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生命の傳統

 目下のわが思想界には二つの大きな潮流が流れてゐると見てよい。その第一はニーチェやベルグソンの哲学を祖述した、またそれから暗示を得てゐる、または是等の者を誤り伝へた個人主義で、(しき)りに個性の権威とその充実とを主張してゐる。第二はタゴールの思想を中心とする無限実現論者で、西洋の個人主義に反対する一種の東洋思想である。この両思想は全然相反してゐるかのやうで、その実、今日の時代傾向を飽和した著しい一つの類似点を有してゐる。それは即ち在来の理性主義に反対し、抽象理想の破産を宣言しつつ、自然の本能を重んじ、生の体験、実現、創造などを主張するところにある。換言すれば、「生命」の尊重が両派の帰一点である。唯だ個人主義が生命の充実を力説するに反し、無限実現論者は生命の拡大を過重しようとする。(とも)に楯の一面のみを見てゐる偏した議論であると謂はれよう。

 生命の特徴はその個性にある。個性の無いところには生命はない。「我」は我である、「我」は独存である、「我」は無比較である。個性の滅却は生命の破産であり、創造の空尽である。かるが故にあらゆる物を犠牲としてもこの個性を発育充実せしめるのが生命の本然に(かな)つた道であるといふのが個人主義の主張である。

 然し、生命の樹は独立して発育するが、その根は大地に降りてゐて、どの樹も同じく、土の乳房から栄養を受けてゐる。個性の破滅が広い生命の損失であるからには、それは宇宙と係はる所がなければならない。

 各自の個性が絶対独立であるならば、それは何物とも没交渉で、従つて無価値でなければならぬ。個性の価値が認められるほど、それは一般との深い交渉の存在を意味してゐるのである。樹が大地に根をはやしてゐるやうに、我等の個性は宇宙との交通を求めてゐる。かるが故に個性は独立ではあるが、孤立ではない、より広く個性が宇宙間に滲透するほど生命の価値を生ずるといふのが、一方の無限実現論者の主張である。

 充実は排他に由つては遂げられない。孤立した個性がどこから栄養を得て充実されようか。また拡大は棄我の手段のみでは全くない。次第に自我を薄めて行く拡大は(つひ)に自己の生命の空尽に終らざるを得ない。されば、充実は親他によつての充実で、拡大は充実と共に行はれる拡大でなければならない。生命は充実を要求すると同時に拡大を要求する。生命の樹の生長は充実即拡大である。即ち生命に於ては充実の要求たる個人主義と、拡大の要求たる無限実現主義とは一致調和すべきである。

 この世の中に於て、個性と無限との対立ほど神秘なものはない。その対立を絶対と見るか方便と見るか、または憎みの分離と見るか愛の分離と見るか、個人主義と無限実現論との分れる点である。絶対個人主義は奇怪にも、拡大された人間神の影坊子を出して、その背景たる自然の蔭を極度に薄らめようとしてゐるに反し、無限実現論は白熱化された大自然の中に薄い光のランプのやうに人間を映出(うつしだ)してゐる。宇宙と個性との対立を方便としての「愛の分離」と見る点は、無限実現論の方が正しいが、然し()ちらの説も、生命の両面相の一方観にのみ偏し過ぎてゐることは争へない。

 (ここ)に於てか個人と宇宙とを相当の位置に取りもどして、其関係を正しく観察することが我等に最も必要である。今日の個人主義は個人の為めの個人主義である。余りに個性の価値を重大視して、却つて自己を孤立せしめるの不自然を敢てしてゐる。その結果は得手勝手の人生観に傾き、宇宙観のない生命観に堕してゐる。彼等の視る人生は背景のない芝居である。彼等は蛙仰(あぎやう)するが鳥瞰しない。かやうな絶対個人主義は、不自然に個人を宇宙からまた民族から切り離して、精神的に孤立せしめる。彼等は狭いイゴオの造つた殻の中に孤嘯(こせう)しながら驕慢になり、狂譟的になり、冷笑的になり、厭人的になる。

 絶対個人主義者が殊更に他を敵視して、知らず識らず自我の周囲に造る障壁は、最も恐るべき因習で、不自然な人為的個性である。我等は之を、生命がその進化の必要から「愛の分離」に由つて樹てた本然の個性と区別せねばならぬ。前者は仮相で、後者が真相である。前者は反撥的であるが、後者は親和的である。前者は因習となつて生命の進化をさまたげるが、後者は伝統として現はれ生命を鼓舞激励する役を務める。

 こゝに伝統とは種の有する天然的特性で、人類に於ては各種属の民族性から下つては各個人の個性をも総括した言葉である。生命の自然的伝統は先づ我等をして個人的自覚を起さしめ、之を推し拡めては民族的自覚に到らしめ、更に之を推し拡めては人類的自覚に到らしめる。伝統は大自然が方便の為めに造つた差別で、生命の進化の障害であるが如くにして、また我等が広い生命の自由に到達する唯一の関門であり或は足場である。生命その物が既成(レデイ、メード)の固定品でなくして、一個の持続または純粋進化その物であることを悟らば、かやうな伝統と生命との矛盾は、(むし)ろ自然の顯象と言はねばならない。

 されば生命の無限の道から大観すると、個人も、民族も、人類も、やがては超越さるべきものである。否な、個性は民族性に、民族性は人性(フューマニチー)に包容さるべきである。

「汝は人類を(くるし)み上げねばならぬ」とはニーチェの言葉である。数百年後のニーチェは更に()う言ふであらう、「汝は超人を苦み上げねばならぬ」と。

 生命の伝統から推せば、我等の最初の自覚が個性の実現にあることは言ふまでもない。されば個人主義の主張は最も自然で、且つ人類の踏むべき第一歩である。しかし其処へ因習がくる。我等の愛の自覚が先づ近親の者から眼醒め始めると、そこへ利己的分子が挾まつて、折角燃え出した純愛の火を消し止めるやうに、我等の生命の自覚も多くは個性の範囲に止まつて了ふ。我等の小自我がそこへ「蒙昧」の障壁を築く。で、その障壁が高く厚く築き上げられるほど、我等の個性の影は病的に拡大せられて、それから個人の為めの個人主義、或は絶対個人主義が起るのである。

 正当の個人主義は生命の為めの個人主義でなければならない。個性の為めの生命であつてはならない。生命の自然的伝統は我等をして先づ個性に自覚せしめ、次に民族に自覚せしめ、更に人類に自覚せしめる。個性が充実され拡張されて民族性に、民族性が充実され拡張されて人性に——かうして幾多の伝統の関門を(よぎ)りつゝ生命は進化する。されば人類主義は広い生命その物から見ての個人主義であり、民族主義は人類全体から見ての個人主義であると謂へる。反対に、個人主義が小自我の因習に囚はれずに、正当に実践せられ、拡大されれば、それが民族主義へ行く筈である。

 個性も、民族性も、人性も遂には超越さるべきもの、苦み上げらるべきものとしたら、無限実現説は唯一の真理ではなからうかと言ふ人があらう。之は至つて(もつとも)な説である。生命のめざす精神の自由郷の極致は無限の実現にある。即ちタゴールの言ふ如く「(おのおの)の物及び総ての物の中に彼を実現し」、「個性の限られた城壁を超え、人間以上になり、The Allと一致する」ことである。然し之は理想である。(すくな)くとも生命の伝統と進化とを無視した議論である。

 生命の進化と創造とには限りがない。我等は一挙にして無限を飛び越すことが()きない。而も、我等は伝統といふ細い一筋の道を辿り乍ら、因習の障壁を幾重か切り開きつゝ無限の方へ進まねばならぬ。進化が無限であるならば、その道筋たる伝統も亦無限であらねばならぬ。然るに伝統は広義の個人主義の原因である。されば、無限実現は我等の理想であつて、人類の、または民族の、または各個人の個人主義が我等の之に進む手段であらねばならぬ。

 要するに、絶対個人主義は小自我の因習に囚はれたものであり、無限実現説は生命の伝統を無視したものである。我等をして人為的因習の障壁を破らしめよ、そして生命の伝統に準じて自然の発達を遂げしめよ。宇宙と個人との関係を正しき位置にもどして、包容的な世界観の上に我等の人生観を立てしめよ。換言すれば、広い生命の真要求の中に赤裸々な我等を置かしめよ。

 生命の樹はその種子からのみ(きざ)す。種子は我等の天稟の個性である。その種子はまた之に適した郷土に根をおろすことに由つて発育し、繁茂し、そして真の天性に達する。種子の性質と之に適した風土とを無視して、どうして樹が育つか。之と同じやうに、その土地から離れ、家族から離れ、民族から離れて、どうして人間が自然でありえようか。自己が己の個性を以て実際に生き、愛し、苦しんだ経験を離れて、伸々(のびのび)とした発育がえられようか。生命は根のない抽象でなくて、具体的の生長である。個性及び民族の伝統に由らない生命の自然でありえよう筈はない。

 かるが故に我等は生命の正しき伝統を()む個人主義及び民族主義を主張する。我等は抽象的な世界主義や博愛主義に反対する。しかし我等の個人主義は個人の為めの個人主義であつてはならぬ。生命のための個人主義でなければならぬ。我等の個人主義はそれ自らの充実のみを目的とするものでなくて、「与へそして取る」拡大を目的とせねばならぬ。我等は進化の方則を無視した無限実現説に反対するが、而も我等の理想は其処にあらねばならぬ。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/04/02

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中澤 臨川

ナカザワ リンセン
なかざわ りんせん 評論家 1878・10・28~1920・8・9 天竜川の風光明媚に臨んだ長野県上伊那郡に生まれる。東大工学部に電気工学を学び妻も跡見女学校に学んでいた。在学中よりユーゴやトルストイに、また藤村、独歩ら文壇の多くと親交、京浜電鉄技師長のかたわらに翻訳や評論による出版も活溌。晩年は郷里に中澤電気株式会社を興している。

ニーチェ、ベルグソン、タゴール等へ関心を移動しつつ、掲載作のような内省的文明論に特色を滲ませた。

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