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狩り立てられた編集者

  横浜事件の影

 

 昭和二十年三月十日の空襲は壊滅的で、わたくしの当時住んでいた本郷の家も、そのために焼けた。わたくしは家がないため、すぐ雑司ガ谷の菊池寛氏の家に転げ込み、そこで応召するまでの二ヵ月間、居候(いそうろう)した。

 或る日、用事があって本郷へ行き、たまたま焼跡のあたりを通りかかると、本郷三丁目のほうから渡辺潔君が来るのに出遇った。渡辺君は当時、『日本評論』の編集部員であった。

「君、満洲にいっていると思ったのに、もう帰ってきたの」

 というので、

「いや、もうだいぶ前に引きあげてきて、いま『文藝春秋』をやっているんだ。君等に会ったら、聞こうと思っていたんだが、やたらにこの頃、編集者が横浜の警察へ引っぱられているが、いったい、なにがあったんだい」

 わたくしが反問すると、渡辺君は、

「実はぼくにもよくわからないんだが、うちでも美作太郎、松本正雄、彦坂武男の三人が引っぱられた。こんどは僕のような気がするんだが、なにが当局の忌諱(きい)に触れたのか、わからないんだよ」

 と、深刻な顔をしていた。

 これは世にいう横浜事件で、その前年あたりから、『中央公論』『改造』『日本評論』の記者諸君が続々と検束された事件である。身に覚えのないことで引っぱられるという恐怖は相当なものである。なにか覚悟があるなら、どんな目に遇っても堪えられるが、じっさいになんとも見当のつかないことでブタ箱にほうり込まれるのはたまらなかった。渡辺君はそのとき、

「浅石君(『中央公論』編集部)も引っぱられて、獄中で病気で弱っていると聞いたが、どうしてるだろう」

 といって、暗澹(あんたん)とした表情をした。

 この浅石君は前年十一月に、すでに予審中に横浜で獄死しているのである。

 渡辺君と別れ、わたくしは生家の焼跡に立ったが、荒寥、暗澹たる気持に陥った。第二国民兵の応召も相次いで行われる最中であるから、これは海軍に召集されるか、横浜行きか、どっちかだな、とひそかに覚悟をきめた。なお渡辺君はわたくしと会った数日のちに「なにがなんだかわからない」ままで、横浜署に検束されたのである。

 ――「横浜事件」というのは、東京を中心とする三十余名の言論知識人が、横浜地方検事局思想検事の拘引状(こういんじょう)(たずさ)えた神奈川県の特高(とっこう)警察陣によって、検挙投獄された事件の総称であり、被検挙者の所属は、研究所員や評論家を含めた主として編集者よりなり、ジャーナリストであるところに特徴があった。

 従って事件は多岐に分れ、その間の連関は極めて乏しく、むしろ複数のケースを時間と地域の同一性から「横浜事件」と総称しただけで、強いてこれらの事件の共通性を求めるならば、それは増大する戦況の不利と、国内情勢の不安とのために兇暴化した天皇制警察が、軍国主義的絶対権力を笠に着て、ジャーナリズムの抵抗線に襲いかかったという事実のなかに見るほかはないであろう。――

 これはわが友、美作太郎法学士の定義である。法文のように固苦しい表現であるが、簡にして明快である。

 要するに、戦争遂行上、邪魔になる総合雑誌の編集者をまず十把一からげにブタ箱に入れ、拷問をし、その中で身体の弱い者を殺したという事件である。

 中央公論社関係では小森田編集長初め六名、改造社関係では大森編集長他五名、日本評論社は美作君以下五名が、その難に遇ったわけである。岩波でも小林勇、吉野源三郎君が引っぱられている。

 なんのためにこういう事件がデッチ上げられたか、よく分らない。今日でもいろいろな説があるが、だいたいこの事件の関係者たちの想像では、昭和研究会を中心とする近衛一派の和平運動弾圧への口実を見つけるため、まず雑誌ジャーナリストを拷問して、何かを聞き出そうとしたのが真相に近いと思う。これが政治家や学者を捕まえるなら、いくら特高でも、証拠を少しはニギっていなければ出来ぬだろう。しかし今日から考えれば想像以上に社会的に無力であった雑誌記者の十人や二十人引っくくるのは、彼らにとって朝メシ前だったのである。

「国体を破壊する目的」という口実をつけられ、小さな私的会合まで共産党まがいの集会とみなされ、猛烈な取調べと拷問のもとに発展して行った事件である。この人達の受けた暴力の詳細はすでに幾多の記録が残っており、詳説を避けるが、横浜事件というのは、われわれ編集者にとって最大の受難史であった。

 わたくしなぞ、戦後、横浜へ行くたびに、いつもやりきれない気持に襲われたものであるが、ほんとうの敵は横浜署の一握りの刑事ではなく、旧内務官僚の一部と軍部である。

 浅石君について同僚の青木滋(青地晨〉君の語るところによれば、「浅石君の捕まる四、五日前に僕が会ったとき、彼は『どうもやられそうだ』としきりにいう。『絶対オレは何もやっていないから、やられるはずはないんだが』といっていたが、それから二、三日で彼はパクられ、半年経って、こんどは僕がパクられた」。

 青木君が、横浜署の刑事部屋で調べられているとき、浅石君を調べている刑事がちょっと入って来て、青木君に向って、

「オイ、お前の仲間だが、浅石というやつは、もう命がないぜ」

 といった。

「どうしてですか」

 と訊くと、

「胸が悪くて三十八度以上の熱がある」

「そんなに悪ければ、病舎に入れたらどうです」

 と青木君がいうと、

「何をいうか。バカヤロー!。ああいうヤツ等はほっておいても死ぬんだから、いまのうちにドロを吐かせなければダメだ。それでこの頃は毎日、引っぱり出して、徹底的に調べているんだ。死んだら証拠がないから、生きているうちにやるんだ」

 といったという。この人間離れのした警部補の名は森下某。

 浅石晴世君は十一月の山茶花の咲いている或る朝、雑役夫が彼の独房を覗いたとき、自ら溢れ出る喀血に塗(まみ)れて窒息していた。

 わたくしは浅石君をよく知っているだけに、戦後この話を聞いて、胸潰れる思いがした。浅石君は家族が少く、弟さんはのちに戦死し、お母さんも病死して、たった一人残った妹さんも現在、行方不明と聞く。現在と違って、雑誌編集者といっても、その社の役員にすらなった人は数えるほどしかいない。ほとんど全部が一介のサラリーマンとして、乏しい生活を樹て、しかもこういう事件のために最も抵抗の弱いところとして、地獄の苦しみを嘗めさせられたのである。

 国民とおなじ苦しみのなかに苦しんでこそ、編集者の生き甲斐であったから、なにも流行作家、流行評論家なみの余裕を編集者に希望するのではないが、しかしせめてあの時もう少し編集者の生活、待遇が恵まれていたのならば、と思わないわけにゆかない。弾圧と貧窮のただなかに死んだ浅石君や他の二名の編集者のことを、将来も雑誌編集者は忘れないでほしい。

 最近、三鷹事件、松川事件、それから菅生事件と相次いだ謎の事件に、総合雑誌は相当のスペースを割いている。そのねばり強い反官憲運動に、警察や保守党の首脳部はさだめし苦い顔をしていると思うが、しかし日本の雑誌の編集者の古い連中の頭のなかには、十数年前の横浜事件の苦い思いが、まだ頭の隅に残っているのである。罪なくしてデッチ上げられ、なにがなんだかわからないうちに起訴されたその苦い回想がシコリになって、根強く現在、動いているのである。

 戦後のこれらの事件の真相がどうであるか、軽々には判断できないが、われわれ古い編集者は自分たちが嘗めた苦しみを、もう国民の誰一人にも嘗めさしてはならないという強い気持だけは、いまなお持ちつづけているのである。

  海軍という世界

 

『文藝春秋』編集長として、雑誌を五、六冊作っただけで、五月一日に、わたくしは赤紙を貰った。十五日までに横須賀海兵団に入団せよというのである。だいたい海軍に召集されることは覚悟していたので、赤紙を貰ったときの気持は割合に平静であった。家族は新潟県に疎開して、なんの心配もないし、家は焼けたし、却ってサバサバした気持だった。雑誌編集者として、戦争貫徹のために国民の尻を叩く役を、いやいやながらでもやらされた自分にとって、とにかくわれわれの同時代の人間が、戦線で命を的にしているそのところへ、おなじ資格で参加することのできるのは、むしろ本懐だと思った。特別席にいて、偉そうな記事をのせていることに堪えられなかった。よい兵隊になるかどうかわからないが、頑張りたいと思った。

 赤紙が来たのは雑司ガ谷の菊池寛氏邸であった。私はずっとそこで居候していたのだが、その頃はすでに応召続出で、同僚の数も寥々たるものであり、わたくしのために特別、壮行会が開かれたわけでもない。その赤紙を持って、近所の酒屋ヘ行って、出征用の酒一升を貰い、菊池家の留守番の人、二、三人とささやかな送別会をやった。

 十五日、指定の場所である東京駅の地下に集まると、何千人という応召者の群れでゴッタ返していた。憲兵が出動して整理し、われわれは特別編成の横須賀線の車中に詰めこまれた。このとき、吉田健一君なども、そのなかにいた。のちに横須賀海兵団の兵舎で彼の姿をみつけたときには、なつかしかった。 

 そのとき同じ応召仲間の『モダン日本』編集者のS君と一緒に向い合って席を占めたのであるが、S君は戦後のある時、たまたまこの時の話が出て、

「君は実にあの応召列車のなかで、大胆不敵でひどいことをいったぜ。僕はそのとき、ハラハラすると共にちょっと憤慨したものだよ」

 といったことがある。

 それはつまり、 (この戦争はもうだめで、われわれはこの絶望的な戦争に狩り出されただけのことだ)というようなことを、わたくしがいったらしい。わたくしの記憶から忘れられたことなので、ちょっと意外だった。当時の見透しとしては、そう思ったのだろううが、一兵士として戦争に参加しようという気持もあったことも事実である。矛盾した気持であるが、その通りだから仕方がない。

 ところが横須賀海兵団に入団してみて、わたくしのこの気持はたちまち大きな動揺を受けた。隊門を入ったとたんに、当然のことながら、われわれには最下級の兵士としての待遇が待っていた。そのことはかねて覚悟していたことで、さほど驚かなかったが、海軍の私的制裁のすさまじいのには驚いた。

 入隊二、三日後の夜、吊床のなかで、われわれの仲間が下士官の噂ばなしをして、少し悪口にわたったところを、たちまち聞き咎められた。その兵隊は猛烈なバッター(精神棒〉を十数回、尻にくらい、気を失い、尻がたちまち馬のように膨れるのを見た。下士官の一人は、死んだようになっているこの男に水槽の水を浴せながら、われわれ新兵の全員を前にして、 「貴様たち、帝国海軍がどういうところか、これでわかったろう」

 と、()め廻した。まるでヤクザの私刑である。

 ここは、恐怖という鞭によってのみ兵隊は動くものであるという原則に立った世界であった。心の弱い者は、これで呆然自失してしまい、あとは機械的に動くだけなのだ。これがかつての精鋭な帝国海軍かと思うと不思議な気がした。よくこれで戦争が出来たものである。

 入隊して数日たったある日、分隊士の大尉が、海軍に入つての感想を率直に書いてみせろといった。今後の新兵教育の参考にするためだから、悪口でも、なんでもかまわん、感じたことを書け、それによって罰することは絶対ないといって、みんなに鉛筆をとらせた。

 わたくしはかねて、このときほんとうのことを書いたら、ひどい目にあうぞ、と聞いていたので、適当にごまかして書いた。ところが二、三の人が率直に書いたために、再び猛烈な制裁を受けた。そのうめき声が夜半まで聞えてくるので、吊床の中でねむることが出来なかった。なにを書いても、決してお前たちに罰を加えない、という約束をしておきながら、平気で体罰を加える。この一事だけを以てしても、わたくしはいまでも絶対に横須賀海兵団を許すわけにいかない。人をぺテンにかけ、思想調査をしたのである。兵隊として、一兵士として、忠実に国のために尽したいと思ったわたくしの気持は、当然のことながら一変し、こんな軍隊なら早く消えてなくなれと思った。軍隊なんてなくなったって、日本人は生きてゆかれるのだ。この戦争はどうせダメなんだから、こんなバカバカしい軍隊の一員として戦争で死んでは犬死である、万難を排して生きて帰ろうと、心に誓った。

 入隊の身体検査のとき、わたくしの唇がさけて、血が出ているのを見て、若い軍医が、

「衛生兵に殴られたのか、ときに、お前の職業はなんだ」

 と訊いたとき、

「雑誌記者です」

 と答えた。

「なんの雑誌だ」

 というから、

「『文藝春秋』編集長」

 というと、軍医はちょっと憐憫(れんびん)の情を表情に現わして、

「おれは愛読者だよ、海軍はヒドイところだから、気をつけてうまくやれよ」

 と小声でいってくれたが、そのことがつくづく思い出された。

  千歳第二基地

 

 横須賀には二週間いて、わたくしたちはすぐ青森県の大湊に送られた。夜中に軍用列車で横須賀を発ち、東京を過ぎたときには、五月二十五日の大空襲で、東京の街々はなお余燼があちこちに小さな火の手を上げていた。荒寥たる景色を忘れることができない。

 軍用列車のなかで動物のようにわたくしたちは眠り、大湊からは再び輸送船に乗せられ、小樽に向った。船は一昼夜半かかったが、

「お前たちに物を食わせると、船酔いでみんな吐くから、小樽に着くまではなんにも食わさない」

 というので、その間は暗い船艙に詰めこまれ、口にしたものはただ水だけであった。同じ船に乗り込んでいたわれわれの隊の士官たちが、乾パン袋をもち、ウイスキーをぶら下げて、われわれの前を往来するのを、数百名の新兵たちは羨しそうな眼で見たものである。わたくしもずいぶん情ない表情をしていたに違いない。

 兵隊だというのに鉄砲もない。ヨレヨレの第三種軍装を身にまとい、背中には大きな衣嚢を背負って、ヨロヨロと小樽の埠頭に降りたわれわれは、さながら苦力(クーリー)同然であった。

 小樽の港外に集結して、最初にわれわれがやったことは、二日ぶりで配給されたニギリメシをパクつくことであり、次は横須賀以来とることが出来なかったシラミ狩りだった。みんな裸になって、腹巻や下着についたシラミを退治するのに大童(おおわらわ)だった。こんな兵隊があっただろうか。情ないと感ずると同時に、訓練も作業もないこの二時間ばかりの小閑を愉しんだものである。

 北海道はわたくしは初めてである。小樽から汽車で札幌を通り、千歳ヘ向った。沿道の風景は目新しかった。千歳の駅ヘ着いたのは深夜で、そこで点呼を受け、われわれは約二里の道を軍歌を歌いながら行軍して、千歳第二基地の兵舎へ向った。兵舎というと、聞いたところはいいが、着いた所は広い落葉松(からまつ)の林の中の地下壕舎だった。ムッとする土いきれのなかに蚕棚になった壕舎で最初の夜を過した。

 われわれの隊は、正式には五百七十一設営隊という名前である。約八百人ばかりの部隊になっていた。設営隊というのは名前はいいが、要するに土方部隊であった。すでに労働力不足を告げていた海軍では、一般の徴用で基地建設要員を得ることができなくなったので、召集の形で第二国民兵を大量にとり、これを各地の基地に分けて、基地建設に当らせたわけである。はじめから、兵隊でなく、土方だったわけである。海軍らしい訓練はなにもなく、銃の代りにシャベルをあてがわれていたのである。

 戦後、よく日航機で千歳へ行くが、いつも飛行機から降りるときの気持は複雑である。飛行場に着く前に、友人なんかに、

「オイ、池島信平の造った滑走路を見ろよ」

 と冗談にいわれたものであるが、これは少々ウソが混っている。現在、日航機が発着する滑走路は、往年の第一基地の跡で、われわれの造ったのは第二基地であるから、いまの飛行場とは、かなり離れている。現在では、その滑走路は草ぼうぼうとしており、コンクリートはひびが入ったり、割れていたりして、よく自衛隊などが分列行進をやる場所になっている。千歳の上空へくると、これから降りる滑走路の少し南のほうにあたって、昔、われわれの造ったこの滑走路の残骸が、深い雑草に蔽われていまでも見える。

 雑誌記者をやっていたということがわかっていたので、わたくしは一般の土方用の分隊でなく、本部附の兵隊に配属された。要するに、雑誌の記事を書くくらいだから、速記もできるだろうというので、速記要員にされた。部隊長や偉い人の訓辞などがあったとき、これを文章に写しとることである。

 大湊にいたとき、北東方面艦隊の施設部長の某少将の訓示があったが、このときわたくしは全文を写しとった。わたくしの班の下士官なぞは、これを見て、

「ホホウ、お前、これだけよく書きとれるな」

 といって驚いていたが、要するに談話筆記の要領でやればよいし、話の内容も型にはまったものだから、それほど骨の折れることではない。速記要員になったおかげで、わたくしは土方の重労働から免れたものであるから、わたくしはいささか自分の職業に感謝しなければならないであろう。

 いつも隊長の速記ばかりしているわけでなく、本部附として、わたくしのやらされたことは番兵と風呂(バス)当番だった。工事場からセメントだらけで帰ってくる兵隊のために、毎晩風呂の用意をやらされたが、わたくしたち風呂当番は、昼間から水を井戸から、汲み、バケツでさげて風呂に持って行く、単調な動作を数百回くり返す。安寿姫と厨子王ではないが、わたくしは風呂の水を汲んで運ぶ仕事を、それから終戦の日までつづけたわけである。

 風呂が沸くと、最初に隊長が入り、士官が入り、下士官が入り、そして一般の兵隊が入る。風呂(バス)当番兵として、わたくしは素ッ裸の上に帽子だけを乗っけて、将校たちの背中を流した。わたくしは海軍式の背中の流し方に熟達した。いまでも温泉などに行くと、流しにくる風呂番に講釈をする。どうしたら、能率的に垢が落ちるかということについて、彼らに教えを垂れることがある。軍隊で習った技術といえば、三助だけだとはいささか情ない。

 千歳へ着いて、やがて家族にハガキを出したが、そのなかに、

「北海道へ来た。ここはまるで西洋の絵葉書のように綺麗なところだ」

 と書いた。

 事実、自然の美しさは素晴らしく、千歳原野のはるか彼方には樽前山が煙を吐き、かっこうはいつも啼いていた。飛行場の脇にはたくさんの農家があって、いずれも牛を飼い、毀れた柵、あおあおとした牧草、小さな池に映る夏の真白な雲。どこを見ても、まるでスイスあたりの風景を思わせるような美しいところである。

 ところがこのハガキの文章がたちまち問題になった。班長に呼ばれて、

「貴様は防諜ということを知らないのか。『北海道にいる』とはなにごとか」

 といわれて、頬が曲がるほどぶん殴られた。この下士官は、青森の特飲店のオヤジであった。殴られたのは、もう横須賀以来、数回あり、これから八月十五日までの間に、歯が二、三本かけるほど殴られた。だいたい軍隊生活のあいだ中、作業に追いまわされて、歯を磨くことを怠ったので、歯がすっかり参って、現在でも上歯は全部入れ歯である。入れ歯を掃除するたびに、なつかしき(?)帝国海軍時代を思い出す。

 最下級の兵隊の運命は、陸軍も海軍もおなじである。特別に苦労したとは思っていない。兵隊とはいっても実際に弾が飛んでくるわけでなし、生命の危険に直接に脅かされたわけではない。七月になって、二度ほど千歳基地は艦載機に空襲されただけである。第一線にあって苦しんだわれわれの仲間から見れば、わたくしの軍隊経験などいわば特等席のようなものである。かえって、辛さよりも、軍隊にあって、いろいろなことを学んだ。

 わたくしのように、中流家庭に生まれ、学校生活を平々凡々につづけた者にとっては、一般の日本の大衆との接触は、小学校を出てからはほんとうにはなかった。大衆がどういう衝動で動き、なにを考えているかについて彼らの身になって知ることはできなかった。ところが軍隊にあって、初めて日本人の平均的なモノの考え方を学んだのである。自分が雑誌記者として、数十万の読者と対決させられたとき、この経験は実に貴重であった。

 インテリ以外の日本人、しかも日本という国をほんとうに支えている人たちの生活感情に、おなじ資格で溶け込んだ三ヵ月の軍隊生活で、わたくしの得たものは小さくはない。

 

 敗戦の日を迎えて

 

 終戦の日、八月十五日は朝からギラギラする夏の太陽の輝いた日であった。

 一直番兵勤務で、私は隊の裏門に立哨していたが、早暁は特に霧が深く、ほとんどあたりは何も見えなかった。番兵塔のまわりの夏草は、露しとどであった。総員起しの喇叭(ラッパ)が遥かな兵舎群から聞こえる頃から、霧はドンドン晴れて行った。きょうも暑いな、とわたくしは思った。唐松の落葉樹の林を抜け、部隊本部近く行くと、夏草の間に、いつものことながら真ッ赤に塗った給油車が何台かあり、その赤がとても鮮やかだったのを憶えている。

交替の衛兵が出発したあとのガランとした兵舎で、少し遅い朝めしをかき込んでいると、伝令の松井二等水兵〈現キャノン・カメラ紐育支店長〉がやって来て「きょうは重大放送があるから、この放送を速記するために、お前は待機していろと隊長がいっている」という命令を伝えた。

 戦争が急速に破局に来たなど、北海道の果にいるわれわれにはわかる(すべ)もなかった。新聞なども、兵隊ではほとんど読む暇もなく、わたくしはただ風呂当番と番兵だけで暮らしていたようなものだった。

 皮肉なことに、この八月十五日はわれわれの部隊の受持ちだった滑走路が完成したお祝いの日だった。数日前から昼夜を分たぬ突貫工事になり、今日は、最後の仕上げのため、将校初め兵隊たちは全員、朝早くから作業場に出てゆき、隊はガランとしていた。夕方にはお祝いの酒も一本つくというし、相当のご馳走が出るぞ、ということを烹炊所の仲間から聞いて楽しみにしていた。五七一設営隊が出来て最初のお祝いである。

 われわれが着手した滑走路は海軍がとっておきの「連山」という四発の重爆撃機を飛ばす滑走路だった。長さ二千五百メートル、幅員八十メートルという、当時としては最大最長のもので、ここからサイパンまで無着陸で飛び、これを爆撃して悠々と帰られるだけの脚をもつ飛行機の滑走路であった。われわれの隊のほかに、もう一つ、五七四設営隊、ほかに地崎組のタコ部屋の土工たち、これら二千人近くの人間がほとんど機械らしい機械も使わず、シャベルと汗と人力の限りを尽して、三ヵ月近くかかって完成したものである。

 しかもなお偶然は皮肉であって、この日をもってわれわれ新兵たちは二等水兵から一等水兵に進級されるはずだった。終戦のあとから、みな記念に一階級ずつ進級したものだが、わたくしのは正真正銘の一等水兵に、この日をもってなったので、ポツダム一等兵でないことを、わたくしの名誉のために書きしるしておく。

 お昼近くなって、全員集合の喇叭が鳴った。ところが大多数の兵隊は作業場にあり、技術関係の士官たちもこれについて行っているので、兵舎に残っていた者は五、六十人足らずだった。それに作業場に昼めしを運ぶ食事当番の連中が三十人ぐらいいたが、これだけの人数が広い営庭に整列したとき、隊長が壇上に立った。

 電路部員が大急ぎで修理したラジオが突然()れるような大きな音で「君が代」を奏した。わたくしは隊列を離れ、隊長のそばのテーブルに坐り重大放送に耳を傾けた。これを一語、一語、速記することになっていた。

 やがて金属性の、なんともいえない声の「玉音」が聴こえてきた。ラジオの調子も悪くて雑音も多く、この玉音もあまりにわれわれの普通の言葉と違った音調であったので、わたくしにはほとんどこれが速記できなかった。おそらくどんな熟達した速記者でも、神様から急に人間にされた人の悲痛な声を、あのとき間違いなく写せた人はないだろう。聴いているうちに初めはなにをいっているのか、内容を掴むのに苦労した。いたずらに漢語が多く荘重な調子ばかりで、よくわからないが、やがて「万世のために太平を開かんと欲す」という言葉の「太平」という言葉が頭にピンときた。これは戦争が終ることらしいということ、終戦すなわち降伏したことだと直観的に思った。胸を突きあげるような気持で、目の前がポーッとなった。見ると、みんな下を向いて緊張しているが、この放送の意味するものが何であるかをわかった者は少いようであった。

 隊長はこの放送について、なんの注釈も加えず、そのまま整列を解いたみんなは各兵舎へ、或いは分担の仕事場ヘ急いだのだが、すぐわたくしは士官室に呼ばれた。

「いまの放送は戦争をまだつづけるというのか、或いはこれで終るといったのか、いったいどっちだ」

 と若い士官たちに訊かれた。

 彼らはみな若い技術将校で、大学や高工出である。そのある者は、同じ大学で、わたくしにとって十年も後輩であった。わたくしは、自分の理解したことを説明し、もとジャーナリストは、入隊以来はじめて、チョッピリ面目をほどこしたわけである。

 その夜から部隊とっておきの食糧がドシドシ放出されて、われわれの食卓を賑わした。よくこんなにいろいろなものをとっておいたと思うくらい出てきた。われわれ初年兵はおそらくこの日から、部隊が解散される八月の三十日までに、平均して体重が二貫匁ぐらい肥ったと思う。いままで麦めしと北海道の千歳原野に生えている蕗ばかり食わせ、たまに食べるとポーとからだに赤いブツブツができるような古いみがき(にしん)を食わせる程度の食事が、急に賑やかになったからである。慢性的の半飢餓状態が一転して、今や何の作業もなく、うまいものを食ってゴロゴロしていればよいのだから、これは当然のことである。

その夜、飲めや歌えやの不思議な饗宴で騒いでいる士官宿舎を遠く見ながら、わたくしは煙草を喫いに真っ暗な営庭に立っていると、そこに黒い形が一つうずくまっていた。見ると、年配の特務士官であった。いそいで敬礼をすると、

「まあまあそんなことはもういいよ。それより実はお前に訊きたいことがあるんだ」

 といった。

 そしてこの老士官は、いったいこれから日本はどうなるのか、おれたちの生活はいったいどうなるだろう、と真剣な顔をして訊いてきた。

 この人は水兵からあがった士官で、あの技術将校のように専門的の技術があるわけでない。彼らが水兵時代から殴られ殴られ体得したものといっては、ただ海軍という狭い世界の特殊の技術と事務処理だけである。この海軍会社が今や破産して解散することになり、自分たちがおさめたものはすべて空になった、と直感したときの気持は深刻だったと思う。

 わたくしはそのとき何を説明したか、よく憶えていないが、多分、愚かな見透しを述べただけだったろう。日本が民主主義になる、しかも軍閥最盛期以前の議会政治にもどることは間違いないと思ったが、これからくる日本並びにわれわれ国民の苦難の生活に対して、わたくし自身なにほどかの正しい認識をもっていたであろうか。

 ただ一つ憶えているのは、これからは言論が自由になるだろう、しかしその自由も制限されたもので、日本へくる占領軍の意図のワクのなかでの自由である。日本軍部に代った連合軍の軍人の強い言論監視下にあることだけは間違いない、と説明したが、これだけは後に実際の場面にぶつかって、正しかった。天日を仰いで百パーセントの言論自由を謳歌することは、現実にはなかなかない。いつも、言論は、残念ながら時の権力の或る意味のワクのなかにあるというのが、わたくしの考えである。そのワクが狭いとき不自由と感じ、広いときに、わたくしたちは自由と妄信するのである。

 日本は降伏し、軍隊は解散されることになった。しかし現実の軍隊は即座に解隊したわけでなく、なお二週間ばかり、われわれは千歳に止まっていた。わたくしは相変らず風呂を焚き、士官の肩を流し、そして番兵勤務に就いていた。

 隊の解散の日にはたしか三百円ぐらいの金を貰ったし、放出物資でいっぱいで重くなった衣嚢を背負うときに、一同ヨロヨロよろめいたのを、相かえりみて苦笑いしたものである。たった三月ばかりの軍隊生活の代償に、こんなにたくさん貰っていいのかと、わたくしなぞ思った。

 三十日、解隊式をして、われわれは、勇んで(?) 隊門を出た。二ヵ月余りの辛い日々であったが、ここを去るというときはなにか懐しい気がした。

 函館まで軍用列車で運ばれ、連絡船に乗り込んだ。嘗て小樽へ着いたときには敗残兵のような恰好をしていたのが、いまや国亡び軍は解散したにもかかわらず、われわれは戦勝国の兵隊の如く、真新しい軍服を着て、衣嚢には持ち運びできないくらいの缶詰と衣料品が入っていた。

 青森の駅に着くとすぐ、これからは任意に行動せよ、ということになり、実際上、海軍一等水兵に別れたわけだが、このプラットホームで、家族が疎開している新潟行きの汽車を待ちながら、わたくしは左腕についている一等水兵の階級章を引きちぎって線路に投げ捨てた。

 青森市は空襲で焼けただれ、廃墟のような姿である。空にはB29が一機、悠々と低空を飛び、その銀色の翼は八月末の強い陽を受けてキラキラ光っていた。

人間の醜さをいやというほど見させられ、また人間性の美しさについても、こんな時でなければ見ることが出来ないようなことも目にした。長かった戦いは終り、わたくしたちは、自由を得た。

 

  雑誌の再建を

 

 雑誌がつくれる、これから自分の思うままの雑誌をつくることができるという気持が、もくもくと胸のなかから雲のように湧き起ってきた。疎開先の家族のところには、それでも一週間ぐらいいたろうか。とにかくわたくしは東京へ出て、社へ出ることを急ぎ、満員の上越線に乗って東京へ出た。

 最初にまず雑司ガ谷の菊池氏の宅を訪れた。周りはかなり焼けたところがあったが、菊池邸は無事で、ここにしばらくいたことがあるわたくしには、懐しい家であった。

 菊池さんは相変らず浴衣をダラリと着て、残っている社員を相手に将棋を指していた。わたくしが、

「先生、ただいま帰ってまいりました」

 というと、菊池さんはチラリとこちらを見て、

「よかったね。これからは大へんだよ」

 といって、再び将棋を指している。

 これからは大へんだよ、という言葉には、菊池さんの千万無量の思いがあったろうと思う。事実、菊池さんにとっては大へんな、しかも死期を早めるような苦難の時代が、この先きに控えていたのである。わたくしはその深い意味を察することなく、ただ一途に、この人のもとでやはり『文藝春秋』を編集することができるという喜びでいっぱいだった。

 大阪ビルにあった文藝春秋社も戦災に遇っていなかった。ガランとして編集室は荒れ果てたままであったが、それでも四、五日いるうちに、懐しい昔の連中の顔が次々現われた。この再会は、なんともいえずうれしかった。いずれも復員姿で、昼めし用の握りめしや(いも)をもった連中である。みんな粗末な服装をしていたが、思いはおなじ、お互いにこの戦いを生き抜いて、これから雑誌をつくることが出来るという気持である。

 戦後、最初に出した十月号は三十二頁の貧弱な雑誌だった。一枚の紙をただ折っただけのことで、表紙も普通の印刷用紙である。無我夢中でつくった。その年の年末に出た新年号の編集後記で、わたくしは次のように書いた。

「新しき年は来たった。満目粛条たる瓦礫の堆積の上に新春の斜陽は静かに照らしている。国敗れて山河ありとはいえ、無心の山河に有すべきわれらの衷懐は詠嘆に終始すべきものではない。

 実に本年をわれらは日本始まって以来の暗黒の年と見るものである。説明はいまさら何も要しない。このときに当って、日本の知識階級の大部分を占める本誌の愛読者諸氏に希念するところは大きいのである。日本の知識階級がこの生活に敗れ滅びるとき、わが『文藝春秋』も滅びるであろう。しかし古き日本が洋々たる太平洋の彼方まで窓を、心いっぱい開いた今日、われわれは決して押しひしがれるものではない。遅疑するものでもない。

 都市に、農村に、われわれ日本人の『善意』の旗を立て、日本の再建に堂々たる汗を流し合おう。

 われらは国民の最も信頼すべき層に真実の基礎を置き、われらは同時に、この階層の忠実な代弁者として精力的にやる……編集に対するあらゆる批判と忠言に常に責任をもって応ずる用意がある。ほんとうのこと、充実したこと、そして人間として恥しくないことだけを雑誌に盛り上げる—この苦艱に満ちた年を迎えるにあたり、一言ご挨拶に代える次第である。」

 言辞いささかウエットであるが、この気持はわたくしはいまでも変ってはいない。自分の雑誌がほんとうの日本の中産知識階級の味方であり、彼らとともに運命をともにするという気持も、いまでも同じである。

 戦後、怒濤のように押し寄せた民主化運動、その多くのものは階級闘争と社会革新のスローガンを掲げて、一挙に古い日本を粉砕しようとした。その大勢が正しいものであることは事実であるが、しかし現実に国民の生活や感情は急速に変わるわけのものでない。古いもの、すべてが悪いのではない。国民全体が心理的虚脱に陥っているとき、いたずらに強い言葉や威勢のよい掛け声だけでこれを一方的に強引に引きずり、すべてを支配しようとする風潮に対して、わたくしなぞ全面的には、同調することができなかった。

 きのうまで神州不滅とか、天皇帰一とか、夢のようなことをいっていた連中が、一夜にして日本を四等国と罵り、天皇をヒロヒトと呼びすてにしている。にがにがしいと思った。よろしい、みなさんがその料簡(りょうけん)なら、こちらは反動ではないが、これからは、保守派でゆきましょうと思った。いい意味のブレーキをかけることなら、終局的には日本の進歩に対してよい結果をもたらすと思った。とにかく、メチャクチャの精神的混乱であった。人心の軽薄にして恃むべからざることを知るとともに、わたくしは当時、一種の無常感に陥ったことを告白しなければならない。

 おそらく、平凡で堅実な中産知識階級の人たちも職業的アジテーターのふる旗に、素直についてゆけないものを感じたのではなかろうか。これから編集しなければならない雑誌について、わたくしは以上のような感じから自然に生まれた姿勢をとることになった。

 その年の十二月号の巻頭に、長谷川如是閑氏の「敗けに乗じる」という短いエッセーが載っている。これは嘗て小さな勝ちに乗じて、日本がズルズルと無謀な大戦争に進み、破局を迎えたように、われわれ日本人には物事に乗じて、無批判に猪突猛進する傾向がある。こんどの敗戦についても、農民は敗けに乗じて食糧を高く売りつけ、復員の応召軍人や徴用工員は、多少とも懐になにがしかの金を掴むんで、負けに乗じて、ブラブラして、ヤミの物を食い歩いている。そのほか、「きのうまで、はなも引っかけなかった、思想犯人や危険思想家を、笠なしで野良の夕立に遇った連中が藷俵(いもだわら)を奪い合って引っ(かつ)ぐように、担ぎ回っている。ジャーナリストなども敗けに乗じる連中にかぞえなければならない。少しは終戦直前までの自分たちをかえりみて、この人たちへも、世間へも遠慮するのが礼儀であり、良心的であろう」という痛烈なものだった。

 また、

「その意味で自由主義でも、民主主義でも、いまの日本人は十分慎重に扱うべきで、戦争犯罪人が戦争で手に入れたブン捕品(どりひん)を扱うように、濫用すべきではない。社会主義、共産主義に至っては、ますますそうなければならないわけで、よく自分の身柄、国柄を考えて、それを身につけなければならないのは常識だが、敗けに乗じると、そうした用意を怠け勝ちになって、兵隊のブン捕品の西洋人のダブダブの将校外套にくるまったような恰好を平気でするようになる。」

 わたくしたちの言いたいことをズパリといった感じで、原稿を校正しながら、わたくしは何度も心に肯いた。敗戦という犠牲の上に得た、貴重なもの、慎重に扱うべきあらゆるものがむき出しのまま、神輿(みこし)でも担ぐような騒ぎのなかで揉みクシャにされている。しかもわれわれの父祖が長い経験の下に積みあげた日本のよさが、「封建的」というレッテルを簡単に貼ることによって、無残にも引きちぎられ、土足にかけられているのである。

 いずれにしても『文藝春秋』がそのとき採った編集態度は、ごく少数の人々の共鳴を得たが、当時の大多数の風潮からいえば、白い眼で見られたといってよい。その一番いい例は、『文藝春秋』の編集は進歩的でないという用紙割当委員会の一方的判断で、用紙の配給が常に不当に低く割り当てられたことだ。長い間、『世界』や『中央公論』の割当量の半分か三分の一という時代がつづいたのである。ヤミの紙を買えば、数倍もするときに、公定価格で割り当てられる用紙がいかに経営上ありがたく、貴重のものであるか、だれが見てもわかることだ。こんな取扱いにあっては、経営が成り立つわけがないのである。わたくしたちは、長い間、歯を食いしばる気持でいた。

 私事にわたって恐縮だが、その頃、わたくしは子供を喪くした。母胎の栄養不良と肺炎のため早産した赤ん坊である。それでも人間零歳のこの子は、生きる努力をして、一昼夜弱々しく泣きつづけたものである。

 金もないし、半分ヤケだったので葬式もせず、死体を進駐軍のビール箱に入れた。それは缶詰めビールが二ダース入る、ボール箱だった。これをかかえて京成電車にもまれて日暮里の火葬場へ行った。戦争で何百万人も死んだのに、まだこんなに沢山、人は死ぬものかと思うくらい、火葬場は満員だった。

 焼いてみたら、骨があまり小さく、肋骨などマッチの軸くらいしかない、これらをていねいに集めて、持参したアメリカ製の白粉ビンにつめた。マックスファクターの空瓶であった。女の子だったから、こんなものを用意したのである。

 後にこれを納骨する時、わたくしは自分で墓の穴に入って、父の大きな骨ガメのすぐそばにこれを安置した。「オヤジよ、この子を頼みます」と心の中で言った。すぐそのそばには、ニューギニアで戦死した弟の遺骨が、墓穴の湿気のため、ボール紙の箱が白い布を蔽ったまま、ペシャンコにつぶれていた。汚いので、それをとると、中から小さい木の粗末な位牌が現れた。これが太平洋戦争の「英霊の遺骨」の実体であった。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/01/19

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池島 信平

イケジマ シンペイ
いけじま しんぺい 出版編集人 1909~1073 東京都本郷に生まれる。1933(昭和8)年文藝春秋社に入り雑誌記者として奮迅、戦後1946(昭和21)年佐々木茂索らと文藝春秋新社を設立、優れた取締役・編集局長として文藝春秋を大きな国民雑誌に仕上げた。

掲載作は1958(昭和33)年、中央公論社刊『雑誌記者』所収の一文で、表題とともに殊におぞましくも忘れてはならない「横浜事件」に筆を起こしているのが貴重。

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