最初へ

旧聞日本橋(抄)

  自 序

 

 ここにまとめた『日本橋』は、『女人藝術』に載せた分だけで、その書きはじめには、こんなことが記してあります。

 

 ──事実談がはやるからの思いつきでもない。といって半自叙伝というものだとも思っていない。あまりに日本橋といえばいなせに、有福(ゆうふく)に、立派な伝統を語られている。が、ものには裏がある。私の知る日本橋区内住居者は──いわゆる江戸ッ児は、美化されて伝わったそんな小意気(こいき)なものでもなければ、洗練された模範的都会人でもない。かなりみじめなプロレタリヤが多い。というよりも、ほろびゆく江戸の(かす)でそれがあったのかも知れない。私はただ忠実に、私の幼少な眼にうつった町の人を記して見るにすぎない。もとより、その生活の内部を知っているものではないし、面白くもなんともないかもしれないが、信実に(いき)ていた一面で、決して作ったものではないというだけはいえる──

 

 打明けていえば、『女人藝術』の頁数の都合で、いつも締切りすぎに短時間で書き、二枚五枚と工場へはこび、しかも編輯(へんしゅう)の都合で伸縮自在のうきめにあったもので、そのために一層ありのままで文飾などありません。私の生れたうまや新道、または、小伝馬町(こでんまちょう)大伝馬(おおでんま)町、馬喰(ばくろ)町、鞍掛橋(くらかけばし)旅籠(はたご)町などは、旧江戸宿(しゅく)伝馬(てんま)駅送に関係がある名です。文中にもある馬込(まごめ)氏は、江戸宿の里長馬込勘解由(かげゆ)の家柄で、徳川氏が江戸に来たとき、駄馬人夫を率いて迎えた名望家で、下平河の宝田村──現在の丸の内──から土地替に伝馬町へ移され名主となった由緒があるのです。大伝馬町の大丸の下男が、旅籠町となったのをかなしんで、町札をはがしたことも書きましたが、旅籠町とはずっと昔にも一度つけてあった町名で、旅籠とは、馬の食を盛る(かご)馬飼(うまかい)の籠から、旅人の食物を入れる(うつわ)となり、やがて旅人の食事まかないとなり、客舎となり、駅つぎの伝馬旅舎として縁のふかい名であり、うまや新道の名も、(うまや)も、小伝馬町大牢(たいろう)の御用のようにばかり書きましたが、それも幼時の感じを申述(もうしの)べただけです。

伝馬町大牢は明治八年まで在存し、牢屋の原の各寺院は、明治十五年ごろから出来たことを、文中には書洩(かきもら)しましたからここに記入いたしおきます。

我見(がけん)『日本橋』は、まだもっと書きつづけるつもりでおりますが、この集には、近親のものが重に書かれたため、したがって挿入した写真など、(しん)に厚ききらいがありますが、これは当時の風俗を知るため、手許(てもと)にあって、年月に間違いのないものゆえに、私事を捨てて入れました。挿絵(さしえ)天保(てんぽう)十四年に生れた故父渓石深造(けいせきしんぞう)が六歳のころから明治四年までの見聞を「実見画録」として百五十図書残しおいてくれましたなかから、すこしばかり選び入れました。装幀は烏丸光康卿(からすまみつやすきょう)後撰集(ごせんしゅう)』表紙裏のうつし、見返しは朱が赤すぎましたが、古画中直垂紋(ひたたれもん)であります。

 この書は書肆(しょし)の熱意にて、極めて(すみやか)に出来、ふりがなを一度失いしためにあるいは校正の麁洩(そせつ)もあらんかとそれのみをおそれます。

昭和十年一月十四日

           時  雨

 

 序 文(三上於菟吉=時雨の夫)

 自 序

町の構成  蕎麦屋の利久  源泉小学校  大丸呉服店  古屋島七兵衛  テンコツさん一家  木魚の顔  木魚の配偶  勝川花菊の一生  朝散太夫の末裔  チンコッきり  お墓のすげかえ  西洋の唐茄子  流れた唾き  最初の外国保険詐欺  牢屋の原  神田附木店  明治座今昔  西川小りん  議事堂炎上  大門通り界隈一束(続旧聞日本橋・その一) 鉄くそぶとり(同・その二)  鬼眼鏡と鉄屑ぶとり(同・その三)

 

 あとがき(長谷川仁)

 

 (図版一覧 本書に登場する長谷川時雨ゆかりの人々  割愛)

 

 

     町の構成

 

 一応はじめに町の構成を説いておく。

 日本橋通りの本町(ほんちょう)の角からと、石町(こくちょう)から曲るのと、二本の大通りが浅草橋へむかって通っている。現今(いま)は電車線路のあるもとの石町通りが(まち)の本線になっているが、以前(もと)は反対だった。鉄道馬車時代の線路は両方にあって、浅草へむかって行きの線路は、本町、大伝馬(おおでんま)町、通旅籠(とおりはたご)町、通油(とおりあぶら)町、通塩(とおりしお)町とつらなった問屋筋の多い街の方にあって、街の位は最上位であった。それがいまいう幹線で、浅草から帰りの線路を持つ街の名は浅草橋の方から数えて、馬喰(ばくろ)町、小伝馬(こでんま)町、鉄砲町、石町と、新開の大通りで街の品位はずっと低く、徳川時代の伝馬町の大牢の跡も原っぱで残っていた。其処(そこ)には、弘法大師と円光大師と日蓮祖師と鬼子母神との四つのお堂があり、憲兵屋敷は牢屋敷裏門をそのまま用いていた。小伝馬町三丁目、通油町と通旅籠町の間をつらぬいてたてに大門(おおもん)通がある。

そこで、アンポンタンと親からなづけられていた、あたしというものが生れた日本橋通油町というのは、たった一町だけで、大門通りの角から緑橋の角までの一角、その大通りの両側が背中にした裏町の、片側ずつがその名を名告(なの)っていた。私は厳密にいえば、小伝馬町三丁目と、通油町との間の小路の、油町側にぞくした角から一軒目の、一番地で生れたのだ。小路には、よく、瓢箪新道(ひょうたんじんみち)とか、おすわ新道とか、三光横町とか、特種な名のついているものだが、私の生れたところは北新道、またはうまや新道とよばれていて、伝馬町大牢御用の馬屋が向側小伝馬町側にあった。この道筋だけが五町通して、本町石町から緑河岸(みどりがし)まで両側の大通りと平行していた。

 面白くもない場所吟味はやめよう。以下、私の記憶のままで、年月など、幾分前後したりするかも知れないが──

 しかし、アンポンタンの生活がはじまったのも、かなり成長してからの眼界も、結局この街の周囲だけにしか過ぎない。で、最も多く出てくる街の基点に大丸(だいまる)という名詞がある。これは丁度現今(いま)三越呉服店を指さすように、その当時の日本橋文化、繁昌地(はんじようち)中心点であったからでもあるが、通油町の向う側の角、大門通りを仲にはさんで四ツ辻に、毅然(きぜん)(そび)えていた大土蔵造りの有名な呉服店だった。ある時、大伝馬町四丁目大丸呉服店所在地の地名が、通旅籠町と改名されたおり大丸に長年勤めていた忠実な権助(ごんすけ)が、主家の大事と町札を書直して罪せられたという、大騒動があったというほどその店は、町のシンボルになっていた。

 

 問屋町の裏側はしもたやで、というより(ほとん)ど塀と奥蔵(おくぐら)のつづき、ところどころ各家の非常口の、小さい出入口がある。女たちがそっと外出(そとで)をする時とか、内密(ないしょ)の人の訪れるところとなっている。だからとても淋しい。私の家は右隣りが糸問屋の近与の奥蔵、左側は通りぬけの露路で、背中は庭の塀の外に井戸があり、露路を背にした大門通り向きの幾軒かの家の、雇人たちのかなり広くとった共同便所があり、それを越して表通りの足袋問屋と裏合せになっていた。左横の大門通り側には四軒の金物問屋──店は細かいが問屋である、この辺は、鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春と、元禄の昔其角(きかく)がよんだ句にもある、金物問屋が角並(かどなみ)にある、大門通りのめぬきの場処である──その他に、利久という蕎麦屋(そばや)、べっこう屋の二軒が変った商売で、その家の角にほんとに小さな店の、ごく繁昌する、近所で重宝(ちょうほう)な荒物屋があった。小さな店にあふれるほど品が積んであった。

 (うる)さくはあるが、もすこし近所の具合を言っておきたい。荒物屋の向っ角──あたしの家の筋向いに横っぱらを見せている、三立社という運送店の店蔵は、元禄四年の地震にも残った蔵だときいていた。左横に翼がついていて木の戸があった。内には縄や(こも)が入れられてあったが、そのまた向う角が、立派な土蔵づくりの八百屋、後には冬は焼芋屋になり、夏には氷屋になった。その店の焼芋はすばらしく大きかったので、遠くからも買いに来た。他処(ほか)では見られないことは、この家、この店土蔵だけの住居で二階が住家(すみか)であり、小さな物干場へは窓から(くぐ)り出していた。芋屋の並びはほとんど金物問屋ばかり、火鉢ばかりの店もあれば(かな)だらいや手水鉢(ちょうずばち)が主な店もあり、(ふすま)引手(ひきて)やその他細かいものの上等品ばかりの店もあり、笹屋という刃物ばかりのとても大きな問屋もあった。銅、鉄物問屋はいうに及ばない。

 大門通りも大丸からさきの方は、長谷川町、富沢町と大呉服問屋、太物(ふともの)問屋が門並(かどなみ)だが、ここらにも西陣の帯地や、褂地(うちかけじ)などを扱う大店(おおだな)がある。

 荒物やの正面向う角が両替屋で、奇麗な暖簾(のれん)がかかっていて、黒ぬりの(編輯室注、小さい分銅様の繪)こういう看板に金字で両替と書いたのが下げてあった。そこの家はいつも格子がすっかりはまっていて、黒い前掛けをかけた、真中(まんなか)から分けた散髪の旦那(だんな)と、赤い手柄の細君(さいくん)がいる奇麗な小さな角店だった。その隣りが酒屋の物置と酒屋の店蔵で、そのさきが煙草(タバコ)問屋、煙管(キセル)羅宇(ラオ)問屋、つづいて大丸へむかった角店の仏具屋の庭の塀と店蔵だった。

 あたしの家の真向こうに──三立社の尻にこの辺にはあるまじいほどささやかな、小さな小屋で首を振りながら、終日(いちにち)塩せんべを焼いているお婆さんがあった。その隣家(となり)はこんもりした植込みのある──泉水などもある庭をもった二階家で、丁度そこの塀を二塀ばかりきりとって神田上水の井戸があるのを、塩せんべ屋のお婆さんが井戸番をしているようなかたちだった。あたしの家の裏の井戸は玉川上水だった。

 その二階家は「炭勘」という名の──炭屋勘兵衛とでもいったのだろう。鼈甲細工屋(べっこうざいくや)のになっていたが、黒い三巾(みすじ)の垂れ暖簾(のれん)に「いりやまずみ」(編輯室注:山なりの図様の下に「炭」字)の白ぬきのれんが、鼈甲屋とは思わせない入口だった。(もっと)もそこは青柳という会席料理(おちゃや)だったのだそうで、炭勘はその(うしろ)から前へ進入したのだ。お茶屋があったからというわけではなかろうが、その隣りに阪東三弥吉という女の踊りの師匠がいた。その(そば)に、私の父の(くるま)をうけもって、他に曳子(ひきこ)を大勢おいていた俥宿があった。

 なんで細かく此処まで書いたかというに、前にも言ったように、私の家のならびは、窓ひとつもない、塀と土蔵裏と、荷蔵(にぐら)ばかりつづいているその向う側であるからで、俥宿までの町並は二間半たらずだが、そこからぐっと倍も広がっている。それが、何故かというと、三誠社という馬車(うまぐるま)を扱う大きな運送店があって、その前身が、伝馬町の大牢の、咎人(とがにん)の引廻しの馬舎(うまや)だったというのだ。町巾(まちはば)が其処だけ広がっているのが妙に嫌な気持ちにさせる。俥宿と馬舎との間の地処にかこいをして草を植え、植木棚をつくり、小さな(ほこら)を祭って、毎朝表通りの店から散歩にくる老旦那もあった。

 アンポンタンが三ツか四ツの時、(ひたい)の上へ三日月形の前髪の毛をおいた。それまでは中剃り(頭の真ン中へ小さく穴をあけて剃っていること)をあけたおかっぱで、ヂヂッ毛とおやっこさんをつけていた(ヂヂッ毛は(えり)のボンノクボに少々ばかり(そり)残してある愛敬毛(あいきょうげ)、おやっこさんは耳の前のところに剃り残したこれも愛敬毛)。そのほかは青く剃りあげていたのへ、小さいお椀を伏せて恰好のよい三日月形を剃り残したのだ。その時向うのせんべやのお婆さんが、剃刃(かみそり)をあてるのに動かないようにと、おせんべにするふかしたしん()をもって来てくれて、あたしの祖母が、(ちん)(こし)らえて紅で色どってくれた。それに味をしめて、さかゆきをするたんびに、おせんべやの店へとりにゆくと、首振り婆さんは、私の家の門の桜の木の上へ出そめた三日月を指さして、

「のん、のん、此処にも、あすこにも。」

と、あたしの頭を指で押して、空をも指さすのだった。

 お婆さんの息子は車力(しゃりき)だった。あたしは鹿()の子絞りの(ひも)を首の後でチョキンと結んで、緋金巾(ひかなきん)の腹がけ(金巾は珍らしかったものと見える)、祖母(おばあ)さんのお古の、絽の小紋の、袖の紋のところを背にしたちゃんちゃんこを着せられて、てもなくでく人形のおつくりである。

──ある時(妹でも出来た時かも知れない)、理髪店(かみゆいどこ)ではじめて剃ってもらった時、私ははじめじぶくったが、あたしを抱いていた女中が大層機嫌がよかったので、しまいにはあたしまで悦んで膝の上で跳ねた。職人はたぶん女中の(えり)をおまけに剃ってやっていたのであろうが、あたしがあんまり(はね)るので、女中にもなんしょで、ひょいと、あたしのお(やっこ)を片っぽとってしまった。あたしはなおさらよろこんだ。機嫌のよい女中におぶさって帰ってくると、すぐおせんべやの首振りお婆さんに見せにいった。ただ笑って、よろこんで指で毛のないあとを押し示した。

「あらまあ、お(とも)さんが片っぽおちて──」

 お婆さんは歯のない口を一ぱいにあいて笑った。だが、この人は()きなくなって、おせんべやは荷車の置場に、屋根と柱だけが残されるようになった。竹であんだ干籠(ほしかご)に、丸いおせんべの原形が干してあったのも、その(かたわら)にあたしの着物を張った張板(はりいた)がたてかけてあったのも、その廻りを飛んでいた黄色の蝶と、飛び去ってしまった。

 角の芋屋がまだ八百屋のころ、お(その)という小娘が店番をしていた。ちいさい時、神田から出た火事で此処らは一嘗(ひとなめ)になって、みんな本所(ほんじょ)へ逃げた時、お其は大溝(おおどぶ)におちて泣き叫んでいたのをあたしの父が助けあげて、抱えて逃げたので助かったといって、私の赤ン坊の時分からよく合手(あいて)をして遊ばせてくれた。だが、先方(さき)も正直な小娘である。店番をしている時、無銭(ただ)でとっていったら泥棒とどなれと教えこまれていた。あたしはまた、お金というものがある事を知らず、品物は買うものだということをちっとも知らなかった。他人(ひと)のものも、自分のものも、所有ということを知らず、いやならばとらず、好きならばとってよいと、(わきま)えなく考えていたと見え、ばかに大胆で、げじけしをおさえて見ていたが、急に口へもってゆこうとして厳しく叱られたりしたというが、その時も、お(その)の店の赤いものに目がついて、しゃがんで二つ三つとった。お其はだまって見ていたが──たんばほおずきが幾個(いくつ)破られて捨られてもだまって見ていたが、そのまま帰りかけると、大きな声で、

 「盗棒(どろぼう)、盗棒、盗棒──」

(わめ)きだした。もとより、あたしもお其にかせいして、盗棒とどなった。

諸方(ほうぼう)から人が出て来たが盗棒はいなかった。するとお其はあたしに指さして、

「盗棒!」

と言った。幼心(おさなごころ)にはずかしさと、ほこらしさで、あたしもはにかみながら、

「盗棒!」

とおうむがえしに言った。みんなが笑った。あたしの祖母がお(つま)をとって来て、巾着(きんちゃく)からお金を払い、お其にもやった。八百屋の親たちはしきりにおじぎをした。

 おせんべやの首振婆さんが私を抱えて帰った。お其も遊びについて来た。

 間もなくべったら(いち)の日が来て、昼間から赤い(きれ)をかけた小さな屋台店がならんだ。こんどはお其があたしの後について、肩上げをつまんで離れずにいた。祖母や女中が目を離すと、コチョコチョと人ごみにまぎれ込んで、屋台のものをつまむので、そのたびにお其はハラハラしたのだろう大きな声で祖母をよんだ。祖母はニコニコして後からお鳥目(ちょもく)を払って歩いて来た。

 お其のうちは八百屋をやめて焼芋屋になった。店の大半、表へまで芋俵が積まれ、親父(おやじ)さんは三つ並べた四斗樽のあきで、ゴロゴロゴロゴロ、泥水の中の薩摩芋を棒で掻廻(かきま)わした。大きな、素張らしく美事な焼芋で、質のよい品を売ったので大繁昌だった。三ツの大釜が間に合わないといった。近所が大店ばかりのところへ、遠くからまで買いにくるので、いつも人だかりがしていた。一軒のお茶受けにも、店の権助(ごんすけ)さんが、籠をもって来たり、大岡持ちをもってくるので、一釜位では一人の注文にも間にあわなかった。忙しい忙しいとお其はいって、鼻の横を黒くしていた。で私の遊び合手は、(あたし)をも釜前につれていった。冬などは、藁の上にすわって、遠火(とおび)に暖められていると非常に御機嫌になって、芋屋の子になってしまいたかった。だが、困ったことに家の構造が、角の土蔵なので、煙のはけばに弱らされていた。住居にしている二階の(あが)り口へまっすぐに煙筒(えんとつ)をつけて、窓から外へ出すようにしてあった。だから、二階の梯子(はしご)はとりはらわれて、あたしたちの(あた)っている頭の上を、猿梯子(さるばしご)をかけて登ってゆく、物干場は、一度窓から出て、他家(よそ)の屋根に乗り、そして自分の家の大屋根にゆく仕かけだった。

「売れすぎて損をするって。」

とお其は告げて、あたしの父を笑わせていた。父の晩酌のお(ぜん)の前に座るのを、あたしより(さき)にもった特権だとこの小娘は信じて疑わなかった。

 お其が私を紹介した買物のはじめは、角の荒物店だった。足許(あしもと)(ほうき)だの、頭の上からさがって来ているものを掻きわけて、一間たらずの土間の隅につれてゆくと、並んでいる箱の硝子蓋(ガラスぶた)をとって中の駄菓子をとれと教えた。(あて)ものをさせて、水絵──濡らしてはると、西洋画風の蝶や花が、刺青(ほりもの)のように腕や手の甲につくのを買わせた。で、彼女は一生懸命にお(ぜぜ)の必用と、物品購買のことを説ききかせて、こういう細長い、まん中に穴のあいているのが天保銭(てんぽうせん)で、それに丸いので穴のあいてるのを一つつけると、赤く光った一銭銅貨とおんなじだと、(くり)かえしていった。でも、あたしにはあんまり必要がなかった。それよりも、お其の紹介で友達になった子たちが、自分の(うち)の裏庭でとった、蝸牛(まいまいつぶろ)を焼いてたべさせたりするのを、気味がわるくてもよろこんだ。

 この子供仲間は、男の子も女の子もみんな顔色がわるかった。どの子も大きな眼をして痩せていた。小僧さんかお附きの女中がいるので、それらの眼をしのんで、こっそり集るのを、どんなに楽しみにしていたか知れない。だから裏から裏と歩いた。村田──有名な化粧品問屋──の裏を歩くと、鬢附(びんつ)け油を練る(にお)いで臭く、そこにいる蝸牛(まいまいつぶろ)もくさいと言った。鍛冶七(かじしち)──鍛冶もしていた鉄問屋──の裏には、猫婆(ねこばばあ)がいるということなど、いつの間にか大人よりよく知ってしまった。

 猫婆さんは真暗な吹鞘場(ふいごば)に──その(うち)も大かた鍛冶屋ででもあったのであろう。大溝(おおどぶ)が邪魔をして通り抜けられない露路奥(ろじおく)になっていたので、そんな家のあることも、そんなお婆さんの(いき)ていることも、ほんとに幾人しかしりはしなかった。ただ猫だけが知っていて、宿無し猫が無数に集ってきていた。いつもお婆さんの廻りは猫ばかりなので、猫ぎらいなあたしは、お婆さんの顔の輪格(りんかく)もはっきり見知らなかった。

「まだ生てるよ、顔だけあったもの。」

なぞと、覗いてきては子供たちはいった。

 

鞴祭(ふいごまつり)図・割愛〕 江戸市中の鍛冶職は、毎年十一月八日、ふいご祭と称し、何れも、屋上より、蜜柑を小供等に投げ与へ、赤飯を焚き、職を休み、親族等を招き、大に祝ふなり。小伝馬上町の如きは、此職業多かりし故、近所もなかなか賑ふなり。

 

 土のお団子(だんご)などをこしらえている時に、坊ちゃんの一人が目附けだされて、連れかえられようものなら、その子は(うち)へかえるのを牢獄にでもおくられるように号泣した。残されるものもみんなさびしかった。なぜなら、帰ればその子におしおきが待っているからである。なぜ表へ出て、あんな子たちとお遊びなさいました──とそれはまた、各自(めいめい)の身の上ででもあるからなので──

 あたしもよく引き摺ってゆかれて、お(きゅう)を据えられたり蔵の縁の下に(ほう)りこまれたりした。そうした窮屈な育てられかたをするのはお(たな)の坊ちゃん嬢ちゃんがたで、自由な町の子も多くあった。それがどんなに(うらや)ましかったろう。そしてその多くの町の子たちが遊びの指導者でもあったのだが、彼らはよく裏切りもした。あたしの祖母が、あたしの遊びに抜けだしたのを厳探中(げんたんちゅう)、その子たちの仲間の一人にお小遣いをくれると、あたしは直ぐにつかまえられた。逃げでもすると、その子たちは追っかけ追い廻して、意地悪くとらえて祖母に突き出した。何にがそんなに遊んではいけないのだろう? 遊んでいけないのより、許可(おゆるし)をうけず外へ出るから、それがいけない、では許可をうければゆるしたか?なんの、

「いけません、おとなしくお(うち)でお遊びなさい。」

である。時たま家中の御機嫌のよい時外へ出して遊ばせてもらう。鬼ごっこ、子をとろ子とろ、(ひな)一丁おくれ、釜鬼(かまおに)、ここは何処の細道じゃ、かごめかごめ、瓢箪ぼっくりこ──そんなことをして遊ぶ。

 子を()ろ子とろは、親になったものの帯につらなって大勢の子がいる。人とり鬼になったものが、どうにかして末の、尻尾の方の子をとろうとするのである。親になったものは、両手をひろげてふせぐ、鬼は、あっちこっちと、両側を(ねら)って、長い列が右往左往すると、虚を狙って成功する──その時分、人(さら)いが多くあって、あたしの従兄(いとこ)も夕方さらわれていったのを、父が木刀をもって()けていって、神田弁慶橋で取りかえしたという話もあるので、そんな遊びもしたのであろう。夕方になると子供を外に出しておくのを危険とした。そんな事で、外出もやかましくいったのかも知れないが──

 釜鬼は、塀や壁を後にして、土に半輪(はんわ)を描き、鬼が輪の中に番をしていて、みんな下駄を片っぽずつ奥の方へ並べておく。それをチンチンモガモガをしながら、輪の中へ取りにゆくのである。大挙して突進すると鬼が誰をつかまえようかと狼狽(あわて)る、それが附目(つけめ)なのである。下駄が一ツ二ツ残ると、それからが駈引(かけひ)きで面白く興じるのだ。

 

〔子供の喧嘩図・割愛〕 (ここ)に掲げる小供の喧嘩は、右の方、小伝馬町・亀井町・小伝馬上町、左の方は通油丁・旅籠町・田所町・新大坂丁の小供等にて、何れも争の原因は二、三の小供等の喧嘩より、自然加勢も出来、其双方より投る小石にて、一時は往来も止る程の事もありし。

 

 ──瓢箪ぼっくりこ──つながってしゃがんで、両方に体を(ゆす)って歩みを進めて、あとの(あと)の千次郎と、唱いながらよぶと、一番後の子が、ヘエィと返事をして出てくる。問答がすむと、その子がこんどは先頭になるのだ。

 雛一丁おくれは、ずらりと子供を並べておいて、売手が一人、買手が一人、節をつけて唄い問答する──

 

  ひな一丁おくれ、

  どの雛目つけた。

  この雛目つけた、いくらにまけた。

  三両にまけた、なんで(まんま)くわす?

  赤のまんまくわしょ。

  (さかな)をやるか?

  鯛魚(たいとと)くわしょ。

  小骨がたあつ、

  噛んでくわしょ""

 

 ここは何処の細道じゃも唄うのだ。二人の鬼が手を組んで門をつくり袖を垂れている。袖の(うしろ)に一人の子が隠されている。訪ねてくるものが、まず唄って、鬼がこたえる。

 

  ここは何処の細道じゃ 細道じゃ

  天神様の細道じゃ 細道じゃ

  ちっと通してくださんせ くださんせ

  御用のないもな通されぬ 通されぬ

  天神様へ願かけに 願かけに

  通りゃんせ、通りゃんせ。行きはよいよい、帰りはこわい──

 

 袖があがる、訪ねるものは通ってゆく。こんどは隠された子をつれてくぐりぬけるのに鬼どもはいやというほどなぐろうとする。そうさせまいと走りぬけるのだ。

 

 

     蕎麦屋の利久

 

 角の荒物屋が佐野吾八さんの(だい)にならないずっと前──私たちまだ宇宙にブヨブヨ魂が(ただよ)っていた時代──そこは八人芸の○○斎という名人がいたのだそうで、上げ板を(たた)いて「番頭さん熱いよ」とうめ湯をたのんだり、小唄をうたったりすると、どうしても洗湯(おゆや)の隣りに住んでる気がしたり、赤児(こども)が生れる泣声に驚かされたりしたと祖母がはなしてくれた。

 この祖母が、八十八の春、死ぬ三日ばかり前まで、日髪日風呂(ひがみひぶろ)だった。そういうと大変おしゃれに聞えるが、年寄のいるあわれっぽさや(きた)ならしさがすこしもなく、おかげで家のなかはすがやかだった、痩せてはいたが色白な、背の高い女で、黒じゅすの細い帯を前帯に結んでいた、小さいおちょこで二つお酒をのんで、田所町の和田平か、小伝馬町三丁目の大和田の鰻の中串を二つ食べるのがお(きま)りだった。

 祖母のお化粧部屋は蔵の二階だった。階下(した)は美しい座敷になっていたが、二階は庭の方の窓によせて畳一畳の明りとりの格子(こうし)がとってあり、大長持(おおながもち)やたんすその他の小引出しのあるもので天井まで一ぱいだった。中央の畳に緋毛氈(ひもうせん)を敷き、古風な(かね)の丸鏡の鏡台が(すえ)てあった。

三階の棟柱(むなばしら)には、彼女の夫の若かった時の手跡(しゅせき)で、安政三年長谷川卯兵衛建之──と美事(みごと)な墨色を残している。その下で八十の彼女は、日ごとに、六ツ折りの裾に絵をかいた障子屏風を(めぐ)らし黒ぬりの耳盥(みみだらい)を前におき、残っている歯をお歯黒で染めた。銭亀(ぜにがめ)ほどのわりがらこに()って、小楊子(こようじ)の小々太い位なのではあるが、それこそ水の垂れそうな鼈甲(べっこう)中差(なかざし)と、みみかきのついた後差(うしろざ)しをさした。鏡台の引出しには「菊童(きくどう)」という、さらりとした薄い粉白粉(こなおしろい)と、しょうえんじがお皿に入れてあった。鶏卵(たまご)の白味を半紙へしいたのを乾かして、火をつけて燃して、その油燻(ゆくん)をとるのに、元結(もとゆい)でつるしたお小皿をフラフラさせてもたせられていたことがあった。ある時、お皿の半分だけしか真黒にならなかったが、アンポンタンらしい理屈を考えた。どうせ、毎日おばあさんが拭いてゆくのだからと──今思えば、それが眉墨であったのだが──

 祖母は身だしなみが悪い(ひと)を叱った。

 「おしゃれではないたしなみだ、おれは美女だと己惚(うぬぼ)れるならおやめ。」

 文化生れのこの人は、江戸で生れはしなかったが、江戸の爛熟期の、文化文政の面影を(とど)めていた。万事がのびやかで、筒っぽのじゅばんなど、どんなに寒くても着なかった。

 ある年九月廿日、芝の神明様(しんめいさま)のだらだら祭りに行くので、松蔵の(くるま)に、あたしは祖母の横に乗せられていた。紺ちりめんへ雨雲を浅黄(あさぎ)淡鼠(ねずみ)で出して、稲妻を白く抜いた(ひとえ)に、白茶(しらちゃ)唐織(からおり)甲斐の口(かいのくち)にキュツと締めて、単衣(ひとえ)には水色太白(みずいろたいはく)の糸で袖口の下をブツブツかがり、その末が房になってさがっているのを着ていた。日陰町(ひかげちょう)のせまい古着屋町を眺めながら、ある家の山のように真黒な、急な勾配をもった大屋根が、いつも其処(そこ)へ来ると威圧するように目にくるのを()けられないように、まじまじ見詰めながら通った。

祖母は伊勢朝長(あさおさ)大庄家(おおじょうや)の生れで、幼少な時、(わらべ)のする役を神宮に奉仕したことがあるとかで神明様へは月参りをした。よくこの人の言ったのに、五十鈴(いすず)河は末流(すえ)の方でもはいってはいけない、ことに女人はだが──夏の夜、そっと流れに身をひたすと、山の陰が抱いてるように暗いのに、月光(つき)は何処からか洩ってきて(あび)る水がキラリとする。瀬が動くと、クスクスと笑うものがあるので、誰と低くきくと、あたしだよと答えるのは姉さんで、そっと這うようにして上陸(あが)る──

 その折こうも言った。香魚(あゆ)は大きい、とってきてすぐ焼くと、骨がツと放れて、その()のよいことと──

 あたしは先年、神路山(かみじやま)が屏風のようにかこんだ五十鈴河のみたらしの淵で、人をおそれぬ香魚が鯉より大きく(ふと)っているのを見た。昔は、そのおちこぼれが、伊勢の人に香よき自慢の香魚を与えたのであろう。

 帰途(かえり)は、めっかち生芽(しょうが)とちぎ(ばこ)がおみやげ、太々餅(だいだいもち)も包まれている。で、この祖母の道楽は、彼女の(つか)んでいた道徳は、一視同人ということで、たまたまの外出はその点で彼女を自由にさせくつろがせたものと見える。また、彼女の気性を知っている者たちは、逆らわずにそのままに彼女の厚意をうけいれた。

 「御隠居さん、今日は松田ですか?」

 (くるま)の上と下で、帰りのお夜食の寄りどころが()まった。お夜食といっても五時になるやならずであろうが──そこで。京橋ぎわの(日本橋の方からゆけば京橋を渡って)左側、料理店松田へ寄った。巾の広い階子段をあがって二階へ通った。

 「松さんはよいものをおとり。」

 顔馴染の女中さんは、ニコニコしてなるたけ涼しいところへ座らせようと、茣蓙(ござ)の座ぶとんを持ってウロウロした。どの広い座敷も、みんな一ぱいなので、やっと、通り道ではあるが、縁側についたてで垣をつくってくれた。

 八十に近い祖母と、六ツ位の女の子と、松さんとは親密に車座になった。祖母のお膳には大きな香魚(あゆ)の塩焼が躍っている。松さんは心おきなく何か一生懸命に話したり願ったり、食べたりしている。あたしが所在なくしていると、若い女中が来て、噴水の金魚をごらんといった。

 松田はいろんなことで有名になっているが、噴水と金魚もたしかによびもののひとつであったのであろう。あたしは余念なく眺めていたが、

 「(じょ)っちゃん、早くこちらへ来て──」

(ふる)えた声で言った女中さんに引っぱられて祖母のいる場処へかえった。

 と、どうしたことか、他の女中がお膳をはこんで裏二階の隅の方の(へや)へ席をうつそうとしているところだった。近くにいた支那人の一団(ひとかたまり)が、(やかま)しくがやがや言って席を代えさせまいとしたが、祖母はグングン(そば)を通っていった。

 別の部屋へかわってからも、隣席の人たちが妙にあたしを見て、首をひねったり、何かいったり、うなずいたりした。帰りには、松田の人たちに守られて、俥のおいてある裏口の方から出された。

 「大丈夫です。みんな表梯子(ばしご)の方ばかり見張っていますから。」

と送り出した人たちは言った。松さんは大急ぎで俥をひいて駈出(かけだ)した。 「おそろしやおそろしや、この子を支那人(なんきん)(さら)おうとして──」

と、俥をおりると祖母は家の者に言った。

 赤ん坊のころ、若い母親の不注意から、(つり)らんぷの下へ蚊帳(かや)を釣って寝させておいたら、どうした事か洋燈(ランプ)がおちて蚊帳の天井が燃えあがった。てっきり赤ン坊は焼け死ぬものと誰もが思ったが、小さい布団(ふとん)のまま引摺(ひきず)り出されて眠っていたという子は、支那人の人浚いの難からも逃れたのだった。そのアンポンタンが、どうした事か音に好ききらいが激しくって、蕎麦屋(そばや)のおばあさんを困らしたが──

 

 丁度ここに、いつぞや『婦人公論』へ書いた短文をはさもう。

 

 隣家の蕎麦屋で(こな)をふるう音が、コットンコットンと響いてくると、あたしは泣出したものです。住居蔵の裏が、せまい露地ひとつへだてて、そばやの飛離れた納屋(なや)があったので、お昼過ぎると陰気なコットンコットンがはじまる。神経質な子供だったと見えて昼寝していても寝耳に聴附けて泣出したのです。両親や祖母が困ったと言っていたのは、後日(あと)できいた思出でしょうが、そのふるいの音も厭だったに違いありませんが、その家全体が子供心にきらいだったのではないかと思われます。どうも暗い小さなそばやらしかったのです。「利久」といって、主人になった息子とお(ばあ)さんだけで、そのお媼さんが、骨だった顔の、ボクンとくぼんだ眼玉がギョロリとしていて、肋骨(あばらぼね)の立った胸を出して、大肌ぬぎで、真暗なところに麺棒(めんぼう)をもってこねた粉をのばしていると、傍に大釜があって白い湯気が立昇っていたり、また粉をふるっている時は──宅の物置のつづきのさしかけで、(かど)の小さな納屋の窓から、そのお媼さんの皺がれた肩には、汚ない濡れ手拭(てぬぐい)が肩掛のように結びつけられてあって、白髪(しらが)まじりの毛がそそげ立って、(まだら)にはげた黒い歯で笑われると、とても泣かずにはいられなかったのです。夏の、重っくるしい風のない蔵座敷のなかに寝せっけられて、そのコットン、コットンをきくときっと泣出した覚えはあっても、それが火のつくような泣方で、手もつけられなかったときくと、今ではその媼さんに気の毒な気がしますが、じきにその(ばば)はコレラで死んでしまって、その店もなくなってしまいました。

 ある時、祖母の従兄だというおじいさんが伊勢から訪ねてきたことがありました。おじいさんはもう九十歳だといいました。祖母は八十ばかりでした。この二人は人世五十年以上逢わなかった様子で、しきりに懐しがっていました。わたしはそのおじいさんの赤とんぼ位のちょん(まげ)が、光った頭にくっついているのを、西洋人を見るより珍らしく見ていました。二階の広間で御馳走をして、深川でもと芸者をしていたという二人の血びきのおたけさんという女を呼んで、人交(ひとま)ぜしないで御酒を飲んでいましたが、やがておじいさんが太鼓をたたき、女のひとが三味線を弾いて、祖母が踊りはじめました。子供は行くのでないといわれて、そっと梯子段のところから覗いていると、しまいには二人の老人が浮れて、伊勢音頭(おんど)を踊っているかげが、庭にむかった、そとの暗い廊下の障子にチラチラと動いていました。その手ぶりのよさ──わたしは最近伊勢の古市(ふるいち)までいって、備前屋で音頭を見せてもらいましたが、とてもとても、幼目(おさなめ)にのこる二人の老人のあの面白さは、面影も見ることが出来なかったのです。

 こんな事を書いたらまだいくらもあるでしょうが、町で生れた子には、自然からうけた印象のすけないことがものたりません。

 

虎列刺除(コレラよけ)のをはぎに橋上の行者と疱痘神の送り図・割愛〕 虎列刺病流行の当時は、種々の事柄を言触せ、甚敷(はなはだしき)は三日間に牡丹餅を食すれば、此病にかゝらずと云ふものありて、各牡丹もちやの繁昌一方(ひとかた)ならざりし。(ここ)に掲げしは、江戸橋際の牡丹もちやなり。入口に、柵をかまへ、人を(はか)りて出入(でいり)せしめたり。

此幣束は、庖痘に罹り、全快せしものゝ為め庖痘神を送ると云へば、桟俵の上に赤飯を盛り、赤紙の幣束を添へ、川岸又は橋際へ置く習慣なり。

橋上に坐して居る行者は、手の平に油をつぎ、二、三本の燈心に火を点し、通行の者より銭を貰ふなり。其手の火口にあたる処は、焼煉して、岩の如し。

 

 利久の納屋はあたしの家の物置と一ツ棟で、ニツに仕切って使っていた。丁度庭裏の井戸のところに窓があって、井戸をはさんでの釜場になっていた。

 激しいコレラの流行(はや)った最終だというが、利久はおばあさんがコレラで死ぬとすぐに倒産(つぶ)れた。万さんという息子は日雇人夫(ひようとり)になったが、そののち、角の荒物屋へ酔って来ていた。焼酎をうんと飲んで死んだと、荒物屋佐野さんの十三人目の、色の黒い、あぶらぎった背虫のように背を丸くしたおかみさんが(うち)へ知らせに来た。佐野さんは時々面白い話をした。おかみさんをとりかえるたんびに、だんだん悪くなって、こんな汚ない女にとうとうなってしまったといった。そういわれても怒らずに、おかみさんは、(のり)を煮ていた。お天気のよい日、朝の()に、御不浄(ごふじょう)の窓から覗くと、襟の後に手拭を畳んであててはいるが、別段たぼの油が着物の襟を汚すことはなさそうなほど、丸くした背中まで抜き衣紋(えもん)にして、背中の弘法さまのお(きゅう)あとや、肩のあんま(こう)を見せて、たすきがけでお釜の中のしめ糊を掻き廻していた。「*」(編輯室注:此処に、大きな「の」の字の右懐に小さな「り」の字を抱え込んだ、「のり」の絵屋号)とした看板がかけてあって、夏の午前(あさ)は洗濯ものの糊つけで、よく売れるので忙しがっていた。平日(ふだん)でも細い板切れへ竹づッぽのガンクビをつけたのをもって、お店から小僧さんが沢山買いに来た。

 コレラは門並(かどなみ)といってよいほど荒したので、葛湯(くずゆ)だの蕎麦がきだの、すいとんだの、煮そうめんだの、熱いものばかり食べさせられた。病人の出た家の(かわや)(こわ)して(こも)をさげ、門口へはずっと縄を張って巡査が立番をした。

 深川芸妓だったおたけさんもコレラで死んだ。背の高い、()り身な、色の白い、額の広い女で祖母の姪だけに何処かよく似ていた。辻車に乗って来て、気分がわるいと言った。それなら早く帰る方がよいだろうと、その車で出たが、車屋がすぐ引返(ひっかえ)してきて、お客様が変だとおろした。

 門から這入(はい)って、庭を通って来て、渡り縁に腰をかけたが、今出ていった時とは、すっかり相恰(そうごう)が変って、額を紫っぽく黄色く、眼はボクンと落ちくぼみ、力なく見開いている。なぜ引返したといっても辻車では仕方がなかった。住居は遠くもない鉄砲町なので、車夫は沢山のお礼をもらって病人を送っていった。

 幾日かたった。おたけさんの開いていた氷屋の店は、ガランとして乾いていた。軍鶏屋(しゃもや)をはじめたのがいけなくなって氷店になったのだった。道楽ものの兄が二人いたが、その一人と母親とが伝染(うつっ)て、二、三日のうちに三人もいなくなってしまった。

 

〔坊主の暹羅鶏(しゃも)やと獣肉屋図・割愛〕 坊主のしやもやは、両国橋より(東両国本所)、(およそ)二十間程はなれ、粗末なる堀立柱、平家の建物にて、食器は勿論、何から何まで、粗末のものを用ひ、客は履物を各自に持て昇る位なり。()かし売品宜敷(よろしき)ためか、なかなかの繁昌にて、相撲興行中の如きは、一寸の(あき)無き程なり。獣肉やも仝所に二、三軒あり、何れも坊主と仝じく、家作・器物とも、粗末にして、此頃は牛肉は売らず、他の肉類にては猪鹿は勿論、(かわうそ)の類まで、切売をなせり。此肉やにては、正覚坊、其他、黒焼の類も、売たりしと覚えたり。

 

 この西川屋一家も以前(もと)は大門通りに広い間口を持っていた。蕎麦屋の利久の斜向(すじむか)いに──現今(いま)でも大きな煙草問屋(タバコとんや)があるが、その以前は、呉服用()しの西川屋がいたところである。そこの主人(あるじ)はあたしの祖母の兄で、早くから江戸に出ていた。先妻に縹緻(きりょう)よしの娘を生ませたが、奥女中(あが)りの後妻が継児(ままこ)いじめをするので、早くから祖母の手にひきとられ、年下のあたしの父の許婚(いいなずけ)となった。

 後妻は由次郎、鉄五郎、おたけさんを生んだ。父親が歿(なく)なると、男振りのよい(せがれ)たちは(じき)に店をつぶしてしまった──尤もそれには御維新の瓦解(がかい)というものがあった(せい)もあろうが──二人の伜はありったけの遊びをして、由次郎はコレラでなくても長くは生きないようになっていた。

 鉄さんが鉄公になったころは散々で、もう仕たい三昧(ざんまい)(はて)だった。賭博場(ばくちば)(ころ)げ歩き、芸妓屋の情夫(にい)さんになったり、鳥料理(とりや)の板前になったり、俥宿の帳附けになったり、(かしら)の家に厄介になったり、遊女(おいらん)を女房にしたりしているうちに、すっかり遊人風(あそびにんふう)になり金がなくなると、蛆虫(うじむし)のように縁類を嫌がらせた。

 この男、あたしの目に触れだしたのは、越前堀のお岩稲荷の近所に()にかに囲われていたころだった。染物屋(こうや)張場(はりば)のはずれに建った小家で、茄子(なす)の花が紫に咲いていた。白っぽくって四角い顔のお婆さんが、鉄の悪口をグショグショと祖母に語っていた。でも、その時分鉄さんは、父に用事を言いつけられると、ヘイ、と分明(はっき)り返事をして、小気味よく小用をたしていた──(もっと)もむずかしい仕事ではない、家のなかの雑用だが──彼は見かけだけは稜々(りょうりょう)たる男ぶりだった。ちょっと類のすくない立派な顔と体をもっていた。面長な顔に釣合った高い鼻、大きなきれの長い眼、一口に苦味走った男だったが、心根は甘かったものと見える。母親が、夜になると忍ぶようにして勝手口からたずねてくると、祖母の膝の前にうずくまって恵みを願っている。その女が帰ってしまうと祖母は溜息をついて、

 「えらい(ひと)をもらってしまって、あの(ひと)のために西川屋もつぶれた。あの女の心がけがわるいからだが──」

 だが、奥女中姿の裲掛(かいどり)で嫁に来た時はうつくしかったと、不便(ふびん)がって(みつ)いでいた。

 ある日祖母は、例によって私をつれて、山の手の坂のある道を行った。富坂というところだと松さんは言った。露路へはいりながら、しどい場処(ところ)ですといって番地と表札をさがしたが、西川鉄五郎の家はどうしても知れないので空家(あきや)のような家で聞くと、細い細い声で返事をした。

 「此処でございます、此処でございます。」

 祖母は松さんに手をとられてはいっていった。畳もなければ根太(ねだ)()いである。

 「御隠居さん」

 戸棚を細目にあけてそう言ったのは、二、三日前の晩、袢纏(はんてん)を紐でしばって着てきて、台所で叱られていた女だった。

 「座るところはなくともよいから出ておいで。」

 祖母はそう言ったが、やがて、モゾモゾと半裸体の女が這い出してきた。

 「やれやれ、まあ!」

 呆れた祖母は、俥に乗せてきた包みを松さんに取りにやった。

 「お前をそんなにして(ほう)りだしておいて、鉄の人非人は何処(どこ)へいった。」

というと、(ふんどし)ひとつで戸棚から、

 「面目も御座いません。」

と這出してきた。そして、祖母が救いに来たのだと知ると、一昨日の晩、女が死ぬような病気で、どっと寝ておりますといったのは、二人ともすっかり忘れてしまって、裸でも元気な調子でともかくやりきれないという事を、子供のあたしにも面白くきかせるほど巧みにしゃべりたてた。

 「よし、よし。貴様はのたれ(じに)しようと勝手だが、女子(おなご)はそうはゆかぬ。」

 祖母がいるうちに、米屋からは米がはこばれ、炭屋からは炭がきた。松さんが運んだ包みから出た着物を女は着た。

 鉄さんは景気よく根太のつくろいをして、戸棚の中に敷いていた花莚(はなむしろ)をおき、松さんは膝掛けを敷いて祖母とあたしのいるところをつくった。

 こんな処へ来ても、人ぎらいをしない祖母は、てんやから食物(たべもの)をとって、みんなで会食した。酒が廻ると鉄さんは、どんなふうにして大屋をこまらせてやったとか、畳は売ってしまって、根太は(まき)のかわりに燃したと雄弁にまくしたてて叱られた。

 家にかえっても何にも言わないので、祖母はあたしを可愛がった。妹は外でおとなしく、帰るとすぐ告げ口をするので、猫かぶりだといって、いつもおいてきぼりにされていた。言いつけ口は嫌いだが、決してもの事を隠しだてするひとではなかったから、帰るとすぐその晩か、遅くもあくる夜は、松さんの俥が荷物ばかりを積んで、再びなまけ者の住居を訪れるのだった。

 「無駄だけれど──」

と言いながら母は布団やその他のものを積ませた。

 だが、鉄さん自身が浅間(あさま)しい姿で、地虫のように台所口につくばった時、祖母は決してゆるさなかった。同情の安売りはしなかった。取次ぎが、ぜひ御隠居様にお目にかかりたいと(もうし)ますと伝えたとき、台所の敷居に手をつくようなことをせず、表から来いと言わせた。

 彼女は卑屈を嫌ったが、決して貧乏を厭いはしない。ところが、哀れな鉄さんは、卑屈をいやしまず貧乏を鼻白(はなじろ)んだ。彼は何時(いつ)までもウジウジ(かが)んでいた。祖母は堪らなくなったと見えて台所口へゆくと柄酌(ひしゃく)に水をくんで鉄さんの頭からあびせかけた。

 「とっととゆけ、用があらば伯母の(うち)だ、表からはいれ。」

 そう怒鳴った。ブツブツ口小言(くちこごと)をいっていた母が、かえって気の毒がって小銭を与えたりした。

 鉄面皮な甥は、すこしばかり目が出ると、今戸の浜金の蓋物(ふたもの)をぶるさげたりして、唐桟(とうざん)のすっきりしたみなりで、膝を細く、キリッと座って、かまぼこにうにをつけながら、御機嫌で一杯いただいていた。そんな日にはいやに青い(ひげ)だと思った。

 この男、晩年に中気(ちゅうき)になった。身状(みじょう)が直ってから、大きな俥宿の親方がわりになって、帳場を預かっていたので、若いものからよくしてもらっているといった。それでも若い衆におぶさって一度逢いたいからと這入(はい)って来た時に、みぐるしくはなかった。大きな男が、ろれつの廻らぬ口で何か言いながら、はいはいした顔を出した時、みんなびっくりした。

 「お前なぞ、そんないい往生が出来るなんて──よく若い者が面倒見てくれるな。」

 父がそう言うと、

 「全く──裸で湯の帰りに吉原へ女郎買いにいったりした野郎が──全く、若いものがよくしてくれます。」

と言った。逢いたいにも逢いたかったが、世話になる部屋の若い者に礼をしてくれと頼むのだった。

 

 さて、

 イッチク、タイチク、タエモンドンの乙姫(おとひめ)さまが、チンガラホに追われて──

などと、大きな声で唄いつれていたアンポンタンも小学校へあがる時季が来た。そのころは勝手なもので、六歳でも許したものだった。尋常代用小学校といっても小さく書いてあるだけで、源泉学校だけの方が通りがよかった。(おも)珠算(しゅざん)と習字と読本(とくほん)だけ、御新造(ごしんぞ)さんも手伝えば、お(ばあ)さんもお手助けをしていた。

 引出しが二つ並んでついた机を松さんが担いで、入門料に菓子折を添え、母に連れられて学校の格子戸をくぐった。先生は色の黒い菊石面(あばたづら)で、お媼さんは四角い白っちゃけた顔の、上品な人で、昔は御祐筆(ごゆうひつ)なのだから手跡(しゅせき)がよいという評判だった。御新(ごしん)さんはまだ若くって、可愛らしい顔の女だった。

 格子戸をはいると左に、別に障子を入れた半住居の座敷があって、その上の二階は客座敷になっていた。先生は怖いから大変年をとった人だと思ったが、多分三十位だったかも知れない。お媼さんは先生のことを秋山が秋山がと言った。

 翌日からみんなと机をならべるのだった。お昼すこし前になると、おみやげのお菓子を配った。今朝登校のときに松さんがもって来た大袋四ツが持出されて、うまい具合に分配されてゆくのだった。世話やきの子供が幾人かで、全校の生徒の机の上に、落雁(らくがん)を一個二個ずつ配ると、こんどは巻せんべを添えて廻る。その次は瓦煎餅(かわらせんべ)という具合にして()ききるのだ。

 母の覚え書きがあるから記しておこう。

 

  於保手習(おやすてならい)初メ

  金五十銭に砂糖折

  (ほか)に子供衆へ菓子五十銭分。

  そのほか覚。

  一月年玉分  五十銭

  七月盆 礼  五十銭

  試 験    七十銭

  月 謝    三十銭

  年 暮    玉子折

  年 玉    五十銭

    外に暑寒

 

 なんと安価なものではないか。しかし、お豆腐は一丁五(りん)であったのを、お豆腐やの前で読んだから知っている。お米のねだんは知らないから書くことが出来ない。

 試験が割合にかかるのは、試験ということは学校へお赤飯を食べにゆくことだと思ったほどだから、お手数(てかず)だったと見える。近所の小学校の校長たちがむずかしい顔をして控えている前へいって試験されるので、なるべく級の中から出来そうなのが前の方にならび、他校(よそ)の校長の眼の前でやった。前々日に下ざらいは出来ているのであるが、秋山先生の弟子煩悩(ぼんのう)は有名で、自分の方が終日ハラハラしていた。みんなその日はめかしていった。三枚重ねを着て、さしこみのついている鼈甲(べっこう)(かんざし)や、前がみざしをさしている娘は、(つま)を折返してキチンと座っていた。男の子は長い袖の黒紋附の羽織、(はかま)穿()いていた。

 黒いぬり盆へお赤飯とおにしめが盛りつけられた。出来ない男の子は、食べてしまうとそっと釣にいって、いつまでも帰って来なかったりした。校長さんたちの分は、大皿のお刺身などがとってあった。

 洋算などは、大概なところで秋山先生が一人に答えをいわせ、

 「出来たか。」

というとみんなが手をあげる。それで()みなのだった。(よそ)老人(としより)の校長などは居ねむりをしていた。

 (くれ)のお席書きの方が、試験よりよっぽど活気があった。十二月にはいると西の内(にしのうち)一枚を四つに折ったお手本が渡る。下の級は、寿とか、福とか、むずかしくなると、三字、五字、七字──南山寿とか、百尺竿頭更一歩進(ひゃくしゃくかんとうさらにいつぽをすすむ)とかいうのだった。

 課業はすっかりやめてしまって、その手習にばかりかかる。そしてお墨すりだ。

 ──あたしのは丸八の柏墨(かしわすみ)だ。

 ──あたしのは高木のいろは墨だ。

 ──だめだ、いろは墨は、弘法様のでなくっちゃいけない。

 そんな事を各自(てんで)に言って墨を摺る。短かくなると竹の墨ばさみにはさんでグングンと摺る。それを大きな鉢に溜めてゆくと、上級の子がまたそれを濃く摺り直す。

 ──こうやると()(におい)になる。と梅の花を入れる子もあった。早く濃くなるようにと、墨をつけて柔らかくしておくものもあった。

 ──ばりこになるよ。とそれを嫌がるものもある。

 商家(しょうか)の町なので年の暮はなんとなく景気がよい。学校へも、お砂糖の折だの、みかんの箱だの炭俵だの、供餅(おそなえ)だのが沢山もちこまれる。お席書(せきがき)がすめばその日から休みで、かえりには蜜柑がもらえる。

 二枚書いて、一枚は学校にずらりと張りつけ、一枚は家へもって帰る。親たちは、居間や、客間や、または、あたしの家などは玄関へ自慢で張る。

 この秋山先生も(かき)もらしてはならない人だ、学校そのものもまた! そして年の暮のことどもも──

 

 柏墨の「丸八」は大伝馬(おおでんま)町三丁目の老舗(しにせ)で、立派な土蔵造(どぞうつ)くりの店だった。紀文に張りあった奈良奈の(うち)だのなんのときいていた。「大晦日草紙(おおみそかぞうし)」とかいったように覚えているが、くさ双紙(ぞうし)に、若い旦那の色里(いろざと)通いを、悪玉がおだてている絵があって、お嫁さんが泣いているのを見たとき、丸八の先代のことだとかいった。後に、春の絵の本を見たら、香字という大尽(だいじん)に張りあう高総という大尽のことがあった。それも多分「丸八」のはなしだとかきいていた。その事実は知らないがとにかく、そんなにまで豪奢(ごうしゃ)な、派手なことがあったうちと見える。

 

──以下・つづく──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2001/01/16

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

ePubダウンロード

長谷川 時雨

ハセガワ シグレ
はせがわ しぐれ 劇作家・随筆家 1879・10・1~1941・8・22 東京日本橋通油町に生まれる。1928(昭和3)年7月、女流文藝誌『女人藝術』を創刊主宰し、神近市子・山川菊栄・平林たい子・宮本百合子らの婦人解放の評論はもとより、林芙美子・円地文子・太田洋子ら新人作家を多く世に送り出した。

掲載作の『旧聞日本橋』はもともとこの雑誌の埋め草原稿として書かれていた。

著者のその他の作品