?」

 へッダ「主人を自由にすることなんぞ大変ですわ! ああ、貴方には少しも分らないのね、私はほんとに貧乏なのよ! して貴方はあんなにお金持で、(テーアを烈しく抱き緊める。)

 へッダは(かつ)て二人がまだ娘であつた学校時代に見ても癪に障る程の、白い絹のやうなテーアの髪の毛を焼くと云つて嚇しては其怖がるを見て、笑ひ興じた時のことを思ひ出す。そこで今彼女はテーアを抱きながら優しく囁く。

「私、貴女の髪の毛を焼いて居るやうな気がしてよ。」

 テーアはかう叫ぶ。

「離して下さい。離して下さい。私は貴方が恐ろしいの。へッダさん。」

 併しへッダさんは彼女を落付かして食卓の前に座らせてお馬鹿ちやんと呼ぶ。もう自分の虚偽と勝利とを隠すことさへ不必要と考へた程テーアを侮つて居るのだ。

 テーアの予覚は妄想ではなかつた。翌朝、判事ブラックとテスマンは昨夜の出来事を二人に報告する。レエボルグは自分の原稿の抜萃を声高に読んで盛に飲んだ。明け方になつて彼は以前関係のあつたダイアナと云ふ賎婦の(もと)へ行つた。彼は悉皆(すつかり)酔つて居たので其途中ポケットの中の原稿を落して仕舞つた。テスマンはそれを取上げて又落すかも知れないと云ふ心配から彼に返してやることを拒んだ。ダイアナの処へ行くと又恥づ可き舞台が次いで来た。レエボルグは自分の原稿を盗まれたことに就て誰彼の差別もなく其罪をきせて当り散らした。それが仕舞には男女入り乱れての無遠慮な闘争となり、其真只中に警察隊が踏込んだ。レエボルグは警官の耳を擲つて告発されたところだと。

 夫と二人きりになるとへッダはレエボルグの原稿を渡せと云ふ。鳥渡(ちよつと)諍ひはしたが、テスマンは其要求を入れる。へッダは原稿を受取つて錠をかけて仕舞ふ。(やつ)と彼女は望みを遂げて、一人の人間の運命を支配する力を自らに感じた。テーアは之に関する何事も知らない。レエボルグは登場する。彼はテーアに原稿を失くしたと話す勇気がなくて、引裂いて仕舞つたと云ふ。(いづ)れにせよ二人は永久に別れねばならない。気の毒なテーアにとつてはこれはレエボルグが生物を殺したやうなものだ。彼女の真心の総ての委ねたもの即ち彼は二人の子供を虐殺したのだ。「二人の子供」と云ふ此言葉がへッダの魂に深い打撃を与へた。

 レエボルグと二人残つてから彼女はもうテーアと彼に対する軽侮の念を隠してはおかない。「人間の運命をあの手で握るなんて、あのお目出度いお馬鹿ちやんの癖に。」と彼女のことを云ふ。力に(かつ)ゑて居るへッダが彼女を赦すことの出来ないのは此点だ。それでまたテーアの失敗を祝しもするのだ。彼女は何事も承知の上でありながら、又レエボルグに二人の子供を殺さなかつた事、いや殺すよりもまだ悪い――堕落した女達に交つて何処かでそれを失つた事に就て悉皆話させた。

「あら、でも要するにそれは一冊の書物に限らないわ。」とへッダは云ふ。

「でもテーアの純潔な魂が其本の中にはいつて居た。」とレエボルグは叫ぶ。そして再び自分に克つ事は出来さうもないと知つて、彼は自分の生涯に終局を置かうと決心した。へッダは彼に「紀念として」と断つて自分のピストルを贈る。

 併し此様な瞬間でさへ美の思想は彼女を棄てない。彼女の最後の只一つの遺言はこれである。

「ゲルレルト、レエボルグ、ね、聴いて頂戴。何とか、貴方、美しい仕方で仕末をつけることは出来なくて?」

 彼は驚いて其問を繰返す。

「美しい?」

「えゝ、美しい。貴方の生涯の中で只一度のことですもの! ぢやさよなら、さあ被入(いらつしや)い。二度とは決してお帰りなさるな。」

 贈物の礼を彼が云ふと、彼女は又荘重(さうちよう)に繰り返す。

「美しくですよ、ゲルレルト、レエボルグ、誓つてね!」

 彼が出て行くと彼女はテスマンが大事にして置くやうにと彼女に預けた原稿を抽出しから取出して、炉に近い椅子に腰かけた。そして「今、私は貴女の子供を殺して居るのよ、綺麗な髪の毛のテーアさん。貴女の子供――そしてゲルレルト、レエボルグの子供。」と呟きながら、書物を一頁又一頁と火中に投げ込む。それから後の残りを一度に皆投げ込む。

「今私は焼いて居る、貴女の子供を焼いて居る。」

 此怕(おそ)る可き光景は北方の或伝説を暗示して居る。私共は現実の生活から脱して仕舞ふ。ヘッダの像は拡大され、次第々々に巨大な平衡を取つて行く。蒼白い、歪んだ容貌と、烈しい淫楽の表情ある目を持て、恐しい美観の焔を(ひらめ)かすとき、彼女は稚子を殺す女紳メデアか、又スカンデイナウイアの伝説による怪力、不可思議な魔術師の一人と見えたかも知れない。併し此ぞつとするやうな恐ろしい犯罪にも拘はらず――或は(疑はしいけれども。)多分此恐ろしさの為でゞもあらうか――私共の情は解剖し難き美の不可思議な心持によつて彼女の方へと引かれてゆく。

 テスマンが安心して預けたかの原稿のことをへッダに訊ねた時、彼女は落着いて焼いて仕舞ひましたと答へる。かうなつては最早気の毒な夫をも恐れて居ない。併し突然皮肉な心持が彼女を襲つて、全く目的なしに偽らせる。只人をからかふ為に――偽る為の偽、なぜならば偽ることは悪をなすと同様の快感を彼女に与へる。彼女に取つては虚偽は何等の恥辱でもないかのやうに、手軽に、自然に、心配気もなく偽る。彼女は混乱して、真理の尺度を失ひ、最早(もはや)自分で自分が分らなくなつて居るので無意識に偽る。此無意識の虚偽はかの猫属の綺麗な、しかも危険な獣、豹に於て運動の無意識の美が自然であるやうに彼女に於ても自然なのだ。だから彼女は毒悪な、すれつからしの微笑を以て人々を嘲笑ふ。其悪意と機智の閃光は荒れ果てた黒花崗石(こく・くわかうせき)の紀念標の冷たい閃光を思はせる。泣くことを忘れてから久しくなる人は斯うした笑ひ方ばかりする。

 へッダは(おのづか)ら浮んで来る笑を抑へて、夫にレエボルグの原稿を焼いたのは貴方に対する愛の為で、文明史の講座に於ける其危険な競争者から見事に救つて上げやうと思つてゞあると云ふことを話す。鳥渡(ちよつと)云ひ争つたばかりすぐへッダに説き伏せられるほど彼は自足心の強い、狭量な人である、そして自分のこの上もない友達で、一番危険な競争者の破滅を予想しては譏笑的喜悦を包み切れず、忽ち人間の品位を全く失つて仕舞ふ。見よ此人を!万人の尊敬を受け、人生を赤心から歓びもし愛しもして居るテスマンはこの時、人生を否定し、人類を憎む、罪ある虚偽のへッダよりも道徳的情操に関して尚ほ、いやらしい人間だ。夫の破廉恥(はれんち)を肴にして、みづからの歓楽の酒杯を滓までも飲みほしたさにへッダはテーアとレエボルグの創造物――全く二人の子供であるあの原稿を焼いてゐた時、懐姙の苦痛を始めて感じたと云ふことをテスマンに語る。(ここ)に於てテスマンは極度にその本性を現す、この時私共は忽然として今日の俗流道徳に於ける一切の主義や、一切の信仰を超越して此家庭的本能の中に潜在する動物的利己の深渕を考へさせられる。テスマンは父親になりかけの人として、又善良な一家の首長として、他人の子供は一人としてゐない、只自分の子供ばかりが住むやうに定められてゐると云ふことを真に悦んでゐる。部分的道徳の此善良な代表者の喜悦は実に生存競争に於て勝利を得た男性の歓楽である。彼は此大悦楽を抑へきれないで、下女のベルザにさへすつかり

話さないではゐられない。そこでへッダはもう嘲笑ふ力もない位、夫の凡庸な、取るに足らぬ性格に反抗した。夫をどんなに忌はしく思つてゐるかを隠さうともしない、そして直に生来の自若をさへ失つて仕舞ふ。彼女は絶望のあまり両手を(ひし)と握つて、

「あゝ、私は死んで仕舞ふ。私は死んで仕舞ふから!」

 テスマン「え? へッダ。何に? 何んだつて?」

 へッダ(冷かに、気を取直して、)「馬鹿々々しいわ、貴方。」

 テスマン「馬鹿な! 俺があんまり喜んでゐるからだらう。ぢや、なんだ、ベルザに話さないでもよかつたと云ふんだね。」

 

 併し此会話のお仕舞に来てやつとのこと彼は自分の態度がどんなに威厳を欠いてゐたかを朧気ながら気付きかけた。そこで俄に実際になれないまでもせめて男としての外見を取繕はねばならぬと云ふことを思ひ出す。彼は平常の無関心な風に返つて、気の毒な破滅した友達の上を悲しんでゐる。

「いや、いや、神よ! だがあの原稿は、あの原稿は! お前の想像以上さ、実際気の毒なゲルレルドにとつてはもつと恐ろしい打撃なんだ。」

 判事ブラックがテスマンの家にレエボルグが自殺の報知を(もたら)した時、へッダは之れを落付いて聞きとつて、しかも「そんなに早くですか。」と云ふ。そして自殺の詳細をブラックに訊ねる。好奇心は彼女を圧倒する。自分を愛した彼の最後にどんな「美」があつたかききたい。

 ブラック、「あの人は胸を撃つたのです。」

 へッダ、「胸ですか?」

 ブラック、「さうです申上げた通り。」

 へッダ、「ぢや、こめかみではないのですか。」

 ブラック、「いゝや、奥さん、胸です。」

 へッダ、「ああ! 胸でもまあよかつたわ。」

 ブラック、「何です? 何をおつしやるんです?」

 へッダ、(さけるやうに、)「いゝえ、なに、何でもありません。」

 

 扨て、かの屡々悩まされた恐怖を脱し、彼女は救ひと云ふよりも殆ど歓びの嘆息を以て、

「これで、とうと事が出来た!」と叫ぶ。

 彼女と二人きりになつたとき、自分の喜悦を発表するに何等の恥辱をも感じなかつたテスマンはもう驚を隠さうともせずに叫ぶ。

「どうしたんだ、へッダ! そりや何のこつた?」

 へッダ、「美しいことをした人があると云ふのです。」

 それから後、へッダは不断の冷静と、(おさ)(がち)にも似ず、判事と親しげに物語つて、殆ど夢中に叫ぶ。

「ああ、何て言ふ救ひでせう、人はまだ自由な貴いことを此の世の中で行へると云ふことを知るのは。それには何だか思ひがけない美の影が映しますわ。」

 そしてあらゆる非難や、驚かされた頭の動揺や、質問に対する答として、彼女は此美に出逢つた悦楽に恍惚として、これだけのことしか答へない。

「私は只ゲルレルド、レエボルグが男らしかつたことばかり存じてゐます、あの人は御自分の意見に従つて生活したのですもの。あの人はお自分の意志と力とであの若さに人生の(うたげ)を見棄てたのです。こゝに美の影がさすのです。」

 判事ブラックとへッダと二人になつた時、彼はテーアに対する憐憫からレエボルグの自殺に関して全部事実をあかすことが出来なかつたのだと云ふことを話す。彼の死はへッダの思つたやうに美しくはない、其自殺した所も彼自身の室ではなくて、歌女(うたひめ)のダイアナの私室であつた。死ぬ前、彼は歌女を盗賊よばはりして盗んだ子供を出せと迫つた。そして弾丸は彼の胸でなく胃を貫いた。するとへッダは嘔気を催すやうな嫌悪を以て声高に叫ぶ。

「ああ、どうしませう。それぢやあの人も駄目だつたわ! 何故私の出遇ふものは呪はれでもしたやうに皆んな、皆んな、馬鹿々々しく、そして野鄙にばかりならなくちやならないのでせう。」

 これこそ彼女が最後の絶望の叫びだ。へッダは美を信ずることを絶つと同時に生きることも絶たねばならない。

 判事ブラックは彼女が此の事件の連累者であると言ふこと、ともかくも自分の思ひ次第で彼女を連累者にすることが出来ると言ふことを話す。警察官はレエボルグが自殺に使用した拳銃を見出した。そしてブラックはへッダのものだと云ふことを知つてゐる。彼は裁判上の尋問に可能なること、「何故拳銃をレエボルグに与へたか」と云ふ問ひに対する返答の必要なることを彼女に説ききかせる。それから此老判事はマキャベリ式の術策をもつて拳銃の持主を知つてゐるのは自分一人で、それを警察に知らせやうと、秘密に保たうと自分の一存できまるのだと説いてへッダを(なだ)める。そこで彼女は自分で自分の係蹄(わな)に陥つたことに気付く。判事は長い間、堪へ忍んで秘してゐた自分の愛に好き返事をしてくれるならば沈黙を守ると云ふことを彼女に囁く。かくてへッダ、ガブラーは自分の罪の判決に対する恐怖と不面目に対する恐怖を遁れる為に、此狡猾な好色な老人につかまつてしまつた。

 へッダ(彼を見詰めて)「それで私は貴方の自由になるものですね、してこれから私を罸しやうと、愛しやうと貴方の思ひ通りに出来るのね。」

 ブラック(殆ど聞きとれぬ位に囁いて、)「可愛いへッダさん、吃度(きつと)です、私は決して自分の地位を乱用しやうとは思はんから。」

 へッダ「それでも、私は失張り貴方の自由になるものね、貴方の思通りになつて、もう自由でも何でもない、――私――自由ぢやない!(彼女は荒々しく起つて)――いや、私はこんなことは我慢が出来ない、私は我慢が出来ない、死んだつて。」

 それから彼女はなやましげに、しかもテーアと一緒に黒くなつた書類の中からレエボルグの原稿を寄せ集めにかゝつてゐる夫を一寸冷笑して、扉口帷(=ドアカーテン)でしきられてゐる次ぎの室にゆく。やがてこれからピアノの荒々しい舞踏曲が聞える。人々は皆思はずぞつとする。テスマンは親類の一人が死んだので、家は喪中だと云ふことを注意する。そしてレエボルグのことも思ひ出してくれと頼む。

 へッダ(扉口帷の間から(かほ)を突出して)「ああ、それから、ジユリア伯母さんのこともね、さあ、勿論ジユリア伯母さんのことも思出さくては、それから其外の皆のことも。さあ、一寸御待ち下さい。もう二度と貴女がたの御邪魔はしませんから。」

 (そして扉口帷を垂れる。)

 室内ではさまで重要でもない話が続く。テスマンはいつもの馬鹿を拡げてゐる。自分は毎晩テーアの手伝をしてレエボルグの書物を纏めやうと思ふから、来て、へッダの相手をしてやつて呉れと判事ブラックに頼む。この提議をブラックは快諾する。扉口帷の陰から、へッダははつきりした調子で戯談交りにそれに答へる。そして不意にやむ。と拳銃の爆発する音が聞える。皆吃驚して跳ね上る。人々は扉口帷を押し明けて、褥椅(ベッド)の上に横はるへッダの屍を発見する。彼女はこめかみを撃つて自殺した。判事ブラックは殆ど失神して椅子に身を沈めて、只もう喘ぎながらかう云つたばかり、「主よ我等を護り且憐れみ給へ! こんなことになるとは、どうしてまあ。」

 へッダ、ガブラーは煩悶の瞬間に於ても生きてゐたやうに冷酷に、静平に、人をさげすみ己れを(にく)みながら自殺した。へッダは自分に勇気がない、だから死ぬと言ふ、彼女は「臆病者」とすら自分を呼ぶ。併しこの言葉は全く不適当である。彼女には意志もあり、力もあつた。只此意志に何の支柱もない為め何事も決して為し遂げられず。極めて些細な障碍にも打克つことが出来ない。出口を見附けないため力がはね返り、それみづからを破壊する。へッダの魂は信仰なしに生きることの出来ないものである。しかも其信仰は失はれた。()しへッダが其の名に依つて生死することの出来る神を見出すならば、女丈夫ともなり、或は殉教者ともなつたであらう。彼女は信仰上の要求を全然棄て去ることが出来ない、彼女は信仰なき空虚の苦痛に堪へることが出来ない。彼女は其時代の俗流の見解に自分を一致させることも出来ない。女は其信仰と信仰の要求に於て確に男子よりも執拗なものである、若し斯う云ふ性格であつて其内的勢力が動作に導かれなかつたならば、其時それは犯罪に導かれるのは止むを得ない。へッダは絶対否定の理論家達がまだ透入したことのない虚無主義の或点まで、総ての人間と総ての存在に対する憎悪、そして最後には静かな意識的な自滅にまで達してゐる。

 へッダは私共の前に其望みなき美を以て生きてゐた時のやうに矢張り欲情もなく、冷酷に死んでゐる。私共は彼女の残忍に対して、其道徳的虚無主義に対して、彼女を(さば)かうと云ふ心持は全くない。只私共は今の如き生活を此上継続することの不可能なるを思ふのだ。私共はかの最後の日光が空に消えて、星の一つも輝き出ない時、古き神々が死んでしかも新しい神々がまだ生れない時に現はれる、朧気な薄明の中に生死すべく運命附けられた、それらの人間の悲劇を思ふ。

――完――

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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平塚 らいてう

ヒラツカ ライテウ
ひらつか らいちょう 評論家・思想家 1886・2・10~1971・5・24 東京に生まれる。女性達の手になった日本初の文藝誌「青鞜」を主宰。

掲載作は1911(明治44)年9月、その創刊号にかかげた翻訳評論。イプセン劇の中でも最も烈しい女のヘッダ・ガブラー論に着目した、らいてう平塚明子の問題意識が興味をそそる。この時この筆者は26歳であった。

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