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半島の歴史(抄)

目次

  半島の歴史

半島にひとつの入江がある。山につゝじの咲くころ。若葉

のむげにかほり。水苔のあたりぜんまいがひらき。こがく

れに入江がのぞく。白い帆舟の水脈をひいて。

入江に測量のはたがひらめいた――。

トロッコが終日山からくだり。埋立地に土工のむれがひし

めきひしめいた。

海の中に何万町歩の水田をゆめみる地主。

日傭の金に海をおしげもなく埋める村人。

海を奪はれ生活にあえぐ漁師。

村はまんぢにあけくれた。

よごと、銘酒屋に、島田くづしのぢごくが若い衆のふとこ

ろをねらふ。

娘がつぎつぎにてゝなしごを生んだ。

工事なかばに、測量技師が人妻と駆け落ちし。つぎつぎに

不正が()れ。村の分限者がばたばたと、没落した。

壊れたトロッコのそばに月見草が咲いた。

それから——。

いくとせ——。

山につゝじの咲くころ。若葉のむげにかほり。水苔のあた

り。ぜんまいを摘む。いくたりかの てゝなし児が入江を見

下してゐる。

——つかれた村の向ふに入江が浅くにごつてゐる。

  ポートレート

    —PAUL WOLFの作品—

君の帽子にはヒサシがない。

君の帽子は地下水に汚れてゐる。

陽のめを見ないで腐される帽子のよごれめは想像できないものがある。

君のひたひのしわは地球の皺のやうに溝が深い。

君のひたひのしわには、廃坑の汚水がたまつてゐる。

羚羊(かもしか)の耳のやうな両開きの扉に君の宿命がある。

たえず地球のぢなりに怯え、——くらがりで動きださうとする耳。

君の過去に幾百幾千のなかまが、うめきながらこの扉の中に消えて行

 つた怯え。

あゝ耳は君の恐怖のバロメーター

世紀の塵を払ふ銀線の下に君のおちこんだ眼球(がんきゆう)がある。

目、目、明るいものを見る目ではない。

くらがりに地球の年輪をかぞへる目

層の下に層があり、そこに蠢く人間どもを見るだけの目。

君の目は、地下のくらがりに通ずる脈。

呪詛にのみ開く三白眼。

呪つてもやまないものを呪つてゐる目。

その方向に敵がある。

発掘された土器のやうに汚れてゐる鼻。

地すべり。倒壊。君の過去がすりむけてゐる。

死んだ男の爪でひつかいた最後の記録が読めない君の両頬の皺。

口は閉るためにある意志力。

最後の叫びにのみ開く坑道。

それでゐて、君の過去を、雄弁にサウンドする。

君の髭は鼻孔を吸つてきたなく白い。

白いもののきたならしさをしらしめる君の(ほゝひげ)

深い渓谷をかくしてゐる嶺のやうに、画然とした輪郭の頤の下に、

 君の生命の地下水が逆流してゐる。

土管のやうに君の首はかつ色に汚れ、破衣の上にある。

破衣は貝殻のボタンで首根をしめ。

破衣は君の肩、馬の腹帯のやうなバンドで釣られ。このズボン吊りの下に、君

 の家族がぶらさがつてゐる。

炭坑夫——。

君の最後のポートレートが、倒壊した炭坑の発掘された土砂の中から発見された。

  峠

 馬車がそこまでくると御者はいつものやうに、鞭を持つ

たまゝ跳び下りた。「すまんが、おりてくらつさい。この

峠を越すには、あんさんがたが、乗つていちや、馬が可哀

想で」馬だけが、びつしよりと汗をかいて、喘ぎ喘ぎ登つ

た坂だけに、ひとびとはほつとして、いさぎよく馬車から

下りた。

 馬はガツガツと羊腸たる山径を登つた。

 展かれた限界。俯瞰する渓谷。湯女の招く温泉村。人々

は展望に涼を入れた。

 馬が道路のまん中で、気持よさそに放尿(いばり)した。ホップく

さいあぶく、急激に坂を下つて流れ。しぶきが四散した。

「あれ、こんちきしよう。いきすかんても」乗合の酌婦(をんな)が、

すとんきよう

な声で叫んだ。「いきすくやうなでかいのでは

ないか」——誰やら、旅のひとがからかつた。「あらやー

だ。このしとなにをいふのやら」みだらな応酬にすばやく、

今宵の客を釣る。

 「さあ、乗つて貰ふべいか」御者は、ひとびとをうなが

し、——かつての日、この峠を泣いて下つたあの娘が、も

う、あんなにたつしやになつたか——と感心しつゝ一鞭い

れた。

 馬はいつさんに坂を下つて駈け出した。

 尾根から尾根をガラスのやうな、澄みきつた空に、(わだち)

音がきんきんと山彦(こだま)して行つた。

  孤 貧  —A Widow—

 そこには都会の路次が眠つてゐた。嘘のやうに眠つてゐ

る。路次の両側に家々が眠つてゐる。

 喰ひ足りないで泣いて眠つた子供の姿は淋しいものであ

る。母は夜だけ安堵した。たとへ(ひん)が川を遡流(さかのぼる)(うしほ)のやう

にひしひしと迫つてきても、どこの家々もしめし合せたや

うに、夜は眠つてしまふからである。

 工場ですりむいた指先の傷口がうずいた。

 母は破れた子供の靴下の穴を毛糸で編む。

 母親の着物の裾に深い夜気がしのびこむ、冷え冷えとし

のびこむ。

 隣のラヂオ・ニュースは海の底の物音のやうにときどき、

ききとりにくくなることがある。それでゐて、隣のラヂオ

にききみゝたてるのは、底冷えのせいではない。

 誰しも、一度、驚愕に(あたひ)する(しらせ)は二度と聴きた

 くない。

 聴きたくないのに、聴かないでゐられないのは、ニュー

スにおびえてゐるからである。

 おひつくらうことの出来ない、いたましさに、糸の針の

先がうごかないでゐた。

 うずく、血のしみた繃帯の指先に、世界の端のある街の

砲声をかんじ。

 母はひよつとすると、今宵もまた眠れないではないかと

思ふた。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2009/07/03

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杉浦 伊作

スギウラ イサク
すぎうら いさく 詩人。1902(明治35)年~1953(昭和28)年。愛知県渥美郡福江町生まれ。詩作を始めた当初はロマンチックな詩風で、抒情詩集『豌豆になつた女』(1929)を上梓した。その後はリアリズムの世界に入り、散文詩集『半島の歴史』(1939)等を刊行。戦後、第一、第二詩集から選んだ詩に加えて、エッセイ・小説等を収めた詩文集『人生旅情』(1948)を出版。また、浅井十三郎・北川冬彦らと「現代詩」の創刊に尽力、詩壇の戦後復興に貢献した。

掲載作は『半島の歴史』(1939)から抄録した。下層階級への愛情や社会批判を読み取ることができよう。底本は『日本現代詩大系』(河出書房、1951)第10巻に依った。なお、差別的な表現が見受けられるが、歴史的作品なのでママとした。

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