はじめて煙草を吸ったのは十五六歳ごろの中学時代であった。自分よりは一つ年上の甥のＲが煙草を吸って白い煙を威勢よく両方の鼻のあなから出すのが珍しくうらやましくなったものらしい。そのころ同年輩の中学生で喫煙するのはちっとも珍しくなかったし、それに父は非常な愛煙家であったから両親の許可を得るにはなんの困難もなかった。皮製で財布のような格好をした煙草入れに真鍮の鉈豆煙管を買ってもらって得意になっていた。それからまた胴乱と言って桐の木をくり抜いて印籠形にした煙草入れを竹の煙管筒にぶら下げたのを腰にさすことが学生間にはやっていて、けんか好きの海南健児の中にはそれを一つの攻防の武器と心得ていたのもあったらしい。とにかくその胴乱も買ってもらってうれしがっていたようである。
はじめのうちは煙を咽喉へ入れるとたちまちむせかえり、咽喉も鼻の奥も痛んで困った、それよりも閉口したのは船に酔ったように胸が悪くなって吐きそうになった。便所へはいってしゃがんでいると直ると言われてそれを実行したことはたしかであるが、それがどれだけきいたかは覚えていない。それから、飯を食うと米の飯が妙に苦くて脂をなめるようであった。全く何一つとしていいことはなかったのに、どうしてそれを我慢してあらゆる困難を克服したかわかりかねる。しかしとにかくそれに打ち勝って平気で鼻のあなから煙を出すようにならないと一人前になれないような気がしたことはたしかである。
煙草はたしか「極上国分」と赤字を粗末な木版で刷った紙袋入りの刻み煙草であったが、もちろん国分で刻んだのではなくて近所の煙草屋できざんだものである。天井から竹ざおで突っ張った鉋のようなものでごしりごしりと刻んでいるのが往来から見えていた。考えてみると実に原始的なもので、おそらく煙草の伝来以来そのままの器械であったろうと思われる。
農夫などにはまだ火打ち袋で火を切り出しているのがあった。それがうらやましくなってまねをしたことがあったが、なかなか呼吸がむつかしくて結局は両手の指を痛くするだけで充分に目的を達することができなかった。神棚の燈明をつけるために使う火打ち金には大きな木の板切れが取っ手についているし、ほくちも多量にあるから点火しやすいが、喫煙用のは小さい鉄片の頭を指先でつまんで打ちつけ、その火花を石に添えたわずかな火口に点じようとするのだからむつかしいのである。
火の消えない吸いがらを手のひらに入れてころがしながら、それで次の一服を吸いつけるという芸当もまねをした。このほうはそんなにむつかしくはなかったが時々はずいぶん痛い思いをしたようである。やはりそれができないと一人前の男になれないような気がしたものらしい。ばかげた話であるが、しかしこのばかげた気持ちがいつまでも抜け切らなかったおかげでこの年までむつかしい学問の修業をつづけて来たのかもしれない。
羅宇のまん中を三本の指先で水平にささえて煙管を鉛直軸のまわりに回転させるという芸当もできないと幅がきかなかった。これもばかげているが、後年器械などいじるための指の訓練にはいくらかなったかもしれない。人さし指に雁首を引っ掛けてぶら下げておいてから指で空中に円を描きながら煙管をプロペラのごとく回転するという曲芸は遠心力の物理を教わらない前に実験だけは卒業していた。
いつも同じ羅宇屋が巡回して来た。煙草は専売でなかった代わりになんの商売にもあまり競争者のない時代であったのである。その羅宇屋が一風変わった男で、小柄ではあったが立派な上品な顔をしていて言葉使いも野卑でなく、そうしてなかなかの街頭哲学者で、いろいろおもしろいリマークをドロップする男であった。いつもバンドのとれたよごれたねずみ色のフェルト帽を目深にかぶっていて、だれも彼の頭の頂上に髪があるかないかを確かめたものはないという話であった。そのころの羅宇屋は今のようにピーピー汽笛を鳴らして引いて来るのではなくて、天秤棒で振り分けに商売道具をかついで来るのであったが、どんな道具があったかはっきりした記憶がない。しかしいずれも先祖代々百年も使い慣らしたようなものばかりであった。道具も長く使い慣らして手ずれのしたものにはなんだか人間の魂がはいっているような気がするものであるが、この羅宇屋の道具にも実際一つ一つに「個性」があったようである。なんでも赤さびた鉄火鉢に炭火を入れてあって、それで煙管のやにを掃除する針金を焼いたり、また新しい羅宇竹をさし込む前にその端をこの火鉢の熱灰の中にしばらく埋めて柔らげたりするのであった。柔らげた竹の端を樫の木の板に明けた丸いあなへさし込んでぐいぐいとねじる、そうしてだんだんに少しずつ小さいあなへ順々にさし込んで責めて行くと竹の端が少しくびれて細くなる。それを雁首にさし込んでおいて他方の端を拍子木の片っ方みたような棒でたたき込む。次には同じようにして吸い口のほうをはめ込みたたき込むのであるが、これを太鼓のばちのように振り回す手つきがなかなかおもしろい見ものであった。またそのきゅんきゅんとたたく音が川向かいの塀に反響したような気がするくらい鮮明な印象が残っている。そうして河畔に茂った「せんだん」の花がほろほろこぼれているような夏の日盛りの場面がその背景となっているのである。
父はいろいろの骨董道楽をしただけに煙草道具にもなかなか凝ったものをそろえていた。その中に鉄煙管の吸い口に純金の口金の付いたのがあって、その金の部分だけが螺旋で取りはずしのできるようになっていた。羅宇屋に盗まれる恐れがあるのではずして渡す趣向になっていたものらしい。子供心になんだかそれが少しぎごちなく思われた。そのせいでもないが自分は今日まで煙管に限らず時計でもボタンでも金や白金の品物をもつ気がしなかった。
巻き煙草を吸いだしたのもやはり中学時代のずっと後のほうであったらしい、宅には東京平河町の土田という家で製した紙巻きがいつもたくさんに仕入れてあった。平河町は自分の生まれた町だからそれが記憶に残っているのである。ピンヘッドとかサンライズとか、その後にはまたサンライトというような香料入りの両切り紙巻きが流行しだして今のバットやチェリーの先駆者となった。そのうちのどれだったか東京の名妓の写真が一枚ずつ紙箱に入れてあって、ぽん太とかおつまとかいう名前が田舎の中学生の間にも広く宣伝された。煙草の味もやはり甘ったるい、しつっこい、安香水のような香のするものであったような気がする。
今の朝日・敷島の先祖と思われる天狗煙草の栄えたのは日清戦争以後ではなかったかと思う。赤天狗・青天狗・銀天狗・金天狗という順序で煙草の品位が上がって行ったが、その包装紙の意匠も名にふさわしい俗悪なものであった。轡の紋章に天狗の絵もあったように思う。その俗衆趣味は、ややもすればウェルテリズムの阿片に酔う危険のあったそのころのわれわれ青年の目を現実の俗世間に向けさせる効果があったかもしれない。十八歳の夏休みに東京へ遊びに来て尾張町のI家にやっかいになっていたころ、銀座通りを馬車で通る赤服の岩谷天狗松平氏を見かけた記憶がある。銀座二丁目へんの東側に店があって、赤塗り壁の軒の上に大きな天狗の面がその傍若無人の鼻を往来の上に突き出していたように思う。松平氏は第二夫人以下第何十夫人までを包括する日本一の大家族の主人だというゴシップも聞いたが事実は知らない。とにかく今日のいわゆるファイティング・スピリットの旺盛な勇士であって、今日なら一部の人士の尊敬の的になったであろうに、惜しいことに少し時代が早すぎたために、若きウェルテルやルディンたちにはひどく毛ぎらいされたようであった。
せんだって開かれた「煙草に関する展覧会」でこの天狗煙草の標本に再会してほんとうに涙の出るほどなつかしかったが、これはおそらく自分だけには限らないであろう。天狗がなつかしいのでなくて、そのころのわが環境がなつかしいのである。
官製煙草ができるようになったときの記憶は全く空白である。しかし西洋で二年半暮らして帰りに、シヤトルで日本郵船丹波丸に乗って久しぶりに吸った敷島が恐ろしく紙臭くて、どうしてもこれが煙草とは思われなかった、その時の不思議な気持ちだけは忘れることができない。しかしそれも一日たったらすぐ慣れてしまって日本人の吸う敷島の味を完全に取りもどすことができた。
ドイツ滞在中はブリキ箱にはいった「マノリ」というのを日常吸っていた。ある時下宿の老嬢フロイライン・シュメルツァーたちと話していたら、何かの笑談を言って「エス・イスト・ヤー・マノーリ」というから、それはなんの事だと聞いてみると、「ばかげた事だ」という意味の流行語だという。どういうわけで「マノリ」が「ばかなこと」になるかと聞いてみたが要領を得なかった。その後この疑問をはるばる日本へ持って帰ってしまい込んで忘れていた。専売局のかたがたにでも聞いてみたらわかるかもしれないが、事によると、これは自分がちょっとかつがれたのかもしれない。
ドイツは葉巻きが安くて煙草好きには楽土であった。二三十ペンスで相当なものが吸われた。馬車屋や労働者の吸うもっと安い葉巻きで、吸い口のはうに藁切れが飛び出したようなのがあったがそのほうはためした事がない。
ベルリンの美術館などの入り口のわきの壁面に数寸角の金属板がろうそく立てかなんかのように飛び出しているのを何かと思ったら、入場者が吸いさしのシガーを乗っけておく棚であった。点火したのをそこへ載せておくとしばらくすると自然に消えて主人が観覧を終えて再び出現するのを待つ、いわばシガーの供待ち部屋である。これが日本の美術館だったらどうであろう。はいるときに置いた吸いさしが、出るときにその持ち主の手に返る確率が少なくも一九一〇年ごろのベルリンよりは少ないであろう。しかし大戦後のベルリンでこのシガーの供待ち所がどういう運命に見舞われたかはまだだれからも聞く機会がない。
ベルリンでも電車の内は禁煙であったが車掌台は喫煙者のために解放されていた。山高帽を少しあみだにかぶった中年の肥った男などが大きな葉巻きをくわえて車掌台にもたれている姿は、そのころのベルリン風俗画の一景であった。どこかのんびりしたものであったが、日本の電車ではこれが許されない。いつか須田町で乗り換えたときに気まぐれに葉巻きを買って吸いつけたばかりに電車を棄権して日本橋まで歩いてしまった。夏目（漱石）先生にその話をしたらさっそくその当時書いていた小説の中の点景材料に使われた。須永というあまり香ばしからぬ役割の作中人物の所業としてそれが後世に伝わることになってしまった。そのせいではないが往来で葉巻きを買って吸いつけることはその時限りでやめてしまった。
ドイツからパリへ行ったら葡萄酒が安い代わりに煙草が高いので驚いた。聞いてみると政府の専売だからということであった。パリからロンドンへ渡ってそこで日本からの送金を受け取るはずになっており、従ってパリ滞在中は財布の内圧が極度に低下していたので特に煙草の専売に好感を持ちそこなったのであろう。マッチも高かったと思うが、それよりもマッチのフランス語を教わって来るのを忘れていたためにパリへ着いてさっそく当惑を感じた。ドイツで教わったフランス語の先生が煙草を吸わないのがいけなかったらしい。とにかく金がないのに高い煙草を吸い、高いマロン・グラセーをかじったのがたたったと見えて、今日でも時々、西洋にいて金が無くなって困る夢を見る。たいてい胃のぐあいの悪いときであるらしいが、そういう夢の中ではきまって非常に流暢にドイツ語がしゃべれるのが不思議である。パリで金が少ないのと、言葉が自由でないのと両方でよけいな神経を使ったのが脳髄のどこかのすみに薄いしみのように残っているものと見える。心理分析研究家の材料にこの夢を提供する。
西洋にいる間はパイプは手にしなかった。当時ドイツやフランスではそんなにはやっていなかったような気がする。ロンドンの宿に同宿していたなんとかいうじいさんが、夕飯後ストーヴの前でうまそうにパイプをふかしながら自分らの一行の田所氏をつかまえて、ミスター・ターケドーロと呼びかけてはしきりにアイルランド問題を論じていた。このターケド一ロが出ると日本人仲間は皆笑いだしたが、じいさんには何がおかしいのか見当がつかなかったに相違ない。
アインシュタインが東京へ来たころからわれわれ仲間の間でパイプが流行しだしたような気がする。しかしパイプ道楽は自分のような不精者には不向きである。結局世話のかからない「朝日」がいちばんである。
煙草のいちばんうまいのはやはり仕事に手をとられてみっしり働いてくたびれたあとの一服であろう。また仕事の合間の暇を盗んでの一服もそうである。学生時代に夜ふけて天文の観測をやらされた時など、暦表を繰って手ごろな星を選み出し、望遠鏡の度盛りを合わせておいて、クロノメーターの刻音を数えながら目的の星が視野にはいって来るのを待っている、そのきわどい一二分間を盗んで吸いつける一服は、ことに凍るような霜夜もようやくふけて、そろそろ腹の減って来るときなど、実に忘れ難い不思議な慰安の霊薬であった。いよいよ星が見えだしても口にくわえた煙草を捨てないで望遠鏡をのぞいていると煙が直上して目を刺激し、肝心な瞬間に星の通過を読みそこなうようなことさえあった。後にはこれに懲りて、いよいよという時の少し前に、目は望遠鏡に押しつけたまま、片手は鉛筆片手は観測簿でふさがっているから、口で煙草を吹き出して盲捜しに足で踏み消すというきわどい芸当を演じた。火事を出さなかったのが不思議なくらいである。
油絵に凝っていたころの事である。一通り画面を塗りつぶして、さて全体の効果をよく見渡してからそろそろ仕上げにかかろうというときの一服もちょっと説明のむつかしい霊妙な味のあるものであった。要するに真剣にはたらいたあとの一服がいちばんうまいということになるらしい。暇で退屈してのむ煙草の味はやはり空虚なような気がする。
煙草の「味」とは言うものの、これは明らかに純粋な味覚でもなく、そうかと言って普通の嗅覚でもない。舌や口蓋や鼻腔粘膜などよりももっと奥のほうの咽喉の感覚でいわば煙覚とでも名づくべきもののような気がする。そうするとこれは普通にいわゆる五官のほかの第六官に数えるべきものかもしれない。してみると煙草をのまない人はのむ人に比べて一官分だけの感覚を棄権しているわけで、目の明いているのに目隠しをしているようなことになるのかもしれない。
それはとにかく煙草をのまぬ人は喫煙者に同情がないということだけはたしかである。図書室などで喫煙を禁じるのは、喫煙家にとっては読書を禁じられると同等の効果を生じる。
先年胃をわずらった時に医者から煙草をやめたほうがいいと言われた。「煙草も吸わないで生きていたってつまらないからよさない」と言ったら、「乱暴なことを言う男だ」と言って笑われた。もしあの時に煙草をやめていたら胃のほうはたしかによくなったかもしれないが、そのかわりにとうに死んでしまったかもしれないという気がする。なぜだか理由はわからないがただそんな気がするのである。
煙草の効能の一つは憂苦を忘れさせ癇癪の虫を殺すにあるであろうが、それには巻き煙草よりはやはり煙管のほうがよい。昔自分に親しかったある老人はきげんが悪いとなんとも言えない変な咳ばらいをしては、煙管の雁首で灰吹きをなぐりつけるので、灰吹きの頂上がいつも不規則な日本アルプス形の凸凹を示していた。そればかりでなく煙管の吸い口をガリガリかむので銀の吸い口がひらたくひしゃげていたようである。いくら歯が丈夫だとしてもあんなにかみひしゃぐには口金の銀が相当薄いものでなければならなかったと考えられる。それはとにかく、この老人はこの煙管と灰吹きのおかげで、ついぞ家族を殴打したこともなく、また他の器物を打ちこわすこともなく温厚篤実な有徳の紳士として生涯を終わったようである。ところが今の巻き煙草では灰皿をたたいても手ごたえが弱く、紙の吸い口をかんでみても歯ごたえがない。もっとも映画などで見ると今の人はそういう場合に吸いがらで錐のように灰皿のまん中をぎゅうぎゅうもんだり、また吸いがらをやけくそに床にたたきつけたりするようである。あれでも何もしないよりはましであろう。
自分は近来は煙草で癇癪をまぎらす必要を感じるような事はまれであるが、しかしこのごろ煙草のありがたみを今さらにつくづくと感じるのは、自分があまり興味のない何々会議といったような物々しい席上で憂鬱になってしまった時である。他の人たちが天下国家の一大事であるかのごとく議論している事が、自分にはいっこうに一大事のごとく感ぜられないで、どうでもよい些末な事のように思われる時ほど自分を不幸に感じることはない。最も重要なる会議がナンセンスの小田原会議のごとく思われるというのはこれはたしかにそう思う自分が間違っているに相違ないからである。
そういう憂鬱に襲われたときにはむやみに煙草を吹かしてこの憂鬱を追い払うように努力する。そういう時に、口からはなした朝日の吸い口を緑色ラシャの卓布に近づけて口から流れ出るまっ白い煙をしばらくたらしていると、煙が丸く広がりはするがラシャにへばりついたようになって散乱しない。その「煙のビスケット」が生き物のようにゆるやかに揺曳していると思うとまん中の所が慈姑の芽のような形に持ち上がってやがてきりきりと竜巻きのように巻き上がる。この現象のおもしろさはなんべん繰り返しても飽きないものである。
物理学の実験に煙草の煙を使ったことはしばしばあった。ことに空気を局部的に熱したときに起こる対流渦動の実験にはいつもこれを使っていたが、後には線香の煙や、塩酸とアンモニアの蒸気を化合させて作る塩化アンモニアの煙や、また近ごろは塩化チタンの蒸気に水蒸気を作用させてできる水酸化チタンの煙を使ったりしている。これはいわゆる無鉛白粉を煙にしたようなものである。こういう煙に関して研究すべき科学的な問題が非常に多い。膠質化学の方面からの理論的興味は別としても実用方面からの研究もかなり多岐にわたって進んではいるがまだわからないことだらけである。国家の非常時に対する方面だけでも、煙幕の使用、空中写真、赤外線通信など、みんな煙の根本的研究によらなければならない。都市の煤煙問題、鉱山の煙害問題みんなそうである。灰吹きから大蛇を出すぐらいはなんでもないことであるが、大蛇は出てもあまり役に立たない。しかし鉱山の煙突から採れる銅やビスマスや黄金は役に立つのである。
もっとも喫煙家の製造する煙草の煙はただ空中に散らばるだけで大概あまり役には立たないようであるが、あるいは空中高くのぼって雨滴凝結の心核にはなるかもしれない。午前に本郷で吸った煙草の煙の数億万の粒子のうちの一つぐらいは、午後に日比谷で会った驟雨の雨滴の一つにはいっているかもそれは知れないであろう。
喫煙家は考えようでは製煙機械のようなものである。一日に紙巻き二十本の割で四十年吸ったとすると合計二十九万二千本、ざっと三十万本である。一本の長さ八・五センチメートルとして、それだけの朝日を縦につなぐと二四八二○メートル、ざっと六里で思ったほどでもない。煙の容積にしたらどのくらいになるか。かりに巻き煙草一センチで一リートルの濃い煙を作るとする、そうして一本につき三センチだけ煙にするとして、三十万本で九十万リートル、ざっと見て十メートル四角のものである。製煙機械としての人間の能力はあまり威張れたものではないらしい。
しかし人間は煙草以外にもいろいろの煙を作る動物であって、これが他のあらゆる動物と人間とを区別する目標になる。そうして人間の生活程度が高ければ高いほどよけいに煙を製造する。蛮地では人煙が希薄であり、聚落の上に煙の立つのは民の竈のにぎわえる表徴である。現代都市の繁栄は空気の汚濁の程度で測られる。軍国の兵力の強さもある意味ではどれだけ多くの火薬やガソリンや石炭や重油の煙を作りうるかという点に関係するように思われる。大砲の煙などは煙のうちでもずいぶん高価な煙であろうと思うが、しかし国防のためならやむを得ないラキジュリーであろう。だだ平時の不注意や不始末で莫大な金を煙にした上にたくさんの犠牲者を出すようなことだけはしたくないものである。
これは余談であるが、一二年前のある日の午後煙草を吹かしながら銀座を歩いていたら、無帽の着流しただし人品いやしからぬ五十格好の男が向こうから来てにこにこしながら何か話しかけた。よく聞いてみると煙草を一本くれないかというのである。ちょうど持ち合わせていたMCCかなんかを進呈してマッチをかしてやったら、「や、こりゃあありがとうありがとう」となんべんもふり返っては繰り返しながら行き過ぎた。往来の人がおもしろそうににこにこして見ていた。はなはだ平凡な出来事のようでもあるが、しかしこの事象の意味がいまになっても、どうしても自分にはわからない。つまらないようで実に不思議なアドヴェンチユアーとして忘れることができないのである。もし読者のうちでこのなぞの意味を自分のふに落ちるようにはっきり解説してくれる人があったらありがたいと思うのである。
（昭和九年八月、中央公論）
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