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文藝と時代感覚

     
     一

 
「夢も(うつつ)も、真実も虚偽もごつちやに入り乱れて流れてゐます。何処も確かな処はない。我々は他人に就いて何にも知らない。我々に就ても何にも知らない」
 これはシュニッツレルが戯曲の一人物パラアツェルズスに言はせた言葉である。そして僕にも好きな言葉である。だが人々の多くは何処も確かな処(ばか)りのやうに思ひたがる。他人に就いて何にも知らないと思はない(ばか)りか(おほい)に知つてゐるかの如く思ひたがる。それが悪るいと云ふのではない。またそれが悪るいことでも何でもない。わるいことは人々の物の見方と考へ方である。とだけでは分かるまいが、僕の云ふのは人々の少なからざる数が兎角に物を悪るく解釈すべく慣されたそれである。
 私の見方がよし人性楽観に過ぎるかも知れなくても私は万事を好意で見たい。と云ふのはこれを例へば近頃よく人の口の()に掛り、どうかすると創作の題材にもなるかのやうであるモダン・ガールである。銀座の舗石道を洋装して、断髪して気取つて通る若い女性を人々は何のことはない、すぐモダン・ガールと云ふ。今ではモダン・ガールは少からず悪い含意がある。その含意は反感反情である。それはハイカラと云ふ意味が最初は単純に高いカラーと云ふことであつたのが後にはキチンと身装(みなり)の整つた瀟洒(せうしや)たる風采が一転して気障(きざ)の要素を少なからず含有するものの指称となつたのと同じ按配である。さうした経過を取ることは人間の心理の一隅に憎新性があるからである。その憎新性は新しい現象乃至新傾向のうちに存する好良さを認めるより先きに、その缺点の方面を見出す。好意でもつてみれば必ずしも缺点でないものまで缺鮎だと看做(みな)す計りではなく強調する。そして視野の焦鮎をそこに凝集させる。だから、取るべき何物かがあつても取るべからざる全部として仕舞ふ。モダン・ガールは今では漸く嘲笑的含意を以つて視られつつあるかの如くである。それを大別して云ふならば第一は服装容子の欧人と見違ふやうな女性をモダン・ガールと輕断して反情を示す世俗的な見解である。第二はプロレタリアからしてブルジョア的のものとし、ブルジョア末期の崩壊的所産として反感を投げかける存在である。僕の理論したモダン・ガールは無政府主義思想を情感の上に取り容れたものであつたが、その説の当否はしばらく措くとしても、僕の指目は第一、第二の見解とは著しく違つたものであつた。僕は文藝雑誌である本誌に於いてモダン・ガールを再説しようとは思はぬ。それのみならず僕は必ずしもモダン・ガールの支持者ではない。まして木村毅君の僕に就いて指示したやうにモダン・ガールの創始者でもなければ東京朝日新聞學藝欄の匿名執筆者オールド・ボーイの僕に就いて云つたやうな勧進元乃至理論的権威ではない。僕は僕だけの感じ方、考へ方で構想して結論しただけであつた。だけれど、僕は憎新性を取らない。取分け、憎新性を廓大し強調することを欲しない。僕は世間の事なんて特に現在のやうな低卑紛雑がただ訳もなく形造し映象する観念形態には常に不信をもつものである。僕は輿論を愛しない。本質的に輿論なんていやなものであるからだ。政治上の輿論を愛しない如く、世間が大した訳もなく片付けて仕舞ふ言葉の内容を欲しない。
 正しき解釈は少ない、そしてそれは誤つた解釈に席を譲る場合が少くない。しかもそれは或時乃至或場合だけでなく、誤まつた解釈が固定観念の如くなつて承認の支配権を持つのである。
 さうした理窟は止める。世人の多数が挙げてモダン・ガールを拒否しても、僕は僕の見解によるモダン・ガールの創造的社会局面を認める。が、それも別である。何れにせよ一時期の創作の或る範囲(それは極めて狭まく且つ極めて短かいにしろ)だけには影を落す女性の形態であるとは思ふ。それがいい悪るいの問題ではない。よくてもわるくても、或はよく或はわるくさうしたものがあるかぎり、多少の影を創作にも反映するであらうことだけはたしかである。それは過渡期の影であれ、その一時期の間の時世粧を残すでもあらう。
 今から思へば黙阿彌の「女書生」にせよ、「島鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ))にせよ、(いづ)れもその当時にあつては新しかつた時世の姿のあらはれであつたのである。しかし今にして考へてみると滑稽な姿である。僕が少年の時代から読んで来た小説が描がいたそのときそのときの日本女性の風俗は何れもそれぞれの頃にぴつたり合ひ(もし)くは新しかつたのであつた。元来が文学青年でなく、從つて文藝物特に純文藝物の愛読に多くの機会を持ちえなかつた筆者ではあるが、その筆者の頭に残つてゐる寡読の文藝物を回想しても如何に多くの日本女性の(もろもろ)の姿があつたことか。僕には顧望的な性情は至つて乏しいから、從つて努めて古るいものを読まうとはしないから、記叙は極めて大まかになるが、小学時代に読んだ「乳姉妹」から、紅葉物次いで中学時代の末期に四国の一隅で讀賣新聞を愛読しながら風葉の「青春」天外の「コブシ」そしてやがて来た自然主義文藝の時代、それから更に幾多の起伏を経過して現在に及んだ。その間女学生と大学生とがともすればモデルにされてゐた時代、さうだ「魔風戀風」の初野とか云つたつけ、それが自動車に乗ることをかいてあつたと薄ぼんやりながら記憶してゐる。あれなんぞはそのころの読者には新しい女性の一現象であつたのに違ひない。今では当前とすることさへ当前過ぎることだ。
 文金高島田と大分前の小説に書いてあることなんかそのころの僕に分らなかつたし、今になれば更に分からない。古るい小説を僕がよむのを欲しないのはそのころのアトモスフィアを頭の中に蘇らせることがきらひなからだ。
 一葉女史の「たけくらべ」を偶然読んで好きにもなれ、又中々の名文章だとは思ふが、今の僕等がもつ生活感から余りにかけ離れてゐることが僕には時に興味を呼び返さない訳である。紅葉の晩年の作、取分け傑作と呼ばれた「金色夜叉」でも、稍々(やや)詳言すれば、今の法科大学生には失恋したとて高利貸にならないだらう。紅葉今世にあり今、貫一を描がくなら貫一が失恋しても社会運動家にするかも知れない。そしてブルジョア富山を資本主義組織の害悪として描がくかも知れない。少くとも今の社会状態はさうさせるやうになつて居る。単に僕だけの好みからではない。僕は「金色夜叉」の諸人物を現在にもたらせて書き代へてみると面白いものになりはせぬかと思ふのである。僕の「金色夜叉」はアイスに(みだ)りに苦しむことなんかはないに違ひない。第一「金色夜叉」と云ふ題名が生れても来ない。美人のアイスなんかは出て来ないで赤樫満枝なぞはヴァンプ型の女性になつて居るし、荒尾譲介を官吏なぞにはしないこと請合である。今なら社会主義者か無政府主義者に紅葉山人もしたかも知れないのである。その時代時代がその時代時代の時世粧と価値観念とを持つ。後になつて分かることだが、紅葉山人が「金色夜叉」を描がいたときその意識下に時代が潜んでゐる。第一官尊民卑がその作に無意識に出てゐる。だからこの官吏の巣のやうになつてゐた大学生はよく作のヒーローになる特権階級に自らなつてゐた。そのころの大学生は帝国大学生それだけで、角帽がそのシンボルであり、学士と云ふことさへ一つの尊敬であつた。そんな時代の小説の主人公の大学生はよく官吏にもなり政治家にもなった。天外なぞには「新學士」と云ふ題名の小説さへあつたと記憶する。一概に硯友社時代の文藝を従来の文藝論から戯作視するだけではいけない。一つの時代の文藝を見るにはそのころの社会状態とそのころの習俗観念とを見なければならぬ。
 何を何と云つても、誰がどう云はうと時代は転変して行く。時代と社会とは、これが同じ国の同じ地域の内の事であるかと思はれる事程左様にその相貌をかへるから愉快である。
 蘆花その人の「不如歸」が現代に出たなら人は笑ふより仕方があるまい。と云ふのは戦争はバルビュースが取扱ふか、エルンスト・トルラアがヒンケマンに取扱ふか、ゲーリングが「海戦」に取扱ふか、マルセル・マルチネが「夜」に取扱ふか……と云つた風に取扱はれてこそ現在に於ける取扱ひ方である。若し「不如歸」のヒーロインがあの別れの場合に使ふ言葉のやうなことを今日の女性が云つたとしたらそれは少しく可笑(をか)しい。よし同じ心情を吐露するにしても表現がまるつきり違ふであらう。どう云ふ風に今の女性はああした場合に云ふか僕も知らないが、恐くは大いに違ふであらうことだけは分る。それに軍人として海戦─戦争にたいして何の批判もない小説(たしか批判はなかつたと確信してゐる)それもその当時が現在の如く戦争に批判を加へなくてもよく、加へなくても読者が非議しないのみか平和主義非戦主義の蘆花氏でさへが批判さへ加へようとしなかつた時代だつたのであつた。
 これらのことを考へると文藝作品と時代のテンペラメントとが併せ考へられて来る。
 

     二

 女学生大学生の小説のヒーロー時代はああした意味では再び来ないであらうし、来る訳もない。インテリゲンチアが創作のテーマたるべくんば苦悶のそれより外はあるまい。
 それより一時文壇の諸家が藝者を描いた。「大川端」にしろ、今、ともすれば革命劇すら舞台に(かけ)んとする小山内(おさない)(薫)氏さへが藝者を描いた。(長田)幹彦氏が京都の歌妓をどれだけ題材にしたか、(永井}荷風氏が帰朝後、絢爛の筆でフランス藝術の高き香気を持しつつ、低卑混迷の日本を皮肉りながら、そこに一種の文明批評を投げかけながら、一転して尚古的ともなり又享楽耽美となり、藝者との夜話、その世界がもつ特殊の色と光とを描き過ぎるほど描いたりしたこと、吉井勇が紅燈行に、それから後にも藝者をかく文学者もないではなく(宇野浩二氏はややちがふ)近松秋江と云つたやうな人も幹彦氏と相棒的に独特の纏綿心境を巧みにかきなれてゐたが、今余程どうかして又余程の理由がなくては曾つてあつたかの如き藝者をヒーロインにした創作なんかは概して変なものだ。
 これは社会意識の進展がさう思はせるに至つたのにちがひあるまい。藝者と云ふものの伝統美と独特の情調は内部的にくづれて行つたであらう。又、彼女等が歌舞的属性を漸次稀薄にし又少くともさう思はれ、売笑的存在としての社会的属性を強めて考へられて来たこと、それから彼女等がブルジョア帰属の玩弄的存在であることが多衆の生存権的主張を強めて来た現在となつては文学者と雖も曾つて取扱つた工合には取扱へなくなつたのにちがひないかの如く見える。
 カフェーあたりの女給は藝者とは違つた意味での職業女性的要素の若干と、カフェーの存在が現代社会の需用に応じたものであるかの如く何となく受けとられるのとで、一時ヒーロインが女給にとられたこともあつた。
 もつと職業的な職業婦人、更に労働らしい労働に從事する労働女性、と云つた工合に社会評論の着目も転じて行つた。創作にしろ、社会評論にしろ、時代的反映を持つものであることは云ふまでもない。
 さう云つた成行から通俗小説にお馴染の貴婦人、富豪の家庭に人となるブルジョア娘なぞも、いつまでも取扱はれるには社会條件が変り過ぎて来たからである。尤もそこには作品と読者とヂャアナリズムの、即ち経済上の需給関係もあつて、通俗的作品が読むであらうと思はれる想像の圏内に意識的乃至無意識的に取材されるであらうこともうなづかれるが、それは作者にも読者にも恐ろしきことである。何故なら人生近視鏡の貴族、富豪、乃至プチブル圏の婦女子達はそれによつて人生を見るだけであるからそれ以外の実人生は兎角に盲目にされ、作者は生活戦自体のために懸命である多数の存在から()し知るならば侮蔑を買ふにちがひないからである。
 何はさて、斯様にして社会も、世態も、考方も、感情も否、一切をこめて変転しつつある。で、それがいいのわるいのとの議論は別として最近のこの日本が所産したモダン・ガールが作家創作のとり入れを結果したとて不思議でもないし、またそのモダン・ガールを意図的にカルカチュアする必要もないのであると思ふ。若しカルカチュアするものがあるとすれば後々に来たる所の社会心理と社会状態とであるにちがひないと信ずる。今のわれわれが一葉女史の「たけくらべ」さへ生活の時代感の相反から胸を打たれないし、まして黙阿彌の散切物(ざんぎりもの)が滑稽に感ぜられると同時に、現在のモダン・ガールの容姿にしても、好尚にしても、物の考方或は感じ方にしても今から幾年乃至十幾年或は幾十年の後に考へるとすれば滑稽に近かいものに違ひないかも知れぬが、今の場合にそれを特に変なものだとするのは当たらない。少くとも酷に失する。若しも変だとして見たいとすれば現在日本の大抵のものが変でなくて何であらうとも考へられるのではなからうか。
 だと云つたからとて、僕は何もモダン・ガールなんぞに左迄(さまで)の関心を置かない。ただ、何にでもいくらかでも新しい何事にかに直ちに憎新的な瞳を投げたがる吝臭(けちくさ)さにたいして同感が持てないと思ふだけである。
 由來この国の人達はかなり軽卒な好奇心を多分にもつてゐるかの如くである。かと思ふと、いや、むしろ、であるからまたおいそれと憎新する。さう云つた工合にかつがれそしてさう云つた風に忘れられたかなり多数の外国の文学者、哲学者、その他の(もろもろ)がある。風俗慣習にしても同じやうな目に逢つたものが多くある。風俗慣習、まして一時の流行がどう始末されようがどうでもいい。けれど思想、文学その他がさしたる検討と味解とを経ずして喫み差しのシガレットの如く惜気もなく投げ捨てられるのは、さりながらやや遺憾とも云へるのではないか。
 そこで僕はまた文藝に記叙の筆を差し向けるであらう。.文藝の使命が社会状態の反映であるだけだとは僕も云はない。さうは云へないからである。だが、その議論を進めて行くならそれだけでも十分以上に論ぜられうべき事だ。それはロシヤの文藝批評家の間にも問題であつた。(しか)し僕はここではその点には特に触れないこととする。だが、社会を反映し、時代を摂取することは云ふまでもない。その場合を特に社会組織だとか、経済状態から来る照射とかに限らない。それ以外にしてもその時代時代のいろんな意味での時世粧─風俗、流行、時代感覚、言葉の色、其他云々─とは没交渉ではありえない。それを明治大正の小説を通じて見ても面白いが、さて現在日本の姿とそれを描がく作品も後になつてみれば、その中に現はれる女や男なぞが「可笑しいのね、あのときにはこんな格好をしてゐたんだわね」と後の世の女性から云はれさうな気がする。そんなことが思はれる。
 とは云ふもののそれぞれの時代はそれぞれの文学を持つて行き、それぞれの社会はそれぞれの藝術をもつて行く。けれどもその文学をすら社会の或種の考方は否定する。プロレタリアであつてプロレ文学をさへ否定する。その場合はその文学が何であつても、乃至どんなにプロレタリア的であつても本質的に文学を気嫌(けぎら)ふ一派の人達の存在である。この人達から言はせるとプロレ文藝否定の議論も成り立つのであらうが、それ以上に性格的である。マルクスの「資本論」のうちには詩も小説もある。だからそれがどんなにプロレタリア的小説でも小説の型式になつたのはきらひだとするのである。それは全く好悪の問題であるかの如くである。しかしその人達の気持も十分に分かる。恐らくは上部構造の一切を顧みる暇がないまでに経済的基礎の問題を社会について考へてゐるのであらう。そして社会変革の一点に(ばか)り全力をあげて他を顧みることを欲しないとする社会運動家の燃える熱情からであらう。
 だものだから文藝にたいしてさうした否定的態度のあることは考へなければならないし、又考へて置くだけの必要があるのである。
 社会革命家が文藝を第三戦線と名づける。さう名づけられたからと言つても彼等にとつては第一乃至第二戦線の如く第三戦線を重要視しないにちがひない。重要視するやうな口吻があれば恐らくはお世辞だ。でなければ宣伝的利用が先き立つのであらう。だから自分達の思ふ壼に文学者が這入らないときは「道づれ」(よば)はりしかしない。その呼称は冷嘲なものである。それはロシヤの話だが、第一、第二の戦線は実体的のもの第三は観念形態である。それは等分的な分量を持ち同位列に併存するものと実際運動家は考へないにちがひない。
 そこに文学の本質がある。文学と現実的事実との相関関渉は社会形態の如何を問はず、問題たりうる。これは他日改めて説く事にする。
 

 ──大正十五年七月「文藝時代」──
 
 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/08/19

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新居 格

ニイ カク
にい かく 批評家 1888~1951 四国に生まれる。いわゆる新感覚派の一翼に身を置いていた。

掲載作は、1926(大正15)年7月「文藝時代」に初出。

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