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夏の響き

  冬の前に  ―ひろしま―

 

ながい酷暑の夏が終ると

いきなり冷寒の秋がやってきた

 

虫の音も聞かず

紅葉も見ず

瓦礫の地にあるのは

辛うじて生き残り

いまを生きようとする

人間の懸命な営みのみ

 

冬が来る前にしなければ

しかし

どのように冬仕度ができるのだろうか

焼跡から木片を拾ってくる

焼土に野菜の種を蒔く

雨水を貯める

死は当り前のように傍にあり

いつ誰が死んでも不思議ではない

傷つき飢えた人びとに

辛く長い昼があり

長い夜があり

長い一日一日があり

そして

冬が近づく

 

ああ

そうした人間たちの上に

恐ろしいほど澄んだ天から

がらがらと音を立てて星が降ってくる

きょうも生きていた一人ひとりの(からだ)

銀の冷気が洗う

 

生きよ というのか

死ね というのか

 

冬の前に

 

  声

 

夏の光芒の

弾け飛ぶ

群青(ぐんじょう)潮騒(しおさい)の波頭からも

 

冬の底の

広島のデルタをわたる

蒼い木枯らしの彼方からも

 

聞こえてくる

(ミズヲ クダサイ)

 

春の(とばり)をひらく

風のため息の奧からも

 

秋の極みの

びんびんと張りつめる

蒼い神神の座からも

 

聞こえてくる

(ミズヲ クダサイ)

 

五十年が過ぎたいまも

私は

こたえることができないでいる

その声に

 

  原爆ドーム

 

周囲を鉄柵で囲まれ

正面に解説板を立てられ

風化が進めばセメントで目地張りされ

都会の繁栄と

急速な歴史の流れのなかで

かろうじて保ちつづけられていた

原爆ドーム

 

これを地上から抹消しようとした国があった

自国の恥部を隠滅するために

それに追従しようとした国があった

自国の哲学を持たない故に

 

原爆ド−ム

 

あなたは生きた

誰も侵すことのできない歴史の証人として

 

あなたは知っている

天蓋のない裸の棘の下で

地面に横たわり

焼けた身体を労わり

獣のように自らの傷を舐めて癒した人々を

 

極限状態に置かれた人間が

叫びを書きなぐった壁の

あの字は残っているだろうか

焼跡の木片を拾い

せめてもの煖をとり

草を煮て飢えを凌いだ

あの瓦礫の(かまど)は残っているだろうか

 

  夕 焼

 

涙は自分で拭うしかない

と 教えてくれたのは

あの日の夕焼けです

 

悲しみは深く抱きしめるほかない

と 教えてくれたのも

あの日の夕焼けです

 

見渡す限りの焼野を紅蓮(ぐれん)に染め

見渡す限りの天空を黄金に輝かせた

あの日の夕焼

広島の夕焼

傷つき飢え焼跡に横たわっていた私のからだは

いつしか金色に透けて

夕焼の中を羽搏(はばた)いていた

 

あれから半世紀

さまざまな夕焼に()ったけれど

涙は自分で拭うしかない

と 教えてくれたのは

あの日の夕焼けです

 

  少 年

 

ここから広島の郊外 夏草の茂る練兵場

午前八時十五分

少年はこんなに朝早くから

昆虫でも探しにやってきたのだろうか

突然

一条の閃光が少年を貫いた

彼は一本の火柱となった

一瞬 炭素と化した少年は

焦土に大の字に横たわり

空洞の眼を大きく見開いて 天を睨んだ

空洞の口を大きく開いて 天に叫んだ

母を呼んだか 兄弟を 友を呼んだか

痛みの叫びか

一本の歯もない

一片の爪の白ささえない

からからに炭と焼かれた少年を

なおも天と地の炎熱が焦がしつづける

 

  校 庭

 

(さくまかづこーォ)

(さくまかづこーォ)

累々と地を埋めた屍の中に倒れて

かづこは さっきから父の声を聞いていた

声は近づき 足もとに立ち止まった

だが

焼けただれた目に父の姿を見ることはできず

手も足ももう自分のものではなかった

 

焦げた襤褸布のように横たわる人々の中に

わが娘を見分ける(すべ)もなく

父は ただ

悲痛な叫びをあげて歩きまわった

 

かづこも叫んだ

けれど焼けた喉は声をなさなかった

 

父の足音が 声が

遠ざかって行く

向こうへ消えて行く

かづこの頬を止めどもなく涙が流れた

それだけが生きている証しだった

 

  おとうと

 

弟よ あなたは 七才

くりくり目玉で いがぐり頭の一年生

腰に棒の刀を差し

(ぼく 軍曹だよ

  軍曹は長い剣を持ってるんだ!)

 

広島は軍隊の街

元気な大人は兵士たちだけだった

 

弟よ

あなたは怖れた

空を揺るがす空襲警報のサイレンを

(こわいよ!)

(こわいよ!)

誰よりも先に防空壕に逃げ込み震えていた

 

一片のお菓子の甘さも知らず

一切の肉の味も知らず

くる日も くる日も大豆ばかり

母が工夫の大豆パンも

飢えて枯れ枝のように痩せた手で

そっと押し返した

(また これ?

  もう 欲しくないよ)

 

あのとき

弟は校庭にいた

あのとき 家に向って走る弟の服は

めらめらと燃えていた

 

一瞬にして街は崩れ伏し

鳥は墜ち

樹は焦げ

土さえも炎を吹き

生きとし生けるものは焼かれた

 

家を失い 家族を喪った人びとは

焼け爛れ 呆け

襤褸のように垂れ下った皮膚を曳きずって

逃げた 河へ

河へ

 

  広島は 水の都

  美しい七つの河に抱かれた 水の都

  水は

  春は萌黄に移ろい

  夏は涼風を遊ばせ

  秋は紅葉に歌い

  冬は小雪と戯れて

  人びとの日々を彩っていた

  人びとの哀歓を湛えていた

 

人びとは逃げた

嬰児(みどりご)のように水の懐に身を委ねた

 

そのとき 瀬戸内海の潮は

河を遡り 満ち 溢れた

満ち溢れて人びとを呑み込み攫った

 

弟よ 母は傷ついてぶらぶらの両腕に

あなたを抱きしめた

抱きしめて潮からあなたを守った

やがて

焼け爛れた身体を河原に横たえられたあなたは

裸身を怖れた

(こわいよ! こわいよう!

  ぼくに なにか掛けて!)

父は一晩中草を(むし)って 苦しみ悶える

あなたの身休を覆いつづけた

 

その夜は 降るような星月夜だった

満天の星を従えて

天は静かに地上に近づき

手を伸ばせば届く空から

夜目にも白い薄衣の雲を地上に降ろした

冷んやりと夜露を含んだ羽衣が

人びとの焼けた身体をやさしく包み

彷徨いはじめた魂をそっと掬いあげ

天へ運んだ

 

弟よ あなたも

暁を待たず昇天した

 

  共 生

 

空の星を沈めた水槽の雨水で

僅かな食べものを煮炊きした

 

星の光が痛いほど跳る露天風呂で

湯を浴びた

 

両手を思いきり天に伸ばすと

星の話がきこえた

(私は生きている!)

星がきらめいて答えた

(お前は生きている!)

 

天の下の水槽の底には

みみずが棲んでいた

みみずと私はいっしょに生きていた

 

  地に還るもの

    天に昇るもの

 

その瞬間

鮮烈な閃光に土の粒子が総立ちした

 

そればかりではない

数えきれない生命が塵となって宙へ消え去った

 

一灯もない広島に夜ごと星が降る

降りそそぐ星たちは

あのとき飛散した土の粒子

瞬時に消えたもろもろの生命だ

あおく あかく

光を放ち 声を発して

地へ還ろうとする 星

愛する人のもとへ

父の 母のもとへ

我が子のもとへ

生まれ育った大地へ

 

しかしそのとき

降りしきる星の光に洗われながら

今夜もいくつかの魂が昇天して行く

 

  死ぬときは

 

食卓に乗せるものがなにもない 朝

母は影のように家を出て行く

 

夕方 綿のように疲れたからだを

母は土間にくずす

放心の膝には空の風呂敷

 

朝から飲まず食わず

近隣の農家を歩き廻った

畔に土下座をして頼んだ

(子供たちが飢えています

  年寄もおります

  どうかそこに捨ててある屑芋なりとも)

だが手応えはなかった

 

まいにち まいにち 飢餓死が報じられる

孤児 老人 母親

闇買いをしなかった警察官一家

広島はみんなが浮浪者といってもいい

 

水のような一椀の夕食につくと

きょうも父は云う

(あしたは私たちだ

  笑顔で死んでくれ

  けっしてひもじい顔をして死なないでくれ)

 

夜が明ければ母はまた

影のように家を出て行くだろう

 

  終りのとき

 

地に一灯もなく

天に一星もなく

すべての生命が絶たれた街

闇の奥に闇があり

祈りもなく

全土にただよう燻煙のみが

きのうまでここに街があったことを物語っている

 

真夏なのにこんなに寒い夜

どこかで泣く人があってもいいではないか

 

燐が燃える

人魂はゆらゆらと地を這い

離れ難く 離れ難く

地を離れ また戻る

やがて青くちぎれて虚空を飛ぶ

悲鳴のように

嗚咽(おえつ)のように

 

ここは

魂だけの黒い空間だ

神にすら見捨てられた空間だ

 

  夏の響

 

    一 章

 

(きみいくつ?)

(十四歳)

(ぼくは十六歳

  趣味は?)

(読書)

(ぼくは音楽

  音楽は神の言葉です)

 

少女の全身はガラスで破れ

少年の額と胸は裂けていた

ふたりのからだの上には

金の火の粉が降りそそいでいた

見渡す限りの広島が燃えていた

生はとっくに絶たれ

死もふたりの上を素通りしていった

ふたりは生死を越えた空間にいた

やがては金の火の粉が

ふたりのからだを埋めて行くだろう

 

彼は今朝家にいた

崩れ落ちた建物の下から(かろう)じて這い出した彼は

妹の声を聞いた

「助けて 兄さん!」

(つい)えた家屋はびくともしなかった

火が廻ってきた

「熱い 熱い!

水をかけて!」

姿の見えない妹が叫んだ

彼は声のあたりにザブザブとバケツで水をかけた

「ありがとう 兄さん

 ああ!

 ………

 兄さん早く逃げて

 早く!

 ………」

妹の絶叫を炎が焼いた

 

「妹は十四歳でした」

ぽつんと 彼はつぶやいた

 

その夜少年は

死んで行く人びとに水を与えて歩いた

かがんでは立ち上がり

二、三歩 歩いてはまたかがむ

優しく悲しげなその仕草

いま 地上で立って歩ける人間は

彼ひとりであった

少女はそこに神を見た

 

   二 章

 

傷つき飢えたからだを

焦がす夏

ながい夏

だが焼け野の向こうに太陽が沈むとき

涼風は空を磨き 

金色の夕焼けはびんびんと

天空と大地を響かせて謳う

(生きることはすばらしい)

(生きなければいけない)

 

少女の全身は

生きる歓びにふるえる

(ああ 生きていることはすばらしい)

 

そしてこの金色の夕焼けの下

少年もまた生きぬいていた

 

   三 章

 

たったひとことでいい 感謝を

たったいちどでいい 会いたい

けれども

瓦礫の上を這って生きるその日その日

死の渕をさまよう歳月

風さえも絶えた広島

 

五年が過ぎた

あの日のように

炎える夏

青年の白いシャツが眩しかった

青年の額の傷跡が少女の心を鋭く刺した

 

胸の傷を知りたい少女に

はじらいながら青年はシャツを開いた

 

   四 章

 

語ることなく

告げることなく

美しく燃える灯は

額に汗するときも

憩うときも

涙するときも

青春の馥郁とした香りに育まれ

辛苦の日々を彩っていた

 

ある夜

海に近い長い橋のたもと

瀬戸の風が秋を呼ぶ

青年は家路へと急いでいた

突然

走り去る(わだち)に砕かれたいのちは

孤独な星となって天に点った

 

   終 章

 

きょうもまたあの夏のように燃える太陽

雲の峰が湧く山に向かって一歩づつ確かめる

青年の死

 

墓地への坂

原爆から五十年過ぎた広島の街が

がらがらと眼下にひろがる

 

艶子 昭和二十年八月六日享年十四歳

邁  昭和二十年八月六日享年七歳

義昭 昭和三十九年十月四日享年三十六歳

水を捧げるとすぐに乾く焼けた墓石

時の流れる音

樹々の息づかい

白い吐息の昼の月

昨日の星のささやきがきらめかす空

 

まだ遠い彼方の秋から

赤トンボが飛んできた

天と地をつなぐ

生命の灯となって

 

  似の島

 

ある日 子供はその海で泳ぎました

あの日 母を攫った海で

 

瀬戸内海に浮ぶ小さな島の

原爆孤児収容所「似の島」

ここは兵舎でした

わずかながら食べものもありました

緑あふれる樹々もありました

けれども子供は夜明けとともに岸に立ち

毎日 北の海を見つめて過ごしました

その向こうにある広島を

 

舟がやってくる

かがやく群青の海に舟がみえる

(あの舟にはきっと母さんが)

ときめく心は海原を駆け

大きくみひらいた目で舟を吸い寄せて

からだは渚に躍りました

 

けれども

運ばれてきたのは きょうも

親を失った仲間たちばかりでした

くる日もくる日も期待と失望をのせて

波は寄せては返しました

 

空も海も真青に輝く秋は

潮騒のなかに母の呼び声がありました

怒濤が狂う冬の夜は

ひゅるる と

木枯らしのなかで母が泣いていました

日射しがやわらくなり

樹々がやさしく芽吹くとき

春霞の海は母の香りに満ちました

天地が裂け 心も身体も裂けた 夏

あの日の痛みがよみがえりました

すでに子供のからだを放射能が蝕んでいました

 

晴れわたった海には

いくつかの釣舟が浮んでいました

向こうに見える広島

渚を洗う翠の波が子供の素足に戯れ

きらめく海水が子供のからだを弾ませました

子供は一瞬 健康をとり戻し

魚になって跳ね 沖へすすみました

 

海はやさしく子供を抱きました

子供は めくるめく水の中で

じぶんのからだが透き通るのを感じました

貝が鳴るような 遠い母の声をききました

 

(おいで

  悲しいことも

  辛いことも

  もう終ったのよ

  おいで)

 

 被爆から二、三年経った頃、私は「似の島」沖でアルバイトをした。

 牡蠣種を海中に沈める作業だった。広島港からポンポン船で運ばれた私は、ひとり牡蠣殻の山と共に筏の上に降ろされる。干し柿のように紐に吊された牡蠣種を、一本づつ海中に沈め筏に結びつけるのが私の仕事だった。

 晴れた日には、どこまでも青い海と空のただ中にあって孤独だった。曇りの日は、鉛のような大気に閉じ込められて孤独だった。

 夕方にならないと迎えの舟はこなかった。広島は、海の向こうに見えていたが、気が遠くなるほど遠い彼方に感じられた。

 

「似の島」の孤児収容所は、いつごろまであったのだろうか。何年か後、私が訪れてみたときは、廃墟となった兵舎と、恐ろしいような海の青さだけがあった。

 後に、「似の島」には老人ホームができ、孤独な被爆老人たちの(つい)棲家(すみか)となった。

 

  祈 り

 

小さな種を蒔く

ひとつぶ

ひとつぶ

 

私が消え

たとえ

息子たちが去ろうとも

根を張り

枝を広げ

互に結び合う

 

いつか

認め合い

愛し合い

いつか

南の子供と

北の老人が

ほほ笑み合う

 

種を蒔く私の旅は

終りに近い

生涯の肩に夕日が沈むとき

祈る

あしたを

人間の英知と愛を

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/02/28

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橋爪 文

ハシヅメ ブン
はしづめ ぶん 詩人 1931年 広島県広島市に生まれる。1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。14歳の時、爆心地より1.6キロの勤労動員中の郵便局で被爆し瀕死の重傷を負ったが、人々の助けで奇跡的に生きのびた。命の恩人たちは原爆症などでその後亡くなり、生き残された者の重みを背負いながら、さまざまな創作活動(詩・随筆・歌曲・合唱曲など)に取り組んできた。その傍ら世界各地で、原爆体験を語る「反核平和ひとり行脚」を展開してきた。

1998(平成10)11月11日刊行の詩集『海のシンフォニー』全6章より、第6章の詩篇を全部「夏の響」と総題をつけ掲載。会員井上章子氏による内7編の英訳詩も別に掲載。