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    一

 

 斑石高範(まだらいしたかのり)茂次郎(しげじろう)の兄弟は、小さい時分から()りがあわなかった。高範はねちねちした気質であるのに、弟は無類のせっかち者である。

「兄さん、どっかへ遊びに行こう」

 茂次郎が子供心にそう誘っても、高範はほとんど一度も気持よく応じたことがない。するとまた弟の方は意地になって、無理強いにでも兄を誘い出そうとする。そこで喧嘩になった。しかし組みあっては五つ年下の茂次郎は、兄に到底かないっこはない。組みふせられてぎゅうぎゅういわされる。茂次郎は口惜(くや)し涙をためてこらえている間に逆上して、兄の指へでも膝へでも所構わず噛みついた。或る時など腹立ちまぎれに手裏剣(しゅりけん)を投げて、高範の(もも)へ突きたてたことがある。

 茂次郎が九つ十となり腰に小刀をたばさむようになると、兄との争いにすぐに刀をぬいた。高範は彼の刀をもぎとろうとするが、素ばしっこくて寄りつけない。よぎなく高範も刀を抜いて互いに渡りあっているところへ、母の梶が薙刀(なぎなた)を持って飛びだしてきて兄弟の刀を叩き落した。

 もっとも高範と茂次郎とは、いつも喧嘩ばかりしているわけではなかった。二人とも情に篤くて普段の兄弟仲は、むしろ大変睦(むつま)じかったぐらいである。それというのも父が早く亡くなり、母親の手一つに貧しく育てあげられてきたからである。高範が家督をつぐまで領主から捨扶持(すてぶち)をうけていたが、それでは足りなくて母の梶は傘はりの内職をずっと続けていた。

 もともと斑石家は、士分とはいえ軽輩の家柄だった。当主たる人が死んでしまった上に有力な親戚もなかったから、世の中から棄てられたも同様な日陰者の身の上だった。それだけに茂次郎は人なつこくて、何事も兄と共にしようとするのだが、高範がはきはきしないたちだから、いつも結果はかえって逆になってしまう。

 しかし高範の側からすると、母の平生の教から斑石家を興さなければならない責任を自覚しているので、弟と一緒に子供らしく遊んでもいられなかった。母や世間の教をきちんと守って、文武の道を励み立派に一家をたてようという心掛けである。茂次郎にはまたそういう高範の重々しげな態度が、格式の高い知行取りの息子達の真似をしているようで気にくわなかった。

 末弟の平太は父が亡くなってから生まれた児で、母の不愍(ふびん)さもひとしお深く加えられていた。そのためかかなり甘ったれ児で、茂次郎からよく苛められた。平太はひどい泣虫だった。茂次郎は彼を泣かしてみたいばかりに、罪もない弟を苛め苛めしたので、平太は茂次郎の黒い顔を見たばかりで癇がたかぶり泣きだす癖がついた。

「まあこの子は、平太を苛め殺してしまうよ」

 梶がそう云って茂次郎をうつと、茂次郎は、

「我は何もしねいや」

 と母にまで喰ってかかった。そしてその後陰で平太を、一層こっぴどい目にあわした。平太が神経質な子になったのは生まれつきの故もあったであろうが茂次郎にもたしかに一半の罪があったようだ。

 しかし平太は七つ八つなると、今度はどんなに茂次郎から苛められても、決して泣かなくなった。といって反抗もしなかった。頭を殴られれば殴られたなり、又地べたへ顔をこすりつけられればこすりつけられたなり、顔色を蒼くして強情をはりとおした。かわりに我慢の度を越すと彼の青い顔色がみるみる黒く変ってきて、眼を白く吊りあげ手足をはげしくわななかして癲癇(てんかん)を起してくる。

 そこで初めて茂次郎は吃驚(びっくり)して手をゆるめ、家を()げだしたなり二日でも三日でも帰って来ない。母に折檻(せっかん)されるのが怖さに辻堂や山寺に夜を明し、人々が心配して捜しに来るのを待っている。つまり茂次郎にはこの時分から一種の放浪癖が、もう始まっていたわけだった。

 こういう腕白児(わんぱくじ)の茂次郎にどういう見所があったのか、彼が十二の時、領主の本家の剣道師範の所から養子に望まれて、奥州の山間から江戸へのぼることとなった。茂次郎は薙刀をよく使う母の仕込みで剣道は何より好むところだったし、思わぬ出世に誰彼からともなくお祝いを云われる嬉しさで、一人家を遠く離れてゆく悲しみなど子供心につゆばかりも感じなかったが、愈々出立という日の朝はさすがに心ぼそくなった。

 師範の家の若党に伴われて江戸へ行くよそゆき姿の茂次郎を正座に置いて、一家四人が心ばかりの別れの食事を始めたのであるが、茂次郎は二杯目の赤飯を口に入れかけて、急にわっと泣き出した。拝領の長屋の二間ぎりの狭い屋内に、神棚や仏壇の(あかり)がゆらゆらと揺らめき、既に前髪を落してお城勤めを始めた高範の一人前の武士姿や、髪に二筋三筋の白髪が見え(ひたい)(しわ)の寄りだした母や、それから彼が苛めてばかりきた弱々しそうな弟の姿が、あまりに神妙に感じられたからであろう。

首途(かどで)に涙は不吉だから、お黙り」

 とたしなめる母からして幾度も幾度も鼻をうちかむし、沈着な高範も思わず一滴二滴の涙を吸物椀の中に落したようである。平太さえ子供らしく涙で顔をくしゃくしゃにしながらやたらと赤飯を口へかっこんでいた。

 しかし茂次郎が真に別れの悲しさに身をつらぬかれ、家や母を恋しと感じたのは、江戸へのぼって養家の生活を始めてからである。一芸で身をたててゆく者の修業の苦しさからいえば、何業にしろそれほど変りはあるまいが、こと武士の表芸を看板に一藩の師範をもって任じている剣士となると、その稽古のきびしさは殆んど言語に絶していた。さすが乱暴者の茂次郎もあまりの稽古の激しさに、屡々(しばしば)血を吐いてぶったおれたことがあったくらいである。

 茂次郎はこの修業に十年間耐えた後、養父から娘の福との結婚を許された。しかし福は病身で結婚後二年足らずで亡くなった。すると娘を(かすがい)にして結ばれていた養父母と茂次郎との間が、妙につめたく変ってきた。まるで娘の夭折(ようせつ)は、恰も茂次郎がその原因だったみたいな工合だった。

 短気な茂次郎は養家の生活が面白くなくて、自分から養家を飛び出してしまった。腕に自信の出来た誇りから世の生活を手軽に考え、養家の生活が窮屈に思われだしてきた故もある。

 茂次郎は客気にまかせ裸で世間へ飛びだしてみて、はじめて生活することの困難がどんなものであるかを骨の髄まで味わった。何にとりついて生きるあてもない絶望の苦しみは、到底単純な修行の辛さの比ではないように感じられた。覚えの腕も引立ててくれる者がなければ宝の持ち腐れに等しかった。

 茂次郎が養家へ詫びも入れず故郷へ帰ろうともしなかったのはやはり、もって生まれた強情我慢な気質からであろう。養家から飛び出して以来というもの、茂次郎の存在は世間から消えてしまったも同様だった。郷里からの音信はえられなくなり、落魄(らくはく)した彼の方からはもとより便りする気になれなかった。

 

 茂次郎が江戸へ出て以来、郷里の方にもかなり変遷があった。高範がたいして働きばえのない勘定方の勤めをひたすら忠実に励んでいる間に、奥路の山間の小藩であったが本藩の影響をうけて、時局柄尊攘派(そんじょうは)佐幕派(さばくは)との対立抗争が、次第にあらわに激しくなってきていた。両派の争いには政権の争奪という生活問題まで絡んで深刻に発展し、ついには暗殺や邀撃(ようげき)や斬り込みなども行われるようになった。

 尊攘派には藩の青年達が多く加担していたから、高範も同志としてたびたび勧誘されたけれども彼は自重して動かなかった。すると彼の要心深い態度が青年達の怒りをかった。丁度子供の茂次郎が、高範のはきはきしない態度にいらだったと同様な心理であろう。

 高範は城内からの帰り青年達に襲われて、額に深手をおい片眼をつぶされた。そのため彼の容貌は、殆んど一変してしまった。彼の顔は縦よりも横に広い茶釜みたいな形で、滑稽に見えても決して悪い人相ではなかったが、傷つけられてからは陰惨で不気味なものとなった。

 それと共に高範の性格もまた変化してきたようである。

 彼は口重(くちおも)で愛想を云わなかったが、女親の手で貧窮のうちに人となったので、寡黙な表情の蔭に温かく優しい心が隠されていたのだけれども、それがいち時に冷え切ってしまったようだった。人は高範のぶきみな異相から、非情冷酷な性格を感じるようになった。

 高範は挙措(きょそ)に慎重で動作にのろかったが、槍にかけては、不思議な手練をえていた。彼には常人に見られぬ微妙な腰のねばりがあった。尊攘派の青年達がしつこく高範を勧誘したのも有力な闘士として彼を味方の陣営に加えたかったためである。

 血気にはやった青年達の無思慮な行為は、かえってこの有力な闘士を敵側へおいやった。役目にかくれて旗幟(きし)をあきらかにしなかった高範は、その後はっきりと佐幕派について尊攘派の青年等と闘った。両派の暗闘が凄じくなってくるにつれて、高範の働きが目立ってきた。彼は常に真紅の革胴をつけて闘いの場にのぞんだ。わざと敵方の目標(めじる)しになってやるという挑戦の意である。しかし敵は彼の槍先を恐れて、反対に彼を避けるようになった。

 高範はいつとはなく佐幕派の間に、隠然とした勢力を持つにいたった。それと一緒に彼の地位も次第にあがってきた。彼は微禄の勘定方から儕輩(さいはい)をぬいて、三十数ヶ村を見廻る目附役(めつけやく)に出世し、あらたに広い屋敷を領主から賜わった。こうした結果から考えると、家柄や門閥におさえられて出世が容易でなかった時代に、彼は彼らしく巧妙にたちまわったということになる。すくなくとも尊攘派の表面はなばなしい活躍とは反対に、藩の実権は依然として保守派の老臣達の手に握られていた事実から推すと、高範はあらかじめ自分の進退に目算をたてていて、ただそれを行為にあらわす機会を待っていた、ということになりそうである。少くとも彼のとってきたコースからは、青年らしい感激や情熱は微塵も感じられなかった。

 しかし人生のコースは、たといどのように精密に計算されようとも、やはり人間の打算に余るものがあるように思われる。高範の勢力に圧しられた尊攘派の青年達は、高範の弟の平太を同志にひき入れて彼の勢力を牽制(けんせい)しようとはかった。平太は兄とちがって多感な性情だったから、青年達の主張にも反対ではなくこの密謀がなかば成功しかけた時に、高範は先手をうって領主へじきじき弟の閉門を願いでて、平太を母の隠居所に蟄居(ちっきょ)させてしまった。

 幼児癲癇(てんかん)持ちで神経質だった平太は、茂次郎のいなくなった後、次兄とはまたちがった意味で病的に烈しい性格の青年に育ちあがった。高範も茂次郎も母の丹誠で、それぞれ武芸名誉の者となったが、平太の二刀はことにも天才的だといわれた。彼が城内の二百畳余の大広間で、三間置きぐらいに()えた四尺高の屏風(びょうぶ)衝立(ついたて)の列を飛びこえ飛びこえ、二刀をもって居合の秘術をつくした軽妙至極のはやわざは、領主をはじめ満座の藩士達の歎賞を博した。

 そのため平太はまだ部屋住みの身だったが、とくに扶持をいただいて家中の指南番となっていた。高範が斑石家の当主として平太をかってに処理することが出来なかったのは、藩士待遇のこうした事情があったからである。

 高範が彼自身の栄達と同時に一家の安全のために、平太を一時犠牲にするつもりだったらしいが、感じやすい性格の平太の身にしてみると、これという罪もなくてうけた閉門という不名誉は、手痛い打撃となった。平太は内心尊攘派の主張に共鳴する所あったのだが、兄の立場を考えて軽挙を慎しんでいた際だったから、彼を無視した兄の処置はそれだけ彼の忿懣(ふんまん)をあおった。平太は隠居室の一室に蟄居(ちっきょ)して誰にも会わず、母とすら一切口を利かずに三伏(さんぷく)の真夏を頑張りとおした。茂次郎からどのように苛められても音をあげなかった少年時代の強情さが、青年となって一層苛酷に発達してきたのである。それがどれほど烈しく彼の精神力の負担となったものかは、母の梶にも(うかが)い知れなかったが、日に日にきわだつ愛子の憔悴ぶりに梶は真に老いの心を砕く思いをなめた。

 はた目には平太の黙した懊悩よりも、むしろ老母の心遣いがいたましく感じられるくらいだった。梶が蟄居の憂さを慰めるために、三度三度心をこめて作りあげる日々の料理も、室内からさえ出ようとせぬ平太の運動不足のために、単に箸をつける程度の食欲しか起きないらしい。

「これなら涼しかろうから、おあがり」

 と清水で冷やした葛餅や心太(ところてん)など勧めてみたが、いつも蝿のたかるにまかして抛ってある。そして殆んど終日奥の間の机の前に坐り通して、何を考えているのか前庭の暗い青葉の茂りを眺め暮しているのである。その彼の眼つきがまた、血腥(ちなまぐさ)いばかりに気味悪かった。月代(さかやき)はのびるにまかせ額には縦に太く青筋が張り、眼窩(がんか)はくぼみ両頬はそぎ落されて(ひげ)が深かったから、一層凄惨な光に感じられた。

 しかし梶にとって何より辛かったのは、平太が一言も口を利いてくれなかった事である。物事にひたむきになりやすい平太は、剣技の熟達を希うあまり、鎮護の武神に寒中跣足(はだし)詣りをして、百日の祈願をこめたことがある。その時も無言の行を守った。今度もやはりそうした誓をたてたものらしいが、前と違って今度は暑い盛りを一間にじっと閉じこもったぎりである。そして世間の交際から離れ、母とたった二人の生活を送りながら、全き沈黙を守り通しているのだ。

 こういう生活が果して人間に堪えうることであろうか。梶は平太よりも前に自分の心が狂いそうであった。いかに心を尽してもそれが相手に通じないのではなくて、通じても相手はそれを言葉や感情に表すことを、堅く拒みつづけているのである。こういう心理上の苦痛は、石のように非常な人間を相手にしているよりもっとひどかった。

 梶は平太の閉門を早く解いて貰うために、度々高範の屋敷を訪れたけれども、いざとなると云いだしにくかった。それは、

「斑石家のためです」

 と高範から一言のもとにはねつけられるのを、恐れたからではなかった。奇怪な容貌に変ってしまった高範と対面していると、此処にも平太に劣らぬ強情我慢な人間がいるという思いに、梶の心が重くふさがれてくるためである。しかも梶自身がそのように彼等を育てあげてきたのであった––艱難に耐えよ、己にうち克て、と。それが彼等に教えた、「さむらい」の(おきて)なのである。

 

 梶にとって堪えがたいばかり辛かった夏がようやく過ぎて、山間の小さな城下町に初秋の風のおとずれを聞くようになった。まだ残りの暑さが家々の(のき)ばにたまって、気も遠くなるように街なみの気配がしずまりかえっていた真昼時に、高範の家来の老爺(ろうや)八朔(はっさく)の祝の団子を梶の隠居所へとどけてきた。

 家来の声は主人の語音に似るものか、それとも平太の錯覚だったのか、家来と老母の話声を聞きつけた平太は、高範の来訪と勘違いしたらしく、突然沈黙を破って大声で何やら叫びだすと、奥の間から飛びだしてきた。見ると手に白刃をさげて、眼の色も顔の相もただならず変っている。

 老爺は気丈な男で、とっさに危険を悟ったとみえ、

「危いッ」

 と叫ぶと羽交絞(はがいじ)めに平太の背後を抱きかかえて、

「お早く、高範様の所へ、お早く」

 と梶を促したてた。梶はそれを高範の所へ早く報らせろという意味か、それとも逃げろという意味かなかば夢中に聞いて、高範の屋敷へ駈けつけてきたが、途中でふっと気が変った。もしや老爺の身に間違いがあっては大変だと気がついたのである。そう考えたのはたとい逆上したところで、相手は我が子だという安心が、無意識のうちに梶に働いたからだった。

 梶が隠居所へ引っかえしてきて、板塀の節穴から中腰に我が家の中を覗いてみると、老爺はすでに平太を突きとばして逃げてしまったらしく、平太一人凄じい顔色でぶるぶると(ふる)えながら、何かを探すようにあちこちと鋭く目をくばっていた。そして梶がハッと眼をそらすとたん、狂人特有のカンでぎらっと梶の姿に気がついたのは、呪われた宿命とみなすよりほかはない。

 四尺五尺の高さを飛び越えて、抜き打ちに斬りつける早業にたけていた平太の兇刃を、薙刀(なぎなた)の使い手だった梶もかわす暇がなかった。

「鬼婆、見つけたッ」

 という我が子の浅間しい喜び声を最後に聞きながら、梶はそれでも十間ばかり家裏へ逃げだしたのだった。そして第二の太刀をうけ、鬱々と茂った芋畑の広葉の上に突っ伏して息が絶えたのである。

「鬼婆を仕留めたぞ、出あえ、出あえ」

 と(わめ)き叫んでいる狂人の異常な歓声を聞くと、近隣の街の人は出会うどころか、ばたばたと戸をしめて家に隠れてしまった。

 八朔の祝の登城から帰ってきていた高範は、いち早く凶事の注進をうけると、羽織の下に革襷(かわだすき)をかけ袴の股立ちをとって現場へ走って来た。彼がその節得意の槍をさげて行かなかったのは、意外の凶変にさすがの高範もそれだけあわてたものであろうと云われたが、弟を敵に討たなければならない高範としては、又別に考える所もあったのであろうか。

 とにかく兄弟同志の不幸な仇討は隠居所裏の広場で、互いに一刀をとり五分五分の形式で行われた。武士の果し合いには一定の作法があったが、平太は発作に狂っていてもその作法を忘れなかった。互いに式退(しきたい)をかわして蟻の歩みも遅いくらいに近づき合い、刃を一合する迄に十分二十分の時間がかかる。

 兄弟はじつに二時間近く死闘をつづけたのであるが、家々の屋上や城の高みから二人の決闘を凝視していた人々は、高範の方が絶えず圧迫されていたように見えた。二合目の分れに高範はすでに小鬢(こびん)を削られ、彼の額の鉢巻は赤く血に染っていた。高範を救ったのは、城中から馬で乗りつけてきた検視の役人が、

「平太、待てッ」

 と声をかけたためである。その時両人は三度目の出合いで、互いの刀の物打ちと物打ちが焼きつき、必殺のほむらをたてていた。もし普段の平太だったらこうした場合、たとい百雷の声がしたところで動じなかったであろうが、錯乱に気が上ずっていたので、思わず「はっ」として後をふりむこうとした刹那(せつな)、高範は刀を蛇のようにすべらして、平太の右小手をしたたか斬り下げた。

 しかし闘いは、それから却って烈しくなった。深く傷つけられた平太は、今度は完全に狂人ぶりを発揮して、左手に刀をふりかざし獣のように高範に襲いかかってきたからである。高範はうけかねて広場の一隅にある池の周囲や、それへそそぐ溝川の岸のかなたこなたを逃げまわった。そして出足の速い平太のために、今度こそ高範はやられたかと、観衆に幾度となく固唾(かたず)をのむ思いをさせたが、その度毎に高範は腰のひねりを利かして危機をまぬがれた。しかも驚くべきことには、高範は立ち直る暇もないほど烈しく追いつめられながら、体勢をくずさず冷静に反撃の機会をねらっていたのである。

 闘いは平太の右手の出血がひどく、彼の衰弱が加わってきたことで終った。平太は刀を高範めがけて投げつけると、街通りへむかって遁げだした。高範は周囲を警戒している捕吏たちにとらえられ、彼の決死の努力も水泡にきすのを恐れて、はげしく平太を追跡し大通りを突切り裏町から桑畑をくぐって、大川の土手を匍い登ったところを、腰車を突いてやっと動けなくした。

 土手の陰は青みどろをなした大川の淵である。対岸は懸崖となって、清水に肌をしめしながらそばだっていた。平太はこうした場所を最期(さいご)の背景にして、二十歳の若年で死んだ。死に際に彼は哀れにも一時正気にかえって、

「兄上、なぜ私を殺すのだ」

 と兄を恨んだ。高範が彼の耳に口をおしつけてその訳をささやくと、平太はしきりに何かを思いだそうとするように、うなだれて暫くじっと考えこんでいた。それから瀕死(ひんし)の顔色がほのかにさっと色づいたかと思うと、

「お母さん、御免なさい」

 と呟いて前にのめってしまったのである。高範は仰向に彼をひき起してとどめを刺した。

 高範は弟の(しかばね)(むしろ)をかけ、母の(むくろ)には定紋つきの彼の羽織をきせかけて、検死のすむのを待つ間、隠居所の中で母の仕残した傘張りを黙々とやりだし、その心憎い落ちつきぶりで人々を愕かした。しかし彼のつもりでは、梶の残した志を仕あげてやることに、せめてもの母への回向を感じたものであろう。梶は高範の出世で生活に苦労しなくなってからも、手馴れた昔の内職を続けていたくらいに古風だった。

 こうして高範の生活コースの計算からはみ出た一家の不祥事も、高範の手で始末がつき事無くすんだばかりか、たちどころに母の仇をむくいた功で、平太の扶持分だけ加増されるにいたった。彼の反対派は依怙(えこ)の沙汰として攻撃したが、功はともかく、高範が死を覚悟で災禍にたちむかっていった意気は買ってやらなければなるまい。

 その後高範の相貌や性格は、一層のにが味を帯びてきた。

 

 養家を飛びだした茂次郎は、この時分江戸市中を徘徊しながら、下手な謡の門附けをしてからくも生きのびていた。生活の困難は、しだいに彼の心を荒く、険しくした。彼は喜捨がえられなかった折には、大名行列の来るのを待ちうけていて、道の真ん中に(しり)をまくって(しゃが)みこみ、ことさら大きな唸り声をはりあげて脱糞する様によそおった。すると供先の者が駈けてきて、なにがしかの草鞋銭(わらじせん)(たもと)に投げこんでくれるからである。

 その後大江戸の浮浪生活に馴れてくると、盛り場で大道剣舞や居合抜きをやりだした。そのうち見物人中の掏摸(すり)をつかまえることに興味を持ちだし一人捕えるごとに手の甲に手裏剣を突きさして胸中の鬱をはらした。すると掏摸仲間のほうから慇懃(いんぎん)をつうじてきて、彼を賭博師や香具師(やし)の剣術の先生に頼みこんできた。そして名ばかりの小さな町道場を開いてもらったけれども、門弟となる者はほとんどなくて彼等のていの好い用心棒にすぎなかった。

 茂次郎は生きるためには何でもやるつもりだったが、やはり剣にたいする功名の一念がすてがたくて、市井の無頼人共と同化することが出来なかった。それで何時とはなく勤王の志士達と、交りをむすぶようになった。彼は元来武骨一方の男で、時代の思潮にはたいして関心を持たなかったが、彼にとり面白くない時勢や境遇にたいする不満で彼等に共鳴した。

 だから彼は井伊大老を襲撃する企に参加をもとめられると、一も二もなく賛成した。一介の浪人で時の大老を討つ、これほどの快挙はないと、彼は久しい間の鬱血をわかしたのである。しかし日比谷の土手の陰に伏せて、大老が少数の一番隊の同志の手で、あっけなく討ちとられてしまっただらしなさを目賭(もくと)すると、茂次郎は長い間の夢が急にさめてしまったような幻滅を味わった。同志の成功を喜ぶより寧ろ大老の死に落胆するのは、彼の心理上の矛盾には違いなかったが、茂次郎はこのような有様では、もう武門の世も終りだと悲観してしまったのである。

 徳川の武家政治が長くないとすれば、この上武技の修行をつづけても無駄だと、気短かな茂次郎は早くも前途に見切りをつけて、用心棒かたがた望まれたを幸い、下町の商家へ再び婿入りしてしまった。彼は其処で二人の子供の父となった。

 初めて人の子の親となったにもかかわらず、そして又浪人生活の苦労が身にしみていた筈であるにもかかわらず、四年も経つと茂次郎はようやく平安無事な生活にあきがきた。彼には町家の生活は性にあわなかった。それに壮年の彼はまだまだ己の夢をすてきれなかった。彼の考えどおり徳川の政治が末にちかづいてそれだけ世の中が騒がしくなり、以前の同志達の目覚しい活躍を見聞きするにつけ、茂次郎は覚えの腕が鳴ってじっとしていられない思いだった。それで武田耕雲斎や藤田小四郎達が筑波に兵をおこしたことを聞くと、彼はやみくもに養家を出奔してしまったのである。

 筑波で茂次郎は、永年もとめていた「生活」の(かつ)を、とうとういやすことが出来た。彼の生涯を賭けて鍛えこんだ彼の剣は、彼の期待と自信を裏ぎらなかった。彼がぞくした浪人隊は勇敢と無法で聞えていたが、彼はその中でも選ばれたものだった。

 茂次郎は肥りじしで大兵な兄の高範にくらべると小兵なくらいだったが、筋肉の層でつみあがった彼の五体は藤蔓のようにしまっていて、黒い顔のところどころに面擦れの痕がしみつき、するどい眼差しに精悍(せいかん)な闘志と気魄(きはく)をこめ、みるからに一流剣士の風貌で凛々(りんりん)と鳴っていた。

 彼はどのような敵をも、ただ一刀で仕留めることが出来た。敵の多くは真剣のたたかいに慣れず、切っ先で大地を叩き、茂次郎の思うままのためし斬にあった。自衛団の土民達にいたっては、据物をきるも同様だった。彼は立ち向ってくる者ならば、郷民であろうと何であろうと逃さなかった。彼はただ剣を揮って人を斬る悦びに()かれていた。

 茂次郎は鉄棒をふりかざして味方を悩ました敵の乱暴者を討ちとったり、筑波軍が得意とした夜襲戦に敵の百人隊長の首をとったりして、隊長から屡々感状をもらった。彼はこの当時、彼の生涯の一つの頂点に立っていたのである。いわば彼の人生の花であった。

 筑波の天狗党が最後の優勢をほこって水戸を攻め、湊のかたに陣を布いていた頃、茂次郎は単身敵陣の偵察におもむいた。そして竹藪にひそんでいた敵の伏兵におそわれた。十余人の敵は槍をもって茂次郎をとり囲んだが、彼のはげしい気勢におされてじりじりと囲みを解き、ついに一団となって彼等の屯営である寺院のかたへ()げだした。茂次郎は勝ちにのって彼等をおいかけて行った。敵側とすれば首尾よく彼を罠に誘いこんだわけである。

 寺院の楼門の陰に彼等の隊長が、大刀をふりかぶって茂次郎を待ちかまえていた。茂次郎が夢中でそこを走りぬけようとした刹那、

「しめたッ」

 という叫び声がして、茂次郎の陣笠がふっとんだ。茂次郎はあおりで横へとんだひょうしに転倒し、気を失ってしまった。

 しかし失われた意識の裡にも、人間のすさまじい闘志はなお働くものとみえて、茂次郎は朦朧(もうろう)とした意識の底から、くわっと眼をみひらく思いで起きあがった。すると前方をのっしのっしと立ちさってゆく、敵の隊長の大兵な後姿が眼にうつった。真紅の革胴に秋の日を照りかえしながら、鍔元(つばもと)近くから折れた刀を空にかざして眺め眺め歩いている。渾身の力で刀をおろした瞬間に、山門の横木にでもあたって刀身が折れてしまったものであろう。おかげで茂次郎は、奇蹟的に命を拾った。それにしても敵は茂次郎が気絶している間に、差添いで彼を仕留めることもできた筈なのに、刀の折れたにうろたえてそこに気がつかなかったのであろうか。

 しかしうろたえた点からいえば、茂次郎のほうが一層みじめだった。敵の太刀風の下にひっくりかえって気絶するにいたっては、三十年の剣の修行に何をえた所があったのかと、茂次郎は自分自身に腹がたった。それで彼は自分の不覚をとりもどすつもりで飛び起きると、敵の気づかぬのを幸い刃を伏せて敵の背後へ忍びよって行った。

 彼が全身の気合をこめて、まさに敵に跳りかかろうとした時に、敵が後をふりかえって、

「茂次郎」

 と呼んだ。思いがけないわが呼び名に、茂次郎がはっとして立ち止ると、敵は片眼の顔をくずして「にやっ」と笑った。そこで茂次郎はやっと気がついた。彼は敵のもの凄い顔の中から、はからずも三十年前に別れた高範のなつかしい、あの笑いの表情を見出したからである。

「おおう」

 と叫んで茂次郎が、思わず兄の方へ進みよろうとした時に、寺院の中へ逃げこんだ敵兵が、新手を加えてどっと(あふ)れだしてきた。茂次郎はずきんずきんと痛むような心を抱いて逃げ帰った。

 

    二

 

 天狗党の落武者斑石茂次郎は、故郷ちかくの山村へ遁れてきて、宿場問屋の寡婦(やもめ)お才の入夫となり身を隠した。名も藤木利右衛門と改まって、一介の土民となってしまったのである。

 藤木は苗字帯刀をゆるされた家柄で、なみの土民とは違っていたが、なお侍を婿にしたことを非常な名誉にして、事件の決着がつくまで茂次郎を、土蔵の奥や近くのわびしい温泉場に(かくま)っておいた。

 茂次郎が筑波を落ちのびて来たのは、思いがけなく高範と出会って、故郷の母や弟が恋しくなってきたためである。彼は高範とあった後、急に剣に自信をうしなったようにぼんやりして、はかばかしい働きぶりもしめさなくなった。

 彼は他の臨時募集の浪人や博徒等と同様、本隊から離れて筑波を落ちる途中、郷民の自警団の手につかまった。そして後手にくくられ官軍の屯営にひかれてゆく道すがら、下痢をよそおって、民家の厠へ入り掃除口から逃亡した。

 それからは昼は山林にひそみ、夜は月あかりを頼りに里近く出てきては小田の稲穂を(ついば)んだりして、飢と疲労に困憊(こんぱい)しながら十日間ちかく山路を彷徨した。そしてとうとう山中に倒れていたところを、蕈狩(きのこがり)の老婆に見つけられて助かった。

 其処はもう故郷に近く、老婆は彼の実家のゆかりの者だった。彼がそのようなからき目にあって、故郷近く辿りついてきたにもかかわらず、茂次郎が最初にえた故郷の消息は、母も平太ももはやこの世にはいないということであった。

 寡婦のお才には死歿した先夫の子が五人あった。彼女は三十台でまだみずみずしかったから、さらに茂次郎の子を次々と生んだ。茂次郎は先夫の子も自分の子も一切わけへだてしない善良な家長だったが、又一徹な侍気質(さむらいかたぎ)のうせぬ変った父親でもあった。

 彼は郷民となっても、頭髪を浪人風に大髻(おおたぶさ)にむすんでいた。村人はそれで彼を一般に、「長髻(ながたぶさ)様」とよびならわした。尊敬の意もいくらかはあったろうが、揶揄味(からかいみ)も多分にあったのである。理由はいかがあろうと、死ぬべき命をながらえて郷民に身をおとしたからは、多少の(さげす)みは忍ばなければなるまい。村民は侍という者を恐れはばかっていた反動で、自分等と同様な身分に落ちてきた茂次郎を軽く視る風があった。

 ことに血気がかりの若い衆達にその傾向が強くて、茂次郎にたいして故意に彼をあなどったり、反抗するよるような様子をみせる。武家政治がつぶれて世の制度が一変しようという変革の時期であったから、人々の心も荒く殺伐をきわめていた。

 もっとも茂次郎と同じ村の人々は、旧家の藤木家にたいする遠慮からしてもそれほど露骨ではなかったが、他村内では容赦がなかった。茂次郎がたまたま遠出して山道を一人帰ってくると、三人の逞しい若者が彼の後をつけ一里ばかりの間といもの、しつこく彼に揶揄の言葉をあびせたり悪態を吐いたりした。しかし流石(さすが)に茂次郎を恐れてあえて側へは近づいて来ない。

 そのうち道の曲り角へくると、茂次郎の姿がひょいと見えなくなった。

「気まり悪くなって、道をかえやがったらしい」

「案外、気のちいせい野郎だ」

「石ぐれい、抛りつけてやったんだったにな」

 三人がそんな話をかわして、得意げに高笑いをひびかせながら何気なく曲り角を通りすぎかけると、三人が三人ほとんど同時に耳の後をぴゅっと撫で斬りにされ、彼等は目をまわしてしまった。

 茂次郎にしてみれば片側の丘の上から飛びおりざま、即製の鞭で彼等をひっぱたいたにすぎなかったが、若者達は衝撃があまりに強く頭へひびいたため、斬られたと思って動けなくなってしまったのである。

 三人は茂次郎がすでに村へ帰りついた頃、後から来た通行人に助けられてやっと息を吹きかえしたが急所をきびしくはられたので、二三日は気がすこし変になった。睡眠中突然「わあっ」と叫んで飛びおきたり、戸外へ駈けだしたりしたのである。

 こうした話が近郷近在にひろまると、茂次郎にたいする村民等の態度が俄かにあらたまってきた。そして若者等の間からすすんで撃剣を習いたいと茂次郎に頼みにきたが、郷民と化したつもりでいる彼は承諾しなかった。

 藤木家は茂次郎を婿にしたことを名誉として喜んだが、その名誉がどのくらいの値につくか世の中が改まるまでわからなかった。

 明治初年以来、版籍奉還、廃藩置県と時勢が激変すると同時に、参勤交代の要路だった街道筋は、ぱったりと寂れてしまった。それで一番困ったのは、荷駄(にだ)為替金(かわせぎん)の運送をとりあつかい、駅馬や駕をしたてていた問屋や宿屋である。

 藤木家は稼業をしまって僅かの所有田畑や山林の収入に、生計をたよらなければならなくなった。ところで浪人くずれの茂次郎には、百姓仕事が出来なかった。彼は成長した先夫の子達をつれて野良や山へ働きに出たが、子供等の半分も仕事がはかどらなかった。それに彼は野良仕事をまったく好まなかった。つまり結果からいうと、藤木家は名誉のかわりに一種の厄介者を背負いこんだわけである。

 茂次郎はそこで余儀なく、一度はことわった剣術を村の若者達に教えはじめた。問屋をやめて不用になった板倉の一つを、道場に作りかえた。他村へも教授に出張した。世の中が改まったとはいえ騒がしさに変りはなく、ことに武士も土民も一つになると、村の若者達はかえって武士の表道具である剣術を習いたがった。しかし剣術の教授からあがる収入はたかがしれたもので、金のかわりに米や野菜や炭などを礼に持ってきた。それでも、茂次郎が教授にひどく熱心だったのは彼の天性もあったとはいえ、又それで彼の生活の無聊(ぶりょう)が大いに慰められたからである。

 彼の村の道場には、過去を忘れがたい旧藩士達が折々たずねてきて、互いに自慢の武芸をきそいあった。茂次郎は相手の技倆次第でかなり如才ない試合ぶりをみせたが、強敵となると仮借することなくいくらか詭計(きけい)めいた手さえ用いた。

 彼がある旧藩の指南番とたちあった際に、左足に竹刀をぴたりとあてて立ちあがった彼は、双方の目礼が済むか済まない間に、「やっ」と叫んで飛びこむなり一突きに相手の胸をつきたおしてしまった。見物の人々の眼には、まるで相手が彼の気合で倒れたかと思われたくらいの早業だった。これは一刀流の極意とする、茂次郎の得意の構えなのである。

 仰向けに突き倒された指南番は、さすがに飛び起きて、怒りと屈辱に真っ青となり、

「もう一本、もう一勝負」

 と竹刀先をふるわして茂次郎にせまったが、彼は頑として再試合に応じなかった。そういう折の茂次郎の表情は獣のようにたけだけしくなり、両眼はもえあがって筑波であばれまわった往年の面影をしのばすものがあった。

 村人はまのあたりに茂次郎のこうした武勇を見、また彼の正直な人となりを知るようになると、以前とはかわって彼の存在を徳としたばかりか、ひどく彼を頼みに思うようになった。実際村の若い衆がきそって武芸を習いたがったように、世の中の変動で失職した浪人者や無頼のやからが、このような奥路の村々まで流れこんてきて、押借りや強盗騒ぎが毎日のように絶えなかった。

 茂次郎はこれ等の暴漢の襲撃から、一村の平和と財産と護ってくれた。茂次郎の村におしかけてきた不逞(ふてい)の徒は、いずれも彼のため命からがらの目にあわされ詫び証文をとられた。茂次郎の屋敷の大きな構えをみて、大尽と誤解した浪人者が、小具足をつけ手槍をもった仰々(ぎょうぎょう)しい姿で白昼傍若無人にのりこんできて、庭内でこつこつと桶の(たが)をはめていた茂次郎の姿をみると、宝物倉へ案内しろとおびやかした。

 茂次郎が黙っていると、酒気をおびていた暴漢は彼の大髻を滑稽がって、槍の穂先でおどかしにチョイチョイつッつきだした。すると茂次郎は、

「鍵をもってくるから待て」

 といって起きあがり、大きな鍵を腰にさげて出てくると、暴漢をおとなしく倉庫の一つに案内した。そして中で暴漢を苦もなく縛りあげ、がらくたの詰っている倉の中に閉じこめてしまった。三日すぎて倉を開いてみると、暴漢は鼠に噛まれ飢渇(きかつ)に弱って半死半生の体だった。彼は茂次郎からあらためて食物と路銭をめぐまれ、ひらあやまりにあやまって村を退去していった。

 これ等のことが遠近の語り草となって、後には天狗党の浪人者が隠れているというので、不逞の者は彼の村を避けるようになった。それで彼は近郷の町の大尽達からしばしば宿泊に招かれたばかりでなく、新たに鉄道工事が始まって多数の土工達が町々村々ヘ入りこんでくると、それ等の旅館や料理店からも用心を頼みにきた。

 良民をくるしめる不良漢の横行もひどかったが、また旅から旅へめぐり歩く、僧侶、行者、行商人、諸芸人、乞食、かたい、といった流民の数もおびただしかった。彼等は文字どおりいたる所各地に氾濫したといってもよかった。世の中の変動がはげしかったに比例して、犠牲者の数も多かったわけであろう。

 茂次郎は暴漢をひどく懲らしめたが、反対にこれ等の流民の群をば病的なくらいに深く愛した。それは彼自身流浪の苦をつぶさになめ、大道芸人にまでおちた経験があるためだろうが、一つには彼が山里の単調な生活に苦しんで、広い世間の風聞に飢えていたせいもあったに違いない。問屋をやめて、人の出入りが少くなってからは特にそうだった。

 彼は屋敷へやってくる旅人達を、喜んで幾人でも泊めた。時には強いて引きとめさえした。彼の広い家内は旅人達の無料宿泊所みたいになって、諸国(ばなし)に花がさき諸芸の披露でにぎわった。めずらしい客人や芸人が泊るようなことがあると、茂次郎は自分から村中を大声にふれまわって、村人等をわが家に招待した。

 彼は朝だちする旅人達を、村境の峠上まで必ず見送っていった。旅人達は一夜の世話にあずかったうえに、見送りまでうけていずれも恐縮したが、茂次郎は礼儀や形式でそうするのではなかった。彼は旅人の姿が峠を下り、曲り角に消え、ふたたび下方に小さく現れ、麓の杉木立の中に見えなくなって、(やが)て遠くの川の橋上に一点の黒影となり、ついに野のはてに失せてしまうまで、峠の野石に腰をおろしてじっと見送っているのが好きなのである。遠ざかって行く旅人姿と一緒に、彼の心もまたはるばると広い世界へはこばれてゆくような思いがするものらしい。余生を山里へ埋める覚悟を定めた故、漂泊にたいする憧れはひとしお強くなったものであろう。

 それとも彼は旅人等の見送りを口実に、筑波へ無断で出奔したなり音信もしなければ又頼りも聞かぬ、江戸に残してきた妻子の上を、そうしてひそかに偲んでいたのであろうか。茂次郎は江戸にある妻子等の事を、一言も藤木の家族に洩らしたことがなかった。恐らく江戸の彼等が茂次郎の生存を諦めているだろうように、茂次郎も自分を葬ったつもりで彼等を諦めてしまったようである。一種の侍気質といえばそのようなものかもしれない。が、しかしだからといって彼等を忘れさったことにはなるまい。茂次郎は黙っているかわり、「生きる」ということがどんなものであるかを、身をもって感じていたわけだ。

 

 藤木の家族は、茂次郎のやたらと旅人を泊めたがる性癖に困っていた。お才は茂次郎の子を四人生み、やがて先夫の長男に嫁を迎えて孫ができだすと、家内はいよいよ大勢になって、乏しい収入ではとても旅人を世話する余裕などはなかったのである。

 ことに迷惑したのは、行き所のないレプラ患者が、茂次郎の温情を幸いに腰を据えて動かないことだった。家を追われ家族から見すてられた彼等は、むなしく死に場所をもとめて、街道筋の町や村々を彷徨していたのである。茂次郎は彼等を憐れんで、大きな物置小舎の藁床の上に寝泊りさせておいたばかりか、重症者の看病や膿血(うみち)のついた衣類の洗濯を家族にいいつけた。

 お才は何事も良人(おっと)の意に従うといった昔気質の女であった半面、寡婦時代女手一つで問屋稼業をきりまわしていたような勝気なところがあったから、旅人の宿泊には茂次郎の一徹な気性をはばかって黙っていたが、レプラ患者の世話にはたまりかねて、

「もし、大勢の子供達に伝染(うつ)ったらどうします」

 と良人に抗議をいうと茂次郎は、

「他人の身の上とばかり思うな」

 と取りあわなかった。しかし彼とて病気の怖さを考えないのではなく、後には屋敷の裏山に幾つかの掘立小舎(ほったてごや)を建てて、患者達をそこへ収容した。そして食事を運んでやったり、彼みずから斯病の家伝薬といった物を、何処からでも買ってきてやったりした。

 或る日茂次郎自身で食事を持って行ってやったついでに、患者が小舎の隅にまるめておいた汚れ物を下の谷川へはこんで洗ってやっていると、もう身動きもできないほど弱りはてていた筈の病人が、いつの間にか彼の側まで()いおりてきて、地にひれ伏し彼の後姿をおがんでいた。

 それには茂次郎もさすがに哀れをかんじ両瞼を赤くして、黙々と家へ帰ってきたが、その患者は町のさる大家の内儀だったそうで、発病と同時に良人や子供達をすてて、一人身を隠したなれの果だという噂である。非常な美貌をのぞまれて嫁入ったということであるが、赤くくずれた顔はふた目と見られなかったにしても、残りの黒髪や真白い頸すじなどに、ありし日の色香がしのばれないでもなかった。

 茂次郎のこのような病癖は、彼が老齢となってくるにつれて益々ひどくなった。屋敷へ来る旅人等を泊めるのはまだしもだったが、今度は日暮れちかくなると、彼の方からふらふらと遠くの新街道筋あたりまでさまよって行って、夜の泊りをもたぬ乞食や行路病者を捜しまわって家へ連れこんでくる。道路改修工事に囚人の群が隊をなして町の監獄からやってきたと聞けば、茂次郎は黒砂糖の大袋をかついで行って囚人達にくれてやり、それを(とが)めて彼を鞭打とうとした看守の手を逆にねじりあげて問題をひき起したこともあった。

 彼の不敵な面魂(つらだましい)からすれば、まったく似つかぬ行為の数々だった。彼の思いどおり、何事もしゃにむに押し切ってきた前半生を考えると、なおさらである。百姓利右衛門となると同時に、彼の人柄も心のもちかたも変ってきたのであろうか。

 彼は浪人時代から酒をのんだ。志をえぬ忿懣(ふんまん)を酒にたくした次第である。だから酒の上が悪くて、暴れだすと手がつけられなかった。彼が大道芸人におちて居合などぬいていた時分、好んで観衆中の掏摸を掴まえたのも、捕えた掏摸を後手に(くく)って転がして置き、稼ぎを終ってから居酒屋へ連れこんで、手の甲を手裏剣で板台に縫いつけ、泣き(わめ)く姿を(さかな)にちびちびやろうという、たちのよくない趣向からだった。

 筑波に籠っていた頃は、酒の上から度々同志と喧嘩して刃物沙汰に及び、今度は彼の方から括られて一晩転がして置かれたことがあった。筑波の虚無僧寺(こむそうでら)の柱には、茂次郎が大酔して斬りこんだ刀痕が今も残っている筈である。

 藤木家の養父となってからは、茂次郎は村の寄合でよく飲んだ。村人が一々律儀(りちぎ)に、

「旦那様、旦那様」

 と云って大きな盃を、入れかわり立ちかわりさしかけてくるので、どうしても他人より余分に酒を入れることになる。すると彼の黒い顔が重く沈んで、眼附がひときわ凄くなった。そして一座を睨めまわしながら、膝の上の右拳をびくりびくりとうごめかしてくる。丁度蛇が鎌首をもたげるような恰好で、あまり気味がよくない。そのうち彼の息使いがせわしくなって肩が上下に動きだすと、村人等は何だか気圧されるように怖くなって、一人ひきあげ二人ひきあげして何時の間にか皆いなくなってしまう。後で茂次郎一人、後へぶったおれてひどい苦しみぶりをしめした。

 茂次郎はその理由を決して他人には明さなかったが、彼を介抱するお才に洩らしたところによると、酒が五体に深くまわりしみてくるにつれて、血のしたたる人間の生首が幾つともなく周囲に現れ、彼にむかってひゅっひゅっと飛びかかってくる幻におそわれるのだという。彼はそれ等が斬りたくて、思わず手くびがむずついてくるという話だった。

 それで彼は老来次第に酒を慎しむようになり、とうとうふっつりと禁酒してしまったが、今度は病気にかかって熱をだすとよく(うな)されるようになった。

「うむ、苦しい。ゆるしてくれ、(ゆる)してくれ」

 となさけない声をしぼりだして、周囲の者をはらはらさせた。

「あなた、どうしたのです。どうしたんですよう」

 とお才がゆすぶり起こすと、茂次郎は両眼を開いて、妻の顔をしげしげとみつめてから、ほっと深い吐息を洩らした。それもやはり彼の手で殺戮(さつりく)した人々の亡霊、ことにも抵抗らしい抵抗もせずに殺された筑波の土民の怨霊(おんりょう)に、しつこく悩まされるのだそうだが、病気よりその懊悩(おうのう)のために彼は衰弱した。

 それではいっそ僧を頼んで、供養してみたらどうかとお才から勧めてみたが、ふだんの茂次郎は、

莫迦(ばか)な」

 といって相手にならなかった。彼は性分として抹香くさい事が嫌いだった。それでお才は良人にかわって、ひそかに寺で供養を営んで貰ったが、しるしが見えたとも思われなかった。

 お才等は茂次郎のなやみのもとが分ってみると、彼が夜をさみしがってやたらに旅人等を泊めたがる気持や、癩者にたいする度はずれた慈悲心を、深くとがめる気になれなかった。むしろ彼の侍らしからぬ、正直でやさしい心根をあわれに感じた。いわば茂次郎の後半生は、彼のむちゃな前半生にたいする一種の註解みたいなもので、二つあわさってそれぞれ人生の表裏となり、茂次郎らしい一つの生涯ができあがった形である。

 ところで高範は、郷民とおちた茂次郎とは反対に、筑波の叛徒を追いはらって帰ってくると、藩中第一の勇士として迎えられ、門閥の者と肩をならべるまでに出世した。

 しかし家庭生活にはあまりめぐまれなくて、一男を生んだ後、長らく病床にしたしみがちだった妻が死ぬと、同じ家中からひどく若い妻をめとった。彼女は高範の先妻の遺児と、あまり年がちがわぬくらいの妙齢だったから、女の早婚をあやしまなかった当時の風習とはいえ、この結婚は明らかに高範の権勢にたいして政略的になされたものであろう。そして高範はこういう女性を珍重する年頃に、そろそろ近づいていたのである。

 武士制度が廃されて藩が解散され、家中の人々は金禄公債を資本にして、それぞれ生活の途をもとめなければならなくなると、高範は屋敷をたたみ財産を処分して、若妻と子をつれ飄然(ひょうぜん)と他郷へでてしまった。そして新興の商工業市の貧民街に居をさだめて、いきなり細民相手の日歩金貸しをはじめた。

 これが人々の意表にでた行為だったことは、改めて断るまでもあるまい。多くの藩士等は田園に隠れるか、城下にいついて居喰いのうちに閑日月をおくるか、或いは町の名誉職や教職につくかして、武士の名誉と体面を重んじることを、第一の心がけとしていたからである。

 ことに高範は家中にきこえた名誉の侍だったから、彼の転業は同僚の怒りと指弾をうけ、知人姻戚から義絶同様にあつかわれた。高範もそれは覚悟のうえだったとみえ、旧知にいっさい消息をたち世間の交際からも退いて、一家三人孤独の生活のうちに影をひそめてしまったのである。

 それから十幾年後、茂次郎が兄と面会するまで、高範の生活は謎になっていた。茂次郎がはじめて兄の所を訪問した時、高範は市の郊外の広大な隠宅に住んで、品の好い老女にまめまめしくかしずかれながら、はた目にうらやましい閑寂な余生をたのしんでいた。もっとも高範の若かった後妻はとくに亡くなり、先妻の一人息子は失踪(しっそう)して、いまだに行方がしれないということだった。

 高範の妻の死と息子の失踪について、市の人々の間に或る風聞が伝えられている。いずれ高範に苦しめられた貧民達が、復讐的にこしらえあげた妄説にすぎないが、彼の奇怪な風貌や人柄とむすびついて、いかにも真実らしく感じられるところに、この風聞のみそ

があった。

 この風説によると高範は嫉妬のため妻を殺したのだとされている。しかも嫉妬の相手は、彼のひとり息子だったというから話が辛辣(しんらつ)だ。彼の子供は父の守銭奴といってもよい、吝嗇(りんしょく)な生活に反抗して放蕩をはじめた。これは事実。そして父と衝突して、親子の間にきたない争いが続いた後、息子は父の金を盗んでにげた。これも事実に近いらしい。ところが息子はゆきがけの駄賃に若い義母にぬれぎぬをきせたような不倫な告白を、父に書き残して行ったというのだが、このあたりからそろそろあやしくなってくる。

 高範はその書置きを証拠にして妻を責めた。妻は覚えのないことだから、高範に詫びようがない。といって息子が逃亡してしまった以上、身のあかしをたてる方法もみつからぬ。結局妻は白無垢(しろむく)の花嫁姿を死装束にして、三宝にのせた短剣で高範から自裁をせまられたが、当時まだ二十歳そこそこだった彼女にはその決心がつかなかった。それで奥の仏間でひとときあまりもためらい続けていると、高範はぬきうちに彼女の細首をきりおとしてしまった。覚悟をつけかねていたところを、不意に斬られたので血は天井にまで噴きのぼり、今にその痕が黒くまだらに残っている、という尤もらしい話なのだが、真偽ははたしてどうであろうか。

 しかし明治の初年時代には、こういう類の血腥い話はさして珍しくなかった。だからこれもそういう伝説の中の一つとみなして宜しいが、それはそれとして高範一家のその頃の暗い生活雰囲気を、いかにも巧みに比喩化して伝えているところが面白い。

 事実その時分の高範の生活は、暗鬱をきわめたものであったらしい。彼は市の貧民街にのぞむ高台の一つの家に住んで、彼の稼業以外世間とはまったく没交渉に暮していた。街から眺められる彼の住居は、いつも門戸がとざされどおしで絶えて人の出入りがなく、家族の姿もほとんど外から見られたことがない。

 わずかに日暮れ時に一回門がひらかれて、高範のずんぐりした姿が現れ、ややうつむき加減の姿勢で、坂道をゆっくりと街へおりてくる。おりから細民街は亭主族が一日の労銀をえてかえってきた頃で、家々がもっとも賑やかに活気をていする時分である。

 その一家団欒(だんらん)のさなかへ、挨拶もなく高範がぬうっと這入ってくる。そして家内の空気をいっぺんに冷してしまう。高範にしてみると、たんに日歩の金を集めにまわるにすぎないのだが、彼の容貌が容貌のうえにみじんも愛矯がないのであるから、人々はあたかも通り魔におそわれたような気がするのである。

 数ある長屋の亭主達の中には一杯機嫌で、

「侍あがりが何でえ、一両たらずのはした金に、こちとら毎日五銭十銭の高い利子を、はずんでやるのだ。なにもびくびくするにゃ及ばねえや」

 そういう気構えで高範をまちかまえていても、いざ高範とじかに向いあう段になると、われにもなくついペコペコとしてしまって、後から自分の卑屈さを一層にがにがしく思う。

 借金をふみたおすことなど、屁とも思わぬ剛の者も、高範の前には頭があがらない。たとい、焼酎や濁酒(どぶろく)の勢いをかりてじくねてみたところで、高範はてんから相手にならぬ。片眼をぎろつかせながら、黙って相手の顔を眺めている。眼をそらしもしなければ表情も動かさない。そのうち相手は一人角力に疲れてきて、不意に「ぞおっ」とするばかり高範が恐くなるのだった。

 このような態度で高範は、借金の支払いや利子の延滞を少しも仮借しなかったので、細民達の深い恨みをかった。誰も彼のことをよく云う者がない。冷酷非道の「我利鬼」というのが、高範の通り名となった。

 細民街の盗癖ある一人が、なかば仕返しのつもりで高範の屋敷へ忍びこんだところ、高範にひっつかまり額に十字型の烙印(らくいん)をおされてつきだされ、それで彼は街にいたたまらず逃亡してしまった。

 そうしたことがあってみると、高範にたいする細民の恐怖はなかば神秘めいてきた。やがて妻も子もなくただ一人、暗い屋敷内に起き伏している高範の孤独な姿は、しんしんたる鬼気をはなっているように人々に感じられた。

 人気なく門をとざした高範の屋敷には、庭内から坂道の両側にかけて、桜の老樹が枝をつらねていた。梅雨あけて桜の実の熟れる頃になると、細民街の子供達が樹に()じのぼって実をむさぼり喰う。

 悪戯ざかりの子供等が庭内にまで侵入して、梢の間で騒ぎちらしていると、いつの間にか高範が樹の下に佇んでいて、生き生きとして悦ばしそうな子供等の姿を、片眼でじっと見あげていた。

 子供等の一人がふとそれに気がつくと、黙って樹から飛びおりた。すると他の子供等も、気がついてつぎつぎと彼にならった。彼等は声もたてずに夢中で坂道をばらばらと駈けくだり、家に近づいてからはじめて足の(くじ)きや腰の痛みにはげしく泣きだした。

 その後は子供等すら、高範の屋敷に近づかなくなった。守銭奴のように云われている高範も、まさか桜の実まで(おし)む筈はないのに、子供さえ遠ざかるにいたっては、高範の当時の生活は、まさに孤独のかぎりをつくしたというべきであろう。

 しかし、高範はとうとう金貸しで成功した。また彼のように確実なやり方と辛抱にたえられれば、どんな商売でも失敗する筈がない。体面にとらわれていた旧藩士のおおかたが、時勢に流されて落ちぶれてしまった頃、高範はもうしがない細民相手の日歩金貸しではなく、ますます発展してゆく新興市街の有力な実業家や工業家や、地方の豪農などばかりを相手にする、大きな金融業者になっていた。

 彼は株式組織の銀行をつくるように、多くの人々から熱心に勧められもしたし、また選挙ごとに市郡会はもとより県会や国会議員にたつことを、運動屋連からうるさく説かれもしたりしたが、かたくなに彼等の勧説にしたがわなかった。そして債権の抵当流にとった富豪の広い別宅を隠宅にして、相かわらず世間と没交渉な生活をおくっていた。

 彼の別荘は、市外の山水の名所の中に建てられてあったものである。だから自然の眺めをほしいままにすることができた上に、やり水を落した泉水には見事な大鯉が悠々と群游しているし、高範が愛玩の珍稀な蘭や万年青(おもと)や古木の盆栽も数多く集められてあって、庭番の老夫婦の手で大切に世話されていた。

 高範の横にひろがった茶釜のような顔は、老境にいって頬の肉がおち菱形にかわった。そのため顔の線が一層こちこちとかたくなった感じで、大金融業者らしい禿頭と金壺眼(かなつぼまなこ)とのとりあわせに、五分のすきも見いだせなかった。彼が世間と没交渉な生活をおくっているにもかかわらず、彼の隠宅を訪れてくる人の数はたえなかった。それぞれ高範から融資をうけようという人々ばかりだが、高範は容易に人と会わなかった。再三再四手をつくし足をはこばせてから面会しても、話が面白くなかったり条件が気にいらないと、たちまち空聾(からつんぼ)をよそおって相手をてこずらせた。

 彼の人物にもぐっと重味がついてきて、市内の有力者達も彼には頭があがらなかった。いろいろな悪評はあっても、とにかく一種の傑物にはちがいないというのが、衆口の一致するところだった。鍛錬された人間の貫禄といおうか、高範に会った者はなんとなく気圧(けお)されるような心持がするのである。彼がたまたま市内に姿をあらわすようなことがあると、多くの人々が彼にたいして帽子をとって鄭重に挨拶した。彼にはなった以前の悪口や風評など、まるで知らぬげな顔附である。

 高範は実直で働き者の養子夫婦に、市街のめぬきの場所で手堅い店商売をやらせていた。養子夫婦は手すきの時をねらって、毎日高範の隠宅へかわるがわる機嫌伺いに顔をだした。それは彼等の発意からすることで、高範はむしろ店の忙しい時にやってきたりすると機鎌がわるかった。

 養子夫婦は高範の側につかえている老女を、「お母さん」とよんでいた。老女といってもまだ五十歳を多くでてないくらいの婦人である。おっとりと気品の高い顔だちで、口数はすくなかったが、何事にもよく気がつき、高範の側につきっきりで彼に不自由をさせなかった。こういう婦人の存在は、高範の数寄をこらした隠宅や数々の貴重な調度品にもまさって、彼の生活を奥深いものにしていた。高範は彼の妻とも(めかけ)ともつかぬこの婦人を、

「ひさ女、ひさ女」

 とうやまってよんでいたが、歯のかけた彼の口からでるとそれが、

「ひさよ、ひさよ」

 と(なま)ってきこえた。

 老境に入るにしたがって、高範は手足の動きに不自由をかんじるようになった。それでひさ女をつれ、毎年春秋の二季湯治にいった。山の名高い温泉場には高範の定宿があって、彼はその宿に少からぬ金を融資していたから、宿では彼を特別に待遇した。

 高範は神経痛のために冬がつらく、いつも春がくるのを待ちかねるようにして、ひさ女と二人二挺の(かご)をしたてていつも早々と山へ登っていった。市街に春がきても山々には雪がまだ残っていて、思いがけない時分に北風にのった淡雪が、無数の白糸を吹きながしたように二人の駕にむかって斜に吹きつけてくることがある。

「高範様の駕が、お見えになった」

 という声を聞くと、長い間冬ごもりしていた温泉場の人々は、やっと春がおとずれてきたように感じた。

 春早くまだ湯治の客の少い温泉宿の生活は単調をきわめたけれども、高範は客の少ないのをかえって幸いして、終日でも湯に入りつづけてあきることがなかった。とがった禿頭のまわりに銀髪をまばらにひからした片眼の老人が、浴場の板の間に(しり)をついて低迷する湯気につつまれながら、至極みちたりた様子でぼんやりと渓流のせせらぎを聴いている。

 そういう時の彼の姿はむしろ放心の人にちかく、到底あの多くの融資依頼者達をてこずらせるきびしい老人の姿とは見られなかった。彼の肩幅はまだがっしりしていて、胸の肉附きも豊かだったが、手足はさすがに細くなり皮膚が皺ばみたるんでいた。

 ひさ女は高範が入湯中も側をはなれずに、着物の裾をからげ(たすき)がけで控えていて、彼の入浴に手をかし湯からあがれば、彼の肩を叩いたり手足の肉をもんでやったりした。彼女は温泉場へ湯治にきていてもやはり生活はふだんと変りなく、高範の世話は一切宿の番頭や女中の手をかけずにやってのけた。おりおり高範が、

「ひさ女、ひさ女、お主も一緒にはいらっしゃれ」

 と彼女をいたわって入浴をすすめるのだったが、女性としての慎しみからか彼女の入浴は僅かに高範の起きだす前の早朝と、高範がやすんでからの夜分とにかぎられていて、一度も高範のすすめに従ったことがなかった。

 高範は一体どのような機会にどのようにして、かほどまで彼に献身する婦人をえたのであろうか。高範の偉さは、彼が粒々辛苦(りゅうりゅうしんく)して巨財をつかんだことよりも、寧ろこのように賢い婦人から忠実に仕えられている、彼の人柄にあるのかもしれなかった。しかしそれとても、詰りはやはり彼の持つ財力のおかげにすぎないのであろうか。とにかくいずれにしても不幸な結婚を二度経駿した彼は、晩年になって無二の好配偶をえたわけである。

 高範はよく入浴するとともに、宿が念をいれてだす料理を好んでよく喰べた。質素な生活に慣れた彼は食物に好き嫌いを云わなかった。それに生涯酒をたしなまなかったので、老年になってとみに口さみしさをおぼえるようになったものと見え、老人には似あわず食慾がさかんだった。

 ある日高範は浴場からの帰り、長廊下に冷えてふと粗相をしでかした。午にたべた物がすっかり臀からもれてしまったのである。彼は真赤になって廊下に佇んだ。ひさ女が大急ぎで汚物の始末をした。

「お湯につかりすぎて、湯あたりをおこされたのですよ」

 そう彼女から慰められて、生涯を己の意志一筋に生きつらぬいてきたこの老人は、一瞬間なんとも云いあらわしがたいほど悲痛で、寂しげな苦笑をもらした。

 

    三

 

 高範のしあわせな晩年にくらべると茂次郎の境遇はひとしおみじめに見えた。彼の家族はすでに十数人をこえ、田畑の僅かな収穫では、家族の喰い扶持にも困るような有様だった。一家は春夏と蚕を飼い、秋冬には山林の木をきって炭を焼いた。なおその上に山間の荒地をひらいて、馬鈴薯や蕎麦をつくって糧の補いにした。先夫の長男や次男は荷馬車曳きをして家計をたすけた。

 茂次郎も生活におわれて百姓仕事を嫌っていられなくなり、馴れぬ手に鋤鍬(すきくわ)をとって妻や嫁や子供等と一緒に野良に働き、山にはいってせっせと木を伐り薪にたばね炭を焼いたりした。野良仕事が忙しくなれば、剣術の弟子達も通ってこなくなるからである。

 しかし生活が苦しくなったのは、茂次郎一家ばかりのことではなく、旧街道筋一帯がそうだった。交通の要路が他に移ってしまったほかに、鉄道が新たに敷設(ふせつ)されると、旧街道筋の町や農村はいよいよ寂れるばかりだった。町内の戸数はどしどし減る一方だし、農村には田を売ったり借金の抵当にいれたりする家が多くなった。

 茂次郎も村人に泣きつかれて、よぎなく借金の連帯証書に判を押したのがもとで、養家の財産をとられそうになった。すると彼は養家への申し訳に、債権者を斬って腹を切ると云いだし、久しく刀箱にしまいこまれてあった両刀を持ちだした騒ぎに、家族や隣人達が総がかりで彼をひきとめた。

 妻のお才は茂次郎と先夫の長男の間にはさまり思案にあまって、ひそかに高範の所へ遠路をたずねてゆき、一家の危機をうったえて助けを乞うた。高範は茂次郎の近況をいろいろとききただした上で、藤木家の全財産を高範の名義で預ることにして、こころよく金を出すことを承諾した。

 少年時代に別れた高範と茂次郎兄弟の交際は、こんな事情から晩年になって再びはじまった。茂次郎は妻から一家の破滅をすくった金の出所を聞かされ、高範の所へお礼をのべに行かさせられた。茂次郎は大髻の上に菅笠(すげがさ)をかぶり、お才が手織りの縞木綿の新しい羽織着物に、紺ももひきの草鞋ばき姿で、てくてくと町の駅まで歩き、それから汽車に乗って高範のいる市街に行った。

 ひさ女は山芋の(わら)づとを土産にしてやってきた、主人の唯一の親身である茂次郎の来訪を、非常に喜んで手厚くもてなしたが、高範はそれほど喜んだ風もしめさなかった。茂次郎が侍らしい切り口上で一別以来の挨拶を兄にのべると、高範は軽くそれに応じたばかりで黙ってしまった。

 茂次郎はみごとな懐石膳の料理に気をよくして、やめていた酒盃をとりあげ、ひさ女を相手に、隠宅の普請の結構なことや庭園の眺めの好いことを、しきりと()めたたえた。しかし彼は高範にたいして、改めて金を出してくれたことの礼もいわなければ、筑波での思いがけない出会いや母や弟の最後のことなど、過去については何事も語らなかった。

 二人の老人は筑波の奇遇はべつにして、じつに四十余年ぶりで会いながら、まるで昨日まで一緒に暮らしていたように黙りあっていた。しかし二人の沈黙は、齢はかたむき姿はかわっても光ばかりはおとろえぬ互いの鋭い眼差しのうちに、さすがに流れさった長い歳月の思い出が、つぎつぎと浮かび(よみがえ)ってくるような、意味ふかい黙りかただった。おそらく二人は互いにそれぞれの生き方をしてきたという感じを、この時ほどじかに身にしみて味わったことはなかったに相違ない。

 そのうち高範の方から、茂次郎の暮しむきのことなどをぼつぼつとききだすと、茂次郎も彼相応の答え方をして、二人ははじめて兄弟らしいくつろぎをみせた。茂次郎は高範の宅に一泊して、ひさ女から種々の土産物を持たされ、喜んでまた山間の我が家へ帰ってきた。

 互いに消息を絶っていた兄弟のつきあいが始まってみると、高範としても唯一人の弟の上が案じられるのか、わざわざ遠くから不自由な身体を馬車にたくして、弟の生活ぶりを見かたがた茂次郎の家を訪ねてくるようになった。地方になりひびいた高範の来訪をお才はひどく光栄にして、それだけ自宅の貧しさをはずかしがった。家附き娘だった彼女にしてみると、実家の落魄(らくはく)は茂次郎よりもかえって身につらく感じられたからであろう。

 彼女の実家は、戸数三十ばかりの村の中央に敷地をもった堂々とした構えだったが、問屋をやめてからは屋敷の修繕などにもかまわず、塀は朽ち屋外の厩舎(きゅうしゃ)はこわされ、大きな土蔵も壁土のおちるままに抛ってあった。多くの荷役の人々や村人等が出入りした広い母屋は、畳をあげ障子や(ふすま)をとりはらって蚕室にかわっていた。どうやら客を泊める設備のあるのは、母屋につづく裏の隠居所ばかりで、家族は板の間の藁の(むしろ)の上に、うすい蒲団をしいて寝た。ほの暗い広々とした土間の彼方の厩には、三頭の馬と一匹の仔馬がしずかに飼葉をはみ、時折さわがしく蹄の音をたてるようなことがあると、家族の誰かが、

「どう、どう」

 と声をかけ鎮まらしてしまう。昼はみな働きに出て家内はひっそりとしているが、夜になると多数の家族が茂次郎を中心に大きな炉をかこみ、松明の灯の下で賑やかな夜食がはじめられる。

 茂次郎は老境にちかづいても、やはり色が黒く眼に精悍な光を漂わしていたが、大髻(おおたぶさ)はごま塩となりこめかみや眼じりの小皺に、生活の辛労がかんじられた。高範が突然やってきてみると、茂次郎はひとり留守をまもって、日当りの庭前に敷かれた茣蓙(ござ)の上で草鞋をあんでいることもあれば、また大髻の頭に(ふんどし)一つという奇妙な裸体姿で、家族と一緒に不器用な手つきで蚕の世話をしていることもあった。もはや生活のために体面もなく、なりふりにかまわぬ姿だったが、それはそれなりで茂次郎らしい風格をつくりあげているのが面白かった。幾歳になってもまたどのように境遇がかわっても、身についた浪人者の姿は彼から離れないのである。

 

 高範はこのような弟の姿を、感慨をこめた片眼で見まもっていた。世の生活に成功した彼から観れば、茂次郎の暮しのたてかたは、拙さを越えて愚直にちかく考えられた。

 江戸時代に窮迫をきわめた、長年の放浪生活や、命を賭けた筑波のはげしい経験は、結局この男に何の役立つところがあったのだろうと、あきれられるばかりである。ろくでもない旅人達を幾らでも泊めてもてなしたり、いわば捨猫も同様な業病(ごうびょう)患者に無益な慈悲心を施したり、村の若者達に用無き剣術を教え、他流試合に勝ちほこり、他人や村の紛擾(ふんじょう)に我から身をのりだし、水商売の家の用心棒に雇われ、とうとう他人の借財に判をおして、十数人の家族を路頭にまよわさないばかりの羽目におとしいれた––。

 高範は弟の家へ来ると、彼の貧しい生活に寄生している流民や病者を追いはらった。己の最も大切な家族をくるしめ、あだな旅の者の世話をやいて、何の功徳になるのだと手きびしく叱言(こごと)をいった。そういう高範は、己の考えでした行為を悔んで、今さらのように慈悲や人情をこととするのは、女々しい心掛けだ、という断然とした腹の中であるらしい。そして茂次郎ならびに妻のお才や長男夫婦へもともども、茂次郎一家の生活のだらしなさを指摘して細かに家計のやりくりを教えた。

 茂次郎は一々すなおに兄の言葉に服した。幼年の頃とちがって、兄にはもうさからえぬ気持だった。高範によって窮地をすくわれたからばかりではなく、茂次郎は率直な心で高範の成功に感歎していた。

「よくも思いきって、金貸しをやる気になったな」

 と茂次郎は高範の気持を訊いてみたことがある。すると高範は、

「ガキの時分から槍刀をひねくりまわしては、外に能とてない者に、商人と競争して何ができる。金貸しぐらいが手頃なところさ」

 と誇るでもなくあざけるでもなく、むしろ憮然とした感慨で語った。いかにも高範のように、藩士としての一生の計に営々としてつとめて来た者にとっては、武士制度の撤廃は心外に堪えなかったことであろう。茂次郎は時勢にたいする憤りを、逆な行為であらわした、高範の当時の心持をありありと想い描くことができるような気がした。思えば茂次郎自身も、ままならぬ時勢にたいして、少からぬ不満をいだいていたが、大名行列にいやがらせをやったり、掏摸をいじめたり、大老の暗殺に加担したぐらいの空しい反抗でおわってしまった。

 また別に、高範が名誉の地位から一挙に嫌厭(けんえん)すべき職業に急転していった決意と勇気のほどを、剣の極意とするところから眺めれば、まさに死に投じて生をつかんだ(おもむき)があったのである。茂次郎は剣のために生涯を賭けながら、ついに徒労におわった自分の一生をかえりみて、

「高範のようでなくては、とても成功はおぼつかない」

 といつも沁々(しみじみ)と子供達に云ってきかせた。

 しかし茂次郎は高範の忠告は忠告として、やはり前どおりの生活をつづけていった。家族の喰い扶持をへらしても、旅人が来ればこころよく泊めるし、頼ってくる病者をみすてもしなかった。

 それは彼が老境に入って奮発心がにぶったからではなく、また何事も運命と諦める怠惰からでもなく、高範の言葉に服し、兄の成功をほめたたえることで、いさぎよく自分の失敗を認めながらも、やはり心の底に自分を信じる何かがあったからに違いない。

 茂次郎の生涯は失敗だったにしても、とにかく彼は自分一人の力で生きてきた。そして彼相応の努力をつくし、命を賭けて闘いもしたのである。してみれば彼とても己の生涯を代償にして人生の底から掴み得た物が、何かあったことだろうと思う。それは言葉にも文字にもあらわせぬ心魂の響にすぎなかったにしたところで、やはり誰からの借り物でもなく茂次郎自身の物にほかなるまい。

「他人の上ばかりと思うな」

 と家人をいましめた茂次郎の言葉は、高範の観たような女々しい弱者の慈悲にすぎなかったであろうか。

 高範は茂次郎の頑固な気質に見切をつけたものか、後には弟にたいして何も云わなくなった。高範の名義に改められた藤木家の財産も、預り放しのままにして抛っておいた。すると窮場をすくわれた感謝の念がうすらぐにつれ、今度は反対にそのまま高範に体よく財産をとられてしまうのではなかろうかという不安が頭を(もた)げだした。高範の稼業が稼業である故に、そうした懸念のきざすに無理はないが、他からの親切ごかしに入智慧をつけて、そうでなくても落魄して動揺しやすくなっている藤木家の人々の心を、いろいろと(あお)る者があった。

 ことに茂次郎は根がせっかちな気質だったから、不安になりだすとやもたてもなく我慢がならなかった。高範を信じる信じないは二の次として、やはり自分の名前で養家の財産を、先夫の長男に渡すのでなければ気が鎮まらない。前に腹をきって死ぬと騒ぎだしたのも、それができなくなった申し訳のためである。

 茂次郎は家計のくるしいなかから旅費を都合して、高範がたてかえてくれた金は年賦で払うから財産をかえしてくれと早速高範のところへ交渉に行った。すると高範は、名義の変更には余分の費用がいるし、また茂次郎の名前の物になれば税金もそちらへかかってきて、それだけ生活の負担が重くなるから、暮しがいくらからくになるまで、今しばらくこのままにしておいた方がよくはないかと弟に説いてきかした。

 それで茂次郎は一応納得して帰って行ったが、一年ほど経つと再び催促にやってきた。名義書替えの費用ぐらいは、なんとか都合するからという口実である。高範は今度は彼の意嚮(いこう)をはっきり云ってきかした。

「お手前の性分では、藤木の財産を無事にもちつづけることは難しかろう。(せがれ)に譲る時がくる迄、(わし)の手で保管しておいてやった方が安全ではないか」

 しかし茂次郎は、

「それでは、俺の面目がたたぬからな」

と云いだした。彼はどこまでも自分の名前で、財産を義理の子に渡してやらなければ気がすまないのである。それに茂次郎は内々、高範の老齢も気にかけていた。手足の動きに不自由するくらいなのだから、高範が自分より長生きしようとは毛頭考えなかった。そしてもし高範に万一のことがあれば、自分の財産は高範の家の物になってしまうと、他人に教えられたとおり信じていた。

 高範の莫大な資産にくらべれば、山間の痩地にすぎぬ茂次郎のちっぽけな財産など物の数でもなく、そうした杞憂(きゆう)は笑止の沙汰にちかいものだったが、財産というほどの財産をもったことのない茂次郎は、貧しい人達の心と同様にひたすら自分の所有物ばかりに憑かれて、高範が親切にとりあつかってくれればくれるほど心配になってきた。

 それで、いくら茂次郎のためを思いはかってやっても解らぬ彼の態度に、うるさくなった高範が得意の空聾をよそおって相手にならずにいると、茂次郎は自分のばかにされていることに気がついて、一途に嚇ッと腹を立ててしまった。高範の幼年時のあのにえきらない性格にたいする記憶が蘇ってくると同時に、茂次郎の負けじ魂も高範憎しの感情にむらむらとなってきて、

「今まで聞えていたはずの耳が、急に聞えなくなるとは、おそらく頭がのぼせてきたんじゃろ。泉水で冷やしてやるから、こっちへ来い」

 と叫ぶといっしょに起ちあがって高範の襟首(えりくび)をひっつかむと、ひさ女があわてて止めにかかるのを払いのけて、高範の身体を座敷からずるずると庭先へひきずりおとした。ひさ女もそのまま跣足(はだし)で庭へ飛びおり、兄弟のまわりを右往左往しながら、

「どなたか、いらしって下さいよう、大変ですから、早くいらして下さいよう」

 と金切声をあげて叫びたてた。その叫びを聞きつけて、先ず庭番の老爺がかけつけてきて止めにかかったが、茂次郎の膂力(りょりょく)にはとてもかなわない。高範は手足が不自由なままに、顔をまっ赤にして、

「うむ、うむ」

 と唸りながら、みるみる泉水の方へひきずられてゆく。とうとう堪りかねて、

「巡査をよべ、この馬鹿野郎を、警察に渡してしまえ」

 とどなりはじめた。そのうち庭番の老妻の機転でかりあつめた、近所の出入りの人々がはせつけてきたので、高範は水びたしからやっと助かることができた。まさに今一歩という危いところだった。しかし、世間では、「我利鬼」が「長髻」のために、泉水に水びたしにかけられたということにしてしまった。

 これが高範兄弟の喧嘩のしおさめだった。幼年時代には高範に負けどおしで、また筑波では偶然とはいえ、高範から気絶させられるような目にあわされた茂次郎は、最後の喧嘩でやっと勝つことができたわけである。

 その後お才が申し訳のために高範の所へわざわざやってきて、ひさ女を通じて高範へ泣き泣き詫びを入れると、高範は何も云わずに茂次郎の財産をかえしてよこした。名義変更の費用はもとより、立てかえた金もとらなかった。

 

 茂次郎は雪にうずもれた山国の旧正月の稽古初めに、門弟の青年達を彼のまずしい道場にあつめ、彼と生涯をともにした秘蔵の愛刀で、彼が十八番とする居合の型を演じてみせた。彼の居合は彼が大江戸のさかり場で、それでもって一時たつきのたねとしたくらいであるから、多年の薀蓄(うんちく)になるものである。

 茂次郎はもはや六十歳をすぎていたが、黒の稽古着に同じ黒木綿の袴を裾ながにはき、しっかと結んだ鉢巻の両端を後へたれながら、長刀を左手にひっさげ一歩一歩足を床にするようにして、道場の中央へ進み出てくる姿には、さして齢の傾きも気魄の衰えもかんじられなかった。大髻の頭髪こそ胡麻塩にかわっていたが、道場にたてば両眼の冴え筋肉のしまりは壮者のように矍鑠(かくしゃく)としてくる。

 彼は道場の中央に両足を揃えて立つと、一礼して愛刀を腰におび悠々と腰をおろして、おもむろに気合の熱してくるのを待っている。それから観衆の腹にぐんとこたえてくるような気合の声ともろともに、長刀は(さや)ばしって空に一閃の白い虹をえがき、彼の周囲にぱっぱっと白炎の光芒をひきながら、再び鞘の中へ烟のように吸いこまれてしまう。それから又腰をおろして刀をとって起ち上ると、再びすり足で道場の端へもどってくる。

 一本を抜く毎に同じ作法をきびしく繰りかえすのだが、前後左右の敵に応じ一本一本の構えが千変万化するために、少しも単調にはかんじられない。青年等はいずれも固唾(かたず)をのみ息をつめて、茂次郎の神技にみとれていた。青年達にとって彼が真剣を(ふる)うのをみるのは、これがはじめてである。

 時代は西南戦争がとうに終って、すっかり平和な生活気分になずみだしてきていたが、茂次郎の揮う切先からほとばしる殺気は、彼が生きぬいてきた血腥い時代のはげしさを、まざまざと思い描かせた。一刀を抜き一刀を揮う毎に敵をたおさなければやまぬ気魄が、彼の出る足ひく足、巧妙な身のかけひき全体にみなぎり溢れていた。

 本数がすでに十番をこえても、茂次郎の呼吸や挙措に乱れがなかった。顔色はさすがに少し青ざめていたけれども、まさに心身を鋼鉄のように鍛えあげた人間という感じだった。そしてそういう人間が今や全精魂を一刀にたくして揮う太刀さばきの見事さに、青年達が熱中の極思わず身ぶるいをおぼえていると、茂次郎の身体が突然後へ反って、仰向けにどうと倒れたなり動かなくなった。恰もはりきっていた旋条(ぜんまい)が、ピーンとはじきかえったような工合である。

 茂次郎は有名な(しゃく)持ちだったので、門弟の青年達は、

「それ先生が癪を起した」

 と駈けよって抱きおこすと、「水だ」「焼酎だ」と騒ぎだした。急を聞いたお才が熊の()をもってかけつけ、ありたけの薬を口移しにのましてみたが、冷えかけた身体がぼうっと温まりかけてきたばかりで、茂次郎の魂はついにかえってこなかった。

 茂次郎が祝のあん餅をたべすぎた後で、急にはげしい運動をやったのがいけなかったのである。彼は深酒をやめてから反対に菓子や餅類をひどく好むようになり、そのため癪を病みだしていたが、天下無禄の浪人として生涯生活の苦労のたえなかった彼が、喰べすぎが原因で死んだとはいささか皮肉にすぎるようである。しかし白刃を握って倒れた茂次郎の最期(さいご)を聞き伝えた人々は、知るも知らぬも侍らしい綺麗な死に方だといってほめたたえた。

 茂次郎の葬儀は、真冬の折柄であったにも拘らず、彼の門弟達をはじめ村民が総出で参加して、非常に賑やかに営まれた。他町村からも彼の知り人や生きのこりの旧藩士等が、深い積雪を冒してあつまってきた。それで藤木の広い屋敷でも客の全部を収容することができなくて、近所の家々まで接待にかりなければならなかった。茂次郎の庇護をうけたレプラ病者が、彼の葬式を見送るために人中を遠慮して、庭の隅や道ばたの雪の上に蓆を敷き、早くから控えていた姿はあわれであった。

 茂次郎の遺骸は、彼の大勢の子供等や孫達の手で丁寧にあらいきよめられ、肌もなまなましいばかり新しい杉板の坐棺におさめられた。生前広い天地を放浪した茂次郎は、今は額に三角の白布をあて、六字の名号(みょうごう)のしるした薄い経帷子(きょうかたびら)の新しい旅姿で、窮屈な棺の中にあぐらをかいて納まっていた。

 旧藩士の人々は几帳面(きちょうめん)に一々棺のふたをとって、こういう死者の姿と対面した。そしていずれも、

「立派な御最期にござります」

 と遺族に挨拶した。

 高範もひさ女に附添われながら、不自由な身体を(そり)にのせて告別にやってきた。彼のやわらか物ずくめの高尚な紋服姿は、田舎人の多い会衆の眼をそばだたした。ことに手織のごつごつした羽織袴で、肩を武張らせている旧藩土等の姿とは、異様な対照をなして見えた。

 高範は人々の凝視のうちによたよたと棺にちかづくと、藤木の長男がすでに蓋をとって待っている棺の中の弟の死顔を、片眼でつくづくとうち眺めた。茂次郎の黒かった顔は、死の青味をおびて棺の中につめたく沈んでいた。骨ぶとい両手の指を胸に組み、色褪せた脣をしっかりと結んで瞑目(めいもく)している死顔には、しずかで且つおごそかな深みがあった。今や貧しい土民の生活の垢が洗いおとされて、本来の侍の面目にたちかえったようなすがすがしさである。

 高範はじっと彼の顔をながめていたが、(ふる)いぎみの片手をつとのばして、弟のつめたい額にあてると、

「お主は我が意どおりに世の中を渡ってきた。何も思い残すことは御座るまい」

 とおののく声をはりあげて、不意に涙をぽたぽたと死人の上に落した。その光景に客にあふれていた奥座敷内は、にわかにしいんと鎮まりかえってしまったが、それは二人の兄弟の生涯の惜別に同情したというより、寧ろ弟を討ち妻を斬ったと伝えられている高範の思いがけない落涙に、おどろいたためらしい気配だった。

 峠に一基の碑がたっている。三重の台石の上にたち、高さ一間ばかりのかなり堂々としたものである。(いただき)ちかく彫られた家紋に厚く塗りこんだ金箔は、長い年月の風雨にくろずんでいるが、それでも日向きの加減で時折きらっと閃光をはなつことがある。

 行人がこの光に不審をおこして、峠を登りつめ碑に近づいて見るならば、

「斑石茂次郎源兼通」

 という名を読むだろう。そして姓名の上に、撃剣の面を中に二本の竹刀が、組み違いに浮彫りされてあるのを見て、

「なあんだ、田舎剣客の碑か」

 と失望するにちがいない。そのうえこうした草深い峠の上に碑を建てて、後代まで名を残そうとした碑名の主の心事を憫笑(びんしょう)するかもしれぬ。しかし碑を建てたのは茂次郎の門弟達で、彼の墓は藤木利右衛門として別に藤木家の墓所にある。

 門弟達は茂次郎が朝々旅人を送って、此処の野石に腰をかけ江戸の方を眺めていた、彼の生前の姿を(しの)んで峠に記念の碑を建てたのである。そこは四方の山なみを遥かにみはるかすことの出来る絶好の場所だった。

 峠の道をへだてて碑の向う側の藪蔭(やぶかげ)に、泉が静かにもくもくと湧きあふれて流れている。昔、旅人や駕かきや駄馬の救いの泉だったろうが、今や小鳥や野兎等の飲み水にすぎまい。それほどに峠は人通りなく、荒れはててしまった。雑草の茂りは道のなかばにおよんでいる。往時の名高い旧街道が、やがて近辺の村人以外には知る者もない廃路にきす日も、そんなに遠いことではなかろうと思われる。

 泉の側の藪だたみの中に、もう一つ変な碑がたっている。蔦葛(つたかずら)に蔽われてちょっと気づかないかもしれぬが、碑の両側に天狗とおかめの面がとりつけてある。天狗の赭顔(あからがお)は鼻高々と東を向き、三平二満のおかめの白面は西を向いて尽きぬ笑をおくっている。峠を東から登ってきた者は天狗の渋面に迎えられる代り、峠を下る時にはおかめの愛嬌に見送られ、西から登ってくる者はその反対となるわけだ。

 碑の正面の苔を削りおとしてみると、

般若峠(はんにゃとうげ)

 という文字が微かにあらわれ、その下へ二行に

「東 利養道(りようどう)

「西 涅槃道(ねはんどう)

 と記されてあるから、行脚の旅僧が仏の智慧をもって衆生済度の発願(ほつがん)をおこし、往時人馬のゆききの多かったこの場所に建てたものであろう。それにしても天狗とおかめの面のとりあわせは、人生行路を簡単に諷喩(ふうゆ)した思いつきで興味がある。さらに茂次郎の堂々とした碑と、道をへだてて向いあっているところは、一層皮肉なかんじである。天狗とおかめの面は背中あわせに、

「あのお墓の主は、どんなかたですの」

「なあに、剣術で一生を棒にふった男さ」

 とそんな問答を、退屈ざましにかわしているかもしれない。とにかくなかば廃路と化した峠の藪だたみの中に、ひとり喜怒の人間感情を表徴した二つの面を見出すことは、かなりぶきみである。じっと眺めていると、それ等の面がしだいに生気をおびてきて、実際そのような問答をかわしかねない。

 奥路には時々こうした怪奇な場所があるようである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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中山 義秀

ナカヤマ ギシュウ
なかやま ぎしゅう 小説家 1900・10・5~1969・8・19 福島県生れ。藝術院賞受賞。早稲田高等予科時代に横光利一を知る。1938(昭和13)年「厚物咲」(芥川賞受賞)あたりからようやく長い試行錯誤の時代を抜け、独自の文学的境地を示す。

掲載作は昭和14年「文藝春秋」6月号に発表され、鴎外の「阿部一族」に比して論じられる程の質の高さを示し、これにより作家的地位は確立した。義秀の代表作であるばかりでなく、歴史小説の中にあって、高い位置をしめるものである。

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