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柳美里作「石に泳ぐ魚」最高裁判決について

  1 判決の評価

 私は、柳美里氏による「石に泳ぐ魚」などの作品が作品のモデルとされた女性のプライバシーを侵害し、名誉を毀損し、名誉感情を侵害するとして柳氏側に損害賠償を命ずるとともに、出版の差し止めを認める判断を示した一審・東京地裁や、原審・東京高裁の判決に疑問を感じる点が少なくなかった。

 今回の最高裁判決を読んで、もっとも不満だったのは、にもかかわらず最高裁は、こうした下級審判決に何ら独自の判断を加えることなく、原審を丸ごと追認し、法の番人としての役割を果たさなかったことだ。

また、最高裁は、原審判断の表現の自由適合性を説明するために過去の最高裁判例(「夕刊和歌山時事」のケースと「北方ジャーナル」のケース)を引き合いに出しているが、これにも異論がある。というのは、それらはいずれも事実の報道が問題になり、かつ名誉毀損に関する事案である。小説表現の描写が問われ、かつプライバシーという異なる法益の侵害が重要な要素となっている今回のケースのいかなる意味で先例としての意味をもち得るのか、根本的に疑問がある。

  2 争点の判断について

(1)問題へのアプローチのあり方

 最高裁が今回そのまま依拠した東京高裁の判決が出たとき、これを読んでまず気になったのは、事柄が「作家の小説表現の自由とモデルの名誉・プライバシーなどの人権との調整」という課題であるにもかかわらず、もっぱらモデル側の人権の観点からのみ一方的、一面的にアプローチしているようにみえたことだった。今回、最高裁がこれに何らの異議も差し挟むことなく追認したのは見過ごせない。

 今回のような問題を考えるとき、書かれる側の人権とともに、書く側の表現の自由への配慮が欠かせないことは言うまでもない。ところが、高裁判決には表現の自由の価値や重要性を一方で踏まえつつ、名誉やプライバシーなどとの微妙な調整を探求するという視点がまったく見受けられないのである。

 現に、積極的な表現の自由論はどこにも展開されていないだけでなく、「表現の自由」という言葉すらほとんど判決には出てこない。わずかに出てくる場合も消極的な意味合いで言及されているに過ぎない。

 裁判の性格を考えると、これは驚きでさえある。

 モデルとされた女性側の救済という結論が先にあり、すべての議論をそこに収斂させる判決になっていたと受け止めざるをえない。

 最高裁に求めたかったのは、こうした原審の一面的なアプローチを是正し、表現の自由を十分踏まえ、バランスの取れた方法で事案に立ち向かうことだった。しかし、これはまったく果たされなかった。表現の自由についての最高裁の見識を疑わざるをえない。

(2)出版差し止め判断

 個別の論点について言うと、注目されたのは、最高裁が出版差し止めの論点につき、どういう判断を示すかだった。地裁、高裁はいずれも、小説の「出版差し止め」を命じる判断を示していて、これが裁判の大きな争点になっていたからである。

 出版しない旨の当事者の合意を理由に差し止めを認めた一審判決の判断を退け、東京高裁は、人格権を理由に差し止めを許容するとともに、差し止めは、侵害行為によって受ける被害者側の不利益と、差し止めによって受ける侵害者側の不利益とを比較衡量して決めるべきであると判示した。そして、本件モデルの女性は公的存在でもなく、本件小説の表現内容は公共の利害に関する事項でもないなどとして、出版の差し止めを命じた。

 最高裁はこの高裁判決を是認した。

今回の事案は、顔面の障害というセンシティブな事柄を含んでいる。高裁判決も認めているようなモデルとなった女性の名誉感情の著しい侵害をはじめ「人間存在」に関わる問題を含んでいるのは確かであり、本件の結論の評価については慎重な判断が求められる。

だが、高裁判決が示す差し止めの根拠や基準、公共性の有無の判断などが十分な説得力をもっているかは、疑問だ。ここからは、創作活動や表現の自由に対する配慮の跡を見出すのは難しいからである。そもそも、小説という創作表現に差し止めという禁圧的な制裁を課し、読者の判断・評価の機会を奪うことは、やはり原則として避けるべきではないだろうか。

最高裁に期待されたのは、このように重大な問題をはらむ原審の判断を無批判に是認する事ではなく、これに厳格な精査を加え、より表現の自由に適合的な差し止めの法理を探求し、提示するはずだったが、この願いはかなえられなかった。

(3)名誉・プライバシー判断

 表現の自由への配慮の欠如は、実は原審のプライバシーや名誉毀損の判断などにも窺えたのだが、最高裁はこの点を取り上げ、丁寧に吟味するということもせず、ここでも原審の判断をそのまま追認してしまった。

高裁判決は、女性をモデルとした登場人物「朴里花」の父親の逮捕歴や本人の顔の腫瘍などに関する叙述をプライバシー侵害と判断していたが、秘匿が難しい外貌に関わる事柄をプライバシーとして保護対象に構成しうるかについては、柳氏側も主張しているように異論がありうる。私事性に基づくプライバシーとは異なる法理が探られるべきではなかったか。

また、公権力の発動という公共的意味合いを考えると、親族の逮捕がプライバシーの保護対象とする「私生活上の事実」に含まれるかにも疑問が残る。

 高裁の名誉毀損の判断についても、「朴里花」の父親がスパイ容疑で逮捕された事実を名誉毀損とするとともに、モデルとなった女性の父親が現にそうした経歴をもち、叙述は真実であるにもかかわらず公共性や公益性の観点から免責を簡単に退けていたのは納得できない。また、被控訴人が新興宗教に入信し、作品中の主人公に金銭を無心した旨の叙述が名誉を毀損すると判示したが、新興宗教への入信や寄付の無心が、なぜ直ちに社会的評価の低下をもたらすのか疑問なしとしない。

 これらについての最高裁としての独自の判断を聞いてみたかったと思う。

  3 小説表現の自由と司法判断のあり方について

 高裁判決が出されたとき、判決を読んで痛感したことの一つのは、小説という創造的・創作的営みに、できる限り多くの表現の自由を確保する必要があるのではないか、ということだった。この思いは、今回の最高裁判決でますます強まった。

小説という創造活動が、少なくとも事実報道の場面より制限を受けるべきではないとすれば、報道における免責法理をより緩和して適用し、免責の余地を広げる、差し止めは原則的に回避する、作品全体の芸術性を考慮し、権利侵害の成立要件等を謙抑的に判断するなど、表現の自由拡大の工夫や方向が探求されてしかるべきだろう。

こういう努力を怠ると、芸術への司法権力の過剰な介入を招き、裁判官が小説を断罪することを許容してしまいかねない。最高裁に求められたのは小説の自由、芸術の自由の防波堤を築くこうした努力だったのではなかったか。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/10/23

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田島 泰彦

タジマ ヤスヒコ
たじま やすひこ 1952年生まれ。元日本ペンクラブ言論表現委員・上智大学文学部新聞学科教授。

掲載作は、2002(平成14)年10月10日に、作家柳美里裁判にかかわる「法学セミナー座談会」のために用意された覚書である。多く問題をはらんだ最高裁判決直後の一証言として記録したい。