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太平洋戦争 総力戦と国民生活

  総力戦の特徴

 真珠湾奇襲で告げられた開戦のニュースと緒戦の勝利は、庶民の抱く不安や気持のしこりを一気に吹きとばし、欝積していたエネルギーを「米英何するものぞ」の気魄にかえていった。「われにもあらぬ激情」(渡辺銕蔵)を抱いた人もいた。詩人高村光太郎は、

 

  詔勅をきいて身ぶるいした。……

  天皇あやうし。

  ただこの一語が

  私の一切を決定した。……

  身をすてるほか今はない。

  陛下をまもろう。  (『暗愚小伝』)

 

と思いつめ、「わが向かうところ決然として定まる」と記し、東北の漆職人森伊佐雄は「後にひけない」「心からこの戦争に協力しなければならない」(『昭和に生きる』)と日記に書き記した。

 このように、階層の如何(いかん)をとわず、大多数の国民は戦争への心情的協力を爆発させた。

 近代総力戦にとって、この国民的心情の噴出は不可欠であった。政府がこれまで「高度国防国家」「近代国防国家」の名のもとに、国防の一点にすべての視点を限定し、国民生活の全部門にわたる一元的統制を行なおうと、国力を総動員する準備をすすめてきたのも、この戦争が近代総力戦の性格をもつからであった。

 したがって、本来、この戦争には前線と銃後の差はなく、国民の政治・経済・思想はもちろん、地域社会、私生活に至るまで、戦争中心にくみかえることが要請されていた。それほどの全面戦争であったから、「滅私奉公」がとくに強調され、これに必要な民心の協力は、国民的心情に訴えて調達されてきたのである。開戦によって新たな心情噴出が確認され、「欲しがりません勝つまでは」のようなこれまでのやり方がさらに押し進められた。

 こうして、つぎの二つの特徴が示された。

 一つは、戦局の推移につれて、いっそう全面戦争の様相が深まることであり、二つは、心情や感情への訴えは、強まればそれだけ非合理的になっていく宿命にあったことである。とくに、勝利の確固たる見通しもなく、総力戦に不可欠な一元的綜合指導の確立もない日本においては、国民の協力吸収は、非合理的な訴え——強制の強化にたよりがちとなり、総力戦の要請する合理性や自発性を失い、私生活を犠牲にした限度いっぱいのエネルギーの供出を国民に要求しつづける結果となった。

 かくて、「決戦!」の連発や、「鬼畜米英」から「鬼畜べいえい(ケモノ扁の、米英)への変化、さらに、戦況の一方的伝達や情緒的国民歌謡の流布、「必勝の信念」の氾濫など、非合理的ムード化が国民生活の破綻と表裏して進行するのである。

 

  開戦の見通し

 開戦決定にあたって、どのような見通しが立てられていたのかを、改めてふりかえることからはじめよう。

 企画院総裁・陸軍中将鈴木貞一は、昭和十六年(1941)十一月五日の(宣戦直前の)御前会議の席上、軍事上・産業上もっとも必要な石油が(経済制裁により)輸入停止となった以上、現保有量に国産原油と人造石油を加えても、三年後の(昭和)十九年には供給不能の状態になり、その結果軍事行動ができなくなるから、米英の圧力に屈して、やがて、中国はもちろん満州・朝鮮も失うようになるだろうと説明した。すでに企画院は「現状を以て推移せんか帝国は遠からず痩衰(そうすい)起つ(あた)わざるべし。……武力戦の指導に当りては……至短期間内に作戦成果を生産的活用に転換し得る如く、統帥(とうすい)上万全の計画を進められ()し」(十六年七月二十九日「戦争遂行に関する物資物員上よりの要望」)と、政府および統帥部に要望していた。つまり、南方資源地帯を占領して、石油などを入手するのでなければ、物資の補給が不可能だという見通しである。

 この、資源掠奪によってしか戦争遂行が保証されないという事実は、きわめて不安定な条件であり、開戦を不可とする考えの根拠にもなっていた。

 だが、事態の切迫につれて、鈴木総裁なども、たとえあやふやであっても、資源確保の戦いによって活路を開き、「将来の光明」を見いだそうという考えに変わっていった。

 この背景には、強く開戦を主張した陸軍の強硬論があった。この陸軍が立てていた作戦的な見通しはつぎのようなものであった。

 杉山参謀総長は十六年十一月五日、マレー、フィリピン、蘭印、ビルマの連合国正規軍は兵力二二万余、航空機六一〇機であり、わが陸軍はこの方面に一一個師団二一万と約七百機、海軍は連合艦隊と約千七百機をそれぞれ動員できる、したがって、陸上兵力でほぼ同等、航空兵力で四倍であるうえ、土人兵の多い連合国兵に比べ、装備・素質にすぐれているわが陸海軍が、集中的に先制攻撃することができると、自信にあふれた説明をしている。

 一方、海軍は、「開戦二年間は必勝の確信」をもっているが、三年目以降は見通しが立たないとの考えを抱き、それだけに、山本五十六連合艦隊司令長官の航空機によるハワイ奇襲構想を強行せざるをえない状況だった。しかも、陸海軍とも、戦争の長期見通しとしては、

 一、南方拠点と資源確保による自給で戦争を継続するうちに

 一、インド洋を制圧して、英国を資源不足にすれば、やがてドイツが英本土へ上陸するだろうから、英国は脱落し米国も戦意を喪失するようになるだろう

 一、そこで、中立国を通じて、有利な戦争終結を工作しよう

といったていどの希望的観測しかもっていなかった。

 にもかかわらず、このような主観的な見込みが開戦の決定にあたって、よりどころとされたのである。複雑な諸要素を個別に検討したうえで総合的に判断することが要求される近代総力戦において、もっとも大事な「決断」がこのていどの見込みで決められたところに、戦争遂行にともなう非合理性の根源がひそんでいた。

 当時においても、米国だけの国力でも日本の数倍と予測されており、戦後出版された国民経済研究会の「基本国力動態総覧」では、石油・石炭・鉄鉱石・銑鉄・アルミニウムその他の重要物資についての日米経済力の単純平均値比較は、十六年現在七八対一で、歴然たる国力差が示されているが、開戦の決断は、無謀にもこの事実の重みを無視して行われたのである。

 もちろん、当時でも、懸絶する国力差を冷静にみていた人はいた。たとえば、東条(英機)との宿命的対立から、予備役に編入された石原莞爾(かんじ)中将は、「この戦争は負けますな。自分の財布に千円しかないのに、一万円の買物をしようとする日本と、百万円をもって一万円の買物をするアメリカとの競争でしょう? 百円、二百円と買っているうちはわからないが、しばらくするとたちまちだめです」と、親しい友人に語っていた。かれは京都帝国大学や立命館大学で反東条講演を行ない、緒戦の勝利にも「負けますな。勝つめどがあってやっているのではないから、だめです」と、同じ友人に語っていたという。

 

  船の不足

 緒戦の勝利にかくされた甘い見通しの破綻は、意外に早くやってきた。船の不足がそれである。

 もともと日本は、航空機生産に欠かせない原料であるボーキサイトや、工業用原料として重要なゴムをまったく国内自給できないし、近代兵器の燃料としての石油や鉄鉱石を、ほとんど輸入にたよっていた。米英との開戦によって、中国や南方からのこれらの資源輸送をすべて自力で行なわねばならなくなり、船舶問題が軍需生産拡大のカギとなった。

 十七年三月、大本営は「船舶輸送力が、物的国力の維持増強上絶対隘路(あいろ)」になると、船舶増強対策を立てたが、新造船が喪失量に追いつかないため、民間船舶の軍需輸送用への徴備が軍部によって進められ、その結果、民需輸送力はさらに圧迫されるという、事態は悪化の一途をたどった。このため、船の奪い合いが、軍当局と「物動」担当者、統帥部(参謀本部・軍令部)と軍政部(陸軍省・海軍省)、陸軍と海軍のあいだで行なわれた。そして十八年(1943)一月には、開戦にさいし、企画院が最低必要量三百万トンといった民需物資用輸送船舶が、二六〇万トンになって、戦争経済の破綻を露呈するに至った。安藤良雄東大教授が、旧海軍資料から作成した保有船舶の推移からも、十八年以降の激減ぶりは明らかである。そして制海・制空権を失っていく戦況のもとで行なわれた物動貨物輸送量の推移をみると、船舶喪失につれて計画が低下し、実績がそれをさらに下まわっていた。

 こうして、軍需生産のカギであった船舶は、終戦までに、二五〇三隻、八二九万トンが失われた(元日本損保協会海上査定部長妹尾(せのお)正彦「日本商船隊の壊滅」)。

 

  航空機の生産

 近代戦の主役となった航空機の生産が超重点的に強化されたのはいうまでもない。だがここには、日米間の較差が最もよくあらわれていた。そして、中島飛行機・三菱重工業を中心とする民間企業が航空機生産のほとんどを占めていたので、陸海軍は対立しながら、それぞれ企業との非合理な関係を深めていった。

 陸海軍は、資材割当てをめぐって対立した。十八年十一月、軍需生産の一元的計画・統制をめざして商工省と企画院を統合した軍需省が設置され、航空機工業の一元的行政を担当する航空兵器総局が設けられたのちでも、総動員局の行なう資材割当ては、まず陸海軍に分けられたのち、航空兵器総局を通じで各企業に配分されるありさまだった。アメリカ戦略爆撃調査団の調査報告『日本戦争経済の崩壊』によれば、作戦と軍工廠をそれぞれ握っていた陸海軍のため、軍需省による軍需生産の計画・管理の一元化は行なわれず、いたずらに統制事務を複雑にする効果しかなく、資材割当ての最終決定は多くのばあい、「いちばん大きな声を出したものが勝つというつかみ合い」であった。

 陸海軍は、それぞれすこしでも多く資材割当てをとり、それを思い思いに庇護する会社に流して、所属航空機の増産をはかったのであるが、企業側からみると、生産能力以上の資材の配給がくるばあいもあり、そのときには資材をヤミに流して、ほかの生産必要物資を求めたという。

 ともかく、軍需産業の花形だけに、航空機企業は統制経済のもとで極度の手厚い保護をうけて、拡張につぐ拡張をつづけた。だが、それだけに、企業管理の実状は非能率だった。十八年夏、行政査察使として航空機生産の実情調査を行なった財界人の藤原銀次郎は、陸海軍のむだな対立と競争をやめ、資材を能率的に利用するならば、年生産高を一挙に五倍以上の五万三千機にふやせる、と指摘したが、この航空機産業の欠陥は、その後も是正されなかった。

 

  軍需産業の優遇

 ところで、資源不足の進む中で、大衆消費生活の圧迫と非軍事生産の縮小をともなって、直接戦力となる軍需品生産が強行されたが、この軍需品の増産は観念的な掛け声だけでは進まなかった。増産を強制された大企業は逆に政府にたいする発言権を強め、手厚い優遇をうけるようになった。

 まず、十七年春、戦費と軍需産業資金の確保をめざして、政府公債の消化と金融統制のため、日本銀行を中心とする全金融機関を統轄する金融統制会(会長結城豊太郎日銀総裁)が設けられた。この下に業態別統制会が参加し、全金融機関資金が日銀のもとに統一的に運用される体制がつくられ、十六年四月に発足していた戦時金融金庫が、市中銀行の軍需融資の危険負担を行なって、軍需産業資金の供給を援助する役割を果たした。

 一方、重要産業団体令(十六年八月)によって、鉄・石炭・セメントなどの主要産業部門ごとの統制会が、各部門の中心的企業の代表者を会長としてつぎつぎと発足し、各部門ごとの原料割当てや生産規制などの統制を通じて、大企業中心に生産と資金の集中を行なうようになった。十七年二月設立の重要物資管理営団は、主要原料と資材の一元的統制を通じて軍需中心の生産統制を促進し、産業設備営団(十六年十二月設立)は、軍需生産への計画的ふりかえをうながすための側面援助を行なった。

 しかし、このような金融と生産の統制だけではしだいに間に合わなくなり、十七年十一月、中央に臨時生産増強委員会が設置されたのちは、行政機構の再編成がはかられ、大企業の代表者が直接行政機構を通じて、発言―命令を下すようになった。地方各省連絡協議会の設置と戦時行政特例法(十八年三月)によって、行政官庁が中央・地方を通じて、鉄・石炭・軽金属・船舶・航空機の五大重点産業に直接、命令を下す体制がとられるようになった。そして、豊田貞次郎(鉄鉱統制会会長)・大河内正敏(産業機械統制会会長)・藤原銀次郎(産業設備営団総裁)・結城豊太郎(日銀総裁)・郷古潔(三菱重工業社長)・鈴木忠治(昭和電工社長・軽金属統制会会長)などの財界人が、とくに内閣顧問となって、この強化された行政機構を通じて行なわれる命令に財界の要請を直接反映させるに至った。これは戦時産業の増産をうながすためには、財界・産業界の要請を無視できなかったことのあらわれである。開戦に消極的だったといわれる財界人たちも、こうして戦時経済に積極的役割を果たすことになった。

 こののち、軍需省の新設とともに、軍需会社法によって、重要産業六一七社が、政府任命の生産責任者の命令をうけるかわりに、資材・資金・労力割当ての優遇と補助金や損失補償などの恩典をうけるようになった。とくに、これらの軍需会社は、十九年一月から実施された軍需会社指定金融制度によって有利な融資をうけるとともに、軍需品発注と同時に代金半額ていどの前渡しをうける軍需発注前渡金制度によって、資金的にうるおっていた。生産能力をこえる発注をうけても、それだけの前渡金が渡されたし、各種補助金や助成金をうけて、軍需会社はまさに至れりつくせりの特典を享受したのである。

 こうして、巨大な国家資金の流れは、三井・三菱・住友・安田などの財閥資本の金融業界における比重を高めるとともに、これまで不十分だった重化学工業の生産企業にたいする、財閥資本による系列化や支配力の強化のうえで、大きな役割を果たした。こうして、大企業は戦時統制を通して、利潤率や利益金を一段と高めた。

 一方、このような優遇策による軍需産業の拡大とは対照的に、民間消費や非軍需産業は減少の一途をたどった。

 民需の中小企業や軽工業は、廃業と転換を強行され、軍需産業を支えた下請企業も、生産技術の向上要求をともなった系列化や整理統合を強いられた。この結果、民需産業や劣悪な技術水準を克服できない軍需の中小企業は、廃業から徴傭(ちょうよう)工へと転落し、生き残った膨大な中小企業群に支えられた全産業構成は、一段と重化学工業中心に変えられていった。

 

  根こそぎ動員

 総力戦としての太平洋戦争は、全国民を根こそぎ動員していった。

 まず、男子は軍隊へ動員された。十六年の開戦時に二四〇万とふくれ上がった軍隊は、十九年二月末には、三九八万人になっていた。この数字は、男子総人口の一〇パーセント、男子労働人口の一七パーセントに相当した。その後さらに、徴兵年齢が十九歳に引き下げられるとともに、兵役義務年限も四十五歳に延長され、十九年十月には、徴兵年齢が再度引き下げられて十八歳となったため、軍事動員数は十九年末五三六万人、二十年八月七一九万人に及んでいった。これだけの大量な人力を非生産的な軍事力に投入したのであるから、生産労働力の確保と補充が深刻な問題となったのはいうまでもない。もともと徴兵は、「赤紙」と呼ばれた令状を兵籍原簿から画一的に発行する方法で行なわれたので、研究者・技術者・熟練工をも一兵卒として引き抜くため、皮肉なことに、拡大される重点産業部門ほど熟練工に不足するような事態さえおきていた。

 そこで、女子と少年労働の就業時間制限の撤廃や、新たな女子労働者の投入、転廃業者の徴傭・配置転換などの労働力補充政策がとられたので、労働力の構成は、おのずと未熟練労働中心に変わっていった。朝鮮人徴傭者七〇万や捕虜なども、強制的に炭坑などに投入された。それでも労働力不足は深刻になる一方で、十九年以後、ついに就学中の学生生徒(十一歳以上)三百万が動員されるに至った。未婚の女子(二十二~三十九歳)も十八年五月に女子勤労報国隊として動員され、十九年から女子挺身隊となり、二十年三月、四五万人以上をかぞえた。農業や零細家内企業を維持し、広く家事全般を守る必要から、既婚婦人だけは動員の対象からはずされていたことを除けば、可能なかぎりの根こそぎ動員が行なわれたといってよい。

 しかし、これらの未熟練者の動員は、企業や国家による熟練労働者養成教育に裏付けられていなかったため、生産性は低く、企業もまた大量の労働力を低賃金と労働強化のもとに使うことを得策と考えて労働力を濫費した。

 十九年二月の部門別国内労働力の分布をみると、農業が減少したというものの、四二パーセントで最高を保ち、ついで、製造業・土建業が三〇パーセントと、これまでよりもいちじるしく伸びており、官公吏が七・五パーセント(二九〇万人)にふえて、商業が逆に七・五パーセントと減少しているところに、戦時労働力動員の特徴が示されていた。

 人びとは、強制的な動員で就業を強いられる半面、しだいに、食糧買出しや農耕手伝いなどの必要から、大量に欠勤して自己保全をはかるようになり、そのために、生産活動が停止するような事態が各地にみられるようになった。これは明らかに、戦時労働力動員の破綻を示していた。

 そういえば、カネも、モノも、ヒトもつぎ込んで強行された軍需兵器生産が、十九年秋に一五六億円に達して、開戦時のじつに三倍にもふえたとき、すでに、石炭・銑鉄・鋼塊・アルミニウムなどの基礎物資生産は激減し、消費物資生産に至っては極端に低落し、日本経済の根底からの崩壊がしのびよっていた。

 

  農業の圧迫

 重化学工業の成長や、資本家の利益増加とは対照的に、農業は圧迫され、地主階級は後退していった。

 食糧を自給できない日本は、外米の輸入にたよってきたが、戦局の悪化によって外米がはいらなくなり、食糧不足が重要な問題となっていった。朝鮮や台湾からの移入は船不足の中でも細々と行なわれたものの、それも十九年までであり、東南アジアからの輸入は十七年でとだえてしまった。一方、内地米の増産は、十七年が最高(六六七八万石)であり、十八年六二八九万石、十九年五八五六万石、二十年三九一五万石と目にみえて減少していった。十六年から、約百万の男子が相ついで軍隊や軍需産業などにとられて、農村は労働不足におちいっていた。さらに、軍需優先のため、農機具資材の割当てが、十七年には平年の三六パーセントに低下するという事情や、化学肥料の極端な不足、農業日雇賃金の上昇などによって、作付面積も反当(たんあたり)収量も減少した。政府は、この対策として、主食増産にさまざまな手を打った。加藤完治の茨城県「内原訓練所」や、各地の「地方修練農場」などにみられる、馬車馬的な増産の精神運動を強化して、地方指導者の養成をはかったり、また、十七年十月の文部次官通牒によって、学生生徒の農繁期勤労動員がひろげられ、農業日雇賃金の最高・最低額の統制(十七年二月の厚生次官通牒)、徴傭を免除する農業要員指定制度(十九年二月)などによって、労働力の確保がはかられた。さらに、十七年一月から行なわれた堆肥(たいひ)増産運動とともに、肥料・農機具配給制や、十七年一月の農業生産統制令による共同作業・農機具役畜の共同利用の義務づけと、作付統制などの生産にたいする統制が行なわれた。こうした統制強化は、十八年三月、農業団体法による農業団体の再編成となり、帝国農会その他を統合した中央農業会、全国購買販売連合会と産業組合中央会を改組した全国農業経済会、それに農林中央金庫という、三つの全国的な農業統制団体が発足して、国家統制を強める結果となった。

 

  米価の二重価格制

 戦時農業の動きの中で、とくに重要なのは、国家管理におかれた米の供出が二重価格になったことである。

 政府は、悪化した生産条件のもとで農民に主食の増産を強く求めるために、生産者補給金を出さざるをえなくなった。このため、地主に物納される小作米供出(きょうしゅつ)価格と生産者の供出価格が、二本立てになり、小作人は在村地主の飯米分を除いて、地主にかわって直接供出し、生産者価格より低い地主価格分の現金を地主に払えばよいようになった。これまでの物納小作料は、事実上金納になり、五割ていどの高率だった従来からの小作料率は、実質上三割ていどに低下した。こうして、これまで日本の支配層の一翼を担ってきた地主階級は、不足する主食確保の必要から農業生産者を重視せざるをえなくなった戦時農業政策の結果として、経済的基礎を掘りくずされ、社会的にも地位を低下させていった。

 しかし、このことはただちに、農耕農民の向上を意味してはいなかった。阪本楠彦東大教授が、供出価格は実質的な生産費に比べ、十五年で八〇パーセント、十九年には四九パーセントと半分以下に切り下げられていたと、『日本農業の経済法則』で計算しているように、低米価政策が農村を貫いていたし、供出代金は農業会預金として強制貯蓄され、引き出した現金は翼壮貯金・隣組貯金などでふたたび吸い上げられてしまって、農業経営の向上に使えない仕組みがとられていた。十八年の「自作農創設維持事業整備拡充要綱」も、地主にとって不利になった保有地の売逃げを保証するとともに、小地主の土地取上げ—自作農化と、土地を取り上げられた小作農を新開地で自作農にすることをめざすものであった。

 ただ、低米価でおさえられ、さまざまな国家統制にとりかこまれた農村の内部では、生産経営者としての実力を蓄えた自作農上層者が、新たに統制経済や国家行政の末端役職者の地位に進出し、部落ごとの供出割当て遂行や、社会生活上の規制を握るようになっていった。

 

  食生活の窮乏

 戦時統制は、国民生活をさまざまなかたちでしばりあげた。

 まず、生活を直接おびやかした食糧から見てみよう。

 さきに述べた食糧不足によって、成年者一日二合三勺であった米の配給基準は、二十年七月に二合一勺に減った。はじめ七分()きだった米は、十七年秋から五分搗きとなり、十八年一月から二分搗きになった。そればかりか、押麦・高梁(こうりゃん)・とうもろこしなどの雑穀が混入され、馬鈴薯・うどん・乾パンなどが総合配給になった。玄米食が奨励され、十八年から業務用に強制配給された。

 こうした主食の全面的な国家管理は、食糧管理法による食糧営団(十七年十月)を通じて行なわれ、学童給食、動員学徒や軍需産業労働者への特別加配、防空備蓄米の特配、罹災者特配などの措置がとられた。東京では、十九年四月から雑炊(ぞうすい)食堂がひらかれ、一般市民が連日長蛇の列をつくっていた。

 統制強化は必然的にヤミを生み、精白米は「銀メシ」と呼ばれて取引きされた。ヤミ値は急騰していった。筆を折り、市井の生活者として、リアルに庶民生活を記した永井荷風の日記には、十八年五月に四円だったヤミ米一升が、十九年には一○円、一五円になったとある。

 味噌・醤油・砂糖・食用油などの調味料もすべて配給制で、とくに、十九年八月から一般への配給が停止された砂糖にたいする人びとの飢えは激しかった。

 消費地東京の副食品は行列買いからはじまり、しだいに隣組を通じた統制配給となったが、戦局の悪化につれて入荷が減り、配給業者が静岡や北海道へ出荷の手伝いに出かけてやっと入荷したものを、隣組の輪番制で家庭へ配給するようになった。だが、公定配給制度のため、配給品の質は落ち、市民は食べられないような配給品を買わされた。家庭菜園が流行し、徹底したリベラリスト清沢冽も、友人からもらった馬鈴薯のタネイモと堆肥(たいひ)大八車(だいはちぐるま)に積んでかえる途中、落ちていた馬糞を拾うという生活をしている(『暗黒日記』二十年四月二十六日)

 

  配給統制と良心

 衣料をはじめ、マッチ・石けん・ロウソク・ちり紙・靴・地下足袋などの生活必需品もすべて切符配給制になり、十八年ごろから、買いだめや売惜しみが激しく、どんな品物でも手に入れるためには行列しなければならなくなった。とくに衣料の不足は激しく、十九年の国内衣料供給量は、十二年の七・四パーセントで、きりつめられた配給もまかなえなくなった。女性の服装は古着を更生したモンぺ姿、男子はカーキ色の「国防色」にぬりつぶされたスフの国民服となった。

 このほか、牛乳・食肉・酒・たばこ・薪炭に至る生活物資が配給統制され、配給量では最低の生活すらできなくなって、消費者は「買出し」に走ったものの栄養不足のために、母乳の飲めない乳児や虚弱児童がふえ、この時期に生まれた子供の体位は低下した。

 十八年大晦日(おおみそか)の日記に、「今秋国民兵召集以来専制政治の害毒社会の各方面に波及するに至れり。親は四十四五歳にて祖先伝来の家業を失いて職工となり、(その)子は十六七より学業を棄て職工より兵卒となりて戦地に死し、母は食物なく幼児の養育に苦しむ。国を挙げて人皆重税の負担に堪えざらんとす」と記した荷風によれば、「開戦以来現代民衆の心情ほど()し難きはなし。多年生活せし職業を奪われ徴集せらるるもさして悲しまず、空襲近しと言われても(また)更に驚き騒がず。何事の起り来るも唯なり行きにまかせて寸毫(すんごう)の感激をも催すことなきが如し。彼等は唯電車の乗り降りに必死となりて先を争うのみ。(これ)現代一般の世相なるべく全く不可解の状態」(十九年三月二十四日)であった。

 さらに、かれは東京の人びとが食物に困っているのに、近郊へ芋・野菜の買出しに行ったり、ヤミ米を買い、強制貯金を行なえるように、金に不自由していないことが、「暴動の起らざる所以(ゆえん)」との考えも記している。

 ともかく、国民は十八年十月から、貨物列車本位に変えられた列車への乗車を大幅に制限され、特急列車・寝台車などの全廃から、二十年三月十九日以降、東海道線に急行列車一本だけ残して全廃となるほどの旅行制限をうけ、「座席三人掛け」や「座席交替制」を強制されるほど、不自由をたえしのんだのである。

 日華事変開始前に比べると、工場労働者の実質賃金は七割以下に低下したといわれる状態のもとで、一日最低一二時間、ひどいばあいには一月四五〇時間の労働時間が記録されているように、このころの国民は物資欠乏とインフレに苦しみながら、文句もいわずによく働き、わずかにヤミ物資を求めて生活にたえていた。こうして、「欲しがりません勝つまでは」のスロ−ガンにしばりつけられていた一般国民は、軍や軍需工場・統制団体の関係者が戦争遂行に奉仕しているとの名目のもとに、おしなべて役得・不正を行なっている姿をみて、「世の中は星(陸軍)に(いかり)(海軍)に闇に顔、馬鹿者のみが行列に立つ」と実感した。官尊民卑の考えが強い日本では、戦時統制がひろがり強まるにつれて、「顔」をきかせて、抑圧された私的欲望をすこしでも満たそうとする人びとがふえた。配給所や米屋や隣組長、町内会・部落会役員という末端の役職者までが、官僚組織につながったためお役人意識をもち、いっさい禁じられた私的欲望を、公用の名によって満たす特権者のふるまいをまねるようになっていた。

 十八年三月、市制・町村制改正によって、町内会・部落会とその連合会は市町村の下部組織として正式に認められ、役員が任命制となり、ますます官僚統制の下部組織となった。

 

  教育の統制

 (昭和)十六年(1941)から「皇国民の錬成」を目的として、小学校尋常科六年に高等科二年を義務教育化して加えた国民学校が発足し、「八紘為宇(はっこういちう)」の「聖戦完遂」が教科書で強調された。「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」「ヒノマルノハタ バンザイ バンザイ」となった国語教科書は、さらに「日本のしるしにはたがある 日本のしるしに山がある 日本のしるしにうたがある ありがたいうた 君が代のうた」(二年)となった。明治いらい「日本一の山」と教えられてきた富士山は、「たふとい お山 神の山 世界の人があふぎ見る」に変えられ、神話による国史が強調された。修身教科書は、「国体の精華」を明らかにし「国民精神」を養い「皇国の使命」を自覚させるため、「キゲン節」「天皇陛下」「メイヂセツ」などについで、つぎのように、素朴な祖国意識に訴える文章をかかげた。

 

 日本ハ春夏秋冬ノナガメノ美シイ国デス

 山ヤ川ヤ海ノキレイナ国デス

 コノヨイ国ニ私タチハ生マレマシタ

 オトウサンモ オカアサンモ コノ国ニオ生マレニナリマシタ

 オヂイサンモ オバアサンモ コノ国ニオ生マレニナリマシタ

 日本ヨイ国 キヨイ国

 世界ニ一ツノ神ノ国

 日本ヨイ国 強イ国

 世界ニカガヤクエライ国

 

 修身教材は高学年になるにつれてイデオロギー的となる。たとえば、世界の興亡史に目を向けさせながら、「昔から今まで続いて、今から先も、またかぎりなく続いて行く国は、世界にただ一つ、わが大日本があるだけであります」といい、太平洋戦争によって、日本の肇国(ちょうこく)同様に、「太平洋や南の海には、すでに新しい日本の国生みが行はれました。……のちの世の人々が、昭和の御代の御光(みひか)りを仰ぎ見る日が参ります」と、戦争が歴史的に賛美された。そして、現実の戦争へ積極的に協力するように、すべての道徳を「忠君愛国」の「臣民の道」一つに、強引にゆがめた教化指導が行なわれた。この結果、小学生にも軍人志望がふえ、陸士・海兵をはじめ、飛行服に絹の白いマフラーをまいた予科練(よかれん)へのあこがれが強まった。

 しかし、教科書は資材難から、十九年以後紙質の低下、減ページとなり、しかもそれさえ満足には配給されなかった。

 縁故疎開(えんこそかい)を行なえなかった東京はじめ大都市の学童は、十九年春から集団で田舎に疎開し、空腹とシラミやノミに悩まされた。

 その学童疎開の状況は、さまざまな経験談に基づいてつぎのように物語詩にうたわれている。

 

 その頃は、もうお茶の葉もなくなっていて、

 白湯(さゆ)の渋い味をごくりと飲みおろしては、

 遠くはなれた両親のことを毎日のようになつかしんでいた。

 なんと云っても、寝るときが一番つらかった。

 毛布の、いや、ふとんの、いや、人間の愛の、

 あの肌ざわりのあたたかさというものが、

 十歳になるかならない年ごろのぼくらから、

 むごたらしいまでに奪われたということが、

 そうだ、そのことが何よりも、

 そのごのぼくらにとって一番大事なことなのだ。……

 ミツコ、毎夜おまえはハンケチがないので、

 両手をピチャピチャと涙でぬらしていたし、

 ケンジ、毎朝きみは男のくせにすすり泣きを、

 しゃっくりの真似してもかくせなかった。

 云わば、ぼくらの世代は、

 両親の愛をも許されぬ状態で、

 かけがえのない幼年期を、みんな

 おくらされてしまったのだ。

     (『「木島始詩集』「星芒よ(またた)け」より)

 

 疎開しなかった学校では、防空訓練・勤労奉仕に明け暮れ、空襲罹災したばあいなどは、青空教室での三部授業が精いっぱいで、学校教育の崩壊は進んでいた。

 中等学校以上では軍事教練が強化され、軍人勅諭や戦陣訓の暗誦に象徴される軍国主義教育が強制され、英語教育が一段と軽視された。そのうえ、十八年五月の国民勤労報国協力令改正で、「学徒勤労報国隊」として、男子は農村や工場の勤労奉仕、女子は幼稚園・託児所・保育所への協力にかりだされ、十九年春以後は、全面的に軍需工場や強制疎開工事へ動員されて、勉学を放棄させられた。これらの若き学徒は各職場でよく働き、学力低下に悩みながら、大事な青春時代にさまざまな経験を積んでいった。

 

  学徒動員

 学生の兵役徴集延期打切りが決まった文科系大学生は、十八年十月、小雨降る明治神宮競技場での出陣学徒壮行会を皮切りに、ぞくぞくと出征していった。かれらは「人生二十五年」というあきらめと決意とを抱いていた。出陣学徒の中には、予備学生としてわずか十七時間の速成飛行訓練で、特攻隊員として沖縄その他の空に散った者が少なくない。

 昭和二十年四月十二日、第一四期海軍予備学生で、神風特攻隊第二七生(しちしょう)隊員として沖縄に出撃、戦死した林市造海軍少尉(京大経済学部出身)は、元山(げんざん)航空隊からつぎのような便りを送った。

 

「お母さん、とうとう悲しい便りを出さねばならないときがきました。

  親思ふ心にまさる親心 今日のおとづれ何ときくらむ

 この歌がしみじみと思われます。……

 晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けてきます。母チャンが、私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることができずに、安心させることもできずに死んでいくのがつらいです。……

 母チャンが私にこうせよと言われたことに反対して、ここまで来てしまいました。私としては希望どおりで嬉しいと思いたいのですが、母チャンのいわれるようにした方がよかったなあと思います。

 でも私は、技倆抜群として選ばれるのですから、よろこんで下さい。……

 私は、お母さんに祈ってつっこみます。……

 もうすぐ死ぬということが、何だか人ごとのように感じられます。いつでもまた、お母さんにあえる気がするのです。逢えないなんて考えると、ほんとに悲しいですから。」(『あゝ同期の桜』)

 

 死んでいった学徒兵の切々たる手紙は、人の心をとらえるが、息子や夫を戦場へ送り出した家族の気持も、これに勝るとも劣らない。

 慶應義塾大学塾長小泉信三は開戦直後、一人息子信吉の出征にあたって手紙を書いた。

 

「吾々両親は、完全に君に満足し、君をわが子とすることを何よりの誇りとしている。……吾々夫婦は、今日までの二十四年の間に、(およ)そ人の親として()け得る限りの幸福は既に享けた。親に対し、妹に対し、なお仕残したことがあると思ってはならぬ。……

 お祖父様の孫らしく、又吾々夫婦の息子らしく、戦うことを期待する。」(『海軍主計大尉小泉信吉』)

 

 これは人の親としての情を、まれにみる剛毅さで表現しているが、岩手の農村の文字を知らない母親たちは、応召した息子たちの足に豆が出来ないようにとの親心から、川原の石ころをひろってきては、神さまにあげて拝んだり、フトコロにだいて寝ながら、「石ころに語りつづけた。」(『石ころに語る母たち』)

 小泉信吉も、岩手の息子たちも、帰ってこなかった。

 

   空襲―無差別爆撃

 十九年六月十六日、北九州がB29二○機で空襲されていらい、連日のようにくり返された本土空襲は、銃後の生活を直接危険におとしいれた。十四年の防空法制定いらい、防空訓練は行なわれてきたものの、実際の被爆知識がないうちの訓練指導は、想定にもとづいたものでしかなかった。

 たとえば、十七年には、空襲になったら家の押入れにかくれろと指示され、十八年夏からは縁の下または庭に防空壕を掘れと変更される状態だった。このころから、各戸ごとに、玄関脇へ用水桶と砂袋・バケツ・火たたき・はしごなどをそなえ、ガラス戸には十字の目張りをするように指導された。そして、人びとは防空頭巾と三角巾をもちあるき、胸には本籍・住所・氏名・血液型を記した名札をつけ、下着・ズボンにもできるだけたくさんの名札をつけるように指示され、隣組の防空訓練で、敵機や焼夷弾の種類と消火法を学んだ。敵搭乗員が落下傘で降りたばあい、眉間(みけん)をつくための竹やり訓練も行なわれた。

 だが、空襲の威力が具体的に認識されるようになった十九年以降になると、防空対策の重点は退避に移り、建物・物資・人員の強制疎開が行なわれた。

 米軍爆撃機B29を主力とする本土空襲は、マリアナに一大基地ができた十九年秋から本格化した。初めに、少数の偵察機が航空写真をとるために侵入し、ついで、軍事施設や航空機生産工場・輸送機関などが正確な集中爆撃を受けた。東京都北多摩郡下の中島飛行機工場は、十一月二十四日と十二月三日、二十七日にサイパンからとびたったB29の集中爆撃を受け、二十年二月以降、群馬県の太田工場なども爆撃された。このほか、各種軍需工場もねらわれ、関門海峡には機雷が投下されて、輸送力が破壊された。

 こうした計画的な戦略爆撃とともに、一般民衆の戦意喪失をはかる無差別じゅうたん爆撃がひろがっていった。黄リン・油脂・エレクトロンの焼夷弾が大量に投下され、木造家屋密集の都市地域を焼きつくし、銃後の国民を戦場と変わらない危険にさらした。

 東京は三月九日、四月十三日、五月二十五日の大空襲を中心に、前後百二回の空襲を受けた。

 三月九日夜半から来襲したB29百五十機は、分散して低空から焼夷弾の波状じゅうたん爆撃を行ない、本所・深川・下谷・浅草・城東の下町を中心に、東京の四割が一夜に焼失した。このときの死者七万二千、消失家屋十八万余棟、三十七万二千世帯約百万人が焼け出された。

 同様な爆撃で、四月十三日夜には、豊島・淀橋・小石川・四谷・麹町・赤坂・渋谷・牛込・荒川・滝野川地区が焼かれ、五月二十五日夜には、残っていた山手方面の大半が焼失した。

 こうして、東京は空襲によって、関東大震災に比べ、焼失家屋と被災人口で約二倍、死者で一・五倍の被害を受けて、文字どおり焼野原になった。

 空襲は東京にかぎらず、全国各地に及んだ。二〇六都市のうち九八市が空襲と艦砲射撃で被爆し、福井市の九六パーセント焼失を最高に、平均焼失率四割の被害を受けた。この数字は、全国都市家屋の三割強になる。地方都市では、甲府・浜松・日立市が七割以上焼失し、京浜・阪神・中京地区の焼失は約六割に及んだ。           

 大本営の記録した二十年一月以降の来襲機数は、約四万五千機であり、元大本営陸軍部作戦課長の服部卓四郎の集計した月別来襲機数は、最も多い七月にはこの一ヶ月だけで二万八五九機も数えられている。またマリアナ基地からの爆撃のほか、硫黄島・沖縄からの来襲が加わり、さらに、艦載機が七月以後大量に空襲し、非戦闘員たる一般国民を低空射撃するようになった。

 こうした空襲で、死傷者は六六万五千をかぞえ、国富の損失は昭和十年の国富の三割四分、六五三億円に及んだ。この数字は、終戦時の公定価格であるから、現在の貨幣価値に換算すれば、五〇−六〇兆円になろう。焼失家屋は全国住宅の二割にあたる二三〇万戸で、被災者は一千万人をこえた。

 国民は敵機来襲を「お客様」と呼び、連日連夜、ラジオから流れる無表情な「東部軍管区情報、東部軍管区情報」の声にも、異常生活の疲れから、いつしか慣れていった。

 当時、東京での会社事務員だった吉沢久子の日記『終戦まで』は、すでに二十年一月に、「たいていのひとの気持はすでに勝利を信じていない。ただ負ければみじめだと思うだけである。田舎の人々の話でも、これだけつまってきて、まだ足りないならば、勝てる道理がないというのだ。会社のひとたちの話すことをきいていても、とにかく国民は軍や政府のいうままに、おとなしく働いてきた。これで負ければ、国民がわるいのではないというのだ。あるいはまた、都合のよいときだけは戦争は軍人にまかせておけといいながら、わるいときは、国民総力戦だという。これではとてもかなわないといっている。」(十二日)、「誰も今はもう戦争の話などしないそうである。なるようにしかならない」(十四日)と記されていた。こうした状態へ大空襲が加えられたので、人びとのあいだには、「らっきょうだけで朝飯を食べると、爆弾に当たらない」とか、「金魚を拝むといい」といった迷信がひろがり、生きた金魚のかわりに、瀬戸物の金魚を仏壇にそなえることが流行した。この人びとの気持は、「宮本武蔵」や「姿三四郎」の物語口演で軍隊や軍需工場の慰問に明け暮れた徳川夢声(むせい)が筆まめに記したような心理状態に似ていた。かれは三月十日、大空襲の惨状を見に行き、「今日一日、無事であることの有難さを自分に思い込ませ」、空襲でも「おれの家は絶対に大じょうぶだ」と信じ込んで、気楽になることだ、どうせいつかは「泣きっ面にハチ」になるのだから、刺されるまでニコニコしていたほうがよいと記している。諦観にさえさられた楽天と順応の気持を保つために、人びとはつまらぬ迷信を抱いたのである。

 すでに、軍の公式発表はあてにならないと感じとっていた庶民のあいだでは、短波放送による米軍ニュースや飛行機が投下した宣伝ビラの文言が信じられ、目黒祐天寺辺の占いによれば、「六月日本が勝ちにて突然終局を告ぐ」とか、「新宿笹塚辺にもお地蔵様のお告なりとて戦争の終局同じく六月中」といった流言蜚語(りゅうげんひご)に人気が集まっていた(永井荷風『断腸亭日乗』五月八日)。それだけに、戦争の前途を口にするものは憲兵隊につかまり、郵便の検閲をはじめ、一般によく利用されてきた参謀本部の五万分の一地図の回収、短波放送聴取の取締り、宣伝ビラの回収などの防諜活動が強められた。

 

  不穏言動の増加

 そのためもあって、内務省警保局保安課第一係が四月ごろまでの実状を八月にまとめた「最近に於ける不敬、反戦反軍、其他不穏言動の状況」でも、月平均件数が十七年度二五件、十八年度三四件に比べ、十九年度五一件と増加していた。反戦反軍の言動が事実いちじるしく増加していたのはいうまでもない。

 この各地の不穏言動が「最近に於ては大衆一般の戦局悪化に伴う厭戦(えんせん)敗戦感と戦時生活の逼迫(ひっぱく)から自然発生せる苦痛の中に根源を持つ具体的生活的動機のものが著しく増加」し、内容上、「極めて切実なものが多い。()かも(いず)れも反戦反軍乃至(ないし)厭戦敗戦的思想感情が斯種(このしゅ)言動を一貫して居る。」「特に(ごく)最近に至って不穏言動が憂国や施策への不満や官僚誹謗(ひぼう)でなく漸次厭敗戦色調濃厚なるものに移りつつあるのは頽廃(たいはい)的自暴自棄に(わた)る歌詞歌謡曲の流行と共に反戦反軍的思想感情を広く準備するもの」として注目されていた。しかも、これらは偶然取締りにふれた表面上のもので、背後には戦時下の「重圧の下に沈黙を余儀なくされたる大衆の広汎なる不安動揺の存在を推測し得る」と認めている。また、組織的活動が「殆んど認められ」ない状態でのこうした言動の発生は、小市民層と労働者層、したがって、都市と工場に多く、農山漁村の農民層には少ないが、ごく最近、供米や農村負担の重圧、空爆の熾烈(しれつ)化によって農民にも増加しつつあるとも記されている。このいくつかを例示しておこう。

 

 諸君、国内の現状で戦争に勝てると思うか。軍人官吏や戦争成金(なりきん)共だけ不自由なく暮して行って、滅び行く中産階級以下は喰うに米なく、衣物もなく、只働け働け貯蓄せよと怒鳴り付けて居るではないか。……万朶(ばんだ)は散って一将の功になり、一億の国民は塗炭(とたん)に喘いで、軍需商共は()える一方ではないか……(劇場内落書)

 

 前略……一体何時(いつ)迄、私共は之の苦しみ之の恐ろしい思いを、続けていったらよろしいので御座いましょうか。政府や軍部の人間は、自分達は、只掛声ばかりして居て、国民をこんなにも沢山死なせて……よくも平気で居られたもので御座いますね。一体、我々国民を、人間と思って居るので御座いましょうか。……今度の戦争で、日本という国が情も容赦もなく、恐ろしい国だという事が始めて判りました……(徳富蘇峰宛投書)

 

 もう一生懸命働いてもつまらぬ。どうせ今度の戦争は敗けだ。……アメリカの政治は日本の政治より(やわら)かいから、戦争に敗けた方が今より楽になる……(農民言辞、犯人検挙)

 これ天皇や、一寸(ちょっと)申告するぞ。貴様はほんとにばかだな。……戦争するなら物資を十二分としてからのことだよ。……げんこう(元寇)の(えき)を思い出せよ。あの時の天皇様は、伊勢に立ちこもられたる為、神風にておいはらえたのだよ。貴様は国民を苦しめて、毎日のんべんだらりと生活しているから、見よ、伊勢神宮は丸焼けだ……(投書)

  士気低下と本土決戦

 戦後行なった米戦略爆撃調査団の調査数字によれば、敗戦を考えた日本国民は、十九年二月にはわずか二パーセントだったが、空襲とともに高まり、十九年十二月で一○パーセント、二十年三月一九パーセント、六月四六パーセント、終戦直前六八パーセントになったという。事後調査であるから、そのまま認められないとしても、敗戦はもはや、少なからぬ人びとの気持にひそんでいたといってよい。それだけに、指導者も、六月八日、最高戦争指導会議決定の「国力の現状」で、敏感に国民の士気低下を認めていた。

「軍部及び政府に対する批判逐次(さかん)となり、ややもすれば指導層に対する信頼に動揺を来し、……国民道義に頽廃の兆あり。又自己防衛の観念強く、敢闘奉公精神の昂揚充分ならず、庶民層には、農家においても諦観自棄的風潮あり、指導的知識層には焦燥和平冀求(ききゅう)気分底流しつつあるを看取す……」

 これだけの悲観的判断にもかかわらず、六月九日から四日間開かれた第八七臨時議会では、本土上陸作戦が間近いと警告され、全国民の軍隊化をめざす義勇兵役法や、軍需生産や食糧確保と防衛策は法令にとらわれずに行政命令だけで処分を行なえるという戦時緊急措置法が成立し、本土決戦計画に拍車がかけられた。

 すでに、四月までに、東海地方以北の第一総軍(杉山元元帥)と西日本の第二総軍(畑俊六元帥)と、航空総軍(河辺正三大将)に、大動員が行なわれていた。陸軍二二五万、海軍一三○万、大半が練習機改造の特攻機を中心とした航空戦力約一万機、体当り用べニヤ板ばりモーターボート「震洋」や特殊潜航艇など、三三○○隻が作戦可能兵力であった。このほかに、在郷軍人による特設警備隊二五万と、一般人の国民義勇戦闘隊二八〇〇万人を動員する見込みであった。

 とくに、米軍上陸を予想された南九州の大隅半島志布志(しぶし)湾では、豆カス一杯ずつの食糧で陣地づくりが昼夜をとわず進められた。しかし、火砲の不足はいちじるしく、小銃や銃剣すら十分でない部隊もあり、弾薬は一回戦えば終りという状態だった。それだけに、全軍特攻の対戦車肉薄攻撃によって、一撃を与える訓練が行なわれた。

 義勇兵役法によって、十五歳から六十歳までの男子と、十七歳から四十歳までの女子を義勇召集して編成される国民義勇戦闘隊は、陣地づくりと補給と、軍の挺身切込みに協力することが決められたが、この武器はおそまつきわまりないものであった。けっきょく、全国民を軍隊に入れるような義勇兵召集を行なえば、食糧増産もできなくなるという石黒農相などの反対で、全国的な義勇隊への動員は敵上陸後にのばされ、たいした活動をしないまま終わった。装備も兵力も低劣なうえ、食糧確保も一般住民の分はまったく考えない状態では、軍民一体になって「地の利、人の和」を生かすといわれた本土決戦も、所詮、観念論にすぎなかった。

 

  原爆投下

 八月六日朝、一度出された空襲警報が解除され、市民が朝の生活にもどったとき、B29二機が高々度で広島市上空に姿を現わした。ラジオが「偵察らしい」といったため、人びとは防空壕へ避難しようとはしなかった。

 八時十五分、落下傘で投下された原子爆弾(ウラニウム235)が市中心部の細工町(現大手町一丁目)にある島病院上空五七〇メートル前後で爆発、ものすごい閃光(せんこう)を発し、「直径百メートル、表面温度九千~一万度の大火球」となって、広島市を一瞬のうちに呑み込んだ(中国新聞社編『ヒロシマの記録』)。この瞬間、広島は「人類の墓場」と化し、そのあとに、無気味なキノコ雲が一万メ−トルの上空にまでまきあがった。

 無警告な奇襲だった原爆投下が、老人や幼児の多い市の中心部で行なわれたため、驚くべき死傷者がでた。

 とくに爆心地から半径五百メートル以内の人びとは、ほとんどが即死した(九六・五パーセント)。以下、半径一キロ、二キロ、四キロと即死率こそ減少したが、市内の生き残った人びとは爆風で地面にたたきつけられ、閃光をあびた皮膚は、顔といわず手足といわず、ベタリとはげ落ち、火傷(やけど)とガラスの破片などで全身血まみれになった。

 当時国民学校五年生だった中村厳君が、高校二年のとき書いた作文によると、

 

「丁度僕が二膳目の茶碗に箸をふれた時であった。マグネシウムを焚いたような青白い光が顔にぶち当ったかと思うと、ダダダダという耳も裂けるような大音響と共に、(あた)りは一寸先も見えない暗闇となった。それから先どうなったか、僕にはわからない。どのくらい気を失っていたのだろう。ふと気がついてみると、首から下は何か石のような重い物に押えつけられていた。辺りはやはり真暗だった。」

「さっきまでの広島市の面影は何一つなく、家屋は崩壊し、暗黒の沙漠と化した街々から燃え上る火の手のみが、夜のように真暗な広島の空を赤々と照らしていた。」

「周囲は一面にもう火の海だった。道は崩れた家屋の火と煙でふさがり、道に横たわって燃えている電柱は、何度となく僕達を絶望のどん底に叩きこんだ。辺りは人影一つなく、時々どこからともなく猛獣のような(うめ)き声が聞えてくるだけだ。地上の人間は全く死に果てて、僕達五人の者だけが不気味な死の世界に取り残されてしまったような気がして、僕は体が(ふる)えた。」

「僕は思わず、あっと声を上げて、後退(あとずさ)りした。彼等は水槽にもたれ、水槽に首を突込んで、水をのみかけたまま死んでいたのだ。焼け千切(ちぎ)れたセーラー服から女学生だということがわかったけれども、髪の毛は一本もなく、やけただれた顔は血で真赤に染まり、到底人間の顔とは思えなかった。僕達が大道路に出て住吉橋を渡る時、始めて生きたこの世の人間に会った。いや、この世の人間というよりも、むしろ、あの世の地獄の人間に会ったと言った方が適当かも知れない。彼等は皆まる裸で、皮膚は火傷と血で〝赤さび〟のように赤黒くなり、風船のように体全体がふくれ上っていた。しかし、途中一人の人影に会うこともなく、心細い思いをしながら逃げてきた僕達にとっては、この人達に会ったことは何か心強く感じ、いつの間にかその一群にまじって逃げていた。幅数十(メートル)もある大道路は、両側から燃え崩れた家屋によってふさがり、僅かに通れるのは、三〜四米だった。その両側は、火傷(やけど)深傷(ふかで)で歩行不能になった人や、死んだ人で埋まり、足を踏み入れるところも無く、僕達は心の中で謝まりながら、無情にもその人達の体の上を通ったことも何度か知れなかった。その人達の中には、水を求める老人、助けを求める幼児、無意識に両親兄弟の名を呼ぶ学生、死んでいる赤ん坊を片手でしっかりと抱いてうつぶせになって苦しそうに呻き声を上げているどこかの母親らしい姿も見えた。しかし、自分の命すらわからない僕達には、どうすることも出来なかった。」長田新(おさだあらた)編『原爆の子』)

 

 翌(昭和二十年〈1945〉八月)七日十五時三十分、大本営は、

 一、昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり

 二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり

と発表しただけだった。想像もつかない高温の熱線とTNT火薬二万トン相当といわれる破壊力のほか、その後長く、放射能障害が被爆者たちの生命をつぎつぎに(むしば)んでゆくことになる。

 この原爆被害の実態は、まだ正確にはつかまれていないが、罹災地域は約三〇・四平方キロ(市内利用面積の九二パーセント)、焼失面積は約一三・二平方キロに及び(『広島原爆医療史』付図)、死者・行方不明者は、ひかえめにみても約二〇万人と推定されている(日本原水協専門委員会編『原水爆被害白書』)

 八月九日午前十一時二分、長崎市に、プルトニウム239の原子爆弾が投下された。浦上(うらがみ)天主堂付近を中心に展開された地獄絵は、広島と変わらなかった。死者の数も、『長崎市勢要覧』(二十八年版)では七万三八八四人、『原水爆被害白書』の算定では約十二万二千人にのぼる。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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林 茂

ハヤシ シゲル
はやし しげる 歴史学者 1912年 和歌山県に生まれる。東京大学名誉教授。『日本終戰史』上・中・下卷、『恐慌から軍国化へ ドキュメント昭和史』など多くの著述とともに近代・現代日本の推移を克明に戦後国民に有効に、誠実に語りかけつづけた学者として広く記憶にある。

掲載作は、1974(昭和49)年7月、中央公論社刊『日本の歴史』第25巻「太平洋戦争」の一章をとくに懇請招待した。読者は凄まじいこの総力戦のありように驚異と恐怖を隠せないだろう。 「ペン電子文藝館」は、この1編に先立つ井上清「近代天皇制の確立 新しい権力のしくみ」色川大吉「自由民権 請願の波」隅谷三喜男「大逆事件 明治の終焉」今井清一「関東大震災」大内力「ファシズムへの道 準戦時体制へ」さらには蝋山政道「よみがえる日本」など一連の優れた歴史記述により、抄録ながら、我らが多彩に苦難を経て「主権在民」の平和日本へと歩んできた道筋を、永く此処に記念しようとした。時代を超えて読み継がれたいと切望している。

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