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當世書生氣質の批評(抄)

   一

 支那人の批評は讃美を主とし、西洋人の批評は刺衝を専らとす。されば支那人の著述は具眼者の評語を得て九鼎大呂より重しと為すも、西洋人の著述は批評者の刺衝に()へずして空しく蠧魚(とぎよ)の餌食と為るもの(すくな)からず。而して今熟々(つらつ)ら考ふるに支那人の讃美主義は往々流れて諂諛(てんゆ)となるのみならず、毫も批評の実效を現はさず、其略なるものは常に艶麗の文字を竝べて著者を賞揚したるに過ぎずして、其詳なる者は人の識易からざる妙所を穿(うが)ち、人の看るに易からざる要点を露はすに止り、所謂「コンメンタリー」即ち註釈に過ぎざるなり。批評の要は切磋に在り、批評の要は琢磨に在り、西洋の批評家(しばし)ば其尖鋭なる毛穎(まうえい)を弄して少壮の著述家をして綿々絶ゆるの()なき怨恨を懐かしむるが如き甚だ酷なるに似たりと(いへど)も、()く批評家の職分を尽したるものと(いひ)()し。(おもん)みるに西洋の文学駸々(しんしん)として日々に進み、能く世の中の進歩に伴うて敢て後れざる所以(ゆゑん)のものは、批評家その職分を尽して怠らず、揚ぐ可きを揚げ(おさ)ふ可きを抑へ、毫も仮借(かしやく)する所なきが為めなり。東洋の文学逡巡退歩の色を現はし萎靡(ゐび)として振はざる所以のものは、批評家其職分を怠り、(いたづら)に諂諛の文字を臚列(ろれつ)して其責(そのせき)を塞ぐが為なり。嗚呼批評家の責任重うして大ならず()。且つ彼の文学なるものは実学と(こと)にして、世の中の進歩と共に上進すべきものにあらず。文学は情を基とし、実学は道理を基とす。道理は経験を積んで益々発達する、情は道理の為に制せられ経験の為めに(さへぎ)られ、彼其発達を遅鈍にするものなり。故に西洋に在りては、「蒲マル」、「烏アジル」再び出でず、支那にありても、韓柳欧蘇李杜の(ひつ)()た見るを得べからざるなり。「慈オンソン」嘗て「美ルトン」を疑うて(おもへ)らく、詩(すこぶ)る巧みなりと雖も、後世に生れて以て、先輩の大作に則るを得たるが故に(ホメロス)、烏(ヴァージル)と匹敵すべからずと。「麻コウレイ」(おほい)に之を(ばく)し、其の後世実験の世に生れ、而かも天賦の詩才を存するが故に「美ルトン」の技倆弥々(いよいよ)較著(くわくちよ)なりといへり。(かく)の如く文学は社会蒙昧の時に当りては隆盛を極め、其進歩に随ひて漸く衰頽に赴くの傾向あるものなれば、(すべか)らく之を維持して甚だしく衰頽せしめざるの方便なきを得ず。これ批評家の(よつ)て起る所以にして、批評の已むを得ざる所以なり。

 批評家の責任(かく)の如くそれ重く、批評の事斯の如くそれ大なり。故に批評家を以て任ずるものは其心を公明にして批評の事に従はざる可らず。然り而して批評家の批評の事に従事するに当りてや、其困難辛酸は決して尠々(せんせん)に非ず。批評家は実に著者の述作を批評して其怨恨を買ふのみならず、身躬(みづか)ら公衆の為めに批評せられて其罵詈(そのばり)悪口の目的とならざるべからず。著者は批評家の公明正大の筆を(ふる)ふて己れの著作を非難するを看て色を()して(いは)く、彼れ何人(なんぴと)ぞ敢て乃公(だいこう)(われ)の大著を非難するや、彼れ能く我が著作を非難するを得ば、必ずや我が著作に優る可き一大著述を為すを得ん、請ふ刮目(くわつもく)して其技倆を観る可きなり、彼れ()し自ら著作するの技倆なきに(みだ)りに他人の著述を非難するが如きあらば、僭越の罪決して免るゝを得べからずと。世間公衆は即ち批評家が著作を賞揚すると刺衝するとに随ひて悦を(こと)にし、若し賞揚讃美する時は曰く、此の批評家は彼の著述家と平生の交際水魚(ただ)ならず故に其賞揚讃美するも亦宜(うべ)なりと。又曰く此の批評家は彼の著述家より暗に依頼を受けたり隠に苞苴(はうしよ)を収めたり、故に其の言ふ所信ずるに足る可らずと。今又批評家他人の著作を刺衝して論難する時は曰く、彼の批評家は著述家に旧怨あり、著述者の技倆を妬む者なり、故に其批評や斯の如く不公平にして残酷なるも(むべ)ならずやと。嗚呼世の中に職業多しと雖も、批評家の如き困難にして難渋なる職業多く之れあるべからず。半峯居士及び居士が同社の諸兄はこの業の斯の如く困難にして且つ難渋なるを識つて而して自ら当らむとす、(あに)勇ならずと謂はんや、豈酔狂ならずと謂はんや。

 半峯居士は今や批評の手始めとして、彼の博学洽聞(かふぶん)風流洒落(しやらく)多才多藝を以て有名なる春の屋おぼろ先生が嘗て物せられし、當世書生氣質(たうせいしよせいかたぎ)を批判せんとす。而して居士が之を批判するに当りてや(あらかじ)め大方の諸君子とおぼろ先生とに御(ことわり)を申さざる(べか)らざることあり。大方の諸君子よ、半峯居士はおぼろ先生と莫逆刎頸(ばくげきふんけい)の交あるものに候ぞや。半峯居士はおぼろ先生と莫逆刎頸の交あれども、然れども居士はいまだ先生より書生氣質を讃美し給はれといふ依頼を受けたる事なく、又暗々裏に先生居士の家を(おとな)ふて苞苴を懐中より出し居士に給はりたる事もなし。されば半峰居士は平生おぼろ先生の交誼を(かたじけな)ふするに拘はらず、単刀直入の法を以て書生氣質を批評し、揚ぐべきは揚げ抑ふべきを抑へて、批評家の職務を完うせんと欲するなり。おぼろ先生よ、居士は敢て先生の御依頼を受けず、甚だ余計のお世話に類すれども、我文学の為めに先生の高著書生氣質を借用して妄評を試みんと欲するなり。(おもん)みるに居士は敢て批評家を以て自ら居るものにあらずして、而して先生は小説家を以て自ら任ずるの人なり。批評家を以て自ら居らざるの人、小説家を以て自ら任ずる人の著述を評す。先生の迷惑実に想ふべしと雖も、居士が既に前段に説明したるが如く、天下に批評家あらずんば文学(つひ)に滅せん。先生にして文学の滅亡を憂ふるとせんか、居士をして郭隗(くわくくわい)の故轍を()ましむるは(もと)より当然の事なりとす。(まして)や先生博識にして洽聞(かふぶん)なる、居士が自ら小説を編まざるに(みだ)りに高著を批判するを以て、僭越なりとするが如きことあらざるべし。先生も(つと)に識らるゝが如く、批評家と小説家とは(おのづか)ら其職務を(こと)にするものなり。看よ「麻コウレイ」「慈オンソン」の徒文章に巧みなりと雖も敢て詩賦(しふ)に長じたるにあらず。然かも古哲の大作を評して其当を得たり。「波ズリット」「区レイク」の輩文章尚且巧妙ならず、然かも謝クスピヤーの院本を細評して大に喝采を博したり。其他「自ェフレー」「加アライル」「伝クウェンシー」等專ら批評の事に従ひ、文壇に大名を博したるもの一々枚挙に(いとま)あらず。彼の六二連、水魚連、見連等の連中は近時演劇の見巧者(みがうしや)にして、自笑、其笑(きせう)(ふう)を慕ひ能く梨園子弟の技藝を品評す。然れどもこれらの輩自ら紅粉を粧ひ、舞台に登り、菊五然、團十()として舞踏を演ずる能はず。由是観之(これによりこれをみるに)、批評者著述家と自ら区域を(こと)にすること昭乎(せうこ)として明らかならずや。以上の議論はおぼろ先生の博識卓見なる、(つと)に認識せらるゝや(ひつ)せりと雖も、世間著述者の多き或は誤見を懐くもの無きを()せざれば、(はん)を厭はずして叙し侍りぬ。之を要するに、批評の事は頗る重大にして、而しておぼろ先生の著作亦尋常一様のものにあらず。故に居士が初陣(うひじん)に之を批評せんと欲するは所謂蝿に燈心にして、少しく持て余すことなきを保証する能はずと雖も、居士は我が文学の為め進んで堅を侵さんと欲す。大方諸君子竝におぼろ先生にして居士の僭越を(とが)むる莫くんば幸甚なり。

 

   二

 大方の諸君子とおぼろ先生とは、能く居士の前段に開陳したる言を容れ、居士をして独立不羈の批評を為すを得せしめ給ふべければ、いでや是より禿筆(とくひつ)(ふる)ふて書生氣質の批評を為すべきなり。居士思ふに近世小説の著作汗牛充棟(たゞ)ならずと雖も、我が書生氣質の如き、社会の褒貶を蒙りたるものは多く他にある可らず。是れ()た何の為めなるか。著者の筆力強健なるが為めならざるなきを得んや。熟々(つらつら)考ふるに、我が日本社会の読者は()と冷淡なり、我日本社会の小説の読者は素と盲聾なり。この冷淡なる且盲聾なる読者にして、書生氣質を褒貶して喋々措かざる所以のものは、著者の筆力強健にして能く社会の冷淡者を熱中せしめ、盲聾者の耳目を攪破したるに由らずんばあらず。然れども當世書生氣質また瑕瑾(かきん)なしといふ可らず。書生氣質は所謂大醇にして小疵なるものなり。

 世の書生氣質を評判する者異口同音に唱道して(いへ)らく文章巧なりと雖も意匠鄙野(ひや)に近く、毫も慷慨悲壮の風なしと。又曰く、書生氣質は書生の短所を写して長所を写さず、且つ藝娼妓の情態を説くに在りて、世教に害なしといふ可らずと。其他是れといひ彼れといひ、観察する所同じからず、評する所亦随て異なる所ありと雖も、要するに其結構尋常と異にして、()なるが如く(ろう)なるが如きを怪しむの言ならざるはなし。嗚呼(あゝ)世間小説を読むの人何ぞ小説を観るの眼を備へざるの甚だしきや。書生氣質に慷慨悲壮の風なきは其著者の高手(かうしゆ)なる所以なり。居士は世間の批評家が目して以て堂々たる文学士の著述たるに似ずとなすの理由を仮りて、堂々たる文学士坪内雄蔵氏の著述たる所以の証明を為さんと欲す。   (以下割愛)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/01/05

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高田 半峯

タカダ ハンポウ
たかだ はんぽう 評論家 1860・3・10~1938・12・2 江戸深川に生まれる。文学好き芝居好き歴史好き、東京帝大卒業後早大前身の東京専門学校設立に参与し講師として教鞭を執り、坪内逍遙を文学の専門家として早稲田に招き入れた。1888(明治21)年「讀賣新聞」主筆となり客員として逍遙、社員として尾崎紅葉、幸田露伴を迎え明治の文学新聞として顕著に大を成さしめた。明治二十三年国会開設と共に代議士、また大隈重信没後早稲田大学総長となり、死して校葬された。

掲載作には1886(明治19)年2月、「中央學術雑誌」に盟友逍遙の近代文学開幕記念作を拉して「作品論」の先駆的試行をあえてしたものを抄した。

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