最初へ

   

 

 人と別れた瞳のやうに、水を含んだ灰色の空を、大きく()を描き(なが)ら、伝書鳩の群が新聞社の上空を散歩してゐた。煙が低く空を這つて、生活の流れの上に溶けてゐた。

 

 黄昏(たそがれ)が街の燈火に光りを添へ乍ら、露路(ろぢ)の末迄浸みて行つた。

 雪解けの日の夕暮。――都会は靄の底に沈み、高い建物の輪廓が空の中に消えた頃、上層の窓にともされた灯が、霧の夜の燈台のやうに瞬いてゐた。

 果物屋の店の中は一面に曇つた硝子(ガラス)の壁に取り囲まれ、彼が毛糸の襟巻の端で、何んの気なしにSと大きく頭文字を拭きとつたら、ひよつこり靄の中から蜜柑とポンカンが現はれた。女の笑顔が蜜柑の後ろで()ねてゐた。彼が硝子の戸を押して這入つて行くと、女はつんとして、ナプキンの紙で(こしら)へた人形に燐寸(マッチ)の火をつけてゐた。人形は燃え乍ら、灰皿の中に崩れ落ちて行つた。燐寸の箱が粉々に卓子(テーブル)の上に散らかつてゐた。

 

 ――遅かつた。

 ――……

 ――どうかしたの?

 ――……

 ――クリイムがついてゐますよ、口の廻りに。

 ――さう?

 ――僕は窓を見てゐると、あれが人間の感情を浪漫的にする麗しい象徴だと思ふのです。

 ――さう?

 ――今も人のうようよと吐き出される会社の門を、僕もその一人となつて吐き出されて来たのです。無数の後姿が、僕の前をどんどん追ひ越して、重なり合つて、妙に淋しい背中の形を僕の瞳に残し乍ら、皆んなすゐすゐと消えて行くのです。街はひどい霧でね、その中にけたたましい電車の(ベル)です自動車の頭燈(ヘッドライト)です。光りが廻ると、その輪の中にうようよと音もなく(うごめ)く、丁度海の底の魚群のやうに、人、人、人、人、……僕が眼を上げると、ほら、あすこのデパアトメントストオアね、もう店を閉ぢて燈火は消えてゐるのです。建物の輪廓が靄の中に溶けこんで、まるで空との境が解らないのです。すると、ぽつんと思ひがけない高い所に、たつた一つ、灯が這入つてゐるのです。あすこの事務室で、きつと残務をとつてゐる人々なのでせう。僕は、……

 ――まあ、お饒舌(しやべ)りね、あんたは。どうかしてるんぢやない、今日?

 ――どうしてです。

 ――だつて、だつて眼に一杯涙をためて。

 ――霧ですよ。霧が睫毛(まつげ)にたまつたのです。

 ――あなたは、もう私と会つて下さらないおつもりなの?

 ――だつて君は、どうしても、橋の向うへ僕を連れてつてくれないんですもの。だから、……

 女は急に黙つて了つた。彼女の顔に青いメランコリヤが、湖の面を走る雲の影のやうに動いて行つた。暫くして、

 ――いらつしてもいいのよ。だけど、……いらつしやらない方がいいわ。

 

 町の外れに橋があつた。橋の向うはいつでも霧がかかつてゐた。女はその橋の(たもと)へ来ると、きまつて、さよなら、と云つた。さうして振り返りもせずに、さつさと橋を渡つて帰つて行つた。彼はぼんやりと橋の袂の街燈に凭(よ)りかかつて、靄の中に消えて行く女の後姿を見送つてゐる。女が|口吟(くちずさ)んで行く「マズルカ」の曲に耳を傾けてゐる。それからくるりと(くびす)を返して、あの曲りくねつた露路の中を野犬のやうにしよんぼりと帰つて来るのだつた。

 炭火のない暗い小部屋の中で、シャツをひつぱり乍ら、あの橋の向うの彼女を知る事が、最近の彼の憧憬になつてゐた。だけど、女が来いと云はないのに、彼がひとりで橋を渡つて行く事は、彼にとつて、負けた気がして出来なかつた。女はいつも(きま)つた時間に、蜜柑の後ろで彼を待つてゐた。女はシイカと云つてゐた。それ以外の名も、又どう書くのかさへも、彼は知らなかつた。どうして彼女と識り合つたのかさへ、もう彼には実感がなかつた。

   

 

 夜が都会を包んでゐた。新聞社の屋上庭園には、夜風が葬式のやうに吹いてゐた。一つの黒い人影が、ぼんやりと欄干から下の街を見下してゐた。大通りに沿つて、二條に続いた街燈の連りが、限りなく真直ぐに走つて、自動車の頭燈(ヘッドライト)が、魚の動きにつれて光る、夜の海の夜光虫のやうに交錯してゐた。

 階下の工場で、一分間に数千枚の新聞紙を刷り出す、アルバート会社製の高速度輪転機が、附近二十余軒の住民を、不眠性神経衰弱に陥れ乍ら、轟々と廻転をし続けてゐた。

 油と紙と汗の臭ひが、新大臣のお孫さんの笑顔だとか、花嫁の悲しげな眼差し、或ひはイブセン、蒋介石、心中、保険魔、寺尾文子、荒木又右衛門、モラトリアム、……等と一緒に、荒縄でくくられ、トラックに積み込まれて、この大都会を地方へつなぐ幾つかの停車場へ向けて送り出されてゐた。だから彼が、まるで黒いゴム風船のやうに、飄然とこの屋上庭園に上つて来たとて、誰も(とが)める人などありはしない。彼はシイカの事を考へてゐた。モーニングを着たらきつとあなたはよくお似合になるわよ、と云つたシイカの笑顔を。

 彼はそつとポケットから、クララ・ボウのブロマイドを取り出して眺めた。屋上に高く聳えた塔の廻りを、さつきから廻転してゐる探海燈が、長い光りの尾の先で、都会の空を撫で乍ら一閃する度に、クララ・ボウの顔がさつと明るく微笑んだが、暗くなると又、むつつりと暗闇の中で物を想ひ出した。彼女にはさう云ふ所があつた。シイカには。

 彼女はいつも、会へば陽気にはしやいでゐるのだつたが、マズルカを口吟(くちずさ)み乍ら、橋の向うへ消えて行く彼女の後姿は、――会つてゐない時の、彼の想ひ出の中に活きてゐる彼女は、シイカは、墓場へ向ふ路のやうに淋しく憂鬱だつた。

 カリフォルニヤの明るい空の下で、溌剌(はつらつ)と動いてゐる少女の姿が、世界中の無数のスクリンの上で、果物と太陽の香りを発散した。東洋人独特の(しと)やかさはあり、それに髪は()つてはゐなかつたが、シイカの面影にはどこかそのクララに似た所があつた。とりわけ彼女が、忘れものよ、と云つて、心持首を(かし)げ乍ら、彼の唇を求める時。シイカはどうしても写真をくれないので、――彼女は、人間が過去と云ふものの中に存在してゐたと云ふ、確かな証拠を残して置く事を、何故かひどく嫌やがつた。彼女はそれ程、瞬間の今の自分以外の存在を考へる事を恐れてゐた。――だから、仕方なく彼はそのアメリカの女優のブロマイドを買つて来て、鼻の所を薄墨で少し低く直したのであつた。

 彼がシイカといつものやうに果物屋の店で話をしてゐた時、Sunkistと云ふ字が話題に上つた。彼はきつと、それは太陽(サン)接吻(キッス)されたと云ふ意味だと主張した。カリフォルニヤはいつも明るい空の下に、果物が一杯実つてゐる。あすこに君によく似たクララが、元気に、男の心の中に咲いた春の花片を散らしてゐる。――貞操を置き忘れたカメレオンのやうに、陽気で憂鬱で、……

 すると、シイカが急に、丁度食べてゐたネーブルを指さして、どうしてこれネーブルつて云ふか知つてて? と訊いた。それは伊太利のナポリで、……と彼が云ひかけると、いいえ違つてよ。これは英語のnavel、お(へそ)つて字から(なま)つて来たのよ。ほら、ここんとこが、お臍のやうでせう。英語の先生がさう云つたわよ、とシイカが笑つた。アリストテレスが云つたぢやないの、萬物は臍を有す、つて。そして彼女の真紅な着物の(あざみ)の模様が、ふつくらとした胸の所で、激しい匂ひを撒き散らし乍ら、揺れて揺れて、……こんな事を想ひ出してゐたとて仕方がなかつた。彼は何をしにこんな夜更(よふけ)、新聞社の屋上に上つて来たのだつたか。

 彼はブロマイドを(しま)ふと、そつと歩きだした。鳩の家の扉を開けると、いきなり一羽の伝書鳩を捕へて、マントの下にかくした。

   

 

 デパアトメントストオアには、あらゆる生活の断面が、丁度束になつた(ねぎ)の切口のやうに眼に沁みた。

 十本では指の足りない貴婦人が、二人の令嬢の指を借りて、ありつたけの所有のダイヤを光らせてゐた。若い会社員は妻の購買意識を散漫にする為に、いろいろと食物の話を持ち出してゐた。母親は、まるでお聟さんでも選ぶやうに、あちらこちらから娘の嫌やだと云ふ半襟ばかり選り出してゐた。娘は実を云ふと、自分にひどく気に入つたのがあるのだが、母親に叱られさうなので、顔を赤くして困つてゐた。孫に好かれたい一心で、玩具(おもちや)喇叭(らつぱ)を萬引してゐるお爺さんがゐた。若いタイピストは眼鏡を買つてゐた。これでもう、接吻をしない時でも男の顔がはつきり見えると喜び乍ら。告示板を利用して女優が自分の名前を宣伝してゐた。妹が見合をするのに、もうお嫁に行つた姉さんの方が、余計胸を躍らせてゐた。主義者がパラソルの色合ひの錯覚を利用して、尾行の刑事を撒いてゐた。同性愛に陥つた二人の女学生は、手をつなぎ合せ乍ら、可憐(いぢら)しさうに、お揃ひの肩掛を買つてゐた。エレベーターが丁度定員になつたので、若夫婦にとり残された母親が、ふいと自分の年を想ひ出して、急に淋しさうに次のを待つてゐた。独身者が外套のハネを落す刷毛(ブラシ)を買つてゐた。ラジオがこの人混みの中で、静かな小夜曲(セレナーデ)を奏してゐた。若い女中が奥さんの眼をかすめて、そつと高砂の式台の定価札をひつくり返して見た。屋上庭園では失恋者が猿にからかつてゐた。喫煙室では地所の売買が行はれてゐた。待ち呆けを喰はされた男が、時計売場の前で、(しき)りと時間を気にしてゐたが、気の毒な事に、そこに飾られた無数の時計は、世界中のあらゆる都市の時間を示してゐた。…………

 三階の洋服売場の前へひよつこりと彼が現れた。

 ――モーニングが欲しいんだが。—

 ――はあ、お(あつら)へで?

 ――今晩是非要るのだが。

 ――それは、……       

 困つた、と云つた顔付で店員が彼の身長を米突(メートル)法に換算した。彼は背伸びをしたら、紐育(ニューヨーク)の自由の女神が見えはすまいかと云ふやうな感じだつた。暫く考へてゐた店員は、何か気がついたらしく、さうさう、と昔なら膝を打つて、一着のモーニングをとり出して来た。実はこれはこの間やりました世界風俗展で、巴里(パリ)の人形が着てゐたのですが、と云つた。

 すつかり着込むと、彼は見違へる程シャンとして、気持が、その(あら)い縞のズボンのやうに明るくなつて了つた。階下にゐる家内にちよつと見せて来る、と彼が云つた。如何にも自然なその云ひぶりや挙動で、店員は別に怪しみもしなかつた。では、この御洋服は箱にお入れして、出口のお買上品引渡所へお廻し致して置きますから、……

 所が、エレベーターはそのまま、すうつと一番下迄下りて了つた。無数の人に交つて、ゆつくりと彼は街に吐き出されて行つた。

 もう灯の入つた夕暮の街を歩き乍ら彼は考へた。俺は会社で一日八時間、この国の生産を人口で割つただけの仕事は充分過ぎる程してゐる。だから、この国の贅沢を人口で割つただけの事をしてもいい訳だ。電車の中の公衆道徳が、個人の実行に依つて完成されて行くやうに、俺のモーニングも、……それから、彼はぽかんとして、シイカがいつもハンケチを、左の手首の所に巻きつけてゐる事を考へてゐた。

 今日はホテルで会ふ約束だつた。シイカが部屋をとつといてくれる約束だつた。

 

 ――蒸すわね、スチイムが。

 さう云つてシイカが窓を開けた。そのままぼんやりと、低い空の靄の中に、無数の燈火が溶けてゐる街の風景を見下し乍ら、彼女がいつものマズルカを口吟んだ。このチァイコフスキイのマズルカが、リラの発音で、歌詞のない歌のやうに、彼女の口を漏れて来ると、不思議な哀調が彼の心の奥底に触れるのだつた。ことに橋を渡つて行くあの別離の時に。

 ――このマズルカには悲しい想ひ出があるのよ。といつかシイカが彼を憂鬱にした事があつた。

 ――黒鉛ダンスつて知つてて?

 いきなりシイカが振り向いた。

 ――いいえ。

 ――チアレストンよりもつと新らしいのよ。

 ――僕はああ云ふダアティ・ダンスは嫌ひです。

 ――まあ、可笑しい。ホヽヽヽヽ。

 このホテルの七階の、四角な小部屋の中に、たつた二人で向ひ合つてゐる時、彼女が橋の向うの靄の中に、語られない秘密を残して来てゐようなどとはどうして思へようか。彼女は春の芝生のやうに明るく笑ひ、マクラメ・レースの手提袋から、コンパクトをとり出して、一通り顔を直すと、いきなりポンと彼の鼻の所へ白粉をつけたりした。

 ――私のお友達にこんな女(ひと)があるのよ。靴下止めの所に、いつも銀の小鈴を|結(ゆは)へつけて、歩く度にそれがカラカラと鳴るの。ああやつていつでも自分の存在をはつきりきせて置きたいのね。女優さんなんて、皆んなさうかしら。

 ――君に女優さんの友達があるんですか?

 ――そりやあるわよ。

 ――君は橋の向うで何をしてるの?

 ――そんな事、訊かないつて約束よ。

 ――だつて、……

 ――私は親孝行をしてやらうかと思つてるの。

 ――お母さんやお父さんと一緒にゐるんですか?

 ――いいえ。

 ――ぢや?

 ――どうだつていいぢやないの、そんな事。

 ――僕と結婚して欲しいんだが。

 シイカは不意に黙つて了つた。やがて又、マズルカがリラリラと、かすかに彼女の唇を漏れて来た。

 ――駄目ですか?

 ――……

 ――え?

 ――可笑しいわ。可笑しな方ね、あんたは。

 そして彼女はいつもの通り、真紅な着物の薊の模様が、ふつくらとした胸の所で、激しい匂ひを撒き散らし乍ら、揺れて揺れて、笑つたが、彼女の瞳からは、涙が勝手に溢れてゐた。

 

 暫くすると、シイカは想ひ出したやうに、卓子(テーブル)の上の紙包みを(ほど)いた。その中から、美しい白耳義(ベルギー)産の切子硝子(カットグラス)の菓子鉢を取り出した。それを高く捧げて見た。電燈の光がその無数の断面に七色の虹を描き出して、彼女はうつとりと見入つてゐた。

 彼女の一重瞼をこんなに気高いと思つた事はない。彼女の襟足をこんなに白いと感じた事はない。彼女の胸をこんなに柔かいと思つた事はない。

 切子硝子がかすかな音を立てて、絨毯(じゆうたん)の敷物の上に砕け散つた。

大事さうに捧げてゐた彼女の両手がだらりと下つた。彼女は二十年もさうしてゐた肩の凝りを感じた。何かしらほつとしたやうな気安い気持になつて、いきなり男の胸に顔を埋めて了つた。

 彼女の薬指にオニックスの指輪の跡が、赤く押されて了つた。新調のモーニングに白粉の粉がついて了つた。貞操の破片が絨毯の上でキラキラと光つてゐた。

 

 卓上電話がけたたましく鳴つた。

 ――火事です。三階から火が出たのです。早く、早く、非常口へ!

 廊下には、開けられた無数の部屋の中から、けたたましい電鈴(りん)の音。続いて丁度泊り合せてゐた露西亜(ロシア)の歌劇団の女優連が、寝間着姿のしどけないなりで、青い瞳に憂鬱な恐怖を浮べ、まるでソドムの美姫(びき)のやうに、赤い電燈の点いた非常口へ殺到した。ソプラノの悲鳴が、不思議な斉唱を響かせて。……彼女達は、この力強い効果的な和声(ハアモニイ)が、チァイコフスキイのでもなく、又リムスキイ・コルサコフのでもなく、全く自分達の新らしいものである事に驚いた。部屋の戸口に、新婚の夫婦の靴が、互ひにしつかりと寄り添ふやうにして、睦しげに取り残されてゐた。

 ZIG・ZAGに急な角度で建物の壁に取りつけられた非常梯子(ばしご)を伝つて、彼は夢中でシイカを抱ぃたまま走り下りた。シイカの裾が梯子の釘にひつかかつて、ビリビリと裂けて了つた。見下した往来は、無数の人があちこちと、虫のやうに蠢いてゐた。裂かれた裾の下にはつきりと意識される彼女の(あし)の曲線を、溶けて了ふやうに固く腕に抱きしめ乍ら、彼は夢中で人混みの中へ飛び下りた。

 

 ――裾が破けて了つたわ。私はもうあなたのものね。

 橋の袂でシイカが云つた。

 

   

 

 暗闇の中で伝書鳩がけたたましい羽搏(はばた)きをし続けた。

 彼はぢいつと眠られない夜を、シイカの事を考へ明すのだつた。彼はシイカとそれから二三人の男が交つて、一緒にポオカアをやつた晩の事を考へてゐた。自分の手札をかくし、お互ひに他人の手札に探りを入れるやうなこの骨牌(かるた)のゲームには、絶対に無表情な、仮面のやうな、平気で嘘をつける顔付が必要だつた。この特別の顔付を、Poker-faceと云つてゐた。——シイカがこんな巧みなポオカア・フェスを作れるとは、彼は実際びつくりして了つたのだつた。

 お互ひに信じ合ひ、恋し合つてゐる男女が、一遍このポオカアのゲームをして見るがいい。忍びこんだメフィストの笑ひのやうに、暗い疑惑の戦慄が、男の全身に沁みて行くであらうから。

 あの仮面の下の彼女。何んと巧みな白々しい彼女のポオカア・フェス! ――橋の向うの彼女を知らうとする激しい欲望が、嵐のやうに彼を襲つて来たのは、あの晩からであつた。勿論彼女は大勝ちで、マクラメの手提袋の中へ無雑作に紙幣(さつ)束を押し込むと、晴やかに微笑み乍ら、白い腕をなよなよと彼の首に捲きつけたのだつたが、彼は石のやうに無言のまま、彼女と別れて来たのだつた。橋の所迄送つて行く気力もなく、川岸へ出る露路の角で別れて了つた。

 シイカはちよつと振り返ると、訴へるやうな暗い眼差しを、ちらつと彼に投げかけたきり、くるりと向うを向いて、だらだらと下つた露路の坂を、風に吹かれた秋の落ち葉のやうに下りて行つた。……

 彼はそつと起き上つて蝋燭をつけた。真直ぐに立上つて行く焔を凝視(みつめ)てゐるうちに、彼の眼の前に、大きな部屋が現れた。|冰(こほ)つたやうなその部屋の中に、シイカと夫と彼等の子とが、何年も何年も口一つきかずに、各々憂鬱な眼差しを投げ合つて坐つてゐた。――さうだ、ことに依ると彼女はもう結婚してゐるのではないかしら?

 すると、今度は暗い露路に面した劇場の楽屋口が、その部屋の情景にかぶさつてダブつて来た。――そこをこつそり出て来るシイカの姿が現れた。ぐでんぐでんに酔払つた紳士が、彼女を抱へるやうにして自動車に乗せる。車はそのままいづれへともなく(やみ)の中に消えて行く。‥…

 彼の頭が段々いらだつて来た。丁度仮装舞踏会のやうに、自分と踊つてゐる女が、その無表情な仮面の下で、何を考へてゐるのか。()しそつとその仮面を、いきなり外して見たならば、女の顔の上に、どんな淫蕩な多情が、章魚(たこ)(あし)のやうに揺れてゐる事か。或ひは又、どんな純情が、夢を見た赤子の唇のやうにも無邪気に、蒼白く浮んでゐる事か。シイカが橋を渡る迄決して外した事のない仮面が、()の明りの中で、薄気味悪い無表情を示して、ほんのりと浮び上つてゐた。

 彼は絶間ない幻聴に襲はれた。幻聴の中では、彼の誠意を(わら)ふシイカの蝙蝠(かうもり)のやうな笑声を聞いた。かと思ふと、何か悶々として彼に訴へる、清らか哀音(あいいん)を耳にした。

 蝋涙(らふるい)が彼の心の影を浮べて、この部屋のたつた一つの装飾の、銀製の蝋燭立てを伝つて、音もなく流れて行つた。彼の空想が唇のやうに乾いて了つた頃、嗚咽(をえつ)がかすかに彼の咽喉につまつて来た。

   

 

 ――私は、ただお金持の家に生れたと云ふだけの事で、そりや不当な侮蔑を受けてゐるのよ。私達が生活の事を考へるのは、もつと貧しい人達が贅沢の事を考へるのと同じやうに空想で、必然性がない事なのよ。それに、家名だとか、エチケットだとか、さう云ふ無意義な重荷を打ち壊す、強い意志を育ててくれる、何らの機会も環境も、私達には与へられてゐなかつたの。私達が、持て余した一日を退屈と戦ひ乍ら、刺繍の針を動かしてゐる事が、どんな消極的な罪悪であるかと云ふ事を、誰も教へてくれる人なんかありはしない。私達は自分でさへ迷惑に思つてゐる(ゆが)められた幸運の為に、あらゆる他から同情を遮られてゐるの。私、別に同情なんかされたくはないけど、ただ不当に憎まれたり、(さげす)まれたりしたくはないわ。

 ――君の家はそんなにお金持なの?

 ――ええ、そりやお金持なのよ。銀行が取付けになる度に、お父さまの心臓はトラックに積まれた荷物のやうに飛び上るの。

 ――ほう。

 ――この間、一緒に女学校を出たお友達に会つたのよ。その方は学校を出ると直ぐ、或る社会問題の雑誌にお入りになつて、その方で活動してらつしやるの。私がやつぱりこの話を持ち出したら、笑ひ乍らかう云ふの。自分達はキリストと違つて、全ての人類を救はうとは思つてゐない。共通な悩みに悩んでゐる同志を救ふんだ、つて。あなた方はあなた方同志で救ひ合つたらどう? つて。だから、私がさう云つたの。私達には自分だけを救ふ力さへありやしない。そんなら亡んで了ふがいい、つてさう云ふのよ、その(ひと)は。それが自然の法則だ。自分達は自分達だけで血みどろだ、つて。だから、私が共通な悩みつて云へば、人間は、丁度地球自身と同じやうに、この世の中は、階級と云ふ大きな公転を続け乍ら、その中に、父子、兄弟、夫婦、朋友、その他あらゆる無数の私転関係の悩みが悩まれつつ動いて行くのぢやないの、つて云ふと、そんな()つぽけな悩みなんか踏み越えて行つて了ふんだ。自分達は小ブルジョア階級のあげる悲鳴なんかに対して、断然感傷的になつては居られない。だけど、あなたにはお友達甲斐に良い事を教へてあげるわ。――恋をしなさい。あなた方が恋をすれば、それこそ、あらゆる倦怠と閑暇(ひま)を利用して、清らかに恋し合へるぢやないの。あらゆる悩みなんか、皆んなその中に溶かしこんで了ふやうにね。そこへ行くと自分達は主義の仕事が精力の九割を()いてゐる。後の一割でしか恋愛に力を別たれない。だから、自分達は一人の恋人なんかを守り続けてはゐられない。それに一人の恋人を守ると云ふことは、一つの偶像を作る事だ。一つの概念を作る事だ。それは主義の最大の敵だ。だから、……そんな事を云ふのよ。私、何んだか、心の在所(ありか)が解らないやうな、頼りない気がして来て、……

 ――君はそんなに悩み事があるの?

 ――私は母が違ふの。ほんとのお母さんは私が二つの時に死んで了つたの。

 ――え?

 ――私は何んとも思つてゐないのに、今のお継母(かあ)さんは、私がまだ三つか四つの頃、まだ意識がやつと牛乳の瓶から離れた頃から、もう、自分を見る眼付きの中に、限りない憎悪(にくしみ)の光が宿つてゐるつて、さう云つては父を困らしたんですつて。お継母さんはかう云ふのよ。つまり私を生んだ母親が、生前、自分の夫が愛情を感ずるあらゆる女性に対して(いだ)いてゐた憎悪の感情が、私の身体の中に、蒼白い潜在意識となつて潜んでゐて、それがまだあどけない私の瞳の底に、無意識的に、暗の中の黒猫の眼のやうに光つてゐるんだ、つてさう云ふのよ。私が何かにつけて、物事を(ひが)んでゐやしないかと、しよつちゆうそれを向うで僻んでゐるの。父は継母(はは)に気兼ねして、私の事は何んにも口に出して云はないの。継母は早く私を不幸な結婚に追ひやつて了はうとしてゐるの。そしてどんな男が私を一番不幸にするか、それはよく知つてゐるのよ。継母は自分を苦しめた私を、私はちよつともお継母さんを苦しめた事なんかありはしないのに、私が自分より幸福になる事をひどく嫌がつてゐるらしいの。そんなに迄人間は人間を憎しめるものかしら。……中で、私を一番不幸にしさうなのは、或る銀行家の息子なの。ヴァイオリンが上手で、困つた事に私を愛してゐるのよ。この間、仲人(なかうど)の人が是非その男のヴァイオリンを聞けと云つて、私に電話口で聞かせるのよ。お継母さんがどうしても聞けつて云ふんですもの。後でお継母さんが出て、大変結構ですね、今、娘が大変喜んで居りました、なんて云ふの。私その次に会つた時、この間の軍隊行進曲(マーチ)は随分良かつたわね、つてそ云つてやつたわ。ほんとはマスネエの逝く春を惜しむ悲歌(エレジイ)を弾いたんだつたけど。皮肉つて云や、そりや皮肉なのよ、その人は。いつだつたか一緒に芝居へ行かうと思つたら、髭も剃つてゐないの。さう云つてやつたら、済した顔をして、いやー辺剃つたんですが、あなたのお化粧を待つてゐるうちに、又伸びて了つたんですよ。どうも近代の男は、女が他の男の為に化粧してゐるのを、ぽかんとして待つてゐなければならない義務があるんですからね、全く、……つて、かうなのよ。女を軽蔑することが自慢なんでせう。軽蔑病にかかつてゐるのよ。何んでも他のものを軽蔑しさへすれば、それで自分が偉くなつたやうな気がするのね。近代の一番悪い世紀病にとつつかれてゐるんだわ。今度会つたら紹介して上げるわね。

 ――君は、その人と結婚するつもり?

 シイカは突然黙つて了つた。

 ――君は、その男が好きなんぢやないの?

 シイカはぢつと下唇を噛んでゐた。一歩毎に震動が唇に痛く響いて行つた。

 ――え?

 彼が追つかけるやうに訊いた。

 ――ええ、好きかも知れないわ。あなたは私達の結婚式に何を送つて下さること?

 突然彼女がポロポロと涙を(こぼ)した。

 彼の突き詰めた空想の絲が、そこでぼつりと切れて了ひ、彼女の姿は又、橋の向うの靄の中に消えて了つた。彼の頭の中には疑心と憂鬱と焦慮と情熱が、まるでコクテイル・シェークのやうに()き廻された。彼は何をしでかすか解らない自分に、監視の眼を見張り出した。

 川沿ひの並木道が長く続いてゐた。二人の別れる橋の灯が、遠く靄の中に霞んでゐた。街灯の光りを浴びた蒼白いシイカのポオカア・フェスが、かすかに微笑んだ。

 ――今日の話は皆んな嘘よ。私のお父さんはお金持でもなければ何んでもないの。私はほんとは女優なの。

 ――女優?

 ――まあ、驚いたの。嘘よ。私は女優ぢやないわ。女が瞬間に考へついた素晴しい無邪気な空想を、一々ほんとに頭に刻みこんでゐたら、あなたは今に狂人になつて了つてよ。

 ――僕はもう狂人です。こら、この通り。

 彼はさう云ひ乍ら、クルリと振り向いて、女と反対の方へどんどん、後ろも見ずに馳け出して行つて了つた。

 シイカはそれを暫く見送つてから、深い溜息をして、無表情な顔を(ものう)げに立て直すと、憂鬱詩人レナウのついた一本の杖のやうに、とぼとぼと橋の方へ向つて歩き出した。

 彼女の唇をかすかに漏れて来る吐息と共に、落ち葉を踏む跫音(あしおと)のやうに、……

 

  君は(さち)あふれ、

  われは、なみだあふる。

   

 

 いつもの果物屋で、彼がもう三十分も待ち呆けを喰はされてゐた時、電話が彼にかかつて来た。

 ――あなた? 御免なさい。私、今日はそつちへ行けないのよ。……どうかしたの?

 ――いいえ。

 ――だつて黙つて了つて、……怒つてるの?

 ――今日の君の声はなんて冷たいのかしら。

 ――だつて、雪が電線に重たく積つてゐるんですもの。

 ――どこにゐるの、今?

 ――帝劇に居るの。あなた、いらつしやらない事? ……この間話したあの人と一緒なのよ。紹介して上げるわ。……今晩はチァイコフスキイよ。オニエギン、……

 ――オニエギン?

 ――ええ。……来ない?

 ――行きます。

 その時彼は電話を通して、低い男の笑声を聞いた。彼は受話機をかけるといきなり帽子を握つた。頬つぺたをはたかれたハルレキンのやうな顔をして、彼は頭の中の積木細工が、不意に崩れて行くかすかな音を聞いた。

 

 街には雪が蒼白く積つてゐた。街を長く走つてゐる電線に、無数の感情がこんがらかつて(きし)んで行く気味の悪い響が、この人通りの少い裏通りに轟々と響いてゐた。彼は耳を(おほ)ふやうに深く外套の襟を立てて、前屈(まへかが)みに蹌踉(ある)いて行つた。眼筋が働きを止めて了つた視界の中に、重なり合つた男の足跡、女の足跡。ここにも感情が(もつ)れ合つたまま、冷え切つた燃えさしのやうに棄てられてあつた。

 いきなり街が明るく光り出した。劇場の飾燈が、雪解けの靄に七色の虹を反射させてゐた。入口にシイカの顔が微笑んでゐた。(ひは)色の紋織の羽織に、鶴の模様が一面に絞り染めになつてゐた。彼女の後ろに身長(せい)の高い紳士が、エチケットの本のやうに、淑やかに立つてゐた。

 二階の正面に三人は並んで腰をかけた。シイカを真中に。……彼は又頭の中の積木細工を一生懸命で積み始めた。

 幕が開いた。チァイコフスキイの朗らかに憂鬱な曲が、静かにオーケストラ・ボックスを漏れて来た。指揮者のバトンが彼の胸をコトン、コトン! と叩いた。

 舞台一面の雪である。その中にたつた二つの黒い点、オニエギンとレンスキイが、真黒な二羽の鴉のやうに、不吉な(くちばし)を向き合せてゐた。

 彼は万年筆をとり出すと、プログラムの端へ急いで書きつけた。

 (失礼ですが、あなたはシイカをほんとに愛しておいでですか?)

 プログラムはそつと対手の男の手に渡された。男はちよつと顔を近寄せて、すかすやうにしてそれを読んでから、同じやうに万年筆をとりだした。

 (シイカは愛されない事が愛された事なのです。)

 ――まあ、何? 二人で何を陰謀をたくらんでゐるの?

 シイカがクツクツと笑つた。ブログラムは彼女の膝の上を右へ左へ動いた。

 (そんな無意義なパラドックスで僕を愚弄しないで下きい。僕は憤慨してゐるんですよ。)

 (僕の方が余つ程憤慨してるんですよ。)

 (あなたはシイカを幸福にしてやれると思つてますか。)

 (シイカを幸福に出来るのは、僕でもなければ、又あなたでもありません。幸福は彼女の側へ近づくと皆んな仮面を冠つて了ふのです。)

 (あなたからシイカの事を説明して頂くのは、お断りし度いと思ふのですが。)

 (あなたも亦、彼女を愛してゐる一人なのですか。)

 ――うるさいわよ。

 シイカがいきなりプログラムを丸めて了つた。舞台の上では轟然たる一発の銃声。レンスキイの身体が枯木のやうに雪の中に倒れ伏した。

 ――立て!

 いきなり彼が怒鳴つた。対手の男はぎくとして、筋を引いた蛙の(あし)のやうに立上つた。シイカはオペラグラスを膝の上に落した。彼はいきなり男の腰を力任かせに突いた。男の身体はゆらゆらと蹌踉(よろ)めいたと思つたら、そのまま欄干を越えて、どさりと一階の客席の真中に墜落して了つた。わーつ! と云ふ叫び声。一時に立上る観客の頭、無数の瞳が上を見上げた。舞台では、今死んだ筈のレンスキイがむつくりと飛び上つた。音楽がはたと止つた。客席のシャンドリエに燈火が入つた。叫び声!

 シャンドリエの光が大きく彼の眼の中で揺れ始めた。いきなり力強い腕が彼の肩を掴んだ。ピントの外れた彼の瞳の中に、真蒼なシイカの顔が浮んでゐた。広く(みひら)いた瞳の中から、彼女の感情が皆んな消えて行つて了つたやうに、無表情な彼女の顔。白々しい仮面のやうな彼女の顔。――彼はただ、彼女が、今、観客席の床の上に一箇所の斑点のやうに、圧しつぶされて了つたあの男に対して、何んらの感情も持つてはゐなかつた事を知つた。そして、彼女の為に人を殺したこの自分に対して、憎悪さへも感じてゐない彼女を見た。

 

   

 

 街路樹の新芽が眼に見えて青くなり、都会の空に(かぐ)はしい春の匂ひが漂つて来た。松の花粉を浴びた女学生の一群が、故もなく興奮し切つて、大きな邸宅の塀の下を、明るく笑ひ乍ら帰つて行つた。もう春だわね、と云つてそのうちの一人が、ダルクローズのやうに思ひ切つて両手を上げ、深呼吸をした拍子に、空中に幾万となく数知れず浮游してゐた蚊を、鼻の中に吸ひこんで了つた。彼女は(しか)(つら)をして鼻を鳴らし始めた。明るい陽差しが、軒に出された風露草(グラニヤ)の植木鉢に、恵み多い光りの()をそそいでゐた。

 取調べは二月程かかつた。スプリング・スーツに着更へた予審判事は、彼の犯行に特種の興味を感じてゐたので、今朝も早くから、友人の若い医学士と一緒に、極く懇談的な自由な取調べや、智能調査、精神鑑定を行つた。以下に書きつけられた会話筆記は、その中から適宜に取り出した断片的の覚書である。

 

 問。 被告は感情に何かひどい刺戟を受けた事はないか?

 答。 橋の向うの彼女を知らうとする激しい慾求が、日夜私の感情をいらだたせてゐました。

 問。 それを知つたら、被告は幸福になれると確信してゐたのか?

 答。 却つて不幸になるに違ひないと思つてゐました。

 問。 人間は自分を不幸にする事の為に、努力するものではないと思ふが。

 答。 不確実の幸福は確実な不幸より、もつと不幸であらうと思ひます。

 問。 被告の知つてゐる範囲で、その女はどんな性格を持つてゐたか?

 答。 巧みなポオカア・フェスが出来る女でした。だが、それは意識的な悪意から来るのではないのです。彼女は瞬間以外の自分の性格、生活に対しては、何んらの実在性を感じないのです。彼女は自分の唇の紅がついたハンケチさへ、私の手もとに残す事を恐れてゐました。だから、彼女が素晴らしい嘘をつくとしても、それは彼女自身にとつては確実なイメエヂなのです。彼女が自分を女優だと云ふ時、事実彼女は、どこかの舞台の上で、華やかな花束に囲まれた事があるのです。令嬢だと云へば、彼女は寝床も上げた事のない懶(けだる)い良家の子女なのです。それが彼女の強い主観なのです。

 問。 さう解つてゐれば、被告は何もいらいら彼女を探ることはなかつたではないか。

 答。 人間は他人の主観の中に、決して安息してゐられるものではありません。あらゆる事実に冷やかな客観性を与へたがるものなのです。太陽が地球の廻りを巡つてゐる事実だけでは満足しないのです。自分の眼を飛行機に乗せたがるのです。

 問。 その女は、被告の所謂(いはゆる)橋の向うの彼女に就いて、多く語つた事があるか?

 答。 よく喋る事もあります。ですが、それは今云つた通り、恐らくはその瞬間に彼女の空想に映じた、限りない嘘言(うそ)の連りだつたと思ひます。若しこつちから推理的に質問を続けて行けば、彼女は直ぐと、水を離れた貝のやうに口を(つぐ)んで了ふのです。一時間でも二時間でも、まるで彼女は、鍵のかかつた抽斗(ひきだし)のやうに黙りこんでゐるのです。

 問。 そんな時、被告はどんな態度をとるのか?

 答。 黙つて爪を()つてゐたり、百人一首の歌を一つ一つ想ひ出して見たり、……それに私は工場のやうな女が嫌ひなのです。

 問。 被告は自分自身の精神状態に就いて、異常を認めるやうな気のした事はないか?

 答。 私を狂人だと思ふ人があつたなら、その人は、ガリレオを罵つたピザの学徒のやうな(そし)りを受けるでせう。

 問。 被告は、女が被告以外の男を愛してゐる事実にぶつかつて、それで激したのか。

 答。 反対です。私は彼女が何人の恋人を持たうと、何人の男に失恋を感じようと、そんな事は構ひません。何故ならば彼女が私と会つてゐる瞬間、彼女はいつも私を愛してゐたのですから。そして、瞬間以外の彼女は、彼女にとつて実在しないのですから。ただ、彼女が愛してゐる男ではなく、彼女を愛してゐる男が、私以外にあると云ふことが、堪へられない心の重荷なのです。

 問。 被告が突き落した男が、彼女を愛してゐたと云ふ事は、どうして解つたか?

 答。 それは、彼が丁度私と同じやうに、私が彼女を愛してゐるかどうかを気にしたからです。

 問。 彼女の貞操観念に対して被告はどう云ふ解釈を下すか。

 答。 若し彼女が貞操を守るとしたら、それは善悪の批判からではなく、一種の潔癖、買ひ立てのハンケチを汚すまいとする気持からなのです。持つてゐるものを壊すまいとする慾望からです。彼女にとつて、貞操は一つの切子硝子(カットグラス)の菓子皿なのです。何んかの拍子に、ひよつと落して()つて了へば、もうその破片に対して何んの未練もないのです。……それに彼女は、精神と肉体を完全に遊離する(すべ)を知つてゐます。だから、例へ彼女が、私はあなたのものよ、と云つた所で、それが彼女の純情だとは云へないのです。彼女は最も嫌悪する男に、手易(たやす)く身を任せたかも知れません。そして又、最も愛する男と無人島にゐて、清らかな交際を続けて行くかも知れません。

 問。 判決が下れば、監獄は橋の向うにあるのだが、被告は控訴する口実を考へてゐるか?

 答。 私は喜んで橋を渡つて行きませう。私はそこで静かに観音経を読みませう。それから、心行くまで、シイカの幻を愛し続けませう。

 問。 何か願ひ事はないか?

 答。 彼女に私の形見として、私の部屋にある鳩の籠を渡してやつて下さい。それから、彼女に早くお嫁に行くやうにすすめて下さい。彼女の幸福を遮る者があつたなら、私は脱獄をして、何人でも人殺しをしてやると、さう云つてゐた事を伝へて下さい。

 問。 若し何年かの後、出獄して来て、そして街でひよつこり、彼女が仇し男の子供を連れてゐるのに出遇つたら、被告はどうするか。

 答。 私はその時、ウォタア・ロオリイ卿のやうに丁寧にお辞儀をしようと思ひます。それかしやつとこ立ちをして街を歩いてやらうかと思つてゐます。

 問。 被告のその気持は諦めと云ふ思想なのか。

 答。 いいえ違ひます。私は彼女をまだ初恋のやうに恋してゐます。彼女は私のたつた一人の恋人です。外国の話しにこんなのがあります。二人の相愛の恋人が、山登りをして、女が足を滑らせ、底知れぬ氷河の割目に落ちこんで了つたのです。男は無限の憂愁と誠意を黒い衣に包んで、その氷河の尽きる山の麓の寒村に、小屋を立てて、一生をそこで暮したと云ふ事です。氷河は一日三尺位の速力で、目に見えず流れてゐるのださうです。男がそこに、昔のままの十八の少女の姿をした彼女を発見する迄には、少なくも三四十年の永い歳月が要るのです。その間、女の幻を懐いて、嵐の夜もぢつと山合ひの小屋の中に、彼女を待ち続けたと云ふのです。例へシイカが、百人の恋人を港のやうに巡りつつ、愛する術を忘れた寂寥を忘れに、この人生の氷河の下を流れて行つても、私はいつ迄もいつ迄も、彼女の為に最後の食卓を用意して、秋の落葉が窓を叩く、落漠たる孤独の小屋に、彼女をあてもなく待ち続けて行きませう。

 それから若い医学士は、被告の意識、学力、記憶力、聯想観念、注意力、判断力、感情興奮性等に関して、いろいろ細かい精神鑑定を行つた。

 女を一番愛した男は? ショペンハウエル。Mの字のつく世界的音楽家は? ムゥソルグスキイ、モツァルト、宮城道雄。断髪の美点は? 風吹けば動的美を表す。寝沈まつた都会の夜を見ると何を聯想するか? 或る時は、鳴り止まつたピアノを。或る時は、秋の空に、無数につるんでゐる赤蜻蛉(あかとんぼ)を。等々々、………

   

 

 シイカは川岸へ出るいつもの露路の坂を、ひとり下つて行つた。空には星が冷やかな無関心を象徴してゐた。彼女にはあの坂の向うの空に光つてゐる北斗七星が、ああやつて、いつもの通りの形を持してゐる事が不自然だつた。自分の身に今、これだけの気持の変化が起つてゐるのに天体が昨日と同じ永劫の運行を続け、人生が又同じ歩みを歩んで行く事が、何故か彼女にとつて、ひどく排他的な意地悪るさを感じさせた。彼女は今、自分が残して来た(ちまた)の上に、どんよりと感じられる都会のどよめきへ、ほのかな意識を移してゐた。

 だが、彼女の気持に変化を与へ、彼女を憂愁の闇でとざして了つた事実と云ふのは、劇場の二階から突き落されて、一枚の熊の毛皮のやうに圧しつぶされて了つた、あのヴァイオリンを弾く銀行家の息子ではなかつた。又、彼女の為に、殺人迄犯した男の純情でもなかつた。では? ……

 彼女が籠に入れられた一羽の伝書鳩を受け取り、彼に、さよなら、とつめたい一語を残してあのガランとした裁判所の入口から出て来た時、ホテルへ向ふアスファルトの鋪道を、音もなく走つて行つた一台のダイアナであつた。行き過ぎなりに、チラと見た男の顔。幸福を盛つたアラバスタアの盃のやうに輝かしく、(つの)かくしをした美しい花嫁を側に坐らせて。‥…

 彼女の行ひがどうであらうと、彼女の食慾がどうであらうと、決して汚されはしない、たつた一つの想ひ出が、暗い霧の中に遠ざかつて行く哀愁であつた。

 心を唱ふ最後の歌を、せめて、自分を知らない誰かに聞いて貰ひ度い慾望が、彼女のか弱い肉体の中に、生を繋ぐ唯一本の銀の絲となつて、シイカは小脇に抱へた籠の中の鳩に、優しい瞳を落したのだつた。

 

   

 

 一台の馬車が、朗かな朝の中を走つて行つた。中には彼ともう一人、女優のやうに華手(はで)なシャルムーズを着た女が坐つてゐた。馬車は大きな音を立て乍ら、橋を渡つて揺れて行つた。彼の心は奇妙と明るかつた。橋の袂に立つてゐる花売の少女が、不思議さうな顔をして、この可笑しな馬車を見送つてゐた。チュウリップとフリイヂヤの匂ひが、緑色の春の陽差しに溶けこんで、金網を張つた小ひさな窓から、爽かに流れこんで来た。

 何もかもこれでいい。自分は一人の女を恋してゐる。それでいい。それだけでいい。橋の向うへ行つたとて、この金網の小窓からは、何が一体見られよう。……

 三階建の洋館が平屋の連りに変つて行つた。空地がそこここに見え出した。花園、並木、灰色の道。——たつた一つのこの路が、長く長く馬車の行方(ゆくへ)に続いてゐた。その涯の所に突然大きな建物が、解らないものの中で一番解らないものの象徴のやうに、巍然(ぎぜん)として(そび)えてゐた。彼はそれを監獄だと信じてゐた。

 やがて馬車は入口に近づいた。だが、門の表札には刑務所と云ふ字は見付からなかつた。同乗の女がいきなり大声に笑ひ出した。年()つた門番の老人が、悲しさうな顔をして、静かに門を開けた。錆びついた鉄の掛金がギイと鳴つた。老人はやはりこの建物の中で、花瓶にさした一輪の椿の花のやうに死んで了つた自分の娘の事を考へてゐた。男の手紙を枕の下に入れたまま、老人が臨終の枕頭へ行くと、とろんとした暗い瞳を動かして、その手を握り、男の名前を呼び続け乍ら死んで行つた、まだ年若い彼のたつた一人の娘の事を。最後に呼んだ名前が、親の自分の名ではなく、見も知らない男の名前だつた悲しい事実を考へてゐた。

 

   

 

 シイカは朝起きると、縁側へ出てぼんやりと空を眺めた。彼女はそれから、小筥(こばこ)の中からそつと取り出した一枚の紙片を、鳩の足に(ゆは)へつけると、庭へ出て、一度強く鳩を胸に抱き締め乍ら、頬をつけてから手を離した。鳩は一遍グルリと空に()を描き、今度は急に南の方へ向つて、絲の切れた紙鳶(たこ)のやうに飛んで行つた。

 シイカは蓋を開けられた鳥籠を見た。彼女の春がそこから逃げて行つて了つたのを感じた。彼女は青葉を固く噛みしめ乍ら、芝生の上に身を投げ出して了つた。彼女の瞳が涙よりも濡れて、明るい太陽が彼女の睫毛に、可憐な虹を描いてゐた。

 

 新聞社の屋根でたつた一人、紫色の仕事着を着た給仕の少女が、襟にさし忘れた縫針の先でぼんやり欄干を突つつき乍ら、お嫁入だとか、電気局だとか云ふ事を考へてゐた。見下した都会の底に、いろいろの形をした建物が、海の底の貝殻のやうに光つてゐた。

 無数の伝書鳩の群れが、澄み切つた青空の下に大きく環を描いて、新聞社の建物の上を散歩してゐた。その度に黒い影が窓硝子をかすめて行つた。少女はふと、その群れから離れて、一羽の鳩が、直ぐ側の欄干にとまつてゐるのを見付けた。可愛い(くちばし)を時々開き、真丸な目をぱちぱちさせながら、ぢつとそこにとまつてゐた。あすこの群の方へは這入らずに、まるで永い間里へやられてゐた里子のやうに、一羽しよんぼりと離れてゐる様子が、少女には何か愛くるしく可憐(いぢら)しかつた。彼女が近づいて行つても、鳩は逃げようともせずにぢつとしてゐた。少女はふとその足の所に結へつけられてゐる紙片に気がついた。

 

   十一

 

 四月になつたら、ふつくらと広い寝台を据ゑ、黒い、九官鳥の籠を吊さうと思つてゐます。

 私は、寝台の上に腹這ひ、頬杖をつきながら、鳥に言葉を教へこまうとおもふのです。

 

  君は幸あふれ、

  われは、なみだあふる。

 

 もしも彼女が、嘴の重みで、のめりさうになるほど嘲笑しても、私は、もう一度云ひ直さう。

 

  さいはひは、あふるべきところにあふれ、

  なみだ、また——

 

 それでもガラガラわらつたら、私はいつそあの皺枯れ声に、

 

  あたしやね、おつかさんがね、

  お嫁入りにやるんだとさ、

 

 と、おぼえさせようとおもつてゐます。

 

   十二

 

 明るい街を、碧い眼をした三人の尼さんが、真白の帽子、黒の法衣(ほふえ)の裾をつまみ、黒い洋傘(かうもり)を日傘の代りにさして、ゆつくりと歩いて行つた。穏やかな会話が微風(そよかぜ)のやうに彼女達の唇を漏れて来た。

 ――もう春ですわね。

 ――ほんとに。春になると、私はいつも故国(くに)の景色を想ひ出します。この異国に来てからもう七度の春が巡つて来ました。

 ――どこの国も同んなじですわね、世界中。

 ――私の妹も、もう長い裾の洋服を着せられた事でせう。

 ――カスタニイの並木路を、母とよく歩いて行つたものです。

 ――神様が、妹に、立派な恋人をお授け下さいますやうに!

 ――Amen !

 ――Amen !

 (11に挿入した句章は作者F・Oの承諾に依る)

(昭和二年「改造」)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/05/24

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池谷 信三郎

イケタニ シンザブロウ
いけたに しんざぶろう 小説家 1900・10・15~1933・12・21 旧東京市京橋区船松町に生まれる。乱読の青春期からモーパッサンの全短編をはじめ外国文学に親炙、東京大学よりベルリン大学に留学、関東大震災で帰国し懸賞小説により菊池寛・久米正雄らに識られて文学並びに演劇の世界へ歩を進めた。片岡鉄兵・川端康成・横光利一らとも共同生活し、死に至るまでの僅か9年に約6千枚を書いて多彩に活躍した。ハイカラで軽薄ではなく、独逸ふうの憂鬱を一刷毛した下町の匂いのする都会的洗練。余人を寄せつけぬ新感覚と独特の才ある作家として夭折が惜しまれた。

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