目次
シャアル・ボオドレエル: 死のよろこび 憂悶 暗黒 仇敵 秋の歌 腐肉 月の悲しみ
アルチュウル・ランボオ: そゞろあるき
ポオル・ヴヱルレエン: ぴあの ましろの月 道行 夜の小鳥 暖き火のほとり 返らぬむかし 偶成
ピエエル・ゴオチェ: 沼
エドモン・ピカアル: 池
エミル・ヴォーケエル: 音楽と色彩と匂ひの記億
アア・エフ・エロオル: 秋のいたましき笛
アンリイ・ド・レニェエ: 佛蘭西の小都会 葡萄 われはあゆみき 夕ぐれ 秋 正午 告白 庭 缾 年の行く夜
シャアル・ゲラン: 暮方の食事 道のはづれ ありやなしや
ギュスタァヴ・カン: 四月
伯爵夫人マシュウ・ド・ノワイユ: ロマンチックの夕 九月の果樹園 西班牙を望み見て
シャアル・グランムウラン: 菊花の歌
フェルナン・グレエ: あまりに泣きぬ若き時
スチュアル・メリル: 沈みし鐘 夏の夜の井戸
アルベエル・サマン: 奢侈
死のよろこび シャアル・ボオドレエル
蝸牛匍ひまはる泥土に、
われ手づからに底知れぬ穴を掘らん。
安らかにやがてわれ老いさらぼひし骨を埋め、
水底に鱶の沈む如忘却の淵に眠るべし。
われ遺書を厭み墳墓をにくむ。
死して徒に人の涙を請はんより、
生きながらにして吾寧ろ鴉をまねぎ、
汚れたる脊髄の端々をついばましめん。
あゝ蛆蟲よ。眼なく耳なき暗黒の友、
汝が為めに腐敗の子、放蕩の哲学者、
よろこべる無頼の死人は来れり。
わが亡骸にためらふ事なく食入りて、
死の中に死し、魂失せし古びし肉に、
蛆蟲よ、われに問へ。猶も悩みのありやなしやと。
憂 悶 シャアル・ボオドレエル
大空重く垂下りて物蔽ふ蓋の如く、
久しくもいはれなき憂悶に歎くわが胸を押へ、
夜より悲しく暗き日の光、
四方閉す空より落つれば、
この世はさながらに土の牢屋か。
蟲喰みの床板に頭打ち叩き、
鈍き翼に壁を撫で、
蝙蝠の如く「希望」は飛去る。
限りなく引つゞく雨の絲
ひろき獄屋の格子に異らず、
沈黙のいまはしき蜘蛛の一群
来りてわが脳髄に網をかく。
かゝる時なり。寺々の鐘突如としておびえ立ち、
住家なく彷徨ひ歩く亡魂の、
片意地に嘆き叫ぶごと、
大空に向ひて傷しき声を上ぐれば、
送る太鼓も楽もなき柩の車
吾が心の中をねり行きて、
欺かれし「希望」は泣き暴悪の「苦悩」
黒き旗を立つ、垂頭れしわが首の上に。
暗 黒 シャアル・ボオドレエル
森よ、汝、古寺の如くに吾を恐れしむ。
汝、寺の楽の如く吠ゆれば、呪はれし人の心、
臨終の喘咽聞ゆる永久の喪の室に
DE PROFUNDIS歌ふ声、山彦となりて響くかな。
大海よ、われ汝を憎む。狂ひと叫び、
吾が魂は、そを汝、大海の声に聞く。
辱めと涙に満ちし敗れし人の苦笑ひ、
これ、おどろおどろしき海の笑ひに似たらずや。
されば夜ぞうれしき。空虚と暗黒と、
赤裸々求むる我なれば、星の光覚えある言葉となりて
われに語らふ、其の光だになき夜ぞうれしき。
暗黒の其の面こそは絵絹なりけれ。
亡びたるものども皆覚えある形して
わが眼より数知れず躍りて出づれば。
仇 敵 シャアル・ボオドレェル
若きわが世は日の光ところまばらに漏れ落ちし
暴風雨の闇に過ぎざりき。
鳴る雷のすさまじさ降る雨のはげしさに、
わが庭に落残る紅の果実とても稀なりき。
されば今思想の秋にちかづきて
われ鋤と鍬とにあたらしく、
洪水の土地を耕せば、洪水は土地に
墓と見る深き穴のみ穿ちたり。
われ夢む新なる花今さらに、
洗はれて河原となりしかゝる地に
生茂るべき養ひをいかで求め得べきよ。
あゝ悲し、あゝ悲し。「時」生命を食ひ、
黯澹たる「仇敵」独り心にはびこりて、
わが失へる血を吸ひ誇り栄ゆ。
秋の歌 シャアル・ボオドレェル
一
吾等忽ちに寒さの闇に陥らん。
夢の間なりき、強き光の夏よ、さらば。
われ既に聞いて驚く、中庭の敷石に、
薪を投込むかなしき響。
冬の凡ては――憤怒と憎悪、戦慄と恐怖や、
又強ひられし苦役はわが身の中に返り来る。
北極の地獄の日にもたとふべし。
わが心は凍りて赤き鉄の破片よ。
われ戦慄きて薪を投ぐる響をきけば、
断頭台を人築く音なき音にも増りたり。
重くして疲れざる戦士の槌の一撃に、
わが胸は崩れ倒るゝ城の観楼歟。
かゝる懶き響に揺られ、揺られて、何処にか、
いとも忙しく柩の釘を打つ如き……そは、
昨日と逝きし夏を葬る声にして、秋来ぬと云ふ怪しき此声は、
さながらに死者を葬る鐘にも似たり。
二
きれ長き君が眼の緑の光ぞなつかしき。
いと甘かりし君が姿もなど今日の我には苦きや。
君が情も暖かき火の辺や化粧の室も、
今のわれには海に輝く日に如かず。
さりながら我を憐れめ、やさしき人よ。
母の如かれ、忘恩の輩、ねぢけしものに。
恋人か将た妹か。うるはしき秋の栄や、
又沈む日の如く束の間の優しさ忘れたまふな。
定業は早し。貪る墳墓はかしこに待つ。
あゝ君が膝にわが額を押当てて、
暑くして白き夏の昔を嘆き、
軟くして黄き晩秋の光を味はしめよ。
腐 肉 シャアル・ボオドレェル
わが魂などか忘れん、涼しき夏の
晴れし朝に見たりしものを。
小径の角、砂利を褥に
みにくき屍。
毒に蒸されて血は燃ゆる
淫婦の如く脚空ざまに投出し
此れ見よがしと心憎くも
汗かく腹をひろげたり。
照付くる日の光自然を肥す
百倍のやしなひに
凡てを自然に返すべく
この屍を焼かんとす。
青空は麗しき脊髄を
咲く花かとも眺むれば、
烈しき悪臭野草の上に
人の呼吸をも止むべし。
青蠅の群翼を鳴らす腐りし腹より
蛆蟲の黒きかたまり湧出でて、
濃き膿の如くどろどろと
生ける襤褸をつたひて流る。
此等のもの凡て寄せては返す波にして、
鳴るや、響くや、揺めくや。
吹く風に五体はふくらみ
生き肥るかと疑まる。
流るゝ水また風に似て
天地怪しき楽をかなで、
節づく動揺に篩の中なる
穀物の粒の如くに舞狂へば、
忘られし絵絹の面に
ためらひ描く輪郭の、
絵師は唯だ記憶をたどり筆をとる、
形は消えし夢なれや。
巌の彼方に恐るゝ牝犬。
いらだつ眼に人をうかゞひ、
残せし肉を屍より
再び噛まんと待構ふ。
この不浄この腐敗にも似たらずや、
されど時として君も亦、
わが眼の星よ、わが性の日の光。
君等、わが天使、わが情熱よ。
さなり形體の美よ、そもまた此の如けん。
終焉の斎戒果てて、
肥えし野草のかげに君は逝き
白骨の中に苔むさば、其の時に、
あゝ美しき形體よ。接吻に、
君をば噛まん地蟲に語れ。
分解されしわが愛の清き本質と形とを
われは長くも保ちたりしと。
月の悲しみ シャアル・ボオドレエル
月今宵いよゝ懶く夢みたり。
おびたゞしき小布団に翳す片手も力なく、
まどろみつゝもそが胸の
ふくらみ撫づる美女の如。
軟かき雪のなだれの繻子の背や、
仰向きて横はる月は吐息も長々と、
青空に真白く昇る幻影の、
花の如きを眺めてやりて、
懶き疲れの折々は下界の面に、
消え易き涙の玉を落す時、
眠りの仇敵、沈思の詩人は、
そが掌に猫眼石の破片ときらめく
蒼白き月の涙を摘取りて、
「太陽」の眼を忍びて胸にかくしつ。
そゞろあるき アルチュウル・ランボオ
蒼き夏の夜や、
麦の香に酔ひ野草をふみて
小みちを行かば、
心はゆめみ、我足さわやかに
わがあらはなる額、
吹く風に浴みすべし。
われ語らず、われ思はず、
われたゞ限りなき愛、
魂の底に湧出るを覚ゆべし。
宿なき人の如く
いや遠くわれは歩まん。
恋人と行く如く心うれしく
「自然」と共にわれは歩まん。
ぴあの ポォル・ヴヱルレエン
しなやかなる手にふるゝピアノ
おぼろに染まる薄薔薇色の夕に輝く。
かすかなる翼のひゞき力なくして快き
すたれし歌の一節は
たゆたひつゝも恐る恐る
美しき人の移香こめし化粧の間にさまよふ。
あゝゆるやかに我身をゆする眠りの歌、
このやさしき唄の節、何をか我に思へとや。
一節毎に繰返す聞えぬ程のREFRAINは
何をかわれに求むるよ。
聴かんとすれば聴く間もなくその歌声は小庭のかたに消えて行く、
細目にあけし窓のすきより。
ましろの月 ポオル・ヴヱルレエン
ましろの月は
森にかゞやく。
枝々のさゝやく声は
繁のかげに
あゝ愛するものよといふ。
底なき鏡の
池水に
影いと暗き水柳。
その柳には風が泣く。
いざや夢見ん、二人して。
やさしくも、果し知られぬ
しづけさは、
月の光の色に浸む
夜の空より落ちかゝる。
あゝ、うつくしの夜や。
道 行 ポオル・ヴヱルレエン
寒くさびしい古庭に
二人の恋人通りけり。
眼おとろへ脣ゆるみ、
さゝやく話もとぎれとぎれ
恋人去りし古庭に怪しや
昔をかたるもののかげ。
――お前は楽しい昔の事を覚えておいでか。
――なぜ覚えてゐろと仰有るのです。
――お前の胸は私の名をよぶ時いつも顫へて、
お前の心はいつも私を夢に見るか。――いゝえ。
――あゝ私等二人脣と脣とを合した昔
危い幸福の美しい其の日。――さうでしたねえ。
――昔の空は青かつた。昔の望みは大きかつた。
――けれども其の望みは敗れて暗い空にと消えました。
烏麦繁つた間の立ちばなし、
夜より外に聞くものはなし。
夜の小鳥 ポオル・ヴヱルレエン
鴬は高き枝より流れに映る己れが姿を眺め水に落ちしと思ひて槲の木の
頂にありながら常に溺れん事のみ恐れき。(シラノ・ド・ベルジュラック)
霧たち籠むる河水に樹木の影は
煙の如くに消ゆ。
その時影ならぬ枝の間より何処とも知らず
夜の小鳥は泣く。
あゝ旅人よ。いかに此の青ざめし景色は、
青ざめし君が面を眺むらん。
いかに悲しく、溺れたる君が望みは
高き梢に嘆くらん。
暖き火のほとり ポオル・ヴヱルレエン
暖き火のほとり、燈火のせまきかげ、
片肱つきて頭支ふる夢心地、
愛する人と瞳子を合すその眼とその眼、
語らふ茶の時、閉せる書物、
日の暮れ感ずるやさしき思ひ。
くらきかげ、静けき夜をまつ時の
いふにいはれぬ心のつかれ、
あゝわが夢心地、幾月のまちこがれ。
幾週日の遣瀬無さ、
猶ひたすらに其等を追ふ。
返らぬむかし ポオル・ヴヱルレエン
あゝ遣瀬なき追憶の是非もなや、
衰へ疲れし空に鵯の飛ぶ秋、
風戦ぎて黄ばみし林に、
ものうき日光漏れ落る時なりき。
胸の思ひと髪の毛を吹く風になびかして、
唯二人君と我とは夢み夢みて歩みけり。
閃く目容は突とわが方にそゝがれて、
輝く黄金の声は云ふ「君が世の美しき日の限りいかなりし」と。
打顫ふ鈴の音のごと爽に響は深く優しき声よ。
この声に答へしは心怯れし微笑にて、
われ真心の限り白き君が手に吻づけぬ
あゝ、咲く初花の薫りはいかに。
優しき囁きに愛する人の口より漏るゝ
「然り」と頷付く初めての声。あゝ其の響はいかに。
偶 成 ポオル・ヴヱルレエン
空は屋根のかなたに
かくも静にかくも青し。
樹は屋根のかなたに
青き葉をゆする。
打仰ぐ空高く御寺の鐘は
やはらかに鳴る。
打仰ぐ樹の上に鳥は
かなしく歌ふ。
あゝ神よ。質朴なる人生は
かしこなりけり。
かの平和なる物のひゞきは
街より来る。
君、過ぎし日に何をかなせし。
君今こゝに唯だ嘆く、
語れや、君、そもわかき折
なにをかなせし。
沼 ピエエル・ゴオチェ
茂りし林の奧深く
黒く声なく沼は眠れり。
一度も微風は水の面を拭はず、
いさゝかの波の動きも其の底より起りし事なし。
枯れたる枝の繁きがもとに
空には隠れ日に遠く、
重き月日の平和の底、
山毛欅の暗き木蔭に沼は眠れり。
秋のあらしに、影の中、
衣剥がれし梢は、
濁りて曇りし鏡の上に、
冷かなる其の冠をぬぐまもあらず。
落る木の葉の一ひらごとに
皺の刻みは眠れる水にひろがりて、
凋落を迎ふる水の面に、
落る木の葉はゆるやかに流る。
一羽の小鳥も水飲まんとて来りし事なく、
いかなる眼も其の水底を覗ひし事なし。
――茂りし林の奥深く
黒く声なき沼は眠れり。
池 エドモン・ピカアル
わが胸は湿りし土地に水は死したる古池か。
凍りし風其処に絶え間なき叫びを放つ。
恐ろしき襲撃の跡を留る落雷の木立に、
岸のながめの哀れなるかな。
忘られし恋と消失せし友の誼みと、
酷き運命のいたましき宝物は、徐ろに
黒き泥土と色さめし花と共に、
眠りたる此の花瓶の底に朽ちて行く。
陰鬱なる一隅かな。されど寂たる此深淵の中よりは、
もしそれ、吾が弱き心、測量の綱を抛ちて、
沈滞の濁水を突如として打つ時は、
震動起りて一道の光閃き渡り、
底知れぬ愁情を照す水百合の花の星、
数ある記憶の明るき色、水の面に浮びて来る。
音楽と色彩と匂ひの記憶 エミル・ヴォーケエル
音楽と色彩と匂ひの記憶われに宿る。
逝きし日を呼び返さんとせば、
花をつみとれ。われに匂ひの記憶あり。
音楽の記憶われに宿れば、
怪しき律のうごきは、
ノスタルヂヤのわが胸に昔を覚す。
花をつみとれ、楽を奏でよ。
何人か、何事か。忘れしものを思起すに、
われには色の記憶あり。
われ思出づ、紅の黄昏に、
わが恋人は打笑みわれは泣きけり……
われには色の記憶ぞ宿る。
秋のいたましき笛 アア・エフ・エロオル
秋のいたましき笛は泣く、
おだやかならぬ夕まぐれ。
空は涙を啜る時
ぬれし樹木はをのゝきぬ。
花はおもむろに枯れしぼみ、
小鳥は飛び去る彼方の野辺、
そこには四月の色もある
うれしき歌の聞ゆべし。
寒さ恐るゝ君は悲しく、
わが生命の君は小径を行く。
色蒼ざめて旅する君は
声も曇りし歌を求むる。
あゝ二人して喜び聴きし其の歌は
秋と云ひなば返り来じ。
何時の日かわれは又笑ひて眺めん、
今ははや涙となりし君が眼を。
仏蘭西の小都会 アンリイ・ド・レニェエ
起き出でてわれ朝に街に出づれば
道の敷石に足音高くひゞきて
太陽の若き光は古びたる瓦を暖め、
Lilasの花は家々の狭き庭に咲く。
人の歩みに先ちて足音の反響は
梢そびゆる苔の土塀の長きに伝はり、
磨り減りし敷石は砂道に連りて
場末の町より野辺に走れり。
やがて険しく登る山道より
日に照らされて岡のふもとに、
悄然として狭く貧しく静なる我が生れし街の
見馴れたる懐しき屋根の見ゆるかな。
長々と彼処に我か街は横はる。流るゝ河ありて、
その水は二度居眠りて二つの橋の下を過ぎ、
散歩の道に茂りし木立は街にそびゆる
鐘撞堂の石と共に古びたり。
うらゝかに澄渡りて狭霧なき空気に
わが街は太き響をわれに送り来る。
洗濯屋の杵と鍛冶屋の鎚の音、
打騒ぐ幼児の甲高くやさしき叫び。
変りなきわが街の浮世には思出もあらず。
繁華光栄の美麗もなくて、
わが街はいつの世までも
今見る如く小き都に過ぎざらん。
わが街は耕せし野辺、高原、荒れし野に、
又は牧場の間に立つ数ある街の一つなれば、
何れとわかぬ小きフランスの街の名に、
旅する人はわが街の名さへ知らで過ぎぬべし。
然れども朝より夕に移る散歩の
長き思ひの一日は過ぎて、
麦の畠のかなたに日はかくれ、
林に通ふ細道くれそめて、
物のあいろもわかぬ夜、
歩む足音険しき道にとゞろきて
疏水の水の音遥に聞え
吹く風運河の木立に騒ぐ時、
つかれて我は帰りくる街近く
ふと仰ぐあたりの家の窓
帷幕さへなきガラス越し、ランプの壺に
石油の黄金色なす燈火の燃ゆるを見れば、
杖にて捜る夜の道、自づと足も急がれて、
われ思ひ知る。わが墳墓の国土、
懐しき眼に闇の中よりいとも優しく
わが手をとりて引くが如しと。
葡 萄 アンリイ・ド・レニェエ
死なんとばかり我は悩みし其の夢知れる恋人よ。
さまざまのかなはぬ望みに飢えつかれ、
葡萄の棚に熟りたる葡萄つまんと我は久しく、
種まく人の如く唯だ徒に腕を振りけり。
然るに君は優しき夢に微笑みて眠り給へる、
其の情なくも静なる眠りぞ憎き。
爽なる朝風は爽なる朝のひゞきを伝へ、
夜は紅の東雲かけて明け行けり。
いざ行かん。望の光我等を導く美しき小山の方に、
苗植ゑしわが手づからに待焦れたる果物と
うつくしき葡萄の房をわれは摘むべく。
されどもし、些かの草の芽だにもなかりせば、
待つと云ふかの禍の夢の中、いつも変らぬ
空しき夜明を眺むべく夕暮に山を下らん。
われはあゆみき アンリイ・ド・レニェエ
久しくもわれは歩みき。落ちかゝる夜に
朝見し夢のかずかずも早や既に消えんとす。
そは君ならずや。一筋道の其の端に美しき眺め横ふ
遥なる館の方にわれを導きたまひしは。
かしこには不可思議なる月の光に照されて
眠れる昔の花園の咲きて簇る花の中
屋根に鐘鳴る高楼に聳えし塔の数多く
美しき異禽を養ふ家も見えたり。
錦の小禽その棲木に居眠れば
池の底には黄金の魚のひらめきて
噴水のほとばしり切々として囁きたり。
苔を踏む君が歩みに君が裳は鳴り響きて、
見えざる鍵の秘密を知れる柔かき
君が雙手はわが手を取りて扶けしものを。
夕ぐれ アンリイ・ド・レニェエ
夕暮の底遠くして海のほとりに
われ嘗て都をのぞみき。
鮮かなる銀色と褪めたる紅の
夕暮の底遠くして海のおもてに
その影を流す大理石と黒鉄の
都をわれは嘗てのぞみき。
扉と家をもわれは見たりき。
(血の夕暮はその時海にあり)
風は明き煖炉の火も見ゆる
戸口の篝火をいらだゝしめ
はたとばかりに扉をとざしぬ。
「死」と「望み」とは過ぎ去りぬ。
暗き空の下、褪めたる銀色の海の面に
その影と影とは漂ひぬ。
わが身には此の時よりして
海に昇る夕暮の悲しかりけり。
秋 アンリイ・ド・レニェエ
枝より枝を渡る風に
明き夏とまた暗き日に、
黒き梟と白き鳩鳴く
老木の梢をゆする。
木の葉に滴る雨の声、
やさしくも又ものうきは
さすらふ身には一歩々々
「悲しみ」の忍び泣く音と聞かれずや。
緑より黄に、黄よりして紅に
又黄金色より黄金のいろに
木々の梢の老い行けば、われは
秋より秋に散りて行くわが「過去」を思ふ。
林は聳えたる頂よりして頂に
紅の槲と緑の松を動かせども
吹く風は厳かに声を呑みたり、
かの「苦み」と「海」の如くに。
正 午 アンリイ・ド・レニェエ
正午なり……真白き道は海に走れり。
明き日の光窓より入りて、
まだ暑からぬ部屋の床板に、
出入の人の歩みにつきて落散りし
乾きてかゞやく砂を照す。
日曜と夏との匂ひに空気は爽なり。
日にやけし布と松脂の薫りよ。如何となれば、
布荒き日蔽には枝に下りし
松の実の影描かれたり。
静さは其さへもいと遠く思はるゝ迄の静さに、
想は去りて心空しき折からに
しづしづと身を動かしてPARRESSEと呼ぶ女姿は
更によく倦みし休みを味はんと、
伏目遣ひの優しき眼を閉ぢ合せ、
長々と横はる柳細工の椅子の上、
真裸の快さ、人目に触れぬ嬉しさに窃とほゝゑむ。
告 白 アンリイ・ド・レニェエ
まことの賢人は永遠の時の間には
一切の事凡て空しく愛と雖も猶
空の色風の戦ぎの如く消ゆべきを知りて
砂上に家を建つる人なり。
されば賢人は焔の燃え輝き消ゆるが如くに
開きては又散る薔薇の花を眺め、
殊更に冷静沈着の美貌を粧ひて
浮世の人と物とに対す。
疎懶の手は曉の焔と
夕炎の火をあふらざれば
夕暮は賢者に取りて傷しき灰ならず、
明け行く其の日は待つ日なり。
移行くもの消行くものの中にありて
我若し過ぎ行く季節に咲く花の枯死すは、
これそが定命とのみ観じ得なば
亦我も賢者の厳粛にや倣ひけん。
然るに纏綿たる哀傷の心切にして
われは悔いと望みと悲しみに
又慰め知らぬ悩みの闇の涙にくれて
わが身を挫ぐ苦しみの消ゆる事のみ恐れけり。
いかにとや。砂上の薔薇の香気も
吹く風の爽さ、美しき空の眺めさへ
永遠の時の間にも一切の事凡て空しからずと、
我が哀れなる飽かざる慾の休み知らねば。
庭 アンリイ・ド・レニェエ
庭に来よ。黄昏は庭に木の葉と
土と花、潤ふ影との薫る時なり。
揃ひし黄楊の並木の蔭、狭き小径は行く程に、
いよ狭くいよ安らかに君が歩みを導かん。
庭の外なる野や道や危き辻や、
鏡なす池の水とて何かあらん。
やがて萎れん其の茎に血と咲く薔薇のみ
唯わづかあぢきなき君が浮世の形見なり。
ありとあらゆる「過ぎし日」は活ける夜につれ
庭の中にぞ蘇る。敵意ある群集は
肥えし野草や濡れし道暗き林にはびこるを、
こゝのみは静けく優しき庭の隅。
土塀に添へる果樹の列、黒き腕長く差伸べて
君をば守る此処ばかり心安けく歩めかし。
缾 アンリイ・ド・レニェエ
沈黙の碑、美の墳墓よ。
「悲しみ」は其の缾に灰となりにし
夏の果実と秋の葡萄を収めたる
この懐しき重荷のために声を呑みたり。
消えし時間と死したる季節と、
一度は酔ひつ栄えつ、烈しく強く豊なる
薫をかぎしさまざまの思ひ出、
猶其の底に残りてあれば、そがために
君は夏の形見の灰を収めし黄金の缾を携へて、
いと暗き青春に彷徨ふ。あゝ「悲しみ」と呼ぶ君、
道行く女姿よ。われ君を迎ふるも亦此れが為め、
沈黙の碑よ、美の墳墓よ。
年の行く夜 アンリイ・ド・レニェエ
背の高いランプが
私のうつむいた机の上
開いた書物の間に突立つて
音もなく燃えてゐる。
何かぢつと見詰めてゐるやうな
物哀れな老耄した「月日」が
書齋の中をあちこち彷徨ひ歩く
其の足音ももう聞えない。
低くかざす其手を暖めようと
明い煖炉の傍に坐りかける老耄した「月日」は、籏、
着てゐる冬と云ふ灰色の着物の為めに、
何となく謙遜らしく我慢づよく
而も又真面目らしく見えた。
丁度私が想の底を過ぎて
其の灰の上を歩くやうに思はれる軽い足音に、
老耄した「月日」の姿は
何となく優しく又何となく厳格にも見える。
夏と秋との手籠は
向うの壁の上に掛けられてあるが、
時々に其の籠を編む柳の枝の弾けて破れ、
茎も葉も枯れてしまつた花瓶の
蘆をば風がゆすぶる。
其の度々に私ははつと思つて
耳を澄まして
老耄した「月日」の顔を眺めると、
彼の老女は灰色の着物を着たまゝ身動きもせず、
真直に伸びて鞭のやうに閃く
柔かな柳の若枝の一條一條折り曲げて、
笑つた夏の日
花籠を編みながら歌つた
その忘れた昔の歌をうたひもせぬ。
然しその絲車ばかりは
何処かで蜂の鳴くやうに、
高く低く遠く近く
呟き唸つて
恰も黄昏の絲をつむぐがやう。
高い処にかゝつてゐる時計は
鱗形の彫をした黄楊の箱から、
消え行く時間に又時間を加へ、
夜半の十二時になるまで
時は次第々々に進んで行く。
すると桃色と灰色の着物きて
煖炉の傍に黙つて坐つてゐた「月日」は
立上つて消えた火を掻き起す。
希望の焔パツと燃え上つて、
黒ずんだ敷瓦を赤く色付け、
凍えた「月日」の手先をあたゝめた。
私は早くも這入つて来る「時」の入口から、
「月月」の新しい顔が私の思想に向つて
微笑んでゐるやうな心持がした。
暮方の食事 シャアル・ゲラン
歌ひながらに恋人は、飛ぶ蜂の翅きらめく光のかげ、暮方の食事にと、庭の垣根の果実と、白きパン、牛の乳とを準へ置きて、いざや、寄添ひて坐らんと、わが身のほとりに進み来ぬ。
雨は晴れたり。空気はうるほひ、木立の匂ひはみなぎりて、明け放ちたる窓の外、木葉に滴る雫の音は、室のすみ、いづこと知らず啼きいづる、蟲の調にまじりたり。
食卓に肱つきて、さゝやかなる料理の皿もその儘に、二人ともども思ひに沈めば、言葉もなく唯だ折々に、恋人は、吹く風の冷き吐息に打顫ふ、あらはなる其の腕を、わが脣の上によこたへき。
くもりなき水晶の花瓶や。可笑しげにふくらみて、二人の顔のうつりたる、圓き其横腹の面には、窓なる額縁に限られて、森の茂りと、古里の空の畫こそ描かれたれ。
かしこにぞ、秋の空は紅に悲しめる。あゝ、長閑なるなつかしき此の恋の一刻よ。いつしかに黄昏は、花瓶の面にうつる空の色、二人が瞳子をくもらして、さゝやかの二人が世界の、物の彩色を消して行く。
わが顔押あてし、恋人の胸はとゞろけり。吹く風ぬれたる木立を動かせば、想に沈める二人は共に突とさめて、木の実の庭に、落る響に耳を澄ます。
かくて、吾等二人は、過来し方をふりかへる旅人か。また暮れ行く今日の一日を思ひ返して、燃え出づる同じ心の祈祷と共に、その手、その声、その魂を結びあはしつ。
道のはづれ シャアル・ゲラン
道のはづれに
日はしづむ。
手を取らん、
接吻せしめよ。
疑へる心の如く
この泉は濁りたり。
渇けるわれに
君が涙をのましめよ。
日は暮れたり。
鐘が鳴る。
われにあたへよ、
君が胸打ふるふ其恋を。
道はくだる。
幾里と長き真白の帯。
青き小山の
坂道つきぬ。
たゝずまん。行手たる
森をながめよ。
屋根はかすみて
村は夢む。
わが眠らんとするは
彼処なり、扉のかげ、
落る木の葉に埋るゝ
君が黒髪に抱かれて。
ありやなしや シャアル・ゲラン
よしや反響のきかれずとも、物には凡て随ふ影あり。
夜来れば泉は星の鏡となり、
貧しきものも人の恵に逢ひぬべし。
澄みて悲しき笛の音に土墻は立ちて反響を伝へ、
歌ふ小鳥は小鳥をさそひて歌はしめ、
蘆の葉は蘆の葉にゆすられて打顫ふ。
憂ひは深きわが胸の叫びに答へん人心、
あゝ、そはありやなしや。
四 月 ギュスタアヴ・カン
あゝ花開くうつくしき四月よ。
されど若し我か恋人われより遠く、
北の国なる霧の中にあらば、
何かせん、四月の新しき歌、
四月の白きリラの花、野ばらの花も、
梢を縫ひて黄金と開く四月の日光も。
あゝ花開くうつくしき四月よ、
わが恋人にまた逢ふ事の嬉しきかな。
あゝ花開くうつくしき四月よ。
恋人来れり。
四月のリラの花、黄金なす四月の日光。
始めてわれを慰めん。われ四月に謝す。
あゝ花開くうつくしき四月よ。
ロマンチックの夕 伯爵夫人マシュウ・ド・ノワイユ
夏よ久しかりけり、われ夏の恵み受けじといどみしが、今宵は遂に打ち負けて、身中つかるゝまでの快さ。
われ小暗きリラの花近く、やさしき橡の木蔭に行けば、見ずや、いかで拒み得べきと、わが魂はさゝやく如し。
よろづの物われを惑しわれを疲らす。行く雲軽く打顫ひ、慾情の乱れ、ゆるやかなる小舟の如く、しめやかなる夜に流れ来る。
列車は過ぎたり。燃るよろこびよ。その響空気をつんざく。神経は破れて死ぬべくも覚えつゝ、いかにせん、又生きんとする願ひになやむ。
あゝわれ此宵、わが肩によりかゝる、若き男の胸こそ欲しけれ。ロマンチックなる事柳のかげにも優りたる吾心の懶き疲れを、かの人は吸ふべきに。
われ彼の人に、「誘ひしは君ならず、そはあらゆる夜のさま、わが胸をして鳩の如くにふくれしむ。
されど君はあまりに若ければ、黄金の血潮と溶け行く心、骨に徹する肉のかなしみ、われそを訴へん夜にのみ。
あらゆる樹木は官能鋭く、あらゆる夜は打ち解けて、絶えざる啜り泣きの声、煙りし空に上り行けり。
うるはしき夜のみ眺めて語りたまふな。傷しくも悩める君をのみわれは求むる。狂ひて叫ばん脣に、消えも失せなん心して、わが愛する人よ。泣きたまへ。唯泣きたまへ。」と語るべし。
九月の果樹園 伯爵夫人マシュウ・ド・ノワイユ
炎暑は地平線をくもらしたり。夏のあつさ。やはらかき毛織物。空気は重く閉して隙間もなし。いさましく機織る響の如く、蜜蜂の群は果物の匂ひに喧しくも喜び叫ぶ。われその蒸暑き庭の小径を去れば、緑なす若き葡萄の畠中の、こゝは曲りし道の果。家の戸口は開かれて、鍬、鋤、如露なぞは、黄き日光に照されし貧しき住居の門の前、色づく夕暮の中に横はりたり。
われ、涼しき隠家の中に進み入れば、果実の匂のいかに清涼なる。思はずためらひて、耳を澄す。ひやゝかなる圓天井の陰には、そよとの風もなく、あたり蕭條に、心自ら長閑なれば、屋根低く涼しき尼寺か。夏の匂の漲り流るゝ幽暗なる地下室にも譬ふべけん。庭と水との吐く熱気は、こゝに閉されて休み息へり。あゝ。寺院の静寂、清浄の安眠よ。
新しき梨と林檎の実とは、果樹園の群を去りて家の棚の上、空しき影の中に熟してあり。その酢くして甘き味ひは滴り、香気は池の水の如くに沈みて動かず。鳴きつかれし細腰蜂の唯一つ、物音遠く静かなる、狭き硝子窓の四角なる面に、黒き点を描きたり。
おびたゞしき果実の匂ひかな。この匂は藍色の大空と、薔薇色の土とを以て、暑き夏の造り醸せしものなれば、うつくしき果実の肉の中には、明け行く大空の色こそ含まれたれ。心も清く気も新なる歓び。その匂、その光、その流れ、大気と土壌の戯れより生れたる濃厚の液汁、溶けたる砂糖。手桶の底に生れたる君こそは、冷たき藁の上なる小さき神なれ。木の樽と鉄の鋤、緑色なる如露の友よ。いざ、深密なる君が匂ひの舞踊る、甘き輪舞の列にわれを取巻け。
あゝ、日毎暮るればこゝに来て、庭造る愛らしき器物、手籠、如露の傍近く、空想に耽れば、あゝわが若かりし折の思出。幸福を歌ふ啜り泣は、心の底より迸り出づ。われは静寂の来りて宿る果樹園の、うつくしく穏かなる生活を、今ぞ見たり、今ぞ知りたり、悟りたり。わが生命、そが為めに焼れたるおそろしき思ひを、いざ抛たん。
慾望よ、われを去れ。われは十二の月々に鴬と駒鳥と、大麦の冠つけし神々と、額緑の夕蝉と、いと高くいと優しく、また美しく静かなる、女神Pomoneの御手によりて、匂はされたる大空の見渡す晴光と、共に踊らん。
西班牙を望み見て 伯爵夫人マシュウ・ド・ノワイユ
乾きし庭の面に日は照りて、夕立にうたれたるダリヤの初花は、緑なす長き茎をば白き家の壁に倚せかけたり。海はとゞろきわたりて、若き牧神の如く吹く風は、其手に押ゆる衣を剥ぎて、路上に若き女を辱めんとす。あたゝかく、うつらうつらと暮れて行くBasqueの里の夕まぐれ。われは彼方に、忽如として入日に染りかゞやける、怪異なる西班牙をこそ望み見たれ。
地平線の上に腕を長くさしのべなば、われは燃るかの土と紅色の柘榴とに触れもやせん。金光燦爛たる国土かな。鳥飛ばず、曇りもせず、色もあせざる空の下。乾きて黄きTobosoの谷の、身も焼けぬべきそゞろ歩きよ。唐辛の紅色と、黄橙の焔の色に、絹の衣裳を染めなして音騒がしき西班牙の、いらだつ舞ひのとゞろきや。又われは聞かずや。血まぶれのTourbadour華美ないさみの若者が、屠る牡牛にArenneの桟敷も崩れん叫び声。
Tolede Andarousieの国々よ。燃上る其の声なき狂熱を、君いづこよりか齎せし。おそろしき癡情の狂ひかな。いとし男の血に渇きたるPasiphaeは命あらばさぞと覚ゆる壮漢が、刺されて流す血に酔ひて、情慾と敬神との念ひを合せ味ひしが、
わが身はこゝに佛蘭西の、やさしき大気の中につゝまれて、心おどろき胸重し。ほゝゑめる静けきBasqueの山と水。雲は集りて、Guetharyのいたゞきに息へり。われRodrigueを思ひ、聖女Thereseを思ふ。さわやかなる匂を帯びて夕暮は、影と光に色ある砂を混ずる時、甘きタマリの一株毎に並びたる、けはしき山の、うしろよりIrunをさして行く汽車の笛の響の聞えたり。
神聖なる西班牙。あゝ今宵われ、君得まく思ふ心の乱れに堪へぬかな。
菊花の歌 シャアル・グランムウラン
だりやの花萎れ葡萄畠の取入れ終りて、
餌にあかぬ鴫の鳴く音も絶えにけり。
さまざまなる果実ことごとく熟し
木苺の実摘尽されて花園今はあれにけり。
空かきくもりて霧立ちまよへば、
かの暮方の懐しさと寂しさとは夜明の空にも漂ひ
黄ばみし芝生に薔薇は落ちて
その花びらの跡だにもなし。
さりながらこの揺落とこの風と、
またこの悲しき日かげに灰色したる空こそよけれ。
菊の花にはいとはしき蝿と、
蛾の接吻もなければ。
霜枯れし叢にそもこの花のひらめき出る
清くも澄みし黄色と橙黄色の目ざましや。
その中に東雲の霞とばかり
垂れて緋総に似るもあり。
さればや君が襟元黒髪にたばさむ花も
野路の菊花のあざやかに色もさまざまめづらしければ、
よしや手づから恋しき人の捧げて来つる花束とても、
かの有りふれし巷の花にてあらば何かせん。
誇顔なる百合の花、冷に造りしやうなる椿の花束、
何となく恐しき罪の戯れいざなふを、
野にさく菊の花束は露持つ冷き風にゆらめきて、
蒸暑き夜宴の都には因縁なし。
都の人の寒さに弱き歩みは早くも火を追ひ、
去りて跡なき荘園のしづけき小径、
風の嘆きのさびしさに、薄らぐもりの空を見て、
この花ひとり安らかに咲きぞみだるゝ。
そは唯詩人のみ。十一月葡萄の畑も牛飼ふ野辺も黄ばむ時、
静かに来りて菊の花打眺るは唯詩人のみ。
心なき世の交を忌みおそれ
胸打明けし友の庵をたづぬる如く。
あまりに泣きぬ若き時 フェルナン・グレエ
わけなき事にも若き日は唯ひた泣きに泣きしかど、
その「哀傷」何事ぞ今はよそよそしくぞなりにける。
哀傷の姫は妙なる言葉にわれをよび、
小暗きかげにわれを招ぐもあだなれや。
わがまなこ、涙は枯れて乾きたり。
なつかしの「哀傷」いまはあだし人となりにけり。
折もしあらば語らひやしけん辻君の
寄りそひ来ても迎へねば
わかれし後は見も知らず。
何事もわかき日ぞかし。心と心今は通はず。
沈みし鐘 スチュアル・メリル
われは過ぎ去りし太古の世の君王にやあらむ。
其国の都は海の底に沈みて音もなし。
黒がねの声なき鐘も過ぎにし世には幾たびか
響も高く幾代の春を告げわたりしに。
われは幾代のむかし消え失せし
あまたの妃の名をも知りたりけむ。
そは静けき夜半に散り失せし
萎れたる花にも似たりけり。
わが尊き宝を積み載せし重き船
沈みて行きし果はいづこぞ。
その時よりして我は波の底深く宝を探る
狂へる人とこそはなりにけれ。
そのむかし我に従ひし夥多の蛮民
空高くわが勝利を叫びてわが為に黒き喪の旗を、
都に立てし其の過ぎし世の光栄を、
何故にわれは今また見むことを願へるや。
今われは冷なる眼に、
月の光を望みて、剣を片手に、
大空に我名をしるし留めむものと、
次の世の来るを待ちつゝあるか。
さはさりながら勝利の望み、
今わが胸は幽憤の思にふさがれたり。
移り行く代々の勝利。我は既にいくたびか、
あらしに消る喇叭の声を聞かざりしか。
過ぎにし幾代の春を告げたりし黒がねの鐘の声。
今その鐘は沈みていづこに在りや。
我こそは実に、その国の都は海の底に沈みて声もなき
過ぎにし太古の代の君王なりけれ。
夏の夜の井戸 スチュアル・メリル
寝入りし少女の夢さへ覚ます月の光に
吠ゆる飼犬はたゞ真青な影かとばかり。
焔の雫の小さな星一ツ
旅籠屋の井戸の底に落ちたのを、
恋知りそめた子供のやうに
私等二人は眺めてゐた時、
お前の髪を解きほごす素早い私の指先から、
長いお前の髪毛は
旅籠屋の井戸の中へと流れ込んだ。
忘れはせまい。蟋蟀は庭の小高い処から、
綱に引き掛けた洗濯物の
風にも動かず干されてある
河辺の方まで啼きしきつてゐた。
「恐れ」がさまよひ歩くと云はれた
向うの小山の森はいとも静けく
夜の暗さにつゝまれて
酒場で酒呑む人の高声も
しんとした冬の夜のやうに
錫の器や瀬戸物や
硝子の盃照す燈火と共に消えてゐた。
お前は何やら小声にさゝやいたが、
私は其の囁きをお前の脣の、
この六月に咲く赤い花辮の上に押潰して、
顫へるお前の両手をばお前の胸から引取つて、
私も同じやう何やらお前に云つたのだけれど
今は早何と云つたのか覚えてはゐない。
あらはなるお前の腕に
私は抱かれてゐる間もなく
森に通ふ街道に、それは宛ら
沈黙と血の中に揉み消したいと思ふやうな
物狂はしい思出の夢かとばかり、
突然聞える酔払つた人達の騒ぐ声。
お前と私は、それなり、別れてしまつたのだ、
星の雫の降りそゝぐ井戸のほとりに。
奢侈 アルベェル・サマン
奢侈は生命の樹になる死の果実。
羨望の歯の根を動す禁制の果実。
倦怠の沙漠に坐せる黄金の怪獣。
老いにし「慾情」と「夜」より生るゝ汚れし女。
七重なる綾羅の下にちりばめし「悪徳」の金剛石、
火の火、血の血、骨の中なる髄の髄。
地の底の魔薬を持てる浮浪の魔女。
脳漿を吸ひ取り精気を挫ぐ魔女。
斯くぞ譬へん。幽遠神秘の「奢侈」。
あゝ偉なる哉、暗黒の宮殿のこの「奢侈」。
奢侈は壮麗の位に即く肉感の祭典。
恥辱の冠。汚濁の肩衣。
裸形。紅色の気高き女体美の庭。
霊魂をむせび泣かしむる肉の天国。
駘蕩たる夜気を動す千丈の髪。
暗澹たる香気の妖術。黒き薫り。
滔々たる血の流れの歌。酔倒の欷歔。
快感の身顫。柔き接触の弥増る緩き波動。
神経を痺らす柔き接触……終知られぬ柔き接触。
眼光に溢るゝ柔き接触……魂も消え入る柔き接触。
堪へぬ甘味の花蔭より奏る楽の音……消え行く心。
響なき絃を弾ずる歓喜の撥の疲労。
あゝ脣よ脣よ。消え行く接吻。歯に噛む接吻。
癡情の寝屋の死の如くに深き脣。
かくぞ譬へん。幽遠神秘の「奢侈」。
あゝ偉なる哉。哀傷の空の赤き星なるこの「奢侈」。
「奢侈」は人骨の裏に潜める細き毒蛇。
鋏の尖のごとくにとがりし慾望。
不吉の時を歌ふ酔へる警鐘。
清浄を嫉視する夜陰の尼なる魔界の天使。
覚醒に憤る不眠症の荊棘。
睡眠の高き壁に蠢く悪魔が夜宴の大壁畫。
乱れ打つ四竹の拍子につれて少しく開く綾羅の帷。
羨望の神タンタルを驚す空虚の盃。
燃る氷塊、凍る焔。
歓楽の野獣眠るむさくろしき厩。
かくぞ譬へん。幽遠神秘の「奢侈」。
あゝ偉なる哉。瞠きて浮世を目戌る貪婪の眼の「奢侈」。
奢侈は熱帯の激烈なる幻想。
羽毛の飾と槍とを連ねし蛮土の王侯。
驚くべきGANGIS河の畔なる翡翠の宮殿。
広大なる庭園。香気の湖水。埋れし黄金。
酷熱の赤道の恐るべき芽生月。
群飛ぶ甲蟲の金色なす寂寞。
羊毛と鋭き香気の眩暈と。
緑なす毒の沼池を照す血色の月。
かくぞ譬へん。幽遠神秘の「奢侈」。あゝ偉なる哉。
恐怖すベき暗黒の偶像なるこの「奢侈」。
奢侈は面蒼白き狂乱の帝王が頭の飾。
髪赤く丈高き娼婦の頸かざり。
節奏と舞踊と擬容劇の女王。
黄金にて築くDECADANCEの凱旋門。
雄々しき虎と大理石とに取巻れし、
淫楽の皇帝のおそろしき夢。
潤へる血の花。快楽と哀傷と。
花のうてなに甘さの限りを吸ひたる「死」。
炎々たる焔の中なる楽器のさまざま。
墳墓の緑色なす燈火に親しむ「死」。
日輪の国の滅亡。無上の尊称。
偉大なる昂奮刺戟の宗教。
燐光の技術によりて閃き出し瞬間の、
最終の遊宴……最終の呼吸……絲の如き臨終の喘咽。
かくぞ譬へん、幽遠神秘の「奢侈」。あゝ偉なる哉。
癩病の崩れの金光燦爛たるこの「奢侈」。
奢侈は肉慾の胸より吐出さるゝ熱き呼吸。
慾求と呼ばれし轟く身顫の赤き海。
快感の葡萄園、熟して重き葡萄の房。稀有の珍味。
相俟つて互の性慾を狂奔せしむる性慾の酒。
恋愛の痛みを鎮る妙薬、怨恨を激する興奮剤。
心の旅路に彷徨ふ巡礼者の泊り宿。
瞬間によりて生じたる永遠の衝動。
幻想の怪獣走りつゝ水を飲む溢るゝ噴井戸。
世捨てし人々の心を澄す処。懼るゝものゝ懼れぬ心。
奴隷の鴉片。癩病者の牝犬。
渇ける脣に触れて離れぬ曇りなき水瓶。
強者の弱点。弱者の強所。
悔恨を殺す夜半の毒草。
死者の口を開かしむべき胡廬の水入。
暴飲の海に帆を揚げて漕ぎ出る
漠々たる郷愁の楼船。
鼻孔を開き毛を逆立て、
虚無に向ひて突進する騎士の牝馬。
彼方遥けく燃残るGOMORRHEの塔と、
SODOMEの庭の焔を望む硫黄の湖水。
この身の終を覚悟して見上る苦悩の大空。
殉教者。苛まれし心に満る歓喜の涙。
火焔の中に坐して汚れし祭典する悪魔の王が、
永劫無窮の祈願を凝らす闇の塔。
死を致す贖罪の食慾、渇きと饑。
底なき淵。影なき日輪。端なき渦巻。
神経の神経、酸素の酸素なる「奢侈」。
呪はれし自滅の恋なる終の「奢侈」。
渾然を望む痙攣。絶対の中なる饗宴。
世界の最後、天体回転の終局なる「奢侈」。
哀願慈悲の聖女。黄金の血の聖女。
貪慾無情の聖女。永久に聖なる聖女。
火焔の都。忘却の魔薬。黒鉄の錐。
堕落の聖女。地獄のNOTREDAME。
かくぞ譬へん。幽遠神秘の「奢侈」。あゝ偉なる哉。
現世の不朽不死なる妃にも例ふべき此の「奢侈」。