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異形の者

 私は最近、ある哲学者の説に反対をとなえた。その学者はものごとを真剣に考えるたちであり、私より十歳も年長でありながら、私の十倍も情熱家であった。彼は狂的なほど芸術を愛好し、ひたすらこの世ならぬものの美にあこがれていた。彼はもしかしたら、私の愛する部類にぞくする人間であった。(と言っても、私は、自分が誰か人間を真に愛するなどとは、どうしても信用できないのであるが)。

 どうして彼ほどの哲学者が、一個の酔漢にすぎぬ私などを相手に興奮して弁舌をふるったのか今だにわからないのであるが、何かしら話すに足る青年として相手どったにちがいない。苦悩にしても快楽にしても、ともかくほとばしり出るものを(うち)に蔵する人々は、かならず相手方の中に自己と同程度の理解力を予想してしまうものである。

 私はキラキラと輝き光る水液をだらしなく吸いこむ、赤土の穴のように冷く静かにしていた。その場所は特殊喫茶店とはいえかなり寒くかつ湿気が多かった。その上、そこには具合わるいことに、私と同棲している花子と呼ぶ女性が勤務していた。私は十一時まで椅子に腰をおろして、彼女が帰る自由を得るまで待っていればいいのであった。私は、この世の中でイヤがられないようにするには何事もほどほどにするがいいこと、また時たまそのようなやり方を破るやり方をも心得ていることを示す方がいいこと、そのような術策を知りつくしていたので、ただ坐っているように見えてもいろいろと、無言の表情、まずい演出のようなことはしていたのであるが、それでも、まだまだ俺のこの世に生きて行く余地はのこされている。まだまだこれから先、苦もあり楽もありして、未知なる無限に包まれ、そこを自分なりに這っていることはできる、と安心した気持でいたのであった。

 しかしその時、その哲学者は何か憎悪に似たものでギラギラ両眼をかがやかし、悲痛な切迫した口調で、たてつづけに私に質問を発した。最初は私の女に対する態度、ことに花子のとりあつかい方に関する人間味のあふれた忠告であったようである。哲学者は花子をマリアと呼び、グレートヒェンと思いなし、二千円のマフラーを買ってやり、現金五千円をあたえ(花子は何かほしいものはないかと尋ねられたとき、一番たかそうなものと頭をはたらかして、蓄音機と答え、その額を入手したのであった)別れるときには、ボンソアール・ムッシュー或はオー・ルボアールなどと発音するように言いきかせていた。花子はその五千円を資金として物資を仕入れ、たちまちのうちに一万円ほどに増したのち、またたちまちそれを費消した。その現場をみとどけている私には、やはりその学者に対してひけめがあり、なおのこと無抵抗な赤土の穴のようにして、燦然たる言葉を無神経に吸いこんでいたのであった。

 私にも時たまマリアとも観音菩薩とも眺められぬことはないのであるが、それはあくまで迷いであり、一時的興奮にすぎず、それら迷いや興奮のために、今やいくらも保留されていない精力を消耗するのをおそれて、一切を生物学の(おし)えにまかせており、いわんや「マリアさま」とか「観音さま」とか、「私の生命!」などと人前では、たとえ暗夜彼女と二人きりのときでも表明発声しないことにしていた。

 「あんたには愛というものがわかっていないらしいな」と哲学者は言った。

 「わかっています」

 「あんたはあんたを愛する女を傷つけても平気じゃないのか。あんたの行動なり態度なりによって、愛人がどれほど泣き悲しむか、それを一度でも考えたことがありますか」

 「もちろんあります」

 「しからば愛とは何か」

 「誤解であります。誤解の上に成立するものであります」

 「フン、しかし」と哲学者は気味のわるい両棲動物でも見つめるように、少し顔面を私からしりぞけて言った。「……それじゃゲーテの愛も?」

 「ゲーテの愛もそのとおりだと思います。私はあまりゲーテを読んだことありませんが」

 ゲーテを敬愛しているその学者は、私のその無意識に発した言葉でひどく傷つけられ、逆上したように見えた。過度の勉学と余分の情熱のため、哲学者の顔は青黒くゆがみ、どうしても、この不心得者を説得してしまわねばやまぬという焦躁で、眼鏡の下方の頬の肉がピクピクけいれんした。

 「愛がもしあんたのいうようなものだとしたら、憎しみはどうです?」

 「憎しみも似たようなもんです」

 「憎しみも誤解ですか。誤解の上に成立するんですか」

 「ええ、つまり」私はめんどう臭くなった。しかしホンのチョッピリも、そんな表情は示さなかった。「人間というものは、絶対に互いに理解しあえないもんだと思うんです。理解しあえないからこそ、イヤ理解しあえないという前提の下に、愛も憎しみも成立するんです」

 「ではあんたは人間の愛を信じないんですか」

 「信ずるとは一体どういう意味ですか」

 「感ずることですよ。全身全霊で、それを明確に感ずることですよ」

 「感覚や感情は私にもあることはあるんですよ。ただそれが実に、あいまいな、あやふやなものなんですよ。全くあてにならない、妙なもんなんですよ。だから愛を信ずるかといわれても困るんですよ」

 それからどんな勧進帳の問答風な対話がつづいたか記憶していない。たてつづけの熱烈な質問に、一々私は適当な返答をしていたようである。適当なとはむろん、正しいという意味ではない、その場で一応つじつまが合っていたという意味である。最後に学者は「ではあんたは、地獄をどう思いますか。あんたにとって地獄というものは存在するんですか、しないんですか」と叫びはじめた。それはまるで、灼熱した鉄丸でも投げつけるような勢いであった。

 「地獄は、どうもあるような気がします」

 「ではあんたは地獄に()くと思いますか」

 「私がですか。私は地獄へなど往きません」と私は、旅行の相談でもしているように気楽に答えた。

 「そうですか」と哲学者はたちまちうれしげに顔をかがやかし、勝ちほこったように断言した。「そうでしょう。あんたはそうでしょう。ところが僕は地獄へ往きます。僕は地獄へ()ちるんですよ」

 私には、「地獄へ」と叫ぶとき、哲学者が何故(なぜ)かくもほこらしげに、真理にみちみちた恍惚の状態におち入ったのか不明であった。彼は全く自分がファウスト博士の眼前に跳躍出現した真理の悪魔、芸術の鬼になったかの如き、華々しい調子で、細長い片手を宙にふりあげて叫ぶのであった。

 「先生が地獄に?」

 「そうです。僕はおそろしいんです。しかし僕はそう運命づけられてるんです」

 「そうですかね」

 「そうですよ」と彼は生気溌剌として言った。「僕は実に罪悪にみちみちているんですからね。あなたにはわからないだろうが。実におそろしいことですよ、これは。しかし事実なんですよ、これは」

 「そんなことないでしょう。地獄へなんてことは」

 「いや地獄です」と彼は、私のしめっぽい同情をはらいのけるようにしてニヤリと会心の笑いをもらした。私はだが少しも同情してなどいなかった。彼を地獄へなど、そうやすやすとやってたまるものかという意地わるい心、むしろ予言者じみた自信を(もっ)て、そう主張したのであった。

 「先生は極楽へ往きますよ」

 「極楽?」と学者は不機嫌をむき出しに、眉根(まゆね)をしかめた。

 「先生が何と言われても、先生は極楽へ往きます」

 「何故かね」

 「だって人間はみんな極楽へ往くときまってるんですから」

 彼は一瞬、呼吸をとめた。そしてさも憎らしそうに私をみつめた。小学校の一年生が黒板に白墨で大きな数字を二つ三つ書き、あらゆる数学上の計算はこれですと主張したときの、大学教授の目まいと憤怒(ふんぬ)が彼を襲っているにちがいなかった。

 「とにかく、きまっているんですから仕方がないんですよ」と私はすかさずつけ加えた。私は永いこと極楽という語を自分の会話に使用したことはなかった。ただ相手が「地獄へ」と叫んだとき、「極楽へ」という言葉がスラスラと口を突いて出ていた。それはあたかも私の掌の(あか)と油で汚れ光るほど、私の愛玩した器具であるかの如く、一人の女のために関係づけられた二人の男の不必要きわまる問答の隙間に、ころがり出たのであった。

 罪悪の(ほのお)のハタハタと風になる音を耳にしながら、根源的な生命の叫喚を咽喉いっぱい吐き出しつつ、あらゆるロケット機よりはげしいスピードで地獄へ向って落下して行く戦慄。それを科学と芸術の名によって立証せんとしていたその学者は、ハタと沈黙した。彼は不快きわまると言った表情の中で、両眼を光らせるばかりであった。そして、極楽というブワブワした軟体動物で、地獄往きのスピードを喰いとめられた具合わるさをモグモグと噛みしめている様子だった。

 学者よ、許されよ。私は決して貴下の地獄往きを妨礙(ぼうがい)しようとしたのではない。ただ私がかつて極楽の専門家であったために(この事実に気づくために一週間以上かかったのであるが)、つまり語るにおちたにすぎない。私が青春の一時期、アミダ仏の力にすがって極楽往生をとげることを宣伝する、他力本願の一宗派の僧侶であったためなのだ。そのためうっかり(用心に用心を重ねていたのであるが)、万人を極楽へ送り込むと言う、よくない奥の手が出てしまったのである。

 「異形(いぎょう)の者」とは、私の極楽物語の一節である。

 私が僧侶になったのはうまれつき自主独立の精神が欠けており、かつその頃他に何と言ってなすべきこともなかったからであった。一念発起したのでも、世をはかなんだのでもない。一番安易の路をえらんだのである。何事もやり出すが早いかイヤになり、一刻も早くそこから逃げだしたがる性格の上に、外見的には若々しき社会主義学生であった十九歳の私が、寺に生れ、寺に住みついていなかったら、特にそう急いで極楽の方へ馳けよる必要はなかったのである。

 どっちにころんでも自分はたいした損はしない、俺は永つづきしないと知りつつ仕方なしでやっているのだぞという態度を見せながら、下賎高級あらゆる事件にかなり興味を抱き好奇心もおこす、そんな男が、魚屋の子が魚屋になり、地主の子が地主になるようにして、僧侶という職業人になったのであった。

 本山にこもって修行すると決定したその日の午後、私はゆきつけの床屋で剃髪した。社会主義学生らしくモシャモシャとくしけずらずにいた長髪はすでに()っており、今さら悲哀も何も感じなかったが、頭を剃ったという事実は生理的に奇妙な感覚をあたえた。ツルリと頭部をなでて、顔面までなでおろしても全く頭と顔の区別がつかない。もはや全部が顔のようにスベスベして、髪の生えた頭部というものは消滅したのである。剃りたての頭部は、うき世の風になれない赤ん坊の皮膚のような、うす桃色のうす皮がういういしく張っていて、その中に詰っている私の全智能はもはや髪の偽装に守られるすべもなく、はずかしげに収縮し、やがてはあきらめて宇宙に身を(まか)せてしまったように見えた。

 すでに俺は俗人ではない、と私は感じた。女を抱き、家庭をつくり、名を挙げ、国力を増進し、この世に於て栄える一般人とはかぎりなくへだたり、もはや、二度とふたたびその仲間入りはできなくなった。今日以後、私は人間でありながら人間以外の何ものかであるらしき、うす気味わるい存在である。見よ。先刻までは愛想よく、神経質なまでに何度も、柱にぶら下げた磨皮(レザー)で日本剃刀をといでいたおやじも、今はジッと立って、鏡にうつる私の青々した頭に、水族館の水槽の片隅に忘れられ、死にかけたタコを眺めるような視線を投げかけている。

 「よろしい」と、私は何物へともなくつぶやいた。

 その夜、私はタクシーに寝道具を積み、木綿の白衣(びゃくえ)の上に、木綿の黒衣(こくえ)をひっかけ、柿渋色の袈裟をまきつけ、赤黒い大きな門をくぐって、加行(けぎょう)道場へ入った。玄関を一段あがったとたんに、下駄、靴、その他社会に通用する履物はとりあげられた。白い鼻緒のすがったヒヤ飯草履がそのかわりにあたえられる。私は一般の加行者のたまり場へは行かず、加行係りの僧侶のたむろする一室の障子をあけた。そこには新入りの青二才どもを監督する役をひきうけた、したたかな先輩が人の悪い微笑をうかべながら火鉢にあたっていた。

 「おう、来たな」

 ひときわ体格のすぐれた、色あくまで黒い大坊主が、残忍なまで白い歯をむき出して私をむかえた。

 「スキーとはちがうぜ。つらいぞ」

 「何でもないさ」

 私はそのいかにも悪僧らしき大男とスキー場へ行ったことがあった。その単純率直な僧侶は、少年時代、房州の海岸の寺へあずけられていたころ、土地の無頼漢と闘争したことがあった。気風の荒い漁師町で喧嘩を売られると、すぐ寺へもどって、筒の長い猟銃をかつぎ出した。そして群がる漁場の若者の中へ、それをブッ放した。半死半生のめにあったが、それ以後、土地の若者たちは少年の彼を一人前の男としてとりあつかったのである。

 私は彼の経文を誦するのを聴いたことはないが、彼は暴力団などの時たま押しよせてくる本山の事務室と大殿の間を、いつも象のようにゆっくりと歩いているのであった。私には彼の腕力のたくましさと、野武士風な傲慢さが気に入っていた。

 「どうせお前さんじゃロクな坊主になれないが、やるならまじめにやれよ」と彼は監督者らしい意見をのべ、「まあ、まだ早いから一杯やれ」と酒をコップに注いでくれた。

 「やることはやるさ。心配するな」私は武者修行の少年が道場破りのため「たのもう」と声をかける時の勢いで、グイグイ酒を飲んだ。「まだここには密海さんはいるかね」と私は彼にたずねた。

 「密海? いるよ。君らと一緒に(ぎょう)をやるだろ。何か用があるのか」と彼は鋭い眼で私を睨んでから答えた。

 「ウンちょっとね。会って話すことがあるんだ」と私は秘密らしく言った。

 その本山にはもう一年ばかり、一人の中国僧侶が泊りこんでいるはずであった。口頭でも文章でも何ら意見は発表せず、ただおとなしくその僧は馬鹿のように黙りこんで、その寺の台所の次の部屋で暮しているのであった。彼がはたして密教なのか禅宗なのか、それとももっと新しい大乗仏教の一派に属するのか、誰にもわからなかった。

 「中国人て奴は、坊主でも変っているな」本山の僧侶たちはそう批評するだけで、その性格や思想をつきとめようとするほど彼を問題視してはいなかった。少くとも密海という存在よりは「秩父の宮はほんとは仏教徒だってな。いつもポケットに数珠(じゅず)を入れて歩いてるそうだ」「今度の第一師団長は、俺の寺の檀家さ」といううわさ話の方に、興味の中心は傾いているらしかった。

 しかし私にとって事態はまさにそのようではなかった。私は茫洋たるもの、模糊として捉えがたいもの、たとえば山水画にあらわれた中国大陸の、とめどもない岩と水と樹木の重なりあうそのまた奥の白雲たちこめる宇宙の一角にあこがれていた。

 それ故、留学生にしろ料理番にしろ、大陸から渡来した人間なら、むやみやたらと好きなのであった。留学生はすべて新しき東洋のための秘密の使命を帯びているらしく見えたし、中華料理店の主人はすべてひそかに金銀財宝をたくわえ、細腰の美女を密室に擁しているかのように思われた。もしかしたらその平凡な中国僧も、当時抗日の態勢をととのえつつあった国民党あるいは共産党から派遣された人物かもしれない。

 翌日の夕方、高い天井までもうもうと湯気のたちのぼる大きな炊事場の板の間の上で、私は密海と対坐することになった。炊事係りは大釜のぶ厚い蓋をもちあげ、バットほども太さのあるしゃもじで、流行歌をうたいながら米をかきまわしている。赤鬼のように焔に照されながら、長い薪の根もとを握って、かまどの内部ヘ力いっぱいおしこんでいる者もいた。それら乱暴な炊事係りは、貧乏な農村寺院の子供たちであった。彼等は専門学校へ通う学資もなく、下男がわりの荒仕事をひきうけて、大僧正にまで到達するチャンスをうかがっていた。そして金廻りのよい都会寺院の恵まれた子弟に対して、憎悪の念を抱いていた。

 「醤油を少し分けてくれないかね」と、私は板の間につっ立って彼等の一人にたのんだ。

 「何にするのかね。理由がはっきりしなきゃやれないな」うすよごれた白衣の(そで)をキリリとたくしあげ、白鉢巻をしめあげた相手は無愛想に、土間からこちらを見上げた。「こっちは忙しいから、一々とりあってはいられないんだ」

 「わかってるよ。これだよ」

 私は懐中から、白紙にくるんだまぐろの寿司をとり出して、彼の前に置いた。「嫌いでなかったら、食べてくれよ」

 「そうか。理由ははっきりしてるんだな」相手は思わず嬉しさで頬がゆるむのをかくしながら、湯呑(ゆのみ)にタップリ醤油を注いでくれた。

 (ぎょう)中はなまぐさ物は禁止されていた。それが我慢できないで脱走を企てやしないかと、家の者が心配して、行見舞と称して書生をつかいによこしては、私の好物をとどけさせていた。加行場の一室で仲間にそれを配給する前に、書生がわすれた醤油をとりに来たのである。

 その時、そんな私たちのやりとりを、物音一つ立てずに暗い隅で眺めている、二十五、六の僧侶がいた。

 まだうすら寒い三月のはじめなのに、鼠色の麻の和服をだらしなく着込んでいた。首すじも手足も妙に長くすんなりして、まるで筋骨の一部を失ったような男であった。皮膚はうす黄色くすべすべして、あぐらの(すね)にも(はし)を持った手の甲にも毛の類はあまり生えていない。しかし坐りこんだ姿勢がどことなく緊張して、あたりの空気になじまなかった。頭髪は剃りたての私たちより一分ばかり長くのびていた。角ばった所の少しもない長めの顔を少しかたむけ、精神をやや離れた一点に集中しているらしく、ものぐさげに膳を前にして夕食を咀嚼していた。彼には、私が今まで会ったどの日本僧侶より僧侶らしいところがあった。外面の油臭さや雑音がかなり風化され消し去られ、内面の思索的な骨髄がややととのって来ている、そんな感じだった。

 「密海さんですね」と私はたしかめた。男は何度もこまかく首を上下させて、日本語とも中国語ともわからず「スウ、スウ、スウ」という発音を、飯のつまった口からもらした。そして注意ぶかい視線を、切れながの眼から私の顔へそそいだ。「私は加行僧の一人であるが、貴僧と少しくお話がしたい」と私は申し入れた。食事がすむまで待ってもらいたいと、彼は不明瞭な中国語で答えた。留学生と交際のある私にはその程度の会話は理解できたし、かつ彼が南方、福建か広東方面の出身であることも推察できた。

 私が知行の仲間のもとへもどり、すばやくまぐろ寿司を食べおえ、手帳と鉛筆を手にして炊事場へひきかえすと、密海も自分の膳を片づけているところであった。彼は私を自分の居室に招じ入れ、対坐して私の質問に応対した。

 彼はかなり神経をするどくはたらかせて向いあっているらしいが、全体として、へいへいとした点は少しもなく、物憂げに虚脱した態度を示していた。人間臭のみなぎった粗暴な日本青年など、相手にするのはめんどう臭いという風にも見えた。

 「貴僧はいずれの宗派に属しますか」と私は手帳に、漢文とも白話文ともつかぬ漢字を並べた。

 「我は現在、仏教を修行中の身であり、いずれか一つの宗派に属するということはない。汝の宗派の本山に寄宿する身であるから、ただいまは往生浄土門を研究している」と彼は書いた。

 「しからば貴僧は極楽についても研究していなさるな」

 「しかり、我は極楽を研究している」

 「しからばおたずねするが極楽なるものはこの世にあるか、あの世にあるか」

 「あの世にある」

 「この世にはないか」と私は書いた。

 「この世にないからこそ、あの世にあるのである。それはすでに汝の宗派に於ては決定していることではないか」と書き終ってから、彼はいぶかしげに苦笑して私を見つめた。

 「イヤ、これはあくまで自分個人の信仰の問題であって、宗派が何を決定しようとかまわぬことである」と私は興奮して走り書きした。「自分としては、極楽がたとえあの世にあるとしても、それはつまらぬことであると思う。この世に於て極楽を建設することこそ僧侶の任務ではないか」

 「だが残念ながらこの世に極楽を建設することは不可能である。しかるが故にあの世の極楽浄土へと往くのである」

 「自分はあの世などはどうなってもかまわない。この世だけに興味がある」

 「……では、おそらく汝は社会主義者であるな」と彼は鉛筆を少しひねくりまわしてから、ゆっくり書いた。「汝が社会主義者であり、それほどまでこの世が好きならば、何のために僧侶になる必要があるか」

 私はつまらぬ問答をはじめたばかりに上位者から自分の不徹底を指摘され、次第に馬脚をあらわしそうな不安をおぼえた。そして、どうでもなれという気持で「自分は社会主義者と称すべきほどの者ではない。ただし、あの世の極楽

なるものは絶対に嫌いである」と鉛筆に力をこめて書いた。

 「よろしい、よろしい」と彼はつぶやいてから、やさしく淋しげに微笑した。「十七、八歳の少年時代には何もわからぬものである。みな汝の如く考えるものである。しかし」と彼は書いた。「汝もまたやがて極楽へとおもむくのである」そして彼はその一行の言葉のかたわらに丁寧に、傍線まで引いて見せた。

 私の身うちを、たまらない嫌悪の念と、情けない戦慄とが走り抜けたようであった。相手は鶏卵の殻のように(しわ)一つ、しみ一つなくスベスベ光る温顔に気の毒そうな親愛の念をうかべ、老僧の如くおちつきはらって私と向いあっていた。

 極楽へ? この俺が極楽へ。そしてそうときまってしまったら、それ以外に、何もなくなってしまうではないか。青春の悲しみも、歓喜も、毛髪もそそけだつ苦悩も、骨も肉もとろけ流れる快楽も。そうだ。私がわけのわからぬ外界の動きと自分自身のアメーバ的な蠕動(ぜんどう)のおかげで、こうやって、白衣黒衣の非人間的人間になりさがっている、まるで矛盾の標本のような、この存在の不安定さも、その骨にこたえるはずかしさも、そのシリアスな感覚も!

 それはあまりにも都合の良すぎる話であり、また何とニヒリスティックな大氷河の澄明な亀裂にも似て明確すぎる、あまりにも物理的、あまりにも天然自然的なことではないか。俺は人間であり、密海さん、お前さんもおなじ人間である以上、もう少し、この世の「生」について、つまずいたり、ころがったり、密着したり巻きこまれたりするのが当然ではないのか。

 「貴僧は頭部に(きゅう)をすえておられますか」と私は手帳に書いた。中国の僧侶は、ことに民衆の疲弊はなはだしかった大清帝国の末期に(おい)ては、時の政府より、頭部に灸をすえることを命令されたという話であった。インチキの僧侶が続出して、税金や使役を逃れんとしたため、灸を頭部にすえるその熱さに耐えられる決意のあるものにして、はじめて真正の僧侶と認めたのであった。

 密海はしずかに首を前方へ倒して、私の方へさし出した。一分ほど髪の生えている頭部には銀貨大の痕跡が六箇、あきらかにみとめられた。それはよく手入れされた芝生に置かれた、植木鉢をとりのけたあと、そこだけ地肌をむき出したように見えた。少しひきつれ、異様に光る部分もあった。その丸い六つの人為的な傷痕は、何か執念ぶかく凄愴な感じを私におしつけた。

 「汝はおそらく常に社会主義を忘れぬのであろう。少年として、それはさもあるべきことである」彼は私の感情には無とん着に、鉛筆をはしらせた。「だが汝は時には、宇宙について想いをこらした方がよい。この宇宙には実に何万何億という星がちらばっておる。われらの地球もその一つにすぎぬ。しかもこの数かぎりない星のうち、どれか一つは常にみずから大爆発を起して、粉微塵に砕け散っているのである。我らは時々刻々、我らの一呼吸ごとに、これら爆発し、飛散し、消滅する巨大な物どもにとりまかれておる。故にもし仏教的真理なるものがありとすれば、この宇宙の胎内における、これらの大破壊、大消滅、大動乱に堪えうるものでなければならぬ」と彼は書いた。

 「ああ、これに堪えうることの困難を汝もまた一度は考えた方がよい。それが何という重い、冷い、固い、無限の困難であるかを。汝の嫌いなあの世の極楽なるものも、この困難な路をさまよい歩いた先輩のわずかに発明し得た一つの手がかりにすぎぬ。それにつけても汝はその先輩ほど苦しんではいないであろう。したがって汝は、先輩が苦しまぎれに発明したその極楽を想いうかべることはできぬが、それも致しかたないことである」

 私はまだ自分が少しも苦しんでいないと自覚していたので、彼の意見に反対することはできなかった。

 初夜礼讃(らいさん)の開始を告げる太鼓が鳴りわたったので、私は密海の居室を出た。

 十畳の間四つと、八畳の間二つをぶち抜いた加行僧の控室では、しかし密海の重々しい仏教論とは縁もゆかりもない(にぎ)かな生活がつづいた。四十をすぎた女学校の英語教師、破産してから僧になる気になった六十近い呉服商の主人などもいたが、多くは二十代もまだなかばの男たちであった。これらの男たちのほとんど全部が寺院の子弟、あるいはそこに勤務する書生であり、寺にもどれば生活は保証されているため、失業になやむ一般学徒青年とはちがった、陽気で安易な空気がただよっていた。八十人ほどの仲間はみな、男女飲食の慾において、何ら一般人とかわらぬ自分たちの日常生活から、急に「三界の大導師」となるための時代ばなれした修行生活に入ったことの、照れくささをもてあましているのであった。

 禁慾生活がつづくため、性慾の意識が強まり、また行いすました自分たちの毎日を反省して、かえって偽悪的になるためか、ことさら大声を発して、その方面のことがらを口走る男もあった。

 まだ童貞であったためか、私自身もこの二ケ月ばかりの期間ほど「女」というものを純粋に想いつめたことはなかった。すでに女を知ってからの戦地での禁慾生活には死の恐怖がつきまとい、獣的なものが表面化されたが、この八十人の仲間の白衣からもれる男の体臭につつまれながら、白足袋(しろたび)をはいた足を組みあわせて天井を仰いだりしている白昼には、自分の若い皮膚の毛穴の一つ一つが、女に向って息づいているのを自覚する瞬間があった。その瞬間、私にとって、女性こそ極楽であったのかもしれなかった。

 それは物質の一微粒子ごとにキラキラと魚鱗の光彩を発しながら、華厳世界の重みとやわらかみを以て、ズシリと私の上にもたれかかっていた。密海に負けぬほど研究に専心することは私にもできるかもしれぬ。彼の言う、それに堪える困難な路を歩むことは、やりがいのある仕事であろう。だが女がある以上、それを自分が熱望する以上、とても真の僧侶になることはできぬ、と私は思った。

 明治初年に時の日本政府は僧侶の肉食妻帯を許した。その結果、私自身もこの世に生れ、やがてあの世の極楽へ往く運命をになった。だが十九歳の私には、愛妻を抱いて蒲団(ふとん)のぬくもりの中に自己の幸福にうちふるえている僧侶の自分を、想像することは不可能であった。そこには幸福ばかりがあって、仏教はないように思われた。

 私は、関西の総本山にいる大僧正をそのころひそかに愛していた。写真でその姿を見知っている以外に、私には彼に対する知識はほとんどなかった。ただ私が彼を愛したのは、彼が一生、女犯(にょぼん)の罪を持たなかったからであった。それ故、私は伯父が彼を訪問する旅行を企てたとき、すすんで同行を申し出た。(それは加行の年の前年であったが)。

 大僧正は小さく小さく、赤ん坊のように緋の衣に包まれていた。彼は藤椅子に腰をおろしているというよりは、ただおびただしい衣のひだの間に力なく浮んでいるように見えた。純白の(えり)から出た細い首の上に細面(ほそおもて)の顔があぶなかしく傾いていた。陽にあたらぬ皮膚はおどろくほど白く、そして桃色に赤らんでいる部分もあった。百三歳の年齢を示すものは、前かがみにかしいだまま、わずかに白髪をとどめているらしい、その頭部だけであった。しかしそのひどく小さくしぼんでしまった頭部は、それだけで、充分、奇怪なほど重ねられた年月を物語っていた。

 伯父と私がのぞきこむように顔を近づけると、よく澄んだ灰色の瞳の上で、(まぶた)がかすかにうごかされた。そして弱々しい視線がふるえながらこちらに向けられた。

 面接の()のうすくらがりの奥には、古い花鳥のふすまの金泥が鈍く光っていた。あけはなたれた障子からは、よくふきこまれた廊下の外の崖下に沿う蓮池から涼しい風が流れこみ、夏の緑の光が、室内の人物の半面を青白く照していた。

 背広の伯父は膝をきゅうくつに折りまげたまま、大僧正の耳に口をよせ、なつかしげに挨拶(あいさつ)をした。そして私の名をあげ、今はなき大僧正の知人の名をあげ、その知人と私の関係を説明した。耳はたしからしく、両眼にたたえたとらえどころのない表情がかすかに変った。そして口をモグモグと動かすと、かすれた声がもれた。それは何の意味ともききとれず、かなり永くつづき、伯父はしきりにうなずいた。

 わずかに口が開き、とじられ、そのたびにのろのろとうごく鼻の下のうすい肉は、すべての獣性を洗い落されたように、ただ白くすきとおっていた。そこに出ているはずの老人の感情にも、すでに人間の油っこさが失せていた。全身が漂白されてしまった、とも言えた。清潔でもあった。

 もはや人間でなくなりかけている「物」が、そうやって私や伯父やおつきの僧侶の、まだ活気のこもった身体にとりかこまれてションボリ置かれている。そしてその灰色の瞳の色のうごき、ゆがむ唇からもれる低く意味のわからぬ声だけで、あぶなかしく周囲とつながっている。そんな風に私は感じた。

 五分ときめられた面会時間がこぬ間に「それじゃお疲れになるといけませんから」と伯父は、おつきに目くばせした。僧正の椅子の足の車がかすかにきしみ、軽々と動き去ると、二人は廊下に出た。伯父は日本で尊敬している唯一の人物に会えたという喜びに、肉づきのよい頬をほてらせていた。

 事務室には数人の僧侶がたむろしていた。俗人とはちがう黒の改良服を着て白足袋をはいていたが、ちょっとした肩や手首の動きにも普通の人間の精気、私自身も持つなまぐささがあらわれていた。僧服を着ているため、なおのことその人間臭が感ぜられた。漂白されたような老僧の、枯木のように無抵抗な姿が印象的であったことが、その感じを強めた。

 「大将はこのごろ身体の具合はどんななんだろうな」

 「弱ってるらしいな」

 「今いかれたら大騒動だ。もう少しもってもらいたいな」

 伯父が自分らと同業と知っているため、遠慮なく話しあっていた。

 大伽藍(がらん)の外に一歩出ると、古い都の街並は真夏の烈日に射すくめられたように、ひっそりと横たわっていた。ぼやけた黄色の市内電車は緩慢に走っていた。それはただヨタヨタと揺れながら線路の上をたどり歩いていた。

 「大僧正はどうかね」と伯父はたずねた。

 「感じは悪くないな」

 「そうかね」と伯父はうれしそうに言った。「もうあんな人はいない。これから先も出ないかもしれない」

 中年の女が二人、私たちの傍を通りすぎた。一人が私をふりかえって「東京もんは派手やからなあ」と連れに言った。私はまあたらしい灰色の背広に、濃紅色のネクタイを着けていた。白々とした光線の下にしずまりかえっているその町で、その色彩はあくどいほど明るく映ったにちがいなかった。女たちはもちろん、私たちの会話も理解せずこちらの素性にも気づいていなかった。気づいたらどんな感じを持つか、と私は思った。

 私たちは一軒の銭湯の前に通りかかった。水色と緑の南京玉が(ひも)に通されて風に揺れ、その入口のガラス戸に(すだれ)のようにかけられてあった。中では水を身体に流しかける勢いのよい音、(おけ)が板の間にふれる高い音がしていた。その瞬間、私はあの真紅の衣のひだの下にかくれている老僧の小さな肉体を想った。その全身のたるみと皺と、そのむき出された骨と、その痩せさらばえた背や腰の曲り具合を想った。完成された僧侶の肉身の、はげしい漂白と風化の度合がまざまざと眼前に浮んだ。

 すると「ダメだ。やっぱりダメだ」という声がどこかできこえた。私は自分の背広や下着や靴の内部に、老僧とは全くちがった自分の裸身を感じた。そして水々しく色づき、歩くにつれ停るにつれてビクンビクンとはずむ私の筋肉、しない、くねり、こすりあう筋肉、その筋肉ののぞんでいる異性の筋肉の肌ざわりが、街路の上で私をしめつけて来た。

 加行僧の仲間たちは、私よりはるかに苦労を重ね、女の経験も豊富なのにちがいなかった。彼等のある者は、エネルギッシュな口調で自分たちの性行為を話題にした。

 「マラー青年は六〇六号にうちまたがり」と活弁の真似をする者もいた。「俺は一ペん白人の女と寝てみたいんだ。一ペんでいいんだ。それができたら死んでもいいなあ」と述懐する者もあった。それらの言葉は吐き出されるとき、ゴムマリに水をいっぱいつめ、ギュッと握りしめ噴出させる時の一種の快感を、語り手にも聴き手にもあたえるらしかった。

 性慾に殺気がまじる場合もみとめられた。穴山という、片足の少し悪い肥満した男には、特にその傾向が目立った。彼の父は貧乏な職工であり、彼は棄て()同然に、親類の寺にあずけられた。その寺は私の寺のすぐ近くにあったが、東京にはめずらしいみじめな小寺であった。幼時からほとんど満足な食物もあたえられないで育った穴山には、恵まれた寺院の子弟に対する強い反感があった。

 加行がはじまってから行見舞の客も多く、差入れの品物の絶えない坊っちゃん育ちの者は、自然と仲間の注目を浴びた。私もその一人であった。穴山はそれらの苦労を知らぬ、チヤホヤと甘やかされる者どもを、軽蔑と怒りの目で眺めていた。彼が時たま夜半に道場を抜け出し、酔って帰って暴行をはたらくのは、たまりたまった性慾のほかに、そのような反抗心が加わっているためであった。私の一挙一動を見守る穴山の冷い眼の光も、その彼のいらだった気分をあからさまに示していた。

 私はある夜、火事の煙に追われむせぶ夢にうなされて目をさました。首をあげると、頭をならべ、蒲団をつらねて睡っている仲間の上に、うす青い煙が、現実に流れただよっていた。私は窓ぎわに寝ているため、そのあたりの煙は比較的うすかったが、大きな鉄火鉢のおかれた中央には濃い白煙がうずまきたちこめていた。そしてその煙の中に酔って帰ったらしい穴山ほか二名の者が、(ののし)りさわぐ姿が見えた。彼等は大火鉢で無茶な焚火(たきび)をして悪ふざけをはじめたらしかった。煙は、穴山の乱暴をおそれて睡ったふりをしている僧侶たちに対する、威嚇の役をしているのかもしれなかった。

 穴山は丸々と肉づいた頑丈な背をこちらにむけ、廊下に面した障子に向って、よろめきながら立っていた。よろめくたびに悪い方の片足の太いふくらはぎと足首が奇妙によじれて一歩動いた。両肩の上にたくしあげた黒い改良服の袖がクシャクシャともりあがり、腰にもその裾がまきついてふくれあがっている。穴山のたくましい身体には、穴から出た熊が力だめしでもしているような、殺気と共に滑稽感がみとめられた。

 「穴山やるか。まだなのか」と相棒の一人が、けむい目をこすりながら言った。

 「待て、今すぐだ」穴山は片手で白衣の裾を握って、障子に面したまま首を垂れ、自分の下半身を見下していた。

 「よし、用意は出きた。オウ」と彼はグイと首をあげると、腹を前につき出して障子にぶつかった。障子は軽くガタガタと鳴るだけで倒れなかった。彼の重量でふみしめるため、(たたみ)はドスンと大きくひびいた。

 穴山の目的はもちろん障子を倒すことなどにはなかった。直立させた陰茎で障子紙に穴をあけるのであった。彼は横に位置をうつすと、またオウと腰を動かした。紙の刺し通される音はきこえるようであるが、それがたしかめられなかった。私はおそらく穴山がそのつど感じているであろう触感で、ブスリという一突き一突きの感覚を自分の下半身にうけとった。紙には割に正確な円形で、黒々とした廊下の闇がのぞいていた。

 私は睡ったふりをしていたが「オウ」という穴山の気合がかかるたび、「また一つ」とかぞえていた。そして「もう一回」とひそかに望んだ。穴山の気合がかすれることもあった。酔った呼吸の乱れのために声がかすれるというより、自分の行為に次第に興奮して、声を出すのがめんどうになって行くように思われた。しまいには声は出さず荒い息をセイセイ吐きながら、穴山は必死になってその行為をつづけた。

 私は女にはあこがれていたが、淫猥はきらいであった。私は性慾の本質に喰いさがるというよりは、女の肉体の美しさを恋情のオブラートにつつんで、呑み下しているにすぎなかった。

 穴山がその動作をするさいの姿勢が眼に入ったとき、最初、私は、たまらない淫猥を感じた。しかし穴山の動作があたりにただよわすものが単なる悪ふざけ以上のものになり、四囲の空気が緊迫感を増すにつれ、ベトベトした淫猥はなくなり、身内にしみとおるような緊張が私を襲った。その緊張が生理的に不潔なものとは私には想われなかった。ただ、なまぐさく、重苦しいものであった。

 眼をつぶると白紙に黒々とあいた穴が明確に映った。そこに女の生殖器を想像したのではなかった。そのようなことはその当時の私のエロティシズムにはふくまれていなかった。私の輝ききらめく「女の華厳世界」には、まだあからさまな生殖器の形は混在していなかった。ただ純白な肌に似た紙と、無意味にクッキリと黒々とした穴が瞼の裏からはなれなかった。その黒が汚点であるのか、美の中心であるのか、そんな判断もなかった、そしてその白と黒は息苦しいほど絶対的な権威を以て、ズケズケと私の顔一面に迫り寄った。

 穴山は想いだしたように時々「オウ」と気合をかけた。その声はやはり肉慾的で粗暴であったが、どこかにひ弱い、おろかしいひびきを持っていた。「穴山! まだつづくか」「ひでえ奴だ」という相棒の声援も、クスクス笑いもとだえた。けだるいような沈黙がつづき、障子のさんのガタガタゆすぶれる音、つきとおされる紙の破れる音のみがきこえたが、それもやがて消えた。

 しばらくして、穴山が疲れた息を長々と吐き出す音がきこえた。穴山はそれから、満足したというにはあまりにも無細工な、不快におしつぶされた声で、「ああ、ゴクラク、ゴクラク」とつぶやいた。

 私の鼻さきに突然パッと、とてつもなく重々しい「ゴクラク」の鉄の扉が降下したようでもあった。それともまた、星もなく、灯火もなく、夜の鳥も虫もいない、なまあたたかい虚空が、かぎりないひろさで(ひろ)がり、すべての物を呑みつくそうとしていたのかもしれない。そして、その虚空の中へ、蒲団でぬくめられた熱くさい私の肌の匂いと、いやらしい口臭だけがたちのぼって行った。

 外部は次第に春めいていた。正門から大殿までは、ゆるい坂道に、石畳と石段が一町ぢかくつづいている。晨朝(じんちょう)、日中、日没(にちもつ)、初夜、中夜、後夜(ごや)の六時の礼讃と、その間に日に何百回となくくりかえされる礼拝の勤めに往復するその道には、参詣人や乞食の姿を常に見かけた。女性の参詣人、散歩者もいた。はなやかな色どりの和服を着けた女たちの、頬や指にも血色が増し、セーターやスカートからむき出された手足の動きにも、寒気の緊張の融けたきままさがみられた。女の服装の色は、手袋やハンケチに至るまで、(ちょう)の警戒色に似て、私たちをおびやかした。パラソルは花弁のように、傾き、ひらかれ、向きをかえた。いぶし銀色に光る大殿の瓦屋根に向って、数珠(じゅず)を手にして列をつくり、その坂路を登りすすむときには、仲間のうちでは粗野のふるまいをする男たちも、できるだけひそやかにしていた。

 彼等は言いあわしたように、自分たちが異形の者どもとして見守られているのを意識していた。ちょっとした自分たちのふるまいも、ともすれば滑稽な、ぶざまな、異常な動きとして世人の眼にうつることを知っていた。立ちどまって若い女の方をふりむく。それはそれだけで、ある特別矛盾した、なすべからざるふるまいとなるであろう。

 鐘楼や納骨堂、まだ葉をつけぬ銀杏(いちょう)の裸木や赤松の茂み、枯草におおわれた塚、それらをふくんだ灰色の空間には、白や紅の桃の花が色をそえていた。そしてその空間に、遠く小さく若い女の立姿が一つでも加わると、そこだけが、桃の花よりも血の滴よりも、なまなましく、あざやかに燃え立つ。世界はそのあたりで発火し、変色するのであった。だが穴山でさえ、黒色の列の中でむずかしげに、穴熊のような顔をしかめ、その太い首をふりむけぬように努力していた。

 私はしめしあわせておいた書生の手びきで、ある夕方、加行場から脱け出してみた。

 インバネスをはおり、ソフトをかぶり、下駄にはきかえてタクシーに乗った。そして繁華街の中央で降りた。レストランにはこの世の人々が、この世の光りと匂いの中で談笑していた。電灯はかがやき、車は疾走し、ラジオとレコードは鳴りわたっていた。私は赤い葡萄酒を飲み、厚みのあるカツレツを食べ、香気のあるアイスクリームをすすった。花瓶には、つやつやした緑の葉によりそって、繊細なちぢれ方をしたカーネーションがさされてあった。銀の(さじ)や、銀のフォークは、グラスや大皿にあたって、気持の良い音を立てた。

 誰も私が加行中の異形の者であることに、気づくはずはなかった。私はよくみがかれた壁の鏡に向い、ホンの少し私の変装用のソフトをずらしてやった。するとそこから、頭部とも顔面ともつかぬ、あの青々とした剃りあとがむき出された。私はジッと、まるで魂でものぞきこむようにして、それを見つめた。

 可愛い給仕女、背のひくい、ポチャポチャとした、花ならば蕾のような乙女が一人、私のその異様な行為に気づいた。憎らしいほどよく磨きあげられたその大鏡の表面に、ギョッと目を見はった彼女が、ふっくらした愛らしき白い手で、エプロンのはじをキュッと握りしめた姿が映っていた。

 「無理もない。それは無理もないことである」と私は胸のうちでつぶやいて椅子に腰をもどした。癩病患者を眺めるような、そのけがれのない瞳のおびえは当然であった。何故ならばこちらは異物だからだ。

 私は人々がいつ私たちを呼びに来るかを知っていた。ある一家のある一人が死ぬ。あるこの世の一人が、この世からいなくなる。すると残された人々は私たちが必要のような気がしてくる。つまり人々は、あの世に関係した一群の異物が、この世にいたことを想い出す。そして私たちを呼びむかえる。私たちは専門家らしく、屍のかたわらに座を占める。人々は泣き悲しむ。氷片やドライアイスで冷やされたり、火鉢のほてりでぬくめられている、今はこの世にいない残骸。その(そば)につきそっている時だけ、私たちははじめてその場にふさわしく見えるのだ。人々は決して私たちと、自分たちの喜びを分ちあおうなどとは思わない。ただ悲しいとき、その悲しみだけを分ちあたえる。

 つまるところ、私たちがこの世で存在意義をみとめられるのは、あの世というものが人々の頭を、ホンのちょっとかすめすぎる時にかぎられている。だがこの世に生きているかぎり、人々はあの世をいみきらう。したがって、それを想い出させる、黒衣の専門家たちが大きらいなのだ。

 「しかしその俺にとっても、この世の方が、あの世という奴より千倍も万倍も親しいものなんだからなあ。全く、あの世の極楽なんて、ほしければ誰にだってくれてやる。俺のほしいのは、この世の方なんだ」

 私はそう叫び出しそうになって、この世の繁華街をもう一度しみじみと見なおす。密海のおしえにもかかわらず、街々は千億年でも厳然として存在しつづけるように、何くわぬ顔つきで立ち並んでいる。人々はいかに苦しくとも、その街にしがみついて、一尺だって一秒だって離れようとはしない。俺だって、そのとおりだ。一体、密海のいう、大宇宙のどこかで時々刻々発生しつつある大破壊、大消滅、大動揺など、この街々、この人々、この俺と何の関係があるんだ。

 そして私はまた、極楽の専門家になるために、加行場へ引き返す。

 加行は終りに近づきつつあった。そして私は、あの穴山という人物と、もう少しで本当に極楽へ往ってしまうような一事件を惹き起した。

 私自身はいろいろと勝手な妄想にふけっていたが、貧困な寺院の子弟にとっては、加行はそうのんきな、簡単なことではなかった。師僧や先輩知友から加行費用を借りて来ている者もあり、穴山のように幼時から寺にあずけられて、きびしい監督の下に苦しい生活を続けた結果、義務的に来たものもあった。それら僧団のいわば下層の人々にとっては、加行は自分たちがやっと独立し、これから先、親兄弟や自分の子供などを何とか養って行く出発点であり、かなり深刻ないきごみの者もみられた。初歩の仏教学から、鐘の叩き方、木魚の調子、拍子木の入れ方、読経や礼讃の節まわし、カンどころ、引導のわたし方まで、それらの人々は熱心に学習した。そしてそれらの人々からはなれて、一番(なま)けていたのは私と穴山であった。

 大地主でもあった私の寺のゆたかな経済では、私一人ぐらいは当分遊んでも食べて行けた。私の一家には、宗団組織の中央の指導者や、宗団の大学校の部長や教授たちが多く、私はいわば最上層の宗団貴族の子弟であった。毎日のように私のもとに送りとどけられる豊富な食料品や日用品は、周囲の若者たちにすぐ配給される。そのためばかりでなく、かつて私の一家の誰かの世話になったことのある者たちは、特別に私のめんどうを見てくれた。心づけを多額にもらった行頭も、たいがいなことは大目にみてくれた。私は加行場では、いくらでも人々の好意に甘えられる立場にあった。

 私にはすでに、ごく短期間ではあるが、兵営や留置場での不自由な生活体験もあった。それにくらべれば加行は少しも苦しくはなかった。私の懶けるのは、たんに高校の学生が授業をエスケイプするさいの、あの捉えどころのない逃亡癖にすぎなかった。

 穴山の場合は、私とは条件も立場もまるでちがっているはずであった。

 仲間が道場へ出はらったあと、百畳以上のたたみが、かすかなふくらみと凹みをおび、朝の明るい光線をあびて、人気のない丘の一部のように連なっている。

 私は陽あたりのよい窓ぎわに積みならべられた夜具の後にかくれて、前夜の礼拝で少しこわばった手足をのばす。部屋の裏手は急な傾斜をなして樹木の多い公園に接し、小鳥のさえずりが、遠くはなれた町のざわめきと共に、しずかにきこえた。

 首をもちあげ、蒲団の峯のはずれ、入口に近いあたりを見ると、いつも同様に長々と寝そべった穴山が、不敵な、むくれた表情でこちらを見やっていた。

 「チェッ、おめえなんか死んじまえ」と、彼は私を睨みつけながら、寝たまま怒鳴る。私がだまっているともう一度、天井に向って同じことばを叫ぶ。

 「俺はまだ生きてるぞ」

 「俺だって生きてるんだ」と彼は腹だたしげに言う。「おめえは死ね。おめえなんか、もう死んじまったっていいんだ。だが俺の方はそうはいかねえんだ。これからいくらでもやることがあるんだ」

 「何をやるんだ」

 「そんなことは子供にゃわからん。だが俺はすばらしいことをやるんだ」

 彼は私より五、六歳の年長者だが、私より十歳もふけて見えた。そしていじめつけられて暮した、若者の陰気なニヒリズムが、荒々しい性慾と反抗心の(よど)みに影を落していた。

 「おめえら子供は何でもやりたいやりたいで暮してるが、実は何もできやしねえんだ。俺の方は本当はもうやることなんぞないんだ。だけど無理してでもやらかしてやるんだ」

 「……だけど、妨主に何ができる」

 「きさまあ!」彼はそう叫んで起き上ると、枕や灰皿や火箸を私めがけて投げつけた。「きさまは、何か本でおぼえた哲学で俺たちを見下して批判してるような(つら)してるが、そうは問屋がおろさねえんだ」

 彼はそんな時、歩き出して片足のひけ目を私に示したくないため、片膝立てたままで、火のついたように怒鳴り立てた。「俺がどんな気持で生きているか、どんなことを企んでいるか、甘やかされた餓鬼に何が……」そう言いおわると穴山は頑丈な背中を叩きつけるようにして、あおむけにドタリと寝ころがった。

 そのようにして彼と私の終局的な衝突は近づいて来た。それは加行僧の一人が加行係りから殴打された事件と共に到着した。

 殴った加行監督は、私とスキーに行った大男の僧であった。殴られたのは穴山の相棒の一人であった。時刻が来ると大太鼓がドウンドウンと打ち鳴らされ、加行僧は身じたくをととのえて道場に集る。その集合にだらしなくおくれる者もいた。殴られた男も、その日、二、三の者と共におくれていた。その男は穴山の仲間になり、その暴力を利用していたが、穴山とちがった要領の良さと陰険さがあった。監督は廊下でその男をとがめた。男はふりかえって棄てぜりふを吐いた。監督はたちまち腕をあげて、その男を殴りたおした。

 行頭は夕食のあとでその事件を一同に報告した。彼のかたわらには穴山がつきそっていた。行頭は宗教大学で左翼事件にも関係した、弁舌の巧みな男であった。

 「これはたんに今回殴打された某君一人の問題ではない。行僧全体の問題である」と彼は(しゃべ)った。「某君がたまたま集会におくれたのが悪いなら、何故言葉やさしくこれを説きさとさないか。神聖な加行場において、いやしくも衆僧をみちびく監督が暴力をはたらくとは何事であるか。あまつさえ監督は、某君およびその周囲にいたものに対してきさま呼ばわりしている。これは我々全部が、きさま呼ばわりされ、そのような者として眺められているも同然である。もし我々がこのまま黙ってひっこんでいれば、監督者は二回三回と腕力をふるって我々を侮辱するであろう」

 最後に行頭は、「この集会は穴山君の提案によって行ったものである」とつけ加えた。

 穴山は沈黙を守っていた。しかし穴山の圧力に行頭が押されているのは明かであった。行頭はあと幾日でもない加行を、無事に終了させて、自分の責任をはたしてしまいたいにちがいなかった。彼が「穴山君の提案によって」と特につけ加えたのは、そのためであった。私たちは円陣をつくり、いつもより少し緊張した顔つきで坐りこんでいた。自分たちだけの雑談にふけって、会議の空気の仲間入りしない者に対しては、行頭はきびしい注意をあたえ、問題が重要であることを一同に行きわたらせた。

 意見を求められると年長の一人がすぐ起立した。「加行僧全部が明朝を期して下山(げざん)しよう」というのが彼の意見であった。「このように腐敗した当局者や監督のもとに、加行をつづけるのはもはや無意味である。我々はたんに暴行をはたらいた悪監督一人ばかりでなく、全宗団の当局者および上層部の反省を求めるために、いさぎよく下山しよう。そして各寺院にもどり、そこで専心修行すべきである。今や旧来の修行形式にとらわれている場合ではない。我々の総下山は、真に宗団を支えている下層僧侶の力を示すよい機会である」

 彼は主張がおわると周囲のものに「いや実際無茶ですよ。こんな馬鹿なことってありませんよ」と同意を求めた。「地方寺院の苦しみや、若い者のなやみなんか、あの連中にはまるでわかっちゃいないんですから」

 私は、その血色のわるい皮膚のカサカサした、苦労人の年長者をよく知っていた。彼が、そのころ全宗団を支配していた当局者の一派に反対の党派にぞくすることも、知っていた。宗団には二つの党派があった。一つの党派、当局者の一派は、ドイツに留学し、サンスクリットを研究し、原始仏教の教義を紹介したある一人の指導者にひきいられていた。

 どっちかといえば、それは新興勢力であり、世界主義であった。その反対派は、漢訳の大蔵経だけを資料として、宗団の伝統を昔ながらの形にとどめようとする僧正を中心としていた。この方は旧派とも、国粋主義とも言えた。どちらが正しいとも私にはわからなかったが、国際主義と国粋主義、その新旧両派が争っていることはたしかであった。その年長者の発言は、その二つの流れの争いの、小さなあらわれにすぎないらしかった。

 彼が着席すると行頭が再び起ちあがった。行頭は自分たちの宗団が置かれている社会情勢について雄弁をふるった。それはこのような小事件に際してはあまりに大げさな演説であったが、血の気の多い若い僧たちはかなり熱心にそれに傾聴した。

 「キリスト教は進出しつつある」と彼は喋った。「政治的情勢は緊迫を告げている。右と左の両勢力は、わが宗団を一握りに握りつぶさんばかりの巨大な力を集結して、今や我々のすぐ傍であい争っている。血なまぐさい事件は続出しつつある。時代はまさに、わが宗派の教祖が権力者に媚びへつらって暖衣飽食していた古き僧侶どもをきらって、飢えに泣く人民大衆のための新仏教運動を発足させた、その同じ段階に達している」

 彼はしゃれた服を着こんだフランス革命の指導者たちのように、ピラピラと手首にまといつく衣の袖を器用にとりさばきながら、自分自身も思いがけぬ興奮状態におち入っていた。

 「ながろうべきか、ながろうべからざるか。このような末期現象を前にして我々若き僧侶はシッカリと覚悟を定めるべきである。我々の一挙手一投足は、ただちに全宗団の運命を決するのである。我々が我々の組織を拡大強化できるか、我々の宗門の独立と繁栄を獲ちうるか、それとも日和見主義者、裏切者として没落し去るか、それはこの殴打事件によっても定まるのである」

 それらの弁論がつづいている間、穴山は火鉢に片ひじつき、うるさげに黙りこんで、煙草をふかしていた。それはふてぶてしくも、また孤独にも見えた。やがて演説がおわると彼は顔もあげずに「やっぱり殴っちまった方がいいな」とつぶやいた。「アッサリ殴っちまった方がな」

 「え? 何」と行頭はギクリとして穴山の方へふりむいた。

 「奴の所へでかけて行って殴っちまうんだよ。俺一人で沢山(たくさん)だ」

 私は円陣の一番後列で、ゆるく眼をつぶっていた。そのとき私はまだ自分がこの世にとどまっている、しかもこの世のただなかに、どうしようもなく置かれてしまっているのを感じた。それはくすぐったく、またうそ寒いことであった。

 あの世にも人間がいる以上、人間はそこまで自分たちの争いを持ちこむことは疑うべくもなかった。うす目をあけた私の瞼の皮と皮、まつ毛とまつ毛の間から、私の内部へ入りこんで来る、その黒衣白衣の人々の動きの中にも、充分そのきざしがあらわれている。そのころの私は、もしこの世に正しいことがあるならば、それは自分のなし得ないことの中にあるような気がしていた。美しいこともまた、不可能の中にありそうであった。それ故、うす目の間から、電灯の蜜柑色の光線に照らされてもうろうと忍びこんでくるこの場の有様の中に、正しきもの美しきものがふくまれているにしろ、それは何かしら私の手のふれ得ない、及びがたい、もしかしたら私の視力では捕捉できぬものであるにちがいなかった。とすれば、この騒動の仲間入りするのも、それから脱け出すのも、共に無意義である。

 たまらなく騒々しいときは、寂然の境地に入りたがる、そのような人間のずるい癖もあり、その瞬間私はちょっと、密海的宇宙観の方へ傾きかけていたのである。

 「これから殴られるのはあの加行係りだな。あの大男だな」

 私はふと、それに気がついた。俺のスキー仲間が殴られようとするのを俺が黙ってみのがす。そのつまらない小事実が私を目ざました。それは感覚的にイヤな事実であった。ともかく彼を殴る計画だけは中止させてやろう、と私は考えた。

 その時、勤行にも講義にも、ごくまじめにいそしんでいる勉強家の一人が起立した。

 「こちらがこの場ですぐあわてて決議をするのは少しどうかと思う」と、彼は口しぶりながら提案した。「ともかくあの監督をこの集会の場所へ呼び出したらどうか。それで彼が謝罪するなり、自分の主張をのべるなりするであろうから、決議はそれからにしたらどうか」

 一同もそれに賛成し、行頭ほか二名が事務所まで監督をむかえに出かけた。やがて使者はもどって、監督はすぐここへ来るであろうからと報告した。

 しばらくして長い廊下をドスドスとふみ鳴らすひびきが遠くからつたわって来た。挑戦的なその足音は、平常の監督の足どりより倍も早く近づいた。二十枚ばかり、廊下に面して白々と並んだ障子の一枚が荒々しくあけられた。それはほとんど、しきいからはずれそうになった。そして監督の黒い顔と、黒衣につつまれた堂々たる体格が畳をふんであらわれた。入浴でもしていたのか額や首すじは湯気に赤らんで、精気は組んだ腕にも、ひらいた両足にもみなぎっていた。

 「何か用があるのか」と彼はつっ立ったまま傲慢に言った。「言い分があったら何でも早く言ってくれ。代表は誰か」

 行頭は「何故某君を殴ったか、その間の事情を説明してもらいたい」とのべた。

 「何故殴ったか?」彼はたちまち、満面に朱をそそいで怒鳴り出した。「そんなことがききたいのか。そんなことを聴くために俺をわざわざここへ呼び出したのか。一体、君たちの加行ぶりは何か。あれでも行を受けているつもりなのか。金魚の(ふん)みたいにズラズラつながって、太鼓が鳴ってから五分も十分もたって、まだ道場へ入って行く奴があるじゃないか。監督がだまってそれが見ていられるか。殴らなきゃわからない奴は殴るより仕方がないんだ。なんだ、金魚の糞みたいにズラズラズラズラとつながって。もう少し緊張したらどうか」

 「何故、腕力に訴えなきゃならなかったんですか」と一人が低い声でたずねた。

 「君は何だ。俺を詰問するつもりか。こっちは正しいことをやってるんだ。何人来たっておそれるこっちゃないんだ。文句ある奴は前へ出ろ。束になってかかって来い」

 大男は(たけ)り立つばかりだった。

 何故穴山が坐りこんで起ち上りもせず、加行係りの威圧的な言葉をききのがしているのか、私にはわかっていた。彼は単身でその大男を殴り倒す、傷つけるか不具にする計画を()てていたのだ。今彼が殴りかかれば衆僧は我も我もと打ちかかるにちがいなかった。彼はそのような集団行動で忿懣をはらそうとしているのではなかった。そのような、冒険も英雄主義も、陰気な復讐も、骨身にしみる血なまぐささもない楽な仕事は、子供らしいと軽蔑しているのであった。

 彼には宗団の新旧両派も、宗団の独立と繁栄も問題にはならない。彼は自分自身が暗い日常で想いつめたことを、自分自身の手でやってみたいにすぎなかった。彼の眼つきや挙動にふくまれた、アナーキスト風な臭気がそれを示していた。その時以後、その夜の長い集会のあいだ、ずっと不機嫌に彼が黙りこみ、いかなる相談にも応じなくなったことで、それは明瞭だった。

 穴山が起ち上らぬため、衆僧は攻勢の時機を失したようであった。また、自分たちの加行仲間のうちに、私や穴山やその殴られた男のような規律を守らず、権威をないがしろにし、獅子身中の虫のように暮している存在がまじっていることに不満を抱いている者もいた。この種の信念派は数こそ少いが、不言実行して、やがては、宗団の中堅になる男たちであった。かれらは内部崩壊をおそれてもいたし、粛正も欲していた。また、そのほかに、何はともあれ、この宗団の一員である身分証明をもらってしまえば、後はどうにかなるという現実派もあった。その数はもっとも多かった。それらの人々は最初から、殴打事件などはどうでもいいのであった。発言者はなかなか出なかった。

 赤と黒の色彩で不動明王の如きすさまじい形相になった監督は「何だ。何も言うことはないのか。わざわざよび出しておきやがって」と言い放った。「君たちみたいなことをやってたんじゃ、坊主にも、車ひきにも下足番にもなれやせんぞ」

 行頭は「ひとまずおひきとり下さい」と彼に言った。行頭は仲間の精神状態を見抜いたのであった。

 「明日からもっときびしくやる。腕で足りなきやコン棒でぶちのめしてやる」

 それから監督は私の方をジロリと流し目に(にら)んで言った。「いつだったか日は忘れたが、インバネスを着て、ソフトをかぶり、門番に金をやって裏門からぬけ出し、タクシーでどこかへ遊びに行った奴がいる」

 円陣の中でクスクス笑う者もあった。「こんな奴は、いずれ破戒僧か殺人犯になってどこかで首をくくるような仏罰にあう。きっとそうなる。その時になってヒイヒイ泣くような目にあうから今から覚悟しとけ」

 (この予言は次第に立証されはじめた)。

 「この世というもんはまるで地獄なんだ。いいか。極楽にでもいるような気でいたら、みんな骨も皮もスリコギでスリつぶされてしまうんだ。しっかりしろ」

 彼は名優がひきあげるように出て行った。

 それにしても監督の言葉は薬がききすぎたようであった。「あんなことを言われて、このままだまっているわけにはいかない」という一般の気分が強められた。「自分ばかり正しいような顔して、ちっとも反省しておらんじゃないか」とこぼす者もふえた。「やっぱり殴ろう。それが一番簡単だ」という穴山の相棒の発言も、まじめにとりあげられはじめた。「そろって下山しよう」ともう一度、年長者は主張して、その意見に傾くものも増加した。

 「殴り」派では志願者が数名、勢いこんで行頭のもとへ出かけた。「下山しよう」派は、廻状に連名をつのる署名運動の準備をはじめた。「殴れ」「下山だ」。行動派と政策派、非合法派と合法派は次第に活気づき、騒動の快感が誰の顔にもみなぎった。

 全く加行期間中、その時ほど、黒衣白衣に身心をこわばらせた若者たちが生き生きと性格をあらわし、生きかえったように自分々々の考えをもらしたことはなかった。あまりにも一本路にせばめられ、古風な精神の型にはめられたきゅうくつさから、小事件をしおにちょっと脱け出してくつろいでいる風に見えた。

 窓ガラスに雨の(しずく)が斜めにふきつけられた。それは道場から下方にひろがっている公園の闇をうしろにひかえ、かすかに光って、ガラスの裏を流れおちた。すぐ下で(かえる)が鳴いた。太いが、やさしげな声であった。暖い夜の雨にぬれ、ひき蛙の雌が、雄を背にのせて、ゆっくりと笹の下あたりを這い歩いているらしかった。

 私は、電灯のかがやく大広間の火鉢や蒲団のあいだにたむろして合議している仲間たちを眺めながら、これらの光と声の外部にわすれられた、樹々の茂みや草むらのある風景を想いうかべた。

 黒褐色と、黄色のみにくい身体に泡をうかべ、四本の足をふまえて蛙たちは歩いている、その姿が馬鹿にハッキリと浮んだ。丘の中腹の赤土の穴から出て、ひき蛙はグェッグェッ、グッグッグル、グッグッグルと啼きながら、急な石ころ路をたどり、蓮池まで降りて行く。

 池のほとりの、既に戸をしめきった一軒の茶店では、戸のすきまから灯がもれている。枯蓮はその細い光の筋をうけて、雨風に音をたてる。蛙の夫婦はしずかに水ぎわにずり降りる。それから水面にうかぶ。やはり重なったまま、ジッと背を光らせている。

 晴れた朝、若い男女が石橋の上から、そのような二匹の蛙を見つめていたことがあった。和服に草履をはいた女は「行きましょう」と男の洋服の肩を少し押しながら、まだ自分も眼の先をそこに落していた。「ね、行きましょう、ねえ」と女は男の手を握った。「ウン」と言って男はしずかに立って見ていた。

 「何だかこの蛙たちは、イヤにおちついて静かにしてるなあ。真剣だよ、こいつら……」男は邪気のない注意ぶかさで、蛙を観察していた。「二匹とも水の中に沈んでちっとも動かないよ」「そうね。ただああやってるだけなのね」

 ほかの散歩客がとおりかかると、二人は歩み去った。私は高みの路のはずれの、大きな楓の樹の下で、それを見おろしていた。そこからは太い幹と枯草の茂みにさえぎられて、私の姿は見えない。いつか白人の男女が、ひとりそこにいる私に気がつき、金髪の頭をゆらして、「ヒョオッ」という声を出して、眉をすくめたものだが……。

 「では決議しましょう。ほかに意見はありません?」という行頭のなめらかな声がきこえた。私は我にかえって起ち上った。そして「意見があります」と手をあげた。ともかくあの監督を殴らせてはいけないんだ。

 「殴ることにも下山(げざん)にも僕は反対です」行頭の許しを得ると私は喋り出した。「殴られたから殴るのでは、殴られたことを問題にする資格がなくなると思います。第一、暴力は仏教的でない。そのような方法で監督を制裁するのは絶対に反対です」私は穴山が私を見つめているのを意識していた。

 「下山するのも無意味だと思います。誰だって一日も早く受戒の免状をもらって寺へもどりたい。こんな中途で加行をやめても仕方がない。下山はむしろこちらの負けであります。当局者がたとえ下山しろと命令しても、我々は大殿にこもって一歩も出ないようにすべきなんだ。そして大雄ガンジーのように断食をやるんだ。当局が暴力は使用しないと約するまでそれを続行するんだ。つまり無抵抗の抵抗をやるんだ」

 私はガンジーがインド教徒なのか、仏教徒なのか知らぬが、思いついたままに彼の名を利用した。するとかなり多くの拍手の音がきこえた。「それがいい、下山の必要はないぞ」「殴るのはやめろ」という声もきこえた。行頭は「ただいまの柳君の説は面白いと思うが賛成の方は」と一同を見廻した。半数以上の者が手を挙げた。

 「ただし私の説を採用していただくからにはおねがいが一つある。それは行頭に、加行僧全体の行動をよく監督し統一してもらいたいことだ。もしこの策を実行しているさい中に、誰かが統制を破って、監督を殴りに行くようなことがあるならこの策は無意味になる」私は穴山の方をみつめながら大声で言った。

 「それから、自分勝手に下山する者があれば、その者も統一を破る者として罰すべきである」

 私は高校のストライキ統制委員からききおぼえた言葉を、すっかりそのまま真似た。下山もしないし、突撃行動もしないですむ私の方法は、穏健派の男たちの気に入った。それは大部分の者にとって、何もしないですむことを意味したからである。それ故、私の策は、ほとんど全員の支持をうけた。

 行頭は大男以外の監督者と面談するために、私の策をたずさえて、二名の委員と共に部屋を出て行った。私をとりかこんだ人々は「それじゃ明日から、何も食わんのか」「水ぐらいはのむのか」「ガンジーの真似なら文句ないだろう」などと喋りあった。

 たちまち衆僧に信頼された私は、かなりいい気持になって、彼等の中央にあぐらをかいていた。それ故私は、穴山が私を前に倍して憎みはじめたとは意識していたが、二日ののち彼が私に示したような猛烈な殺気と怒りが、その向うむきに寝ころんだ、ふてくされた彼の全身に、煮えたぎっていようとは気づかなかったのである。

 大男以外の監督者たちは、大男より気が弱くはあったが、利口でもあり、大局を見る目もあった。加行僧たちに大殿にたてこもられることが、いかに危険であるか、彼等はよく心得ていた。ものめずらしい事件として、新聞にでも公表されれば、反対派はこれを利用するにきまっていた。第一、大殿では、毎日のように、大がかりの葬式や法要がいとなまれ、それは本山の重要な財源をなしていた。

 当局は次の日すぐ、その大男を地方布教に派遣した。私たちはその結果、一日の断食もなくすんだのであった。

 次の日は私たちが、大殿の正面奥ふかくすえられた、大きな金色のアミダ如来像の前で、深夜十二時を期して、各人が誓いをたてる日であった。その物々しい、昔ながらの行事が終れば、私たちは入団を確認され、宗団の同志の一人となるのであった。誓いの儀式は、五百畳じきもある広大な仏殿の内陣(そこには一般人の出入は禁止されていた)で、四面を閉め切った、高い高い天井まで闇のたちこめた中で、仏像の前に一人ずつ順番にすすみ出て行く僧侶の手にした、一本の蝋燭の光りだけをたよりに、絶対の無言のうちにとりおこなわれるならわしであった。

 国宝に指定され、何回の火災にも焼けのこったとつたえられるその仏像は、人間の魂を吸いよせてしまう、不思議な眼力を持っているといううわさであった。奈良にしても鎌倉にしても、巨大な仏像の名作はすべて、荘厳にして温和な表情のどこかに、この世の生物のすべてを、軽蔑するとまで言えないにしろ、支配し自由にとりさばく一種の強烈さをただよわせているものである。固くつぐんだその唇に、底知れぬ嘲笑がほの見えるものもあった。その眼光のあまりのするどさが、この世にまれに見かける悪相をしのばせる仏像もあった。いずれにしても、これらの像の製作者たちは、人間の知恵のゆきつくところ、その深淵、あるいは自然のもっているおそるべき非情と慈悲にうちふるえながら、固い木をきざみ、おびただしい金属を鋳とろかしたにちがいなかった。それが完成するまでに、ひ弱い人間の血が無ぞうさに流され、うめき声とすすり泣きが、そのあたりに充満した記録も、歴史の上に残りとどまっていた。

 つい数ケ月前も、この大殿の如来像の前で、舌噛み切って死んだ尼僧があった。華族の娘である、そのうらわかい尼僧の(しかばね)は、その仏像の大きな金色の手で、一息に握りつぶされたように、そのたくましい膝の下に打ち伏していた。そして彼女の白い、か細い手は、最後まで仏像に向って何事かを哀願し、すがり求めたように、やや上方に向ってのばされていたという話であった。

 誓いの時刻が近づくにつれ、僧侶たちは次第に緊張した。

 昨日はしずかに降りそそいでいた雨は、夜に入ると共に豪雨に変った。道場の入口に立つと、白いしぶきが黒々とした地上にみち、ギラギラ光る石畳の上を雨水がはげしく流れ下っていた。玄関の(ひさし)は雨風に叩かれ、もち上げられ、ゆすぶられ、会話のききとれぬほど強い音をたてた。

 「昨日のことはおぼえてるだろうな」

 穴山の低い声が耳もとでして、私の肩の骨がミシリといたむほど、彼の掌がそこをつかんだ。

 「覚悟はきまってるだろうな。誓いが終ったら表へ出てくれ」と彼は無表情に言った。

 「後夜礼讃の太鼓が鳴ったら、髪棄山に来てくれ。まちがいなく来いよ。来るだろうな」

 「……行くさ」と私は答えた。私はむさくるしく鬚の生えた、青黒い彼の顔を見た。その顔はおそろしく不機嫌でかつ苦しげであった。彼は私を見返そうともせず、陰鬱におしだまって、きめられた列の順番にもどった。

 大殿の横手の高い縁の下へ行きつくまでに、足袋(たび)も衣もグッショリぬれた。段を昇って縁の上に出ると、小さい戸が一枚だけ開かれ、行頭ともう一人の男が、その入口の両側に立っていた。彼等は無言で、香を溶かした水を私たちの頭上にふりかけ、よく練った茶色の香の粉末を、私たちの掌の平に塗りつけた。私たちは、ゆらぎのぼる香のうす紫の煙をまたいで、内陣へ入った。

 そこは仏像の背面にあたり、ぶ厚い板の仕切りが天井まで達していた。その幅狭い、頭上に高くのびた闇の中に、私たちは番の廻って来るのを待って立ちすくんでいた。入口の蝋燭の光りで、ぼんやり闇にうかぶ仲間の顔や手足は、すべて赤みをおびた泥色をしていた。私たちの両側、つまり仏像の背後にあたる枚壁にはマンダラ絵図が、大殿の外側に面した白壁には地獄絵図がかけられてあった。

 その見上げるような大幅のマンダラ絵図には、紫紺の絹地に、金泥や五彩の絵の具を使って、端から端まで無数の仏たちが描かれていた。大小とりどりの仏たちは、各々光の輪を首のうしろに背負い、すきまなくつながりあって、さまざまな円形や、心臓や花弁の形の中に坐っていた。全くそれはゾッとするほど数多く、虫よりも密集して、ビッシリと並んでいた。如何なる他の者も、入りこむ余地はなく、はみ出さんばかりに縦横に充満して、彼等は静まりかえっていた。その仏たちは、一様に何の表情も示していなかった。その冷静さは、片方に掛けられた地獄絵図の紅く裂け走る焔の中で、大きな口をあけた赤鬼青鬼たちより、何か残忍な感じをあたえた。そこにはもうテコでもうごかない、エネルギー不滅の原則のようなものが、一面にのぞき出していた。

 蝋燭を手わたされると私は前へすすんだ。二、三回折れ曲ると、仏像のすぐ面前に達する小さな階段が見えた。それをきしませて私は昇った。眼をあげると岩のような仏像の膝の衣が、私の鼻さきにあった。細い板の間をずり足で歩いて、中央部に坐りこむと、私は仏像と対坐した。

 金色の仏像はなかばかがやき、なかば影をおび、私の頭上はるか高いあたりを見つめた形で置かれてあった。蝋燭の光りが下方から照すため、大きな鼻も口も、かなり変った形に見えた。その肉の厚みは重々しかった。その眼には黒く塗られた眼球はなく、少し凹まされたその刻み目だけがクッキリとした線を描いていた。しかしそのきつい眼は、たしかに何物かを注目しつづけている、カッと開かれた眼にちがいなかった。見るという行為を一瞬も止めない。未来永劫それをつづけそうな眼であった。

 その上、それは私などをチラリとも見やらず、全然別の方角にむけられていた。そのくせそうやることで、それは充分に私の全身、その内部まで見抜いている風であった。

 「俺はこれから決闘に行く」と私は彼を見上げながら、考えた。「それもあなたは見通しているのだろう。今これから髪棄山にでかけて愚劣な行為にふける、そんな俺の運命も、みんな計算し、指導しているのだろう。俺がそれを中止するにしろ、断行するにしろ、みんなあなたはそれを前もってきめてしまったのだろう」

 手にした蝋燭がつい傾くと、仏像の横手の巨大な影がのしかかるように私の全身に倒れかかった。

 「さまざまな執念があなたの前にささげられた。死んだ尼僧や、親族を失った老若男女の、涙が何万石となくささげられた。俺もこうしてあなたの前に坐っていると、馬鹿らしいとは考えても、何かしら本心を語りたくなるのだ。あなたは人間でもない。神でもない。気味のわるいその物なのだ。そしてその物であること、その物でありうる秘密を俺たちに語りはしないのだ。俺は自分が死ぬか、相手を殺すかするかもしれない。もう少したてば破戒僧になり、殺人犯になるかもしれないのだ。それでもあなたは黙って見ているのだ。その物は昔からずっと、これから先も、そのようにして俺たち全部を見ているのだ。仕方がない。その物よ、そうやっていよ。俺はこれから髪棄山に行くことにきめた」

 どこか見えない下方の園の中で、ボクッボクッと大木魚の鈍い音がつづいていた。風音もほとんどそこまではきこえなかった。

 「俺は日に何回あなたの名を称えるか、あなたに誓うことはできない。しかしもし俺が生きて行けたなら、無意議のうちにでも、その物であるあなたをかならず想い出すにちがいない」

 私はしごく落ちつきなく、漠然とそのようにつぶやいて、仏像の前の墨色の壇を降りた。堂内を一周して入口ヘ出ると、冷く湿った風が私の襟もとに吹きつけた。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2007/03/15

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武田 泰淳

タケダ タイジュン
たけだ たいじゅん 小説家 1912・2・12~1976・10・5 東京本郷生まれ。 旧制浦和高校に入学するもほとんど授業に出ず、図書館で『紅楼夢』、魯迅、胡適らの著作に親しみ、この頃より左翼運動に加わる。東京帝国大学支那文学科にすすみ、昭和9年、魯迅の弟周作人の来日の際、同級の竹内好らが歓迎会を企画したのを機に、中国文学研究会を作る。この間も検挙拘留が繰り返されるが、運動者としての自己は断念する。昭和12年召集され輜重補充兵として中支に派遣される。上等兵で除隊となり、昭和19年上海に渡り、当地で敗戦をむかえ帰国。敗戦体験をもとに「審判」「蝮のすゑ」を発表、小説評論に健筆を振い、戦後文学の代表的作家として活躍した。『司馬遷』『富士』『ひかりごけ』などがある。

掲載作は「展望」昭和25年4月初出。

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