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歌と門の盾

   一 (序)

 

 天平(てんぴやう)二年も押しつまつた年の暮、十三歳の少年大伴家持(おほとものやかもち)は弟妹と共に父大伴旅人(たびと)に伴はれて五年ぶりで九州から奈良へ帰つてきた。久々で見る平城京(ならのみやこ)の物珍らしさもさることながら、思へばやはらかい少年の胸に数々の忘れがたい印象を刻みつけた太宰府(だざいふ)の五ヶ年であつた。酒好きの父旅人がしばしば催した歌宴、そこへ幾たびも招かれた筑前守(ちくぜんのかみ)山上憶良(やまのうへのおくら)や観世音寺の満誓沙彌(まんせいさみ)ら歌人たちの風雅、年老いた母の病死、遥々(みやこ)から筑紫太宰府まで母代りに来てくれた叔母で女流歌人の坂上郎女(さかのうへのいらつめ)、遺言までした父の重患、その他夜須野(やすの)の遊猟や香椎浦・次田温泉への旅行や、すべては将来名門大伴家を負ふベき少年家持(やかもち)陶冶(とうや)であり試煉であつた。──大納言の栄職に転じて五年ぶりで帰京した父大伴旅人は、家持ら三人兄妹を從へて奈良の東北、佐保山麓の屋敷へはいつた。今から千二百余年前、西暦でいへば七三〇年の年末である。

 年あけて天平三年となり、とつて十四歳の家持は又しても唯ならぬ体験に出会ふことになつた。父旅人は長年の宿願叶つて今般大納言兼任で帰京したからには先づもつて満足すべき状態にあり、事実彼は正月早々從三位に昇進したり初春の侍宴に久しぶりで五言詩を賦したりしてまんざらでもない様子であつた。彼が家持(やかもち)書持(ふみもち)及び末娘の三人の子供と一緒に五年ぶりで住む佐保邸は、先代安麿が「佐保大納言」と呼ばれて時めいた屋敷なので、彼としてはそのいはれある邸宅に同じく大納言としておさまることはわるい心持でもなかつたらしいが此の年彼はすでに六十七歳になつてゐた。家持ら兄妹から見れば祖父にもふさはしい年齢の、そして妻にも先立たれた此の老大納言旅人は、昨年夏も丹毒やうの大患に罹り、幸ひその後経過もよく兼ねての願望通りに事が運んだものの、八世紀当時の長途の旅行は年老いた肉体にはやはり影響を与へずにはおかなかつたのであらう、佐保邸に落ちつき始めてからいかほどもなく旅人は()け方が急に目立つやうになり心身ともにめいり込んできた。

 ──妻もゐない此の空虚な家は旅行中にもまさつて心苦しいことだ。「人もなき空しき家は草まくら旅にまさりて苦しかりけり。」──先ごろまでは讃酒歌を続々()んで老来ますますかくしゃくたるを羨まれた太宰帥(だざいのそつ)(長官)とはたうてい同一人とも思はれなくなつた。山上憶良や満誓沙彌等すぐれた風流人と親しんで、京や亡妻を恋ひつつも、ともかくも筑紫の地方長官生活を相当明るく享受したかに見えた旅人だつたが、いまは佐保邸に引きこもり勝ちで家持らに淋しい思ひばかり与へる父親であつた。──都へ帰つて来たものの草香の入江にあさる蘆鶴(あしたづ)のやうにまことに辿々しく過してゐます、友達もなく独りで。と、満誓沙彌宛てに返信の歌を書いたり、当時流行した仏教観から現世の無常をしきりに歎じたり、一方、奈良還都以前の飛鳥(あすか)の生れ故郷をわけもなく恋しがつたりして、一途(いちづ)に頼りなく心細い老人になつて行つた。夏六月の終り頃にはつひに病床に臥し、──ほんのちよつとでも行つてみたいものだ、故郷飛鳥の神奈備(かんなび)川の淵は浅い瀬になつただらうか、などと詠じてゐたが、秋もひと月めの七月(旧暦)下旬、三人の子供に心残しつつ、遂に六十七歳を以てその生涯を終へた。多感な血を受けた長男家持は、十四歳にして大伴宗家(さうけ)を嗣いで一門を負ふことになったのである。

 

   二

 

 時代は八世紀の前半、藤原氏の興隆時代であつた。鎌足の孫である藤原四兄弟は南家(なんけ)北家(ほくけ)式家(しきけ)京家(きやうけ)の四家に分立してそれぞれ栄達を競ひ、藤原氏以外の者は次第に影が薄れつつあつた。わが國最初の長期的帝都である平城京も既に二十余年を経て漸く内容が充実してきたが、平和が続くにつれて武門の旧貴族たちは、ますます新興の文官貴族藤原氏から圧倒されて行つた。

 大伴氏、佐伯氏、紀氏、等の旧貴族のなかでも大伴氏は格段にすぐれた由緒をもち、即ち 神武天皇の建国以来、否、天孫降臨のときから既に()によつて奉仕し、爾来名誉ある禁衛を以て自ら任じてきた家系で、勿論当時としても最高随一の名門と云はれ、さういふ大伴氏から見れば新興藤原氏などは所詮成りあがり貴族に過ぎないのであつた。しかもその藤原氏が旭日の勢ひで盛んになり、大伴氏は官位からいつても大臣まで昇つたものは家持の曾祖父を最後として祖父も父も大納言にとどまり、殊に父旅人の大納言昇進などはまつたくの余栄に過ぎず、明らかに「大伴氏」なる名門全体の衰勢が窺はれるのであつた。将来大伴一族を統帥(とうすい)すべき家持には早くも家門挽回の大任がかけられたわけであつたが、武門の系統にも似合はず此の少年は多感な、繊細な神経の、容貌端麗な貴公子であつた。

 家持・書持及び幼ない妹の三兄妹は父の死後は九州時代と同じく叔母坂上郎女(さかのうへのいらつめ)から面倒を見てもらふことになつたが、此の叔母が当代有数の女流歌人であつたことは、情感的な家持には生涯支配的でさへある感化を与へた。既に太宰府時代にも家持は、憶良や満誓らの詩人たちが父を囲んでの歌宴に幾度となく接しておのづから和歌への興味や関心を養はれてきたのである。──八世紀の重大な教養の一つである歌道に叔母がすぐれた技倆をもつてゐたことは果して家持にとつて後々まで幸福であつたらうか。坂上郎女は屡々古歌や就中(なかんづく)自作の和歌を手本に示しては家持に歌を詠ませ、少年家持は又ませた心と言葉をもつて懸命に歌の技巧を勉強するのであつた。然しながら血液的にも環境的にも和歌に素質がある筈の家持は案外歌詠みが上手でなく、再三叔母をひどく失望させた。唯、根気のいい彼女の指導と少年家持の不屈な勉強とが、やがて二年も経つうちには彼の歌を漸く歌らしいものにしてきた。

 皮肉なことに和歌の勉強は少年家持の心に春の目ざめを促がすことにもなつた。といふのは和歌と恋とは当時は切つても切れないもので、恋のほかにも一般の愛情や感情を表現することは和歌の重大な役割の一つであり、(しか)も坂上郎女は此の方面に特に優れた女流歌人だからであつた。──「月たちてただ三日月の眉根掻き、け長く恋ひし君に逢へるかも。」家持さん、これはどう? (といふやうな教へ方をここ一ヶ所だけやや饒舌に語ることが許されるならば、)「月たちて」といふのは月が改まつてといふ意味よ、「ただ三日月の」は月が改まつてからたつた三日めの三日月で、そのみか月のやうな眉……と次の句に続いて行くのよ。きれいな眉は(から)では細い月にたとへるわね。ところでその眉の根もとを掻くのは恋人に逢へるやうにといふおまじなひよ。あとの句はもういいわね。つまり此の歌は、みかづきのやうな眉を掻いて私が長い間恋してゐた貴方にたうとう逢ふことが出来たと喜んでゐる女の心持を歌つたものなの。さああなたは男だから、男の気持で思ひを寄せる歌を詠んでごらんなさい? ──といつたやうな叔母の教へ方であつた。併し少年家持は決してさうすらすらとは詠めなかつた。

 坂上郎女には三人の娘があつた。男の子は一人もなかつたが、それが又叔母をして大伴宗家の家持に特別の愛情を抱かせたのである。将来一門の代表者たるべき少年の薫陶に叔母は熱心に力をそそぎ、平生、磯城郡竹田庄(たけだのたどころ)の自宅は娘たちにまかせて自身は佐保邸に起居し、時たま竹田庄へ帰るときは家持らを遠足につれて行くこともあつた。従つて家持は叔母の娘たちとも知りあふことになつたが、少年貴公子は次女の坂上大嬢(おほいらつめ)なる少女にいつともなしに仄かな恋ごころを覚えはじめた──遙かに三日月を望み見ると、一目逢つた乙女の美しい眉ずみのさまが偲ばれる─と十六歳の家持は詠んだ。歌道の勉強と恋とがつまり同時であつた。

 

   三

 

 天平十年(七三八年)家持は二十一歳になり、内舎人(うどねり)として初めて宮中へ出仕した。内舎人は中務省(なかつかさ)に属し殿上のことを見習ふ官で、名門の子弟だけが登庸されたものである。たまたま此の天平十年は、従来の藤原氏に対抗して橘氏が台頭した記念すべき年であつた、即ち昨天平九年に突如奈良を襲つた疱瘡は八世紀当時の防疫力幼稚な平城京を席捲し、鎌足の孫で今を時めく藤原四兄弟をも僅か五ヶ月の間に次々に悉く斃し、藤原氏はそのため殆んど潰滅の状態に陥つたので、橘諸兄(もろえ)が一躍右大臣に進出して藤原氏の残存者を圧倒する勢ひになつたのである。橘氏は此の機に乗じて藤原氏を完敗させるべく自党勢力の強化につとめ、先年唐から帰朝した吉備真備(きびのまきび)及び僧玄ぼうを顧問格に聘しなどして頻りに自陣の充実を図つたが、一方藤原氏も四兄弟の次の世代たちが結束をかためて再興の用意おこたりなかつた。

 橘氏は何分にも寡数だつたので、藤原派でない各氏に対しても極力親睦をはかり、十年冬十月中旬には橘諸兄の長男奈良麻呂が司会者となつて大招宴をひらいた。そのとき大伴氏からは内舎人家持、弟書持(ふみもち)及び遠戚で和歌に堪能な大伴池主(いけぬし)らが招待をうけた。かういふ宴会では出席者は儀例として和歌が詠めなければならなかつたが、初めて晴れやかな宴会に臨む家持にはそれは並大抵でない負担の感じであつた。既に相当な勉強を積んだものの、当時の家持には即興の和歌を巧みに詠みこなす自信などは未だ少しも無かつた。時あたかも紅葉の季節だつたので家持は紅葉にかけて宴会の楽しさを讃へる歌をあらかじめ用意してから宴会に出席した。やがて宴たけなはとなるや果して紅葉を題に和歌を所望する声が起り橘奈良麻呂自身も二首を示したが、家持も兼ねて用意の歌を出してどうやら面目だけは保つことができた。しかも、さすがは旅人大納言の血筋を引いてゐるなどとその時褒められた言葉が内舎人の家持にはやはり随分嬉しく感じられ、さういつた社交辞令を空虚な言葉に終らしめまいといふ決心がその頃から漸く強くなつてきた。

 禁裏に出仕した以上既に家持は若いながらも一人前であり、從つて早晩妻をも迎へなければならなかつた。ところが妙なことだが家持には既に子供があつた。彼と侍女との間の女児である。当時かういふことは決して珍らしいことではなく、貴族の子弟が多くの女性に接するのは極くあたりまへのことであり、家持の父旅人にしても祖父安麿にしてもいろいろな女性との関係があつた。筑紫で死んだ旅人の妻が実は家持らの生母ではなかつたことや、父と叔母坂上郎女とが異母兄妹であることなども、当時の家持はいつともなしに知つてゐた。現に坂上郎女などは三度も結婚し、三人目の夫はやはり異母兄の大伴宿奈麿(すくなまろ)であつた。内舎人家持は前述のやうに栄誉ある名門の嫡男で、しかも容貌もきれいな貴公子であり、また当時の習慣は男女間の私交を小うるさく咎めもしなかつたので、彼がすでに人の子の父であつたことは必ずしも不穏當なことでもなかつた。

 偶々(たまたま)翌天平十一年六月(七三九年)二十二歳の家持は子供まで生ませたその侍女を失つた。六月は旧暦では夏の終りゆゑ、家持は──今からは秋風が冷たく吹くだらうのに自分はどうして長い夜を独りで寝ようか、と詠じて悲しんだ。風にゆれる撫子(なでしこ)を見てはそれを植ゑた愛人を思ひ、佐保山にたなびく霞からは亡きひとの火葬の煙を想はされ、愛人への綿々たる思慕はおのづから一聯の秀歌をなした。それが又家持には一しほ悲しかつたが併しいつまでもかくあるべきでもないので、秋も半ばの八月に入つてから、思ひ立つて竹田庄に叔母坂上郎女のもとを訪ねた。

 家持が禁裏へ出仕してから叔母は竹田庄で再び娘たちと共に田園生活をしてゐたが、兼ねてから夫宿奈麿(すくなまろ)田村里(たむらのさと)に別居して通はなくなつたため女ばかりの佗しい生活であつた。叔母を訪ねる以上は歌が必要であらうと、家持は例によつて一首を用意して行つた。即詠の自信がないことは相変らずであつたが、竹田庄の田園の佗住居へ突然あらはれた家持は、殿上生活も一年余を経て貴公子ぶりも颯爽たるものがあり、大いに叔母や娘たちを瞠目させた。──ずゐぶん遠い道ですけれどもなつかしいあなたに会はうと思つて來ました、と家持は挨拶の歌を披露すると、さすが女流歌人の叔母は直ちに答歌を以て答へたが、あなたに会はうなんてずるいわ、私のことぢやないんでせう?と云つて揶揄するなど相かはらず才気煥発な叔母であつた。初恋の少女坂上大嬢(おほいらつめ)は今は娘ざかりの年ごろとなり、家持から見つめられると恥かしげに頬をそめた。家持は訪問に満足した気持で数日竹田庄に滞在して帰つたが、嘗つての初恋はあらためて本格的な恋に変つてきた。

 竹田庄行きによつて家持は愛人たる侍女を失つた傷心もすつかり慰められたかのやうであつた。九月に入ると坂上大嬢から使ひの者に包みを持たせて寄こした。家持があけてみると、稻の穂で作つた頭飾(かづら)と、少女の肌のにほひがする下着とがはいつてゐて、──ゐなか生活をする私が早稲(わせ)の穂でつくつた頭飾です、御笑覧になつて私を思ひ出して下さい、と一首が添へてあつた。何といふ可憐なことであらう、と家持は思つた。肌着のことは何とも書いてなかつたが着衣の贈与は当時は深い愛情の表現であり、彼女がみづから身につけてゐたのを秋風つめたい今日この頃に家持へ贈つてきたそのいぢらしい心根は、贈歌もなく無言であるだけそれだけ一層若い家持を感激させた。その感激のうちに彼は頭飾と肌着とに対して一首づつの答歌を詠んだ。坂上大嬢をいとほしく思ふ心はますます募つていつた。

 しかし家持には公けの生活があつた。殿上に奉仕して漸く世間を知つた家持の目に映じたものは何よりも権益をめぐる人々の醜さであつた。橘氏といひ藤原氏といひ今は自党の勢力に関する重大時なので互ひに権謀術策をめぐらしあひ、又そこへ巧みにつけ入つて自己の立身を図らうとする吉備眞備や僧玄ぼうや藤原式家(しきけ)広嗣(ひろつぐ)等の暗躍もあり、若い貴公子は自分がたうてい太刀打ち出来ないくせ者ばかり満ちみちた現実界をいやといふほどの浅ましさで見せつけられた。名門の嫡流とはいへ、若年の内舎人などはまつたく相手にされない感じであつた。世慣れない家持にとつては、かういふ政争の世界の一方には併し情愛の氾濫する女性たちの世界があつた。坂上大嬢の稲穂の純情には衷心からのいとほしさを覚えつつも、平生殿上につとめて竹田庄の田園から離れてゐる家持、しかも美貌と名門とを兼ねそなへてゐる家持は、女たちの方がだいいち(はう)つておかないのであつた。年齢といひ環境といひ生活といひ様々の條件から家持はいつともなしに政界よりも情界へ、勉学よりも恋愛へと心身を置くに至り、それが又さし当つては必然的な勢ひでもあつた。

 

   四

 

 大ぜいの女たちは走馬燈のやうに貴公子の周囲をめぐり始めた。年上の女、若い女、情がこまやかなもの粗いもの、能動的なもの受動的なもの、知名の官女、名もない少女、まつたく多種多様であつた。或ひは灼熱の情淵に身を投じ或ひは清涼な愛泉(あいせん)をもろ手にすくひ、今や貴公子は唯その一事に青春の生命を燃焼させつつ、実に数年にわたる情愛の疾風怒濤時代に入つて行くのであつた。

もつとも結婚はその発端に行はれた。天平十二年夏六月、家持(やかもち)邸の庭苑に季節はづれの藤の花が咲いたが、その藤の房に坂上大嬢(さかのうへのおほいらつめ)の笑顔をたぐへつつ二十三歳の家持は藤の花と和歌とを坂上大嬢に贈つた。始めは云ひ寄る女たちを避けつつひたすら大嬢を思ひ高円(たかまど)の山や野にのがれては恋心に悩む純情の家持であり、秋にはそのまま結婚へも直進したのであつた。しかし結婚してみると坂上大嬢は案外凡庸な女で、彼女のこれまでの贈歌も実は屡々叔母が手を入れたものであることなどが次第にわかつてきた。彼の満されない心は例の環境や生活や社会の習慣等、色々揃つた條件によつて間もなく彼を目まぐるしい恋愛沙汰の中へ投じ、やがて新妻坂上大嬢は、まだ結婚後いくばくもないのに、情慾の熱原に狂ふ家持が時たま出会ふ緑泉(オアシス)でしかなくなつた。その緑泉をも一向喜ばず家持は情熱砂漠の炎風を呼吸すべく何度でもよろめき出て行くのであつた。

 政界に於ける橘氏対藤原氏の抗争は漸く表面へあらはれてきた。橘氏の顧問格である吉備眞備(きびのまきび)と僧玄ぼうとは、入唐帰朝者が絶大に歓迎された当時の情勢と橘氏の庇護とによつてそれぞれ累進をつづけ、真備は中宮亮となり僧玄ぼうは内道場へ出入を許されるに至つて次第に橘氏は優勢となつた。藤原氏にとつてはそれは(すこぶ)る不満なことであつたが、なかでも式家の藤原広嗣(ひろつぐ)は当時太宰少弐(だざいのしょうに)として家持にも縁の深い太宰府にあり、次官をつとめる身ながら、策謀に富む性格は中央奈良の形勢を望み見て慨憤に堪へないものがあり、眞備玄ぼうに対する嫉妬もそこへ加はつて、天平十二年八月、突如彼は九州から上奏文をたてまつつて痛烈な言辞で両人を弾劾した。しかし上奏は容れられず、広嗣は憤懣やるかたなさの余り遂に二姦を除くを名として翌九月みづから兵を挙げた。叛乱者となつたのである。──討伐の官軍は大野東人を大将軍として西方九州へ進発したが、こと重大なので十月(かしこ)くも伊勢方面への行幸あり、二十三歳の家持もこれに扈従(こしょう)し奉つた。伊勢の河口(かはぐち)狭残(さざ)行宮(あんぐう)に供奉する間にやがて叛乱は鎮定されたが、御巡幸はなほ引き続いて行はれた。──

橘氏は広嗣の乱を機として一挙に藤原氏を抑圧すべく、同氏を代表する右大臣橘諸兄はひそかに遷都を上奏し、その結果十二月中旬、山背國(やましろのくに)恭仁宮(くにのみや)車駕(しゃが)()げさせられた。此の恭仁京の経営を最初として爾後数年間は橘氏対藤原氏の猛烈な暗闘が展開され、そのため恭仁京(くにのみやこ)のほかにも近江紫香楽宮(しがらきのみや)や摂津難波宮(なにはのみや)など次次に造営され、すなはち京は転々として落ちつかず、平城(なら)恭仁(くに)・紫香楽・難波の間を右往左往し、從つて大宮人たちも大和・山背(やましろ)・近江・摂津の間をけふは東あすは西とぞろぞろ流れ歩く有様であつた。

 さういふ政界の(あはただ)しさはそのまゝ情界のすがたでもあつた。情熱的な笠女郎(かさのいらつめ)(郎女)や才気溌剌たる紀女郎(きのいらつめ)や技巧に富む平群女郎(へぐりのいらつめ)などは入れかはり立ちかはり執拗に家持の身辺に迫つた。一方年若い女たち、日置長枝娘子(へきのながえのいらつめ)粟田娘子(あはたのいらつめ)河内百枝娘子(かわちももえのいらつめ)なども先を争つて家持に娘らしい微笑みを送り、さらに無名の娘子や童女たちも可憐な恥らひを見せた。那羅山(ならやま)多武(たむの)里に住む笠女郎は家持がちよつとでも通はずにゐると、──多武ずまひの私になんか知らん顔をなさつていくらお待ちしてもいらつしやいませんのね、と妙に甘えてきたり、闇の夜に鳴く鶴に家持をたとへてその姿が見えない焦れつたさを訴へてきたり、山河を隔てもしないのに恋しくて堪らないなどと哀願してきたり、あの手この手で深情(ふかなさけ)的なものを見せた。紀女郎は、家持が遠ざかると、──あたり前の女ならば私が渡らうとする痛背(あなせ)の川が渡れませうか、などと智的な女性らしく自嘲の形式で家持を怨んできたり、そのほか若い娘たちも、粟田娘子などは──思ひをはらす方法がわかりませんので私は蓋のない片椀(かたもひ)の底に()つたやうな片思ひの苦しさに沈んでをります、と切ない愛を求めてくるかと思へば、河内娘子は──あの晩の月のことは今日までも忘れずにをります、絶えずあなたをお慕ひしてゐる私ですもの、と初々(うひうひ)しい恋を寄せて來たりするのであつた。

 

   五

 

 数年にわたる女達との往来は必然随伴的に家持の作歌技術をいちぢるしく進歩させた。叔母坂上郎女に対して詠んでゐた頃は、たとひ詠みそこなつても、そこは身うち同志の気楽さがあつたが、内舎人(うどねり)として禁裏に奉仕して曲りなりにも一人前となつては名門大伴家の嫡男といふ身分にかけても下手な歌などは決して詠めなかつた。しかも恋愛の対象たる笠女郎や紀女郎たちは和歌にかけてはなかなかの腕達者で、笠女郎の激しく(ほとばし)るかと思へば綿々と訴へてくる妖しい魅力や、紀女郎の厭味まじりの晦渋なやうなそのくせ智性を匂はせた()みいつた技巧や、それらに太刀打ちするには家持も惨憺たる苦心を要し、往年のやうに叔母に添削してもらふわけにも勿論行かず、病身で臥床し勝ちの弟書持では相手にならず、結局自分であれこれ苦しみぬいて詠み出すよりほかはなかつた。

 しかし不断の苦闘と努力とは家持をして漸く歌人としての名実を兼ねさせるに至つた。又さうなるとおのづから励みも出て、歌人的名誉と恋愛獲得との両方にかけてますます精進して行くのであつた。亡き父旅人(たびと)に対する尊敬も一しほ加はつてきて、旅人が太宰府最後の年にひらいた観梅宴の和歌に追和(つひわ)してみたり、又父と親しかつた巨匠山上憶良の偉大さをあらためて認識し直したりした。当時は、かの雄渾な歌風で一世を風靡した柿本人麿もとうに故人となり、清新な詠風で人麿の塁を摩した山部赤人も先ごろ死んだので、謂はば歌壇にはこれといふ大家もなく、ただ女流歌人の坂上郎女や笠女郎などが男女を通じてのすぐれた歌人たちであつた。此の情勢では自分も勉強すれば一流の歌人になれる、さういつた希望や野心が二十代中頃の家持には、父旅人や叔母坂上郎女との血縁を思ひあはせるとともに次第に芽ばえるやうになり、また事実家持は恭仁宮・紫香樂宮・難波宮など転々とする間に驚くべき進歩を遂げたのであつた。

 嘗つて坂上大嬢から──あなたの浮名がたつたら私はあなたを惜しんで泣くよりほかはありません、私の名ならたとひいくら立つても何でもありませんが、といふ(いさ)めの歌を貰つたとき、家持は、男を思ふ女ごころの誠実さに一応感動しつつも、これは叔母が手を入れたのではあるまいかと疑ひ出したりして、長らく割りきれない気持でゐたが、歌道の造詣が漸く深くなるに従つて、忽然として自分のあやまりに気付き、今更のやうに、たとひ平凡な女でも稀には真心からゆゑの秀歌が詠めるものだと歎ずるやうになつた。創作力と鑑賞力とが並んで伸び、そのため自己批判もされてそれだけ物足りない思ひをすることもあつたが、時には我ながら上出来と思ふ歌もよめるやうになり、つまり全体として自信らしいものが生じた結果、その頃から家持は、恭仁京を讃へたり、ひとの宴会へ出席したり、挽歌などをも作つたり、しきりに歌人としての活躍をしはじめた。──女性たちに対するときは相手が自分より年下であると気が楽なせゐか比較的佳作がよめたが、笠女郎や紀女郎のやうな年上でしかも腕達者な相手になると、家持はつい圧倒され気味になつて萎縮して、とかく実力以下の歌しか出来なかつた。さういつた点からも家持は年上の女たちを苦手として大抵は年下の娘たちを愛した。

 天平十七年(七四五年)家持は二十八歳になつたが、その年五月中旬、紫香楽宮から奈良に行幸あり、平城京は実に足かけ五年ぶりで正式に帝都に還つた。此の五ケ年間には家持の家庭にもかなり変化があり、妹は藤原仲麻呂の子、久須麻呂から兄同様の美貌を望まれて嫁ぎ、一方妻坂上大嬢には長男永主(ながぬし)が出来、また、家持兄妹の蔭の母なる生母が時折佐保邸へ出入するやうになつてゐた。家持は此の年従五位下(じゆごいのげ)に叙せられたが、今や任官の待機期間にはいつて旧都奈良の佐保邸に妻子や弟らと共に生活し始めると、過去数年にわたつて近江山背摂津などを転々としながら大ぜいの女たちと次々に親しんだ情熱の嵐が漸く凪いでくるのを感じだした。橘藤原両氏の対抗に於ては橘氏が依然優勢を保ちつつも、玄ぼうの失脚や真備の模様見などのため藤原氏を完敗させる迄には至らず、五年ぶりで帝都が落ちつくと共に両氏はひと先づは休戦状態に入り、総べての人々──官吏も一般市民も久々に安住感をもつに從つて家持の青春の暴風雨もやうやく終りに近づき、ただ例の笠女郎(かさのいらつめ)紀女郎(きのいらつめ)が時折泣いたり怨んだりしてきて僅かに余燼をいぶらせる程度となつた。家持の、和歌に対する熱意はしかし青春の嵐が過ぎても衰へないばかりか却つてますます盛んになり、暫くぶりで叔母であり義母である坂上郎女(さかのうへのいらつめ)ともゆつくり話などすると、一層の刺戟と奮起を覚えるのであつた。天平十八年正月、左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)が群臣を(ひき)ゐて太上天皇の御在所へ雪払ひに参つた時の肆宴(とよのあかり)に、諸兄以下が(みことのり)に応じたままに家持も奏上した歌──「大宮の内にも()にも光るまでふらす白雪見れどあかぬかも」──は叔母から、全体の調子が明快でいい、殊に「光るまで」が生きてゐると褒められ、誰からほめられたよりも嬉しかつた。歌人としての家持の名誉慾はさらに一段と増した。

 此の天平十八年(七四六年)は大伴家持にとつては謂はば画期的な年であつた。三月、彼は宮内少輔(くないのしょう)に任ぜられ、続いて六月には早くも越中守(えつちゆうのかみ)に昇進された。二十九歳にして地方長官になつたわけである。貴公子家持もいよいよ世間なみに官界入りをすることになり、和歌のほかに、これまで潜在してゐた名門意識もよび覚まされてきたやうであつた。

 

   六

 

 天平十八年七月、新任の若い知事大伴家持は住み慣れた奈良の都を後にして北のかた越中國へ赴任の途に(のぼ)つた。さし当っては家族は伴はなかつたが、これは八世紀当時の交通機関不備のためもあつたが、妻がその頃また妊娠したためでもあつた。見送る者は妻子らを始め、嫁いだ妹とその夫藤原久須麻呂、妻の母坂上郎女、妻の妹及びその夫大伴駿河麻呂らの親戚縁者たち、また橘諸兄の長男奈良麻呂を初め多くの友人知己たち、更に遠慮しながらも若干のこれまで馴染みの女たちなどなかなか大ぜいであつた。その多数の人々にまざつて影のやうに生母の涙をたたへた顔と、かつて侍女が生んだ娘の美しく生長した姿とが、若い越中守の傷心を増した。

 はなむけの歌も数々贈られたが、旅に出るあなたが恙なくあるやうに床のあたりに神酒の壷をすゑてお祈りしてゐます、と叔母坂上郎女は詠んだ。──私もあなたを思つてをりますから、あなたも私を忘れて下さいますな、浦吹く風のやむ時がないやうに忘れて下さいますな、と依然執拗な愛着を紀女郎は仄めかした。中でも意外なのは平群女郎(へぐりのいらつめ)であつた。これまで家持から敬遠され勝ちだつたにも拘らず、同じく年増の彼女は、いつそ死んだら苦労がなくなつていいと思ひます、あなたに久しくお会ひ出来ずにゐると堪らなくなるでせう、と今さらのやうに強い未練を訴へてきた。併し、恋愛の怒濤時代を既に生長し越した家持には、彼の生長に気づかない女たちが情けない哀れなもののやうに思はれた。都を離れて今や地方長官として輝かしい官界第一歩を踏みだす彼は、歌道への一しほの修業と家名のありがたさを思ふばかりであつた。

 東北のかた那羅山を越えて水清い泉川のほとりまで弟書持が馬を並べて家持を送つてきた。──無事に行つて帰つて来るぞ、神に折りながら恙なく待つてゐてくれ、さう云つて家持は身体の弱い弟と別れた。──

 越中の国府に着任してから間もない八月七日の夜、新任の長官家持は次官以下の官吏たちや土地の名士などを官邸に招いて宴をひらいた。かの歌才に富む遠戚大伴池主(いけぬし)が当時偶々(たまたま)越中掾(えっちゅうのじょう)(次官に続くもの)として国府に勤めてゐたが、大伴宗家の家持が官界第一歩に越中へ赴任して来たことを池主は大いによろこんで、その宴席へをみなへしの花を沢山たづさへてやつてきた。──此の花が咲きみちた野辺を歩きまはつて、あなたと一緒でないのを残念に思ひながら、かなたこなたとめぐつて摘んできました、と池主は詠んだ。かれは(やや)社交的なところがあり、それが家持には(いささ)か物足りなくも感じられたが、何といつても親戚が同じ遠国にゐるといふことは家持には少なからず心強く思はれた。もつとも差しあたつてはその池主ともゆつくり話してゐるひまがなかつた。池主は八月下旬「大帳使」として奈良へ出張したからである。即ち国府から中央政府の太政官へ、人口及び調庸の報告をする役目であつた。

 奈良とちがつて二上山(ふたがみやま)の麓ではとうに秋の花が咲きみだれ、朝夕の肌ざむさはそぞろに雁の季節が近づいたことを思はせた。現今の高岡市に近い国府官邸は射水(いみづ)川に沿ひ、海からも遠くないので居ながらにして漁船などが見えた。すべてが繁華な奈良の都とは余りにかけ離れてゐて、青年の地方長官は夜半など殊に望郷の念に堪へないものがあり、──遠い田舎でもうひと月たつたが妻が結んでくれた着物はまだ解きあけもしない、などと都を恋ひ慕つた。京から時折来る便りのなかには女達からの贈歌もまざつてゐたが、笠女郎などもさすがに今は諦めたらしく、──私の心では全く思つてもゐなかつたことでした、かうして再び故郷へ帰つて来ようとは、と愚痴まじりの怨み言を帰省先から述べて来たりした。

 九月下旬、家持は突如、訃報を受け取つた。弟書持が死んだのである。兼ねて虚弱な体質ではあつたが、それにしても余りにも思ひがけないことであつた。泉川まで馬首を並べてきて清い河原で別れた時の状景がまざまざと目に浮かび、佐保邸で萩や(すすき)の間を好んでそぞろ歩いたありし日の姿が思ひ出され、使者から火葬の有様までも聞かされてはそのやはり現実のむなしい冷酷さに唯涙にむせぶばかりであつた。いはば断腸の思ひを家持は長歌短歌に詠じたが、前に愛人の侍女を失つた時と同様又しても佐保山の白雲(しらくも)に弟の火葬を偲び、──かうなると前からわかつてゐたら越中海岸の荒波打ちよせる面白い景色を見せておくのだつたのに、とかつは詠じ、かつは歎いた。

 併し十一月に入ると、さきに大帳使として上京してゐた大伴池主が越中へ帰つてきた。公的には下僚とはいへ私的には一門であり仲間である池主を迎へる喜びに家持はさつそく詩歌の宴をひらき、琴までとり出して、弟の死以来むすぼれた気鬱を払ふべくつとめた。偶々雪が盛にふりしきつたが、漁船がその雪をおかして海へ出て行くのが官邸の欄干のあたりに興味深く見えたので、家持は即興の二首を詠んだりして上機嫌のやうであつた。

 やがて又もや苦しい試煉が彼を襲つた。翌天平十九年、三十歳の家持は、北国の気候の厳しさのためか風邪がもとで重病の床に臥しすこぶる危険な状態に陥つた。妻子や老母が住む大和國奈良から遠く離れて辺境にわづらふ青年知事は、先ごろの弟の死もあり、心細さに堪へず、わづかに和歌に托して今日か明日かの思ひを()つた。かういふ時は遠戚ながら大伴池主の存在は何よりも彼の慰めになり、病床に重い筆をとつて池主と和歌や文章を贈りあつたが、旧暦では三月は春もたけなはなので家持は野の花や鶯を偲んで垂れこめた身を歎き、池主は同じ材料で、花もあなたが手を触れるまでは散りますまい、などと慰めたりした。両人の贈答歌は漢文の序詞なども添へて外見はなかなか堂々たるものではあつたが、家持の殊に長歌に至つては詠法も冗漫で少しも新鮮なところがなく、技巧といひ内容といひ多年の勉強の効果も一向あらはれてゐず、池主の方が数段上であつた。

 さいはひ病はその後快方に向ひ三月下旬には故郷の妻へも愛情の便りを送り得るほどになつたが、立夏四月には殆んど元気を恢復して、京ならば今頃鳴くべきほととぎすが居ないのを残念がつたり、二上山の賦をつくつたりする家持であつた。創意に乏しいことは依然たるものの、打ち続いた試煉は彼の人間としての振幅をぐつと大きくした。

 五月、越中守家持は嬉しいことに「正税帳使」として奈良の都へ出張することになつた。正税帳すなはち国内の定穀穎(こくえい)出挙(すゐこ)・田租等を記した帳簿──歳出入の決算帳、を(たづさ)へて太政官へ報告すべき季節が来たのである。大伴池主官邸や長官々邸その他で数度にわたつて別宴がひらかれたが、出発前家持は京の人々に越中の勝景を伝へるため官吏達とともに渋渓(しぶたに)の崎や松田江の長浜や鵜飼ひのうなび川等を巡覧した。藤の花は既に散り、青葉にまざつて卯の花が咲き、ほととぎすも今はしばしば鳴いた。

 

   七

 

 今更ながら平城京の伸展力に驚いた家持であつた。わづか一年ばかりの間に唐風の碧瓦・朱柱の家はずつと殖え、袖が広く裾が長い衣服を右前の(から)やうに着た人々も至るところに見られ、もろもろの宗教事業が進捗して例へば東大寺の盧舎那仏(るしやなぶつ)は八度の改鋳の後漸く完成に近づきつつある等、支那的佛教的な文化文明は滔々として奈良の都へ侵入し、越中の荒涼たる風景に較べれば、まことに「咲く花の匂ふがごと」き殷賑な有様であつた。しかもその燎乱たる文化の背後には依然として橘氏対藤原氏の暗闘が続けられ、橘諸兄が左大臣であるのに対抗して藤原氏は自党から右大臣を出すべく躍起に画策中であり、その間を利権あさりの人人が右往左往して、かの吉備真備(きびのまきび)などは早くも右京太夫に出世してゐた。

 大伴氏の時代はまつたく過ぎた感があつた、がそれにも拘らず家持はさすがに名門の余徳のせゐか又しても藤原氏と縁戚関係を結ぶことになつた。さきに妹が藤原仲麻呂の息子へ嫁いだが、今度は娘──嘗て侍女に生ませた娘が藤原豊成の次男から、やはり美貌ゆゑに望まれたのである。家持が当年やうやく三十歳になつたことを思へばずゐぶん早く生れた娘であつた。家持は今や藤原豊成、仲麻呂兄弟の息子達に娘と妹とを嫁がせて、將来藤原氏が再興したあかつき頗る有利な立場を約束されたかのやうになつたが、しかし彼自身は橘諸兄、同奈良麻呂父子から兼ねて好意を受け、むしろ橘氏方に心を寄せてゐたのである。家持と同じく容貌を恵まれた娘や妹がたまたま藤原氏の青年貴族たちから目をつけられたことは既に何か運命的なものを暗示してゐた。

 慌しくも満たされない数十日を過して家持は九月再び任地越中へ帰つた。国守の任期から云つても次の転任までは大分間があり、田舎勤めに憂鬱な家持は気分をまぎらすためしばしば石瀬野(いはせの)などで鷹狩りを試みるやうになつた。仏教が盛んな当時鷹狩りは殺生なものとして既に禁令となつてゐたが、越中のみならず辺境の官吏たちはどこでも半ば公然と禁制の遊猟を楽しみ、殊に家持の場合はこれを有力な歌材とするためもあつた。九月下旬には早くも鷹狩りの長歌が一首出来たが、それは彼が愛した自慢の大鷹を老鷹匠がつい逃がしたのを紳に祈つてその託宣を夢に見るといふ趣向の作品で、語句の法格はづれや父大伴旅人の神仙趣味の模倣等を除けば彼としては先づ上出来の方であつた。いつたい奈良の都では人麿・赤人亡きのちは漢詩がますます隆盛になり、和歌はとかく圧倒され勝ちだつたのに、家持は、時たま稍佳作が詠めたりするため一層歌道に精進して知らず識らずのうちに時代から取り残される有様になつて行つた。

 翌天平二十年春、家持は初めて「出挙」によつて国内の諸郡を巡覧した。窮民への官稲貸付のための視察であつた。後の能登国は当時越中の一郡だつたので、家持は能登半島の端までも視察しつつ例の歌嚢をこやした。知事としての行政が漸く板についてきた頃、大伴池主が越中から越前へ転任することになつて家持は再び淋しい境地へ置かれかけたが、左大臣橘諸兄の使者田辺某や新任の越中(じよう)久米広縄(ひろなわ)が相次いで来たり宴会や遊覧があつて遊行女婦(うかれめ)某と知りあつたりしていろいろ慰められることもあつた。当時の地方長官が大体さうだつたやうに、殊に幼時父旅人の歌宴に屡々接した家持は同じく招宴を大いに愛し、北国の田舎でかなり頻繁に公私の客を招いたが、酒を酌みつつ鷹やほととぎすを詠じなどして謂はばいい気持になつてゐるうちに、彼はますます時勢から引き離されて行くのであつた。

 翌天平二十一年(七四九年)には家持の越中生活も既に四年目になつたが「居は気を移す」のたとへは交通不便な八世紀の当時に於てはまつたく著しいものがあり、青年知事家持も少なからず気を移されたやうに先頃越前へ転じた大伴池主と相変らず歌を贈りあつたり、国分寺僧を主賓に歌宴をひらいたり、大和の叔母坂上郎女へ平凡な消息を送つたり、当時珍しかつた燈火(あぶらび)を讃へたりして、往年の宮廷的な貴公子も今は田舎役人の色がずゐぶん濃くなつてきた。しかしその一方名門大伴氏の嫡流であるといふ誇りは依然一向衰へないばかりか、年齢のため、また周囲がゐなか者に満ちた辺境のためか却つて益々強くなつた。たまたま奈良の都に於ては先ごろ完成した盧舎那仏の尊容を飾るべき黄金が、多量を要するため長いあひだ(きん)不足に悩んでゐたところ、此の年二月図らずも東北蛮地の陸奥から九百両も献応されたといふめでたいことがあつた。仏教都市の平城京では此の思ひもかけない慶事に上下を挙げて歓喜したが、畏くも優詔さへ下つて仏恩を讃へ諸官を昇叙したまふ等のことあり、そのため越中守家持も従五位上(じゆごいのじやう)に昇つた。しかも詔書のなかに大伴氏の家訓の引用があつたので、青年知事家持は二重にも三重にも感激し、今回のことを寿(ことほ)ぐとともに大伴氏一門をも謳歌する歌をつくつた。

 地方官吏に堕しかけた彼は此の時あらためて名門の血液意識がさつと迸り蘇つた感があつた。世をあげての藤橘時代にも拘らず、由緒深い大伴氏一族はまだまだ冒すべからざる厳然たる存在だ、といふ満足や悦楽は家持をして実に六百字に余る大長歌を作らしめた。彼は大仏鋳造のことから黄金産出のことまでを、そして優詔のありがたさを長歌の前半に詠じ、後半では天孫降臨以来の連綿たる名誉高い武門大伴氏及び分家佐伯氏を謳歌し、最後に、聖恩に感佩しつつ重責の覚悟のほどを示して長い一首を結んだ。有名な「海ゆかば水漬(みづ)くかばね」云々の句はその一部である。家持としては懸命の力詠であり、頗る荘重な内容を盛つたものであつた。しかし何といふことであらう、内容の荘重さにも拘らず此の六百字余りの長歌は、部分的には甚だ優れた所もありながら、全体としては修辞上にも句法上にも至らない所が多く、韻文よりもむしろ散文に近い感じの作品であつた。家持はやはり生得的な歌人ではなかつたのである、といふよりも、時代はかういふ長歌をとうに生長し越してゐたのに、家持は依然として和歌の将来性に希望を繋いでゐるのであつた。

 長歌の大歌人人麿・赤人・憶良に負けじと家持は久米広縄の出張帰任を喜ぶ歌や、旱天に雨雲を望む歌やその他いづれも長いものを次々に作つて行つた。一方越前掾大伴池主とはあひも変らず戯歌を贈り合ひなどした。此の冬、妻坂上大嬢が長男永主と幼児とを連れてはるばる越中まで家持をたづねて来た。改元があつて「天平」が「天平勝宝(てんぴやうしようはう)」となつてゐたが、妻子と一緒に暮しだしてからも家持の作歌慾は却つて盛んになり、しかも短歌に於ては此の頃からやうやく独自性があらはれて来た。天平勝宝二年の三月、──春の庭苑にくれなゐ色に咲き匂ふ桃の花が赤く映えてゐるその下に歩みてたたづむ乙女よ、と見たままの風景を、春色といひ乙女といひ実に濃艶に描き得るやうになつた。それは名詞止めの句に満ちたやや窮屈な表現ながら、彼特有の繊細な優美な歌風がはつきりとあらはれてきた。──大ぜいの乙女たちが入りまざつて汲み合ふ寺の井のほとりににほふ可憐なかたかごの花よ、も同然だつたが、必ずしもさういつた明るい色彩のものとは限らず、春の夜の(しぎ)のそぞろ悲しさや、帰る雁への愛惜や、深更に千鳥をきく寂然たる気持など、すこぶる感覚的な新鮮味が作風に加わつてきた。歌の数も加速度的に殖えた。好調の時はとかく苦手の長歌も相当よく詠みこなせたし、歌才に乏しい妻大嬢のためには叔母坂上郎女宛ての代作までもした。愛鳥ほととぎすを連詠し、又も父旅人の歌宴に追和し、さらに山吹や藤をうたひ、妻から次は妹への代作を引きうけるなど、驚くべき詠みぶりであつた。家持は此の天平勝宝二年には三十三歳になってゐたが、その頃から四五年間が彼の創作力の最も旺盛な時となった。

 

   八

 

 奈良の都では目もあやな天平文化の蔭に橘氏藤原氏の抗争はいよいよ熾烈となり、昨天平二十一年(即ち天平勝宝元年)には藤原南家の藤原豊成がつひに右大臣に昇つて左大臣橘諸兄と明瞭に対峙し、豊成の弟藤原仲麻呂も大納言に進んだが、殊に此の仲麻呂は政治的な策略にすぐれてゐたため長年不振の藤原氏も漸く橘氏をじりじりと押し返してきた。家持は藤原豊成仲麻呂兄弟とは前述のやうに縁戚関係にあり、從つて藤原氏が勢力をもり返してきた今こそは早晩栄転もあり得るはずであつた。にも拘らず北国越中の田舎で彼は依然として招宴したり遊覧したり鷹狩りをしたり、而もそれら総べてを歌材にしてもつぱら歌道にいそしんでゐた。天稟(てんぴん)は恵まれなかつたとはいへやはり本質は詩人であつて所詮現実人ではなかつた。政界などよりも情界に棲息して和歌から生命を掬みとる者であつた。

 現実界の情勢はしかしさういつた家持の生活方向にもかかはらず、案外なほど彼にとつて有利に展開してきた。天平勝宝三年七月、三十四歳の家持は少納言に任ぜられたのである。満五ケ年ぶりで久々に懐かしい奈良の都へ帰ることは長らく田舎生活に慣れた家持の胸をもさすがに雀躍させた。だがその一方には多年歌宴や遊猟で親しんだ人々との悲しい別離があり、殊に池主の転任以来馴染んだ久米広縄は偶々正税帳使として上京出張して越中にはゐなかつたので、家持は、──石瀬野(いはせの)に秋の萩の花を押しわけて馬を並べつつ初鷹狩りをさへしないで別れるとはいかにも残り惜しく思はれる、と、丈夫(ますらを)ぶりの(じやう)深い歌を広縄の留守邸へ残した。地方長官が転任のとき最後のつとめを果す慣はしによつて家持は今回は「大帳使」を命ぜられ、八月五日いよいよ越中國を去ることになつた。その前夜、「(すけ)」(次官)の官邸での別宴で家持は過去幾歳の春秋を思ひ出して感に堪へないものがあり、──越中の國に五ヶ年住み慣れて、立ち別れることが何と愛惜される今宵であらう、と詠歎し、多くの人々を感動させた。しかし此の歌の上の句は相変らず憶良(おくら)の句の模倣のやうでもあつた。五日は早暁に出発した。次官以下の官吏たちに見送られて射水郡へさしかかると郡長が門前の林の中に送別の宴席を用意してゐた。盃をすすめられて、お別れの言葉をありがたくいただいて行きませう、といふ(こころ)を家持は詠んだ。

 越中から越前へはいるとそこには懐かしい大伴池主がゐて、家持の栄転を衷心よろこんでくれた。しかも「正税帳使」として上京出張中だつた久米広縄が帰任の途中偶然越前へ来合はせたので、家持・池主・広縄ははからずも親しい同志水入らずで会宴することが出来、萩の花に思ひを寄せたりなどして大いに名残りを惜しみあつた。さて、越中を出ると、家持にはもう親しい者は奈良の都までは一人も居なかつた。京へ向ふ道すがら、帰京後のことを思つて家持は宮中の宴に侍する歌や左大臣橘諸兄にささげる歌などを例によつて予め作つていつた。──

 久々で見るあをによし奈良の都は恰かも天平文化の爛熟期であつた。都の空には七大寺の伽藍が競ひ立ち仏教のさういつた隆盛は建築・彫刻・絵画等はいふまでもなく、織物・染物・刺繍等にも驚くべき精妙巧緻な進歩を促がし、すべてが天平文化の絶頂に到達してゐた。学藝に於ては漢文学は愈々(いよいよ)さかんで、漢詩を賦すことは教養ある人々の日常事にさへなり、假名が無い当時の、漢字を並べる和歌などはすつかり唐詩文に押されきつてゐた。現二十世紀にも残る日本最古の詩集「懐風藻」も約千二百年前の此の年十一月にあらはれ、満五ケ年の地方生活をした家持は彼の唯一の頼り所とする和歌とともに今やすつかり時代に遅れた形であつた。

 翌天平勝宝四年には当時の国家的大事業の一つである唐への使節派遣のことがあり、「よつの船」と呼ばれた四艘編成の遣唐船が約二十年ぶりで春の難波津を出帆した。大伴家からは大伴胡麻呂(古麻呂)が副使の重任を帯びて使節団に加はつたが、一族が大伴古慈悲(こじひ)宅で開いた胡麻呂の送別宴に、宗家の新少納言家持は出席しなかつた。それは叔母であり義母である坂上郎女がその頃竹田庄で死んだためもあつたが、だいたい家持には今回の使節団派遣は何とも面白くないのであつた。天平文化絢爛たる時代、漢詩文全盛の時代に、いやが上にも唐文化を摂収しようとすることが倭歌(やまとうた)に精進を続けた彼には抑々(そもそも)あきたらず思はれ、しかも彼はまだ三十代の中ごろゆゑ、たとひ漢学は趣味にあはずとも時代に歩調をあはせて此の際断然倭歌固守から転向すれば前途はなほ希望も多かつたらうのに、現実逃避的な性格は転向などは到底思ひもよらず、いたづらに不満のみ覚えて時代からは益々ひき離されて行くのであつた。一般の人々がひたすら唐様(からやう)を心がける時勢に於て、歌壇などは坂上郎女の死からも促がされてますます萎微沈滞した世界となり、今さら和歌に生命を托するくらゐならばむしろ遣唐船に乗つて生死を賭する冒険的渡航をなすべきであつた。事実、乗るか反るかのさういふ冒険を敢へてみづから買つて出たものあり、例の吉備真備(きびのまきび)などは、既に五十七歳の老齢ながら再び渡唐を企ててみづから進んで今回の使節団に割り込んだくらゐなのに、さういふ、時代への順応、乃至先行を心がける人々を眼前に見ながら三十五歳の家持は、叔母の死で一層淋しさを加へた歌壇の小世界に踏みとどまり、都をあげ国をあげて汲々と摂取する唐文化やつい目のまへを滔々と流れてゐる唐文明からはわけもなく面をそむけるのであつた。唯でさへ越中五ケ年の間にすこぶる田舎役人的になつてゐたのに、依然として武門大伴家の末世の頽勢(たいせい)をむなしく悲憤しては、その上前述のやうに橘諸兄、同奈良麻呂父子の好誼と、藤原豊成・同仲麻呂兄弟との縁戚關係、との間に挾まつて身動きも苦しい立場にあり、巧みにその両者間を游泳することなどは勿論思ひもよらなかつた。

 ただ和歌に対する愛着だけは相変らずであつた。その遣唐船の年、天平勝宝四年の十一月末、橘奈良麻呂が但馬の按察使(あぜち)として赴任する送別宴がひらかれたとき、──白雪が降りしきる山を越えて行かれるであらうあなたを心もとなく命にかけて思つてゐます、と詠んだ家持であつた。彼は時代に対しては全く受動的であり、又さうするより外しかたがなかった。

 

   九

 

 いかに万事が唐趣味でも和歌が全滅したわけではさすがになかつた。心あるものは漢詩文の傍らやまと歌をも嗜んでゐたので、翌五年正月には漢学者石上宅嗣(いそのかみやかつぐ)の宴会に招かれて主人とともに家持も和歌を詠んだ。更に左大臣橘諸兄が歌道に関心の深いことも家持には甚だ心強いことであつた。奈良麻呂の但馬下りを送る右の家持の歌を見たとき橘諸兄は下の句の「(いき)の緒に思ふ」を「生の緒にする」と換へたらどうかと私見を述べたくらゐで、つまり橘左大臣はそれほど頽勢裡の和歌には厚い同情を寄せてゐた。これらのことから三十六歳の家持は未だに歌道精進を棄てず、二月下旬には春霞の夕景に鳴く鶯をはじめ、若干のすぐれた歌をつくつた。──わが庭に茂つてゐる竹の葉に吹いてくる風の音がかすかに聞える夕方の寂しさよ。──うららかに照つてゐる春の日に雲雀が舞ひ上つて行くのを、ひとりで物思ひに耽りながら聞いてゐると、何ともいへない悲しい心もちになる。これらの歌にあつては多感な繊細な彼の神経が極度に生かされてゐて、春愁も春愁に止まらず、季節はもちろんとして心境や環境なども寂然と融合表現されてゐて、まことに前人未踏の境地に到達したのであつた。併し家持の秀歌を誰よりもよろこんでくれるであらう叔母坂上郎女は既に此の世を去り、歌などより富貴が欲しい人々ばかりが世には満ちみちてゐた。

当時の家持は、少納言としての勤めを先づは大過なく果しつつ、身は都にありながら越中時代とあまり変らないやうな生活をつづけ、あたかも左京少進として帰京した親友大伴池主などを誘つて東方郊外の高円山(たかまどやま)に酒壷をさげて遊んだりした。その表面有閑な、大宮人的な家持の生活をよそに、一方政界では藤橘(とうきつ)両氏の抗争はますます深刻になり、やがて五年も暮れに近づくと、さきの遣唐使節のうちまづ吉備真備がまつ先にその渦中へ帰つて来たが、不穏な緊張を加へる政界をよそに家持は依然として或ひはほととぎすを或ひは七夕や高円山を詠じてゐた。三十七歳になつたとき家持は兵部少輔(へうぶのしよう)に転任されたが、これは官位ももとの儘だし一向栄転でもなかつたので、名利に恬淡たる筈の家持も年齢や家門を思へばやはり釈然としないものがあつたのであらうか、同時に藤橘対立をめぐる暗流が漸く身近に迫つた不安を覚えたためでもあらうか、此の頃から和歌の数が漸く少なくなり、冬十一月山陰巡察使を命ぜられた時なども出張しながら歌嚢を肥やさうともしなくなつた。

 平城京全体が何か穏やかでない時、隣邦「大唐」の都長安に於ても重大な政変が逼迫しつつあり、それは吉備真備や次いで帰朝した大伴胡麻呂らによつてやうやく判然としてきた。支那で古今を通じての英帝と称へられた玄宗皇帝も年老いては楊貴妃・楊国忠らの薬籠中のもうろく老爺になり、長く栄華を誇つたさしもの大唐國も今や崩壊は目前のことだといふのであつた。此の頃わが国に於ては恰も防人(さきもり)交代の季節が来たが、防人とは筑紫沿海の守備兵をいひ、三年目毎にかはるもので天平勝宝七年は丁度その交代の年であつた。防人たちは遠江以東の十ヶ国から徴集され、一国ごとに「部領使(ことりづかひ)」に引率されて難波(なには)兵部(へうぶ)省の官吏に受け継がれたのち海路筑紫へ向ふのである。当年三十八歳の兵部少輔(へうぶのしよう)家持は、職掌上二月に入つてこれら守備兵たちの大集団を迎へることになつたが、東国生れの質朴な青壮年の兵士たちが陸続勇んで出征するのを目撃しては、性来の多感な胸がわなないて、防人たちの前途を衷心祝福すると共に、彼らを何らかの方法で記念すべきものもがなといふ気持が、彼自身武門の血筋であることからも甚だ強烈なものとなり、一日忽然として和歌のことに想到した。ただちに家持は「部領使」たちに依嘱して防人たちから和歌を寄進させたのであつたが、多種な職業の色々な(よぼろ)(壮丁)たち、上丁・帳丁・助丁等の出征兵は、東国訛りの多い、いかにも稚拙で無器用ながら感情をあらはに出した数多くの歌を詠み出でた。勅命の畏こさ、壮途につく雄心、故郷の人々に見せたい船出、父母や妻子へのおもひ、同じやうにそれらを表現する端的で率直な内容は技巧の拙劣さや方言の耳触りを超えて、むきな真実をうたつてゐた。

 難波の津に浮ぶ大船に櫓を沢山つけて朝凪ぎに水夫(かこ)を呼び集め夕方の満潮時に櫓を一斉にたゆませて漕ぎ出でて行く壮重な光景は、その船出の防人らを見送る家持を無性に感激させ、帰京以來一度も作らなかつた長歌を今や防人たちのために彼は詠ずるのであつた。しかし、遺憾ながら作品そのものは又もや故人憶良の模倣のやうになり而も散文的に堕し、佳作でさへもなかつた。時代は冗漫な長歌を完全に背後に残してゐた。

 藤橘対立の深刻化につれて橘氏は少数の自党を強化するため大伴氏らに俄然積極的に働きかけ、兵部卿に進んだ橘奈良麻呂が自党の一切に采配をふるつた。一方藤原氏にあつては策士藤原仲麻呂が兄豊成を凌いで藤原派の軍士格になつたが老獪な吉備真備は時未だしと見たか出でて太宰大弐となつて筑紫に栄転し、やがて唐の安禄山の乱が伝はつてきた折柄もつぱら海防のことに従事してゐた。

 内外多端な天平勝宝八年(七五六年)四月、左大臣橘諸兄は藤原仲麻呂の讒言によつて七十三歳を以て遂に隠退を余儀なくされ、藤橘抗争は今や火を吹き始めたが、五月に至り反藤原派の大伴氏にとつて先づ一事件が起つた。出雲守大伴古慈悲(こじひ)がやはり讒言によつて失脚し禁固されたのである。大伴古慈悲は先年大伴胡麻呂が副使として唐へ行つたとき自邸で大伴一族の別宴を司会したこともあり、大伴氏の中でも謂はば顔がひろい存在であつたが、此の古慈悲の失脚は家持に相当な衝撃を与へた。ただでさへ大伴氏は藤橘の前には落魄した不遇な状態をつづけ辛うじて名門の余栄を保つてゐたに過ぎないのに、その一族から囹圄(れいご)に繋がる者を出したに至つては、一門の代表者を自任する宗家嫡男の家持は痛憤せざるを得ないのであつた。しかも家持は此のとき偶々病床にあり、神経が昂ぶるのを抑へつつ憤然として筆をとつて「(うから)(さと)す歌」をつくつた。今度も神代の遠祖から歌ひ起して子々孫々が連綿と奉仕してきた光栄ある家柄なることを強調し、──大伴氏を名に負つてゐる人々よ、(いやしく)も祖先の名を絶やすやうなことを断じてしてはならぬぞ、と長歌を結び、わが大伴氏の一族たるものは古来の名門の光輝をますます高めるやうに奮闘せよ、と短歌を添へた。

 決然として一族を鞭撻した勇ましい家持ではあつたが、併しその反面にはさすがに不惑に近い年齢や、時勢や、また不健康などに影響されたか、此のころから彼は亡き父旅人の中年以後と等しく仏教的な一種の無常観を漸くあらはし始め、和歌もさういつた色彩を帯び、歌数も一層少なくなつた。

 翌天平勝宝九年は即ち「天平宝字(てんぴやうはうじ)」元年であつたが、前年橘諸兄を排斥した藤原仲麻呂は五月遂に「紫微内相」に昇つて大臣に准じ、内外兵馬の権を掌握して天下に号令し威勢兄豊成を完全に圧倒した。橘諸兄は退任後晩年の不遇に気落ちがしたのか間もなく死んだので、息子橘奈良麻呂は悲憤おくあたはず、今はもう猶予すべきにあらずと仲麻呂打倒の陰謀を着々実行にうつしていつた。そして橘方の貴族の最も有力なものはほかならぬ大伴氏の一門だつたので、橘奈良麻呂は大伴氏の目ぼしい人々を画策へ引き入れようと懸命に奔走した。

 六月中旬、家持は兵部大輔に昇進した。ちやうど四十歳であつた。ところが此の同じ六月のあひだに実に三度にわたつて、奈良麻呂を中心とする藤原仲麻呂打倒の密議が行はれ、大伴氏からは、胡麻呂・池主・兄人(えびと)・古慈悲・駿河麻呂等の人々が参加した。ひとり宗家の家持だけは参加しなかつた。元来ならば橘諸兄・奈良麻呂父子二代にわたつて好誼を受けた家持は誰よりもまつ先に馳せ参ずべきであつたらうし、また一門の歩調をあはせる上から見ても大伴宗家の家持の不参は如何なものであつた。しかし再三触れた如く彼は相手方の藤原氏とも縁戚であり、妹は当の仲麻呂の長男に又娘は豊成の次男に嫁いでゐるのだ。藤橘抗争が今や全大伴氏をも捲き込んで爆発しようとする時、宗家の家持はひとりそのいづれにも味方し得ず、しかもその何れが勝利を得ても都合が悪く、そのうへ下手に中立を表明すれば却つて両者から痛くもない腹を探られるといふ恐れも多分にあり、さればとて中へはいつて事をまるくおさめることなどは兵部大輔従五位上の年も四十歳の身分では到底出来ず、名門大伴氏の「宗家」もあはれ名ばかりで少しの貫禄もなく、家持は今やまつたく進退きはまつて、焦慮・憂鬱・懊悩の中に、親しい縁者たちの一方がいづれは血みどろの犠牲になる爆薬点火を、目をおほひつつ阻止もし兼ねてゐるのであつた。

 

   十

 

 奈良麻呂邸、図書蔵の庭、太政官の庭と六月中三たび慎重に協議された打倒仲麻呂の陰謀は、七月、突如足もとから崩壊した。上旬早々密告者があらはれたのである。藤原仲麻呂は激怒の中に先手を打ち、反対党の人々を忽ち一網打尽に付した上、それぞれに厳刑を下すのであつた。大伴氏から参加した大伴胡麻呂、池主、兄人、古慈悲、駿河麻呂等はことごとく勘問拷問のうへ死刑流刑に処せられたが、就中大伴胡麻呂が()つては遣唐副使まで勤めた身で今も陸奥将軍の栄職にありながら杖下に憤死したのは悲惨の限りであつた。

 いはゆる奈良麻呂事件はかうして橘派の惨敗裡に終つたが、此の事件のため大伴氏は家持を除いて一門の有力者が根こそぎ殺され或ひは貶せられ、神代以来連綿と続いた光栄の一門も将に潰滅せんとし、家持多年の家名挽回の努力もつひに空しく、先ごろの「(うから)(さと)す歌」の叫びも所詮は溺れる者のあだな(わめ)きに等しくなつた。──事件ののち、十一月中旬内裏で肆宴がひらかれたとき家持も侍宴したが、仲麻呂がわが世を謳歌するのをよそに、彼は黙然としてゐるばかりであつた。

 和歌をいかに巧みに詠んでも畢竟世の中は渡れなかつた。肺腑から詠み出したつもりの「族に喩す」長歌も現実の前には何の威力も効果もなく、その和歌の動機となつた大伴古慈悲は又もや連座して今度は遠く土佐へまで流された。時代は和歌などの時代ではなく、まして長歌をながながと詠み出したりするのは現実離れも甚だしかつた。今や家持は漸くさういふことをもさすがに感じてきて、唯でさへ作歌力が衰へてゐた彼は爾後はますます創作意欲を失つて行き、時たま詠むには詠んでも我ながら往年の旺盛なころのはかない余燼としか思へなくなつた。尤も当時の世ではまだ和歌は公けの席では必要なことがあり、さういつた場合は家持もともかく義理だけは果した。

 翌天平宝字二年(七五七年)正月にも肆宴や白馬節会などのために家持は一首づつ前以て詠んでおいたが、それも奏上せずに終つた。もうめつきり創意がおとろへて、即席に秀歌を詠進して面目をほどこしたいなどといふ気力はすつかり尽きてゐた。よその宴会にはつきあひ上出席して義理の歌も詠んだが、みづから人々を集めて歌宴をひらく心などは毛頭なく、とつて四十一歳の家持は、まだこれからの年齢なのに一途にめいり込んで行つた。父旅人は晩年大納言になつたが、家持は、もし藤原仲麻呂が此のまま長く権力を保持すれば或ひは出世も約束されやうものの、仲麻呂は威名あがるとともに早くも増長して兄豊成をさへ排斥するに至つたので、家持の官界立身も甚だ覚束(おぼつか)ないものであつた。六月中旬、昨年の兵部大輔昇進から丁度満一年目に家持は「因幡守」に遷任されたが、名門の身で四十を過ぎて再び地方長官になることなどは一向ありがたいことでもなかつた。

 嘗つての越中への栄転と違つて、いやいや赴任した因幡に於ては、知友もなく、家持自身もすつかり消耗してゐて、土地の人々も知事たる彼も共に面白からず不満であつた。かつては若い風流知事の名をほしいままにした家持も、今は平凡な地方長官に堕し、しかも知事としては彼は何ら格別の手腕ももつてはゐなかつた。越中時代にはあれほど豊かだつた感受性もことごとく消滅し、佳景奇勝にも心を動かされなくなり、鷹狩りをするにもまづ億劫さが先に立つた。だがさういふ総べてにかかはらず、家持は、みづからは意識することなしに、或る絶大な業績をその頃すでに殆んど成し遂げてゐた。何であらう。

 

   十一

 

 都では家持の離京後まもなく藤原仲麻呂は「大保」に昇進して姓名も恵美押勝(ゑみのおしかつ)と改まり盛名いよいよ高まつたが、(あま)さかる因幡の国庁では知事家持は一向和歌も詠まず、官邸に引きこもり勝ちで屡々書見に耽つてゐた。それはやはり歌集であつたが、家持は、これほど創作力が無くなつても和歌への執着はなほも断ち難かつたのであらうか。さうでもあり、さうでもなかつた。和歌に托した一切合切(いつさいがつさい)の夢が消滅した家持にとつては、和歌は今やただ消極的に過去及び過去の人々を偲ぶ手段でしかなかつたが、しかも何といつても彼は和歌の世界に生れ且つ育ち、恋も結婚も、悲しみも楽しみも和歌を通じ、世間とも人々とも和歌をもつて接触し、生活の悉くが、全部が、つまりは和歌でありやまと歌であつた。四十年間を和歌で生きとほしながら、今や和歌を棄て和歌からも棄てられたものの、(しか)も揺籃、否それ以前からさへ縁あつた和歌は彼の血と流れ肉と纏はり、いはば(がう)的でさへある内在的な宿命的なものであつた。──

 かの天平勝宝三年、漢詩集「懐風藻」が出て古事記・日本書紀・風土記等と並んでもてはやされたとき、当時三十四歳で越中から帰京したばかりの家持は、これに対抗すべき和歌の集成を思ひたつたのであつた。橘諸兄に此の企てを話したところ、和歌の趣味ゆたかな此の老左大臣は欣んで彼に支援を約してくれたが、しかも好都合なことには、当時死んだ叔母坂上郎女が多数の覚え書きを遺し、そのほか大歌人山上憶良の編輯になる「類聚歌林」などもあり、家持はこれらの歌稿を整理しつつ将来の作品を書きとめておきさへすれば自然に大歌集が出来あがる筈であつた。前から自作他作を日記代りに集録してもゐたので、爾後は一しほ注意して(いやし)くも秀歌ならば一切洩らすまいとしたが、頽勢の歌壇には秀歌もさう多くは作られず、私情も加はつて家持はやはり自作の歌を最も多く書きとどめ、かの高円山に酒を酌んだ大宮人的な風流も一つは歌帳を満たすためでもあつた。

 憶良の「類聚歌林」が片々たる小冊子だつたため世に埋もれたのを見るにつけても、家持は今度の歌集は内容体裁ともに堂々たるものにしなければならないと覚悟したのだつたが、これが完成されれば彼個人の名誉なるのみならず武門大伴氏が新時代にあらためて認識される一助ともなり、しかも左大臣橘諸兄の口吻では最初の勅撰和歌集にもなり得る可能性が濃厚だつたので、絶大な希望をこれにかけて歌数も一萬首といふ多数をひそかに念願したのであつた。──ところが時勢は和歌の時代ではなくなり、政界には波瀾多く、人々は動揺をつづけ、やがて橘諸兄も世を去り、家持自身さへ和歌から離れ、しかも集まつた長歌短歌は未だ半数の五千首にも満たなかつた。

 因幡守として家持が官邸で黙然(もくねん)とめくる歌稿は、往年彼が「相聞(さうもん)」「挽歌」「譬喩歌」等に一旦分類して材料が厖大なままに整頓し兼ねてゐたそのままの雑然たる歌集であつた。老左大臣橘諸兄が微笑みながら、さやう一萬首も集まつたら「萬葉集」とでもするか、と云つた言葉も今は夢ともまことともつかなかった。嘗ては凄まじい勢ひで長歌短歌が満されていつた歌帳も、此の数年来はたえて一冊も増さず、余白のみが虚しく残つたまま紙辺が淡褐色に染められてきた。ああ萬葉集か、萬葉集か、──呟きながら因幡守家持はうつろな心で過ぎし日の歌集をはらはらとめくつた。…………

 天平宝字三年の元旦、四十二歳になつた家持は、因幡國庁で郡司等を招いて新年の宴を張つた。新春早々ふりつもつた雪景色は久々に家持の感興をよびさまし、元旦の雪が豊年の吉兆であるといふ裡諺をも含ませつつ、「(あらた)しき年のはじめの初春の、けふ降る雪のいや()好事(よごと)」と詠んだ。此の雪のやうに今年はいい事がいやが上にも重なつてくれ、といふのである。これが家持の残した最後の歌になつた。

 といつてもそれから間もなく彼が死んだわけでは決してない。肉体的な生命だけは彼はその後もなほ廿七年の長きにわたつて保ち続け、官も中納言までは進んだのである。だが因幡守以後の家持は内容の変つた人物であり、歌人たることをやめた歌人は畢竟無意味に等しい存在であつた。天稟なくして「歌人」となり「歌人」を保つたのち又歌人たるをやめざるを得なくなつた家持の偉さよ哀れさよ、稀代の名門の宗家も深い和歌の造詣も、すべて時代を離れたものは、いかに強靱にすがり(こら)へても結局は取り残されて行くより外ないのであつた。さあれ、千二百年前に家持が未完成のままに遺した萬葉集は幸運にも現二十世紀まで伝はつて燦然と光つてゐるのである。

 

   あとがき

 

 ひと月ほど前には自分が書いたものが本にならうなどとは少しも思つてゐなかつた。たまたま「歌と門の(たて)」が芥川賞に関係したため、この本が出る運びになつたのである。その意味でも芥川賞には厚く感謝してゐる。

 しかし「歌と門の盾」は作者としては「遣唐船(けんたうせん)」や「長岡京」よりもはるかに低く評価すべきものと思ふ。短篇「獄門片影(へんえい)」にさへ及ばないかもしれない。芥川賞を辞退したのは何よりもそのためである。

 過去数年のあひだ、ほとんど歴史物ばかりを書いた。といつてもその全部を集めてやうやくこの本の頁数になつた程度である。自分も「時代物」をやつてみよう、といふつもりで書いた最初の歴史物から、今に至るまでには、実践からきた理論ともいふべきものが徐々に頭の中に出来あがつてきた。その理論に従へば今の私にとつての当為(たうゐ)の歴史物は、材料を過去の歴史にとりつつも現在或ひは未来にまで及ぶ一般通用性をもつた而も歴史的真実よりも詩的真実を追究する作品であるべきやうに思ふ。もちろんこれは甚だ困難な仕事ではあらうが、さういふ方向への努力は薦めらるべきだと思ふ。

 史実はもとより大切ではあらうが、しかし絶対的なものではない。古文書(こもんじよ)や史蹟や、有職故実(ゆうそくこじつ)的なものや風俗史的なものはすべて小道具であり、第二義的なものであらう。小道具に重きを置きすぎると歴史小説は骨董や絵巻物の趣味、回顧や考證や詮索の趣味に堕してしまひ、すなはち生命を失ふのだと私は思ふ。小道具は文学の本質とは何らの関係もない筈のものである。

 この本の出版・印刷・装幀・校正その他については三笠書房の方々をお煩はせしたことが実に多大である。ここにつつしんで感謝の微意を表したい。

 

高木 卓

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/01/29

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高木 卓

タカギ タカシ
たかぎ たかし 小説家 1907・1・18~1974・12・28

ここに掲載の小説は、1940(昭和15)年上半期芥川賞を受賞したが著者は辞退して遂に受けなかった。同年、同題単行本(三笠書房刊)中の一作として収められている。昭和10年の賞創設以来、受賞謝絶の唯一例であり、巻末に掲げた「あとがき」に内意の一端が窺われる。

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