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夏の喪章

 ここに「悲しい腕」という詩がある

 耳をあてる その鼓動はない かすかに風が吹いてタンポポの小さい落下傘が空間に舞うというのに

 耳をあてる その鼓動はない 崖が崩れ落ちはじめて草の根がしぶとく 岩にしがみついているというのに  

 私は それらを掌の上にのせる 私は それらをたくみにもてあそぶ それなのに なぜ掌を支える腕は棒のようにしびれるのだ なぜ掌はこうも重いのだ 休むことができないこの一本の腕 

 この現実のなかに熟した果実が ぎっちりと実っているというのに

 僕はこの詩を作りながら、なぜか二十歳の頃の思い出を書いてみたい衝動にかられた。僕はその頃まで詩は全く無縁であったが、いまは亡き友の影響でいつか詩を書いてしまっているのだが…。二十歳は、僕にとっても、なにか鬱陶しいやりきれない季節に似ていた。

 長い暗闇を抜けると、そこには溢れるばかりの光が充ちていた。長い暗闇が嘘のようであった。重苦しい呼吸も圧し潰されてしまいそうな感じも脱落感もなかった。爽やかさがあり、すべてが軽快であった。空気が和み、これが現実で事実かと思うほど、この朝が信じられなかった。僕は夢ではないかと、重荷を不意にとり外されてしまった自分を思い、そうした中で、この現象がどうして起こったのか、不意にやってきた爽やかな目覚めを疑り、その永続性を信じることがなかった。

 けれども、一時的にしろ長いこと忘れていた爽やかで、新鮮で、しかも軽快な感じが自分に収まった以上、これを頼みに生きていけると、生きていくことへの希望が、自信がむらむらと湧いてきた。事実、僕は、これまで長い間、このなんでもない、普通の人が日常こともなく吸っては吐いている呼吸を忘れ、日夜、いや眠っている間でさえも襲いかかってくる生き苦しい、生きていることすら拒否したくなる虚しい空白感に悩まされ、その上、この生理的な極限の空白感のほかに、人生を虚しいとする意識が折り重なり――このことは自分だけしか分からない、他人には充分理解し得ない苦悩として――ひとりのたうち苦しんでいた。 

 僕は、人生を、一個人の人間が人間として与えられた機能を全回転させ、結果がどうでようと、その経験を積み重ねていくことに、生き甲斐が、深みが、味が、奥行きがあるという判断もつかず、ただ単調に生死の距離ばかりを考え、どうせ死ぬのだからと、最初から虚しさを先行させてばかりものを考えていた。僕は、それがまるで自分に与えられた特権ででもあるかのように、おかしなことに、他人には理解できぬ特別のものを所有しているということに内心得意げであったが、一方では、これはどうしたことかと、この病的すぎる体質的な負債に深く悩み苦しんでいた。

 しかし、この新鮮で、重荷のない軽快な呼吸の回復により、この呼吸が、この感覚があれば僕は生きていくのになにも苦にならないと、ひとり嘘のような爽快な気分に酔い、なにか大きな声で叫びたくなる衝動にかられ――おれは生きていける。おれはこの感覚を、この呼吸を掴んだからには生きていける――と、ひとり興奮し、ひとり力み、ひとり感動していた。しかし、僕は自分の興奮にすぐ気付き、自分だけの世界に酔っていると、じぶんを滑稽に思い自分に苦笑を覚えずにはいられなかった。周囲ではなにごとも起こっていないのだ。それなのに自分だけが興奮している。僕は、自分がまるで別人であるかのように、冷たく自分のたかぶりを制していた。しかし、僕は、長いこと忘れていた少年期の初期――十四、五歳――までしか味わなかった爽快な空気に、呼吸に、なんともいえぬ喜びの感情を抱き、ひとり爽やかな世界にあることを夢ではないかと、心の周辺をまさぐっていた。

 手術後、三日目の朝のことで、大きな病室には、僕以外の患者もなく、新緑の香りのする五月初旬のしっとりとした空気が、窓の外から部屋一杯にしみ込んでいた。

 僕は、盲腸を軽くみくびり、高熱や腹部の鈍痛を単なる腹痛と思い、医師にもみせずに勝手に自己流の処置をとったため、病院に担ぎ込まれた時には、足腰もたたず、知覚はにぶり、自分が自分でないような浮き上がった妙な心地になっていた。僕は、盲腸炎とは知らずに腹部を懐炉であたため、湯たんぽを入れ、ひまし油を飲み、あれこれと腹痛を堪え、治すために、いいと思ってとった処置がみな裏目に出た故か、医師が往診に来た時には、すっかり盲腸をこじらせ、医師が首を傾けるような始末になっていた。僕は、腹痛など長くて二、三日もすれば治ると高をくくっていたのがいけなかった。母が心配し――お医者を呼ぼうか――となんども言葉をかけてきても、—まだいい—と自分のことは自分がよく知っているとばかりに、勝手な意地を張り頑張ってみせかけていたが、それがかえって仇になり、僕を窮地へ追い込んだ型になっていた。僕は医師の往診により、一刻を争う問題だといわれるまで、自分の体について何も心配していなかった。が、医師の言葉により初めて事の深刻さを知り、今更のように医師を避けてきた頑迷さを気はずかしく思った。僕はしかし、おかしなことに死の恐怖について鈍重なほどなく、もうこうなれば医師にすべてを預けるよりほかはないと思う傍ら、どうにでもなれという気持ちになっていた。僕は、ケセラセラだと思った。死んだって生きたってどうでも構わぬ。生きるのに、それほどの強い未練もなく、ただ僕は、そのことよりこのまま苦しい呼吸から脱けきることが出来ないなら、このまま死んだほうがましだという気持ちになっていた。しかし、三時間余にわたる手術の挙げ句病室に運ばれてくると、いつか僕は、思い考え悩み苦しんでいた重荷をすっかり忘れ、どうしたことか、病気の周辺ばかりを、自分の体を媒介に考えるようになっていた。僕は、友達の中島と四月三十日に会おうと約束しておきながら、その日に手術という不可抗力に約束を破られたことを強く心を痛めていた。

 中島は、僕と同じ大学に在籍し、知り合って日も浅かったが、どうしたことか彼と気があい、彼もまた僕と気があうのか、何度か接近を重ね行動をともにしているうち、いつか互いに親近感を持つような間柄になっていた。彼はフランス文学を好み、詩を書いていたが、詩は難しく、僕には、彼の持っている詩の雑誌や彼の作品が読んで意味をくみとることも理解することもできず、こんな一般に理解できないものを作り考えてどうするのだと疑問を持ったほどだったが、中島は、僕の疑問を一つ一つ解き教えて、現代詩を長い時間をかけて理解できるようにさせてくれたのだが—。そんなことがあってからか、僕たちの間は、より親密な間柄になっていったようであった。

 が、しかし、それにもまして、僕と彼とが親密になっていったのは、彼が死に追いつめられるような漠然とした虚しい呼吸の壁に絶えず悩まされ苦しんでいると、それとない切っ掛けで告白したことに始まり、僕も同じ苦しみを現在味わっているということで、お互いにどちらからともなく親密の度を加えていったようであった。しかし、僕は、このような苦しみを経験している者が大抵そうであるように、彼もまた少しオーバーに誇張して話をしているのではないかと、僕は気にもとめずにそれとなく日日を過ごしていたのだが。四月十九日の新学期の単位を申請する最終の日に、はからずも彼が春休み中に自殺未遂をしたことを知り、彼の心境を思って今度の登校日の四月三十日には必ず会おうと約束を誓うほど、僕は中島には会わずにはいられない気持ちになっていた。

 その日、新しい学年の単位申請のために教務課のある古びた木造校舎に向かって歩いていると、たまたまそこを通りかかったのだろう。増田が、不意に校舎の中から出てきて、

 ――河村さん、中島のこと知っていますか。

 と、声をかけてきた。

 僕は、これまで一度も増田と話したこともなく、ただ、中島と同室の同郷の学生として会釈程度の知り合いだったが、いきなり中島のことをいわれて、中島がどうしたのかと、怪訝に思いながら、

 ――いや。

 と、耳を傾けた。すると、増田は、

 ――中島のヤツ、春休みに自殺未遂したらしいですよ。薬の飲み過ぎで、掌や体の皮膚がほじくれ、抉れていますよ。

 と、一挙に喋り続けた。

 僕は、増田の言葉を、子供が余りの驚きになにかを大人に訴えずにはいられない気持ちで訴えているように思え、増田の興奮を察せずにはいなかった。しかし、そのこと以上に僕は中島のことが気にかかって、

 ――それで、中島はどこにいます、寮にいますか?

 と、せき込むように尋ねた。僕は、春休み中の出来事とはいえ、増田の話の様子では、中島が寮の方にきているようで、彼の所在を思わず尋ねずにはいられなかった。

 ――ええ、居ると思いますけど。私が部屋を出てくる時、机に向かって本を読んでいましたから。

 ――それで、なぜ自殺し損なったか、そのへんのとこ、聞いていますか?

 ――いいえ、全然。中島は、私たち部屋のものになにも口をきいてくれないんです。

 と、僕の問いかけとは別のことを、不服そうにいった。

 ――全然。

 僕は、驚き問い返した。

 ――ええ。

 ――いつから。

 ――ずうっとながいことです。

 ――本当に。

 ――ええ、なにが気にくわないのか。原因はさっぱりわからないのです。気むずかしくてね、こちらが気疲れします。だから、この話も中島には黙っていて下さい。怒ると困ってしまいますから。お願いします。

 といい、増田は僕のもとを離れていった。僕は、中島とはそんなに気難しい奴だったのかと、初めて知らされた一面に驚かされながら、中島の体の様子が気にかかって、たかぶる気持ちを押さえるように校舎続きの寮の方へと急いでいった。

 途中、春休みにきた彼からの葉書が脳裡を掠めた。

 よたよたとした踊り狂ったような文字で、力なく、なにか異様さを漂わせるような書面が僕の心に強くひっかかっていた。

 ――お手紙ありがとう。

   人生は狂気。

   信仰は痴愚。

   希望は死刑の執行猶予。

   愛は傷口に塗る酸ではないか。

           キェルケゴール

  今、憂愁の哲理をよんでいる。君のお手紙が来たとき、丁度右の文字に目がとまったわけです。

               さようなら――

 僕は、この葉書が届くのに、僕が彼に手紙を出してから長いことかかっていることを思い出し、その間に、薬を飲み、病院に担がれ、退院しといった経緯があったのではないかと勝手に想像しながら、彼の苦悩を思った。

 しかし、それ以上にひっかかったのは、中島が増田がいう彼の人となりのように、本当に気難しい性格であるかということであった。僕には増田のいうことが信じられず、なにか中島の機嫌を損ねるようなことを、部屋の連中がしたのではないかと、そんなことを考えたりしながら、彼の部屋へと入っていった。

 中島は、机に向かいフランス語の原書でカルメンを読んでいたが、僕を見ると、

 ――おう。

 と、椅子から立ちあがり、僕がなにもいわぬうちから掌を広げて見せた。

 掌は、増田の話のように抉れ、白く爛れていたが、想像よりは、深く抉れ爛れてもいなかった。

僕は、一見して大したことではない、これでは大丈夫だという安堵の気持ちになりながら、気を弛めるように、軽く、

 ――自殺し損なったんだって?

 と、尋ねた。

 彼は、ああと、事もなげに答えたが、僕をまさぐるように見上げた。

 ――だれに聞いた?

 ――いや、だれとはなしに、

 ――ふうん。

 僕は、増田との約束があるので、言葉を濁していた。

 しかし、僕はそのことより中島の自殺しなければならない極限の精神状態が気にかかったので、中島に真意を聞きたい気持ちで尋ねた。

 ――そんなにまで、精神状態がいき詰まっていたのか?

 ――いや、

 と、彼は、意外なことに打ち消し――そういう意味で自殺し損なったのではない。自殺する気もなく、あっと思う間もなく薬を飲んでしまったことが事実でね。

 と、いった。僕は、まさかと、彼の言葉を疑って黙っていたが、そんな僕を知ってかどうか、彼は続けた。

 ――嘘と思われるかしらないが、俺は、自殺などする気は初めからなにもなかったんだ。あっという間の出来事で、俺は、結果がどうなるなんてことも、なにも考えていなかった。ただ気が付いた時には、ヒロポンを多量に飲んでしまっていたんだ。

 ――そんなばかな。

 ――いや、本当だ。自分にかかわりなく、自分がやられてしまったようなものだ。

 ――まさか。いや、たとえそうであっても、薬を多量に飲んでしまったからには、そのような精神状態にあったということは否定できないのじゃないかな。

 ――いや、そんな精神状態にあってやったのではない。

 中島は、怒ったように、絡む僕の言葉を強く打ち消し ――本当に自殺する気はなかったんだ。

 と、次のように続けた。

 ――春休みになってから、いく日か経ってからのことだった。机に向かって本を読んでいると、急に机の引き出しにヒロポンがしまいこんであるのを思い出し、そうしたら、俺は、自分でもどう説明してよいか分からない早業であっという間に、衝動で薬を飲みほしてしまっていたんだ。

 僕は、まさかと思いながら、

 ――ヒロポンが興奮剤ってことを気にすることなく?

 と問い質すように尋ねた。

 ――うん、全然そんなことを考えてもみなかったし、気にもかけていなかった。

 ――ふうん。

 僕は、理性を奪い取る衝動の激しさを思った。しかし、日頃の中島の印象から、これが事実としたらと、半信半疑で彼をながめた。僕には、彼が冷静な理性の塊と常日頃映っていた。

 彼は、静かにだが、その事実に昂ぶりを覚えるのか、無口な彼にしては多弁のように続けた。幾分かやせ細った頬と落ちくぼんだ目は、病気あがりという感じを漂わせていたが、ほかは、いつもとなにも変わらなかった。

 ――薬が効いてくるとね、家の中が、はじめ、ぐらぐらっと揺れてね。そのうちに畳が大きく波打つように揺れはじめ、天井が揺れ、机が揺れ、なにもかもが揺れ、俺は、これは大変なことになったと、慌てて机から離れようとしたが、なにもかも、ぐらぐら揺れて畳みの上を歩こうとしても駄目で、畳の上を喚き助けてくれと叫びながら、転がり、あっちへごろごろ、こっちへごろごろ、ようやく玄関に転げ落ちるようにして、外に這いだしたのだが…。そこもまた、地面が大きく波を打ち、激しく揺れて、ようやくの思いで庭木にしがみつき、やれやれと思ってしがみついた木が、いつもなら少しぐらいの力では抜けそうもない木なのに、根からごっそりと抜け、こうして木から木へとしがみつき、ようやく、庭の大木にしがみついた時には、俺は夢中で、なにをし、なにを喚いていたのか分からなかった。俺は、ひどく荒れ、助けてくれと、大木にしがみつきながら、ぐるぐるそこを回っていたらしいが、家の者は、父も母も遠い畑に出ていて留守で、だれも他にいるわけではなく、ようやく近所の人たちが様子がおかしいとかけつけてくれた時には、薬もすっかりまわっていて、俺を取り押さえるのに、みんな苦労をしたらしいことを、後でいっていた。兎に角、ひどかったらしい。

 と、彼はいった。

 僕は、彼の話の内容に驚き、その先を知りたい気持ちにかられて、

 ――それで家の者は?

 と、せきたつ気持ちで尋ねた。

 ――近所の人が畑に迎えにいって連れてきてくれたが、その時には、もう医師もみんな俺の回りを取り囲み、なんだかんだといっていたが、結果を思い出すだけでも、二度とあのようなマネをしたくない。自殺未遂などこりごりだ。一度で未遂もなく死ねるなら自殺もいいけど、あの自殺未遂のあと味を思い出すだけでも、たまらなく、いやだ。それに親身になって俺を、昼夜もなく、つきっきりで介抱し面倒をみてくれた親切な医師の好意と親切を思うにつけても、俺はもう自殺なんてしない。俺は、医師の好意と親切を裏切るようなことをしたくない。それに、打ちひしがれた両親の姿と悲しげな表情を思い出すにつけても…。

 中島は、しみじみとした面持ちでいった。が、僕は、これは感傷でしかないと、再びやってくる自殺の危機を思った。たとえ、中島が二度と自殺などしないと、自殺未遂後の感傷からそう決意していようとも、死を意識するいき詰まった極限の精神状態におちいれば、どんなに強固な決意もどうにもならなくなってしまうのではないかと疑問に思い、無遠慮に尋ねた。

 ――そんなこといったって、いき詰まれば、またやるのではないのか。

 ――いや、そんなことはない。

 ――どうかな。俺はそんなことが信じられないのだが。

 ――なに、信じられないって。それどうしてだ。

 ――どうしても。

 ――なぜ?

 ――自殺は感傷で左右されないと思うからだ。

 ――なに、感傷?

 中島は、僕の感傷という言葉がひどく気に障ったらしく、むっとしたようにいった。しかし、僕は無遠慮に続けた。

 ――ああ、感傷と思うけど。自分が自殺未遂したことで後悔し、二度と自殺をしないと決意するなんて。いき苦しい極限の精神状態になれば、そんな決意にかかわりなく自殺が向こうからやってくると思うけど…。

 中島は、黙って暫く聞いていたが、強く、吐き捨てるようにいった。

 ――だが、俺は二度と自殺するつもりはない。河村、君がどんなにそんなことをいっても、俺は二度と自殺未遂を思うだけでも自殺する気にはならない。本当だ。

 と。

 しかし、僕は、その日中島と別れてからも、彼のことが漠然と気にかかって、次の登校日の四月三十日が、十日後なのにそれさえ待ち遠しく、明日にでも寮の方に出かけようかと思案していた矢先、帰りの電車の中で腹部に時折さし込むような鈍痛を覚え、十日の後には完全に立てなくなり、その日のうちに病院に担ぎこまれ、長時間にわたって手術を受ける羽目になってしまっていたのである。僕は、地団駄踏み、彼と会えぬことを心残りに思ったが、また丈夫になればいつでも会えると、ひとり諦め、病床の中で中島のことを思うともなく、思わぬともない日々を送っていた。

 けれども、僕は、中島のことが時折気にかかり、彼は、元気で、事もない日常を送っているだろうかと、そんなことをふっと心配したりもしていた。のんびりとした、なにも束縛もない、苦悩もない、嘘のように明るい空気の中で、僕は、中島もなにか少しでも今までの生活に変化を持たせれば、自分のようにあのいき詰まった苦しさから脱出の兆しを掴めるのではないかと、彼にこのことを知らせてやりたいような気持ちで一杯になっていた。しかし、僕は、どうにも動くことも出来ず、どうすることも出来ず、このことを胸にひめたまま、来る日も来る日も、単調な中での充満した初々しい生の躍動感に、ひとり興奮しひとり酔い、生への絆の発見に(むせ)かえるような喜びを抱いていた。

 が、僕の重荷は、これですっきりと取り去られたというのではなかった。気持ちや気分の上では軽快になったものの、二十歳になっていながら、なにも出来ない、半人前的な、思考と行動とが上手にかみ合わぬ不自然さに苛立ち、なんとかそこから脱出したいと、その糸口を懸命にまさぐっていた。僕は身体ばかり一人前になりながら、どうにもちぐはぐな自分が歯がゆく、それをなんとかせねばと思った。恋いだの、愛だの、存在だの、人生だのといっても、なに一つ充ちたりた行動や行為をすることも出来ずに、思考だけの片側通行の中だけにいるような自分が腹立たしく――大人になるための最初の手段として、童貞の放棄を、愛とか恋とかにかかわりなしに始末せねばと、そのことを本気に考えていた。

 ――河村さん、毎日、女性にばかり、ひとり囲まれて、なんとも思わない?

 と、不意に、こともなげに、隣りのベッドに入院している三十五、六の小学校の先生が、微笑を浮かべながら、僕に声をかけた。

 彼女は、自炊のために土鍋を片手に持ち、寝衣姿で炊事場から戻ってきたところだった。僕は、五日後に退院をひかえ、やっと、ベッドから離れることが出来るほどに回復していた。入院から一ヶ月の時日が流れていた。僕は、ベッド近くの窓際に立っていた。

 ――いいえ、全然。

 僕は、どうして、こんなことを彼女が尋ねるのかと、その意味が解らなかった。僕は、同じ部屋の女性など今いわれるまで全く気にもかけていなかった。僕は、彼女の問いを訝かしく思い、どうして彼女はこんなことを尋ねるのかと、彼女を不審に思い耳を傾けていた。僕は、彼女を以前から、親しくはないが学友を通じて面識程度に知っていた。

 ――だって、ここにいるヒト、河村さんを除いて、五人とも女性なのよ。それでも平気。

 ――うん、なんとも思わないけど…。

 ――ほんと?

 ――ええ。 

 ――ほんとに?

 彼女は確かめるような調子でいい――女性ってこわいのよ。河村さん、あなた、女性を知らないから、そんな平気な気持ちでいれるのよ。そのうちに、きっと分かるような時がくるから。

 と、彼女は、言い残して、自分のベッドへと戻っていった。僕は、なんのことか分からなかったが、彼女のからかうような言葉がひっかかり、いつまでもその言葉の虜になっていた。僕は、こんな時でさえも、ひとときでも早く大人へと脱皮せねばと、ひそかに童貞からの脱皮をはやる気持ちで思った。

 しかし、僕の中で大きく比重を占めているのは、やはりいき苦しい呼吸からどうしたら解放されるかということで、僕は、退院した日からも、いつ、いき苦しい呼吸が、――吐く息、吸う息、そのひとつひとつ苦しい呼吸が――襲いかかってくるのか、そのことが気がかりで、毎日毎日、今日も無事その苦しみに襲われずにすんだと、その結果を楽しみながら、明日を不安で迎えていた。が、来る日も来る日も、苦しさを意識する呼吸もなく、呼吸をすることがなんでもない、当たり前のことのようにいつか思えるようになり、僕は、このまま未来に向かってなにごともない日々を持つようになるのではないかと、ふっと思えるようになっていった。が、その反面、過去に苦しみ悩まされてきた生理的な苦しい呼吸が、長い悪夢の坩堝の中の出来事のように思え、僕は、いま味わうなにごともない穏やかな当たり前の日々を、物珍しい感覚を味わう新鮮な心地で味わっていた。

 入院する時、五月の緑もまだ初々しく爽やかだったが、今は木々や自然の緑が一段と濃く生い茂り、僕は、蘇ったような気持ちの中で、入院で飛ばされた日々の流れを、新鮮なものを味わうような気持ちで眺めていた。入院は隔離と同じで、いつか六月に入っている季節に鮎を思っていた。

 

 退院後の体は、まだ思わしくなく、蒲団の中で多く寝たり起きたりの日々が続いた。初めのうちは、殆ど家の中で、医師が術後の手当に通ってくるほどであったが、二週間も過ぎると、回復の兆しもみえてか、医師は通院して術後の手当を受けるようにといい、僕は、それから毎日、午前中に病院へと重い足を運んだのだが—。僕には、まだそれがせい一杯で、外へ出る自信は全くなかった。六月の太陽の陽差しが余りにも衰弱気味の僕にはこたえすぎ、陽差しを思うだけでも、病院へ通うのが大儀であった。が、退屈すぎる空白な時間のうち、その一部分が病院通いで過ごせるのかと思うと、それだけで病院通いが僕には充たされたものとなっていた。青葉の強い反射も、アスファルトの熱気も、コンクリートの建物の色も、トタン屋根の反射も、目に映るすべてのものが、南国のもののように思え、どぎつく迫ってきたが、僕は、そのことより、時間を病院通いで充たされることで満足していた。しかし、まだ時間をかけて電車に乗る気力も自信もなく、大学へ通学することなど、思ってみるだけでも遠い先の日のように思っていた。いや、それどころか、僕はすっかり学業のことを忘れ、ただ漠然としたなかに、なにもすることもなく身を置くことが、今の僕には、最もふさわしいようにおもえていた。いつか山間の僕の家の周辺には蝉が鳴き、僕は自然のなかにくつろぎににたものを感じるようになっていた。

 とこうしているうちに、僕は、少しずつ体力が出来てくるのを覚えるようになっていた。そうしたある日、ふと、なにを思ったのか、急に中島に会いたいという気持ちにかられ、授業にでるためではなく、彼に会うために、ぶらりと学校へ出かけていった。小田原から横浜までの列車は混み、朝から陽差しは強く、僕には初めての遠乗りなので、学校に着くまでには相当に疲労していた。が、僕は中島に今すぐにでも会えると思うと、ただもうそれだけで嬉しく、疲労など忘れるような心地になっていた。学内では、既に授業が始まっていて、僕はそのまま教室には立ち寄らずに、校舎続きの寮の彼の部屋へと向かっていった。僕は、もしかしたら、中島は、授業に出ずに自分の部屋に居るかもしれないと思い、居なければ、授業が終わり次第そこに戻ってくるだろうと思っていた。が、中島は、寮にいる様子もなく、部屋は全員の寮生が授業を受けに出かけたあとで、裳抜けの殻のようになっていた。僕は、彼の部屋に入り、彼の椅子に腰を掛けて、彼が授業を終えて戻ってくるのを待ったが、同室の増田が戻ってきても、中島はいつまで経っても戻ってくる様子もなかった。増田は、中島を訪ねてきた僕を気の毒に思ってか、しきりに「朝、たしかにいましたが、どこへいったのかな、おかしいですね。」と、彼の不在を訝るように僕に調子をあわせてくれたが、「中島のヤツ、寮のこの部屋のものには、どうしたものか、全然口もきいてくれないのです。」と、中島の無言の行為を詰るように、くどくどと、以前と変わらぬことを僕に訴えていた。が、その日は結局、中島に会えず僕はそこを引き上げたのだが、その翌日もまた会えず、またその翌日もと彼に会いたくて、なにものかにひかれるように、毎日彼の寮へと疲れきった重い躯を運んでいった。

 その日、―昭和二十五年六月二十三日―

 先日来の中島の不在に今日ばかりはなんとしてでも会おうと、早目に、健康な学生たちが通学する時間に出かけていった。が、中島は、もう寮にも校舎にも、校内のどこにも姿を見せなかった。僕はどうしたことだろうと思いながら、今日もすっぽかしかと諦めきれない思いで、もう少し学校に留まっていれば、どこかから姿を現わすかもしれないと、中島が現われるのを、いつ現われるのか分からないのに、蛇のように執念深く、焦点のない時と争うように、虚しい時間と闘いながら、漠然と待ち続けていた。僕は、苛々し、どうしてこんなにまでして中島と会わねばならないのかと、自分を訝り、自分を滑稽に思い、時には自分の執念をなぜこんなにまでと情けなく思いながら、それでもなお中島に会いたいと思う気持ちで、今か今かと、彼の出現を首を長くして待っていた。しかし、彼はどこへいったのか、昼を過ぎても一向に姿を現すことがなかった。僕は、困惑し、なんどか、もう家に戻ろうかと思った。けれども、もう少し、もう少しと、中島と同室の増田が、午前中に寮で、いつもと変わらぬ「けさも確かにいましたが」という言葉を頼みに、苛立つ自分を押さえるように校庭の芝生の上に身体を横たえ、中島が外から戻ってくるのが見える正門と小さな通用門の位置に、長期戦の構えで、それとなく神経を配っていた。陽差しが強く、そこには、陽を遮る木さえもなかった。

 放課後の広い校庭には、フットボールの練習で、球を追ってとびまわっている三人の白い運動服の学生のほか誰もいなかった。

 僕は、鋭い光と暑さが耐え切れなくなり、どこかへ位置を換えて彼の帰りを待とうかと思った。けれども、僕は、今横たわっている場所を除いて、正門と通用門が一緒に見える場所がないと思うと、耐えきれない暑さよりは、それ以上にこの場所に未練が残って動けなかった。

 しかし、待つのにも限度があった。僕は、待ちくたびれたつらさに、今日もまた諦めるとするかと未練に後ろ髪をひかれながら、帰りを意識しはじめていると、そこへ中島が、僕の意識に立ち塞がるように、小さな通用門から入ってきた。僕は、一瞬、遠い距離感覚から、それが中島であるか確認するのに手間取ったが、それが中島であるとわかると、われを忘れるように、その場に立ち上がり、手をあげ、

 ――中島!

 と、声をかけ、急ぎ足で彼の方に向かっていた。が、病みあがりの身体では、立ち上がり、声を掛けるのがせい一杯で、中島のもとに駈けていくだけの体力はなかった。しかも、僕は、自分では、「中島」と大きな声で叫んだはずなのに、その声は意外にも掠れ、思ったよりも小さく伸びず、その声が中島のもとにとどかないのか、彼は、僕の合図と声にもかかわらず、一直線に、進路も変えずに歩いていた。

 僕は、はやる気持ちで、再び「中島!」と声をかけた。と、彼は、ようやく僕に気が付いたのか、進路の向きを変えて、僕の方へと歩いてきた。彼は、黒い制服を、釦を外してだらりと着ながし、長髪はいつにもなく乱れて、油気はなかった。

 僕は、この時、中島にしては珍しい乱れた姿だと思いながら、それとは別に、彼に会えた喜びを押さえきれず、今まで会えずに苦労していた不満をぶちつけたいような気持ちになっていた。彼は、やや前屈みに、大きな躯を、重そうに僕に近付けてきた。

 ――中島、朝からさんざんに探したぞ。どこへ行っていた?

 ――よく会えたものだねえ。もう、オレは、あれっきり、キミとは会えないものとばかり思って諦めていたところだった。本当によく会えたものだねえ。このめぐりあわせが全く信じられないくらいだ。本当によく会えたものだ。この現実が夢のような気がする。

 と、感慨に昂ぶりながら、しみじみとした調子で、じっと僕をみつめた。

 僕は、瞬間、これは自殺行だなと悪い予感に緊張したが、今は、彼に苦労して会えたという喜びどころではなかった。不安が一杯に拡がり、中島の、今し方とらえた一部始終の姿が気にかかった。几帳面な中島にしては珍しい油気のない長髪といい、真夏の暑さに黒い制服を着ていることといい、いつにない地面に叩きつけるような重そうな足取りといい、それらは気のせいか、すべてが、自殺行前の好材料のように思えた。僕は、すぐには、悪い予感を自殺行に結びつけて考えたくはなかった。

 僕は、不安がただの不安だけで終わることを、祈るような気持ちで思った。僕は、中島を自殺させたくはない気持ちで一杯で、故意に自殺を自ら遠のけて、それに触れるのを避けていた。それを自分でも滑稽に思ったが、それは本能的反射で致し方がないものであった。

 ――よく会えたって、それはどういう意味? どういうこと?

 僕は、せきこむ不安な気持で聞きながら、自分が予感していたものとは別の返事が戻ってくることを期待した。が、中島は、なにか言葉にいき詰まるように黙っていた。僕は、続けて尋ねた。

 ――学校をやめて、どこかへいくということなのか?それとも海外へでも…?

 ――いや、そうではない。

 中島は、重い口を開いて言った。

 ――それじゃ、俺に会えないってことは?

 中島は、再び口を噤み、僕を、じっと強く見詰めるばかりだった。

 僕は、中島の口の重さにただならぬものを覚え、これは完全に自殺行に間違いないと思いながら、なお、それとなく誘いかけるように彼に尋ねていた。

 ――まさか、あれでは?

 ――あれって?

 彼は、問い返すように僕を見詰めたが、

 ――そうだ。あれだよ。

 と、観念したように言った。

 しかし、僕は、このままでは引きさがらなかった。彼の口から、確かな言葉を聞きたく、彼の乗ってきた気持をまぜかえすように、意地悪く尋ねた。

 ――あれって?

 ――あのことだよ。

 ――あのことって?

 ――分からないかな。

 ――分からない。

 ぼくは、故意にいいながらも、懸命に中島の心の動きをまさぐっていた。しかし、僕は、こんなにまでして、自殺行を決意している人間を弄んでいる自分を思うと、堪らなく、つらくやりきれなかった。と同時に、僕の絡みに辟易している中島に助け舟を出したく、自分の意地悪を覆すような気持で言った。

 ――ああ、あのことって自殺のことか。

 すると、彼は、ホッとしたかのように、

 ――そうだよ。あのことだよ。

 と、胸中を続けて、流れるように告白した。――生きていて、同じような果てしない苦しみを続け繰り返すくらいなら、思いきってやってしまった方が、どれほど楽なことか。苦しくて苦しくてしようがないのだ。こんな苦しみが、俺のこれからの生涯にも続くのかと思うと、それだけでもう堪らない。いっぺんに、ひと思いにやってしまった方が、今の俺には、どれほど楽なことか。苦しさを思うだけでも、俺を救う道は、ただひとつ、やってしまうよりほかはないのだ。君とこうして話をしている今でさえ、苦しくて苦しくてどうしようもない…。

 僕は、中島の苦しみは極限に達していると思いながらも、自分が入院中ふとしたことから、そのような苦しみからぬけでていた体験を話し、中島に再考するようにと、再考を促した。僕は、自分がごく近い過去に、いき苦しい苦しさから脱出していただけに、このまま、「よし、そうか」と、あっさりと引きさがるわけにはいかなかった。なんとか自分の体験をいかし、少しでも理解してもらい、再考のたしにでもしてもらえればと懸命だった。しかし、僕は、中島が自殺をきめているのに、どうして、自分がだらしなく自殺を拒否させるように立ちふさがっているのかと思うと、なにか弱者のようで、中島にみさげられているようでかなわなかった。けれども、僕は、限りを尽くして、むなしいいき苦しさ――生理的に生命を断ち切りたくなる気持――から脱出できる可能性と事実を強調して、

 ――俺と一緒に、もう一度だけ考え直してみないか。

 と、中島に、さげすみ哀れまれるのも覚悟で、念を押し尋ねた。が、彼は、僕の言葉を素直に受け入れるどころか、僕の言葉に焦れ、頑として撥ね返すように苛立ちをこめて言った。

 ――考え直してみる余地? そんなものあるわけがない。それに、きみと俺とは体質が違う。それと同じように、苦しさの質が違う。キミは、いき苦しさから脱出できたかもしれないが、それはキミだけのことで、俺の苦しさが、すぐそこに当てはまるものではない。兎に角、こうしているだけでも、俺は堪らないのだ。

 ――しかし、それは、思いつめた一人よがりの…。

 僕がこう言いかけると、彼は、それ以上に耳を貸そうとせず、更に焦立たしげに、

 ――俺は、キミから意見や説教を聞こうとは少しも思っていない。俺がキミに求めていることは、どうして旨くやれるかということ、ただそれだけなのだ。なにも、キミは、俺のことに分別臭くなることはないのだ。

 と、決めつけるような迫力で言った。僕は、これでは話にならないと困惑しながら、言うべき言葉を求めて、口を噤んでしまった。僕は、このまま、あっさりと引きさがりたくはなかった。中島の生に未練があった。

 しかし、中島は、死の側に立って、僕の気持など汲みとる気配もなかった。

 ――アドルム、なん錠で、いっぺんにうまくやれるかな?

 僕は、睡眠薬のアドルムの致死量は、個人差があるが、男が三十五錠ぐらい、女が二十五錠ぐらいだということを、聞きづてに知っていた。けれども、そのまますぐには、良心が咎めて言えなかった。

 ――さあ? なん錠かな?

 ――四十錠で大丈夫だろうか?

 ――さあ…。

 ――朝から薬屋を回って、やっとアドルム四十錠を手に入れてきたところだ。四十錠あれば充分だと、俺は思って、それだけ買ってきたのだが。

 ――だって、自殺行を考えるからには、それくらいのことは全部調べているだろうに。

 ――うん。でもやり損ないが気にかかって。あの二の舞いは二度としたくないから。

 中島は、四ヶ月前の覚醒剤のヒロポンで自殺未遂をしたそのあと味の悪さを思ってか、このように言った。僕は、余程、自殺未遂のあと、彼はつらい思いをしたのではないかと、彼の気持を察した。

 ――四十錠あれば大丈夫だろう?

 ――うん、大丈夫と思うけど。

 僕は、つられて、こう言ってしまってから、これは大変なことになったと思った。これでは、自殺行に加担しているのも同じではないかと思った。しかし、言ってしまったものは致し方がなかった。僕は、後悔し、このあとの言葉をひき締めようと思った。

 中島は、こんな僕を知ることもなく、徐ろに上衣のポケットからアドルムを二箱取り出し、

 ――これが、そのアドルムだ。

 と言い、白いプラスチック製の入れ物の蓋を開けてみせた。その中には、丸い円に添って白い錠剤が美術品のように綺麗に並んでいた。僕は、この白く美しい入れ物と錠剤が、人の生命を、いやこの中島の生命を奪い取るのかと思うと、このなにもしていない入れ物の錠剤が憎々しく、中島の手からひったくり取って地面に叩きつけてやりたいとさえ思った。けれども、たとえ、僕がそのようなことをしたところで薬はまた買えるものだし、中島の自殺行の歯止めになるはずもなく、それどころか、僕がそのために中島の信頼を欠き、中島の自殺行に嫌な思いをさせて送り出すと思うと、僕は、どんなことがあったって、そのようなことは出来なかった。

 しかし、僕は、ややもすれば衝動的になり、アドルムを奪い取ろうとする自分に、この自分はどうしたものかと、苦笑しながら制していた。

 このようなことを知らぬ中島は、アドルムの入れ物をズボンのポケットからも取り出し、

 ――これで全部だ。

 と、両手一杯にしてみせ、それからすぐ、大事なものをしまうように、もとのポケットに凡てをしまい込んでしまった。そして彼は、暑さに疲労を覚えたのか、それとも病気あがりの僕の体に気を配ってくれたのか、

 ――ここじゃ疲れるから、あそこに見える食堂へいって休みながら話そう。

 と、僕を誘うように、スナックのような学生食堂に向かって歩き出していた。が、僕は、どうしたことか、重いものにひかれているように、歩きながらもその場から離れることを渋っていた。

 真夏の太陽は、三時を過ぎてもまだ厳しく照りつけ、あい変わらずキックの練習をしている連中は、球を追って激しく右に左に跳びまわっていた。古びた建物の平屋の大教室と、その続きの学生食堂とよばれる軽食堂の辺りはようやく傾いた陽差しで、くつろげそうな日影をつくっていた。

 僕は、中島と肩を並べて歩きながらも、彼の自殺行がまだ諦めきれず、再び、

 ――中島、もう一度だけ、苦しさを耐えてみる気にならないか。

 と、念をおさずにはいられない気持で尋ねた。見栄もなにもなかった。僕は、中島が、初めから僕のこのような言葉を受け付けてくれるはずがないことを承知していた。しかし、そう言わずにはいられない気持ちには勝てず、僕は、言ってしまってから、自分が何故こんな弱々しい繰り言を言ってしまったのかと、自分が惨めでやりきれなかった。

 が、中島は案の定、僕の言葉に驚いたのか、今更なにを言うのかとばかりに、カッと鋭い目を見開き、強く、叩きつけるような調子で言った。僕は、一瞬、たじろぎ動揺するものを覚えた。

 ――なんど、キミが言おうと、俺の決意は変わらないのだ。いい加減にめそめそするのは止めてくれ。いつものキミに戻って、サラッと今は付きあってくれないか。

 ――うん、わかった。

 僕はおされ気味に応えると、中島はつづけた。

 ――ところで河村、頼みたいことがあるのだが…。

 ――なにを?

 ――今後の俺のことで、いろいろと相談しておきたいことがあるのだが…。

 ――相談?

 ――うん。

 だって、アドルムを飲んで自殺するってきまっているのに、今更相談ってことはないだろう?

 ――いや、その事はもういいんだが、俺が死んだ後でのことを。

 ――ああ、そのこと。

 僕は、これは一大事と思った。この相談にのるべきだと思った。

 ――遺書も、書き置きも、今まで書いてきたものを、みな一つにまとめて、寮の俺の机の一番大きい引き出しの中に、すぐ分かるところに置いてある。だが、俺が出掛けた後、すぐには開けてくれるな。俺が失敗もせずに旨くやったと分かるまでは、どんなことがあっても、絶対に。いいな。

 ――うん、それは約束する、絶対に。

 ――本当に、だぞ。

 ――うん。

 ――ほかの連中にこんな話をしたところではじまらない。河村を信じて言うのだが、これからの話しも、絶対に結果が分かるまでは、誰にでも黙っていてくれ。

 ――うん。わかった。

 僕は、きっぱりと言った。

 中島は、僕と密約をかわしてほっとしたのか、呟くように、

 ――たった一つ心残りになるものがあってね。それは、小さな妹と、寮へ戻る前に約束したもので、それを妹に届けてやれなくなってしまったことでね。そのことが、ちょっと気にかかってね。約束の品は寮に買って置いてあるのだが。

 と、言った。

 僕は、中島に意外にやさしいところがあるのを発見し、その品物を出来たら僕がなんとかしてやりたいとさえ思った。しかし、このことは前後判断して実行しかねると、僕は、迫ってくる彼の死に悲しみを覚えていた。

 学生食堂といっても、そこは物置か倉庫を改築して一時的に設けられたものだろうか。十坪ほどの薄暗い部屋の中に、いくつかのテーブルが置いてある程度で、その入口近くの調理台をはさんで、三十五、六の小綺麗な女性と十七、八の可愛らしい女の子が手持ちぶさたに、のんびりとなにかを話していた。客は、たった一人で、なにかの講師と聞いていた先生が、僕たちが入っていくと、少し顔をあげたが、すぐに又、スパゲティの皿に顔をうずめていた。その脇の壁の上方には、同じ学年の、美術展に入選したという学生が描いた半裸体画が、大きくのしかかるように飾られてあった。

 僕たちは、入口脇のテーブルに席を取り、中島は入口の方を向き、僕は中の方を向いて座った。テーブルの上には、バラの花の一輪ざしが小さな白いレースの上に置かれてあった。僕はなにか勝手が違うようで、少しの間、腰が落ち着かなかったが、中島は、僕の目には、なにかゆとりがあるように、どっかと落ち着いてみえた。僕は、なにか中島には自信があるようにみえ、彼に対するのには自信を持ってしなければと思った。

 中島は、僕に、

 ――カルピスにしようか。

 と、同意を求めるように言い、僕がそれに頷くと、彼は、テーブルの脇に立っている女の子に、

 ――つめたいカルピス、二つ。

 と、見上げるように声をかけた。僕は、こんな時、自分が先行しなければいけないのにと、どうしたことか病気でひとテンポ遅くなっている自分に苛立つものを覚えた。

 女の子が去りかけると、中島は、背後からそれと示すように、

 ――なにもこうした俺たちの苦しみや悲しみもなさそうな、あのような女の子が、なにか羨ましくさえ思えてくる。

 と、不意に、ぽつりと言った。僕は、こうした言葉が彼の口から出てくるとは考えにも及ばなかったので、なぜ中島がこうした感傷にとらわれているのかと思いながら、

 ――そうだね、苦しみやその悲しみを知らないで生きているとしたら、羨ましいね。

 と、相槌を打つように言ったが、なにか自殺を前にしている中島には、しっくりしないような気がした。

 暫くしてから、カルピスが運ばれてくると、中島は咽喉が乾いていたのか、ひと思いにそれを飲みほし、周囲に気を配るようにしてから、

 ――どんな場所がいい? あれをやるのに。

 と、言った。

 僕は、今更俺に問いかけてくるまでもないではないかと思いながら、彼の自殺行も心細いと不安になって問い返すように言った。

 ――どんな場所って、もう、そのような場所は決まっているだろうに。

 ――うん、それはもう。しかし…。

 ――しかし、なに?

 僕は、その先が気にかかって尋ねた。

 ――俺は、もう自分では、どこでやるかを、その場所をきっぱりと決めているけど、しかし、その場所でも、やるところが。

 僕は、ここで初めて中島が最初に言った言葉を理解し、

 ――ああ、それだったら、きみが心残りにならないところが一番いいじゃないのかな。それに、自分のイメージに一番かなったところを選べば。

 と言った。

 ――うん。

 ――それに薬を飲んでから、すぐには誰にも見つからぬ安全な所を選ばなくては。

 ――うん。俺もそれを思っているのだが。

 中島は、ようやく調子に乗ったように受けこたえたが、

 ――あそこにそんな場所があったかな。

 と、ひとり言のように首を傾けてみせた。僕は、中島のその表情を見て、これは場所がしっかり定っているなと思いながら、尋ねずにはいられない気持ちになって、

 ――山?

 ――…。

 ――それとも海?

 と、せき込むように尋ねた。が、僕は尋ねてしまってから、自分の言葉に気まずさを覚え、僕はどうしてこんな馬鹿げたことを尋ねてしまっているのかと、情なく思った。僕は、中島が僕のそのような問いかけに素直に応えるわけがないくらいのことを、初めから知らないわけではなかった。

 中島は言った。

 ――それはいえない。いくらキミだからといっても。

 ――どうして?

 ――万が一ってこともあるし。

 僕は、彼にそんなにまで信頼されていないのかと思うと情なかった。が、それ以上に中島は死に対して慎重になっているのではないかと思い直すと、彼の気持が分かるような気がした。

 ――そんなに信用できない?

 僕は、故意に言った。

 ――いや、そうじゃない。用心に用心をしなければ…。もしものことで、知れ拡がって、未遂に終わってはかなわないからね。

 その時、隣りのテーブルにいた講師が立ちあがって、外へ出て行った。僕たちは、ひと時、言葉を閉ざしたが、その後も、まだ終っていない始まったばかりの重苦しい話を続けようと、その場に、じっくりと腰を落としていた。

 食堂の若い女性も女の子も、もとの位置から殆ど動いた様子もなく、のんびりとした放課後の空気に、のんびりと話の花を咲かせていた。

 いつか、話も尽きて、時どき途切れるようになっていた。僕は、息詰る沈黙に気を紛わすように、花瓶から一輪差しのバラの花を抜いた。そして、僕は、それを見るともなく、漠然と手で弄んでいた。中島の目が僕の手に、じっと注がれていることが、僕にはそれとなく分かった。けれども、彼は、僕に言葉をかけるふうもなく、僕の沈黙に比例するように、彼もまた沈黙を続けていた。

 ……僕は、いつか中島の意外な行動力を思っていた。

 節分の日だった。僕は、中島に誘われるままに、午後のフランス語の授業をサボって、電車に乗って、鎌倉の八幡宮に向かった。豆撒きの行事が午後一時から行われるといい、彼は、一度ぐらい見ておいたらと、僕に奨めた。僕は、そんなものを…と、もの憂く考えていたが、一度ぐらい付き合ってみるかといった気持で、彼と行動を共にすることを同意していた。午前中は、雪が降ったり止んだりで、たいした様子もなく、雪も積る気配もなかったが、僕たちが鎌倉駅に下車した時には、一面に雪が散り交い降り頻っていた。白一色で、こんな日でも豆撒きをやるのかと、心配したが、彼は、ナニ小止みになればやるさと、それほど気にするふうもなかった。

 雪は、いつ止むともなく降り続き、豆撒きの行事が延びにのびて、始まった時には午後三時をすぎていた。早くから来て待っていた者は、あるものは焦れ、あるものは苛立ち、あるものは帰っていったりもしたが、いつか舞殿の四角い周辺には、二三百人の人達が集まっていた。なにか疎らな感じで、この舞殿の周辺にしては余りにも空間があり過ぎると思った程、雪あがりの豆撒きの行事が荒削りに粗末なものに映った。僕たちは、豆撒きが小止みになるまではと、近くの酒店で、コップに焼酎を二杯ずつ飲んでいた。僕は、体が暖かくなるほどに軽く酔い、中島は、アルコールに強い体質なのか全く酔ったふうさえみせなかった。僕は、酒を飲んでも冷静なヤツだと思っていた。

 しかし、彼は、どうしたことか豆撒きの行事が始まろうとした時、いつ僕の傍から離れたのか、僕が気付くと、彼は舞殿の縁までとび出していき、右に左に、年男たち裃の裾を引張り、狂気のごとく、豆の袋を乞い求めていた。年老いた年男の名士も、若い女優も困惑そうにしながらも、

 ――福ハ内、鬼ハ外。

 と声を張り上げ、その声で依怙贔屓をカバーするように、それとなく彼のために、零れるように、豆袋を床の上にパラパラと零し落していた。中島は冷静どころではなかった。激しさの権化のようになっていた。こんな彼を初めてだった。

 僕は、中島の動きに異状を覚えながら、(中島がこんなことを。)と、初めて見る彼の異様さに驚きながら、どうして彼が、こんな常識はずれの事を平気でするのかと疑問に思った。酒のせいかもしれないとも思った。豆を拾うためには手段を選ばないのかもしれないとも思った。しかし、僕には、彼の神経が理解出来なかった。彼は上衣のポケットにも、ズボンのポケットにも、三角の紙袋に入った豆を溢れるばかりに、ぎっちりと詰め込んでいた。僕は、こんな彼を見て、彼のために一つの豆袋を拾うことにさえ拾い取る気力を失っていた。

 帰りがけ、八幡宮を出たところで、中島は言った。

 ――どのくらい拾った?

 僕たちは、広い道の中央部にある桜並木の参道を歩いていた。

 ――なんにも。

 ――え、なんにも?

 ――うん。

 彼は、僕を怪訝そうに見たが、それ以上なにも言わなかった。彼は、けだるそうに黙々と歩き、僕もまた黙々と駅に向かって歩いた。

 ――アイル・ネバ・シ・ユー

 耳もとで囁く声に、僕は我に帰ると、中島は僕をじっと見詰めていた。僕は、いつか一輪差しのバラを手にしたまま、思いに耽っていた。僕は、余りに聞きなれぬ発音に、不意をつかれてか、よく聞き取れなかった。僕は、彼がおかしなことを言ったと怪訝に思いながら、

 ――え、なに?

 と、問い返した。彼は、一瞬、目を見開いたが、

 ――アイル・ネバ・シ・ユー

 と、繰り返し言った。僕は、彼が「永遠にさようならだね」と言っていることが分かったが、

 ――仕方がないさ。

 と言ったまま、いつまで経っても出てこない言葉を弄るように黙っていた。中島もまた、それ以上話しかけてくる様子もなく、互いにじっと顔をみつめていた。

 暫くして、僕は制しても制し切れない何物かに誘われるように、ふらふらと立ち上がり、テーブルの脇に出ていた。これはいけないと思う間もなかった。僕は、慌てて自分の動きを制したが、その時には中島の肩に手をかけ、

 ――おい、中島。

 と、今にも彼に挑みかかりそうな気配になっていた。僕は、今し方、心の中で交錯している白昼夢をそのままに実行にかかろうとしていた。

 僕は、白昼夢の中で、彼のアドルムを奪い取ろうと、この狭い学生食堂の中で組みつほぐれつ必死だった。

 中島は、怪訝そうに僕を見上げて、

 ――なに?

 と言ったが、その目は鋭く、僕の動きを凡て見抜いているように、僕には思えた。僕は、逃げ出していきたい気持で

 ――うん。

 と、それとないふうを装い、心の姿態を立て直すように言った。

 ――外へ出よう。

 僕には、これしか今の格好からして言葉がなかった。僕は、中島の肩に手を当てたままだった。

 ――え、外へ?

 ――うん。

 ――外へか。

 中島は、なにか不満そうで、立ち上がるのに腰が重そうだった。僕は、中島の気持を察し、咄嗟に、

 ――もう少しここに居るとしようか。

 と言って、もとの椅子にずるずると腰を落したが、僕は、自分に助け舟を出すことが出来たことにほっとしながらも、自分の失態になんともいえぬ苦渋を覚えていた。

 学生食堂を出ると、校庭には、先ほどフットボールのキックを練習し、飛び回っていた連中は、もう姿を消していた。四時をまわったばかりの陽差しはやや弱まっていたが、地上はまだ強い白の反射で眩ゆかった。校舎の陽影が長く延び、それが一時間余の時間が経っていることを物語っているようだった。

 中島は、二、三歩そこから足を踏み出すと、ふり返りざまに、言った。

 ――ここで別れるか、どうする?

 僕は、そのことがなにを意味しているのかよく分からなかったので、

 ――え、どうするって?

 と、問い返した。僕には、彼が、ここで別れてもよいと言っているようにもとれ、また、もう少し一緒に居てくれと言っているようにもとれた。けれども、僕は、彼と共に一緒にまだ居たい気持で一杯だった。が、もし彼がこのまますぐに別れようというなら、きっぱり別れてやろうという気になっていた。僕は、未練で、彼に気まずい思いをさせたくなかった。

 彼は言った。

 ――別れる? それとも?

 ――どっちでも。

 ――どうしようか。

 ――それは、中島、キミ次第で…。キミがこれ以上オレと一緒にいては邪魔になると思うなら、すぐに別れてもいいし、キミが邪魔にならないからもう少し一緒に居ろというなら、オレは一緒にいてもいい。兎に角、キミの出発に、キミの邪魔になるようなことをしたくない。

 すると、中島は、

 ――そうだな。

 と、少し考えるようにしてから言った。

 ――それでは、いつまでも別れを惜しんでも同じだから、ここで別れるとするか。

 ――キミがその気なら。

 ――じゃ、そうしよう。河村は、体にくれぐれも気を付けてな。オレの分までも。

 ――ありがとう。

 だが、中島はどういうつもりで僕にこんなことを言っているのだろうと、僕は思った。自殺に向かう人間が、体を、生命を大切にと言っていることが、なにか矛盾のように思えた。しかし、僕は、彼が僕の体に気を使ってくれているのに有難い思いがした。僕は、彼こそ生命を大切にしてくれればと、ひそかに祈る思いになった。

 ――では、これで永遠にさようならだね。

 中島は言った。彼は歩き出そうとした。

 ――ああ。

 僕は応えたが、

 ――永遠なんて、嘘のような気がする。

 と続けた。僕は、永遠とはいってもすぐ間近のような気がし、また再びどこかで中島に会えるような気がした。しかし、彼は、どう判断したのか、急に剣幕も荒く鋭い目で、

 ――それはどういうことだ?

 思い掛けない強い語調で迫ってきた。僕は、その剣幕に気押され、中島は完全に言葉の意味を取り違えていると思いながら、もっと穏やかに納得させる言葉を選んで、ありのままの気持ちを言った。

 ――オレはね。死後の世界でも、ここで別れてもいつかどこかでまた会えるような気がするといっただけだよ。

 ――死後の世界で?

 中島は、怪訝そうに問い返した。

 ――うん。

 ――そんなバカな。死後の世界なんて、死ねばなんにもないじゃないか。

 ――それは、なにもないかもしれない。けど、魂かなんかで…。

 ――冗談じゃない。そんなこと信じられるものか。魂だって?

 ――でも、そんな気がする。

 ――まさか。

 しかし、僕は、自分ながら旨い言葉が言えたものだと思った。僕は死後の世界など微塵も信じていない。しかし、それにしても、よく僕の気持ちを彼に表現したものだと思った。

 ――では、ここで、きっぱりと別れよう。

 中島は言った。

 ――うん。

 ――バイ。

 ――さようなら。

 僕たちは、同時に背を向けて反対側に向かって歩き出した。が、僕は、二歩、三歩と踏み出すと、どうしたことか、僕は後髪を引かれて、もうそれ以上歩き続けることが出来なかった。僕は、立ち止まり、中島の後姿を目で追った。中島に未練が残っていた。

 中島は、大柄な太った躯を重く引きずるように、校舎の影を伝わり、のっしのっしと校舎の角に向って小さくなっていく。僕は、もうこれが中島の最後の姿になるかもしれないと思うと、これまで気にも掛けていなかった別れの感情が溢れ、涙が込み上がってくるのを覚えた。頬は濡れ、涙で目が霞んでいった。

 あいつばかりは死なせたくはないのに…。あいつが死んでしまえば、僕はどうしたらいいというのだ。どうすればいいというのだ。いや、これは僕ばかりではない。あいつを取り巻いていた連中も、肉親たちも、あいつの死で、どんなに動揺し、どんなに胸を掻きむしられる思いをするだろう。

 通り過ぎていく嵐に、僕たちがなにを立ち向かえるというのか。個の意思は、他の干渉を許さぬ絶対性を持っている。彼の意思に、どれだけ深く入っていけるというのか。 

 しかし、それは兎に角、この事は、今すぐにでもあいつの実家へ知らすべきだろうか。いや、それさえ、あいつの意思を尊重したら、知らせてはならないのではないだろうか。それに、あいつの実家ばかりではない。あいつを取り巻いていた連中たちにさえも。

 これは僕だけの秘密にして、あいつとの約束通り、僕は、じっと耐えていればいい。もし失敗して、その前に僕が口を割っていようものなら大変なことになる。冷酷と言われてもいい。非難を浴びてもいい。これが、あいつのために一番いいことになる。そうだ、僕は、あいつの意思と心中しよう。

 僕はそう思い、気を新たにした時、中島の姿は豆粒大になり、今にも校舎の角を曲ろうとしていた。僕は、彼がひと目でも振り返ってくれることを願った。が、彼は過ぎてしまった足取りに気を配る様子もなく、未来を振り切るように、さっさと校舎の角に消えた。

 僕は、彼が永遠に飛び込んでしまった図を見てしまったような気がし、いつまでも、陽のかげった校舎の角を、じっと見ていた。

 永遠にさよならだネ、永遠に。

 僕は、そんなことを、ぼおっと思っていた。

 暫くして、僕は校庭を駅に向って五歩十歩と歩き出した。が、僕は、気が重く滅入りがちになっていた。足を前へ運ぶことすら大儀で努力がいるほどであった。

 西日は、僕に向って強く照りつけていた。

 僕は、中島から離れて、今更のように彼の比重の重さを知った。僕は、彼を失おうとしていることで、僕自身大きな支えを失いかけていることに愕然とした。僕は、蹌踉めき、自分を励ますように歩いた。

 涙がどっと堰を切って溢れた。ままよ。気がすむまで泣けばいい。涙が、僕の悲しみの重さを凡て知っている。しかし、僕は、いつまでも泣いて歩くわけにはいかなかった。

 僕は、気を取り直し、しっかりしなければと思った瞬間だった。いきなり自分の体が、なにかの衝撃を受けたかと思うと、上から下へと垂直に、ドドッと崩れ落ちていった。が、次の瞬間、自分が炎天下の白い地上に茫然と立ちつくしていることに気付いた。僕は、夢かと思った。零の地点に立っているのでは…と思った。僕はなにもなかった。脱け殻も同然になっていた。が、僕は、なにか生れ変っているような気がした。視界が新しい世界のように映った。

 しかし、それにしても、魂が僕から勢い抜けていったはずなのに…。僕は地の中に消え失せてしまったのに…と、僕は、今こうして地上に立っていることが不思議だった。

 どうしたのだろう? なんだったのだろう?

 僕は、訝かり、現実に抜け出た自分を思った。

 とその時だった。僕は、背後から中島が死んでしまう、中島が死んでしまうという衝動にかられ、思い出したように夢中に歩き出していた。

 裏門と呼ばれる通用門の小さな門から一人の学生が入ってきた。一本の大きな樟が目に映った。けれども、今の僕には、気が動転してしまっているせいか、はっきりと目に入らなかった。足は地に着かず、僕は、こんな時交通事故かなにかの事故にあうのではないかと、気を締めてかかった。

 緑の木木が流れた。広い道の両側の建物も、道路も、人々も、車も、みな浮いていた。凡てが重力もなく、ふわっと浮いているように映った。僕は懸命に自分を引き締め、間違いが起こらないようにと歩いた。

 駅に着いても、電車に乗っても、同じだった。気持は浮き、足は地についていなかった。僕は、しっかりせねばと、と更に自分を引き締めたが、背後からは、中島が死んでしまう、と、たえず興奮が僕を追いかけるように迫っていた。

 僕は、その興奮に敗けまいと思った。僕は、どんなことがあっても中島のことを口にすまいと、堅く自分に誓った。

 電車は、傾いた太陽に向かって、海辺を走っていた。

 

 中島と別れて四日目の六月二十七日の夜、僕は彼の消息を思って寝つかれぬままに布団の上に横になっていた。睡ろうとしても、なにか昂ぶるものがあって、目が冴え容易に睡れそうもなかった。僕は、ひとり彼の消息を思ったところで、どうにもならぬと自分を慰め、明日を思って、自分をなんとか睡りにつかせようとしたが、昂ぶる神経は、ますます昂ぶるばかりで、僕を睡りから引き離すばかりであった。

 僕は、焦立つままに目を閉じ、今夜も睡れぬのかと諦めかかっていた時だった。僕は、なにものかに誘われるように、吸い込まれるように睡りに引きずり込まれていった。僕は、これは睡れると思ったまま、ウトウトとしかけた瞬間だった。

 僕の胸ぐらの上に、なにものかが急に重くのしかかり、僕は、その苦しさにはっと目を見開こうとしたその瞬間だった。夜闇を劈くような、—ギャー!—という鋭く激しい高い叫びを聞いていた。

 僕は、何事だろうと跳ね起き、耳にやきついた絶叫の所在を求めた。が、夜は更けていて、しいんと家の中は静まりかえり、何事も起った気配がなかった。なんだろうと電灯をつけ、再び耳をすまし、あたりの様子を窺ったが、なんの不審に思われることが起こっている様子もなかった。

 ただ夜の深さを告げるように、山間の町の静寂に、小川のせせらぐ音と、地上に落ちて鳴いているらしいジージーと鳴く蝉の音だけが生きもののように聞えていた。

 僕は、それでは今の叫びはなんだったのだろう。あの胸ぐらの重苦しさは…、耳に残っている叫びは…、と、その叫びが信じられなかった。確かに実感として残っているのだが。しかし、次の瞬間、僕はもしかしたら中島が死を告げたのではないかと思うと、すっかりその気になり、枕もとの置いてあった腕時計を反射的に手にしていた。

 十一時五十五分。

 中島は、今の瞬間死んだのだと思った。この時刻に命を絶ったのだ。

 僕は、そう思うと、どうしたことか、僕の中から彼の消息を求める気力が抜けていくのを覚えた。僕は、この幻聴を信じたいと思った。まさかと拒否したくはなかった。

 僕は、いつまでも彼の死ばかりを布団の上で考えていた。悲しみが滲み出し、いつか涙が頬を伝っていた。

 今日も中島の消息が掴めるかどうか、他力本願的な自分の動きにまどろしさを覚えながら、七月三日の朝、学校へ出掛けていった。朝から夏の陽差しは厳しく、僕が学校の門を入った時には、校庭一面が白一色の強い反射で充ち溢れていた。僕は、中島の事はまだ、誰も気付いていまいと思った。もし、気付いているとすれば、誰かが騒ぐだろうと思った。しかし、昨日も一昨日も、その前の日も、中島の事は、誰も知らないかのように、彼の不在を取り立てて言うものはなかった。僕は、昨日や一昨日のように、中島の消息は知れずに今日も終ってしまうかもしれないと、疲れ切った気持で、校庭続きの、木造の体育館を改造した大教室へと、後部の出入口から入っていった。

 教室の中は、授業寸前で講義を受ける学生でごった返し、騒然としていた。誰がなにを喋っているのか分からないくらい、個々の話が雑音のようになって聞き取れることもなかった。しかし、どこかから中島が自殺したらしいという言葉が、その中に混ざって聞こえてきたようで、僕は、身がひき締まる思いがした。

 僕は、とうとう中島の消息は死という状態で迫ってきたかと思った。この騒騒しさは、彼のためのものだったのかと思った。しかし、僕は、すぐには、信じられなかった。僕は、黙ったまま耳を立てていた。

 と、その時だった。奥まった教室の末席の方から、

 ――河村さん。

 と、大きな声が聞えてきたかと思うと、友人の安池が、混雑する人ごみをかき分けるように、机の上を伝わり、慌しく、僕を目指して跳んできた。僕は、これは中島の事でなにかあったのだと思った。安池は、いかにも僕が現われるのを待ちわびていたように、新聞を片手に僕の前に立った。そして息もつかずに、

 ――中島が自殺したことを知っていますか?

 と言った。僕は、中島と無縁の安池が、どうしてこんなに慌てているのだろうと滑稽だった。違和感すら覚えた。中島の死は覚悟していた。

 ――いや、知らないけど。

 ――河村さんは、中島と親しくしていたから、知っているかと思いましたが・・・・。

 ――どうして?

 ――ほれ、この新聞に、中島のことが出ています。

 と、安池は、新聞を僕に手渡し、その箇所を指さした。今朝、いろいろな新聞に目を通していなかったことを迂闊に思った。僕の見た二、三の新聞には載っていなかった。

  「七月二日夕方、鎌倉市十二所山中にて薪拾いの通行人が、東大生風の学生の腐乱体を発見。死後十日ほど過ぎている模様。年令は二十四五歳。現場には二、三の書物が散乱。中山の印鑑所持。」

 僕は、これだけでは、中島の死は決めかねると思った。どこか似ているが、その一つ一つが違っていると思った。東大生風。二十四五歳。中山。僕は、どうにもこの三つが引っ掛った。僕たちは国立大学生。中島は二十才。それに名前が。

 ――どうして、これだけのことで中島ってことが分かる?

 僕は自分の疑問をそのまま安池にぶちつけた。

 ――どうしてって。

 安池は、面白くなさそうに言い、

 ――みんながそう言っています。みんながそう言っているから間違いないと思います。

 と続けた。

 ――そう、みんなが。

 ――ええ、さっきからこの教室の中は、その事でもちっきりで…

 安池は、こう言い、

 ――では。

 と、僕に新聞を残して離れていった。

 僕は、安池が去ると、急に押えていた気持が押え切れなくなり、はやる気持で新聞を見た。が、新聞を持つ手は、がくがくと小刻みに震え、記事は揺れ動き、読むどころではなかった。目は霞み、僕は、どうしてしまったのかと思った。

 どうして、これだけの記事で中島と分ったのだろう? これと判定することは、この記事だけでは難しいはずなのに。

 僕は、ことの起りを思い、どんなことが切っ掛けでこうなったのだろうと、訝かしく思案していた。と、そこへ寮生の増田が入ってきた。

 増田は、普段と変らぬ姿で、スリッパを履き、授業を受けるために手にノートと筆入れを持っていた。僕は妙に思った。みんながこんなに騒いでいるのに、中島と同室の彼がどうしてなんでもないようにしているのかと、分らなかった。

 僕は、増田を怪訝に思いながら、

 ――増田さん、中島が自殺したってみんなが騒いでいるけど本当ですか?

 と、寮の震源地へ探りを入れるように尋ねた。

 ――ええ、本当です。寮の方では大騒ぎで朝からごった返しています。杉山と相沢の二人が警察の方へ、そのために出掛けていったほどです。

 ――それでは、もしかしたら。

 ――ええ、でも。

 と増田は打ち消すように言った。

 ――私は、中島の自殺の話は信用していないんです。

 僕は、意外なことを言う、と思った。僕は、彼が授業を受けにきた理由が分るような気がした。彼は、更に続けた。

 ――新聞には、これといって決め手になることは載っていませんし、あれだけの記事で中島と決めつけるのは、どうかと思うんです。中島は、五日や一週間ぐらい、黙って寮をあけることはこれまでだってあったし、私には何かぴんとこないんです。もっとも今度の十日間の不在は、今までで一番長いんですが。でも、そんな。

 尤だと思った。増田の気持が分るような気がした。増田は、確証がなければ迂闊に行動したくはなかったのだろう。それに、中島に限って、そんなことになってはならぬと祈るような気持もあったのだろう。しかし、僕は、中島の自殺行を知っているだけに、増田の言葉がひっかかった。増田に中島の自殺行を知らせてやろうかと思った。が、中島との堅い約束があるので、それもいえず、今が時期かと判断に苦しみながら、言った。

 ――でも、もしかということがあるから、中島の机の中をよく調べてみたら?

 すると、増田は、吃驚りした表情になり、

 ――急にそんな…。そんなことは、できないです。

 と、慌て怯えるように言った。

 ――どうして?

 ――どうしてって。あれの物に手を触れたと分ったら、後でひどい目にあいます。それだけは…。

 ――でもネ、

 僕は、ここで増田に本当の事を、少し知らせておこうと思って、言った。

 ――僕は、中島が自殺に向ったことを知っているんです。だから、僕が凡て責任を持ちますから、中島の机の引出しを開けてみて下さい。その机の中には、遺書や書き置きが入っているはずです。

 ――え?

 増田は驚いた表情で僕を見詰め、

 ――本当ですか。

 と、言った。

 ――本当です。僕が責任を持ちますから、是非、机を開けて、遺書や書き置きを確認して僕にその結果を教えて下さい。僕が一緒に行って調べてもいいんですが、僕が出掛けていったら、自ら事を荒立てているようで、自殺に向った中島に、約束を破るようで済まない気がしますので。

 ――ええ、それでしたら、もう。

 ――しかし、この事は、中島の自殺が判るまでは絶対に他の者に話をしないで欲しいんです。中島との堅い約束がありますので。

 ――はい。それはもう口が裂けても。

 ――それでは、お願いします。僕は、校庭に出ますから。

 その時、授業が始まっていて、経済の若い講師が入ってきた。

 ――では。

 僕は言って、増田を誘うようにしたが、彼は、動く気配もなく、

 ――授業が終り次第、すぐに机の中を探してみますから。

 と、中島の自殺行よりも経済学にこだわるように言って、席を求めて中へと入っていった。僕は妙な気がしたが、その事よりも、二時間の授業時間をどうやって外で過そうかと、その大儀を思って、やりきれない気持になっていた。

 いつか、新聞の記事が中島のものかどうか分からないまま、午後になっていた。

 朝から警察や関係役所に出掛けている杉山や相沢は、まだ戻っている気配もなかった。学校側も、寮生も、学友たちも、みな杉山たちの帰りを、今や遅しと、首を長くして待っていた。彼等は、新聞の記事と現場にあったという遺留品を中島のものかどうか、確認のために警察や関係役所に出掛けていっているということであった。

 しかし、杉山も相沢もどうしたことか、なかなか戻って来なかった。僕は、もしかしたら、鎌倉の警察署や関係役所だけではなく、十二所山中の現場へ行ったのではないかと思った。そうでなければ午前中に戻れるはずだろうにと、彼等の遅い帰りに、僕は焦いらしていた。

 僕は、二階の、校門や通用門の見える教室で、彼等の帰りを今か今かと待っていた。と、そこへ増田が、不意に入ってきた。放課後の教室には、三、四の学生のほか誰もいなかった。

 ――河村さん。

 彼は、僕を捜していたかのように言った。

 ――中島の遺書、いくら机の中を探しても出てきませんけど、おかしいですね。あれから、よく調べたんですが…。どうしたんでしょう?

 僕は、午前中、中島の机の中に入っているはずの遺書が見つからないというので、再度調べてくれるように増田に依頼していた。

 ――そんなことはないはずだが。

 ――変ですね。

 ――おかしいね。

 僕は、増田の報告を鵜呑みに、そのまま信じることは出来なかった。もしや、増田は、中島が戻ってくるのを恐れて、机の中をよく探さないのではないかとさえ思った。

 ――済みませんけど、もう一度だけ、探してみてくれませんか。くどいようだけど。

 ――ええ、もう一度、よく調べてみます。

 彼は真顔で言うと、

 ――では。

 と、厭な顔も見せずに、僕から離れて教室の外へ出て行った。

 が、僕は、中島を信じ切っているせいか、机の中に遺書がないということが、どうにも腑に落ちなかった。僕は、きっと机の中に遺書があるのに違いないと、何か割り切れない気持で一杯になっていた。

 杉山と相沢が中島の報を持って帰って来たのは、それから間もなくのことだった。

 午後三時を既に過ぎていて、校庭には校舎の影が長ながと落ちていた。杉山は、意気込んでいるのか、傍にいる相沢にかまう様子もなく先を急ぎ、相沢はそれを追うように小走りに歩いていた。杉山は、長髪をふりかざし、朴歯の下駄を大まかに、手拭いを尻尾のように不様に長くぶらさげていた。

 僕は、彼等の姿を二階の窓でとらえると、一刻も早く中島の生死を知りたい気持から、教室をとび出し、彼等の姿を追って玄関口の方へと階段を下っていった。が、彼等の様子から、今朝の新聞の記事は中島のものに間違いないと、僕は胸騒ぐものを覚えた。しかし、杉山と相沢は、どこへ消えてしまったのか、僕が玄関口に行った時には、どこにも姿を見せなかった。時間的にいっても間に合ったはずなのに、おかしいなと、あちこちと訝かりながら彼等の行先を探し求めた。

 けれども、中島との経緯があるので、積極的に彼等を追う気にはならなかった。しかし、彼等が戻ってきたからにはすぐに中島の事は分るだろうと、僕は、それとなく情報を弄るように、校舎のはずれの寮に近い学生課の部屋から、寮へと足を延ばしていった。僕は、今朝の記事だけは、中島かどうか確かめたい気持で一杯だった。

 しかし、どうしたことか、寮には殆ど学生たちが居る様子もなく、しいんと、休日のような空気が澱んでいた。僕は、更に足をすすめ、中島の部屋の前へと向かった。が、中には誰も居る気配もなく、ガラス越しで見る中の様子は、常日頃の部屋となんにも変るところはなかった。どうしたのだろう。中島の事で、寮は渦巻いているはずなのにと、余りの静けさが信じられなかった。

 僕は、中島の部屋に入ろうかと思った。そして、机の中をよく調べてみようかと思った。が、誰もいない部屋の中に入って怪しまれたらと思うと、僕はそのまま誰にも見られないのを幸い、寮を離れて、再び校舎へと戻っていった。

 と、その時、背後から、

 ――河村さん。

 と、僕を追うように声がかかった。増田がいそぎ近づいてきた。僕は廊下の真中にそのまま立ち止って彼を迎えた。僕は、中島のことが気にかかっていた。

 ――杉山が戻ってきたけど、あの記事は中島の?

 僕は、増田が僕を呼び止めた話も聞かずに、彼をとらえるとすぐに、気持を押え切れずに尋ねた。僕は、増田が中島と同室の関係から、中島の情報を既に入手しているものと思っていた。

 ――ええ、そうなんです。

 ――やっぱり。

 ――私、吃驚りしました。

 ――やっぱり、中島か。

 僕は、覚悟していたものの、息が詰った。しかし、既に彼の死を諦めていたせいか、ある程度以上には動揺はなかった。なにか憑き物がさっと落ちたようで、僕の中から張りが消えていくのを覚えた。増田は、じっと僕を見詰め、僕に会わせるように暫く黙っていた。廊下は薄暗く、どこにも人の気配はなく、しいんと静まり返っていた。

 ――それからですがね。

 増田は、気遅れしそうに言った。

 ――あれが机の中から出てきたんです。

 僕は、それみたことかと思った。中島がオレに嘘を付くわけはないと思った。

 ――本当に、不思議なことってあるものですね。私は、河村さんに言われて、すぐに机の中を、ほじくり返すようによく調べてみたつもりなんですがね。その時には、どうしても見つからなかったのに。どうして、今度、あれの自殺が分って机の引出しを見たら、遺書や書き置きなどがぞろぞろと出てきたんでしょう。しかも、机の大きい引出しの一番上に判り易く入っているなんて。本当に信じられない。私は、どうかしていました。おかしなことがあるものですね、本当に。

 増田は首を捻り、釈明するように言った。

 僕は、そんな馬鹿な事があるものかと思いながら、思い付くがままに言った。

 ――誰かがどこかへ持ち出していたのでは。

 ――さあ、それは。

 増田は、分らないというように返事をした。

 ――しかし、変ですね。

 ――ええ。

 ――それで遺書や書き置きはどこにあります? 僕に見せて下さい。

 ――いや、それが生憎、今、私の方にないんです。

 ――どうして?

 僕は、増田がおかしなことを言うと思った。

 ――杉山と相沢がそれを持って警察の方へ出掛けていますから。

 ――警察の方へ。

 僕は、杉山と相沢が中島の遺書などを持って、先刻彼等が学校に戻ってきたような恰好で、昂ぶるように学校を離れていく姿を想像した。

 ――それで、なんと遺書や書き置きに書いてありました?

 ――いろいろと一杯ノートや原稿紙に書かれていましたが、日記には、苦しい苦しいということが、どのページにも書かれていて、いかに生きることに苦しみ悩んでいたか、よく分るような気がしました。私には、あれの日常からは全然想像することができませんでしたけど。

 ――そう、そんなにまで。

 僕は、相槌を打ったが、中島の苦悩が分るような気がして、中島の日日のつらさの限界を思った。

 ――ええ。それに書き置きには、両親に宛てたものと兄弟肉親に宛てたものとがあり、そこに細かく気を配って、皆のことをそれぞれに、原稿用紙に四、五十枚書いてありました。特に妹さんに対しては、とても気を使っているようで。

 ――妹さんに対して。

 僕は、中島との別れ際に、彼が妹に届けたいものがあるが届けることが出来ないのが残念だと言っていたことを思い出した。僕は、中島のヤツ、余程、妹のことが気にかかっていたのだな、と思った。

 ――それで、なんて?

 僕は尋ねた。

 ――なにか約束の物が買ってあるけど届けてやれなかったということや、そのほか日常の事から将来の事までいろいろです。

 ――そんなにまで。

 ――ええ、

 増田は言い、

 ――自殺ってものは、血がさせるのでしょうか?

 と、思い付いたように不意に言った。僕は、おかしなことを言うな、と思った。

 ――どうして?

 ――ここでしか言えないんですが、中島の姉さんが嫁ぎ先でやはり自殺しているんです。

 僕は、意外なことを聞いてしまったと思った。信じられなかった。

 ――中島の姉さんが?

 ――ええ。

 ――本当に?

 ――ええ。

 増田は、じっと眼鏡ごしに僕を見詰め、僕の反応を待つように続けた。

 ――やはり血でしょうか?

 ――いや、それもあるかもしれないけれど、それはあくまで遠因ぐらいで。

 僕は、中島を庇うように言った。僕は、彼の自殺を自殺の家系がさせたとは結び付けたくはなかった。彼の意思と決断が、血を、自殺の系譜を上回っていると思いたかった。

 ――自殺の血の家系よりも、本人の意思じゃないかな。

 僕は、言った。

 ――本人の意思?

 ――ええ、それが主だと僕は思いますけど。

 ――そうですかね。

 増田は言ってから、考え込むように廊下に目を落した。

 僕は、これ以上、この話を続けることに疲れを覚え、増田に応じるように、重く口を閉ざしていた。

 

 中島の家からの連絡で、一日置いた五日の昼頃に家族の者が学校に到着するということになっていたが、僕は、四日の日も気が落ち付かぬままに学校へ出掛けた。学校では授業を行っていたが、僕は授業など受ける意思は全然なかった。中島のことだけが一杯で、それだけで学校へ出掛けてきたようなもので、中島の事がなければ、ゆっくりと病気あがりの体を家で休めていたかった。夏の陽差しも暑さもこたえ、僕は極度に疲労を覚えたが、中島の事が分っていて、そのままにしていることは、なにか僕の気が許さなかった。僕は僕なりの方法で、彼を弔い、彼を送りたい気持で一杯になっていた。

 僕は、その日、学校に着くと、中島の事でなにも為すことがないまま、ぶらりと、彼の部屋から校庭の方へと出た。授業が始まっているせいか、寮にも校庭にも人影は殆どなかった。しいんと水を打ったように静かで、朝の空気がまだ残っていた。僕は、中島が死んだというのに、この無関心そうな静けさが信じられなかった。みんなどこへ行ってしまったんだろうと思った。

 と、その時、校舎の玄関口から杉山の姿が現われ出たかと思うと杉山は大股で、朴歯の下駄を蹴たてるように僕に近付いてきた。なにかあるなと思った。でなければ杉山が僕に近付いてくるはずがないと思った。杉山は常日頃、中島と寮内で親しく交際していたが、寮とは無縁の部外者の僕が、中島と親しくなればなる程それが面白くないのか、事ごとに、まるで嫉妬に狂った女性のように邪魔を仕掛け、僕と中島の間をそれとなく引き離そうと計っていた。僕は、それを常づね心よく思っていなかったが、杉山を女の性を持ったような奴だと、気にも留めずにいた。が、そんな彼が血相をかえて僕に近付いてくるからには、よくよくのことだと、僕は、彼に気押されぬように腹を決めて、彼を迎えていた。

 案の定、杉山は顔面を蒼白に、怒りにふるえながら、

 ――河村、キサマ、中島が自殺するのを事前に知っていたんだってな!

 と、今にも僕の首を締めかねない激しい語調で、言った。僕は、増田に中島の自殺行の話をしていたので、そのことが杉山の耳に入ったのだと思った。

 ――ああ、知っていたけど。

 僕は、事もなげに言った。

 ――知っていたら、どうしてとめなかったんだ! え、どうしてとめなかったんだよ。キサマが中島を死なせたようなものだ!え、キサマが。

 杉山は、僕を激しく責めたて罵りたてた。僕は、なにも杉山に非を責められるような事をしていないと思いながら、誰がその場に居合せても結果は同じようになっているのではないかと、分別のない杉山を情なく、反撥するように言った。

 ――とめてどうする。とめたところで、どうにもなりゃしないじゃないか。

 すると、杉山は、感情も露骨に僕を睨みつけ、

 ――なに!とめたところでどうにもならないって!

 と、絡むように僕に食ってかかってきた。

 ――ああ、とめたところで、どうにもなりゃしない。

 僕は、繰り返し同じことを言った。

 ――どうしてだ、どうして!

 杉山は、なお執拗に僕を責めたててきた。僕は自殺はあくまで本人の絶対の意思で、他の者は、そこまで立ち入ることが出来ないと、僕なりの気持を言おうとしたが、煩わしさに、

 ――どうしても。

 と、同じことを言った。僕は、杉山に幼いあくたれ童子の姿を見出し、それ以上言う気がしなくなっていた。

 すると、杉山は、どう意味をとり違えたのか、

 ――そんなに力がなければ、オレやオレたち仲間にひと言でも言ってくれたらよかったものを。なんとかなったかもしれないのに。

 と、僕のとった無処置のような処置を詰るように言った。僕は、こんな杉山に抵抗を覚え、彼を突撥ねるように言った。

 ――なに、きみたちに知らせたらなんとかなったかもしれないって。冗談を言うな。きみたちに知らせたところで、結局は、オレと同じようにどうにもならなかったのではないかな。自殺は、自殺志願者の絶対の意思であって、オレたちが端でどう騒ごうとも、どうにもなるものじゃない。余計なことをするってことは、自殺に向った人間にとって、どれほど迷惑なことか。

 すると、杉山は、なにかじっと考え込むようにしていたが、不意に、

 ――だからキサマって奴は大嫌いだ。冷たくってぞっとする!

 と、僕を眼鏡ごしに睨み付け、

 ――今にみていろ! きっとこの仕返しをしてやるから! 冷血(!)

 と、吐き捨て、くるりと僕に背を向け、朴歯の下駄に鞭をあてたように、大股で勢いよく歩き出していった。僕は、こんな杉山を見ながら、彼の気持も分るような気がしたが、彼の余りにも一方的過ぎる考え方に寂しさを覚えずにはいなかった。しかし、彼が叩き付けた「キサマって奴は大嫌いだ。冷たくってぞっとする。」といった言葉、それに「冷血」と罵った言葉が引っ掛り、僕は暫くの間、オレは、そんなにぞっとする程冷たいのかな、冷血かなと、その言葉をなん度となく繰り返し繰り返し複雑な気持が募るなかで反芻していた。時には苦苦しさが、時には淋しさが、どっと波打ち押し寄せてくるような複雑な気持の中で。

 暫くして、僕は、そのまま校庭の芝生の上に腰を下ろしていると、そこへ杉山がきたと同じ校舎の正面玄関から、同じ学部の女子学生が四人、ぞろぞろと束になって近付いてきた。僕は、また中島のことだな、と大儀に思った。彼女たちは口々になにか話をしているのか、互いに顔を突き出し、軽く手を上下に動かし、首を小さく振ったりしている様子だったが、僕と向いあうところまで近付くと、話をハタと止め、先導格の富山園子が、彼女たちの代表者のように一歩抜け出し、

 ――河村さん。中島さんの事でお聞きしたいんですけど、中島さんは、なにが原因で自殺なさったの?

 と言った。

 ――さあ、よく分からないけど。

 ――どうして? みんな河村さんが中島さんの自殺について、なんでも知っているとおしゃってますけど。

 僕は当惑し黙っていると、

 ――ね、失恋? それとも。

 と急き込み、尋ねるように言った。

 ――いや。そのことは。

 僕は、故意に考えるように言葉を濁していると、傍から森田ルリが、

 ――ね、河村さん、なにかお知りになっているんでしょう? 中島さんが自殺しなければならない理由を。

 と問い掛けてきた。僕は、富山園子と同じ程度に、語学教室で顔を合すのでよく知っていた。

 ――いえ。

 僕は、更に言葉を濁していると、

 ――やはり知っているんでしょう?

 と、勝手に、富山園子は言い、

 ――原因は、やはり失恋?

 と、失恋にこだわるように尋ねた。

 ――まさか女性ではあるまいし。

 僕は意地悪く言うと、森田ルリは、

 ――では、厭世?

 と、迫った。

 ――さあ、どうかな。

 僕は、また言葉を濁していると、

 ――おかしいわねえ。河村さんが中島さんの自殺についてなんでも知っているというので、ここまでやってきたのに、変ねえ。

 と、富山園子は、仲間の女子学生に言うと、もはや僕には興味はなさそうに足の向きを変えていた。

 僕は、どうして、こうまでも誰かが自殺したら、その理由や原因を取沙汰にしなければいけないのかと思いながら、自殺なんて本人でなければ本当の原因や理由は分るものかと、不愉快な気持になって、彼女たちの後姿を見送っていた。

 その翌日、中島の家族の人たち――父と兄――が予定通り昼近くになって学校に到着したが、それを迎える僕の気持は重かった。僕は、中島の死と彼の肉親を思い、心の中で板挟みになっていた。僕は、中島の自殺行に対して自分としては最善を尽したのにもかかわらず、それがかえって中島の肉親に対して最善をつくさなかったということになるとは、肉親というものは不条理な存在であると思った。情の世界で、理の世界ではないと思った。僕は、中島の家族に、こうした点で最善を尽せなかったことは申し訳ない、済まないと思った。しかし、死んだ中島のためには済まないとは思わなかった。僕は満足し、自分でも合点がいき、これでいいのだと思った。自分のとった処置に後悔はないと思った。けれども、彼の肉親を思うと、良心の呵責のようなものに悩まされ、僕は、どうしたらよいのか分からなかった。あらためて人の情を知らされ、身動きの取れない複雑な心境になっていた。杉山の気持も分る、中島の肉親たちの気持も分るような気がした。僕の気持も人の情としては、彼等となんら変らないのにと思ったりもした。しかし、どうしたことか、中島のために、ことをすすんで弔いの支度をする気にはならなかった。僕は、控え目にしていることが、なにより中島を弔うのに一番だと思った。今の立場としては、僕にはそれしか方法がないのだと思った。凡てを中島の死で活気付く杉山たちに任せて、僕は、今日一日、静かに中島のために冥福を祈っていればそれでいいのだと思った。杉山なら、立派に今日の事は運んでくれるだろうと思った。僕は、杉山たちに任せておこうと思うと、なにか大船に乗った心地になるのを覚えた。僕はこれでいいのだ、これでいいのだと思いながら、自分をしきりに自分なりに納得させ合点させようとしていた。

 朝からの陽差しも厳しく、十時半を過ぎる頃には、温度も三十度をはるかに超えていた。空には、雲の破片すらもなく、すき透るような、眩しい青さがどこまでも続いていた。杉山と相沢は一組になって、朝から、中島の引取りのために役所関係に出掛け、発掘許可証や火葬許可証などの手続きをとりにあちこちにと奔走しているらしく、学校や寮のどこにも姿を見せなかった。中島は、鎌倉の十二所山中で発見された翌朝、人夫たちの手を煩わして、そこから大分隔てた市の仮埋葬共同墓地に、一時的な処置として埋葬されていた。中島の部屋も空で、同室の増田も下級生も、どこへ行ったのか姿を見せなかった。部屋は綺麗に整頓され、中島の家族がいつ来てもよいように、すっきりと掃除されていた。寮生たちは授業に出ているのか、寮内は、しいんと静まり返り、もの音一つしなかった。僕は、中島の部屋に入り、増田か誰かが現れるのを暫くの間待っていたが、誰も現われそうもない様子に、ひとりどうしたものかと落着かない気持ちで思案していた。僕は、朝からなにも為すこともなく、中島の家族が見えるまではと、無為の時間をすごしていた。

 と、そこへ増田がすっと入ってきた。が、増田は、中に居合せた僕に驚かされた様子もなく

 ――やあ。

 と、軽く頭を下げ、

 ――中島の家族が見えないことには始まりませんね。

 と、反射的に今まで腰掛けていた中島の机から離れた僕に、向い合いざまに言った。

 ――そうですね。

 僕は、相槌を打ちながら、寮に誰もいない様子が気にかかって、

 ――みんなは?

 と、尋ねた。

 ――ええ、みんなも何も出来ないし、そうかといって遠くへ離れることも出来ないし、それぞれのことを、皆はめいめいにしていますけど。

 増田は言い、

 ――杉山と相沢の二人だけは、色々手続きの事で朝から出掛けています。

 と、付け加えた。しかし、僕は、十二時を過ぎても、まだ戻ってこない彼等が気にかかって、

 ――それで、中島の家族が学校に見える時間までには、彼等は戻ってくるんでしょう?

 と、尋ねた。

 ――ええ。間に合うように戻ってくると言っていましたけど。十二時前後には戻ってくるはずです。

 ――そう。

 僕が頷くと、増田も頷き、

 ――しかし、杉山は勝手が過ぎて面白くないですね。

 と、意外なことを言った。

 ――どうして?

 ――いや。

 増田は、口を濁していたが、なにか杉山に不満があるらしかった。僕は、それ以上尋ねる気にもならず、杉山の、中島に対する生前からの変な独占欲を思いうかべ、苦笑を覚えていた。

 寮の広い食堂で、僕は、増田たちと昼食を共にしていると、誰言うとなく、さざ波が立つように食堂の片隅から、中島の家族の人達が寮の方に見えすぐ学校側に挨拶をし、遺体を引き取りに出掛けるということが伝わってきた。僕は、急ぐように増田と食堂を出たが、一旦、寮の自室に戻ると言う増田と別れて、ひとり中島の家族が立ち寄るという教職員室の方へと向っていった。教職員室のある本校舎の周辺の廊下には、既に情報を知ったのか、中島と多少係わりあいのある学生たちが数人集まっていた。中島の家族の人たちは、まだ、教職員室の方に姿を見せていないらしく、皆、今か今かと、家族の見えるのを待って、どこか落着く様子もなかった。ある者は教職員室内を覗き、ある者は廊下を往ったり来たり、ある者は校舎の外に出たり入ったり、重苦しい時を待つように殆どの者が互いに言葉を交すふうもなかった。僕は、暫く教職員室近くの廊下で皆と同じようにしていたが、思いを新たにするように校舎の外に出ようとすると、そこへ杉山が、六十前後の小柄な老人を伴って、並びの後方の校舎から、歩廊伝いに抜け出すように姿を現した。続いて増田もその同室の下級生も相沢も現われ、僕は、その老人がすぐ中島の父であることが推測できた。老人は、きりっと口許を引き締め、緊張した細面の顔立ちに、隙間のない知的なものを漂わせていた。

 しかし、僕は、家族といっても中島の父一人しかいないのが腑に落ちなかった。兄も一緒に見えたというのに、どうして一行の中に居ないのだろうと思った。歯が一本抜けているようで、おかしな気がした。が、僕は、高校の教師をしている中島の兄のことだから、なにか分別があってのことだろうと、それ以上なにも考えたくはなかった。

 ――では、ちょっと中へいってきますから。

 杉山は、中島の父に断わるように言った。

 ――私も。

 中島の父も杉山の言葉に身を正すように言ったが、杉山は、それを制するように、

 ――ちょっと先に話がありますので、それから、あとで…。

 と、緊張した面持ちで急ぐように教職員室に入っていった。僕は、一緒に入っていけばいいものをと思いながら、杉山が出てくるのを待ったが、彼は、思ったより早くは出てこなかった。僕は、緻密な杉山のことだから、中島の遺体を引き取りにいったあとの打ち合せを学校側と細心にやっているのではないかと思いながら、待ち時間の長さにある種の苛立ちを覚えていると、中島の父が、誰に言うとはなしに、ぽつんと言った。

 ――皆さんが、あの記事が息子だと言って下さらなければ、私は、息子と信じたくないくらいです。あれだけの記事では、どうにも。

 僕は、はっとして顔を上げると、皆も同じように、はっとしたように顔を上げた。中島の父は、悲しみに耐えるように固く口を結び、目にうっすらと涙を浮かべていた。

 僕は、胸を締め付けられるようになり、済まないという気持で一杯になった。多分、万が一にも中島が生きていることを夢に託しているのだろう。僕は、中島の父の言葉が痛々しく悲しかった。なにか自分の力が至らなかったことを、自分とは矛盾した気持で詫びたかった。僕は、心の中で真向から謝罪の出来ない自分を卑劣と思いながら、中島の父に深々とつらい気持で頭を下げていた。

 ――ええ、私たちも、初めはあの記事だけでは信じられなかったのですが。

 相沢は、慰めるように、受け答えて言った。が、相沢は、その先を重い空気に気押されてか、言葉にするふうもなかった。重い沈黙が澱み、皆、俯き加減になっていた。

 中島の父は、誰に言うとなく、再び重い口を開いて呟いた。

 ――学校から通知を受けて、あの記事を見ても、どこもこれと思い当るふしもなく、まさかと思ったのです。もしかしたら、なにかの間違いではないかという気がしたのです。いや、ここへ来る迄は、間違いであってくれればいいがと思ってきたのですが。

 重い空気が更に澱み、僕は、一層胸が締めつけられる思いになっていた。

 教職員室で挨拶を終えた中島の父に添うように僕たちは玄関を出たが、広い校庭を横切って正門に近付く頃には、帯のようにだらだらと長く乱れがちになっていた。杉山と相沢は先頭に案内者として立ち、背後を振り向く様子もなく進み、僕と増田と同室の下級生は、中島の父と歩調を合わせるように、あい前後して歩いていた。陽光は強く照りつけ、地熱も厳しく反射していた。

 と、その時、どうしたことか、杉山が一人忘れ物をしたように大股で戻って来ると、つかつかと僕の前に近付き立ちはだかった。僕は、なにかと思った。厭な予感がした。

 ――河村、もうここで帰っていいや。これからの事は、オレ達がやってくるから。

 杉山は、何気なさそうに言った。僕は、おかしなことを言う奴だと思いながら、

 ――どうして?

 と問い返した。

 ――どうしてって。

杉山は少し口を噤んでいたが、

 ――オマエんとこは学校から遠いし、今日一日歩き回れば帰りも遅くなるから。

 と理由をこじつけるように言い、

 ――な、帰れよ。帰った方がいいよ。

 と、親切そうに、帰ることを半ば強制するように迫った。

 僕は、杉山の言葉に勝手な強引さを感じ、こいつ、まだ感情的になっているなと思いながら、静かに、

 ――帰らないといったら、どうする?

 と意地悪く問い返した。僕は、杉山の気持が分からないわけではなかった。

  「今にみていろ!きっとこの仕返しをしてやるから!」

 中島の自殺が判明した日、彼が言った捨台詞が思い浮かんだ。

 ――どうってことはないけど。

 杉山は、言葉に詰るように言った。

 ――それじゃいいじゃないか、一緒に出掛けたって。

 僕は、追うように迫ると、杉山は、

 ――勝手にしろ! 遅くなったってしらないから。

 と、間の悪さを全身で表わすように、身体を翻すと、先頭に向かって駆けるような早さで歩き出していた。中島の父は、既に先の方を一人で歩き、僕の脇に、増田と同室の下級生がじっと立っていた。

 僕は、杉山を詰まらぬ奴だと思った。もう凡てのことを水に流して、中島のために力を向ければよいものをと思った。

 僕は、杉山と事をかまえたくはなかった。僕は、中島のために、静かに冥福を祈りたいと思う気持で一杯だった。

 途中、鎌倉駅の裏通りの閑散とした午後の関係役所で、葬具屋と二人の人夫を加えると、僕たちは、再び重い足取りで歩き始めた。葬具屋の主人は、はじめ、中島の父に饒舌に当り障りのない話をしたが、僕たちの雰囲気が重苦しいので、次第に喋るのもやめ、いつか僕たちを離れ、ひとり先を歩いていた。杉山と相沢は、相変わらず先頭に立ち、二人の人夫と共に後方をふり返ることなく、若さに任せるように、ぐんぐんと先を急ぐように歩いていた。僕と増田と同室の下級生は、中島の父の歩調に合わせ、次第に先頭グループから引き離されがちになっていた。僕は、行先が気にかかり、杉山たちに、もっとゆっくり歩けばよいものをと思いながら、彼等を目で追ったが、時折、彼等を見失うことがあった。が、彼等は、一向に加減する様子もなく、葬具屋の主人に中島の父の案内役を任せたのか、中島の父など関心がないように、仮埋葬地の中島のもとへと、先を急いでいた。細い山道のだらだら坂を、七つ八つ曲り、大分登ってきたなと思っても、まだその先が見当つかなかった。涯しなく、どこまでもだらだら坂が続くようで、太陽の直射が厳しくこたえた。陽影は全くなく、先を知らないだけに無限の距離を思った。中島の父の足許は、極度に覚束なく、二十数米先に葬具屋が見え、先頭グループは見えなくなっていた。下級生が二三米先に、増田と僕が、気力で歩いている中島の父と歩調を合せていた。互いに言葉もなく、重い沈黙を泳ぐように歩いた。

 と、その時、中島の父は、ひとり言のように呟いた。

 ――あれが、まさか、このような事をするなんて…。とっても気のやさしい、しっかりした奴だったのに。信じられない。本当に信じられないことだ。

 僕は、はっと思い耳を傾けたが、中島の父はそれ以上なにも言わず、俯き加減に重い足を引きずるように歩くばかりであった。暫く行くと、杉山が不意に曲り角からひとり姿を現わし、坂道を逆行して急ぎ早に下ってきた。僕は、なんだろうと思った。厭な予感が僕の全身を包み、またかと思った。杉山の神経が全部僕に集中されているように僕には映った。僕は、増田と中島の父の二三歩後をゆっくり歩いていた。

 杉山は、つかつかと僕の前に立ちはだかると、

 ――河村、ここからすぐ帰れよ。ここから引き返せば、駅もまだそう遠くはないし、これから先は大分あるから。

 といきなり決め込むように挑発的に言った。僕は案の定だと思い無理な親切をこじつける奴だと思った。

 ――いやだね。

 僕は、うんざりする思いで言った。

 ――いいから帰れよ。帰れったら!

 ――いい加減にしろ!

 僕は、杉山のアクに辟易し、我慢の限界がきて、強い語調を叩きつけるように言った。僕は、これ以上大人しく出ていると、杉山はつけあがってくると思い、なんとか制しておかなければと思った。

 ――なに!

杉山は僕の態度に気圧されたのか、むっとしたように言い、

 ――馬鹿やろう。

 吐き捨てたかと思うと、再びもと来た坂道を駆け登るように、さっと僕の傍を離れていった。僕は本当に杉山に厭気がさし、あいつは、どうして何回も同じ事を繰り返してくるのかと、感情的な杉山に激しい憤りをすら覚えていた。

 山肌を切り取って造った山道はどこまでも続き、両側には緑の草木が、草いきれをむんむんさせながら、一杯覆いかぶさっていた。太陽は、殆ど真上から強く照りつけ、どこといって日影という日影もなく、僕は、まだかまだかと、涯しなく続くだらだら坂と強い直射日光に喘いでいた。重い足は一層重くなるような足取りとなり、落伍しがちになる中島の父と同じような速度になっていた。増田もまた同じように、相前後して遅々とした重い足を運んでいた。僕は、どこを歩いているのか、地理の見当がつかなかった。杉山たちの先頭グループの姿は、完全に僕たち後方グループの視界から消え、十数米先の葬具屋の主人が、ただ一つの進行の目安になっていた。僕たちは、話す言葉も涸れ、ただ黙々と歩いていた。中島の父は、時折、立ち止っては深い呼吸をひと息ついていた。

 一軒の立派な家が先方に見え、僕が、おや、こんな山の中にこんな家があるなんてと、家があるのが不思議に思えた。僕は、余りにも立派な家があるのにはふさわしくない山の中過ぎると思った。

 しかし、空が開け、急に明るくなると、僕は再び目を見張った。広い平地が開け、そこを舗装された広い道が、どこまでも伸びていた。

 僕は、こんな山の中に、どうしてこんな立派な道があるのだろうと思って、道に出てあたりを見渡すと、先方の小高くなった山裾で、杉山たち先頭グループが立ち止り、僕たち後方グループに合図を送っていた。二人の人夫は、ショベルをそれぞれ手にしたまま立ち、葬具屋の主人は、広い道から狭い仮埋葬地に通じる小道をけだるそうに登っていた。昔からの村落があるらしく、立派な裕富そうな家が、あちこちに緑の中に点在していた。

 仮埋葬墓地に、中島の父と僕たち末尾グループが到着すると、人夫たちは、中島の父に

 ――よろしいですね。

 と言って、すぐにショベルを動かし始めた。中島の遺体は小道を登ったところの、狭い仮埋葬地のすぐ手近なところに埋めてあった。ほかに幾人かの無縁仏があるらしく、石が点々と置かれていた。おそらくは、一時的に仮埋葬されたまま、引取り人もみつからないままに、そのままにしておかれたのだろう。太陽は一面に厳しく照りつけ、墓地の叢には、長々と、蛇の太く白い抜けがらが不気味に横たわっていた。人夫たちは、職業というのか、死体に余りものおじするふうもなく、せっせと器用に軽くショベルを運んでいた。掘っては砂を空にし、砂を空にしては掘るということに調子を乗せているのか、無言で、汗をびっしょり流す様は、慣れ以外に情が入っていないとさえ思えた。みな、それを、じっと片唾を呑む思いで見詰め、誰もが言葉を口にするふうもなかった。中島の父は、人夫の傍で、じっと、ショベルの先に凡てを賭けるようにみていた。僕は、中島の父に、もしや自分の子でなければよいがと、万が一の期待がこめられているのではないかと思った。

 人夫たちは、次第に小刻みに掘りはじめ、遺体の所在を確認しあうと、二人は、ショベルを傍らに、手で薦に包まれた遺体を、穴の近くに重そうに引き上げた。中島の父の目は、追うように静かだが強く輝き、人夫たちの薦を開く一瞬を、見据えるように見入っていた。皆も同じで、この場は、シインと静まり返った空気に包まれた。

 開かれた薦の内側からは、黒茶褐色に腐爛し、みる影もない中島が出てきた。僕は、まぎれもなくこの遺体は中島のものだと思った。太く高い鼻と顔の輪郭は彼の面影を残し、遺留品の鞄には、おそらくそれを枕にして寝たのだろう、鍵のところに長髪が抜け、ぶよぶよに膨れあがった躯には、はだけた学生服の間から二つ三つと蛆虫がはい落ち、両目には蛆虫が何匹となく生きた白眼が重なりあうように蠢いていた。

 僕は、不気味だと思った。無様だと思った。異臭をぷんぷんと放ち、これが変りはてた中島かと思うと、たまらなく胸が詰った。おそらくは、こんなに腐乱するからには、自分と別れた後、雨が夜激しく降っては日中太陽の強く照りつける日が一週間も続いたせいではないかと思った。そうでなければこんなにひどく腐乱するはずがないとおもった。

 杉山も相沢も増田も…、皆、じっと遺体を見詰め、なにを思ってか声はなかった。彼等の誰もがなにかを思い、なにかを考えているのだろう。

 僕は、グラグラと、腐乱した中島にしがみつき声をかけたい衝動にかられた。死と生の距離感はなかった。僕は、彼に話かけたら話が通じるような気さえした。死は生と隣りあわせてすぐ傍にあると思った。親しめる気にもなり手に取り抱きつきたい気持にもなった。

 と、その時、中島の父は、腐乱した遺体の腹部を靴で軽く触れ、

 ――これが息子だなんて、情けない。

 と、ひとり言のように呟いた。

 僕は、分っていても愚痴を言わずにはいられない父の気持を思って、痛く胸が締め付けられる思いになっていた。おそらく万が一にも遺体が息子のものでなければよいがと祈るものがあったのだろう。打ちひしがれ、悄然と遺体の脇で佇む父の姿はいたいたしく僕には映った。

 棺に詰めた中島の遺体をリヤカーに乗せ、僕たちは、登ってきたとは別の道を使って山を下り、市のはずれの平坦な街の道を、ぞろぞろと疲れた足取りで焼場へと向って歩いていた。舗装された大通りの道の両側には、ぎっちりと家が並び、午後三時半を過ぎてもまだ強い陽差しが残っているせいか、路上は閑散として、自動車も人の姿も数えるほどしかなかった。僕は、地理が不案内で、どこをどう歩いて、ここまで来たのか分からなかった。いや、今、自分がどこを歩いているのか、地名も、市のどの辺に位置しているのか、皆目見当がつかなかった。さんざんに歩いてきたような気がし、これから又、先頭に立つ案内人のままにさんざんに歩くような気もし、僕は、前へ運ぶ足取りも、やや重く引きずりがちになっていた。案内役は、背の高い葬具屋の主人が務め、その脇に杉山と相沢がぴたりと並び、その後にリヤカーを引いた人夫が前後に、またその後に、中島の父の遅れがちな足取りにあわせて、僕と増田と、同室の下級生の三人が歩いていた。

 横須賀線の踏切りを渡り、もう少し歩けばそこに焼場があるらしいと思われるところに近付くと、中島の父は、僕に話しかけるように言った。

 ――私は、あれを亡くして、生きる張りを失いました。がくっときた思いです。

 僕は、慰める言葉もなく、

 ――本当に…。

 と言ったが、どうにもならない心の板挟みに、重くつらい気になるのを覚えていた。

 焼場は、小高くなった山の切通しの広い道を入って、細い道を斜面の林に添って登ると、その行き止りにあった。大きな木々があたり一面に鬱蒼と生い茂り、奥まったところに、煙突が一本突出た余り大きくない隠亡小屋があり、その手前の儘下の見えないところに古びた木造の休息所があった。僕たちがここに着くと、時間を打ち合せてあったのか、担任の大里助教授や生前中島と親しくしていた数人の学生がきていて、僕たちが予定時間よりも一時間以上遅れてきたことを口々にしていた。彼等は余程前から来ていたのだろう。少々待ちくたびれた様子をみせていた。僕たちは、一旦、彼等の出迎えにこたえるようにそこに立ち止ったが、そのまま奥まった隠亡小屋の方へと進み、隠亡に中島の遺体の万事を委ねると、再び休憩室に戻って、中島の遺体が焼きおえるのを待っていた。人夫たちは、用事が終えてリヤカーを引いて帰っていき、葬具屋は、僕たちと共に休憩室内に無造作に設けられたテーブルの脇に、中島の父と並んだ僕と反対側のところに助教授と共に座っていた。杉山と相沢は、出迎えた仲間の寮の学生たちと外に出たまま、いっこうに中に入ってくる気配もなかった。増田も同室の下級生も、疲れたというふうに体を崩し、テーブルの上の茶碗を時折手にしては、でがらしの茶を啜っていた。休憩室の受付の三十前後の小綺麗な丸顔の女性は、僕たちに全く係わりないように、無愛想に外の方を向いたまま、じっと、そこから動く様子もなかった。部屋の中は薄暗く、誰もが言葉を口にするものはなかった。いや、言葉を口にしても、誰もがひと言ふた言いうのがせい一杯で、後は、重苦しい沈黙に呑まれがちな雰囲気に包まれていた。僕は病みあがりのせいか、極度の疲労を覚え、咽喉はからからに渇いていた。

 いつか日も暮れかかり、—みんな上の方へ—と、声がかかった時には、周囲は暗くなり始めていた。誰かが隠亡小屋近くにいて、隠亡から連絡を受けたのだろう。僕たち休憩所に居るものが隠亡小屋に着いた時には、まだ中島の骨は、窯からあがっていなかった。隠亡の姿はなく、集まった者たちが、今か今かとそわそわしていた。僕は片唾を呑む思いで、小屋の出入口の近くでその時を待っていると、三十五、六の隠亡が、骨と灰の入った受け皿を両手で抱え、反対側の出入口から小屋の中に入ってきた。僕は、こんなに若いのに、どうして隠亡として働いているのだろうと思った。これも職業として割り切っているのだろうかと思った。僕は、この時まで隠亡とは年取った世捨人ばかりやっていると思っていた。若い隠亡など信じられなかった。僕は、変な気がし、この隠亡の過去に暗い影を考えたりもしていた。と同時に、受付の若い女性のことも。

 隠亡は、出入口近くの受け台の上に、広い皿を置くと、自ら先に長い竹と木の箸を手にし、

 ――のど仏は、私が拾いますから、後は皆さんで。

 と言って、持ってきた骨壺にのど仏を入れると箸を置き、少しさがったところで、見分けにくい骨をあれこれと拾う者たちの世話をやいていた。中島の父は、

 ――これで倅のヤツもせいせいしたでしょう。

 と、悲しみをこらえるように言いながら、中島の骨を拾っていた。僕は、一緒に骨を拾いながら、この幾片かを自分の家に持ち帰り、彼を弔ってやりたいと、かなわぬ願いをぼんやりと思い考えていた。中島、オマエの骨を食べることが許されるなら、今ここでオマエの骨にむしゃぶりつきたいものを…と思いながら。

 焼場での時間は思ったよりかかり、僕たちがそこを離れた時には日も暮れ落ちていた。担任の大里助教授は、中島の父にふたことみこと小声で話しかけたが、あとは重い沈黙が流れ、皆は黙々と斜面の暗い林にそって粗悪な道を下っていた。外燈の光は鈍く、山の林も、近くの木々も、焼場の煙突も、休憩所の建物もみな黒々と闇に浮き上がり、僕たちは、足許を弄るように、ゆっくりとだらだら坂を下っていた。既に幾人かの学生は先に立ち、杉山と相沢はその連中を追いかけるように僕たちのもとを離れて闇に消えた。

 僕は、骨を胸に抱いている中島の父は、どんな気持でいるだろうかと思った。つらいだろうなと思った。僕は申し訳ないと思い、またどうにもならなかったのだとも思った。僕は、労りの言葉をかけてみたい気持になり、いや、それさえしてはならないと思った。僕は、自分を偽善だとせめ、また、これでいいのだと、自分の正しさを認めようとさえしていた。僕は、中島が自分の意思で、この日を願っていたのだから、僕は彼のために忠実でそれでよかったのではないかと思った。しかし、沈痛な面持の中島の父の姿を見ていると、僕は、人の情として、どうにも忍びなかった。

 広い切通しの道近くに来ると、先頭のグループは、バス停があるらしく、道脇にかたまるように、薄闇の中に立っていた。僕は、オヤと思った。こんな山深い所にバスが走っていたのかと思った。僕は、来るときにここを通ったのだが、ここにバス停があることに気が付かなかったことを不思議に思った。

 日は、すっかり沈み、西の空は夕焼けの名残りがあか黒くめらめらと燃え残っていた。鎌倉駅行のバスは、閑道のせいか、夜の時間のせいか、なかなか来る気配もなかった。薄闇が闇の世界に、一枚一枚とつるべ落しに舞い落ち、次第にその加速度を増していた。僕は、最後に西の空の無残なまばたきを見ながら、中島貞栄の最後の苦悶を思い、彼の絶筆といわれる六月七日付の最後の「戦場」という詩を、瞬間思い浮かべていた。

  さざんか の花が

  火の虫 と共に 舞あがる

  乾いた銀河 の砂漠に

  隊商の灯

  骨の翼 も濡れる

  氷雨 の中を 鴉の弔問

  炎の雲 に旗をかざし

  血染め の墓標 が朽ちる

  稲妻 の落花

 僕たちの一行が大学の正門に入った時には、日もすっかり落ちて夜になっていた。あたりは、すっかり暗い闇に沈み、校舎が先方の闇の中に黒々と浮き上っていた。空には星が三つ四つと出はじめ、僕は、増田と先頭から少し遅れて末尾を疲れ気味に歩いていた。既に先頭は闇に呑まれて見えなくなっていた。と、その時、闇の中を黒い影が列を逆行するように現れ、僕たちの方に向って勢いよく近付いてきた。瞬間、杉山だと思った。黒い影はすらっと高く、朴歯の下駄に、長い尻尾のような手拭いがぶらさがっていた。僕は、はっとし、またか、と厭な気持で彼を迎えた。彼は、僕の前に立ちふさがると、いきなり声も荒あらしく、

 ――おい、帰れよ、ここから。

 と、言った。僕は、お通夜をして帰ろうと思っていたので、彼の言葉は余計なことだと思った。僕は腹立たしさを覚えたが、感情を圧えて、開き直るように、言った。

 ――厭がらせはよせよ。

 僕は、中島のお通夜を前にして杉山と喧嘩などしたくはなかった。中島に顔向けが出来ないと思った。

 ――なに、嫌がらせだと! いいから帰れ! 帰れよ!

 杉山は、むっとするように、昂ぶって言った。

 ――帰らない。

 僕は、きっぱりと意思を表示し、静かに突撥ねた。

 ――どうしてだ?

 ――どうしてって、お通夜をするに決っている。

 ――なにイ!

 杉山は、かっとするように僕に食ってかかってきた。

 ――お通夜をするだと! よくもいい面をしてそんなことが言えるな! キサマなんかお通夜をする資格がどこにあるんだ。それにキサマがお通夜をして遅くなったって、誰が寮で泊める者などいるものか。それにまた、キサマにくれる食べものなど寮のどこを探したってあるものか! たとえあったとしても、キサマなんかに食べさすわけにはいかないのだ。帰れよ。冷血漢! さあ、はやく帰れ! 寮では、だれもキサマなど受けいれるものがいるものか。どうする?

 ――帰らない、お通夜がすむまでは。

 僕は、杉山の一方的な言葉に辟易しながらも、中島のお通夜をする資格は、自分が誰よりもあると思って言った。

 ――どうしてもか。

 ――うん。

 ――じゃ、どこへ泊る気だ! 食べるものもないぞ! 泊るところもないぞ! え、どうするつもりだ!

 僕は当惑し、杉山の無茶に困っていると、傍にいるのも忘れていた増田が、じっと聞いていて、

 ――河村さん、私たちの部屋に泊って下さい。余分な布団も、食べるものもありますから。どうぞ、御遠慮なく。おかまいは充分にはできませんけど。

 と助け舟を出すように言った。僕は、ほっと救われた気がし、増田を有難いと思った。杉山は、思わぬ伏兵に不意を襲われてか、僕を攻めるのをやめ、

 ――ちえ、馬鹿やろめが!

 と、きたない言葉を吐きつけ、

 ――余計なことをしやがる! 馬鹿やろう。馬鹿はしょうがない。

 と、面白くなさそうに、焦立たしく闇の中に消えていった。僕は、無理を言う杉山の気持がよく分かるだけに、いつか僕を理解してくれる日がくるだろうと、その日のくることをひそかに祈っていた。僕は離れていく杉山を目で追いながら、彼を情けなく、悲しく思っていた。

 用意されていた全寮をあげての立派なお通夜もすみ、皆が寝静まる頃、僕はそっと布団を抜けだし、中島の祭壇に向ってひとり気のいくままに自分なりのお通夜をしていた。

 敷居一つ隔てた向う側の暗い部屋では、中島の父と兄と増田と下級生が布団を並べて睡っていた。しいんと静まり返り、夜の静けさは小さな物音すら針をさす鋭さで迫ってきた。僕は、中島の祭壇のローソクや線香の火をたやさないように気を使い、彼の沢山の詩の遺稿や日記を写しながら、夜をあかそうとしていた。彼の祭壇は、先刻、全寮生や親しい者たちを集めて行われた立派な祭壇とは違って、彼の机を利用した簡素なもので、彼の白い布で包まれた骨壺のほかに、彼の小さな写真と茶碗にもりあわせた御飯と、線香とローソクが飾られてあるほかなにもなかった。花束もなく、ひっそりとした板の間の勉強部屋の片隅に、覆いを風呂敷でかぶした裸電球の光の下で、闇に浮き上がるように祭壇は置かれてあった。

 僕は、はじめのうちは、彼に話しかけたい気持で、何もする気にもならず、線香をたき、ローソクを灯し、じっと彼の祭壇に向いあっていた。が、とうとう自分たちの間がこういう形になったかと思うと、急に悲しくなり、涙がぐっと込み上ってくるのを覚えた。ままよ泣けるだけ泣こう。そうすればきっと気持もせいせいするだろうと思った。涙が頬を伝わり落ちるのも、何故か悲しい中でも身が洗われるようで心地がよかった。なにかすかっとし、なにか僕は中島と共にあるような気がした。ローソクを灯すことも、線香をたき続けることも、彼と共にあるようで楽しかった。こんなことをしてもと、形式的なものを否定する気持も、何故か起こらなかった。骨壺を中島と思い、魂を失った物と思う気持もなかった。もう理屈などどうでもよかった。彼のためにひたすら自分のしたいことをすればそれでよいと、中島と共にあることに満足していた。

 夜は更けていて、僕は祭壇の上に彼の詩の遺稿を取り出して、夜の時間と闘うように、彼の詩をノートに写していた。午前二時を過ぎてもまだ半分は残っていた。と、その時、少し隔てた杉山の部屋あたりで、誰かが起きたらしく、立て付けの悪い戸を開けて廊下の外へ出る音を聞いた。誰だろうと耳をすました。足音は、こちらに向って抜足、さし足で近付いてくる気配をみせていた。僕は、杉山ではないかと神経を集中していると、足音は、戸口の中を覗くようにぴたりと止った。誰だろうと僕は、誰かが部屋の中に入ってくるのではないかと、その方をじっと見ていた。足音の主は、中へ入ってくる様子もなく、すっぽりと闇に包まれた戸口の先に消えたまま動く気配をみせなかった。

 もしや杉山だったら、今を機会に諍いをやめようと、あたりを気使って、戸口の方へ、

 ――杉山。

 と、そっと声をかけた。僕は、何故か腹を割って話し合うのにこんないい機会はないと思った。しかし、僕が声を掛けたのが切っ掛けになったのか、戸口の向こうで足音がミシリとしたかと思うと、その場を一歩二歩と離れあとじさっていく気配がした。杉山だなと思い、なお耳をすますと、足音は途中から普通の足取りになり、杉山の部屋あたりで、はたと止ると、立て付けの悪い戸が、続いて、闇を走る鈍い音をきしらせていた。

 僕は、杉山だったら中へ入ってくればよかったものを、と思いながら、再び中島の祭壇に向い、詩を写し続けようとかかっていた。

 夜は、また、静寂の底に引き摺り込まれ、底びえの寒さがヒシヒシと迫っていた。

 翌朝、中島と最後の別れを告げるために、僕たち—中島と親しかった者たちーは駅に向って、中島の父と兄と共に歩いていた。中島の老いた父は、息子の骨壺を悲しそうに首から胸に白い布でつり、兄は、黙々と、うつむき加減に父に添うように歩いていた。朝の時間が早いのか、新鮮な空気が露っぽく、人も自動車も数えるほどしか見当らなかった。広い本通りは全く閑散として、嘘のように静かな佇まいをみせていた。両側の家並も活気はなく、僕たちの歩いている歩道も殆どすり交うものもなかった。おそらくは、この時間は、通勤通学のあとの活気のないひとときなのだろう。僕は、もうこれが中島との本当の最後の別れかと思うと、なにか胸が詰った。杉山も相沢も増田も……そのほかここに居合す他の学生たちも、何かをめいめいに感じているのだろう。みな言葉少なに、重々しく歩いていた。

 杉山は、僕と顔を合せても、何も言いがかりをつける様子もなく、すべてが終ってしまったように、僕の脇をこともなげに歩いていた。傍には、一対のように相沢が並んでいた。僕は深夜の足音を思い出して、あれは…と杉山をまさぐるような気持になっていた。

 大通りを右に折れ、駅に向うと、今まで東を背にしていたのか、太陽が白くまぶしく駅舎の上に輝き、今日一日の暑さを告げる気配をみせていた。

 駅は、混雑する時間帯がはずれたせいか、閑散とし、ひっそりとしたのどかな感じを漂わせていた。僕たちは、改札口を通り抜け、ぞろぞろと見送りのためにホームに入り、電車がくるのを待っていた。ホームには、電車が出たばかりで、あちこちに数えるほどしか人の姿が見えなかった。若い駅員が長い箒と塵取りを持って、僕たちの側に、なにかこだわるように、関心ありげに立っていた。

 ――みなさん。

 中島の父が、僕たちに向って不意に声をかけた。僕たちは、はっと緊張し、その方をみた。

 ――息子が、いろいろとお世話になりました。生前の息子にかわりお礼を申しあげます。このたびは本当に有難うございました。お礼の申しようがございません。

 中島の父は、しっかりした口ぶりで挨拶し、皆に頭を下げたが、言葉の裏には、悲しみが込みあげてくるのか、詰りがちになっていた。僕たちは、皆じっと聞いていたが、誰一人として、余計な言葉を口にする者はなかった。皆、しんみりとうつむき加減に頭を深くたれていた。中島の兄は、始終黙ったまま父の近くに能面のように無表情に立っていた。僕は、中島の父はつらいだろうなと思った。見送る僕たちが息子と同じ年輩だけに余計こたえるのではないかと思った。もし生きていたならばと、中島の死を悲しく思った。

 僕は、自分の至らなかったことを思い、どうにもならないことだと思いながらも、中島の父と兄に自分を詫びるように心の中で深々と頭を下げていた。

 やがて電車が入ってきて、中島の遺骨を抱いて帰る家族を見送ると、僕たち学生は、それぞれにホームを歩き出したが、僕は、ホームの階段を下がりながら、中島の、自分のなかの比重がどれほど重たかったかを、つくづくと噛みしめていた。

 暫くして皆から解放されると、僕は、すっかり心の支柱を失い、何かに縋りつき、少しでも気を紛わしていたい気持にかられ、なにものかに急き立てられるようにして自分の家へと、ひとり電車に乗って帰っていった。が、小田原の自分の家に戻っても気持は、少しも休まり落ちつくことはなかった。僕は、そわそわとし、自分の心の乱れを家の者に見抜かれないように気を使いながら、思いたつがままに、三鷹の友達のアパートに暫く滞在してこようと、その日のうちに旅立ちの用意にかかっていた。

 いつか、夏もはや半ばになり、油蝉とミンミン蝉が庭木でこもごもに鳴くのを聞きながら、僕は、夢中で過ごしてしまった時を思っていた。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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津田 崇

ツダ タカシ
つだ たかし 作家 1929年 大阪府に生まれる。主な著書に「桜の訃報」「悲しい腕」。

掲載作は、1978(昭和53)年、同人誌「卍」(MANJI)第6巻 第5号に初出。

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