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同志社

 幕政の末路外交切迫して世運(せうん)(うた)危殆(きたい)に傾き、人心動乱するの時に際し、(じょう)(筆者自身)不肖(つと)に海外遊学の志を(いだ)き、脱藩して函館に赴き時機を観察してありしが、遂に元治元年(1864)六月十四日の夜半(ひそか)に国禁を犯し、米国の商船に搭し水夫となりて労役に服すること凡そ一年間、海上幾多の困苦を()め漸く米国に到着するを得たり。爾來益々志を決し、他日大に我邦(わがくに)の為に(つく)すところあらんと欲し、遂にアムホルスト大学に入り日夜勉学に怠らざりしが、未だ幾年を経ざるに数々篤疾に(かか)り、形骸(むなし)く志を(もた)らして異郷の土と化せんとせしが、幸にして一生を萬死の間に快復するを得たりと(いへど)も、為に大に体躯の健康を害し、学業上障碍を受くること極て(すくな)からざりき。然れども(いやしく)も学業の余暇あれば必ず諸州を歴遊し山河を跋渉(ばつせふ)し、務めて建国の規模を探り風土人情に通ずるを以て事とし、到る処の大中小学より博物館・書籍館・盲唖院・幼稚院其他百工技藝の講習所・百種物産の製造所に到る迄概(おほむ)ね之を検閲し、或は諸州の学士有名の人物に接見し、親しく其議論を聴くを得て大に悟る所あり。以為(おもへ)らく(けだ)し北米文明の原因多端なりと(いへど)も、(その)能く制度文物を隆興せしめたる所以(ゆえん)のものは、要するに教化の力にして、其教化の力の如此(かくのごとく)偉大なる所以は教育の法其宜(そのよろしき)を得たるにあることなりと。(ここ)に於て始めて教育の国運の消長に大関係あるを信じ、身の劣才浅学なるをも顧みず、自ら他年帰朝の日は必ず善美なる学校を起し、教育を以て(おの)が責任となさんことを誓ひたり。

 明治の初年、故岩倉特命全権大使の米国に航せられしや、文部理事官田中不二麿君之に随行し、欧米諸国教育の実況を取調べらる。時に襄(まさ)にアンドヴァ邑に在て勤学せしが、亦召(めさ)れて文部理事官随行の命を(かう)むる。襄敢て之を辞せず直ちに旨を奉じて理事官と(とも)に先づ北米中著名の大中小学の学校を巡視し、(おへ)て更に欧洲に赴き、蘇格蘭(スコツトランド)英倫(イングランド)佛蘭西(フランス)瑞西(スヰス)和蘭(オランダ)丁抹(デンマーク)独逸(ドイツ)魯西亜(ロシヤ)等の諸国を経歴し、学校の組織教育の制度等を初として、凡そ事の学政に関する者は、(いささ)か之を観察講究することを得、其周到善美を尽せるを観て感益々(せつ)なり。(おもへ)らく抑々(そもそも)欧州文明が燦爛として其光輝を宇内(うだい)に発射せしものは、主として教化の恩沢に(よら)ざるはなし。(しか)して教化は文明の生命にして教育は治安の母たることを悟り、愈々(いよいよ)帰朝の後は必ず一の大学を設立し、誠実の教育を施し真正の教化を()き、以て社会の安全を鞏固ならしめ、以て我邦の運命を保ち、以て東洋に文化の光を表彰せんことを望み、造次(ぞうじ)にも顛沛(てんぱい)にも敢て之を忘るゝことなかりし。且又随行に先だちて、忝なくも我邦大政府より特旨を以て、(さき)に国禁を犯して脱奔せし罪科を免除せられ、加之(しかのみならず)数々登官の恩命を蒙りしが襄に於ては将来誓て一身を教育事業に(なげう)ち、以て真正の開明文化を我邦に来さんことを望むの切なるより、固く辞して拝せず、理事官と欧洲に別れ、再び米国に航し、アンドヴァ神学校に帰り、勉学年を()む遂に卒業の初志を達することを得たりき。

 明治七年(1874)の秋襄の(まさ)に米国を辞して帰朝せんとするに際し、偶々(たまたま)碧山州ロトランド府に於て亜米利加伝道会社の大会議あり。襄の友人にして此会に(あづか)る者頗る多きに因り、諸友襄を要し勧めて臨会せしめ、且訣別の詞を(もと)めらる。襄乃ち会場に赴き演壇上米国三千有余の紳士貴女に(まみ)え、平素の宿望を開陳して曰く、凡そ(いづ)れの国を問はず、(いやしく)も真正の文化を興隆せんと欲せば、(すべか)らく人智を開発せざるべからず、社会の安寧を保全せんと欲せば、必ず真正の教育に依らざるべからず、方今我邦日本に於ては現に戊辰(ぼしん)(1868)の変乱を経て旧来の陋習を破り封建の迷夢を(さま)して明治の新政を行ふの際、社会の秩序破れ紀綱紊(みだ)れ、人心帰着する所を知らず。今日に於て我日本に真正の教育を()き、以て治国の大本を樹立し、以て人智を開発し、以て真正の文化を興隆せんと欲せば、宜しく欧米文化の大本たる教育に力を用ひざる可らず。回顧すれば今を去る十一年前、襄の郷国にありしや、当時の国勢日々に危きに瀕するを観て憂憤の心に堪へず、慨然五大洲歴遊の念を発し、一片訣別の辞もなく父母弟妹郷友に別れ、衣食住の計もなく幕府の大禁を犯して一身の窮困を顧みず、愈々(いよいよ)(つまづき)て愈々奮ひ、生命を天運に任せて成業を萬一に期し、孤行単立、長風萬里の波濤を越え、遂に貴国に渡来せしも亦只真正の開明文化と、真正の自由幸福とを我日本国に(きたら)せんことを祈るの丹心に外ならず。(おも)ふに我邦同胞三千余萬将来の安危禍福は、独り政治の改良に存せず、独り物質的文明の進歩に存せず、一に教化の烈徳其力を(いた)し、教育の方針其宜(そのよろしき)を得ると否とに係はること、昭々乎として(また)疑ふべきに非ず。今や襄貴国紳士諸友と袖を(わかつ)(つつが)なく我国に帰るを得ば、必ず一の大学を設立し之が光明を仮りて我国運の進路を照し、他日日本文化の為に(いささ)涓埃(けんあい)の報を效す所あらんとす。

 嗟呼(ああ)、満場の聴衆諸君よ、襄の赤心寔(まこと)(かく)の如し、誰か襄が心情を洞察し、幸ひに斯の一片の素志を翼賛する者ぞと、且つ演じ且つ問ひ、慷慨悲憤の余不覚数行の感涙を壇上に注ぎ、情溢れ胸塞り、言辞を中止する其幾回なるを知らず。語未だ尽きざるに聴衆中忽ち人あり、背後に直立して揚言すらく、新島氏よ予今氏が設立せんとする学校の為に一千(ドル)を寄附すべしと。是なん華盛頓府の貴紳医学博士パーカー氏にてありし。其言未だ(おわ)らざるに碧山州前知事ぺージ氏も亦起て一千弗を寄附するの約を為せり、之に次ぎ五百弗・三百弗・二百・一百或は五十・三十弗贈与の約ありて、静粛たる場中忽然として歓呼の声()ながら沸くが如し。

 既にして慇懃に良朋諸士の好意を謝し離別を告げ将に演壇を下らんとする時、一老農夫あり、痩身襤褸(らんる)を纏ひ(おもむろ)に進て襄の前に至り戦慄止まず。懐中より金二弗を出し暗然涙を垂て曰く、余は碧山州北なる寒貧の一農夫なり、此二弗は今日余が帰路汽車に(のら)んとして(たづさ)へし所なり。然れども今()が演説を聞き、深く子が愛国の赤心に感激せられ自ら禁ずる能はず、仮令(たと)ひ余老いたりと雖も、両足尚能く徒歩して家に帰るに堪ゆ、これ(もと)より僅少数ふるに足らざるも、子が他日建設する大学費用の一端に供するあらば、余の喜び何ものか之に(すぎ)んやと。(すで)にして会散じ襄も亦ロトランド府を出で行くこと未だ一里ならざる時、忽ち背後より襄を呼ぶ者あり、顧みて之を視れば一の老婦なり。急に襄に近づき、絮々(じよじよ)語つて曰く、媼は近村の寡婦にして貧殊に甚し、然れども教育の一事に於ては(いささ)()が素志を助けんとするの意あり、今嚢中僅に有る所の金二弗を呈す、然るに(さき)に会場に於て敢て之を言はざりしは、誠に其軽少なるを(はぢ)而已(のみ)、寡婦の微志、幸に領収あれよと、言畢(おはつ)て泣く。襄転(うた)た米人が我邦を愛するの懇篤なるを思ひ、感喜之を受け、曾て友人に語つて曰く、ロトランド府集会に於て最も襄が衷情を感動せしめたる者は、彼の老農夫と老寡婦との寄附金にてありしと。

 其後四方有志者の贈る所陸続雲集し来り、襄が宿望を達せんとするの基本()ぼ定まるに至れり。既にして纜を桑港に解き、明治七年の末始て本邦に帰着し、日夜学校設立を計画してありしが、八年(1875)一月大阪に於て偶々(たまたま)内閣顧問木戸孝允公に謁し、乃ち公に向て真正教育の要理を説き、併せて、平生の宿志を吐露せしに、公深く之を称賛せられ、加ふるに公は曾て在米の日より襄と相識るを以て、専ら政府の間に周旋し、襄が志を貫徹するに務め賜へり。襄乃ち地を京都に卜し前文部大輔田中不二麿君・前京都府知事槙村正直君の賛助を得、遂に山本覚馬氏と結社し、明治八年十一月廿九日私塾開業の公許を得て、直ちに英学校を開設したり。是即ち今の(わが)同志杜の設立せし始末の大略也。

   明治十六年四月

新 島 襄
 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/10/09

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新島 襄

ニイジマ ジョウ
にいじま じょう 教育者 1843・1・14(陽2・12)~1890・1・23 江戸城一ツ橋門外安中藩邸に生まれる。同志社創始者。東の福澤、西の新島と並び称され近代の人間教育とその思想に大いに寄与。

掲載作は、同志社の沿革と趣旨を文中に尽くしている。

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