最初へ

湖の向こうに

  鋏

 

いままで見えていたものが

どこへ行ってしまうのか

忽然と姿を消してしまうことがある

 

それはたった一つの装身具であったり

生活の調度品であったり

あたたかな思いであったりする

 

在ることが当然であったときから

もはやないことが当然であるように

日常の心を変えていかなければならない

 

それはやわらかな春の日から

突然の汗ばむ日のために

衣服を脱ぎ捨てる程度のものではない

 

庭のバラの花を切り落とすように

何もかも断ち切る鋏があったとしても

私はそれを使いこなせない

 

夏がそこまで来ているというのに

色あせたままの洋服一枚さえ

まだ脱げないでいる

 

 

  私を呼ぶ声

 

くり返し呼ぶ声がする

遠い意識の底から

呼び戻されたように目を覚まし

私は一日の始まりを迎える

 

近づく声は薫り高く

体中の震える細胞を

やわらかく撫でて通り過ぎ

やがて

深い森の湖に消えてゆく

 

あれは私の命なのだ

ここにこうして

朝の大気を吸い込んで

蘇ろうとしている

 

もういちど深呼吸をし

もういちど耳を澄ます

 

細い細い線となり

遠ざかる私を呼ぶ声

こだまのように返ってきた

ふくよかなこころ

春に向かう私のいのち

 

 

  同行者

 

いつのまにか

わたしの(かたわ)らに

幻のように

同行するものがいる

 

山頂に向かう一本の道すじには

夏だというのに

こぼれる陽もなく

両脇の杉木立がうなるように

聳えている

 

まだ何も見えては来ない道を

あるべき生命を拾いに

わたしは登り続ける

歩調をあわせてわたしの影となり

先導するもの

 

この先にあるものが

たとえどんな非在を示そうとも

同行したものが姿を変え

わたしの心に確かな形となって

宿るとき

私はやっと足を止め

 

そして その後に

ひとりで来た道のように振り返り

拾ったばかりの命を

幻の光のように見つめるのだろう

 

 

  痛 み

 

絶え間なく痛みを誘うものよ

これ以上何が足りないというのだ

 

凍りつくような野にあった時でさえ

私の身にまとう衣は薄く

ひとひらの花弁のようでしかなかった

 

空が鈍色に暮れていくときに

涙が風に消されることはあったとしても

もう昔のように悲しむことはないだろう

 

それなのに まだ

痛みを訴えるものよ

私の体を叩くものよ

 

何をいいたいのだ

私はじゅうぶんだ

これで じゅうぶんだ

 

 

  夏の午後に

 

頭上から垂直に真夏の太陽が

照りつけていた

私はその寺へ続く階段を上った

なぜかいつもとは違う静けさの中を

 

本堂で合掌する私の心に

当然のように聞こえていたはずの

読経が 聞こえない

蝉の声だけが鳴き止まないでいた

 

知るべきことを

知ろうとしなかったことを

私はおそれていた

 

動かずにあったものが 動こうとしていることを

変わらずにあったものが 変わりつつあることを

 

山門からの長い階段を

いつものように ゆっくりと

下りるつもりでいたのに

 

急に私は駆け下りた

遠のくものを追いかけて 私は走った

まだ存在するかもしれないものに向かって

一心に……私は走った……

 

 

  隔てるもの

 

人は生まれた風土を愛し

その地に

育まれてきたものを持つ

 

選択することのできない

胎内の色に似て

心の奥底を染め上げて

流れてくるものを

 

私は北に向かい

あなたは南に向かう

いつしか

誰がいうともなく

異なる両極を目指して

まっすぐに進んで行くときが

来るだろう

 

そのとき

私たちは感じるのだ

手の中にあったものの多くが

昔すくいあげた土で

作られたものだったと

 

同じようでいて

同じではない

あなたは南の風に帆を広げ

私は北の雪に凍える

 

そのとき

私たちは感じるのだ

意志とは関係ない

時の流れの中で

隔てていくものがあることを

 

 

  雪が降り積もるのは

 

ふるさとの私の家に雪が降る

風がない日は音もなく

時をも消して降りつもる

 

雪が降る日は救われて

羽根を休める小鳥のように

目線を下げる

 

風の日は すべてが遠く隔たり

私は 荒れる天を見つめながら

しんしんと降るものばかりを

待っている

 

もう何もかも

戻っては来ないと知りながら

ただ凍えて祈り続けている

 

それでもふるさとは

目の高さにあり 私の心にだけ

静かな雪が降ろうとしている

 

 

  さぶさの

 

とっさに読むことはできなかった

「寒風沢野」という地名を

……さぶさの……

 

耳がちぎれそうだという酷寒の風を

文字の中に想像したとき

切り裂かれた印画紙のように

とつぜん 脳裏に浮かんだ

北国の雪の凍え

 

移り住んだ海辺のこの町は

穏やかで暖かく

いつのまにか

厳しさに立ち向かう心を忘れさせ

高揚する心を埋没させた

 

あふれるほどの陽の光を

まぶしすぎると感じたとき

雪道を踏みしめた頃の

空の鈍さと対比させ

こころの在りかを

空の下に探った

 

探していたはずのものは

海の匂いのする風でもなく

春の陽をとり込んだ

菜の花畑でもない

 

凍えそうに

凍えそうに 身を打つ風を

次第に立ち込めてくる

霧の向こうに感じる今

速度を増して追いかけて

力のある限り

たぐりよせるすべはないのか

 

季節がまた

次の暑さに向かおうとする

その前に

 

 

  あたたかさが戻るまで

 

夕暮れの

静かな風に誘われて

出かけてみた

 

この小さな町には

こころが紛れるほどの雑踏はなく

穏やかな海にも遠く

やはりまた

ひとりになって戻ってきた

 

戻った家の前で

かじかんだ手を

夕陽にかざした

むかし そうしたように

 

そうしたのは

確かにずいぶん前だけれど

それは明るい春の日の

朝の光の中だった

 

今日の私の手を透かす陽は

輝く朝のものではない

心だけ遠くの空にとばして

沈む陽をながめている

 

いつかまた

あたたかいものが戻るまで

私は ときおり

こんな夕暮れの中にいるだろう

 

 

  花菱草

 

今が燃え立つ日々のように

あでやかな橙色の花弁を

陽のもとにさらして

揺れ続けている花菱草

 

あてどもなく歩き続けていても

まだその先に

消えずにある華燭の残映

 

近づく夕陽にも負けない

その燃える花色の陰となり

遠くに見えていたものを

そっとこの手にひきよせる

 

ああ 私はまだ生きられる

 

行けども行けども

何も見ることのなかった野に

限りなく無償の価値を

咲かせ続けている黄金の花菱草よ

 

あなたたちが支えられている

誇らしい大地の上に

ついに私は立つ

 

 

  空

 

暗く澱んだ

今日もそんな空だ

 

空は澄んでいると

人はいう

 

今 私の空は

哀しく重く沈み

輝かすものは

何ひとつない

 

願うことなら

この空の向こうにいるあなたに

私は私の思いを送りたい

まっすぐに

形のない透明な光にして届けたい

 

私の光を受け取るあなたよ

その光で

この暗い雲を

消してはくれまいか

 

 

  秋

 

くり返し呼び起こされた風景が

どこまでも

どこまでも続いているのに

とつぜん どうしたことだろう

 

確かにあったはずの道が

遠景となり

みるみる消えていく

 

  (私はまた同じ道を辿ろうとしていた)

 

目をこらす その先に

何ものか 羽をひろげ

飛び立つ風を待っている

 

その影が 足元まで伸び

私をつつむようにおおいかぶさると

音もなく 中天をかすめるように

一羽の大きな鳥が飛んでいく

 

もはや 引き返すことのない

はるかな空の高みに向かい

 

そのあとに

秋の空はいっそう色濃く

遠のく残像だけが

私を射る

 

 

  手の中に残るもの

 

こぼれ落ちたお菓子のくずに誘われて

池から上がった たくさんの合鴫よ

わたしには わけられるものは

もう何もない

 

とがった嘴でねだるように近づく

愛するものたちよ

わたしの手の中にあったものも

こぼれたものも

信じられないほどに

ごくわずかでしかない

 

暮れの雑踏の中

せわしなく人は行き交い

振り返る人はだれもいない

黙々と人をかき分けて わたしは

この池のほとりにたどりついた

 

枯れたはすの葉が

いちめんに水面を覆い

おまえたちはその中を潜り抜け

無心に泳いでいた

 

わたしは 何も考えずにながめていた

暮れいく年のことも

生まれ変わる年のことも

 

そして取り出した小さな菓子を

ほおばった

私の飢えはそれでは充たされない

ましてや

おまえたちに与える何もない

 

わたしの周りに集まった合鴨たちよ

いつかこの手にあふれるほどの

夢を抱いてここにこよう

わけられるすべての思いとともに

ここにこよう

 

 

  湖の向こうに

 

水際を囲むように芝生が広がり

ベンチでは

それぞれに人が時を過ごしている

 

わたしは ひとり

湖のほとりに佇んでいる

この異国の地で

だれに知られることもなく

だれを知ることもないままに

 

眼前の向こうから

わたしを呼ぶ声が聞こえるのだと

何故に告げることができようか

まるで何事もないかのように

明るく湖を眺めている人に

 

わたしは

何を見つめつつここまでやってきたのか

そして今も

何を見つめようとしているのか

 

春を待つ湖は輝きをたたえ

空気さえも こんなに

澄みきろうとしているというのに

 

いきつ もどりつ

わたしは

この湖のはるか彼方

あの暗い森へと

向かいつつある

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/05/02

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布川 鴇

ヌノカワ トキ
ぬのかわ とき 1947年 宮城県仙台市に生まれる。

掲載作は1999(平成11)年8月10日、土曜美術社刊の詩集『さぶさの』より選抄。

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