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仮幻の詩

流人墓地寒潮の日のたかかりき   『秋風琴』(昭和三〇年刊)

 

水温む今宵の客を思ひ帰る

 

原爆地子がかげろふに消えゆけり

 

冬かもめ明石の娼家古りにけり

 

水澄むやゴッホの火の眸我に見る

 

秋は(しず)か白き肋骨切る音も

 

血を喀いて眼玉の乾く油照り

 

雪の上を死がかがやきて通りけり

 

聖夜来ぬ「聖ヴェロニカ」の目色にも

 

凩の夜が透きとほる濤の上

 

荒星に宿雪(ねゆき)の昏るる猟の径   (『雪稜線』(昭和三九年刊)

 

露日空うすき化粧(けは)ひの子守り妻

 

鍵穴に雪のささやく子の目覚め

 

なさけなくなる歌よみの寝酒かな

 

パイプもてうちはらふ万愚節の雪

 

夜は碧き雪稜線のよみがへる

 

幸うすき掌をあたためよ雪ふらむ

 

仔馬帰る月夜雪稜線を負ひ         

 

くらがりに歳月を負ふ冬帽子   『空の渚』(昭和三九年刊)

 

白はちす濁流沖をおしながる

 

炎天の胸の()あけて我を見る

 

死は春の空の渚に遊ぶべし

 

鼻面らに薄暮の透る葱をむく

 

風の余燼の落葉月夜となりけらし

 

桃咲くや父と娘いつも幼かり        

 

うちまたに落葉を踏んでなまけ熊   『操守』昭和四四年刊

 

坑道(まぶ)()を鳴らす木枯渓に湧く

 

あかつきの死色浮びぬ花の窓

 

鷺草の鷺は二羽連れ二羽の露

 

真赤なる虜囚の泳ぎけむらへり

 

さよならを言ふには遠き裸かな

 

しらじらと貌に貼りつく秋の風

 

落葉焚きゐてさざなみを感じをり

 

死顔の妻のかしづく深雪かな

 

詩碑と土筆大き静けさ海にあり

 

老梅の(ほら)に蛇ゐて花うるむ        

 

白波や筑波北風(ならひ)の帆曳き船   『高野谿』(昭和四七年刊)

 

仁王の眼を啄木鳥(けら)がたたけり高野谿

 

湯豆腐やいとぐち何もなかりけり

 

霧迅しノートルダムが動きくる

 

凱旋門さして落葉の灯がのぼる       

 

澄みのぼる時空の風の寒ざくら   『黒凍みの道』(昭和五〇年刊)

 

枯れきつて胸に棲みつく怒りの虫

 

達治亡きあとはふらここ宙返り

 

看取り寒し笑ひは胸にきてとまる

 

()みの道夜に入りて雪嶺()

 

月光の玉くだけちる寒ざくら

 

白鳥二羽湖光を曳いて帰りけり

 

雁泣くと聞えしは夢妻病めり

 

隠岐枯れて空の波紋をたたみくる

 

流人墓地みな壊えをり鰤起し      

 

妻あるも地獄妻亡し年の暮   『断腸花』(昭和五三年刊)

 

白鳥孤つ微光をひいて月に舞ふ

 

幻氷のせまりくる日の座礁船

 

亡妻の笑ひに似たる落葉風

 

亡き妻を呼び白鳥を月に呼ぶ

 

花びらに響きのあがる寒牡丹       

 

伊原野(いばるの)の砲煙に似て濃かげろふ   『藍微塵』(昭和五四年刊)

 

雲暑し摩文仁(まぶに)死の山何呼ばむ

 

かげろふや丘に群がる兵の霊

 

ひと夜母のふた夜は妻の切籠(きりこ)かな

 

蓮枯れてしまへば風の笑はざる

 

煮凝(にこごり)やいつも胸には風の音

 

穴あきし胸を埋めむ落葉焚き

 

登り窯の洩れ火のはねる雪夜かな

 

藍微塵死が見えてきぬふりかへる      

 

白炎をひいて流氷帰りけり   『風信帖』(昭和五六年刊)

 

梅干すは風樹の嘆に似たりけり

 

こころざし寒林にあり(ささ)焚火

 

蟻地獄すさりて見れば煙りをり

 

コンコルド広場の釣瓶落しかな       

 

水蜜桃(すいみつ)(こう)透く籠目の切子鉢   『風霜記』(昭和五八年刊

 

髪洗ふこころのどこか人に倚る

 

無垢の星背負ひし妻の墓洗ふ

 

()つ鷹はいつも喬木(たかぎ)に雪の与謝

 

雪の丹後感じて(つま)とすものあらむ

 

鼓うてば闇のしりぞく薪能

 

谷川の音天にある桜かな

 

白根葵咲く雪渓のうるむほど

 

海霧(じり)くれば海霧を払ひて踊りけり

 

摺り足のきこえてきたり土瓶蒸し      

 

霜柱はがねのこゑをはなちけり   『白夜の旅人』(昭和五九年刊)

 

桐の実の鳴る酒蔵の残りけり

 

煤逃げの芋の水車を仕掛けをり

 

尻重き白鳥もゐて啼き合へり

 

むらさきに白夜の孤島火を焚けり

 

刎橋の刎ねし白夜となつてをり

 

はまなすやクロンボルグ城潮早し

 

みづうみの白夜をわたる風媒花

 

髪洗ひゐればムンクの裸婦となる

 

唇に白夜の蝶のきてゐたり

 

帆船にムンクの貌のある白夜

 

懺悔室に突きあたりたる年の暮

 

泪すこしためたる父の笑初め

 

神の言葉隠り寒林青くなる       

 

劫火よりひく跫音を露にひく   『人とその影』(昭和六二年刊)

 

彼の世より光りをひいて天の川

 

ふくらむで水浴び飛んで尉鶲

 

逆落つるごとく運河の壁に芥子

 

人とその影加賀友禅を晒しをり

 

バイブルに鞣し香のある深雪かな   『雁の目隠し』(平成元年刊)

 

ひとつ指しひとつ見やりて土筆つむ

 

花の世の花散る山の音すなり

 

墓山に灯の点く盆や瀬戸の渦

 

露の彩動き赤富士現じけり

 

目をすゑて涼しき別れかはしけり

 

亀鳴くは己れの拙を泣くごとし

 

団扇手にして煽がざるとき寧し

 

越やこの人恋ひ浜の笹ちまき

 

雁立ちの目隠し雪や信濃川

 

風紋や音してひらく灘の芥子

 

河鹿の()光の糸を伝ひくる   『幻生花』(平成五年刊)

 

樹に登りゐるは誰かや月ひらく

 

昼寝覚めてみれば誰かが死んでをり

 

飛び去りし(ひたき)の息の白く残り

 

漓江曲るときに翠微の闇となる

 

長城や凍雲碧き傷ひらく

 

躓いてひとり笑ひて麦茶かな

 

枯菊を焚いて黄泉の火起しけり

 

初鰒は目をひらきをり袋糶(ふくろぜり)

 

ひとつばたご咲く浦潮の濃かりけり

 

兵馬俑並びて寒き叫びあり

 

心臓と同じくらゐの海鼠かな   『仮幻』(平成九年刊)

 

かへるさの鶴は艶冶に見られけり

 

余生白くけむりて見ゆる海鼠喰ふ

 

ナイル河の金の睡蓮ひらきけり

 

水車廻す驢馬炎天をめぐりをり

 

霍乱や王家の谷の断崖(ほき)は炎ゆ

帆を張りしときナイル河夕焼けし

 

天の旅人呼ぶ象潟の山ざくら

 

鳩を胸に抱くゆゑ弥勒仏涼し

 

いかさまに世は動きをり海鼠喰ふ

 

手に齢をとりて手を出す狸汁

 

うたまくら玉と抱きゐる初湯かな

 

団扇手にするは失意の身癖とも

 

老醜のレンブラント自像身にしむや

 

鷹は目をみひらけば師の蛇笏かな

 

天蒼し灼けかげろふの胡沙の山

 

昼顔や流沙の波紋金に燃ゆ

 

わが(うた)の仮幻に消ゆる胡沙の秋

 

カレル橋朝かげろふの渡り来る   (遺作)

 

逃水を追へば非在の蝶堕つる

 

瘤の幹抱けば虚空や瀧桜

 

空わたる陽炎のあり瀧ざくら

 

桃咲くや故園の笛吹川青し

 

かりがねや誰ぞ母思ふ空のいろ

 

邯鄲の夢とも空をゆく火とも

 

大江山颪に間あり加悦(かや)の柿

 

(がん)も舟も海峡わたるとき迅し

 

舟に乗り帰る子のあり磯千鳥       以上150句

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/03/14

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石原 八束

イシハラ ヤツカ
いしはら やつか 俳人 1919年 山梨県二之宮に生まれる。俳誌「秋」を主宰。

掲載の150句は、生前15句集及び遺稿より「電子文藝館」のために、夫人の委嘱で門人佐怒賀正美がほぼ制作年代順に抄出した。

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