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日本の文様

 1.文様のいろいろ

 

 格別の暑さだった今夏、若い人の彩色豊かなゆかた姿を多くみかけました。それなりに可愛らしく目を楽しまてくれましたが、やはりゆかたは藍の匂う古典柄をすっきりと着てほしいと思ったのは私だけでしょうか。そこで「日本の文様」とは、と考えたのです。

「ねェ、日本の文様といったら先ず何を思う?」と私。「うーん、麻の葉かしら」と友人。

「麻の葉」といってもピンとこない人もありましょう。戦前、赤ちゃんの産着(うぶぎ)やおしめは大抵この柄。今では紙おむつ全盛ですが、当時は肌に優しいようにと着古した麻の葉模様のゆかたを利用したとのこと。その模様を選んだわけは、赤ちゃんが麻のようにすくすくと、真直ぐに育ってほしいという祈りをこめたからです。

 重ねて何人かに、同じ質問をしてみました。「私、紗綾形(さやがた)」、「私、立涌(たてわく)が好き」「なにそれ? 私はさくら。なんてったって桜」といろいろな答え。「縞」という単純なものから「御所解(ごしょど)き」「露芝(つゆしば)」などの複雑なもの、果ては「日の丸」まで飛び出してきました。

 これらを分類してみますと、幾何学的な抽象的文様と、花鳥を中心とする具象的な文様とに分けられます。その中、最も単純な直線ものが「格子」、斜めが「たすき」。更にそれが「籠目」「檜垣(ひがき)」「網代(あじろ)」などに発展しました。

 幼い日。初めて大舞台で踊った「供奴」を一段と凛々しく見せたのが金と黒のたすきの衿。その衣裳に合わせて紫の色足袋を注文しに行ったのが神楽坂。それが美濃屋さんだったか、むさし屋さんだったか、母に連れられて長い坂を登ったことだけを覚えています。

 他に「雷」「亀甲」「卍つなぎ」、などが見られ、その変型に「紗綾形」があります。

 紗綾形は、TVドラマ「遠山の金さん」のクライマックス、刺青(いれずみ)の桜吹雪が散るお白州の襖でお馴染(なじ)みでしょう。

 このようにすっかり日本の文様になりきった麻の葉や紗綾形ですが、実は舶来もの。特に紗綾形は(みん)の織物からの伝来といいます。それにしても麻の葉や紗綾形は、どこから描き始めたらいいのでしょう。

 一方、曲線を中心にして構成されたものに「七宝つなぎ」や「立涌(たてわく)」があります。立涌は線が近づいては離れ、離れては寄るという丁度、蒸気がゆらゆらとたちのぼるさまを表わして、平安時代から用いられていました。その応用も沢山あって、動きのある線の中に藤や唐草を入れたり、地に立桶を用いながらその線に拘束されず自由に百合の花を配した桃山時代の能衣裳の存在もよく知られています。

 さて、同じ質問に対する私の答えは「うろこ」と「青海波(せいかいは)」。能の世界ではうろこは鬼女の衣裳。従って歌舞伎の道成寺ものもそれに倣いますが源流は不明です。

 でも、現在、私の一番のお気にいりである、黒と丁字茶のうろこ模様の服は、厚手の木綿でインド製ですから、うろこは国際的パターンなのでしょう。

 青海波を広辞苑でみると「中国清海地方の風俗楽。雅楽の一つ。それを舞う時の衣服の文様」、また「日本では元禄の頃から流行」とあります。

 この間、TVで見た芸能百選「日高川」の中でその青海波が大きな効果を上げていました。清姫が心変わりした安珍を追って日高川に飛込み、蛇体となって泳ぐのです。舞台一面に青海波を描いた浅葱布(あさぎぬの)。清姫の衣裳は金と赤のうろこ模様。本来、青海波は海を表わすものなのですが、あえて川に使ったのは流れの強さを示し、それを泳ぎ渡ろうとする清姫の燃えるような情念を訴えたかったのだと思いました。金と赤のうろこが浅葱の青海波の中を行くのです。その美しさ、凄じさ。思わず正座してしまいました。

 ところで、この「青海波」。同じリズムの繰り返しで描かれていることから、穏やかに広がる海を表わすと云われますが、単に凪いでいるのではなく、その海面下に限りない強い力を秘めた海の穏やかさを表現したものと私は思うのです。その青海波を表紙に選んだ「ここは牛込、神楽坂」の前途は洋々。限りない発展を祈っています。

 

 2.花鳥風月

 

 花鳥を中心とする具象的文様をとり上げてみましょう。抽象的文様に比べて、構成の自由な点が特色になっています。

 大昔、花と云えば梅でした。平安後期以降はそれが桜になります。その梅と桜のほかには藤と萩が好まれていました。そして桃山から江戸初期にかけて紫陽花(あじさい)が登場します。その紫が新鮮な感じを与えただけでなく、染色技術の進歩に支えられた豊かな色合が、当時の人の心を捉えたのでしょう。花言葉が「心変わり」というので好まない向きもありますが、うつろい易いからこそ華やかであるともいえるのです。

 その後、松・竹・菊・蘭の「四君子(しくんし)」や柳、蔦、鉄線(てっせん)花などが図案化され、「(まがき)の菊」「水辺の杜若(かきつばた)」のように自然の風景を上手に取り入れて日本的情緒を醸し出すような図柄も出てきました。干し網、柴垣や雲、露も他と組み合せをする格好の材料です。

 その中で特に「雪」は面白く使われています。古来、中国では汚れを覆いつくす純白の雪の清々しさに吉祥の意味を託したとのことですが、日本では雪の重さに耐えている、そのしなやかさに風情を見出したようです。「雪持ちの松」「雪持ちの笹」などが例としてあげられ、さらに雪は「雪輪」にまで象徴化されました。歌舞伎「寺子屋」の松王丸。踊り「鷺娘」の衣装を思い浮べてください。

 また「露芝(つゆしば)」は風になびく草の葉に宿る露のきらめき、その繊細な表現が秋の気配を感じさせますが、国立博物館所蔵の「白地露芝模様摺箔」のようにパターン化した雪が芝の中におかれて、厳しい冬を予感させるものもあります。

 植物以外では吉祥的意味を持つ鳳凰(ほうおう)、鶴、鴛鴦(おしどり)、蝶、蜻蛉(とんぼ)蝙蝠(こうもり)の他、「宝珠」「打出(うちで)の小槌」「隠れ(みの)」を含む財宝を配して福徳を招こうという、中国の影響の大きいお目出たい模様があって、祝儀用の着物や帯に使われています。

 俳句の季語にもなっている「花筏(はないかだ)」も色紙、短冊などの文房具と共に奥床しいものですし、笛、琴、鼓などの楽器も文化的題材です。また、扇の柄は末広がりの縁起の良いものですが、これが曲者で着付教室の資格テストに出題されるとか。折り目のあるのが「扇文」。ないのが「地紙文」と見わける細かい知識が要求されると聞きました。

 さて、正倉院御物には、いわゆる西方文物の影響を色濃く残した獅子、象、駱駝(らくだ)などの文様が見られますが、大きな動物を扱ったものは、文様として一般には定着せずに終わりました。

 消えたといえば、室町末期から桃山時代にかけて作られた絞りを中心に、白、藍、茶、紫の花の輪郭を墨ざしで細やかに描き出した上に、摺箔、刺繍を加えた「辻が花」があります。江戸時代になっての奢侈禁止令を経て、一時は「幻」とまでいわれたその技法を、現代の染色家が再現努力されたことは、すでに多くの方がご存じでしょう。

 最後にもう一つ。文字を大胆にまた自由に書いたものの存在も忘れてはなりません。

 一般的にはよく知られた古歌が多いのですが、湯女(ゆな)が湯女であることを示す「沐」の字を散らし書きした衣装を着て得意気に歩いている姿を、慶長の頃の屏風絵に見ることができます。ちょうどSONYとか、TOKYO DISNEY LANDとかをプリントしたTシャツを着て闊歩するのと同じ感覚でしょう。つまり宣伝効果があるということです。

 そういえば、神楽坂の夏まつりの宵、坂の街筋を埋めつくした阿波踊りで大発見。どの連も工夫をこらしたお揃いでしたが、特に第一勧業信用組合の白地に赤のそれが目に染みたのです。柄は見慣れたハートですが、程よいその大きさと腰から下、斜めに裾まで散らした意匠に意表をつかれました。これぞ新しい文様の創造と、まさに心を射とめられてしまったのです。

 さて、ここまでは衣裳を中心に考えてきましたが、家紋や道具などにも斬新なデザインがあって今さらのように日本人の鋭く繊細な感性に驚かされてしまいます。これを機に一層、身の回りの品々に注意を払い、日本の文様の行方を見極めたいと考えているところです。

 

 3.お宅の家紋は

 

 今回は、家紋をテーマにしてみましょう。

 「助さん格さん、こらしめておやンなさい」この科白(せりふ)で二人がひと暴れした後、印篭をかざして「()が高い。この紋所が目に入らぬか」となり、悪代官達が平身低頭しておなじみ水戸黄門のTV(ドラマ)は一件落着するのですが、葵の御紋の威力は大したものです。葵は京都、加茂神社の神紋で、徳川家もはじめはその信仰者として用いたのですが、江戸時代に至って徳川一族以外の使用は不許可。将軍の絶対権力のシンボルとなりました。

 制限があると言えば平安中期に中国から渡来した高貴な菊花文は皇室の文様です。古くは一般にも使われたそうですが、明治二年に皇室以外の使用は禁止されました。

 家紋の起こりは、古代から上流階級の衣服、調度品、輿などに付けた文様が家の標識となり、その後、武家社会で戦場において家の識別をするための陣幕、旗印、馬標に用いられました。つまり、家紋は同一家名に属した者が同じ紋を使用して一門の団結を強める役割を果したのです。

 戦国時代を経て徳川の世になると為政者は裃に家紋をつけることで出自を明らかにさせました。駕篭や提灯などにも付けています。お互いに家格、門地(もんち)を知ることで封建社会の人間関係をスムーズにさせたかったのでしょう。

 その頃の女性の地位は当然高くはありませんでしたが、紋付を身につけることで堂々と男性と対等の立場を示した例があります。歌舞伎の先代萩、飯炊(ままた)きの場での赤の無地に五つ紋の政岡の衣装がそれ。政岡は幼君の養育係、当時のキャリアウーマンです。先頃他界された七代目尾上梅幸さんの舞台姿が目に残ります。ふっくらとして気品のある動きの中に、主君を守ろうとする烈々たる気迫が漲っていました。

 一方、町人の女性は普通、羽織は着ないものでした。でも、後家さんが紋付羽織姿になる場合は、亡くなった主人に代わって男姿で「私が店をとりしきります」という意思表示になるのです。

 江戸中期以後は家紋も装飾の意味が強くなり、華麗な加賀紋、粋な伊達紋、男女相思のあかしとしての比翼紋などが出てきました。

 時代によって変化しますが、基本的には男性が羽織・袴、女性が留袖でそれぞれ五つ紋がついて第一礼装。あとは三つ紋。一つ紋。また、染め紋が格が上で、縫紋にすると洒落てくだけた感じになるのです。最近は呉服屋さんへ出自に関係なく綺麗な紋を との注文があるとか。家に対する考え方の変化が判ります。

 家紋を分類しますと、動・植物、器物、自然現象などに大別されますが、植物では、橘、桐、柏のように古代から高貴な文様とされたものが代表的な家紋になりました。特に桐は中国から鳳凰の好む木として伝えられて皇室の他、足利氏、織田氏、豊臣氏などが用いています。藤は藤原氏。蔦も万葉集にある古いものですが、徳川八代将軍吉宗が好んだことで権威が増し、形の優美さとまつわりつく性質から粋筋にもよく使われました。また木瓜(もっこう)片喰(かたばみ)も広く大名、旗本に見られた代表的な紋ですが、江戸を開いた太田道潅の紋所はなぜか謀叛人と言われた明智光秀と同じ優しい桔梗紋です。

 珍しいものに丁字(ちょうじ)、茄子、大根、桃などの八百屋さんのような紋があり、他方では雑貨屋さんのように団扇(うちわ)、傘、独楽、筆、杵、鎌の他、五徳、釜敷の紋まであります。更に特殊な久留守(くるす)紋はキリシタン大名のものです。

 泉鏡花の紋は、源氏物語に因んだ優雅な源氏香の「紅葉(もみじ)()」ですが、本来の笹竜胆の紋から、師、尾崎紅葉に敬意を表して変えたものと聞きました。

 また、動物では竜、鶴、鳳凰、亀など瑞祥を表すものの他、鳩、兎、蜻蛉(とんぼ)、雀、雁、(かに)などが見られます。蟹がなぜ家紋化されたのか不明ですが、犬や猫、狐、狸紋のないのは身近なものだけに不思議でなりません。

 紋帳を開くと五千からある家紋の一つ一つが日本の奥深い文化を語ってくれるので、それに魅せられて時のたつのも忘れてしまうのです。さて皆さんの家紋は何でしょうか。

 

 4.伊勢型紙と江戸小紋

 

 この夏、うだるような暑さの中を渋谷のMギャラリーへ足を運びました。ジャワ更紗のコレクションを見るのが目的でしたが、部屋の一隅に何気なく積まれた伊勢型紙に目が止まりました。美しいオーナーの説明によれば御祖父様が集めた明治、大正の頃のものとか。お許し頂いたので、型紙の一筋でも害なったら大変と、心して見るうちに、その繊細さ、奇抜さに暑さも忘れてしまいました。錐彫と思われる鋭く細かい技法がこちらに強く迫ってくるのです。

 伊勢型紙といえば小紋と中形。その小紋とは一般には大柄と中柄(形)とわけた時の小さな柄という意味ですが、現在、素材の上では絹や麻、技法の上では型染片面模様で、大部分が伊勢型紙使用の糊置染めのものをいいます。一方、中形は木綿が主で防染糊を両面から置いた漬け染めが中心。いわばその代表がゆかたです。

 この伊勢型紙の生産地は三重県白子(しろこ)寺家(じけ)地方ですが、染匠もいない、型紙の材料となる手漉和紙や柿渋の産地にも近くないこの地に、何故型彫が盛んになったのか、未だ定説はありません。しかし、全国の紺屋に型紙を独占的に販売するようになったのは、元和八年(1622)紀州藩主徳川頼宣が流通の特権を業者に与えたこと、白子港が伊勢商人台頭と共に商業の中心地として栄えたこと等が原因の一つとして考えられます。いずれにしても、流行に応じた型紙を量産できる機能がこの地方にあったといえましょう。

 更に、主として江戸及び東京に集中していたすぐれた型紙も度重なる大火、あるいは関東大震災や大戦の戦禍で古文書と共に焼失してしまったので謎の部分が多いようです。

 さて、小紋は「(かみしも)小紋」の伝統を継ぐ 「江戸小紋(註)」として無地に準ずる格の高いものと、自由な色柄を用いた洒落着としての「色小紋」とに分けられますが、その「裃小紋」とは徳川幕藩体制が整うにつれて武士の裃に用いられた藍・茶・鼠などの地味な単色小紋のこと。一見、無地のようですが近くに寄ると微細な文様が浮き出て見える、これが武士のお洒落だったのでしょう。その需要に(こた)えたのが伊勢型紙です。そして用いられた錐彫で開けられる穴は一寸(約3cm)四方になんと千以上とのこと。また文様の種類も増えて毎年、裃の新柄が各地に売り出されたともいいます。

 諸国の大名は特定の紋柄を指定して「留紋」「定め紋」と称して他用を禁じました。将軍家のお召十字をはじめ、綱吉の松葉、前田の菊菱、鍋島の胡麻、島津の鮫小紋などが例としてあげられます。その動きに対して町人は、似た文様を着て咎められては、という恐れと武士に対する日頃の反発心もあって、洒落のめした紋柄を作らせ、下着や羽織裏に仕立てて楽しみました。江戸後期の戯作者、山東京伝の案出した新柄小紋図案帳には(かぶ)、するめ、にわか面、跳ね鼠などがあり、役者も亀蔵小紋や芝翫縞などを考案して、江戸庶民を喜ばせたのです。

 明治中期以降になると下町の粋の世界に対して新興の、つまり地方出身の官員社会、山手風が確立してきました。大きめの大らかな趣が好まれたので、従来からの単色小紋が次第に「江戸小紋」として区別されるようになったのです。

 そして大正時代には新しい技法や化学染料の発達によって、ピンクや藤色などで型染された薄手の毛織物、メリンスやモスリンの他、シャルムーズ(地紋のある錦紗)などが流行しました。図案も更に多様化してアルファベットなども見られます。

 しかし、現在、この小紋や中形を生み出す伊勢型紙の型彫職人はさまざまな状況の変化から姿を消し、技術保持者として文化財保護の認定を受けた六名(1955)の方も殆ど鬼籍に入られました。従って平成三年に発足した伊勢型紙技術保存会の活動が大いに期待されるところです。

 練り上げられた伝統の文様と斬新な意匠を支えたこの手仕事の極致はもう望めないのでしょうか。あの日、そんな淋しい想いにも捉われながら一枚一枚、伊勢型紙を透し見たのです。

註・「江戸小紋」は型友禅と区別して、無形文化財保持者(1955)小宮康助氏認定の折、文化財保護委員会が使用した名称。

 

 5.元禄文様

 

 元禄十五年十二月十五日午前四時頃(寅之上刻)これが浪士の吉良邸への討入りの時。西暦では一七〇三年一月三十日にあたります。

 さて、その討入りに浪士たちは何を着ていたのでしょうか。

 一般庶民は江戸時代になってやっと今までの粗い麻布、藤布などから保温性の高い木綿を着ることができました。また、経済状態の安定を背景として、質の良い絹糸や織物も輸入され、衣服にする材料も、織物・染色の技術もぐんと豊富に高度なものになったのです。それらの集大成、発表の場が「小袖」と考えてよいのではないでしょうか。

 本来「小袖」は直衣(のうし)、水干などの下着として用いられた白衣ですが、その後、絹布の綿入れを「小袖」、木綿のそれを「布子(ぬのこ)」と呼んで区別していました。また、一般的な衣服として定着したのが室町時代。現在の着物の原型といわれます。

 その小袖に描かれた江戸初期の意匠は、一般に寛文模様といわれて戦国時代の荒々しくも闊達な風が残っています。具体的には芭蕉や花丸紋のような花鳥草木の他、碁盤、梯子、三味線、弓矢などのユニークな題材です。

 現存する文様の雛型や、当時の風俗を描いた屏風や浮世絵がその貴重な資料になりますが、例えば「彦根屏風」には絞り(鹿の子絞り)、刺繍、摺箔(金銀)など、贅をつくした文様が見られますし、他にも片身替り(左右違う模様)や唐織文の段替り模様、肩裾模様や色紙ちらしなども描かれています。それが十七世紀ころの流行だったのでしょう。また、切手になった菱川師宣の「見返り美人」を思い出してください。髪は毛先を丸めた「玉結び」。少し巾の広くなった帯も「吉弥結び」(歌舞伎役者、上村吉弥考案)。流行の先端をいっています。

 その後の元禄模様は繊細で華麗の極みといわれ、色彩も玉虫、鴬、瑠璃紺などの中間色が好まれました。花鳥、風景、諸道具などの図案化が宮崎友禅の出現で一層豊かに表現され、尾形光琳の意匠、光琳桐、光琳梅などともてはやされたのもこのころです。少し後になりますが、鹿の子、弁慶格子、市松、亀蔵小紋の流行も特徴的で、洒落た感覚の発展に歌舞伎の力が大きかったことは注目すべきでしょう。

 こうして輝きを増す町人の台頭を押さえようと幕府は奢侈禁止令を度々出しました。しかし町人は反発こそすれ「奢侈」はそのまま深く静かに潜行して江戸的な渋い好みの中に、渡りものの莫臥児(もうる)や縞、更紗などをとり入れたりした江戸の粋「底至り」の世界へゆきつくのです。

 さて冒頭の討入りの衣装は衿に氏名を書いた刺子のお揃い、火事装束でした。途中で咎められれば申し開きができ、戦闘にむく機能的な服装、しかもお揃いで集団性を強調できるものとなればこれが一番。加えて、水を表わす白の三角が、火を表わす黒のそれを押える、袖の山形模様は、呪術的な水の意匠を意識的にとり入れたものと言えましょう。綱吉の時代には大火が四回もあり、小さい火事は数しれなかった江戸です。抜本的な消火の対策のなかったころには祈るより他はありませんでした。その江戸初期の消防史上、勇名をはせたのが長矩の祖父、浅野内匠頭長直です。庶民はもうこの二人を同一視しました。

 火消しで功をたてた殿様が無念の思いで死に、その敵討は当然、火事装束を着て果さなければ亡君はよろこばないと。

 従って事件後、四十余年たって上演された「仮名手本忠臣蔵」の討入りの場は揃いの火事装束で見物の庶民を沸かせたのです。本来の記録には「いろいろ異様なる装束_」とあるようですが。

 さて、その装束の山形模様ですが、インドネシアのトゥンパル(山形鋸歯状)に思えてなりません。そうだとすると、彼等は「底至り」のさきがけをなした洒落者たちの集団といえるのではないでしょうか。

註・丸谷才一著『忠臣蔵とは何か』をぜひご一読ください。

 

 6.江戸の底至り

 

 先頃、肉筆浮世絵展(出光美術館)に行き、版画とはまた違った味の繊細でにじみ出るような艶やかさを楽しんできました。江戸中期以後の爛熟した文化を(うかが)い知るには浮世絵が最もよい資料となります。ゆっくり時間をかけて見た中で、京の狩野派、西川祐信描く「柳下納涼美人図」の(たおや)かな姿に、また歌川豊国描く「円窓美人図」のぬれ髪の乾く間の涼しげな風情に魅せられました。人物の華やかな美しさだけでなく、図中に更紗(さらさ)を巧みに取り入れている新しい感覚に心捉えられたのかもしれません。

 度々出た奢侈禁止令でこの時代の色の好みはどんどん渋くなりましたが、その分、文様の方は工夫をこらして、一見ありきたりに思える縞や格子がさまざまなアイデアをもって表現されています。それと共に渡りもの(輸入品)の更紗が「底至り(註)」の美学にいっそうの彩りを添えました。そしてそれらの流行を支えたのは、歌舞伎役者と芸者だったのです。

 まず縞。縞には「千筋」「万筋」それがよろけて「よろけ縞」。太い筋から次第に細くなる「滝縞」などがあります。その縞を基本にして格子が出来、それを歌舞伎役者がいろいろ考えて自分の柄を創案しました。

 たとえば「芝翫(しかん)縞」。これは初世中村芝翫が共演の三世坂東三津五郎の「三ツ大」紋に対抗して創ったといわれ、四本の縞に鐶(引出しの取手金具)を組み合わせて、し(四)かん(鐶)と読ませる柄です。一方、三津五郎も各々三・五・六本の縞を格子にして、みつ(三)ご(五)ろう(六)を表わす「三津五郎格子」を考え出しました。

 また十三世市村羽左衛門は六本筋の格子に平仮名の「ら」の字を配した「市村格子」を作り、三世尾上菊五郎は横筋五本、縦筋四本、それに「キ」「呂」を入れて「キ」九(筋の合計)五(横筋)「呂」の「菊五郎格子」、さらに縁起をかついで「斧琴菊(よきこときく)」の文様を展開します。ライバルの七世市川団十郎(俳号 三升)も大中小の桝を入れ子にした「三升」柄に吉祥の蝙蝠を飛ばしたり、「鎌◯(かまわ)ぬ」という判じ物を染めたりして注目を集めました。「鎌◯ぬ」は、仕事のためには、この身はどうなっても構わないという意味で、江戸初期の町奴の間でもてはやされていたのです。それを団十郎が舞台衣装にとりあげたことで、一時は廃れていたこの文様が再び陽の目を見、とくに男性に好まれたといいます。

 他にも、普通は地色が赤のところを五世岩井半四郎が浅黄にして着た「半四郎鹿の子」や、古くから能衣装にあるのを人気ナンバーワン若手、初世沢村源之丞が着た「観世水」も、文様が復活したよい例です。

 そして、贔屓(ひいき)すじ、中でも芸者が競って鹿の子や流水を小袖や浴衣、その他の小物につけて役者を後援し、同時に流行におくれまいとしました。

 今年は子年(ねどし)、子に因むいろいろなものが商品化されていますが、文様としては、写楽作「湯浅孫六入道」(尾上松助)の丹前(たんぜん)にあるのが一番の傑作と思えるのです。これは山東京伝の滑稽図案「小紋裁(こもんざい)」の中の玩具「跳ね鼠」を組み合わせて青海波風にしたもので、舞台で喝采を浴びました。

 さて、この時代の流行は「四十八茶、鼠百」と言って茶と鼠とがその代表色。茶には五世団十郎の柿色(弁柄に柿渋)が市川家の色として有名ですが、璃寛(りかん)茶、芝翫茶の他、瀬川菊之丞(俳号 路考)の路考(ろこう)茶も知られています。路考茶は緑を帯びた金茶色なのですが、今まで糞色といわれたこの色を路考が好んだということで、たちまち流行色になった曰く付きの茶色です。

 鼠は深川・藤・鳩羽・桜など百を数えるくらいあって微妙な色合いが好まれもし、それを染め分ける技術も発達したといえましょう。三代歌川豊国の「神楽坂」(江戸名所百人美女)には、その頃全盛を極めた毘沙門天と共に、鼠地に茶と白の棒縞、印章散らしの衣装を着た美人が描かれています。

 このように江戸の「底至り」は、さらに東南アジア、インドなどに深いつながりを持った異国情緒(エキゾチシズム)を取り入れていきました。はじめに挙げた祐信や豊国の他、歌麿や英泉、そして広重の美人画の中にも更紗文様の帯や下着が描かれていますが、その更紗はどうやって海を渡って来たのでしょう。

註・底至(そこいた)り 外観はそれほど美しくはないが、表面に出ないところが念入りにできており、精巧なこと。(『小学館国語大辞典』より)

 

 7.海を渡ってきた更紗

 

 「ま、いい更紗(さらさ)だこと。手描きね。洋服なんぞにもったいない。それ帯にしたら? いいのができるわ。きっと」

 小股の切れ上がった姿そのままの江戸弁で柳橋(やなぎばし)(ひと)にこういわれ、私は何とも複雑な気持ちになりました。三十数年前の誕生日にプレゼントされたのが、ジャワ更紗との初の出逢い。それ以来、夏服はこれに決めています。薄手でしっかりした木綿に描かれた細かい柄と、わざとらしさのない発色の落着きに、すっかりはまってしまったのです。

 さて、前に述べた「江戸の底至り」に華を添えた更紗は、どんな風に日本に渡って来たのでしょう。

 慶長十八年(一六一三)イギリス人J・セーリスの『日本渡航記』に更紗を平戸領主に贈ったとの記録があることからも、その頃、ポルトガル、スペイン、オランダなどからの船載品の中に更紗が含まれていたことは容易に推測できます。そして小袖、帯などの衣料に用いる他、風呂敷、煙草入れなどにもして利用度は高かったようです。

 山鹿素行(やまがそこう)(一六二二~八五)が着用したといわれる白地に幾何学文様と鋸歯(トウンバル)文様の陣羽織が現存していますし、また、『歌舞伎図巻』に更紗文様の袖なしを着た若衆、『邸内遊楽屏風』には袖口に鋸歯文様のある小袖を着て楽しげに鼓を打つ女などが描かれています。

 大衆の集まるところで目立つニューファッションとして、この異国情緒豊かな布地が愛好されたのでしょう。確かに今まで絞りや繍いに頼っていた文様が、模様染として鮮やかな色彩に加えて、通気性よく洗濯可能な木綿という取り扱い簡便な素材を伴って出現したのですから、珍重しないわけがありません。日本ではこの外来の手描き、型染めなどの模様染めを更紗、皿紗、佐良紗と記し、金箔や金泥を施したものを金華布(かふ)、金更紗と呼んでいます。各国ではどう表しているのでしょうか。

スペイン  SARAZA サラサ

ポルトガル SARACA サラーサ

オランダ  SISTS シッツ

ドイツ   CHINTZ チンツ

イギリス  CHINTZ チンツ

フランス  SIAMOISE シャモワーズ

インドネシア BATIK バティック

インド   KALAMKARI カラムカリ

中国    花布  ホワプー

 更紗のルーツは、紀元前から模様型染めがすでに行なわれていたインドとされていますが、その到来が日本の友禅染めをはじめとする各地の模様染めの発達に大きな影響を与えたようです。

 さて、江戸期の資料を見ますと、インド産が中心で、その輸入量も正徳元年(一七一一)に金更紗二〇反だったのが、天明元年(一七八一)には壱番更紗二〇〇反、弐番更紗一、一〇〇反と飛躍的な伸びを示しています。壱番とはベンガルのカシムバザール仕入れの品、弐番とはビハール州パトナ仕入れの物で一段下の品質とされていました。またその文様は日本向けに製作したと思われる扇子、紋手、いちご手などがあり、井伊家伝来の「彦根更紗」の中に実例が見られます。

 十九世紀になるとヨーロッパ更紗が輸入され始めました。日本でも和更紗がつくられたように、ヨーロッパでも更紗が作られたのです。文化十年(一八一三)、輸入総量七、八七二反の中、本国上更紗一六六反(上等品)とあってこれがヨーロッパ更紗の初出。ただし、これはオランダ船と称する実はイギリス船によって運ばれたものでした。そしてそのことは、オランダ商館長H・ドゥーフ以下数名と日本側のオランダ大通詞五名のみが知る大きな秘密事でした。寛永十六年(一六三九)以降、オランダが唯一の通商相手国と定められていましたから。

 そういえば先頃、TV・長崎奉行・(市川森一原作、NHK)で遠山金四郎の父、長崎奉行の小林稔侍と、日本を脱出して今は清の通辞となった萩原流行とが、イギリス船をオランダ船であるといい切って窮地を逃れるドラマの山場を興味深く見たところです。

 

 8.更紗をめぐる国際情勢と和更紗

 

 いろいろと考えた末、紅色の地に鋸歯(トウンバル)文様の更紗を小型バッグにして結婚祝に贈りました。先代からの更紗蒐集で知られる銀座「むら田」に仕立ててもらったのです。着物にはもちろん、無地の服にそれを持つと一層ひきたって嬉しいと若い女性(ひと)に喜ばれ、幸せな気持ちになりました。つい先頃のことです。

 鎖国下の日本が唯一通商相手としたオランダ商館はバタヴィア(ジャカルタ)に政庁をおく東インド会社の支社で公の国際機関ではなかったのですが、江戸幕府はそれを国家的背景のある商社として認め、通商と海外情報を得る窓口として利用しました。寛永十八年(一六四一)には平戸から長崎へ移転を命じ、その出島で以後二〇〇余年にわたるオランダ貿易が行われたことはご存じの通りです。

 しかし、一八一一年、バタヴィア地方を占領したイギリスのT・S・ラッフルズは日本との貿易を計画しました。あのボロブドール遺跡の発見者です。日本に初めてヨーロッパ更紗を持ち込んだのがオランダ船を装ったイギリス船だった事件は前号で述べました。そのイギリスの望んだ取引内容は従来の日蘭貿易と同じだったのですが、出島の商館長H・ドゥーフはその時のイギリス代表とわたりあってオランダの権益を死守したのです。その後、バタヴィアもオランダへ返還されましたが、まさにイギリスの進出による国際情勢の変化の中、オランダは危機的状況に立たされていたといえましょう。

 さて、我が国文政期(十九世紀初)の更紗輸入は年平均八千反余になり、ヨーロッパ産のものがインド産のそれを上回ってきます。本来、ヨーロッパ更紗は色鮮やかで独自の花柄や幾何学紋様が描かれ、インド産よりも高価なものでした。しかし、同時に模造パトナ、模造ベンガルと称してインド更紗を模した下級品も製作しています。産業革命による木綿の大量生産が背景にありますから、非常に安価で本家のインドに対してもどんどん輸出しました。そのため、インドの上質綿布業者は大打撃をうけ、デカン高原が手織綿工業者の骨で覆われたといわれています。

 日本にもこうしたヨーロッパの模造更紗が大量に輸入され、より実用的なものとして扱われたはずですが、安価になったとはいえ、この渡り物が実際にどんな値で人々の手に入ったのか知りたいと思います。いずれにしても、衣類として庶民への拡がりが急速だったと見え「近来軽キもの共、ころふくれん(毛織物)さらさ等帯其の他ニも相用候由…」と禁止の対象になり、更に着用した者も罪になる文政十三年(一八三〇)のお触書(ふれがき)がでました。それでも洒落者たちは着物裏、襦袢、下着などにしたといいますから、ずいぶん勇気ある話ではありませんか。

 衣類の他「名物裂(めいぶつぎれ)」といわれた金襴(きんらん)緞子(どんす)と同様に十七・八世紀の「古渡りの更紗」が抹茶道具の内箱・包物や茶箱の仕覆に仕立てられて幽美な世界を形成しています。また煎茶では仕覆(しふく)、炉屏、袱紗などに用いられました。清潔な木綿の味わいが、道具の素材である錫や銅によく調和したのでしょう。

 一方、日本製更紗の発展に関しては十七世紀に「沙室師(しゃむろし)」という更紗染の職種の記録があるくらいで、京都、堺、長崎、天草などで作られていたことは判っているものの「鍋島更紗」を除いてその詳細は不明です。

 「鍋島更紗」は三〇〇年余も続いた江頭家の一子相伝で作られ、主に参勤交代の折の土産にしていました。藩の保護の下に図柄も技術も高度に保とうとしたので、一カ月に一匹(二反)しか生産できなかったことや、素材も木綿の他、縮緬(ちりめん)(つむぎ)なども取り上げていたことが、現存している「秘伝書」「見本帳」「更紗日記」などに記されています。製作にあたっては蝋でなく糊おき引染めの簡単な工程なので色落ちするのが和更紗の問題点でした。技術的に優れていたといわれる「鍋島」も例外ではなかったようです。

 しかし、更紗が伝来してから一世紀もたたないうちに和更紗作製の動きがあったのですから、いかに日本人が愛好したかが判りましょう。更紗を通して世界の動きを見ることの面白さも加わって、この魅力ある布がこれから先どんな変容をとげるでしょうか。

 

 9.縞を追って

 

 我輩は縞である。バリエーションがありすぎて定まった名はまだない。といって始めたい縞の話です。今年は縞が流行るとのこと。そういえば確かリカちゃん人形の新しいスチュワーデスの制服も、きりっとした縞でした。その縞と格子・水玉は旧くて新しい普遍的な文様として世界中の人々に愛されています。

 特に縞は単純でありながらその太さ、本数に色が加わることによって、一層、複雑な味わいを増していきますが、共通する持味は、すっきりと強く爽やかであると同時に、或種の艶やかさを示している点でしょう。

 

「あの金時計は、当分私が預かって置きます」

「私からーーええからーー私から誰かに_」

寄木(よせぎ)の机に(もた)せた肘を跳ねてすっくり立上がる。紺と、濃い黄と、木賊(とくさ)と海老茶の(ぼう)縞が、棒の如く揃って立ち上がる   『虞美人草』(岩波書店  全集第五巻)

 

 着る物の柄までは余り細かい描写をしていない漱石も、藤尾の美しく、プライドの高い魅力を、このように癖のない洗髪と棒縞の着物とで余すところなく表現しています。「しま」は古くは筋といいました。採集した科や藤を紡いだ繊維を材料として織った布に、わずかな自然の色の濃淡が微かな筋を生んでいたからでしょう。万葉集や日本書紀にも出て来る在来の織物「倭文布(しずり)」は筋織の転化したもので竪縞を、「(かんはた)」は横段の縞を意味しています。

 平安時代の「伴大納言絵詞」や「信貴山縁起絵巻」などの絵画資料には横段の縞や格子を着た武士や庶民が生き生きと描かれていますが、竪縞は見当りません。格子文様があるからには当然、竪縞が用意されている筈なのに、不思議なことです。

 室町時代になると勘合貿易の開始によって、明から美術工芸品と共に金襴(きんらん)緞子(どんす)などの優れた絹織物がもたらされました。中でも間道(かんどう)が名物(きれ)として珍重され、茶入れの仕覆や掛軸の表装などに用いられています。間道とは(広東とも漢島とも書く)中国の江南地域を示す一方、間は混じる、道は筋を意味して竪縞を指しますが、色合の配列の巧みさも含めて茶人の好みにぴったりだったのでしょう。

 その後、インド、中国、マカオを拠点としたポルトガル、イスパニアの所謂、南蛮船が織物を運んで来ました。輸入品目録に記された弁柄嶋(ベンガル)桟留嶋(セント・トーマス)錫蘭山嶋(セイロン)など、色鮮やかで絹のような光沢をもった広巾木綿は、南の奥の嶋からの舶来ということで奥嶋と総称されています。その中、桟留嶋はまたの名、唐桟留、略して唐桟といって広く庶民に愛好されました。木綿栽培の普及と共に唐桟縞柄も模織され、当時の縞帳を見るとそのアイデアの豊富さに驚かされます。こうしてインドや東南アジアからやって来た縞(島)文様は、江戸中期以降になると江戸っ子の意気の象徴として粋の頂点に立つようになりました。基本となる大名縞から細かい千筋、万筋、さらに太線の横に細線をそわせた子持縞、三本一組の三筋立てなど、さまざまな縞文様が発展していきます。幕府の奢侈禁令が多種の縞を生んだ背景となっていることは見逃せません。つまり一見地味に見えても、その実、繊細な美意識と豊かな経済力に支えられて、色も文様も一段と工夫をこらした江戸の「底至り」の時代になるのです。一色型染めによる小紋の流行もそれに拍車をかけました。

 三糎巾に二十本余の竪線が走る特に細かい極毛万筋の型紙は主に小型の切出しで手前に引切って作るのですが、これを引彫または縞彫といって型彫職人の腕の見せどころです。しかし自分の手で最終的な作品を生み出さない伊勢型紙の彫師の存在は特殊ともいえましょう。江戸小紋染の人間国宝、故小宮康助氏が認定の際に言ったという「型彫師にやってくれ」の言葉がそれを物語っています。かみ合った歯車のようでなければならない関係であると同時に、職人同志の意地の張合いが技術を高めていったに違いありません。本来、織文様である筈の縞が小紋に試みられたのは、いかに縞柄の流行が根強いものだったか判ります。遠見には無地に見えても近くによると、なんと、万から引かれた細い竪線。これこそ粋の極みです。

 

 10. 千変万化の縞

 

 今度は、さまざまな顔を持つ縞を取り上げてみます。さて、大名。子持ち。しの竹。よろけ。これらの下につく共通の一字は何でしょう。そう、縞です。このように色々ある変わり縞の中で第一に挙げられるのが芝翫(しかん)縞。先に「江戸の底至り」の節でご紹介したように、縞に(かん)(引き出しの把手)を組み合わせた艶やかにして粋な連続模様です。四本の縞で「し(芝)」鐶で「かん(翫)」。つまり「しかん(芝翫)」と読ませました。文化・文政期(1804~1829)の名優三代目中村歌右衛門(初代芝翫)が「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」で放駒(はなれごま)長吉を演じた時に着たのが始まりで、その優れたデザインは現代にもしっかり根を下ろして、手拭いや和装小物などに今も華やいだ趣を伝えています。

 実はこの芝翫縞、共演の三代目坂東三津五郎の「三ツ(だい)」に対抗して創案したものでした。多くの役をこなした名優三津五郎の考案による家紋に因んだ「三ツ大」縞(三筋に大の字繋ぎの縦縞)はすでに有名ですし、また、歌川豊国描く浮世絵に見られる格子文様も洒落(しゃれ)ています。縦三本で「みっつ」、五本で「ご」、六本で「ろう」と読むのでしょう。

 芸の上だけでなく、このようなデザインの上でも張り合っていますので、観客も贔屓(ひいき)役者を応援するために、着物その他に競ってそれぞれのデザインを取り入れました。それが人気のバロメーターになるわけです。

 さらに文政期になると、当代の人気役者七代目市川團十郎の案による瓢箪蝙蝠縞(ひょうたんこうもり)が流行しました。これは三筋の縦縞の間に、瓢箪と蝙蝠とを交互に並べた複雑な文様です。

 その團十郎にライバル意識を燃やしていたのが三代目尾上菊五郎。さまざまな逸話がありますが、その一つに團十郎(俳号三升)の「三升格子」に対抗したという「菊五郎格子」があって「縦四本・横五本の格子」の中に「キ」と「呂」の字を配し「キ・九(縦と横の合計)五(横縞)」「呂」の字を配し菊五郎と読みました。縞は単純なものですが、このように縦縞と横縞の組み合わせが格子柄を生み、さらにそれが限りなく広がるのです。例えば微塵(みじん)、障子、童子、高麗屋(こうらいや)格子などと数え切れません。

 この二人は縞、格子に限らず「細工物籃縞評判(さいくものかごのうわさ)」上演の際、舞台衣装の意匠合戦をしているのが国安の浮世絵で見られます。浪花次郎作(なにわのじろうさく)を演ずる團十郎の着物は杏葉牡丹(ぎょようぼたん)。袖なし羽織は「鎌」「○」「ぬ」の組み合わせで、「かまわぬ」と読むことも思い出していただけたかと思いますが、この歴史は意外に古く「水火も辞せず(私はどうなっても構わぬ)」の意味で、江戸初期の町奴(まちやっこ)の間で流行した文様です。一時期廃れていたのを團十郎が舞台で着用して評判になり、以後、市川家好みとされました。一方、吾妻与四郎(あずまよしろう)を演ずる菊五郎の着物は杏葉菊。袖なし羽織は「(よき)」「琴」「菊」の三つで「良き事聞く」と読むのです。これも「お判じ物」として古い着物のひな型にあったのを、菊五郎が取り入れ、尾上家の意匠として愛用しました。その裏側には「かまわぬ」文様への対抗意識があったと言われています。いずれにしても大流行。「かまわぬ」は主に男性が「よきこときく」は女性が好んだといいます。

 それでは、横に一本筋、縦にに六本筋、これに平仮名「ら」の字を配した格子柄はなんでしょう。考えて見てください。(ヒント:一と六と「ら」でこれも歌舞伎の名門)。

 このように江戸後期の流行の発信地は歌舞伎役者が主流となっていました。爛熟した江戸文化を背景として、彼らによって創出された謎解きのような斬新な文様が多くの人の目を楽しませたのです。

 外国に目を向けると、ヴィトンを始め、フェンディ、ディオール、エルメスなどが裏地や傘、ベルトの金具などにロゴを組み合わせたデザインを用いて、その社の特徴を主張しています。そして、それが大きな効果をあげていますが、軽薄にもそのまま「ブランドもの狂い」にも繋がる現象をどう捉えたらよいのでしょう。

 今夏は若い人の間で浴衣と下駄が流行(はや)ったと聞きました。色とりどりの花柄はかわゆいのですが、一方では誰も彼もが同じに見えてしまいます。いっそSMAPのキムタク縞とか中居格子、剛ちゃん絞りなどと、ワンポイントTシャツだけに留まらない総柄の工夫をしてみてはいかがでしょうか。それも出来るだけ過激にカブイたものを。

 縞を食べ物に(たと)えると「蕎麦(そば)」ではないかと思います。素朴であっても奥深く、素材選びから始まって、その打ち方、茹で加減、食し方もさまざまあるのですから。

 次にはクレープの味「絞り」を取り上げてみようと思います。 

 11. 憧れの京鹿の子

 

 十四万八千、三千、四十五、七十。この数字は何でしょうか。最初が着尺分の絞り目合計、次が一日に絞れるおよその目数、そして布一寸(3・3センチ)四方の中にある(しぼ)り目数、最後が反物全部絞り終わるまでにかかる日数。これが最近の総鹿()の子一反にかかる数の話です。

 一寸四方にある数は粒の大きさによって三十にも六十にも出来ますが、細かいから良いというわけでもありません。

 とにかく「本鹿の子」の手法は布が斜めに伸びる性質を利用して、一日一日指先で布を()まみ、その根元を糸で数回巻いて絞めるのです。平面だった布がびっしり絞り目でおおわれてチリチリと縮みあがります。そして、もとの幅の半分以下にもなってうねうねと曲がりくねっている反物は、まさに大蛇。これには驚かされました。これを浸染(しんぜん)して、染め上がったところで(くく)り絞った糸をほどくのですが、その時の期待に満ち溢れた緊張感をどう表したらよいでしょう。最後に開いて見るまで、結果が予測出来ない偶然性の部分が多い染め物ですから。もちろん分業ですが括り手の大変なこと。下絵も道具も使わずに、ただ指先の感覚だけで絞り上げるのです。その布に出来た凸凹の(しわ)が、微妙なかげりや輝きを創り出して人びとを魅了します。

 このような(しぼ)り染めの代表「鹿の子」は、小鹿の背中の斑点を思わせるところから名付けられたといい、その可憐な文様が多くの人に好まれたのでしょう。江戸時代初期の風俗を描いた浮世絵や『彦根屏風』をみると、その中の女たちのほとんどが鹿の子絞り文様の入った小袖を身につけています。

 その頃、総鹿の子の小袖は、括り手が休まず働いても、一年以上の月日を費やしたでしょうから、高価になるのは当然ですし、それを一度は着てみたいと憧れるのも無理はありません。

 一方、以前にも倹約令を度々出していましたが、綱吉の天和三年(1683)幕府は「女衣類製作禁止品目」をさだめて、分に応じた物を着るようにと発令し、華美衣服禁止の例として「総鹿の子」を槍玉(やりだま)にあげています。さらに、矢継ぎ早に奢侈(しゃし)品輸入禁止令も出しました。たしかに、これら禁令の一時的な効果はあったようですが、それでも目立たぬように重ねの下着に使ったり、身分のある裕福な者は、娘の嫁入り支度に十二色の総鹿の子の衣装を揃えて持たせたりしたとのことです。

 また、禁止された鹿の子絞りを模倣した()匹田(ひった)(型紙を使って絞りの様に染めたもの)が考案されました。そして、絞りには及ばなくても精緻な技術を必要とした摺り匹田は、逆に鹿の子絞りを刺激して、粒の大きさを揃えたり、細かく密にするなどの絞り染めの技術に一役買っています。さらに、この奢侈禁令が、江戸中期以後の友禅染めの大いなる発達を促したと言えましょう。

 さて、古く奈良時代の染色法には「臈纈(ろうけち)」(蝋染め)「夾纈(きょうけち)」(板染め)「纐纈(こうけち)」(絞り染め)があって、インド・中国から伝えられたと言われますが、簡単な絞り染めは以前から日本にもあったようです。たとえば、法隆寺や正倉院の御物にも、鹿の子絞り、蜘蛛(くも)絞り、縫い絞りなどがみられますが、当時の位置付けは低く、貴族社会では「織」を尊んで、十二単衣(ひとえ)などのように織物を重ねてその配色の妙を楽しんでいました。絞り染めは、むしろ武家や庶民の衣服に用いられながら、ゆっくりとその技術が進んでいったのでしょう。平安から室町時代にかけての文献には「(ゆはた)」「目染」「目結(めゆい)」「巻染」などと出ています。そして戦国時代を迎えると上流階級の衣服の簡略化とともに、本来は下着として用いられ、また庶民の日常着だった小袖が、社会性をもった衣服としてその地位を上げてきました。それにともなって、小袖の文様表現を(にな)ってきた絞り染めが注目され始め、大きく言えば「染め」時代になってきたのです。

 しかし本格的に絞りが発展するのは江戸時代で、京都中心の絹を絞った高級染色「京鹿の子」と、木綿に絞りを藍染めにした「地方(じかた)絞り」(有松(ありまつ)鳴海(なるみ)など)と、大別されるようになりました。

 このように社会の変化に敏感に反応して消長する染織の世界を眺めると、気持ちが乱れてきます。つまり、鹿の子文様などをより細かく、より正確にそめだすことがいとも簡単に出来るハイテクの現代に、伝統の手作りの良さを次の世代に伝えることの大切さをしっかりと主張すべきなのか、どうかと。

 次には、そうした社会の移り変わりの中で消えて行った絞り染めをとりあげてみようと思います。

 

 12. 庶民の絞り 有松・鳴海

 

 絞りが全国的に広まるのは江戸時代に入ってからです。あの奢侈(しゃし)禁令の第一品目に挙げられた京鹿の子も江戸半ばになると「小十郎鹿の子」や、浅葱(あさぎ)色に麻の葉模様の「半四郎鹿の子」など、当時の人気役者の名を冠した鹿の子文様が女たちを魅了しました。

 また、これらの絹を(くく)った高級な「京鹿の子」とは別に、木綿を括って藍染(あいぞ)めにした庶民的な「地方(じかた)絞り」が注目されるようにもなりました。その代表としての有松・鳴海絞り(名古屋)は、白地に藍のすっきりした色の中に多種多様な絞り方や文様が楽しめます。これも江戸中期からこの地域で盛んになった木綿栽培を土台に絞りの技術が進み、東海道筋の交通の要所でもあった事から、土産物として絞りの小物や手拭いなどが喜ばれたのでしょう。木綿はこれまでの麻に比べて保温・吸湿性に富んでいますから、日本の気候に適した素材です。江戸時代の人口の大半を占める農民の生活は厳しく統制されていて、着る物も青(紺)か浅葱色に限られていました。その中でこの木綿と藍の出会いが絞りになって、唯一自由でおおらかな動きをしているのではないでしょうか。実は有松・鳴海以前に、木綿絞りの先駆的産地として豊後(ぶんご)(大分・鶴崎中心)があげられます。九州の東玄関として栄えたこの地が参勤交代の中継地、宿場町でもあったので、自家用であったものが次第にその域を脱して土産物とされ、生産地として発展していきました。そしてその豊後の絞り職人が名古屋一帯に技法を伝えたのです。今日の有松・鳴海の代表的手法の手蜘蛛(くも)絞りや手(すじ)絞りなどの他に三浦絞りがあって別名「ぶんご」と言い、それは豊後の「三浦某」から伝えられた事に由来しているそうです。さらにこの地域は、尾張(おわり)徳川家の保護の下に工夫を重ねて、百種以上の素晴らしい技法を創り出しました。広重、北斎などの浮世絵やその他の文献に当時の繁盛ぶりが記されていますし、現在もその伝統の上に立派な地場産業として成立しているのはご承知のとおりです。このように江戸後期の木綿絞りの産地成立には、東海道や西廻り廻船などの交通が大きく関与しています。西の「筑前(筑前)絞り」(福岡)「出雲(出雲)絞り」(島根)、東の「横手絞り」「浅舞絞り」(秋田)、「白根(白根)絞り」(新潟)などに高度な技術が伝わり定着しました。しかし、それらの産地もその後の政治体制や交通の変化に加え、化学染料の導入が大きく影響して衰えはじめます。さらに世界恐慌(929年)や戦時の繊維類統制(1942年)を経て、結局、京都と名古屋の二大産地になってしまいました。その消えた例を「白根絞り」で見てみましょう。広大な新潟平信濃川沿いの白根(白根市)の地場産業、それが白根絞りでした。ここにはもう一つ名物があります。五月の青空に舞う大凧(おおだこ)合戦で今も大イベントとして全国に報道されていますが、それにひきかえ絞りの方は全く絶えてしまいました。系統としては有松・鳴海系で白地に藍染、文様はトンボや花の縫い絞りを中心に180年以上もの間、農閑期を利用して絞り続けられたのです。その豊後とも並んで名声を博した白根絞りがどのようにして衰退していったのか(特に第二次大戦後)を調べて、最終的には白根絞りの伝承、実現を夢見て努力を重ねておられる地元の婦人サークルが「ふきのとう」。戦前の絞り職人の方への聞き取りをして、技術だけでなく歴史的変遷の勉強もなさっている力強いグループです。衰退の原因はやはり前述したように政治、経済、交通の変化、後継者の問題が大きいものとして挙げられます。

 消えたといえば「辻が花」。縫い絞った輪郭の中に刺繍(ししゅう)摺箔(すりはく)、描絵を施した華麗なものですが、要は絞りで平面の区切りを狙ったわけで、しぼのある布の質感を楽しむのが目的ではなかったので、友禅染めの様に明瞭に色分けができる技法が現われれば「辻が花」そのものは消えゆく運命にあったのでしょう。寛文(1661~1672年)の頃を境に姿を消して、「幻の辻が花」の名称がまかり通る様になりました。もっとも、近ごろ「辻が花」風の文様が復活してときどき街でも見かけますが。いずれにしても「絞り」はインド、中国が発祥地でそこから伝達されたものといわれています。インドネシア・ジャワ島のスレンダン(肩掛け)やインドのターバン、婚礼の時の絞り絹のサリー、さらにモンゴルのフェルト地に施された蒙古絞り(チベット絞りともいう、円に十字型文様)などが魅力的。また、紀元前2500年から木綿栽培が行なわれているインカでは、ラマやアルパカなどの動物繊維も加え、豊かな染色文化が築かれています。大きめの鹿の子文様が多く、ポンチョにでもしたのでしょうか、それともミイラでも包んだのでしょうか。

 このように世界各地には魅力的な絞りがありますが、神楽坂そぞろ歩きの時にどこの店にどんな絞りがあるか(のぞ)いて見るのも一興ではありませんか。

 

 13. 絣 かすり カスリ

 

 犬を連れた上野の西郷さんは何を着ているでしょう。高村光雲作、銅像の西郷さんがです。「ウーン、考えたことないけど。でも、紺絣かな。木綿の」と、ほとんどの人がそう答えるのでした。花柄の友禅を着ているという人は、もちろん皆無です。鹿児島の銅像は当時の軍服を着ていますが、上野のそれは藁草履(わらぞうり)足中(あしなか)ばき、兵児(へこ)帯で、裾短かではありますが明らかに着物ですから、いろいろに想像できるはずなのですが。

 今回は、彼が着ていると思われる絣について話を進めましょう。絣は飛白とも書くように、所どころ、白くかすったり、また、白が飛んだりした文様。絣糸染めをする時に白く残したい箇所を括って防染したり、捺染したりして、白絣、紺絣、色絣、絵絣など、各地方独特の絣を生産しています。さらにお互いの技法を参考にし、新しく多彩な絣が創り出されました。繊維別には絹絣、麻絣、木綿絣。用途別には衣類、祭壇布、寝具に三分されます。

 さて、絣文様の起源については、インド、インドネシア、中国(新彊ウイグル)などの各説あって、現在も東南アジアの国々や、アンデスの国々にも絣布が見られるのはご存じの通りですが、その最古のものと言われるのが、インドのアジャンタ石窟寺院の壁画に描かれた(5~7世紀)貴婦人のスカートの矢絣です。日本で矢絣といえば、紫地に白の矢絣の衣裳で勘平と「落人(おちうど)」の道行きを踊るお軽や、卒業期になると見かける矢絣に海老茶の袴、髪に大きなリボンの大正ロマン気取りのお嬢さん達が思い浮かびます。その矢絣の発祥地がアジャンタ石窟寺院壁画なのですからびっくりするではありませんか。さらに、現存する最も古い品は、なんと日本にありました。奈良の法隆寺に収められている太子間道がそれです。焼失した金堂壁画にそれをまとった菩薩像が描かれていて、年代的にも明らかなことから、世界の貴重な染織資料とされています。ただ、その頃の日本の職技に直接には結びつきませんでした。

 では、絣が日本へ技法として伝わるにはどんな道があったのでしょう。それは太平洋に浮かぶ琉球列島を含む海の道です。福建を中心とした中国南部、タイ、インドネシア、フィリピン、沖縄へと、偏西風にのった最も自然な貿易が、単なる物の交流だけでなく、文化の交流をも果たしたのです。この中に絣の技法があったことは容易に推察できましょう。

 沖縄では、日本のどの地域よりも早く、しかも琉球王朝、(しょう)家の保護奨励によって発展しました。この沖縄の絣が本土に伝えられて薩摩絣、久留米絣、大和絣、伊予絣、弓ヶ浜絣、越後上布などのように、各地に広がっていったのです。その琉球絣をはじめとする各地の綿絣は次号で述べるとして、まず絹絣を取り上げます。

 京都は平安京造営以来、幾度かの戦乱に巻き込まれながらも政治・経済の中心としてずっと機能していましたから、そこに築かれた文化も、例えば染織の部門でも、その技術、文様は、他の地域に先駆けて大きな刺激を国外から受けていたことでしょう。また、安土・桃山時代にかけての武士階級の台頭に伴う染織工芸の進展は目覚ましいものでした。西陣がその中心です。絹絣が綾織、唐織、などに併用された能・狂言装束、すなわち、熨斗目(のしめ)がその後、上下を無地、中央を段替わり(腰明け)にして絣、格子、縞などを配した武士の礼装用小袖「武家熨斗目」として完成しました。米沢の上杉神社にある謙信の「紫白腰替り小袖」は絹絣の技法が十分に発揮されたその代表と言われています。また、徳川美術館、厳島神社、岡山の池田コレクションなどにも貴重な資料があるようです。歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』を大序からご覧になると、文様としては単純ですが色目も含めて絹絣「熨斗目」の魅力的な究極美が味わえることでしょう。

 ここで歴史上の人物にふさわしい着物を着せてみることが面白くなりました。高杉晋作には、すきっと洒落(しゃれ)た蚊絣の越後上布を着せるとか。逆に、勝海舟に紺地に十字の久留米絣を着せ、西郷隆盛に芝翫(しかん)茶よろけ縞の柔らかものを着せて神楽坂をそぞろ歩きさせるなどと。

 気味悪いとおっしゃらないでください。このごろの世の中のうす気味の悪いことと言ったら。

 

 14. 絣の道は海の道

 

 重要無形文化財「喜如嘉(きじょか)の芭蕉布」を支えてきた平良敏子さんの芭蕉布展を見てきました。一時期、消滅状態だったのを村の人々の力を得て昔ながらの方法で織り続けてこられたのです。糸芭蕉の皮から繊維を採り、手作業で糸にして絣括りをした後、琉球藍、車輪梅(トーチ)などの天然素材で染色し、高機(たかはた)で織るのですが、必要とする芭蕉はおよそ200本。栽培から布が仕上がるまで約4年はかかるので量産はできません。その希少価値がものを言って大変高価なものになっています。絣柄にはトゥイグワー(小鳥)、ナミガター(波形)、マユビチー(眉引)など、沖縄の生活風土に因んだ名がつけられています。また、ケーキ柄(アイスキャンデー)、ジンダマー(銭玉)、アキファテ(飽きるほど作った)、チチクンビーマ(拳固)などの呼び名もあって思わず笑ってしまいました。そして、平良さんが考案された柄、アササ(蝉)、アケーズ(蜻蛉(とんぼ))、カジマヤー(風車)などを見るとなんともあどけなくて心が和んできます。

 一枚だけ持っているハナーアーシ(花合)は、着るとすぐに皺になるのが気になっていまだに箪笥(たんす)の底に寝ている状態。平良さんに伺うと「ちょっと湿り気を与えてツンツンと引っぱればなんでもないのに」と優しく教えてくださいました。気候や生活の違いには逆らえないと嘆いていたのですが、今後はせっせと着ることにしましょう。

 その沖縄では王侯・貴族が世界でもっとも美しい絣を(まと)っていたといいます。色も黄は王家、紺は王子。紅、緑、葡萄色は士族でも許されなかったとか。その尚王家(しょうおうけ)を頂点とする貴族階級の衣料だった端正な琉球絣をはじめ、八重山、久米島、読谷(よみたん)などにも魅力的なものが多く、まさに沖縄は絣の宝庫です。そしてその絣が本土へ海の道を通ってやって来ました。

 さて、綿絣といえば久留米(くるめ)というように天明年間、久留米の井上伝女が工夫改良して広めたのが名高く、続いて伊予(愛媛)で鍵谷かな女が考案した伊予絣が知られています。これらはやがて備後(びんご)(広島)に入って備後絣となりました。いずれも18世紀末から19世紀初めに、幕府や時の領主が質素倹約をむねとして絹物の着用禁止をしたことが、綿織物の発展を促したのです。江戸から明治初期にかけては瀬戸内沿岸が棉の生産地で、特に讃岐(さぬき)(香川)は「讃岐三白(塩、砂糖、棉)」と言われたくらいでした。17世紀半ば、隠元禅師が中国から伝えた種が基になって大和(やまと)(奈良)をはじめ各地に栽培されるようになったのでしょう。

 同じ頃、浅田五右衛門が越後上布(えちごじょうふ)の紺絣をみて木綿に応用したのが大和絣。十字、井桁、亀甲絣が中心です。山陰では島根の広瀬、鳥取の弓ヶ浜、倉吉が有名で、長岡貞子女が始めた広瀬絣は、砂地に棉作をし、それを地藍で染めていました。また、縞のかすれた文様を工夫して花咲かせたのが、弓ヶ浜の絵絣です。柄も鶴、竹に虎、獅子、浜辺の家などが多く、夜具、座布団、着尺に愛用されました。

 そういえば、鏑木清方の作品に、挿絵依頼に来た小説家(鏡花)が、浅葱(あさぎ)の薄物に黒絽(くろろ)の羽織で自作を熱く語り、対する画家(清方)は麻に井桁絣を着て、身をのりだして聞いている情景を描いたものがあります。清方は髪型、衣装、眼差しだけでなく、季節感に至るまで細心の工夫をしていますから、その繊細な表現を楽しみましょう。

 一方、薩摩(鹿児島)で琉球から伝えられた綿織物が始まったのは16世紀半ば。紺地に白い絣を”紺薩摩“、白地を”白薩摩“といいますが、庶民に愛され続けた薩摩絣も次第に久留米におされてしまったので、逆に高度の技術を生かした絣文様の高級綿着尺を生産して今に至りました。

 その薩摩絣と大和木綿に関して面白い資料があります。幕末から明治初期にかけての短期間でしたが、薩摩藩は大和高田に国産会所を設けました。いち早く洋式紡績工場をつくったのが藩主島津斉彬。藩内の原棉不足を大和との業務提携で補おうというのです。つまり、藩は大和の豊かな物産と資力を利用して財政を潤そうとし、大和の豪商たちは土地の物産品販路開発の援助を薩摩藩に期待した、当時としては壮大な殖産振興プランだといえましょう。

 現代の日本にも抜本的な経済政策がなされないものでしょうか。

 

 15. 十二支の模様

 

今年はうさぎ なに見て跳ねる

 ()年。可愛いうさぎ文様の着物や小物が店先にたくさん並びました。でも、それは去年のはじめ頃から特に目立った現象のように思えます。なぜでしょう。うさぎは跳ねる、つまり景気が跳ね上がってよくなり、しかもツキがくるという、縁起をかついだものだと聞きました。なるほど、うさぎには月がつきものですし、まだまだ不景気風は吹きまくっていますし。もっとも、物価や税金が跳ねあがったりしたらどうしようもありません。

 この愛敬のあるうさぎを見ているうちに、来年は(たつ)年、次は()年と、それに因んだ文様が正月のお配りもの以外に、どう表現されているのか見たくなりました。

 辰には格調高い龍紋や粋な雨龍などが、巳には道成寺の三角鱗模様の他に、己・巳という字づくしなどがあり、(とら)(うま)は、竹林からの虎のひと睨みや駿馬を、さっと描いて羽織裏などにと、どんどん考えは進みます。同様に(うし)(さる)(とり)(いぬ)()も連続文様ではあまり見かけませんが、単独には描かれています。ただ、(ひつじ)は思い浮かびません。

 また、十二支に猫が入れなかった原因をつくった()に、面白い文様があります。山東京伝(1761~1816}の着物デザイン集『小紋裁(こもんさい)』や『小紋雅話(こもんがわ)』の中にある、玩具の「跳ね鼠」青海波がそれで、当時の歌舞伎の丹前衣装にも用いられました。そして「鍋蓋つなぎ」は、鍋蓋で鼠を押さえた瞬間を表していて、蓋から紐がチョロリと出ているデザインです。決してそれが鼠の尻尾とはいっていませんが、それの説明によると「地、鼠に染めてよし」とあることから、鼠だということが判ります。何とも洒落た話ではありませんか。

 猫も忘れてはなりません。猫の目だけを連ねた「猫の目」に添えた文に「この紋から十二時をしる」とあって、細い目の時は昼、丸く大きい時は夜であるというのです。そういう、人の意表を突くような文様が次々と生まれたのは、山東京伝の自在な才能もさることながら、江戸時代の庶民が着物に表された文様そのものを、自由な創造の場として受け入れ、遊び心を大切に生きていた証しといえましょう。

 このところ猫で目につくのは招き猫。右手をあげれば金を招き、左手をあげれば客を招く、果ては欲張って両手をあげ、あれもこれもというのもあります。(がん)は一つにこそ価値あるものと思うのですが。

 現代の猫文様にユニークな浴衣があります。それは長唄の今藤政太郎社中のお揃いで、デザインは今藤のお名取さんでもある、かの有名な朝倉摂さん。社中の全員がそれを着ての浴衣ざらいは圧巻でしょう。しかし、考えてみると皮肉なことに、三味線は猫の皮を張るのですから、浴衣の中の猫たちがそのうち、ニャンニャンと泣くのではないかと心配です。丁度、吉野山の狐忠信のように。

 狐といえば、今、江戸小紋の狐に憧れています。あの小宮康孝氏に特注したというその着物に出会った時、どんな方がお召しになるのかと軽い嫉妬を覚えました。草むらと狐。地色は若緑、八掛(はっかけ)も表地と同色で細かい露芝。遠見には無地に見えても、近くに寄ると草むらを狐が走るのです。

 もう一つの憧れは蝙蝠。こうもりというと、ドラキュラを思い浮かべて気味悪がる向きもありますが、漢字で表すと虫ヘンに“一口田”つまり福、お目出度い意味もあって江戸時代には着物にもよく使われたようです。しかし、細かい小紋柄としては出会っていませんので、どこかにないものかと思っているところ。地は鳩羽色(はとばいろ)(鳩の羽のような暗灰紫)か、梅鼠(うめねず)(紅梅のような赤味をおびた鼠色)か、いっそ秘色(ひそく)(明るい灰青)にして、と夢は広がります。

 先日、見せていただいた小紋型紙の中に、動植物はもちろん、思いがけないものがテーマになっている型がたくさんありました。現在、型紙を彫る方も少なくなるばかりと知って、一層、それらの文様をご紹介したいと思います。

 

 16. なんだろう この模様は

 

 しじみ藤、つと卵、焼飯うろこ、うしのよだれ、牛蒡(ごぼう)の切り口、かますつなぎ、と並べるとコンビニに行ったのかと思いませんか。引手障子、壁しぶき、鍵きり、となると東急ハンズにでも行ったのかと思えてきます。その全部が小紋の柄ですから驚くばかり。この他に、ゆきの足、この手がさね、しらみ小紋、まいまい巴など奇想天外な柄があるのです。作者は山東京伝(1761~1816)。平安時代の歌合せの流れで、江戸時代にも物合せが流行しました。しかし、もはや和歌はともなわない形で専ら絵柄を競う団扇(うちわ)合せ、浴衣合せ、手拭(たなぐい)合せが盛んだったようです。そこでは、奇抜で粋で洒落のめしたデザインでなければ勝利を得ることはできません。そんな時のよいお手本が『小紋雅話』。この題をいまここで声をだして読んでみてください。こ・も・ん・が・わ と。

 はじめにあげた文様の他、興味をひくのは「本田鶴(ほんだつる)」と名付けられたもので、一見、よくある普通の鶴丸に見えますが、さにあらず。「通の丸」と別名をつけたことからも、これが当時の通人ブランド・ヘアスタイルの本田髷を結った人の頭を上から見た図柄と知ることができます。

 また、前述の「まいまい巴」も三つのかたつむりが組みあわされた巴模様になっていて、「一名まいないつぶれ」という説明がついています。それが、まいない=(まかない)にかけた皮肉文様であることはいうまでもありません。さらに「小便無用」文様には「何の鳥居もない(とりえもない)小紋なり」という説明があって、鳥居の連続文様が生きてきますし、「口ぐち小紋」はキス文様。「唐花」は美しく花をアレンジしたのかと思えば、何と、象の鼻をいろいろな角度から見て模様化したものでした。唐(外国)の鼻の駄洒落です。江戸絵地図に描かれた半蔵門は、城内から象が半分出ている絵がら。1729年、ベトナムから長崎に着いた象は二月半歩いて江戸入りをし、将軍吉宗にお目見えした後、一般公開されていますので、市民にとって身近でしかもハイカラな存在だったのでしょう。

 このように自由に発想を展開させた山東京伝は、『小紋雅話』の序に「われはまた、犬の足跡を見て梅の花と見立て、画なるか字なるか、いつこうわからざる物数十を作し、なづけて小紋雅話という。是ももんがぁのたぐいにして、いずれ怪しかるべし」と述べています。これで彼は絵と文字とそして音の三つを区別することなく、自分の世界を築いていることが判りました。

 そこで、もう一度声を出してみましょう。「こもんがわ」という題は、ももんがぁの地口(じぐち)(諺・俗語に音声に似た別の語をあてて違った意味を示す洒落)なのです。(ももんがぁ=モモンガ=ムササビに似たリス科の哺乳類、夜行性で樹間を滑空する。転じて子供をおどし戯れる語)

 先頃、たくさんの小紋型紙を見る機会に恵まれ、宝の山に入ったような気がしました。それも面白山の中にです。海のものは貝、鯉、鯛、海老。鳥類は千鳥、鷺、鶴、雀、そして亀、蛙。道具は(つば)、傘、瓢箪、達磨、団扇、おかめ、三味線。植物は栗、ほおずき、茗荷、茄子、椎茸、柿。思わず列記してしまいました。さらに、碁盤に蜘蛛、狐の嫁入り、田植え。笑えるのは満月の中に居る狸です。ツキを呼ぶのなら、何もうさぎでなくて狸でも良いのではと思えてきました。

 いずれにしても、その昔、自転車に積んで型紙を売りに来たころがあったとか。型紙彫師が減少する一方なので、卓越した意匠を保つ意味もあり、どう保存しようかと、持ち主のむら田染織ギャラリーの方は、考えておられました。それを知ってすぐお手伝いをと申し出たのは、それがそのまま江戸に華咲いた自由闊達な文化遺産を大切にすることに繋がると思ったからです。 

 

 17. 和更紗の行方

 

 ジィーーーーーー乾いた音が高いドームに響き渡りました。集まって絨毯の説明を聞いていた仲間の皆が何事かと音の行方を探しますと、すこし離れた所の赤い絨毯のそばに同じツアーの一人が立ちすくんでいました。東西交通の要地にあたるこのブラショフのキリスト教会に、トルコ商人たちは祈りの時に必要な絨毯を寄進して、商売の成功と旅の安全を祈ったとのこと。また、教会側も異教徒の絨毯を心広く大切に飾っていたのです。沢山の絨毯のうち赤いそれは特に立派で、後でゆっくり見ようと思っていた更紗風文様のものでした。目立たないようではありましたが、人が近づきすぎないように防御のためのセンサー装置がしてあったのです。

 それをうっかり触ろうとしたからたまりません。時ならぬけたたましいその音に驚いた教会の事務のおばさんや守衛さんたちにたちまち囲まれた本人は、何が起きたのか判らずにきょとん。話し合いで誤解は解けたものの、そのご婦人はひどく萎れてしまいました。でも、まかり間違えば誰でも同じ過ちを犯しそうなくらい、美しい絨毯です。ハプスブルグ家に攻められ、外壁が黒く焼かれたままになったルーマニアの「黒の教会」でのことでした。

 そのように印象が強かった更紗文様は、インドで生まれた華麗な彩色綿布の文様です。そして、エジプト・カイロ近郊の遺跡から10世紀頃と思われる更紗製品が発見されて、古くからの交易品だったことが解りました。木綿といえば藍を中心に茶・黄色が染め色でしたが、インドでは(あかね)系の鮮やかな赤が特徴です。14〜15世紀になると航海術の発達によって、更に世界各地にもたらされました。

 日本では室町末から桃山時代にかけての南蛮船による舶来の更紗は、当時の武士や数寄者らによって珍重され、陣羽織、お茶道具の仕覆(しふく)、裕福な町人たちの小袖、下着、たばこ入れ、風呂敷などにも利用されました。また、日本への本格的輸出はオランダの東インド会社によって始められ、日本向け文様としては、扇面、縞、小花などが多かったようです。江戸時代になると、インドで染められたシャム(タイ)向けの更紗「シャムロ染め」が日本にも運ばれてきました。

 一方、その輸入更紗の模造をいちはやく始めたのが、河内木綿の産地を控えた港町・堺や染織の中心・京都。俳諧書『毛吹草(けふきくさ)』の諸国物産の部にも、京都・山城特産の「しゃむろ染」が記されています。同じく港町の長崎のそれは中国の風景や西洋人物文様が多く、赤茶の縁とりが特徴でした。このように京都をはじめとして堺、長崎、鍋島(佐賀)で作られた更紗を総称して和更紗と言い、それぞれの地名を冠した名称で呼ばれています。なお、藩の保護のもとに作られた鍋島更紗は、鍋島焼、鍋島絨通(だんつう)と同じく参勤交代の時の土産物にされていたようで、花唐草中心の文様などは、墨線だけに木版を用いたあと、型染めで華やかな色を加えたのです。技法は一子相伝とか。

 文様としては、日本向けに作られた扇面、小花などの模倣は勿論ですが、百唐子(からこ)、エジプト人物、毛唐人、麒麟(きりん)と唐草というような異国への憧れをそのまま表したものの他、模倣から脱して日本的なものへの傾倒が面白い動きを示しました。提灯、印章をはじめ、小判、銭、さらに人物百態、鬼だけでなく、福女(おかめ)まで和更紗文様としています。庶民の物になった木綿を安く大量に染められるようにと、初めは手描きだったものが型紙で染料を摺りこんで作るようになりましたし、色も次第に多くなり、弁柄(べんがら)代赭(たいしゃ)、黄土、藍蝋(あいろう)群青(ぐんじょう)などの顔料を使いました。しかし、洗濯のたびに色褪せていくのが最大の問題だったとのことです。

 こうして江戸後期から明治初期にかけて盛んだった和更紗は、明治20年代になると、ヨーロッパからの化学染料の導入で新しい技法になり、却って型友禅に融合吸収されてしまったとか。

 更紗は洒落ものに愛されただけでなく、日本の染織に大きな影響を与えましたが、国産品として生まれた和更紗は今どこへ行ってしまったのでしょう。

参考:吉岡幸雄編 和更紗文様図鑑(京都書院アーツコレクション)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/07/19

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濱 幸子

ハマ サチコ
はま さちこ エッセイスト 1928年 東京新宿角筈に生まれる。

掲載作は、1994(平成6)年10月、牛込倶楽部発行「ここは、牛込神楽坂」2~17号に連載。

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