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夢、はじけても

    

 

 明治九年七月三十日、早朝――。

 連日の猛暑の中を、早めに朝食をすませた人々が、小さな袋を片手に、近くの小学校をめざして、ぞくぞくと集まりはじめている。

 やがて、浜松県内の各寺で一斉に鐘がつかれ、その荘厳な音色が、あたりに響き渡った。

 それが、合図だった。

 集合していた人々は、門をくぐり、さらに校舎の前に列を作りはじめた。

 そして、先頭の者は教室に足を踏み入れると、部屋の中央に置かれた大きな箱に近づき、投票用紙在中、と書かれた袋の押印を確かめ、ゆっくりその中に投じた。

 投票が始まったのである。

 並んでいる者の中には、慣れないものを持ったせいか、その袋を汗で濡らしてしまい、あわてて広げ、ぱたぱたと乾かしている者もいた。

「やりましたな、県令さん」

 岡田良一郎は、かたわらでその光景を見守っていた男に声をかけた。

「いやいや、これも皆、岡田さんや青山さんの力あってのことですよ」

 おっとりと、やわらかい口ぶりで、その男は答えた。

「それにしても、県令さん。女の人まで選挙が出来るというんですから、こりゃあ前代未聞じゃないですかね」

 ねぎらうようにいったのは、隣にいた青山宙平であった。苦労してようやくこぎつけた選挙だけに、その言葉には充分重みがあった。

 先ほどから、県令(今の知事)と呼ばれているのは、限りなく現在のものに近い選挙を、日本で最初に実現させた男、林厚徳(はやしあつのり)であった。

 また岡田、青山というのは、浜松県下に住む有力者で、今回の選挙を実現させるため、共にスクラムを組んだ、林のいわば最大の同志であった。

「よかった、よかった。これが第一歩となって、これからの日本も、変わっていくだろう」

 一つの仕事を終えたという満足感で、林の顔には、自然に微笑がこぼれていた。

 

 林厚徳は、明治五年十一月に浜松県令を拝命し、以後その職にあったが、実は浜松の生まれではなく、徳島県の人であった。

 明治のはじめ、中央集権を進める新政府は、地方の政治を一大改革するため、各県に官選による新しい知事を派遣した。中央政府の方針を、できるだけ早く、全国に浸透させる必要があったからである。

 それまで地方の長官は、地元の人間、たとえば以前の藩主らがそのまま任じられていた。そのため、中央でせっかく新しい政策を実施しようとしても、情実などがからみ、なかなか思うように進まなかった。それを打破しようとしたのである。

 任命された者は、当然のことながら、維新に功労のあった薩長土肥、四藩からの出身者が多かった。

 しかし、中央にも人材は多数必要であったし、その四藩だけで、全国の要職をすべてまかなえるはずもない。そこで新政府は、比較的重要でない地域の県令などには、早くから勤王に衣更(ころもが)えした藩の出身者たちをあてた。

 徳島出身の林が浜松県令となったのには、そんな背景がある。

 

 林厚徳は文政十一年(一八二八)、百五十石取りの徳島藩士の家に生まれた。幼名は栄次郎といい、小さい時から相当の暴れん坊だった。

 武士の子だから、当然剣術は幼い頃から仕込まれたが(剣には才能があったらしく、長じて一流の剣士となつた)この頃は、それよりも腕力、つまり腕っぷしの強さの方が際立っており、組打ちなどをやらせると、右にでる者がいなかったという。

 林は、嘉永元年(一八四八)二十歳のとき、剣の腕が見込まれたのか、はたまた一族の懸命な猟官運動が功を奏したのか、作事奉行の口添えで、奥小姓に推挙されるという幸運をつかんだ。

 藩主親子のそばに仕えるというのだから、武士にとって、それ以上の栄誉はなかったにちがいない。

 しかし、せっかく奥小姓として出仕しながら、生来豪気な彼は、何年経っても上役に取り入って、出世を望むようなまねはできなかった。それどころか、以前のやや荒れた生活がなかなか直らず、ときおり酒を飲んでは、持て余しぎみの力を喧嘩ざたで晴らす始末であった。

 六年ほど、勤めた頃である。奥小姓役に、林より三歳下の井上高格(たかのり)が、新たに加わった。この井上との出会いが、後年の彼の運命を決定づける。

 二人がはじめて出会い、親しく交わったのは、林がよく立ち寄る居酒屋に、偶然井上が入ってきたからである。意気投合した二人は、もう一軒ということになった。

 語らいを深めていくと、井上はなかなかの勉強家で、四書五経はもちろん、国学などにも相当通じていた。

「堅いことばかりじゃ、だめだぞ」

 心が打ち解けてくると、林は少し先輩風を吹かせた。すると井上は言った。

「それはわかっているのですが、性分(しょうぶん)もありまして、今さら自分を変えることもできないのです」

 自分をよくわかっているやつだ、と感じた林は、

「そうか、それじゃ、何か自分なりにやろうとしていることでもあるのか」

 と、おもむろに尋ねた。

 この一言が、すべてであった。

 この日一緒に飲んで、林の打ち解けた雰囲気にのまれ、すっかり彼の魅力に引き込まれていた井上は、ついに本音を語り始めたのであった。

「実は、私は近頃、幕府のやり方に疑問を持っているのです」

 最初こそ、歯切れが悪かったものの、いったん話し始めると、井上の舌は滑らかだった。そして、

「ペルリが昨年、今年と続けて日本に来航し、むりやり『日米和親条約』を締結して以来、全国の意識ある者達は行動を開始したのです」

 と、声を大にする頃は、目の輝きも次第に真剣味をおびていた。

 林は、阿波(あわ)にもこんな人物が出てくるようになったかと驚き、しばらくは信じられぬようだったが、その一途さを見ているうちに、いつしか嫉妬に似た感情をいだきはじめていた。が、そのことは、同時に彼の潜在的意識を刺激することにもなり、

(俺だって、一生ただ無頼の徒で、終わるつもりはないのだ)

 と、かえって闘志をかき立てる結果を招いた。しかし、林はそんな心の内は、おくびにも出さず言った。

「これからもちょいちょい、そっちの方面の話も聞かせてくれ」

 これが、林を勤王運動へと進める、第一歩となったのであった。

 以後、井上は林に会うと、いつも今進めている運動について、詳しく語った。井上はやがて、いわゆる勤王の志士として、全国にも名を知られるほどの存在になっていった。

 世子蜂須賀茂韶(はちすかもちあき)の寵愛を受けた林は、その後勤王運動を進めるかたわら、紙方(かみがた)代官(四百石)京邸留守本締などを勤め、維新を迎えた。

 

 さて、時勢にはやや乗り遅れたかっこうの阿波徳島藩だったが、とにもかくにも鳥羽伏見の戦い(慶応四年正月)では勤王派として参戦した。

 そして同藩は、新しく藩主となった蜂須賀茂韶が、早くから勤王派の志士を庇護していたという関係もあって、比較的好意をもって、官軍側に受け入れられたのだった。

 林はこの時、地元兵の一軍の長として徳島にいたが、朝廷からの指令を受け、隣国の佐幕藩・高松を征するため讃岐(さぬき)境へ出兵している。

 やがて三月、江戸は無血開城され、勤王派は勝利を、ほぼ手中にした。となると、当然今まで藩内にあって尊王論を唱え、藩士を指導していた者たちは、一挙に藩の中心人物となる。

 井上高格、林厚徳、尾関成章、日比野克巳、伊吹直亮らがそうであった。

 翌明治二年正月二日、職制改革により、林は「参政」という、未曾有の大役を仰せつかった。

 ちなみに、参政というのは、藩主、執政(二名)、執政助役(三名)に次ぐ地位で、このとき林の他に、井上ら五名が任命されていた。

 が、この頃から林の態度に、ちょっとした変化が始まる。

 酒を飲んでは、よく喧嘩をした。しかしそれは、持ち前の正義感がそうさせたのであって、後腐れのない、からっとしたものだった。当然、武士という身分をふりかざして、理不尽なまねをするような(やから)は、彼の最も嫌うところである。

 勤王派に(くみ)したのは、その仲間が比較的純粋な気持ちで、活動を行なっていたからで、漠然とではあっても、そこに多少なりとも平等感が感じられたからであった。

 だが、口でこそ四民平等というようなことを唱えているが、どうだ。維新以後このかた、彼らの態度は一変した。

 自分が上の地位に立つと、そんな気持ちはどこかに失せ、態度は尊大、今や自分の立場を守ることしか考えようとしない。

 それで、酒席などで、よく林は、

「俺のような者が、こんな晴れがましい地位にいるなど、どう考えても場違いだ」

「今後は、どうも皆と一緒にやっていけそうにない」

 などと、たびたび発言するようになった。

「そんなことは、断じてない。林さんは居るだけで、我々にとって大きな力になっているのだから」

 林の気持ちを察することが出来ない井上は、そのたびに、そのような少しピントの外れた会話をいつも繰り返した。

 一番親しかった井上高格ですら、そうなのである。

 林は、今まで共に闘ってきた同志たちに、感謝の気持ちを失ったわけではなかったが、意識にズレが生じてきているという事実は、認めざるをえなかった。

「武士というだけで、さんざん好きなことが出来た時代は、もう終わったのだ。新しい世には、新しいやり方が必要なのに、どうもその考えというのが、なかなか思いつかないのだ」

 林は、わざと逆説的に井上に言うのだが、井上は、いつになっても、その真意がわかってくれそうになかった。

 ある時、個人的にも注目していたことについて、林は井上に、

「昨年発布された『政体書』の中に、官吏は公選入れ札の法によること、というのがあったが、あれはその後どうなったのかな」

 と尋ねた。すると、井上は言った。

「ああ、あれか。あれは五箇条の誓文に『広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ』といった手前、そう公表しなくてはならなかった、というのが真相のようでな。どこまで本気なものか。もっとも、その話まったくないわけではない。聞くところによると、五月頃、一度それをやってみようとしているらしい。もちろん、入れ札をできる者は、たとえば官に仕えている者だけ、というように限られるだろうが、ともかく中央では議定や参与を、諸藩では重役を入れ札で選ぼうとしているようだ。しかし、よくよく聞くと、それとて実は、無能無為の公卿や大名が高官のままだと困るので、その者たちをやめさせる便法だというのだから、それが終わればどうなることか」

「…………」

「たしかに、公選入れ札というのは、掛け声は立派だ。だが、現状を考えれば、まさか何もわかっていない連中まで加えて、今すぐ入れ札をやって代表を選び、政事(まつりごと)をやって行く、というわけにもいかんだろう」

「それでは……」

 林は言おうとして、口をつぐんだ。これ以上井上と議論しても詮なし、とあきらめたのである。まもなく、林は藩主蜂須賀茂韶に、辞職を申し出た。とにかく、その地位を離れたかったのである。

「そんなことは、気にすることはない」

 若い頃から林を知っている藩主は、この一風変わった、人情味のある男をよく理解しており、そう言って引き留めた。

 林も、一度は引き下がった。が、やはり気持ちが落ち着かない。結局、再び願い出た。

 となると、茂韶としても、願いをかなえてやらないわけにはいかない。

 惜しいと思いながらも、

「それでは徳島を離れて、中央政府に出仕してはどうか」

 と提案した。茂韶は徳島藩主であるとともに、中央政府の議定という重職を兼ねていた。何とか、世話できると思ったのであろう。

 林は、思いがけない話に驚いたが、それもおもしろかろう、と即座に判断。

「いかようにも」

 と、答えたのだった。

 林が中央政府から、民部官判事試補(判事は今の裁判官)を仰せ付けられ、上京したのは、それから三カ月後の、明治二年四月であった。

 以後彼は、明治政府が組織を変更するたびに、わずか二年の間に、民部官権判事、民部権大丞(だいじょう)少弁(しょうべん)と、めまぐるしく職務を変わりながら、中央政府に出仕を続けた。

 しがらみから逃れた林は、この時期新橋あたりで、大いに羽根を伸ばしていたらしい。もともと遊びには()けている方だし、何といっても気風(きっぷ)がいい。花柳界では、なかなかの評判だったそうである。

 やがて明治四年となり、七月十四日、新政府は廃藩置県を断行、中央集権国家をめざし、着々と歩を進めた。

 この時、三百六十一あった藩は、その大小にかかわらずほとんど県となり、全国は三府三百二県となった。しかし、このままでは統治しにくいため、政府はまもなく、一県の石高(こくだか)が十万石以上になるよう基準を設け、大幅に統廃合を推進、四カ月後には三府七十二県にした。

 この改革により、知藩事となっていた、以前の藩主らはすべて東京在住となり、旧領地との関係を完全に断ち切られた。以後、各県には政府任命の知県事(のち県令)が置かれた。

 これに伴い、林は八月十五日付で、金沢大参事を命じられた。

 が、林は、これを受けなかった。

 ただ、この頃は維新から、わずか四年ほどしか経っておらず、まだ殺伐な余風が十分に残っていた時期で、このような我儘(わがまま)も結構、許されていたのであった。

 新政府は、やむなく同年の十一月、今度は額田県(ぬかだけん)(三河国内の十県を統合してできた県、県庁は岡崎市内に設置)の権令(ごんれい)(知事と同格)に任命した。林も、これは承知したらしく、翌五年正月、着任している。

 しかし、新政府の相次ぐ改正により、まもなく額田県は愛知県に合併され消滅、林は半年たらずで、隣の浜松県令へ転任となった。

 浜松県は、明治四年十一月十五日に誕生した県で、東は金谷(かなや)、西は白須賀までをその範囲とし、昔の藩でいえば相良藩、横須賀藩、掛川藩、浜松藩、堀江陣家(藩)を含む、いわゆる遠江(とうとうみ)の地域(現在の静岡県西部)すべてであった。

 また、当時の県全体の人口は約四十一万七千人で、うち九十四パーセントはいわゆる平民であった。

 

    

 

 林が初めて浜松の地を踏んだのは、明治六年三月のことであった。

「わたしは何も、前の権令さんを悪く言うつもりはありませんが、多久(たく)さんという人は、どうも県民の人達に、あまり馴染んでいらっしゃらなかったようですね」

 特設された県令室で、そう切り出したのは、林に少し遅れて浜松に着任してきた、権参事(県令、参事に次ぐ地位)の石黒(つとむ)であった。

 石黒は、近江国彦根の生まれで、維新後は藩制改革によって、彦根藩の権小参事などを務めていた。そして明治五年、たまたま権参事として額田県に着任した際、当時権令を務めていた林と会い、たちまち意気投合、今回の林の転任に伴い、一緒に浜松入りをしたのであった。

 石黒はこの時三十二歳、まさに働き盛りであった。

「たしかに評判は今一つのようだな。政府は、他県から赴任してきた県令の方が、地元民との情実が避けられるから思い切った改革が断行できるはずだ、などと言っているが、頭だけすげかえても、実際に実務を行なうのはほとんどが地元の出身者だ。彼らとの関係がうまくいかなければ、何もできるはずがない」

 林も執務室であるためか、いつになく真面目に受け答えをした。

「そう思います」

「多久さんが六カ月たらずで去ることになったのも、そういうところに原因があったのかもしれないな。心しなくては」

「ですが、県令さんなら大丈夫でしょう」

 石黒は、思わず微笑んだ。いつまでも真面目づらしている林が、よほどおかしかったからだろう。

「おいおい、かいかぶっちゃいかんよ。そう言ってくれるのは、ありがたいが」

 林は、心の許せる石黒が、一緒に来てくれてほんとうに良かった、と感じていた。

 浜松には、県政施行後、初代の長官として、まず佐賀県士族の多久茂族(しげつぐ)が着任した。しかし半年後、突然去り、そのあとは、高知県士族の岩崎長武が就任、臨時的に県政をあずかった。

 だが、岩崎も適任ではなかったらしく、やはり半年ほどで、その職を退いた。その後任が、多久の強い推薦で就任した、林だったのである。

 多久茂族は、戊辰戦争の折、肥前佐賀藩の一閣僚として兵を率い参戦、数々の戦功を上げた。が、薩長土肥という維新功労藩の出身者であるにもかかわらず、維新後重要なポストに着けなかった。藩自体の参加が、一番遅れていたからである。その後、人事の発表があるたびに、彼の不満は募るばかりであった。

 その悪い面が、この浜松時代、特に目立ったのであろう。片田舎に配属になった彼は、時折その欲求不満を部下に当たり散らしたり、やりかけの仕事を途中で投げ出したりした。これでは、下僚や県民と馴染めなかったのも、当然であろう。

 ただ、彼の優れていた点は、自分の欠点を知っていたことである。

 そこで彼は、この際自分と違う性格、つまり「感受性が豊かで、積極性もあり、少しやくざ気質(かたぎ)を持つような」そんな人物をこの地にと考え、少弁を務めていた頃の同僚である林を、推薦したのであった。

「しかし、聞くところによりますと、県政を施く前に、この地にいらっしゃった井上さんという人は、たいそう評判がよろしいようです」

 石黒は、気を取り直すように言った。

「そのようだな」

 林も、その事は知っていたらしく、うなずいた。

 井上八郎(延稜)は日向国(ひうがのくに)延岡の生まれだが、嘉永六年三十八歳のとき、幕府に徴せられ、浪士取締、歩兵奉行などを経て、明治を迎えた。

 徳川家達(いえさと)に従って、静岡に移った彼は、浜松奉行、翌明治二年郡役所が設置されてからは、浜松勤番組頭として、浜松の行政を采配した。

 井上が、浜松に入って最初に打った手は、東照宮の祭典であった。一見幼稚に見える政策だが、祭りが民心を一つにするという効果が、現在よりずっと大きい頃のことである。城下は、ねり歩く若い男女の群れと、参詣の善男善女で、雑踏をきわめるほど盛り上がり、井上の株は大いに上った。

 気をよくした井上は、その勢いをかり、次々と新しい政策を実行した。

 三方原(みかたがはら)に入植してきた大勢の旧幕臣たちに、土地の開墾を奨励して茶樹を栽培させたり、婦女子に対し、先進地から講師を招いて織物の技術を学ばせたのが、それである。

 こちこちの官僚が来るのではないかと、内心ひやひやしていた城下の人達も、これら一連の行動を見て、大いに安心したらしい。井上は、完全に民心をつかんだのであった。

 彼が着手した大事業を、もう一つだけ述べておこう。

 浜松市内に現在でも残っている、井の田川(堀留――佐鳴湖間を走る川。通称堀留運河)のことである。これは、実は浜松が直接海に繋がっていない不便さを感じた井上の発案で、出来たものだった。

 当時、このような小さな城下町で運河を開くなど、十中八九、無理といわれていた。しかし、約千五百メートルに及ぶ水路が、わずか三ヵ月ほどでなぜ完成したかといえば、それは井上に恩を感じた百三十四カ村の民衆が、弁当代だけ(日当なし)でも良いと、進んで労力を提供したからであった。

 林も石黒も、井上の業績を確認し、まさに襟を正す思いであつた。

「ところで、県令。その運河の工事に率先して協力した地元の中心人物らが、県令にお会いしたいから都合(つごう)をつけてほしい、と言って来ていますが、いかが致しましよう」

 石黒は、本論に入った。

「それは、ちょうどよい。私の方はいつでも良いから、なるべく早いうちに、席を設けてくれ」

「はい」

「ああ、ちょっと待て、最初は公式でない方が良いかも知れんな」

 林は、右手で盃を傾けるしぐさをし、軽く片目をつぶった。

「あっ、そうかも知れませんね。では、さっそくそのように……」

 石黒は、これでいつもの林さんだ、と言わんばかりに微笑みながら、足早に部屋を出ていった。こういう時の二人の呼吸は、実にぴったりであった。

 ところで、林は浜松県に赴任する際、石黒のほかにもう一人、腹心とも言える人物を、一緒に着任させていた。権典事(ごんてんじ)大江孝文(たかふみ)である。

 大江は、幼い頃から付き合いのある徳島藩士で、年齢は林より一歳年長。儒学一筋に打ち込んだ、根っからの教育家で、十四で家を継いだ後は、藩主蜂須賀斉裕(なりひろ)に仕えて、世子茂韶を教導したほどの逸材であった。彼もやはり林に乞われ、額田県に続いて、この浜松に赴任、学校教育行政に携わったのであった。

 大江は(かみなり)典事とあだ名がつけられるほど、態度が威圧的な人物だったが、それは彼が、それほど熱心に、教育行政に打ち込んだという証左でもあるわけで、

《以後、数年のうちに、浜松の学校が隆盛をきわめ、幾多の人材を輩出できたのは、彼の努力に負うところが大きい》

 というのが、後世のもっぱらの評価である。

 そういう性格をも胸の内に収め、どしどしやりたい事をやらせ「あとは俺が、しりぬぐいでも、何でもしてやるから」というのが、おそらく林のやり方だったのであろう。

 

 林邸に、倉真(くらみ)村(現・掛川市)の名主をしている岡田良一郎(三十四歳)と、中泉(現・磐田市)で旅宿業を営む青山宙平(五十五歳)を連れて、石黒がやって来たのは、それからまもなくのことであった。

 二人は、当初緊張していた。が、妻女の手料理で持て成され、林がきさくな人間だとわかると、徐々に打ち解け、いつしか笑いさえ交わすようになっていた。

 林は、気取ることなく言った。

「井上八郎さんは、調べれば調べるほど、立派なお仕事をされていることがわかり、私も感服しております。近々政府の方に、民情の報告書を出す予定になっているのですが、この中にも当然、井上さんのことは書いておかなくてはならんわけでして……。ああ、そうそう、その折には、もちろん民間で高い業績を上げられている金原明善(きんばらめいぜん)さんや気賀林(きがりん)さん、そして岡田さんの父君(ちちぎみ)佐平次さんなど、みなさんの御活躍も、あわせて報告させていただくつもりです」

「恐れ入ります」

 岡田は、評判通り温厚で篤実な人らしく、深く頭を下げた。

 良一郎の父佐平次は、倉真村代々の庄屋の家に生まれ、三十代のとき二宮尊徳(にのみやそんとく)の門に入って以来、窮民撫育、貧村復興の実践者となった。倉真村に帰村後は、牛岡組報徳社を設立、報徳運動の中心人物として、活躍していた。

 良一郎本人は、父の影響もあってか、十一歳で早くも下野(しもつけ)(現・栃木県)まで下り、二宮尊徳の門に入っている。彼は、そこで六年間学び、十七歳のとき師尊徳の死に会い、そのまま帰村、以後は父を助け道路の開削、堤防の改修などに尽力、村民の敬服の的になっていた。

「そこでですな、今日は皆さんのふだん考えておられるような御意見というか、そういうものをお聞きしたいと思いましてね」

 林は、二人に酒を注ぎ足しながら言った。

「なるほど、県令さんは報徳運動のことにも御理解があるようですね。それでは話が早い。ねえ、岡田さん」

 青山は、こころもち岡田を立てるように、言った。

 青山の職業は、旅宿業ということになっているが、これは昔のいわゆる郷宿業で、江戸時代は事あるごとに、官民の間に立って斡旋をするといった、いわば土地の顔役的な存在であった。

 彼は、その中でも、少壮より胆略家として名をはせていたらしく、たとえばこんな話が残っている。

 嘉永七年、アメリカ船が御前崎(おまえざき)沖に、停泊するという事件が発生した。彼は情報を得るや、すばやく市井(しせい)の勇の者を募り、現地に馳せ参じた。ところが、あまりに急だったものだから、刀が足りない。そこで、咄嵯に芝居の道具方から、これを借りて間に合わせたという。

 五十歳を過ぎ、おおよそ世を見てきた彼は、この頃はすでに、これからは若い者にという気持で、すべてに接していた。

 岡田も、そう言われて、急に話がしやすくなったらしく、

「それでは、少し御説明させていただきます」

 と言って、とうとうと語り始めた。

「御存知のように、我々は、弘化の昔(一八四五年頃)この地に安居院(あごいん)先生がお立ち寄りになり、二宮尊徳翁の報徳の教えを広められて以来、疲弊した農村を復興させて、家政の回復をめざすことを目的に、精いっぱい努力を傾けてまいりました。農村の復興に一番大切なことは、農村を飢饉や経済変動から、いかに守るかということです。我々は、それを防ぐため、今までにもさまざまな実践を重ねてまいりました。たとえば、稲を正方形に植えるとか、薄蒔きにしてみる、といった農業技術の改良。また、荒地の開墾、灌漑事業、そして勤倹の努力などです。もちろん、それらを進めていく上には、ふだんの農業指導以上に、精神指導も必要なわけで、そのための中心となる組織として、私達は牛岡組報徳社も設立いたしました。そこで、この機会に我々が、今後ますますこの運動を発展させるため、当面県令に御協力願いたいと思うことを二、三申し述べたいのですが、よろしいでしょうか」

「はい、何なりと」

 林は、柔らかく受け答えた。

「ありがとうございます。それでは、さっそく述べさせていただきます。一つは、まず安心して無利息、ないしは低利で、資金が借りられる貸付所を、県の方で設立していただきたいということ。そして二つめとして、これは出来れば早い時期がよろしいのですが、農業技術、産業技術を修得できる機関を、開設していただきたい。その折、それとは別に、併せて幼い者たちに、基礎的教育を(ほどこ)すことの出来る学校、そんなものも建設していただければ、望外の幸せというものでこざいます。そういったことが順調にすすんでいけば、やがては農家の人達も、自立した自分の考えを持つようになり、それを県政に役立てられるようになると思います……」

「…………」

 林は、聞いているうちに、岡田に不思議な親しみを、感じるようになっていた。はっきり物を言っているはずなのに、押しつけがましさがなく、また本人がそう力まないので、不快感を感じないのである。

 林の心は、むしろ爽快ですらあった。林は、思った。

(報徳運動が盛んだということは聞いていたが、これほどしっかり、先を見つめてやっているとは思わなかった。この調子でいくと、農民の自発性も引き出され、報徳社を中心に、人心もまとまっていくだろう。方向性も良い。積極的な勤労意欲に納税意識、公共精神の高揚、風俗の匡正(きょうせい)と、いいことずくめではないか。いやぁ、驚いた。しかもこれが、自然に農民たちの側から、盛り上がってくる運動だというのだからな。これに県令として、手を加えてやれば……)

 林は頭の中に、

(これは、ひょっとしたら、徳島のような士族中心の政事ではなく、真の意味で四民平等の……)

 と、過去に半ばあきらめ、ほとんど捨てかけていた志を思いうかべ、何か自分でもおかしいくらい、胸の高鳴るのを覚えた。

 やがて、盃を置くと、林は言った。

「うむ……、よくわかりました。そこでですね、今考えたのですが、岡田さん、どうでしょう。あなたの考えを、少しでも実現に近づけるため、あなた自身が県の職員になってもらうわけにはいきませんか」

「はっ?……」

 岡田は、思わぬ提案に、少し面食らったようだった。すると、青山がおもむろに、口を挟んだ。

「なるほど、それも良い案かもしれませんね」

 どことなく、含蓄のある声の響きであった。

 林が赴任したとき、県の職員百八名のうち、九十三名は士族であった。このままではますます官尊民卑の温床になると判断した彼は、以後積極的に民間人を採用、その弊害を少しでも取り除こうと努力した。

「そうでしょう。ぜひ、そうして下さい」

 林は、すばやく言葉を添えた。

「しかしですね。私は、報徳社の方の事もありますし……」

「父君が、御健在でいらっしゃる間は、よろしいじゃないですか。やはりこういう事は内部にいてもらった方がやりやすいですしね。もちろん、毎日足を運んでもらわなくても良いように、私の方で手配しておきますから」

 林も少し強引に誘った。

「それでは父とも相談しまして……」

 この日は、そういう話で終わった。が、数日後、岡田は改めて林に会い、正式に浜松県に出仕することを承諾した。

 そして、それ以後、数々の建言を行なって「産業所」「女工場」「資産金貸付所」の建設など次々と当初の目標を達成、浜松における殖産方面の中心者として、活躍していったのであった。

 こうして、林の指導により、浜松における近代化政策は、着々と進んでいった。

 この時期、林が着手した、主な事業をあげると、次のようになる。

一、散髪の促進(林は『散髪の儀告諭』を出し、蓄髪が病原体の巣くうもととなる、不衛生きわまるものであることを強調した)。

一、会社病院(後の県立浜松病院)の設立(林は梅毒等の防除のため、業者を集めて女郎たちに診療《陰門の検査》を受けるよう指導するなど、近代医療の第一歩を築いた)。

一、小学校の大幅増設(林は小学校創立を布達し、積極的に学校設立に着手したが、その際必ず地域の戸長を召集して意見を聴取するなど、当時としては極めて異例な、民主的方法をとった。その結果浜松県の就学率は四十パーセント《全国平均は二十八パーセント》に達した)。

一、三方原を士民合同で共同開拓し、茶園を促進。

一、県下六カ所に、士族授産所を設置。

一、浜松医学校の開設。

一、浜松大火による消失家屋の復興運動、及び消防組の結成。

一、浜松瞬養学校(教員養成の師範学校)の設立。

 このように、明治六年からの約二年間は、県政も比較的穏やかに進んでいた。

 だが、同じ時期、林の思惑とは別のところで、新政府はあの悪名高き「地租改正」を公布して、国家的大陰謀を着々と実らせていた。

 大騒動の発端となる、浜松における地価算定調査(地租改正事業の最終段階)の結果が発表されたのは、明治九年二月のことであった。

 

    

 

 数日後、浜松県庁の県令室では、退庁時間を過ぎても、ランプの灯りがあかあかと燃えるそばで、延々数時間に及ぶ議論が続けられていた。

 林県令は、いかにも困った、といわんばかりに、地租改正事務局から来県した派遣官・松平正直に言った。

「ではどうあっても、調査の結果通り実行してはならない、と言われるのですか」

「そうです。何度も言っている通り、政府が、浜松県の反当(たんあた)りの収穫量は一石四斗を下らないはずだ、と言っている限り無理です」

 松平は、自慢の口髭に手をあてながら、相変わらず冷静に、同じ答えを繰り返していた。

「しかし、実際の調査結果が、一石二斗余りだったことは、県民のすべてが知っていることなのですよ」

 林も、何度こう言ったことだろう。

「だから、言っているでしょう。米価の方を引き下げれば良いと。一石を五円六十七銭で計算しなければ、いいんですよ。これを六十二銭下げて、五円五銭にすれば……。そうすれば、収穫代金を同額にするには、反当りの収穫量を一石四斗に引き上げるしかなくなり、辻褄も合うではないですか」

 松平も、さすがに「もう、()い加減にしてくれ」といった表情を、隠せなくなっていた。

 明治政府が、財政確保のため「地租改正」に踏み切ったのは、明治六年七月である。以後、税の基礎は収穫高から地価になり、地租は地価の百分の三とされ、納税方法も金納に改められた。

 地租改正事業は、二つの工程から成る。土地測量と地価の算定である。

 まず、前年発行された「地券」に基づき、所有者の土地を実測する。そして、その土地の収穫量と米価を調査し、地価を決定するのである。

 地価の決め方は、多少複雑なので詳細は省くが、要するに収穫量に米価を乗じ、そこから必要経費や特殊事情を控除して土地の年間収益を算出し、その収益をうるために必要な資金はいくらか、という形で計算された。

 また収穫量は、実際には各個人の収穫量を調査した上で、その地域の反当り平均収穫量を割り出し、米価(最近五ヵ年間の平均値)を同時に公表することで、結果に替えた。これが「地価の算定」と呼ばれるものである。相方を乗じたもの(平均収穫代金)に各自の実面積を乗ずれば、それがその人の年間収益となる。

 政府は、事業遂行にあたり、公平を期すため、全国に検査官を派遣し、地元民立ち会いのもとで、その地の調査を実施した。

 この方法は、当然どの地域でも好評をもって、受け入れられた。が、実際には、派遣官の方がその通り実行しなかったため、ここに大きな問題が生じたのであった。

 政府は、調査開始にあたり、派遣官に、

 ――今までの歳入額を、絶対に減少してはならない――

 という、至上命令を発していた。

 そのため彼らは、調査する以前からあらかじめ、その地域の最低地租額だけは決定しておかねばならず、事実そうして現場に出向いた。調査結果が、その数値に達しなかった場合、当然のことだが、派遣官はあらゆる手段を講じて、帳尻を合わせようとした。

 さて、浜松の場合である。

 当地において、土地測量及び地価の算定が開始されたのは、明治七年五月であった。

 調査は、県から出張してきた係官、村民から委任された地主惣代人、そして地租改正事務局から来県した派遣官の三者が、それぞれの立場を代表して立ち会い、多難のうちに進行。それでも、九年二月には、ほぼ終了した。

 前述した「地価算定調査が終了した」というのは、つまり調査員が土地測量をすませ、かつ地価の算定も終えたということである。

 ということは、この調査結果を三者(具体的には、地租改正事務官、県令、地主)が認めれば、その数値は即座に政府に報告され、すなわちそれが地価の基礎になる。

 報告によると、浜松県の水田の反当り収穫量は一石二斗三升八合で、米価は一石五円六十七銭、また畑のそれは一石二斗余で、麦価は二円三十三銭であった。

 ところが、この結果が三者立ち会いのもとに行なわれたものであったにもかかわらず、派遣官はこの数値を否定、

「麦はともかく、米の方はそのまま、報告するわけにはいかない」

 と主張し、自分達があらかじめ準備していた数字を表示、それを強引に押し通そうとし始めたのであった。想像通りのことが起こったのである。

 派遣官たちが準備していた数字というのは、総量もそうだが、より高い反当り収穫量であった。収穫量は変わりにくいが、価格は変化が大きい。

 五年後に地価の見直しを約束している政府は「その時、収穫量はそのままに保って、価格を操作すれば、もっと歳入を増やせるだろう」と、考えていた。「また国家権力を使って……」とでも、思っていたのであろう。

 総量を変化させないで、片方を上げるには、もう一方を下げるしかない。そこで派遣官・松平正直は、

「平均収穫量を一石四斗に引き上げ、米価を五円五銭に引き下げよう」

 と提案してきたのであった。この案は、以後「交換米案」と呼ばれた。

 しかし、林も県の係官も、彼らの企ては十分心得ていた。そのため、話し合いが進まなくなっていたのである。

 余談だが、多くの県では、県令や県民たちが弱腰になったため、この策略が通り、農民は結局、江戸時代と変わらない重い税を負わされることになつた。そして「御一新になれば」と期待していた人々は、裏切られたその心をいつしか、地租改正反対の一揆へと向けるようになっていったのであった。

「どうです、林さん」

 松平は、執拗に言葉を続けた。

「はあ……」

林の返事は、なおもあいまいであった。

 林は、こんなことで、せつかく培ってきた岡田らとの信頼関係を、壊したくなかった。いくら、最終決定は県民一人一人の承諾にゆだねられているとはいえ、ここで自分がこの提案を認めれば、事情がわかっているだけに、岡田らは間違いなく反発するだろう。下手をすれば、一揆になるかも知れない。

「もしですよ」

 林は言った。

「私がこの提案を受け、県民が拒否するということにでもなったら……」

「そんなことを、心配されていたのですか。簡単なことですよ。ほら、昨年十月発布された、例の但書(ただしがき)を使えば」

 松平は、さも当然といわんばかりに、受け答えた。

 但書というのは、太政官布告一五二号(八年十月七日発令)のことで、改租事業の早期完了と「旧貢租額の維持」を意図した政府が、農民の不満や抵抗を封じ込めるため、「地租改正条例」第七章に追加した、新たな制裁規定であった。

 ――土地丈量もすみ地価等が実施適当の申立と見据え難く、改正施行に差し支えのある場合は、定免地でも悉皆(しっかい)検見法(けみほう)を施行して収税する――

 と宣されたこの規定はつまり、土地所有者が申告した地価を、官が不当と判断したとき、(ことごと)く検見法を実施して収税する、というものである。

 検見法の実施が決まると、収穫期に検査役人が現地に出張し、収穫高を調査する。そして、査定された収穫高には、五公五民の旧租(幕藩体制下、苛政時代の収税率)が適用されることになっていた。

 その上、その際に動員された多くの役人や村方の接待費も馬鹿にならず、その負担だけでもこれは農民にとって、大変であった。制裁規定とよばれる所以(ゆえん)である。

 当然、林もこの導入だけは、避けたいと考えていた。

「それは、ちょっと行き過ぎでは」

 林は、ためらうように言った。

「何をいわれるかと思えば……。そんなこと、どこの県下でもやってることですよ。御存知ないわけではないでしょう、林さんも」

 松平は、少し不機嫌な顔をした。

 事実、先頃も岡山県や岐阜県で、反対運動が盛り上がろうとしていた時、政府は地租改正事務局員を入県させ、この布告をかざして管内総検見

施行を言い渡し、見事運動を鎮静させていた。

「…………」

「林さん。林さんは政府の方針に従えない、とでもおっしゃるのですか。これは、大久保内務卿の至上命令なのですぞ」

 黙っている林に、松平はなおも、強い態度を示した。

 突然、大久保という名を聞き、林は一瞬、何かいやな予感がした。

 大久保とは、言わずと知れた薩摩の領袖(りょうしゅう)大久保利通(としみち)のことである。当時、征韓論争に勝利した大久保は、内務行政に絶大な権限を持つ内務省を創設、自らその長官となり、地租改正事務局総裁も兼ね、専制的な支配を強めていた。

 林は、かつて大久保を間近で見たことがあった。

 明治二年初秋の頃であった。当時少弁を務め、東京にいた林は、従五位に叙せられ授与式に列席した。その折、広い会場で、当時参議に就任し、意気揚々としていた大久保と擦れ違ったのであった。

 いくらか頬骨が張り、いつもむずかしげな表情の、いかにも剛腹そうなその顔。大隈重信(おおくましげのぶ)は大久保を評して「頑固な意志とねばり強さは猛烈そのもの」と言っていたそうだが、林もこの時、大久保から一目でそのドスのきいたすごみを感じ取っていた。

 林も、今までそれなりに、修羅場は経験してきていた。だが、大久保のそれは、やはり同じ修羅場でも、一回りスケールが大きいというか、ぶつかればややもすれば、逆に跳ね返されそうな威圧感が漂っていた。

(なるほど、これは手強そうだ)

 林は、その時そう思ったという。

(しかし、やり方を見てると、大久保もやはり徳島の井上らと同じで、庶民の立場で物を考えない種類の人間だ。そうか、それならますますやらねばならん!)

 視線を宙に浮かせていた林は、改めて覚悟を決め、

「どうあっても……」

 と、ようやく口を開いた。

「そうです。もっとも、管内をすべて再調査し直すとでもいうなら、話は別ですがね」

 松平は、ついに本音を吐いた。

(やはり、力で、ごり押ししてくるつもりだ)

「それでは、一つだけお願いしたい」

 林は言った。

「私がこの提案を受け、もし騒動になった場合、たとえそれがどのような形にまとまろうと、私を信頼して最後までその収拾をすべてまかせると……」

「ふーむ……」

 松平も、そう言われると、さすがに即答できず、腕組みをした。

 会談はまたもや、長引くかと思われた。しかし、これは松平の方が、意外に早く折れてきた。

「いいでしょう、どういうやり方でも。県民すべてから承諾を得なくてはならないのは、あなたの仕事ですから。この条件でとにかく、県民から請書(うけしょ)を集めて下さい」

「わかりました、やむを得んでしょう」

 林も、これ以上松平に盾を突いても詮ない、とあきらめたのであろう。ついに、承諾の返事をしたのであった。

 松平を含む、地租改正事務局からの派遣官たちは、報告書をまとめると、

「一日も早く、良い返事を待っているぞ」

と言い残し、さっさと東京へ帰って行った。

 

    

 

 交換米案が県下に布達されたのは、それからしばらく経った、三月十四日であった。

 案の定、県民はこれに強く反対、至る所で官吏を取り囲み、管下は一瞬にして騒然となった。

 彼らは口を揃えて、こう主張した。

「交換米案は、たしかに総額には変わりはねえ。だけんど、五年先にぁ地価の見直しをするそうだで、そんとき、米価だけを改めることになったら、結局増税になるずら。これからは米価が上がるばっかりだから、そんな方法はうまくねえ」

 予想通り、県民も先が見えていたのである。

 彼らはまたこの時同時に、こういうことも言い立てていた。

「派遣官は、たんぼを測ってるときも、俺んちにいちいち文句をつけて、むりやり収穫量を増やそうとしていただに。それを、もっと増額しようっていうんだから、絶対ゆるせねえずら」

 調査過程における官側の専権や、不当な措置に対する怒りまで、一挙に噴き上がってきてしまったのである。

 間髪をいれず、岡田良一郎から林県令のもとに、一通の個人的意見書が届けられた。

 岡田は昨年、県庁を辞め、病気がちの父に代わって、遠州国報徳杜の社長に就任し、報徳運動の中心人物として活躍を続けていた。

 岡田(いわ)く――。

「事態は、容易ならざる様相を、見せ始めています。これを収拾する方法は、恐らく一つしかないでしょう。県令が、各小区長及び名望ある人物を集めて意見を問い、その席上でもし、再調査すべきである、と決まれば、早急にそれに着手する。また、交換米案にすべきである、と決まれば、あくまでそれを決行する、ということです。いずれにせよ、衆議にまかせるという方法以外、この問題は解決出来ないでしょう」

 林は、その意見書を読み、かすかにうなずいた。が、なぜか、すぐにはそれを実行に移そうとはしなかった。

 その間にも、県下の騒動は益々大きく、なっていく。

 岡田は心配になって連絡を取ろうとしたが、自宅に帰っている様子もなくどこに雲隠れしてしまったものか、なかなか林の所在はつかめなかった……。

 

 その頃、林の自宅からほど近い伝馬町の置屋「臙脂(べに)屋」では――。

 裏木戸から、こっそり入ろうとしていた石黒の耳に、

「それーっ!」

「きゃぁー」

「あーぁ、また敗けた」

 パチン、パチンと花札を配る音に加え、女たちの喚声が響いた。

「相変わらずですね」

 石黒が、苦笑しながら、女将(おかみ)の案内で部屋の中に入ると、そこでは何と、林が片肌脱ぎになって三、四人の娼妓を相手に奮戦中であった。

「おお、ちょうど良い所に来た。お前も仲間に入れ」

 石黒を見ると、林は即座に声を掛けた。

「いや、それよりも、例の件ですが……」

「わかってる、わかってる」

 林は、石黒に言葉を続けさせず、早口に言った。

「そうよ、そうよ、石黒さんも入りなさいな」

「いつものことじゃないの」

 嬌声も飛び交う。

 気前が良く、博才(ばくさい)のある林は、女郎衆には大もてである。

 上も下もなく、皆がみな一体となっているこういう雰囲気は、石黒も嫌いな方ではない。

 結局、勝負に加わり、石黒はこの日有り金残らず、林に持っていかれてしまった。

 場がひけて、二人きりになると、ようやく両名は小声で、何やら打ち合わせを始めた。

 林は、石黒だけには居場所を知らせて時を稼ぎ、県内の情報を逐一つかみ、じっと機会を窺っていたのであった。

 林は、石黒に言った。

「岡田は最初から、衆議にまかせるという以外、方法はない、と言って来ている。当然だろう。自分もそれしかないと思う。問題は、それをいつやり、どういう形でまとめるかなんだ。県民の運動が盛り上がり、その結果県民側から、その要求を突き付けるような形にならなくてはな」

「はい」

「それには、もう少し騒ぎが大きくなって、県民が岡田や青山という実力者を、かつぎ出すような事態にならなくてはならん。それまで、待ち続けるのだ。その時期を見計らって、こちらから声をかければ、岡田たちも県の要請に従ったという形になり、すべてはうまくいくはずだ」

 石黒は、林の考えていることが、手に取るようにわかっている。いちいちうなずき、

「もう少しです」

 とだけ、手短に答えた。

 

 交渉米案を県下に布達してから、二週間経った四月一日のことである。

 ようやく林は、岡田良一郎と青山宙平の両名に、県庁舎に出頭してくれるよう要請した。そろそろ時機到来、と踏んだのである。

 その日林は、権参事の石黒務も隣に控えさせ、会談に臨んだ。雲隠れしている間、石黒が岡田らに何度か会い、非公式ながらいろいろ相談に乗ったりしていたからであった。

 岡田は席に着くなり、話し始めた。

「どうしたんですか、県令さんらしくもない。騒ぎは大きくなるばかりですよ」

「すまん、すまん、ちょっと事情があって……」

 林は、少し笑顔を見せながら、言い繕った。

「まあ、それは良いとして、さっそくお話をおうかがい致しましょう」

 青山も、やはり多少あせっていたのだろう。先を急ぐように言葉を添えた。

「そうですね。ほかでもありません。今日は、今回の騒動にどう対処すべきか、という問題について、お話をお聞きしたいと思いまして」

「はい」

 二人は、同時に返事をした。

「先般、岡田さんから意見書をいただき、至急、小区長や有力者を集めて意見をきくべきだ、と承りましたが、それについては今でも同意見と考えてよろしいですね」

 林は、まず二人の意見を、確認することから始めた。

「その通りです。最近は報徳会の人たちからも、早く手を打ってくれ、とせっつかれ、そろそろこちらから参らなくては、と青山さんとも話していたところなのです」

「そうでしょう、そうでしょう」

 林は内心、これで良し、と思った。

「そこでですね。具体的にどうしようか、ということなのですが、何か良い案でもおありになりますか」

 林は、あくまで岡田らの方から解決方法を出させようとした。

「はい、青山さんや他の人たちとも相談したのですが、こういう方法はいかがでしょう」

 そう言って話し始めた岡田の案は、大きくわけて次の二点であった。

一、一応県令の示した決定には従うが、交換条件として、今後四年間坪刈り(一坪の稲を刈り取り、これを基礎として全体の収穫量を算出すること)を行ない、十四年の地価修正の時は、その結果によって、正当な地価を決定するようにしたい。

二、その施行細則は、人民の協議で決めたい。

 

 ただ騒いでいるだけのようであったが、二週間のうちに、岡田らは何度も話し合い、結構()い線まで、話をまとめていたのである。

(さすがは岡田さんだ)

 林は、嬉しさに膝を打つ思いだった。地価調査の方法が、三年前租税寮に提出した自分の意見とほぼ同じだったこと。そして、彼らの姿勢が施行細則も自分達で作ろうと唱えるほど、積極的だったからだ。

(よし、この案を進めよう。これ以上の案は恐らくないだろうから、地租改正事務局も承認せざるを得ないだろう。一揆になるよりは、ましだからな)

 林は、すばやく反応した。

「わかりました。私も、そうしなければとても収拾がつかないだろう、と思っていました。すべて岡田さんに、お任せします。なにぶん、よろしくお願いします」

「はっ?……、はい……」

 県令があまりにも簡単に、案を認めてくれたものだから、岡田も一瞬、言葉に詰まったのだった。

「さすがですね、県令さん。県民の気持ちが、よくわかっておられる」

 言葉を継いだのは、青山であった。

「いやぁ、実はもっと激しいことを言われるのではないかと、内心はひやひやしていたんですよ。失礼ながら、よくそこまで譲歩なさった……」

「譲歩した、というわけではないのですがね。最初からあまり無理を言ってもと思い……」

 青山は、静かな調子で言った。

 岡田と青山は、実は四、五日前までこの交換米に関する官命に対し、どう対処してよいか、迷っていた。

 拒否したいのは、やまやまである。村の人たちも、総代となって戦ってくれ、と懇願する。しかし、そのままその勢いで一揆にでもなってしまったら、それこそ大変である。

 そこで、岡田はまず、林県令には意見書を提出してあるから、と村民たちを冷静になるよう諭し、しかるのち各地区の代表者たちと懇談、ようやく方針をまとめたのであった。

 岡田良一郎は、当時の苦衷を自著の中で、次のように記している。

 ――居地ノ人民()ヲ推シテ総代人トシ、以テ官命ヲ拒絶セン事ヲ乞フ。余曰、一国ノ民余ヲ推シテ師タラシメバ、余或ハ応ズル事有ランモ、一孤村ノ為ニ身ヲ監獄ノ門ニ投ズルハ()レ為サザルナリト――

 岡田には、民権がまだ十分熟していないこの時期に、一地域で暴発しても、それは決して良い結果を生むはずがない、という確信があったにちがいない。

 根底に報徳思想と、志士的気概を合わせ持つ彼が、保身に走るような人物でないことは、無論いうまでもない。

 しかし、一時の感情や勢いだけで村人から担ぎ出され、立ち上がっても、その結果自分が獄に繋がれるだけで、戦いが続かず、将来国のためになっていなかったりしたら、それこそ犬死にであろう。

 岡田は、現状を分析した上で、先を読み、最終的な決断を下していたのであった。

 だが、二項目の要求がまとまったとしても、それを県民側から突き付けるということになると、これは官に抗議をするという形になり、それはまずい。

 岡田がそんなことを考えていた矢先、絶妙のタイミングで、県の方から要請が来たのである。渡りに舟、と感じた彼は、喜んでこれに応じたのであった。

「ところでですね。もう一つだけ、確認しておきたいことがあるのですが、よろしいですか」

一息つくと、林は岡田に向かって言った。

「はい」

「その施行細則の決め方ですがね、具体的な方法はお考えですか」

「そのことについてですが……」

 岡田は、あらかじめ準備していたらしく、ゆっくり話し始めた。

「少しまどろっこしいかな、とも思ったんですが、それを決めるための民会を開催する前にまず、どのような形でそれを進めるか、あらかじめ県民が集まって話し合っては、と思っているのです。もちろん、全員が集まるのは無理ですから、代表者の集まりになると思います。ですが、その代表者も現在の、官選による区長さんたちでは、やはり少々問題があると思いますので、さしあたり民会に出席する人間を、どういう方法で選ぶか、そのことから手をつけたい、と思っているのです……」

「おお――」

 林は思わず、感嘆の声を上げた。

 岡田の話す言葉に、今まで町や村という小さい単位でしか行なわれていなかった公選民会(町村民の投票によって選ばれた議員による民会)を、一気に県という大きな単位まで拡大しよう、という意思が感じられたからである。

 林は、話が自分の予想を遥かに上回っていることに驚き、改めて岡田という人物を尊敬の眼差しで見た。

 公選民会実現の問題は、昨年六月に全国の長官を集めて開催された地方官会議で、正式に議題として取り上げられていた。

 これは、一昨年夏から一部の開明的地域などで、独自の方法で公選議員を選出して町村会などを開く例が出現、地方によって官選、民選にばらつきが出始めたため、そのあり方自体、全国で大きな問題になっていたからである。

 会議に先立ち、林県令はこの件につき県下に意見を求めている。これに対し、県民側も直ちに八十以上に分けられていた各区の正・副議長を召集、衆議の結果、公選支持の意見を表明した。

 林の代理として会議に出席した石黒は、もちろんその意見を述べている。

 だが、討議の末、公選民会は三十九対二十一で否決、民会は町村会に至るまで、官選議員で行なうことが決められた。時期尚早というのが、その主な理由であった。

 今まで自発的に行なっていた町村会の公選まで否定されたのだから、開かれた政府を期待していた人々がどれだけ落胆したか想像できよう。

 しかし岡田らは、民権思想の普及や地方政治結社の勃興を背景に、以後も地道な行動を続け、新たな公選民会設置運動を展開、それがこういう形となって現われていたのだった。

「となると、民会に出席する人は公選で選ぶ、ということになりますが、そういうことで……」

 林は、念を押す意味で言った。

「はい、ぜひそうありたい、と」

「なるほど。県全体で入れ札、いや近頃の言葉では選挙でしたな。それをやろうというわけですか」

「無理でしょうか」

 岡田も、さすがに不安げに言った。

「いや、そんなことはありませんよ」

 林は、自信をもって答えた。

 林は選挙と聞き、実は飛び上がるほど嬉しかった。

(これこそ、徳島ではその方向性さえ見つけられなかった大事業ではないか)

林は、一度捨てかけたものが、今しっかり目前に近づいているという、たしかな手応(てごた)えを感じていた。

 彼は、冷静を装うつもりではあったが、期待と喜びで鼓動の高鳴りを抑えきれず、表情は、にわかに活気を帯びていった。

 岡田は、その表情を見て取り、一気に話を続けた。

「いやあ、県令さんがそこまで御理解なさっているとは、思いませんでしたよ。そうなると話は早い。実はですね、先程の坪刈り案が皆に承認されてからですから、少し先になると思いますが、とにかく早い時期に、その代表者の集まりを開きたいと思っているのです」

「はい」

「ところがですね、今お話のありました選挙となりますと、その具体的方法については、我々も経験が乏しく、どう進めて良いのかわからないのが現状でして……。そこで県令にお願いなのですが、その選挙方法を含めた民会開催までの条文案をですね、何とかそちらで作っていただくわけには、まいりませんでしょうか。やはり、餅は餅屋と申しますか、このような事は官にいらっしゃる方に、お頼みした方が仕事も早いかと思いまして……。もちろん、こちらからも何人か、お手伝いに参りたいと思いますが……。いかがでしょう」

「なるほど、よくわかりました。そういうことなら、お引き受け致しましょう」

「おお」

 林があまりにも、あっさり引き受けてくれたので、今度は岡田が、声を上げたのだった。

「ありがとうこざいます。どうかよろしくお願い致します」

 岡田と青山は、同時に頭を下げていた。

 この時、林の頭には、二カ月前に県職員として採用した、足立孫六という人物の顔が、くっきり浮かんでいた。

 足立孫六は、天保十四年(一八四三)小笠郡川野村丹野の三橋家に生まれたが、のち周智郡山梨村(現・袋井市下山梨)の名主足立家に人り、後継となった。三十歳(明治六年)で小区長に任じられた彼は、その職務遂行中の八年、その頃始まっていた地租改正調査に際し、租税の軽減を主張、県の係官と対立した。

 この時足立は、高い租税に苦しむ農民らと組んで、協同会を結成する一方、小作米基準の地価算定論を提唱するなど、相当本格的に闘争を展開している。

 折から、地方官会議で「公選民会案」が否決。彼はこの結果を聞き、すぐさま『郵便報知新聞』に「民会論」と題する主張を投書し、この決定を批判、租税軽減運動に公選民会開設運動をも加え、さらに激しく闘争を続けた。しかし、これらの戦いは、結局足立が区長を罷免されることで、すべて立ち消えとなってしまった。

 この状況を憂慮して眺めていたのが、林県令であった。

 林は間髪を入れず、罷免されて引き籠っていた足立に「ぜひ、君の力を県政に生かしてほしい」と声をかけ、県庁の職員に採用した。翌九年二月のことであった。

(あいつなら、この仕事に打ってつけだ。きっと、うまくやってくれるだろう。おもしろくなってきたぞ……)

 林は、心の高まりを覚えた。

「選挙か……」

 林は声を出して叫びながら、ふと井上高格のことを、頭に浮かべた。

 徳島での井上を中心とした自由民権運動は、一時大きく発展した。しかし、その運動は士族中心であったことが最終的には裏目に出て、結局全県民に広がらず、次第に頭打ちの状態になっていた。

 そして、昨年八月に配布した『通諭書(つうゆしょ)』(天皇と人民が主権を共有するという君民共治を主張した急進的な文書)によって、井上らは政府の忌諱(きい)に触れ、朝憲紊乱(びんらん)の罪(つまり不敬罪)で一年乃至(ないし)二年の禁獄に処せられたのであった。

(浜松は、違うぞ!)

 林は二人が辞したあと、あたかも夢でも追い掛けているかのように、いつまでも宙を見上げていた。

 

 林県令の内諾を得た岡田と青山は、まず各区(八十二区)の代表的人物に召集をかけた。

 そして四月四日から、浜松玄忠寺、中泉満徳寺など数力所で集会を開き、先の案を説明、彼らの承諾をとり付けた。

 代表者たちは、その案を持って自分たちの地域に帰り、さっそく説得を開始。各村々も徐々に理解を示し「その条件なら」と、請書も次々に提出が進んだ。

 しかし、頑強に不服を中し立てる村も出現。そのため説得作業は、当初の予想を遥かに越え、一カ月経ってもなお、県民すべての同意を得るまでには至らなかった。

 林は、やむなく権参事石黒務を上京させ、中央政府の指示を仰ぐという形を取った。解答は、予想通り「改租不服村に対しては、太政官布告第一五二号を適用する」とのことであつた。

 この効果は絶大で、その旨を諸村に伝えると、頑強に抵抗していた村々も、ほとんどが請書を提出していった。

 請書の提出が、すべて終了したのは、最初の集会がもたれてから四十七日経過した五月二十一日である。

 翌日浜松県は、さっそく県令の名で「地価算定調査の終了報告」と「坪刈り実施の届書」をセットにして、地租改正事務局に提出した。

《無理な官命を受諾するのだから、官側も我々の要求を認めるべきだ》

 と、正式に表明したのである。

 これで、事務局から坪刈りの認可が下りれば、岡田案の一つは通ったことになる。

 あとは、その結果がでるまでに、民会を開設して、坪刈りの細則を決めれば、すべては終了である。

 林は、六月に入ると、約束に基づき「近々、民会を開設する」旨、県下に布達した。そして、その下準備のため、県庁に民会係を置くことを発表、担当者として足立孫六と黒部定能(元徳島藩士)を任命した。

 民会に先立つ、民会の進め方を話し合う集会が、岡田らによって開催されたのは、最初の集会から数えて九十日目の、翌七月三日と四日である。場所は浜松、田町の玄忠寺であった。

 集会には、浜松県下の各小区の正副区長百六十名と、県庁民会係から足立、黒部の両名が参加した。そして議事は、青山宙平、気賀半十郎、丸尾文六の三人が幹事となって進められ、大きな混乱もないまま、次の二項目が採択された。

一、各小区で、民会議員選挙を実施する。

二、八月十日に、坪刈りの細則を決定するため「県民会」を開催する。

 

 この時、選挙の具体的方法として、県民自らの手で作成されたのが、有名な『浜松県民会設立方法』である。

 この案文作成者は、先程から何度か登場している足立孫六である。

 林は、岡田らが村へ帰って、県民の説得を開始した頃、すぐさま足立を呼び、会談の模様を説明、選挙方法の条文案を作成するよう指示した。

 自分が指名されたことに感激した足立は、もちろんその日から、昼夜を分かたず、寝食を忘れたかのように、全力でその仕事に邁進(まいしん)した。

 やがて、民会係も発足して、黒部らも参加、権参事石黒も加わり、条文案作りは進んだ。

 そんななか、足立を最後まで悩ませたのは、

《投票者の範囲》

 という問題であった。

 足立は、当時としては相当に進歩的な人間であった。しかし、その彼でさえ、それまで社会を支配し続けていた儒教的道徳観の束縛(たとえば男女の格差、財産、身分など)は、如何(いかん)ともしがたかったらしく、投票者の枠となると、一体どこまで広げてよいのか、どうしても結論が出せないでいたのであった。

 その頃の逸話がある。

 ある日、林が進行状況を尋ねるため、民会係に立ち寄った。決定を下しかねていた足立は、林の顔を見ると、この機会に県令の意見を聞いてみるのも一興、と考えたのか、

「県令、選挙出来るのは、やはり男だけということになりますかね」

 と、なにげなく質問した。

 西欧の民主主義思想から生まれた、現在の選挙制度は、この頃すでに日本にも紹介されていたが、明治九年の段階で、女性に選挙権を与えていた国は、世界でもほとんどなく、もちろん国内では皆無であった。しかし、林はその時、

「そうですか。足立さんでも、やはりそのことが気にかかりますか」

 と、さも予期していたかのように言った。そして、さらにこう続けたのであった。

「実はね、私は県下の農村を色々回っているうちに、村の人達は村全体で何かやる時には、必ず一軒の家から代表者を出して、合意するまで話し合い、全員で決めていることに気付いたんです。じゃあ、男のいない家はどうしてるんだっていうと、ちゃんと女の人が出てるんですね。そうじゃないですか、足立さんがいらっしゃったところも」

「はっ、はい」

 足立は、急に思いがけないことを言われ、あわてて答えた。

 日本における近世の村は、享保期(一七一六〜三五)くらいから、たとえば名主等の村役人を選ぶ際「入れ札」を行なって、皆で選ぶというような方法が取られ始めていた。

 家を村の重要な構成単位として考えたこの時代は、そのような時、必ずどの家からも代表者を出すことにしており、従って夫に先立たれた家は、その代りに妻が出席した。

 江戸時代の文書に、よく村の総意であるといって、村民が連署しているものがあるが、この中に「○○の後家△△」というふうに署名されているのが、これである。

 足立は、しばらく林のことばを反芻していたが、おもむろに言った。

「なるほど、これは良いことをおうかがいしました。私も、戸主ということは、今回意識してやっていましたが、そこまでは考えていませんでしたから……」

 すると、林は畳み掛けるように、言葉を継いだ。

「戸主ねえ……。やはり戸主にこだわらなくてはなりませんか」

「えっ、戸主もですか」

 足立は、とても信じられない、というように()頓狂(とんきょう)な声をあげた。

 日本が長い間、家を中心とした社会生活を営んでいたのは、これも繰り返すようだが、やはり儒教道徳の影響である。

 家の中心人物は、もちろん何といっても戸主で、すべての決定権は、この戸主が持っていた。これは、根の張った生活形態だっただけに、いくら「御一新」になったからといって、そう急には変わるものではなかった。

 進歩的な足立でさえ、その程度なのだから、推して知るべしである。

 それを林は、一気に個人という単位にまで、拡大してしまおうというのだから、むしろ驚かないほうが不思議であっただろう。

「しかし、そこまで性急に、持つて行って良いものでしょうか」

 足立は、半信半疑のまま言った。

「そうですか。私は、そういうものも一切取り払うのが、本当の民権だと思うのですがね。でも、無理をしすぎると、ろくなことになりませんから……。しかし、少なくとも今回は、物事の判断が出来るくらいの年齢に達した者なら、身分とか財産とか、そういうもので()(へだ)てのないよう、何とかやりたいものですね」

「はぁ……」

 足立は、あまりにも進んだ林の意見に毒気を抜かれ、茫然とするばかりであった。

 ともあれ、足立はこの時の話が刺激となり、より一層進んだ考えを加え、六月末日には具体案の作成を完了したのだった。

 民会の議員選挙法ともいうべき、この『浜松県民会設立方法案』は、七月三日の集会で公表された。そして二日間にわたって、慎重な討議が行なわれ、微調整がなされたのち、正式に決定された。

 三章二十六条からなる『浜松県民会設立方法』の最大の特徴は、やはり何といっても選挙権に尽きる。

 第二章の第二条には、こう述べられている。

 

 各村ニテ毎年一度代議人ヲ選挙スルニ満十五年以下及ヒ精神失常ナル者或ハ附籍人奴僕等ヲ除キ戸主ヲ以選挙人トス

 

 つまり、若干の欠格条件を除けば、十六歳以上の戸主すべてに、選挙権が与えられたということである。

 もちろん、戸主なら女性でも良いわけで、その上財産による制限も一切ないというのだから、これは戸主という制限だけ除外すれば、現代のものとほとんど変わらなかった。

 いや、最低年齢に限っていえば、十六歳というその年齢の低さは、むしろ驚嘆に値する。

 たしかに、戸主に限定している点だけは残念である。しかし、被選挙権になると、この戸主という規定さえ消え、三十一歳以上の者は誰でも立候補出来た。林の精神は、十分活かされたといえよう。

 なお、選挙権以外の主な特徴だが、投票が記名であったこと、そして選挙が複選制であったこと、などがあげられる。

 複選制というのは、まず一小区で住民の投票によって、二十名の小区会議員を選出する。そして、その議員の互選(投票による)によって各小区で議長と副議長を選び、その二人の代表者が集まって大区会を構成する一方で、議長は同時に県会議員も兼ねる、というしくみである。

 つまり、県会議員は、住民の直接投票ではなく、二段構えになっていたのであった。

 七月三十日、選挙は実施されることになった。

 決議された『浜松県民会設立方法』は、数日の内に各戸へ配布され、各地区で説明会が行なわれた。選挙を管理する委員も選出され、その委員会を中心に選挙日時、場所、立候補者を書いた文書、及び投票用紙が再び各戸に配られ、準備は整った。

 こうして、選挙当日の朝を迎え、ゴングならぬ、お寺の鐘を合図に、一斉に投票が開始されたのであった。

 当時、日本には三府四十九県の広域行政区域があったが、このように整然とした制度のもとで選挙が実施されたのは、もちろん初めてのことであった。

 

    

 

 投票率は、百パーセントに近い高率だった。

 開票は即日行なわれ、一小区ごとに二十名の議員が選出され、数日後には互選により、早くも県会議員が決定された。

 県会議員たちが、初めて集会を持ったのは、予定通り八月十日である。岡田と青山が村民と最初に集会を持ってから、実に百二十八日めのことであった。

 この日、玄忠寺に集まった七十九名は、席順を決めたのち選挙を行ない、六十六票の多数で岡田良一郎を議長に、また三十二票で青山宙平を副議長、丸尾文六ら四名を幹事に、それぞれ選出した。

 そして翌十一日には、さっそく議長、幹事が集合して議事規則を審議、案を決定した。これが『浜松県公選民会規則』と呼ばれるもので、全文は四款三十五条より成っていた。

 十二日の集会では、民会の開催日と議場が決められている。

 歴史的とも呼べる人民の議会、第一回浜松県公選民会は、八月十四日普済寺において、林県令、石黒権参事ら臨席のもとに、開催された。

 初の議会開催ということもあり、開会式も盛大に行なわれ、傍聴人も百九十名に及んだ。

 当日は朝から晴天で残暑は厳しかったが、普済寺は、本堂も広く鬱蒼(うっそう)たる大樹に取り囲まれていたため、比較的(しの)ぎやすかった。

 午後一時二十分から行なわれた開会式は、岡田議長の祝辞に始まり、それが終わると次々に議員が立ち上がって、祝いの言葉を述べ、その数十六名の多きに達した。

 かくして式典は終わり、いよいよ翌日から審議が開始されることになった。

 なお、この日林は、臨席はしたものの、ただ満足そうにその光景を眺めているだけで、訓辞も祝辞も述べなかった。

 帰り道、岡田にそのことについて、

「なぜ、一言おっしゃってくださらなかったのですか」

 と問われ、林はこう答えている。

「いやいや、これで良いのです。私は、あくまでも少しだけ、お手伝いさせていただいただけなのですから。それにしても、開催日初日からあんなに大勢の方が、祝辞をお述べになるとはね、いささか驚きました。これも皆さんが常日頃から、心を一つにしていらっしゃるからでしょうが、いかにも人民の議会にふさわしいものと、感動いたしました。日本国内には、まだまだ公選民会は時期尚早という人が、多いようです。しかし、これだけの過程を踏んできた浜松県民会に限って申せば、そういうことを言う人は、恐らく誰一人いないでしょう。これで、明日からの審議もますます楽しみになってきました。とても私など、出る幕ではありませんでしたよ……」

 第一回浜松県公選民会は、結局翌日、翌々日と続き、都合三日間に及んだ。

 この間討議されたことは、大きく分けて二つある。『浜松県公選民会規則』についての質疑応答と承認。そして議長から提出された議案についての審議であった。

 ちなみに、承認された『浜松県公選民会規則』の第一条だが、公選民会の本旨として、次のようなことが謳われている。

 ――人民が選んだ議員によって民会を起こし、道路・堤防・橋梁・灌漑の便利をはかり、教育をさかんにし、工芸を起こすなど、広く諸般の得失を審議検討して民害を除き、もっぱら国家の公益をはかるをもって用務とす――

 また、審議された議案は、今回は急を要するもの、ということで次の三点のみであった。

一、民会の柱礎を確定する事。

二、議長、議員の旅費、日当の件。

三、民費課賦方法の事(つまり費用を県民がどういうふうに負担するかということ)。

この中で三番のみ、各小区会に持ち帰り、次の民会までに意見をまとめる、ということになった他は、可決された。

 民費課賦については、直接の負担者たる県民の声を聞かなければ決定し得ない、という意見が、多数を占めたからであった。

 第一の議案は大げさな題目であるが、要するに民会の基礎を強固にするためには、議員の知識を深める必要がある。だから書籍等を購入して議場に備えつけ、各員は余暇にこれらを研究しようではないか、という意味である。

 具体的書籍としては、日本政府の布告、布達、法律書類を先頭に、明・清・英・仏・米・和蘭(オランダ)の法律、万国公法及び経済学翻訳書類があげられている。

 民会は、三日目の十六日午前十時半、議長から提出された、開催期日の十五日間延会議案を討議し、七十三名の賛成を得て、九月一日まで休会する決議を採択、議事を終了した。

 続いて、副議長の青山宙平から、

「次回からは本格的な審議に入るので、各小区に議案を持ち帰り、十分討議の上、出席されるよう」

 との指示があった。

 その議案の中に、注目の「見様(みためし)方法案」(坪刈りの具体的方法)が含まれていたことはいうまでもないが、他は殖産興業、学校教育など県民に直接関係する諸問題であった。

 議事進行がすべて終わり、最後に岡田議長が、

「第一回浜松県公選民会は、これにて終了」

 と宣すると、拍子木が打ち鳴らされた。

 どこからともなく起こった拍手が、やがて大きな渦となり、議場を包み込んだ。

 議員たちは、しばらく興奮が収まらないらしく、ある者は互いの健闘をたたえ合い、またある者は尽きることのない話題に花を咲かせ、いつまでもその場を去ろうとはしなかった。

 議長としての重責を果たした岡田は、やおら手拭いを取り出し、額の汗をふきながら、壇上を降り、ほっと一息ついた。

 ほどなく、微笑をたたえた林が、岡田に歩み寄った。

「ごくろうさまでした。大成功ですよ。こうして民会を重ね、軌道に乗ってくれば、国会開設もそう遠くないかもしれませんね」

「はい。ただし、他の県が皆浜松方式をまねて、どんどん人民の議会を、開設させていかれればの話です」

 岡田は、あくまでも慎重であった。

「なるほど、そうかもしれません。しかし、近頃の国民の国会開設運動を見ると、それもあながち遠くないように思えますが……」

「さて、どうでしょう」

「と、言われますと」

「私は、この浜松で人民の議会が開けたのは、県令、つまり林県令だったからこそ出来たのであって、他の人では無理だったのではないか、と思っているのです。実際、県令のような理解ある方は、そう多くはいません。その点、浜松は林さんをお迎え出来、本当に良かったと思います。県令がいらっしゃらなかったら、我々の力だけでは、とてもここまでやれなかったでしょう」

「そんな……」

「いや、そうなのです。御存知のように、私は報徳会の方の仕事もやっております。その関係で、他県の人たちともよく会うのですが、その人たちの多くはいまでも、いくら県民会を開こうと言っても県令が全然乗り気にならないので、と不満を述べています。だから、浜松でやれたからといって、それがすぐに他の県に波及するか、と問われれば、首をかしげざるを得ないのです」

「…………」

「しかし、県令。私達の運動は、ねばり強くやるしかないのです。なぜなら、代表者を選挙で選び、人民の議会を発展させることは、この先日本に絶対必要だからです。私には、現在行なわれている専制政治は、片寄りを増大しているだけで、国を健全な方向へ進めているようには、どうしても思えません。国家というのは、政府と人民が共に力を出し合って、協力してこそ初めて、真の繁栄が築けるのではないでしょうか。公平な選挙と議会の開催は、そういう欠点を補える最良の方法です。この運動が軌道に乗れば、人民の自主性や積極性も、将来きっと発揮できるようになるでしょう。私は、これからも、天賦人権を説き、民権の伸長を唱え、国会の早期開設を主張して行きたい、と思っています」

 岡田は、いつの間にか一人で、とうとうとしゃべり続けていた。

「よく、わかりました。これからは、浜松で実現できた選挙と議会を、少しでも広げて行くことが肝要だ、ということですね」

「はい、おっしゃる通りです」

「いやあ、あなたには感服いたしました。これこそ、大志と呼ぶにふさわしいものですね」

「いや、とてもそのような大そうなものでは……。私は、ただ二宮尊徳先生の教えを守って、実践しているだけに過ぎないのでありまして……」

「なるほど、そうでしたね」

「県令、今回のこと、本当にありがとうございました。これからも私に出来ることがありましたら、何でもご用命下さい。これを機に、私達も尊徳先生の遺訓をもう一度思い起こし、心新たにいたしたいと思います」

「いやぁ、それにしても、このたびは私も思わぬところで、勉強させていただきました。岡田さん、私も出来るだけの協力は、させていただくつもりです。今後とも、よろしくお願いしますよ」

 林の心は、充実感で満たされていた。

 選挙と議会に対する自分の見解と、民間人の代表格である岡田のものが、ほぼ同一線上にあると、はっきり確かめられたからであった。

「とんでもありません。こちらの方こそ、よろしくお願い致します」

 岡田は、差出された林の手を握り返したが、恐縮して、ほとんど頭を下げっぱなしであった。

 県民会を終え、地元に帰った議員たちは、さっそく翌日から、提案された議案を持って、県民の意見をまとめるため、行動を開始した。

 農閑期であったことも手伝い、各地の集会場はどこでも多数の参加者が集まり、議論も白熱した。

 

 ところが、それから数日後――。

 誰もが予想だにしなかった、驚くべき事態が起こった。政府が、

 ――八月二十一日をもって、浜松県を廃県にする――

 と、一方的に発表したのである。

 同時に、林は県令を罷免され、浜松県は静岡県へ統合する旨の内容が、発表された。

 大規模な府県統合を進めていた内務卿大久保利通が、浜松県民、及び民会の動きに不安を抱き、いち早く手を打ってきたのであった。

「しまった! その手があったか。くそっ! 大久保め……」

 さすがの林も、政府がここまで早く対応を見せるとは、思ってもいなかったのであろう。知らせを聞いた時、痛恨とも思える一言を発したのみであった。

 それは、一つの夢が敗れた瞬間でもあった。

 浜松廃県の衝撃は、(またた)く間に広がり、県民は、パニックに陥った。

 頼みの綱である林が地位を失ってしまったのだから、当然であろう。

 

 その翌朝のことである。

 報を聞いて驚いた岡田と青山の両人が、早速県庁舎を訪ねて来た。

「いやはや、大変なことになってしまいました……」

 岡田は、動揺を隠しきれない様子で、林の顔を見るなり、言った。

「まったくです。こんな結果になるとは、思いも寄りませんでした」

 暑がりの林は、相変わらず扇子をあおぎながら、応対した。

「すべてが(しょ)()いたばかりでしたので、このまま県令が浜松をお去りになると、元の木阿弥ということにも、なりかねませんしね……」

 青山が、いかにも惜しいと言わんばかりの表情で、話を継いだ。

 ところが、次の瞬間、林から発せられた言葉は、まったく予期しないものであった。

 林は、何とこう言ったのである。

「そんなことはないでしょうが、実は、そのことについてですね、今までの経過を説明しておこうと思って、先ほど石黒を大迫(おおさこ)さん(静岡県令)のところに、行かせたばかりだったのですよ」

「はっ?」

 事情を咄嗟に飲み込めないでいる岡田に、林は重ねて言葉を続けた。

「せっかく浜松県の皆さんが努力され、作り上げられたものを継続しないのでは、この間何をしていたんだ、ということにもなりかねませんからね。見様方法案についても、民会についても、もちろん選挙制度についてもです。みな早めに説明して、理解を求めておこうと思いまして」

「えっ! もう、そのように」

 岡田は、目を丸くして言った。

「こういうことは、早いに越したことはないですからね。石黒はあとで、私の方から、そのまま静岡県に出仕できるよう頼んでおこうと思っていますし……。事情の良くわかっている者がいるといないでは、あとあと随分違いますからね」

 林は、たんたんと言った。

「あの……」

 岡田は、何か言いたげだった。が、林は構わず、続けた。

「そこでですね、今後のことなんですが」

「はい」

 岡田も、勢いに押され、うなずいた。

「石黒が帰ってきましたらですね、彼とよく相談の上、岡田さんと青山さんが旧浜松県民の代表となって、静岡県の首脳と会っていただきたいんですよ。これだけの実績を、積んできたんです。きっと、わかってくれますよ。もっとも、そうでなきゃ、浜松県民も黙っていませんでしょうがね」

「…………」

「どうしたんです」

 林は、うつむいている岡田に気付き、問い掛けた。

「いや、何でもありません……。県令がそこまで我々のことを思って、動いていて下さっていたと思うと、つい……」

 岡田は、そこまで言うと、またうつむいてしまった。彼は胸が熱くなり、涙が出そうになるのを、必死にこらえていたのだった。

「ありがとうございます。こんな立派な県令をお迎え出来、浜松県民は本当に幸せでした」

 青山が言葉を継ぎ、深々とおじぎをした。

「いや、そんなこと……。おかげで私の方こそ、良い夢を見せていただきました。岡田さんと青山さんには、こちらから御礼を申し上げたいくらいです。たしかに、夢は今回の事で、一度はじけたかも知れません。しかし私がいなくなっても、岡田さんの言われた通り、これからもねばり強く運動を続けて行けば、いつかは……」

 林は、二人に近づくと、手をしっかり握りしめた。そして、三人はしばらく、互いの目を見つめ合っていた。そこには、熱い信頼の炎が燃え、もはや言葉も必要ではなかった。

 数日後、岡田は青山と共に、新旧両県の首脳に会い上表を提出、従来の経過と民会存統の必要性を必死に説いた。そして、静岡県令大追貞清から、選挙制度以外のことは、すべて林県令の方針をそのまま踏襲する旨、その場で承諾を得た。

 見様方法案と民会の継続は、こうして静岡県に正式に認められ、パニックに陥っていた県民も一安堵、危機はひとまず回避されたのであった。

 

 保留の形となった選挙制度のその後だが、その結果が明らかになるまでには、なお二ヵ月の期間を要した。

 そして、それは思わぬ形で、終結した。

 十二月に入り、静岡県令が、旧浜松県も含めた、新たな静岡県民会の設置に先立ち、何と、

 ――選挙権と被選挙権は、静岡県の規定に従う――

 と、一方的に発表したからである。

 その頃、一段落してすでに落ちつきを取り戻していた旧浜松県民に、新たな闘いを始める気力は、もはや失われていた。

 こうして、全国から「遠州民権価千金(あたいせんきん)」と呼ばれ、女性まで投票権を持つていた、あの夢のような民主的選挙制度は、跡形もなく消え去ったのであった。

 静岡県方式によると、選挙権・被選挙権の欠格者は、以下の通りであつた。

 

 (1)十八歳以下の者、(2)七十歳以上の者、(3)婦人、(4)不動産を所有しない者、(5)懲役以上の刑を受けた者、(6)官より俸給を受ける者、(7)俳優・角力・歌舞雑曲営業者、等

 

 選挙法はその後、政府の主導で行なわれるようになった。

 明治十一年に制定された、府県会規則によると、選挙権は「二十歳以上、地租五円以上納入の者(被選挙権は二十五歳以上、地租十円以上納入の者)」と、ますます改悪されている。

 そして、普通選挙権は、男子の場合で大正十四年、婦人参政権にいたっては、わずかの例外(明治十三年から高知県の二つの町村で実施された)を除いて、実に戦後(昭和二十年)になるまで、二度と復活しなかったのであった。

 

 浜松県令を罷免された林厚徳のその後だが、彼はその年の十一月に正五位を叙せられたのち翌十二月上京した。

 以後、活版所を設けて『八大家類選』(注、八大家……中国の唐・宋時代の八人の著名な古文家)を上梓するなどの活動を続け、明治十六年に東京府京橋区長に任じられてからは、二十三年舌癌にて死去するまで、七年間その職務に専念した。

 林の葬儀は三月五日、谷中の天王寺で行なわれたが、翌々日の『東京日日新聞』はその模様を、次のように結んでいる。

 ――……(ひつぎ)天王寺に達すれば天王寺は人の山築き殆ど通行しがたき程なりき、以て氏が生前の人となりを知るの足るべきなり――

 この日、高崎東京府知事、蜂須賀茂韶元徳島藩主らを始めとする、多数の参列者の中に、当時在京していた青山宙平、静岡からわざわざ上京してきた岡田良一郎や足立孫六、さらには前年(明治二十二年)福井県知事を最後に官を辞し、彦根に帰っていた石黒務らの顔が見られたという。

 首長と市民の手によって、作り上げられた選挙と議会が、夢を持って語られていた頃の物語である。

 

  参考文献

    『静岡県の民権』静岡県民権百年実行委員会編(三一書房)

    『静岡県の歴史—近代・現代編』原口清(静岡新聞社)

    『明治前期地方政治史研究 上』原口清(塙書房)

    『はままつ百話』大塚克美、神谷昌志(静岡新聞社)

    『地租改正の研究』福島正夫(有斐閣)

    「浜松県公撰民会覚書」増田潔(浜松市立図書館)

    「濱松縣民會設立方法」「濱松縣公撰民會規則」「濱松縣公撰民會日誌」

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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ととり 礼治

トトリ レイジ
ととり れいじ 小説家 1949年 鳥取県生まれ。

掲載作は『時代小説大全』(新人物往来社 1999年春号)初出、第23回歴史文学賞佳作作品。

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