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亡び行く江戸趣味

 江戸趣味や向島沿革について話せとの御申込であるが、元来が不羈(ふき)放肆(ほうし)な、しかも皆さんにお聞かせしようと日常研究し用意しているものでないから、どんな話に終始するか予めお約束は出来ない。

 人はよく私を江戸趣味の人間であるようにいっているが、決して単なる江戸趣味の小天地に跼蹐(きょくせき)しているものではない。私は日常応接する森羅万象に親しみを感じ、これを愛玩しては、ただこの中にプレイしているのだと思っている。洋の東西、古今を問わず、卑しくも私の趣味性を唆るものあらば座右に備えて悠々自適し、興来って新古の壱巻をも繙けば、河鹿笛(かじかぶえ)もならし、朝鮮太鼓も打つ、時にはウクレルを奏しては土人の尻振りダンスを想って原始なヂャバ土人の生活に楽しみ、時にはオクライナを吹いてはスペインの南国情緒に陶酔もする、またクララ・キンベル・ヤングやロンチャニーも好愛し、五月信子や筑波雪子の写真も座臥に用意して喜べる。こういう風に私は事々物々総てに親愛を見出すのである。

    オモチヤの十徳

一、トーイランドは自由平等の楽地也。

一、各自互に平和なり。

一、縮小して世界を観ることを得。

一、各地の風俗を知るの便あり。

一、皆其の知恵者より成れり。

一、沈黙にして雄弁なり。

一、朋友と面座上に接す。

一、其の物より求めらるゝの煩なし。

一、依之(これによりて)我を教育す。

一、年を忘れしむ。

  皆おもちや子供のもてるものゝみを

       それと思へる人もあるらむ

 これが、私が応接する総てを愛玩出来る心で、また私の哲学である。従って玩具を損失したからとて、少しも惜いとは思わない。私は這般(しゃはん)の大震災で世界の各地から蒐集した再び得がたい三千有余の珍らしい玩具や、江戸の貴重な資料を全部焼失したが、別して惜しいとは思わない。虚心坦懐、去るものを追わず、来るものは拒まずという、未練も執着もない無碍な境地が私の心である。それ故私の趣味は常に変遷転々として極まるを知らず、ただ世界に遊ぶという気持で、江戸のみに限られていない。私の若い時代は江戸趣味どころか、かえって福沢諭吉先生の開明的な思想に鞭撻されて欧化に憧れ、非常な勢いで西洋を模倣し、家の柱などはドリックに削り、ベッドに寝る、バタを食べ、頭髪までも赤く(ちぢ)らしたいと願ったほどの心酔ぶりだった。そうはいえ私は父から受け継いだのか、多く見、多く聞き、多く楽しむという性格に恵まれて、江戸の事も比較的多く見聞きし得たのである。それもただ自らプレイする気持だけで、後世に語り伝えようと思うて研究した訳ではないが、お望みとあらばとにかく漫然であるが、見聞の一端を思い出づるままにとりとめもなくお話して見よう。

 古代からダークとライトとは、文明と非常に密接な関係を持つもので、文明はあかりを伴うものである。元禄時代の如きは非常に(あかる)い気持があったがやはり江戸時代は暗かった。

 花火について見るも、今日に(くら)ぶればとても幼稚なもので、今見るような華やかなものはなかった。何んの変哲も光彩もないただの火の二、三丈も飛び上るものが、花火として大騒ぎをされたのである。一体花火は暗い所によく映ゆるものであるから、今日は化学が進歩して色々のものが工夫されているが、同時に囲りが明るくされているので、かえってよく環境と照映しない(うら)みがある。

 昔から花火屋のある処は暗いものの例となっている位で、店の真中に一本の燈心を灯し、これを(めぐ)って飾られている火薬に、朱書された花火という字が茫然と浮出している情景は、子供心に忘れられない記憶の一つで、暗いものの標語に花火屋の行燈というが、全くその通りである。当時は花火の種類も僅かで、大山桜とか鼠というような、ほんのシューシューと音をたてて、地上にただ落ちるだけ位のつまらない程度のもので、それでもまたミケンジャク〔眉間尺、花火の一種〕や烏万燈等と共に賞美され、私たちの子供の時分には、日本橋横山町二丁目の鍵屋という花火屋へせっせと買いに通ったものである。

 芝居について見るも、今日の如く照明の発達した明るい中で演ずるのではなく、江戸時代は全くの暗闇で芝居しているような有様であったので、昔は(つら)あかりといって長い二間もある柄のついたものを、役者の顔前に差出して芝居を見せたもので、なかなか趣きがあった。人形芝居にしても、今日は明るいためにかえって人形遣いの方が邪魔になってよほど趣きを打壊すが、昔は暗い上に八つ口だけの赤い、真黒な「くろも」というものを着附けていたので目障りではなかった。あるいは木魚や鐘を使ったり、またバタバタ音を立てるような種々の形容楽器に苦心して、劇になくてはならない気分を相応に添えたものである。芝居の時間も長くはねは十二時過ぎから一時過ぎに及び、朝も暗い(うち)から(おし)かけて行くという熱心さで、よく絵に見かける半身を前に乗り出すようにして行く様があるが、どんなに一生懸命であったかを実証している。

 昔はまた役者の(かんざし)とか、紋印がしてある扇子や櫛などを身に飾って狂喜したものだ。

で役者の方でも、狂言に因んだ物を娘たちに(わか)って人気を集めたもので、これを浅草の金華堂とかいうので造っていた。当時の五代目菊五郎の人気などは実に素晴らしいもので、一丁目の中村座を越えてわざわざ市村座へ通う人も少くなかった。

 前述もしたように、とにかく江戸時代は暗かった。だが文明は光を伴うものである。我国には古くから八間(はちけん)という(あかり)があった。これは寺院などに多くあるもので、実際は八間はなかったが、かなり大きいのでこの名がある。また当時よく常用されたものに蠟台(ろうだい)がある。これは蠟燭を灯すに用い多く会津で出来た、いわゆる絵ローソクを使ったもので、今日でも東本願寺など浄土宗派のお寺ではこれを用いている。中には筍形(たけのこがた)をしたのもあった。また行燈に入れるものに「ひょうそく」というものを用いた。それから今でも奥州方面の山間へ行くとある「でっち」というものが使われた。それは松脂(まつやに)の蠟で練り固めたもので、これに類似した田行燈というものを百姓家では用いた。これは今でも一の関近へ行くと遺っている。

 支那から伝来して来た竹紙(ちくし)という、紙を撚合(よりあわ)せて作った火縄のようなものがあったが、これに点火されておっても、一見消えた如くで、一吹きすると火を現わすのでなかなか経済的で、煙草の火附(ひつけ)に非常に便利がられた。また明治の初年には龕燈(がんどう)提灯という、如何に上下左右するも中の火は常に安定の状態にあるように、(たくみ)に造られたものがあったが、現に熊本県下にはまだ残存している。また当時の質屋などでは必らず金網のボンボリを用いた。これはよそからの色々な大切なものを保管しているので、万一を(おもんぱ)かって特に金網で警戒したのである。

 明治時代のさる小説家が生半可で、彼の小説中に質屋の倉庫に提灯を持って入ったと書いて識者の笑いを招いた事もある。越えて明治十年頃と思うが、始めて洋燈(ランプ)が移入された当時の洋燈は、パリーだとか倫敦(ロンドン)(あたり)で出来た舶来品で、割合に(あかる)いものであったが、困ることには「ほや」などが壊れても、部分的な破損を補う事が不可能で、全部新規に買入れねばならない不便があった。石油なども口を封蠟(ふうろう)で缶してある大きな罎入(かんいり)を一缶ずつ(もと)めねばならなかった。

 そんな具合でランプを使用する家とては、ほんの油町に一軒、人形町に一軒、日本橋に一軒という稀なものであったが、それが瓦斯(ガス)燈に変り、電燈に移って今日では五十燭光でもまだ暗いというような時代になって、ランプさえもよほどの山間僻地でも全く見られない、時世の飛躍的な推移は驚愕の外はない。瓦斯の入来したのは明治十三、四年の頃で、当時吉原の金瓶大黒という女郎屋の主人が、東京のものを一手に引受けていた時があった。昔のものは花瓦斯といって焔の上に何も(おお)わず、マントルをかけたのは後年である。

 江戸から東京への移り変りは全く躍進的で、総てが全く隔世の転換をしている。この向島も全く昔の俤は失われて、西洋人が讃美し憧憬する広重の錦絵に見る、隅田の美しい流れも、現実には煤煙に汚れたり、自動車の煽る黄塵に(まみ)れ、殊に震災の蹂躙に全く荒れ果て、隅田の情趣になくてはならない屋形船も乗る人の気分も変り、型も改まって全く昔を偲ぶよすがもない。この屋形船は大名遊びや町人の札差しが招宴に利用したもので、大抵は屋根がなく、一人や二人で乗るのでなくて、中に芸者の二人も混ぜて、近くは牛島、遠くは水神の森に遊興したものである。

 向島は桜というよりもむしろ雪とか月とかで優れて面白く、三囲(みめぐり)雁本(がんぎ)に船を繋いで、秋の紅葉を探勝することは特によろこばれていた。季節々々には船が輻輳するので、遠い向う岸の松山に待っていて、こっちから竹屋!と大声でよぶと、おうと答えて、お茶などを用意してギッシギッシ漕いで来る情景は、今も髣髴(ほうふつ)(おも)い出される。この竹屋の渡しで向島から向う岸に渡ろうとする人の多くは、芝居や吉原に打興じようとする者、向島へ渡るものは枯草の情趣を昧うとか、草木を愛して見ようとか、遠乗りに行楽しようとか、いずれもただ物見遊山するもののみであった。

 向島ではこれらの風流人を迎えて業平(なりひら)しじみとか、紫鯉とか、くわいとか、芋とか土地の名産を紹介して、いわゆる田舎料理麦飯を以って遇し、あるいは主として川魚を御馳走したのである。またこの地は禁猟の域で自然と鳥が繁殖し、後年(おきて)のゆるむに従って焼き鳥もまた名物の一つになったのである。如上捕捉する事も出来ない、御注文から脱線したとりとめもないものに終ったが、予めお断りして置いた通り常にプレイする以外に研究の用意も、野心もない私に、組織的なお話の出来ようはずがないから、この度はこれで(せめ)をふさぐ事にする。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2008/11/08

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淡島 寒月

アワシマ カンゲツ
あわしま かんげつ 江戸趣味研究家 1859~1926 幕末の「風流人」で画家の淡島椿岳の子、本名・宝受郎。裕福な商家の財力をバックに、「梵雲庵(ぼんうんあん)寒月」と号し、明治・大正期の「趣味人」として、知られた。実体験を基に、鷹揚な口調ながら、生き生きとした描写で、懐古的に語られた雑話などを集めた「梵雲庵雑話」は、1933(昭和8)年書物展望社より出版された。

掲載作「亡び行く江戸趣味」は1999年8月岩波書店刊「岩波文庫」版より収録した。初出は、1925(大正14)年8月24、25、26日「日本新聞」に掲載。表記には、一部、不適切な語句があるが、原文の歴史性を考慮し、そのままとした。

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