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亡妻の昼前

 作田は昼近くなって目を醒した。カーテンから洩れてくる眩しい光で、太陽が高く昇っているのが分った。何処に寝ているのだろうと戸惑って、ようやく恵子が使っていた寝台に潜り込んでいるのだと気付いた。彼女が死んで四月近く経っていた。まだ四十代だった彼女の癌は、拡がるのも早くて、発見した時はもう手遅れになっていた。全身に転移がはじまっていて手の付けようがなく、寝込んでから半年かからなかった。あっけなく先立たれた感じが強く、近頃になって、葬式の時に「おいおいとお淋しいことでしょう」と慰められた言葉に実感が生れてきていた。昨夜、深酒をして帰って、恵子の寝台に寝たのは、年とってから妻を失った男の感傷が酔の助けを借りたからであったろう。

 作田は三十の時に結婚したから、恵子とは二十五年いっしょに暮した勘定になる。元気なうちは格別いい女房を貰ったとも思っていなかったが、亡くしてからは思わぬ時に彼女の何気ない仕種(しぐさ)や、少し舌足らずに聞える話し方の記憶が戻ってきた。彼女に較べれば、自分はそれほど誠実でもなく、ずいぶん我儘に振舞っていたという気分になった。目を醒した時も、ふと女の家に寝ているのかと錯覚した。決った相手がいたのではなかったが、二十五年のあいだには、人並にそういうことが幾度かあった。

 結婚して二年ほどして、作田が勤めている食品問屋の営業所を金沢に開設するために出張した時もそうだった。恵子は彼の会社の常務の娘だったから、作田には、どちらかと言えば排他的な金沢の営業所開設準備委員に任命されたのは、自分の力が試されているという意識があった。若さからの気負いもあった。一ヶ月近く精力的に動きまわり、社長以下の役員が勢揃いする開設披露パーティにまで漕ぎつけた。その晩、金沢の経済界の首脳を招いた宴会があった。それも無事に終って、作田は上役の部長と宴会をとり仕切ってくれた料亭に御礼の意味も兼ねて残った。気のあう上司と、はじめての大役を無事に果せた安心感から酒量もすすんだ。泊りの女が呼ばれ、部長と別の部屋を取って寝た。女将の采配だったのであろう。作田の所へは若い妓が入ってきた。寝る時になって彼女は、

「何もつけずにして、私、大丈夫ですから」と二度も頼んだ。それまでに何度か顔を合せていて、お互にいい感じを持っていたのであった。それでも作田は彼女の希望を無視した。

 数年たって金沢を訪れた時、その妓のことを聞いてみたが、もう消息は分らなかった。面長の眉の薄い妓で、雪の多い地方で育ったせいか膚は白かった。頼みを聞いてもらえないと分って拒む身振りをしたけれども、やがてそのまま身を委せた際の諦めたような目が、記憶のなかから作田を見詰めていた。彼女にむごいことをしたという想いだけが、しばらく残っていたが、やがてそれも忘れた。

 

 四十九日も済んで二ヶ月ほど経って、社用で北国に出かけてきて、作田は久し振りに金沢でのことを思い出した。

 急行の停車駅で山形から一つ目のB市には学生時代の友人の藤倉がいたので、作田は途中下車して一晩旧交を温めようと楽しみにしていた。

 B市の地方テレビ局の副社長になった藤倉が取っておいてくれた宿に着いた時、冬が近いことを思わせる時雨がやってきた。二階の部屋に入って鞄を投げ出し、浴衣に着替えていると、開け放った窓越しに、紅葉がはじまっている雑木林を叩く雨が見えた。散り積った朽葉が、思いがけず滴に打たれて動いたり、枝から離れて落ちる鮮やかな赤い色もあった。幾度か時雨が来て、やがて雪が混るようになると女中が言い、作田は遠くへ来たと思った。藤倉からは──急に東京から官庁のお偉方が来たので、途中で社長に委せてそちらにまわるが、少し遅れる。温泉にでも入って待っていてくれ──と伝言が届いていた。細かく気を使いながら、何処となく押付けがましいところも、学生時代と変らないと思いながら、作田は手拭を提げて三階下の浴場に行った。宿は傾斜地に建てられていて、湯船からは音を立てて流れる渓流が見えた。いくらか硫黄の匂いのする湯気のなかに四肢を伸すと、妻の発病と死、それに続く行事の疲労が毛穴から湯のなかに脱れてゆくようであった。と同時に、入社以来、三十数年を夢中で働いてきた疲れも惨み出てゆくと思われた。目線の位置にガラスを嵌めた下窓があって、すぐ傍を流れる川が眺められた。頭を湯船の縁に乗せて見ていると、尾をせわしなく上下させて白鶺鴒(しろせきれい)が石伝いに歩いてきた。苔でも(ついば)んでいるのか、しばらく作田の視線のなかを歩いて、やがて黒と白の()の翼を拡げて渓流の方へ飛び去った。浴室には蒸気が(こも)っていた。身体が浮上るような感触に、作田は長男の敬一が生れて間もなく、湯を使わせたことを思い出した。若い父親になったその頃の、きおい立つような心の昂りが懐しかった。頭の後から耳を押えて湯に浸してやると気持がいいのか敬一は脚を泳いでいるように伸ばしたり縮めたりした。まだ目の見えない顔に薄笑いのような満足の表情を浮べた。つい先頃まで恵子の羊水のなかにいたことを想起していたのかもしれない。敬一は今はアメリカの大学の附属研究所で社会学の勉強をしていた。彼等は子供を一人しか作らなかった。時々、もう一人欲しいと作田が思っても、

「一人いればいいわ、敬ちゃんはいい子ですもの、もう生むの厭、お神酒徳利みたいになるの厭だもん」と(がえ)んじなかった。臨月の頃、作田が恵子の恰好を「お神酒徳利みたいだ」と言ったのを彼女は覚えていたのであった。もともと対になって神棚に並んでいるのであったが、小柄な彼女の孕んだ恰好から、作田はなんとなくこの言葉を思い出して口にしたのである。恵子は意外にこの言葉に拘泥した。彼は時々、自分と恵子の感じ方の違いにぶつかって内心驚くことがあった。それが彼女の性格なのか、もともと誰にでもある男と女の感じ方の相違なのか判別しかねた。結婚直前に恵子の左の乳房に(しこり)が出来た時もそうだった。診てもらうと単純な脂肪の塊で危険なものではないが取った方がいいと分った。彼女は「母だって傷つけたことがなかったのに」と言って泣いた。無傷だった身体にメスが入るのを歎く恵子に、作田は若い女の肉体への愛着はそのように強いものなのかと、幾分不思議な、何処となく恐ろしいものが隠されているような想いを味わったものだ。

「まだ結婚する前なのに、御免なさい」とも言い、その言葉は可憐に聞えた。結婚によって自分の身体が作田のものになることを素直に認めている恵子をいとおしく感じ、自己主張などあまりしない平凡な女が自分にはふさわしいのだと考えた。そんな経過が、会社の常務の娘を貰うということに幾分躊躇していた作田の気持をふっきらせたのであった。

 風呂からあがると藤倉はもう着いていて、最上川の源流を間近に眺める小屋で待っていた。作田は、宿の女中が掲げる提灯に案内されて、小屋までの急な石段を降りた。

「雪が降ったら危いね」

 と話しかけると、

「冬のあいだ離れは使っておりません、お客様はよい時においでになりました」

 という答えが返ってきた。

「藤倉はよく来るの?」

「はい、お一人の時もございます」

 若い頃は水商売に出ていたのではないかと思われる女は、身についた仕種を抑えようとするのか、殊更に固い感じの応答であった。学生時代、自治会の連合組織の闘士であった藤倉が、川の音を聞きながら、ひとりで酒を飲んでいる姿が、作田には年月の流れを感じさせる光景として浮んできた。

 離れは、中央に大きな囲炉裏が切ってあって、天井から自在鈎(じざいかぎ)()り、大鍋が掛けてあった。傍に胡坐(あぐら)をかいている男の頭はまんなかの部分が薄くて、作田は部屋を間違えたのかと迷った。それが久し振りに会う藤倉だった。

 卒業してから、同窓会などに行ったことのなかった作田が、三、四年前から顔を出すようになったのは、やはり年齢のせいだろう。四十を越すと、少しずつ昔の同級生の集まりはよくなってくる。生活も落着き、地方に出ていた仲間も、おいおい本社勤務になる場合が多いのである。すっかりB市に住みついてしまったせいか藤倉は滅多に出席しなかったが、そうして集まってみると、すぐかつての面影が戻ってくる男と、すっかり様子が変っていて、名前を聞いてからやっと思い出せる者に分かれた。ただ皆に共通しているのは、誰でもが過して来た時間の影を皮膚に惨み込ませていることだ。官吏や銀行員のような職業と絵描きや出版社に勤めていた男との間には体臭の違いと言ってもいい差があったし、長く外国生活を送ってきた男は煙草の(くわ)え方にも火を点ける動作にも、何処か日本人らしからぬところが見られた。すると作田は、自分が職業の体臭を帯びないままに年とったような気分に襲われた。真面目に働いていなかったとは思わないが、迂闊に生きてきてしまった感じは否めない。

 藤倉はそうした級友達の中では昔とあまり変らない方の男であったから、薄い後頭部を斜め後から見て戸惑ったのであった。しかし、

「やあ」とふり仰ぎざま作田を見上げたのはやはり学生時代の、精桿な目鼻立ちのなかに何処か子供っぽさを漂わせている浅黒い顔だった。

「早かったじゃないか」

「いや、失敬。社長がね、君のことを話したら早く釈放してくれたんだ。やっぱり我が社の重要スポンサーだからな」

 全国問屋の作田の会社は、彼の放送局にもスポット広告を流していたのだ。

「そういうことか」

 作田は藤倉の向いに腰を下しながら、なかなか気勢があがらなかった前の日の山形での取引先集会の光景を思い出した。

「しかし景気は悪いなあ」

 彼はクリスマスと歳暮の販売の督励に山形に行ったのだが、営業所の成績は前年度の実績を維持するのがやっとという状態であった。

「ここも良くないよ。田舎だからそれなりに落着いてはいるがね、死んだように静かだ」

「…………」

「これはね、全部この近くで採れる山菜だ。肉はこの地方の牛、こっちのは最上川で捕った山女だと言うが、これだけはちょっと怪しい、多分養殖だろう」

 藤倉が指差す山女は、串に刺して囲炉裏の灰に突立ててあった。作田はずっと以前にも身構えずに話し合える男と薄暗い灯の下で寛いだ夕餉を持ったことがあったと思ったが、それが誰と何時、どんな場所でだったかは思いつかなかった。ただ匂いのような懐しさだけが胸をかすめた。あるいは体験した光景の記憶ではなくて、仕事の用向きばかりの会合が続く毎日のなかで、作田の頭が描き出した幻想なのかもしれなかった。

 作田は恵子とも、本当に寛いだ食事をしたことがなかったように此頃になって思う。彼に、上司の娘を妻にしたという意識があった訳ではない。朗らかで拘泥のない性格の恵子も父の存在を鼻にかけるような態度を見せたことはなかった。どちらかと言えば仲のいい夫婦だったという自覚があって、確かに敬一が幼い頃は、三人で街に出て食事をすることなども多かった。クリスマスは必ず敬一を主役にして家でキャンドルをつけて祝う習慣であったが、それらも、こうするのがいいことなのだとの思い込みに引張られての努力であったように振返られた。

 作田は同じ疑問を妻に洩らして言い争いになったことがあったのを思い出した。

「義務のようにやって下さるんだったらいいのよ」

 と彼女は切り返してきた。

「そういう意味で言ったんじゃなく、自分の生き方として、これでいいのかと思っただけだよ」と釈明したが恵子には通じなかった。勿論作田は、その時、ああもしてやった、こうもしてやったと言おうとしたのではなかった。たとえ二人で旅行したり、食事をしたりしていなくても、理解しあっている状態の方が望ましいと説明しようとして、途中で恵子に遮られたのであった。四、五年に一度ぐらいの間隔で彼等はこのような他愛のない衝突をし、そのたびに作田は物の考え方や感じ方が二人で全く違っているのを知らされて驚いた。なかでも、うっかり自分の不安や困惑を口にするのは禁物だった。恵子は彼の心の迷いを、自分との生活の不満、あるいは愛情の動揺と受け取った。

「なにか私によくないところがあるんだったら、はっきり言って下さい」と懇願したり、

「あなたは、もう私を愛していないのね」

 と、怒って泣いたりした。

 次期社長と目されていた彼女の父親が急死し、彼が監督していた子会社に大きな欠損があったことが分って、娘婿の作田の立場がおかしくなった時があった。結婚して十年、敬一が五歳の頃である。同じ年に入社した仲間のなかでは出世頭であったとはいえ、課長になったばかりの彼は、会社の上層部での力関係の変化をどうすることもできず、ただ事実を知らなかったと正直に説明する以外に対応する方法を持たなかった。幸い降格などの処分は受けずに済んだが、困難はその後から徐々にやってきた。

 大学の頃、高校から一緒だった藤倉が学生運動に熱中し、破れ傷ついていくのを傍に見ながら、時おりカンパに応じるぐらいのことで過してきた作田は、この事件ではじめて自分が当事者である立場に立たされた。それほど裕福ではなかったが円満な家庭に育ってぼんやり学生時代を送ってきた彼がぶつかった最初の冷たい風であった。それまで気付かないでいた社内の人間関係や人の心の動きがいくらか見えるようにもなった。恵子は、こうした作田の変化を理解できなかった。父の死によって、会社のなかでの作田の立場が弱くなったことについても、比較的のんびりと構えていて切実な感じはなかった。それは作田にとって救いではあったが、自分の辛さを分っていて欲しいと思う気分も残った。

 当時、彼が困惑したのは、直面した不安の本当の原因が自身にもはっきりと説明できないからであった。

 仕事の能力について、作田は彼なりの自信を持っていた。にもかかわらず、後楯になっていた妻の父が他界してしまうと、それまで実力と思っていたものが俄に色褪せて、会議などでの発言の効果も今までとは違った。そんな渦中にいて、むきになって環境と戦う闘志が燃え上るのなら、試練だ、と言いきかせもするのだけれども、心のなかから張合いが脱け落ちたようになってしまったのである。今まで、何のためにあくせく努力してきたのだろうと考えると、疲れが重い(おり)になって腹の底に溜った感じを拭うことができない。出世の可能性があった時だけ頑張れたのだとすれば、自分が案外つまらない人間のように見えてくる。妻の父の喜ぶ顔が見たくて一所懸命だったのであれば、今後、とても仲間との競争には勝てない男のような気がする。この気持は、恵子との生活を振り返る作田の目の色にも影を落した。幸福な家庭と他人にも言われ、いくらか誇らしい感情も混えて生きてきたが、そんな生活は何処から見ても何の特徴もない影絵のように思われてくる。十年間の結婚生活が、ただ無事なあいだだけ成り立った脆弱なものに感じられ、本当に恵子は幸福なのだろうかと心配になったりもした。こんなに覇気のない男と結婚していて、恵子は他の男に心を魅かれることはないのかと考えたりした。こうした作田の不安は余所ごとのように、彼女はいい小学校に敬一を入れるためにはいい学習塾に通わせなければと、知人の母親の意見や情報を集めるのに余念がない様子であったけれども。

 作田が、卒業した私立大学の文学部の聴講生になったのはこの頃であった。学生時代の友人が助教授になっていたのを頼って、週二回日本の古典文学を聞きに通って、『平家物語』や江戸文学のいくつかを若い学生に混って読んだ。はじめは「どうして急に物好きなことを」と呆れた顔をし、「そんな余裕があるんだったら敬一の学校のことを考えてよ」

 と半ば抗議する口吻を洩らしていた恵子は、やがてテレビの番組に古典の翻案ものが出ると「今日の──は西鶴の『好色一代女』の現代版なんですって」などと作田に教えるようになった。こうしたところは彼女の愛すべき性格を表していると作田は思い、「君も読んでみたら」と、『源氏物語』の現代語訳を書店で買ってきたりした。そんな影響もあったのか、一年ぐらい経った頃には「敬一の手がかからなくなったら、私も聴講生になってみようかしら」などと言った。しかし、彼女がある新聞社がはじめた市民大学に通うようになったのは、それから大分年月が経って、敬一が大学生になってからであった。会社の方も、やがて恵子の父の問題は過去のことになり、同期の者より少し遅れてではあったけれども、作田は国産の酒の販売を担当する部長に選ばれた。

 

「蓮見さんはどうしているかなあ、会うことあるか」

 幾人かの同級生の消息を交換したあとで藤倉が聞き、作田は彼がさっきから彼女のことを、いつ言い出そうかと考えていたのを知った。蓮見繁子は大学時代彼等の共通の友人で、一時二人は恋敵であったのである。

 作田は今でも藤倉に学校の近くの喫茶店に呼び出された日のことを覚えていた。

「作田、蓮見さんから手を引いてくれ」

 さきに来て待っていた藤倉は、作田が席につくやいなや、思いつめた表情で口火を切った。太い眉と鋭い目が一緒になって、眼窩全体が黒く落ち込んでいるように見えた。

「引くったって、どういうことなんだ、そりゃあ」

 と、反問する言葉が終らないうちに、

「なにいーっ」と藤倉はいきり立ったが、たちまち苦しげな憔悴した表情に落ち込んで、

「俺は辛いんだ、好きなんだ彼女が」

 と述懐した。

「分るよ、分るけどそりゃあ彼女の気持次第だろう。断っておくけど、僕はそんなんじゃないぜ、嘘じゃないよ、君に嘘ついたってはじまらないものな。そりゃ、いい人だとは思っているよ。思ってはいるけど、君みたいに思いつめるって気持はないからな」

「ふうん」と藤倉が疑わしげな上目遣いになったのを見て、作田は、

「だけど少しおかしいんじゃないかなあ、蓮見さんの気持は確かめたのか」

 と反撃に転じた。こうなると、あまり夢中ではなかった作田の方が優勢になった。「君の思想からすると、そういう考え方はブルジョア的所有欲と言うんじゃないのか」などと問い詰められると、日頃、大勢の学生を前にして演説をしている時の勢いは見る影もなく、藤倉は項垂(うなだ)れるばかりだった。

 結局、この日の会話は、藤倉にとって不得要領なものに終ったけれども、作田は長くこの場面を、彼を(さいな)んだ印象のなかで覚えていた。いくぶんか罪の意識もあった。

 大学に二年留年した後、郷里に帰った藤倉が、やがて新しく出来た放送局に勤めたという人伝ての報せや、彼が制作を担当した、地方の平和運動を取材したドキュメンタリー番組が放送文化に関する賞を取ったという記事を読んだりすると、作田は対決した日の、懊悩に黯んで見えた彼の顔を想い起した。この記憶は、時が経つにつれて、若かった頃はよかったと思い返すよすがに変化していったが。

「去年、と言っても春だったから二年ほど前だが、僕の息子の知人が新宿で野外演奏会をやってね、それを聞きに行った時に会った。もう彼女もいい年になったよ」

 作田は、まだ元気だった妻と、久し振りに新宿の超高層ビル街に夕食を兼ねて出かけた時のことを思い出した。一人息子がアメリカに行ってしまった後の、初老の夫婦の気楽な散歩であった。出しものは "ケチャ" と呼ぶバリ島の歌謡劇であった。敬一は一時その楽団に属していたのである。作田は会場で蓮見繁子に会った。音楽社会学を専攻した彼女は、卒業後教師になって、今はある大学で民族音楽史の講座を持っていた。

「作田さん、やっぱりそうだ。もしかしたらって思って向うの席から見ていたんだけど、あなた変らないわねえ」

 彼女は学生時代の快活さのままに、喜ばしげに白い歯を見せた。髪にはかなり白いものが混って、記憶のなかの姿よりは肥っていた。しかし昔と変らない物腰が、女子学生だった彼女を浮びあがらせ、作田を三十数年前の大学構内に連れていった。そこには藤倉がいて、彼女がいて、大勢の学生がざわめき、学内は活気に満ち、何故かいつも空は青くて、明るい太陽の下には緑の芝生があった。学生運動も活溌だったけれども、今と比較すれば、日本をどう再建すべきか、というような問題が、あまり大形(おおぎょう)な感じでなく議論されていたような印象が作田にはある。それは彼等が若かったのか、あるいは時代が若かったからなのかと、作田は一瞬眩しいものを見た想いで蓮見繁子を見詰めた。

 いつのまにか恵子は少し離れた所に立って知らん顔で舞台を見ているので、作田は紹介しそこねた。演奏会が終って、見晴しのいいホテルのレストランに腰を下し、「さっき僕が話していた女性ね」と説明しかけると、

「蓮見さんでしょう。私、すぐ分ったわよ」

 と妻が言い、彼はいつものことながら彼女の勘の良さに驚いた。

「へえ、どうして分った」

「私ってねえ、自分で探偵になれるんじゃないかと思うくらいよ。千里眼だから恐いわよ。何を隠したって見抜けるわ」

 そう無邪気に自慢した妻の顔が作田の記憶に蘇ってきた。

 蓮見繁子は"民族音楽の故郷をたずねて"という番組を持っていて、藤倉の会社でもその抜粋を放送しているようであった。

「あの頃は、まあ、お互によかったな」

 と藤倉は言い、作田は彼女を巡って対決した喫茶店の場面をもう一度想起し、たしかに敵意さえも光り輝いていたと思った。

「ごめん下さい」と言う声がして女が入ってきた。

「君な、奥さんを亡くしたばかりだろう。そう思って一人呼んでおいた」

 藤倉は得意そうな表情を素直に見せて作田を凝視した。入ってきた妓はふく代と名乗り、若くて、今まで話題にしていた蓮見繁子に顔の輪郭や、やや下り気味の切れ長の目もとが共通していた。

「似てるだろう」と聞く藤倉に、

「ああ、そう言われるとねえ」

 と答えると、彼は嬉しそうな顔になった。

 彼女を巡ってそんな話を交していても、「何のお話なの?」と入ってくるわけでもない、商売に慣れていない様子に作田は好感を持った。山菜が鍋で煮えていた。口数の少ないふく代は働き者らしく、小まめに牛肉や斜に切った葱などを鍋にたし、また皿に取り分けた。藤倉が宿に言いつけておいたのらしく、この地方の原酒だという濁り酒が茶碗に注がれた。世話好きなところも、少し甲高い声で畳みかけるように喋る話し方も、藤倉は昔のままであった。活動家だった頃も、その面倒見の良さと正直な性格で、政治的には反対の立場の級友達にも信頼されていた。それだけに目立つところがあり、授業料値上げ反対ストライキの後の処分の際も彼は停学になった。上手に立廻るのは、もともと苦手な男であった。

 そんな藤倉が、家柄や係累関係を重んじる地方に帰って、新しく出来た放送会社に入ったのは、所を得た賢明な選択だったのかもしれなかった。彼の生家は代々この地方の大名の家老で、名家に属していた。

「日本はこれで変るかね」

 と藤倉は話題を変えた。

「おい、飲めよ。今晩はもうこの囲炉裏の側で寝ちまってもいいんだから」

「さあ、変るとしたら悪い方へだろうね。もともと僕は国全体のことなど分らないが、年をとるといよいよ大所高所の話は苦手になった」

 そう口に出してみて、作田は本当に自分は一度も指導者になろうと考えたことがなかったと気付いた。それならば、(学生の頃何になろうとしていたのか)と考えたのは、おそらく藤倉を前にしているからであったろう。

「自民党もひどいが、革新も駄目だな、ここにいるとつくづくそう思うよ。下からって言うか、日常から発想するっていう姿勢がない」

 そんな話をするところは、やはり往年の藤倉だと思いながら、作田は煮えた山菜を上手に皿につけるふく代の手元を見ていた。ふと、この妓はあんまり幸せになれない性質ではないか、という気がした。

 その夜、作田は渓流の音が耳についてなかなか寝つかれなかった。傍にふく代が眠っていた。すべてを心得ている素振りを見せて、「まあいいから、いいから」と彼女を押しつけるようにして藤倉が帰ってしまってから、もう三時間以上経っていた。そうしなければいけないと言いつけられているように、寝巻に着替えたふく代は、ぎごちない動作で作田の布団に入ってきた。おずおずと手を伸ばして彼の股間を探ろうとさえした。

 どうしてもその気になれない作田は、かといって道学者めいたことも言えず、「今日はね、僕は駄目なんだ。昨夜、仕事の関係でほとんど眠っていないから」などと下手な弁解を繰返すという妙なことになり、藤倉の昔と変らないおせっかいを恨めしく思う気持さえ動いた。やがてふく代は彼の方に向いたまま軽い鼾を立てはじめた。秋田の生れだと言っていたが、田舎の娘らしく、丸めた肩の肉が意外に盛り上っていて、それがかえって若い妓のあわれさを見せているようであった。枕元に点けてある豆電球のせいか、ふく代の、頬にぴったり寄り添っているような耳の斜め後に陰のような傷跡が見えた。呼吸するたびにその陰は消えたり現れたりした。手術の跡なのか誰かに撲たれでもした傷なのかは分らない。寝顔にあどけなさが残っているだけに、眺めていると作田の心は暗く鎮まっていくようであった。

 いつの間にか、彼は学生の頃から今に続いている三十年に近い歳月を振り返っていた。その大部分は食品問屋の営業部員として過した。毎日、そして毎週を緊張して暮したはずだったが、思い返すと意外に平凡である。恵子との結婚、敬一の誕生、自分の父親や母親の死というような日常的な事柄は、その場の光景と共に蘇ってくるが、サラリーマンとしての日月は平坦で、はっきりした像を結ばない。会社の業績に貢献していないとは思わないが、何かを自分で成し遂げたと実感できる記憶はなく、虚しかった。

 作田は、もう寝床に入っているに違いない藤倉の様子を想像した。おそらく彼は旧友に親切に振舞った自分に満足しているはずであった。彼は今でも疲れを知らない活動的な男に見えた。すでに、B市の名士として商工会議所の幹部になっている彼は、来年は副会頭に推される予定だと話していた。その口ぶりから、彼がいずれは会頭に就任しようと目録(もくろ)んでいることは明らかだった。藤倉の無邪気と言ってもいい野心に較べれば、作田は自分が彼よりも少くとも十年は長く生きてしまったような気がした。

「それがね、君の悪い癖だよ。学生時代からもそうだったが、自分のことなのに他人のように突放してさ。俺には分らんところだ」

 作田は藤倉の甲高い声が自分を批判しているのを聞いたように思った。それに気付くとニヤリと笑って電気スタンドに手を伸ばして豆電球を消した。闇のなかで彼は、同じような状態で女と泊った、会社員としての最初の金沢出張を思い出した。恵子と結婚して間もなくで、まだ潔癖さの残っていた彼は、女を抱くまいと自分に言いきかせながら、結局我慢できず、二度も相手を引寄せていた。しかも「何もつけずにして」という彼女の頼みを無視して。あの頃は身勝手だと思う意識を簡単に乗り越えてしまうほどの若さがあり、彼は荒々しくさえ振舞ったのであった。その時に較べると、今夜は抱いてもいいと思いながらそれが出来なかった。すべてが自然のなりゆきなのだと目をつぶると、渓流の音が聞えてきた。

 作田は、一生を遊里に沈めたと言える昔の歌人の生涯を思い出した。裕福な家に生れたその男は、父親から受け継いだ財産を祇園での遊びに蕩尽(とうじん)して、幾冊もの艶麗な歌集を残していた。ついに自分とは無縁な生き方をした男の胸に渦巻いていたのは、もしかしたら生れ出る前に自分が失ってしまった、魅力的で烈しいものだったのかもしれないと思った。会社の常務だった恵子の父が急死する前に自分を捉えていた平凡な野心とは少し違う情念のように想像された。

 妻の場合はどうだったのだろう。自分のような男と親の薦めるままに結婚して、飽きたりない想いを抱いたことはなかったのかと思うと、作田の頭に、彼女の死後発見した二通の手紙の記憶が戻ってきた。

 思い出すまいと寝返りを打った時、川の音に混って獣が啼くのを聞いたように思った。幻聴とまがうほどにその声は小さかったが、耳を澄していると今度ははっきり夜の闇を透して聞えた。犬にしては高く悲しげである。狐かもしれなかった。すると作田の視野に、仲間を持たない狐が、垂れ籠めた時雨雲の下で枯葉を踏む様子が見えてきた。ふく代が身じろぎをし、仰向けに向きを変えたようだった。何処からか射す薄明りに透かして見ると、顔に似合わず肉のついた肩が布団から出ていた。作田は乗り出して首のまわりに毛布を掛けてやった。彼女が自分の娘と言ってもいい年頃なのをあらためて感じた。夢を見ているのか、ふく代が眉をしかめた気配があり、作田は彼女が狐の夢を見ていて、啼き声はその夢のなかから聞えてきたのかと思った。

 彼は、具合が悪くなった妻を看病して幾晩かを病院で過した経験を持っていた。手を握ったまま(やつ)れた妻の寝顔を見、幾度も毛布を掛け直してやった夜は長かった。終りの頃は、注射を打つと少し苦しみが遠のいて、昏睡と区別のつかない安らぎが訪れ、時おり生命を蝕む悪魔を避けようとするかのように、細かい震えが上半身を襲った。

「私、どうしちゃったのかしらねえ、ごめんなさい、なんにも悪いことしなかったのに」

 意識が戻った時、恵子は作田の方を涙の溜った目でみて細い声を出した。癌はもう喉頭部にも拡がっているらしかった。

「私、治るのかしら」と怯えたような眼の色を見せた。

「大丈夫だよ、血液が足りなくなってるんだそうだ。安静にしていればきっと治る、薬も効いてくるからね、今が一番辛い時だって先生が言っていたよ」

 作田は医者と打合せて作った貧血症という病名に話を合せた。

 妻が逝き、四ヶ月近く経った今、B市に近い温泉場の宿で娘のような年頃の女の傍に寝ているのが作田には不思議であった。人間はみんな死ぬと分っていても、なんだか総ての時間の順序が壊れてしまって、病院のことも、敬一を身籠って輝くように近寄り難い光を帯びた恵子の顔の記憶も、何だか遠くの芝居を見ているようであった。自分がそのなかの登場人物であったという気がしない。

 作田は妻が死ぬまで彼女を疑ったことがなかった。それも考えてみれば不思議である。もし「ぼんやりしていたのだろう、本当は愛していなかったのではないか」と藤倉のような男に言われれば「そうかなあ」と思い惑うだけだ。優しくしていたつもりだし、恵子を喜ばそうと気も使っていたのだが、「僕にはもともと烈しい感情がないんだ」と呟いてみても、あまり説得力はなかった。

 葬式も済んで初七日が過ぎたある日、彼女の部屋を片付けていて、差出し人不明の手紙を発見した時、作田は見てはいけないものを見てしまったという気がして、あわてて本を閉じてもとの場所に戻した。手紙は現代語訳『源氏物語』のなかの一冊に無造作に挾み込まれていた。

 ──心配したり、あまり生真面目に悩まれる必要はないと思います。男と女が出会って、互に魅かれるのは自然のことですし、今度のこの気持こそ本当なので、それに較べれば今までの経験は、愛を知らないがゆえの満足であった、風に移ろう花の香りのようなものであったと思うのも、やはり自然な心の動きと言うべきでしょう──

 手紙は前の部分が脱落しているのかと思われる唐突さではじまっていた。読んだ時、まっ先に(不良が書くような文章だ)という考えが浮び、使ったことのない"不良"という言葉が出てきたのを知って我ながらおかしくなった。作田は少し落着いて、ふたたび本を書棚から取り出した。心を鎮めようとして活字の方に目を落すと、

──すべて世間の人の口というものは、誰が言い出すともないのに、ほかの夫婦仲など、つい事実と違うことを話して──

 と読めた。さすがに作田は混乱したまま手紙の続きを読まずにはいられなくなった。

 ──あなたは魅力的で心の伸びやかさをお持ちです。どうか浮世のもろもろの(しがらみ)}に気を兼ねて、いじけたりなさらず、また煩悶するさまを世の人に洩すこともお気をつけ下さい──

 書き出しと同じように、手紙は中断を想わせて突然終っていた。筆跡も文章も明らかに男の書いたものだが、宛名も時候の挨拶もない。さほど年配の者ではないらしいと、字から分る以外の手懸りはなかった。文面はかなり親しい間柄のようにも、恵子から相談を受けて、それに答える人生案内の回答のようにも読めた。

 この手紙だけなら、作田はまだゆとりを持って無難な推測を組み立てることも出来たのだ。しかし同じ現代語訳の次の巻、柏木、横笛など、中年になった源氏の悩みを描いた本のあいだから、

 ──このあいだは御免。明日は待たせる心配はない。いつものところに行っています。

 きみの──

 と、同じ筆の走り書きが落ちた。次々に棚の本を取り出して、振ってみたのは、やはり嫉妬に追い立てられるようにしてのことである。しかし、当の恵子はもうこの世にいない。見なければよかったと悔んでも後の祭りであった。彼女が新聞社の市民大学に通っていた頃のことを思い出そうと努力してみても、十年近く前だから、はっきりしない部分が多い。幸い聴講料の領収書が出てきたので日時だけは確定できたが、それ以上は勿論調べても分るはずもなかった。記憶を手探りしてみても、妻の言動に不審な点があったとは思えない。

 これは恵子が貰った手紙ではなく、彼女の女友達のところに届けられたのではないか、と一時は考えた。男からそれを受け取った友人が、思いあまって恵子に見せたとは考えられないか。喫茶店やレストランなどで、女達がひそひそ話しているとすれば、彼女等の話題の過半は情事にまつわる噂や相談だと、作田は会社の同僚に教えられたことがあった。少女時代から推理小説の愛読者であった恵子に友人が男の気持の謎解きを頼んだのではなかったか。おそらくその友人は自分宛の男の手紙を家に置いておくことが出来なかったのだろう。恵子に相談しながらも、女性特有の警戒心で、男の名前は知られたくなかった、だから差出人の名前は丹念に黒く塗り潰されているのだ。作田は獲物をどうやって捕食しようかと、ひそかに木蔭の巣に知恵を交換しに集ってきた蜘蛛のような女達の姿を想像した。彼女達は仲良さそうに相談しながらも、いつ互に敵となるか分らないのだ。

 作田は、恵子だけはそうしたおぞましい昆虫の仲間とは違うのだと思いたかった。それとも彼女達は、ひとりひとりになって、好きな男と向い合った時は、昆虫であったことは忘れて、何処までも可愛く、あどけない生物に変身するのか。

 作田は、彼女が長いあいだ欲しがっていた毛皮のコートを手に入れて帰宅した晩、子供のようにスキップしながら玄関口に通じる二階からの階段を降りてきた恵子の姿、家の中でファッションショーをするように何回も着て回転してみせ、とうとう目を回してしまった思い出、敬一の期末試験の成績が、クラスで十番以内になった時、鼻をうごめかすようにして通知表を見せ、半年ほど前から通ってきてくれるようになった、恵子が見付けてきた家庭教師の青年が、どれほど理科と算数の教え方が上手いかを、まるで自分の手柄のように報告した際の、得意満面の表情を思い出した。すると、敬一が高校に入るまで指導を受けていたその青年が、何時、どんなきっかけで家に来なくなったのか気になりだした。もしかしたら、彼が手紙の主なのではないか。──

 そんなふうに、作田の考えは何回も同じ所を巡回し、横に逸れたり、急に垂直に落ち込んだりしながら、自分を強いて納得させようとする努力に疲れた末に、傷口が次第に塞がるように、不安がいつの間にか薄らいだのであった。

 作田は眠るのを諦め、手紙を発見して以後の自分の心の動きを、闇のなかに目を開いて辿ってみた。すると思いがけない不安に身動きならないほど縛られ、何とか脱出しようとほとんど盲目になり、狭い箱のなかであちこちに頭をぶつけて惑う自分の姿が見えてくるのであった。

 また、今度は少し遠くで狐らしい啼き声がした。獣は寒さに震えながら、自分でも分らない何かを求めているのだと思った。山形への出張に出る前のひと月、作田はほとんど毎晩、銀座や新宿に足を延ばして飲み、そのうちの幾晩かは女のところに泊った。そんな、気の利かない放蕩の重い疲れが枯葉のように雨に打たれていた。渓流の音が耳に戻ってきた。急に、もし恵子に心を魅かれる男がいたとしたら、彼女のために喜んでいいことではなかったかという、今まで思ってもみなかった考えが浮んできた。手紙を読んで懊悩する自分の姿が「蓮見さんから手を引いてくれ」と哀訴した、かつての藤倉にそっくりのように眺められた。

 作田は、いつか読んだ、葛の葉伝説から題材をとった小説を思い出した。その狐は変身して人間の男の妻になりながら、夫が大病して不能になって以後、雄を求めて変身の術を失い、信田の森へと逃げてゆくのであった。彼女は人間の夫を愛していなかったのではない。一児までもうけて幸せに暮しながら、平和なだけの毎日ではどのようにしても消すことの出来ない情念のために、夫と子供を捨てたのだ。

 作田は、恵子のことを信田の森の狐のようだと思ったのではなかった。ただ情事の雰囲気を楽しもうとしたことぐらいはあったかもしれない。罪の意識がまるでなかったから、本のあいだに挾んだまま忘れてしまったのであろうと考えた。ここしばらく持てなかった恵子への懐しい感情が胸の裡に溢れた。お前はいい女だった、と作田はぼんやりと浮んできた妻の顔にむかって言った。さきほどまでは思いもしなかった情欲が湧いてきて、彼は手を伸ばしてふく代を揺り起そうとした。その時、ふたたび渓流の音に混って低く啼く声が聞えたようであった。

 

 作田は目を開けたまま、もう昼が近い明るさのなかに、まだ充分醒めきらない心を遊ばせていた。眩しい光はカーテンの隙間から室内に射し込んでいた。古くなって端がめくれているので、昨夜、力いっぱいに引張っても、どうしてもうまく重ね合わせることが出来なかったのだ。元気だった頃、彼女はこの二階の部屋を寝室として使っていて、作田は書斎で寝ていた。別に仲違いしてそうなったのではなく、敬一が生れてから、なんとなく寝室を別にするようになったのであった。

 作田は部屋の明るさから、ついこのあいだの山形出張と、B市でむかえた休みの日の昼前を記憶に呼び戻した。ふく代と何もなく一夜を過した朝、作田が目を醒すと、彼女はもう起きていて、布団を部屋の隅に片付けて彼の寝ている裾の方にきちんと坐っていた。

「お早よう」と、幾分照れ臭い気分を追払うように元気よく声をかけると、

「よくお寝みになれまして?」とふく代が言い、

「お茶をいれますわ」と立った。

「もっと、ゆっくり寝ていればいいのに」

 作田は、男と泊る時、彼女はいつもこんなに目敏く起きるのであろうかと幾分不憫(ふびん)な気がした。ふく代には、昼近くまで安心して眠る日は年に幾日もないのかもしれない。

 作田が起きるのを待っていたかのように電話が鳴った。藤倉だった。

「どうだ、よく眠れたか。いい妓だろう。今日は彼女に宿の近くを案内するように言っておいたから」

 そう言って、帰りの汽車の時間も聞かずに電話は切れた。話の様子からすれば、藤倉はふく代を知っているに違いなかった。その彼が、なにもかも一方的に自分流に想定して、昨夜よりもなお親しげに電話を掛けてきたのがおかしかった。含み笑いを浮べた後から淋しさがやってきた。遅れて部屋に入った時、頭の中央部がめっきり薄くなっていて、かつての藤倉とは別人のようであったのが思い出された。希望どおり、商工会議所の会頭になれたとして、その後、彼は何をするのだろう。「公職を引いたら、白虎隊の史実などを調べて本を出そうかと思ってるんだ。放送局にいるとね、そういう点調査しやすいんだ」と昨夜は元気よく喋っていたけれども。

 ──君は軽蔑するかもしれないが、迷った末、僕はとうとうマスコミの世界の人間になった。中央の独占的な商業放送でないのがせめてもの慰めだが、入った以上は戦略戦術を駆使して雄飛するつもりだ。地方から近代化要求を掘り起すことなしには日本を変革することは不可能だと思う。君はどうしているか、近況を報せてほしい。蓮見さんに会ったら、元気にやっていると伝えてくれ──

 卒業して間もなく、藤倉から年賀状を兼ねて送ってきた葉書の文面を作田は憶えていた。それに答えて、自分がどんな返信を出したかはもう忘れていたが、藤倉のように勇ましい文章を書かなかったのだけは確かだった。生き方が違う自分達の間に、こんなに長い友人の関係が続いたのは、不思議と言えば言えた。

 作田は車を呼んでふく代と一緒に宿を出た。藤倉が見るようにと薦めた明治維新の志士の墓、旧制高校の、最近史蹟に指定されたという校舎、一刀彫りの民芸玩具を作っている店などを訪ねた。昨夜の時雨はすっかりあがって、潤いを帯びた黄葉の林に、午前の太陽が眩しく注いでいた。車を降りて歩いていると、時おり誰かが合図をしたように一斉に葉が落ちはじめた。風に乗って落葉が二人に降りかかって来ることもあった。ふく代は、そのように連れ立って歩くのが珍しいのか、年相応の活気を見せて後から付いてくる。作田が手を繋ごうとすると、「いいんですか」と聞く。

「何が」

「だって人に見られたら困らないの?」

 そんな話をするふく代は、やはりまだ少女で、昨夜肉が付いて見えた肩のまわりも、着物を着てしまうと痩せた。作田はふと、今後もし一緒になるとしたら、ふく代のように年が離れていて都会ずれしていない女がいいと思った。妻の係累の力添えや才覚に頼って一層活躍してみせようという意図はもう持っていないから、ただ家のなかが明るくて気の置けない相手が好ましかった。

「今度、いつ頃いらっしゃるんですか」

 と問いかけるふく代に、

「決っていないけど、君は東京に出てくることはないの」

「病気の母がいますから、無理ですわ」

 作田は、昨夜問わず語りに、彼女は中学校を出てすぐ芸者になったと話していたのを思い出した。

「洋服を着た君と歩いてみたいな」

「本当ですか」

 と、ふく代の声が弾んだ。

「次に来た時、会うのにはどうしたらいいんだ。やはり藤倉に連絡しないとむずかしいのかな」

「また、会って下さいますか」

 その調子には、男が東京に帰ってしまえば、もう会うことはないと決めていた響があった。考えてみれば、それは当りまえのことであった。

「うん」と答えたまま、作田はしばらくひとりだけの想いに耽った。自分と恵子との繋りは、はたしてどんなものだったのかと考えた。突然といっていい早さで妻を亡くしてみると、充実していたはずの恵子との日々の暮しが、どこか架空の作りものであったような気がしてくる。手紙の件が、やはり心に翳を落しているのであろうか。自らの心のなかを探ってみると、そうだとも言えるし、それはほとんど関係がないとも思える不確かさであった。

 彼は寝台の上に起き上り、眩しく光が射し込んでいるカーテンの隙間を眺めた。恵子は入院生活を送るようになるまで、この部屋で一人で寝ていたのだ。彼女は毎日、眩しくて目を醒したのではないか。

 作田には敏感なところがあって、少し光が射し込んでも落着いて寝ていられない性質であったから、書斎のカーテンは、レースのを含めて三重にしてあった。恵子も心得ていて、時おり新しいのに変える時も、厚手の生地を選んだ。彼は、どうして自分は一度もこの部屋で寝なかったのだろうと考えた。恵子にしても日によっては彼に傍に寝て欲しい晩もあったのではないかと思うと、一緒に暮していたとはいえ、自分達はまったく別々の時間を持っていて、お互に知っていない部分があまりに多すぎたような気がした。

 昨夜、飲み過ぎたせいか、朝、早くから光が射し込んだせいか、充分寝足りたはずなのに、作田は頭の芯が疲れていて、まだとろとろと微睡(まどろ)んでいたい気分であった。その気分のなかを、恵子の姿が踊っているように見え隠れした。

 作田はゆっくり立上ってカーテンを開けてみた。東向きの窓に、隣の家の栗が枝を伸してきていて、手を出せば触れる位置にあった。

「あなた、栗が()っているの。(いが)が弾けて茶色い実が見えるのよ。取ったら泥棒になるかしら」

 秋のある朝、恵子が大発見のように作田に告げたことがあった。

「さあ、どうかなあ」

「でも、風が吹いて落ちたら、うちの庭に落ちるのよ、それでも駄目?」

 作田は笑い出しながら、

「それなら、落ちてから拾えばいいじゃないか」

 とその時は答えたのであった。今は枯れた枝に、早くもふくらんだ芽が、いくらかその先端に緑を見せている。

 一つの場面が戻ってくると、作田の疲れた頭には、恵子との二十五年間の生活のいろいろな光景が次々に駆け寄ってくるようであった。

「あなた、少し痩せたんじゃない。野菜も出来るだけ喰べなきゃ駄目よ。栄養のバランスが大事なのよ」

 作田は新婚旅行から帰ってのはじめての朝、食卓に牛乳と野菜サラダだけが載っているのを見て、びっくりしたのを覚えていた。これからは、いつも朝はこれだけしか喰べさせて貰えないのか、恵子が育った家での朝食の習慣はこうだったのかと、内心あわてた。ずっと後になって、その朝の狼狽を話すと、恵子はおもしろそうに手を打って笑った。

「あなた、御免なさい、私、隣の建物に来ちゃったの、どうしたらいいかしら」

 作田の耳に、彼女の泣き出しそうな声が聞えてきた。

 いつだったか、高層ビルの最上階のレストランで恵子と待合せた時、彼女はかつて市民大学で通い慣れていた地域だという安心感があって油断し、建ったばかりの事務所専用の建物に入ってしまったのであった。生憎の日曜日で、エレベーターを降りた彼女は、あたりの殺風景な有様に驚き、階数を間違えたと思い、階段を使って一つ上の階に行こうとして通路に閉じ籠められてしまったのであった。さいわい赤電話があるのを発見して、作田が待っているレストランに掛けてきた。

 話の様子から、一つ建物を間違えたのを知って、作田は「すぐ行くからそこで待っていろ」と答え、その、ビルの管理人と一緒に恵子のところに駆けつけたことがあった。

 その出来事を思い出し、恵子はもう「よし、すぐ行く」と言っても行きつけない場所に行ってしまったのだと思った。

「あなた、いい奥さん貰いなさいよ。優しくて可愛らしい人がいいわ、ずっと年下でも構わないじゃない」

 今度の声には、はっきり意地悪い響が含まれていると作田は聞いた。早く死ぬなどとは想像もしていなかったので、かえって二人はどちらかが先に死んだらどうするかなどと、他愛のない会話を何回かかわしていた。言葉のやりとりを楽しんでいるうちに、恵子の口調はいつも冗談ではなくなってくる。

「有難う」

 芯の重い頭に次々に浮んでくる記憶を払いのけようとして、作田はやや誇張した大きな声を出した。

 作田は窓から太陽が燦々と降り注ぐ隣の家の庭を見ていた。この家は一年ほど前に、南米のある国の領事館になっていた。庭で、中学生ぐらいの金髪の女の子が遊んでいた。作田の背中から奥の方へ続いている暗い時間のなかを、蓮見繁子や、金沢の出張先で一夜を共にした、今では名前も忘れてしまった女や、つい先頃B市のはずれの温泉宿で会ったふく代が歩いていた。彼女達は、風に吹かれている芙蓉のように頼りなげに揺れながら、少しずつ彼から遠のいていくようであった。

「いや、でもそんな気はないよ」

 作田は彼女達の姿を見送りながら、恵子にむかって弁明するような低い声を出した。太陽はいよいよ明るく、春が近いことを想わせる強さで、早くも、いくらか緑がさしてきた芝を照らしていた。作田はふと遠ざかってゆく女達の群のなかに恵子の姿を発見して驚いた。いつのまにか、彼女を失った直後の悲しみが薄れているのだ。手紙の件で悩んでいるあいだは、こんなことはなかったのに、妻を許そうと決めたB市の夜以来、思い出す彼女の顔の輪郭がぼんやりしてきたようであった。こうして次第に忘れてゆくのかもしれない。作田は、そうした自分の心の変化を知って意外だった。我が身が哀れで、いくらか(いとお)しくさえあった。年甲斐もなく誰かに甘えたいのかもしれないと思った。何処からか讃美歌の合唱が聞えてきた。その女声コーラスの斉唱は領事館の部屋のなかから洩れてくるのか、あるいは記憶のなかで響いているのか、作田には分らなかった。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/07/22

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辻井 喬

ツジイ タカシ
つじい たかし 詩人・作家 1927年 東京に生まれる。芸術選奨文部科学大臣賞・等。

掲載作は、1984(昭和59)年「文藝」4月号に初出、同年単行本『静かな午後』に収録。

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