最初へ

林檎

 十二月一日――小樽。

 此の前の手紙にも林檎の話を書いたね。海峡を渡つて、函館から小樽に来る汽車の窓から、新鮮な雪を着た林檎の林を見た――その雪と林檎の配合が、どんなに美しかつたか、てなことを長々とね。

 今日もその林檎の話だ。

 昨日の午後のことだつた。その北海道のすばらしい林檎の一つを、港の石に腰をおろして、がりがりやつていたと思い給え。

 降り続いた雪が珍しく晴れた日曜日、空には白い光が満ちて、街が透明な硝子のように美しい。油煙(ゆえん)で紫色になつた家々の軒から、解けた雪の(かけ)らが輝き落ちて、それが光の中でぴちぴちとはねかえる。アカシヤの梢に近く、(そり)の鈴の音がからんからんと響こうと言う風景。北海道に来てまだ二週間にならぬ内地人の僕には、こうした景色は珍しい。桟橋で、約束した組合の仲間を待ち合せながら、可成いい気持になつて、道で買つて来た林檎――堅い果肉の、一つで百匁もある重味の、舌を刺す鮮烈な味の素晴しい奴をがりがりやつていたと思い給え。

 ところへ、だしぬけに後から、

「よう」

 と、肩をたたいた奴がある。ふりむくと、活動写真のカウボーイみたいな、鬚の青いいい男が、外套のポケットに両手を突込んで陽気に胸をそらしている。

「よう」

 僕も陽気に笑いを返す――と言つてもわかるまいが、実はこんな話があつたのだ。

 

 二三目前のことだつた。

 港の酒場(バア)の一つの真赤に燃えるストーヴで、僕は仲間の一人と、ビール酔いを暖めていた。隣のテーブルに男が一人。此奴はまた、ビールのコップをずらりとテーブルの上に、陽気な霜柱のように列べた中に首をつつこんで、他愛もなくぐうぐうと高いびきだつた。

 十二時近い柱時計。――窓の外は、もちろん雪。

 ところへ、パンと(ドア)()いて、酔つぱらいがも一人。はいつて来たのはよかつたが、其奴(そいつ)、だらしなくよろよろと隣のテーブルにぶつつかつた。がちやりとかち合うコップの霜柱。その中の一本が、ころころ転んで、御丁寧に土間の上でぴんと割れた。

 その音に、寝ていた男が眼を醒して、途徹(とてつ)もない大きな声で怒鳴り始めた――だけなら、何の不思議もないが、その言葉が日本語でない。「こん畜生、気をつけやがれ!」てなことを怒鳴つているのだろうとは、語勢の激しさで大体推察がつくものの、言葉そのものは皆目わからない。ぶつつかつた方の男も、どうしようもならず、眼をぱちくりさせながら、謝まるつもりか、ぺこぺこ頭をさげるばかり、すると、暫く怒鳴つたあとで、その男、ぴたりと声をとめてきよろきよろとあたりを見まわすと、やつと眼がさめたと言う顔をして、

()あんだ、日本か!」

 これはまぎれもない日本語だつた。

 あとで聞いて見ると、此の男、商売が船乗りで、去年の暮からまる一年あまり、沿海州をうろついていて、一二週間前に内地へかえつて来たばかり。それが、散々酔つぱらつて寝ているところを突然たたき起されたので、すつかり戸まどいして、使いなれた沿海州の土語(どご)まじりのロシア語で、怒鳴りつけたのだつたと言う。笑つたね。アッハッハ、ワッハッハ。御自身も噴きだすし、ぶつつかつた方の男も腹をかかえた。――

 

 その晩のその男が、林檎を食つている僕の肩をとんとたたいたのだから、僕だつてだまつてはいられまい。

「よう、今日は。どうです一つ」

 と、右のポケットから残つた林檎を一つ、好意のしるしにさし出した。

「ああ」

 彼は太い眉をちよつと動かしたが、食べるとも食べないとも言わない。

「どうです」

 と、掌の上でごひごひさせながら鼻の先きにつきつけるようにすると、やつと受けとりはしたものの、不思議に感慨無量な顔をすると、そのまま僕の隣りに坐りこんで、じつと林檎を視つめたまま黙りこんだ。まさか林檎の皮に死んだ色女(いろおんな)の顔が描いてあるわけでもあるまいし、とのぞきこむ僕の視線をぷいとそらして、沖を見る。この前の夜のロシア語と言い、今日の林檎と言い奇妙な奴だなあ、と思いながら、そらした瞳の視線を追うと、港に碇泊(ていはく)している汽船の一隻の上に、ぴたりとそれがとまつていた。

「話そうかね!」

「え?」

 僕の不審顔に気がついたのか、男はくるりとふりむいてだしぬけに話そうかね、と言つた。そしてまたもとの陽気な笑顔にかえつて、手の中の林檎をぽいと港の空気の中にほうりあげると、上手にそれをうけとつた。

「林檎の話さ。林檎で鮭を釣る話さ。話そうかね?」

「聞こう」

 こうあつさり気持よく来られては、僕だつてあつさりと行かざるを得ない。

「聞こう」

 と、そう答えて(しん)ばかりになつた林檎を、水の上にぽんとほうり出したのだつた。

 

 次に書くのがその男の話の荒筋だ。

 退屈かい? でもなかろう。少々長くなるがまあ聞けよ。

 

 ――冬は、北海道の市民に、蝦夷松(えぞまつ)の梢の綿帽子と、音をたててはねるストーヴの火と、雪折れの音を聞きながらする宵の物語を持つて来る。その同じ冬が、北海道の労働者には、吹雪と饑餓と、働こうとしても仕事のない数ヵ月をもつて来る。冬が深くなるにつれて、函館、小樽、室蘭(むろらん)――あらゆる港の街々に、失業者の絶望的な(いち)が立つ。こうした季節を狙つて沿海州行きの漁業が計画される。

「そら、あすこにいるような奴でね」

 男が言葉を切つて指さす方に()をやると、白い線条を船腹に浮かせた小蒸気、青い起重機をつき出した貨物船、(ひるがえ)る旗。そうした切紙細工の風景の中に、黄色いマストのスクーナー――補助機関を持つてるらしい千二百(トン)ばかりの奴が一つ、ぽかりと浮いて見える。きつきから、彼が睨んでいた船だ。

 ――毎年、その失業季節を狙つて、そうしたスクーナーや貨物船を速成の漁業船に仕立てて沿海州行きの漁業人足が募集される。食費は向う持ち、取れた鮭は船主一、人夫二の割合で分配する。だから、一人あたり少くとも三十本は貰える。何しろ人間の背の高さもある鮭だから捨売りにしても、一匹二円五十銭、まる七十五円は残るわけだ。吹雪の中で仕事もなく、凍えて死ぬよりどの位いいかも知れない。と、誰でも思う。三四十人の人夫がたちどころに集る。

 今から五六年も前のことだつた。そのころ内地からこの小樽に流れて来たばかりの若い渡り労働者であつた彼も、喜んで、その鮭取り人夫の一人になつたものだつた、と言う。

 兎に角これで、仕事にはありつけた。外景気だけはいい出帆。

 だが何しろ、冬の最中(さなか)の北の海だ。寒流にはもまれる。ローリングはひどい。船底で黄色い水をはきながら、まだ生きていたのかと、自分に問うような二三日をすごしもした。それでも無事に予定通り漁場につく。鮭の漁猟が始まる。大きな網で、人間の背の高さもある奴を、がらがらと引きあげる。白光の漂う北海の夜を、寝る間もなく働き通す。一週間ばかりで船艙が一杯になる。

「それまではよかつた。が、話はこれからだ」

 と、彼はもう一度、ぱんぱん林檎をたたいて見せる。

 ――約束通り、一人あて三十五本の鮭も貰つた。いよいよ帰航、と言うところで奇妙な事が起り始めた。船の中の人間が段々黄色くなるのだ。五体の力がげつそり抜けて、日がたつにつれて四肢が漬かりそこねた沢庵(たくあん)のように、気味悪くふくれあがつて来る。長い海上生活の野菜欠乏が壊血病となつて船を襲い始めたのだ。漂流した船乗りがよくとりつかれる(ひる)のような悪疫!

 野菜はもう切れてしまつた、積めるだけ積んで来たのだが、と船長は言う。今更、沿海州の港に引きかえすことも出来ぬ。またひき返してみたところで、雪に包まれた野原と街だ。おいそれと青い野菜が手に入ろう筈もない。

「困つたね、その時は。どうなることかと思つたよ。眼に見えない蛭に、身体中の血を吸いとられて行くのを、みすみすそのままにしておかねばならぬ時の気持を想像して見るがいい」

 男は、回想的な顔をして、腕の皮膚をぐいつとつまみあげて見せたが、

「ところがその時」

 と、すぐ言葉を続けて、右手の林檎をぐいつとつき出した。

「此奴だ!」

 ――と言うわけは、船底に壊血病が襲い始めたその時、船長が、甲板のどこからか、林檎の樽を持ち出して来たのだつた。林檎と鮭とをとり換えろと言うのだ。陸で買えば、せいぜい十銭位の林檎一つと、人間の背の高さもある、投げ売りにしても二円五十銭にはなる鮭とをとり換えろと言うのだ!

「口惜しかつたろ。――せめて林檎一つに鮭一匹なら、まあ我慢も出来ようものを、一つに三匹だ! しかもその鮭の一つ一つは、一ヵ月にあまる難行苦行の賜物(たまもの)ではなかつたか。口惜しい。だが食わなきや壊血病だ。命がない。みすみす船主のからくりだと知りながら、身を切られるような思いで、船底の人夫三十八人、皆鮭をやつて林檎を貰つた。でも、林檎を、皮から(しん)まで、かす一つ残さず食う時は、命の泉のようなうまさだつた」

 男は手の(ひら)の林檎をもう一度ころころさせる。

「そうしたわけで、小樽へ帰りついた時はもとの杢阿弥(もくあみ)のすつからかんさ。だが、林檎のおかげで、生命だけは助かつた、と言う話さね」

 こう言いきると、彼はその林檎を、両手の指でパンと上手に二つに割つて、がくりと(かじ)りついたのだつた。

 

 どうだい、面白かつたかい? ――今度は僕が君に問おう。

 え? つまらない? よくある手だ。船主、工場主、商人、株屋、銀行家 ――その他資本家一般の常套手段だと言うのかい?

 よしよし。まあ、次の話を聞け。

「林檎で鮭を釣る。何んて面白い商売じやないか」

 それから男は、そう言葉を続けると、林檎の皮をべつと海の上にはき出して、じろりと沖の方を睨んだのだ。視線を追うと、さつきの黄色いスクーナーの上に、じつと瞳が止まつている。

 ――おや?

「どうしたい、君?」

「解らんか? 彼奴(あいつ)だよ」

「え?」

「彼奴がさ」男は手をあげてスクーナーを(ゆびさ)した。「彼奴がまた、沿海州行きの鮭取り人夫を募集してやがるのさ」

「ほう」僕は思わず眼を見はつた。「それで?」

「もう一度乗りこんで林檎を食わせて貰おうと思つているんだ」

「そうしてまた、すつからかんになろうと言うのかね」

「違う。五年前の俺じやあるまいし。赤児(あかご)でも三年たてば三つになる。俺だつて近頃は少しは眼も見えるようになつたさ。何しろ対手(あいて)は船長と運転手と監督、合せたところで高が五六人。こつちは、(すくな)くとも三十人の荒くれ男。野菜がなくなつたと(ぬか)しあがつたら、三十人が力を合せて、林檎をふんだくつてしまう。そうすりや、働いただけの鮭はそつくりこつちのものだし壊血病の心配もない。こんな簡単な算術を知らなかつた昔の俺が不思議な位さ。どうだ!」

「うまい!」僕は思わず手をたたいた。「その手だ!」

「ふん」ところが男は、ちよつと不機嫌そうな顔をすると、僕の顔をじろりと見た。「おい、隠すねえ。隠さなけりやならぬような奴だつたら、こんな話はしない筈だぜ」

「え!?」

手前(てめえ)達も、その手をやつているのではねえか!」

 と、彼は突然右手をのばし、僕の外套の襟をぐいとめくつて、上衣の胸の日本労働組合評議会の会員章を、とんと突いた。同時に左手で自分の外套の襟をめくると、めくつた裏をつき出すように胸をそらせて見せるのだつた。僕は見た。日本水火夫組合の赤い徽章をこの痛快な同志の胸に見た。

「ワッハッハ、驚いたか?」

「むう、驚かねえ、ワッハッハ」

 大笑いに笑いながら、僕はだまつて彼の方へ、右の手を差し出したのだつた。

 話はこれだけ。最後に一つ快報を送ろう。予定通り、仲間の奮闘によつて、小樽にもいよいよ合同労働組合が出来ることになつた。沖仲仕も三百人ばかり組織された。冬期の失業季節がもう眼の前だ。快戦一番、沖仲仕千二百をオール(全組織)にしたいものだ。

 ついでに林檎を送るといいのだが、が惜しいことには鮭取り船の船長に、林檎の保存法を聞いておくのを忘れた。

                            草々頓首

 

  此の一篇を、日本労働組合評議合「小樽労働組合」の同志に贈る。  丸木小屋のいろりに、吹雪の音を聞きつつ。  組合の再組織を論ぜし夜の記念のために。 

(大正十五年二月「文藝戦線」)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/07/06

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

林 房雄

ハヤシ フサオ
はやし ふさお 作家 1903~1975 大分県に生まれる。これほど目立つ「転向」を繰り返した作家は珍しい。共産主義運動のなかで創作者となり入獄を重ねて1935(昭和7)年に転向し、第一声「作家として」を「新潮」9月号に初出。ところが以後右寄り再度の大転向があり、戦後は公職追放され、「大東亜戦争肯定論」で論議を呼ぶなど異数の道を歩んだ。

掲載作は、1926(大正15)年2月「文藝戦線」に初出、当時上り坂のプロレタリア文学を意気盛んに簡明に謳歌している。

著者のその他の作品