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松葉杖をつく女

 現ともなく、圧しつけられる様な息苦しさ。カバーを掛けた電気の光が、黄色い靄の様に(みなぎ)つて、毛布の上に重くかさなり合つて居るのを、水枝は細目に見やつて、やがてふいと勇者の様に起き上つて、強ひて瞳を大きく見張つた。シーンと頭が重く沈まり返つて、すべての感覚を失なつた様な自分の肉体がすべて空気の中に溶けあつて、わけが解らなくなつた様に思はれた。が水枝自身は強ひてさう云ふ風に茫然(ぼんやり)して居る様にも考へられた――。

 音もなく扉が内の方に開いて、廊下の光線が斜にさして冷たい風がふうと流れる中から、清らかな白衣をつけた、細やかな看護婦が生霊の様に表はれて、伏し目のまゝそつと水枝のベツドの側によった。

 水枝は知つて居た。昨夜、鈴木さんに退院の話をした時、『明日は三時に起きて貴方の所へ行きます』と鈴木さんが言つて帰つたのだ。

 水枝はそれを思ひながら鈴木さんを見つめて居た。

『なん時』細い銀鎖を静かにたぐつて、

『三時』その声は消えて行きさうであつた。

 ピチンと時計の閉まる音がした時、初めて自分が何時と訊いた事を思出して、失はれた意識をすべて呼び戻した様に、急にそはそはと人を迎へたやうな微笑を、水枝は頬に浮べながら、

『お寒むかつたでせう。』

 と鈴木さんの赤く慄へてる指を見詰めた。

『またストーブの火が来ないのねえ。』

『今日実際(ほんと)に御退院なさるの。』

 鈴木さんは円い椅子に腰を降して俯向(うつむ)いた。

『えゝ実際なの。』水枝は力を籠めて言つた。

『家の人は午後に迎ひに来るんでせう。どうしたつて仕方ないわ。貴方とも別れつちまふ――私が病院を出たら皆――みんな私の事なんど忘れつちまうんでせうねえ。それが厭だ、それが悲しいの。ステイシヨンの様に、毎日逢つては別れ逢つては別れする病院に、貴方はよく居られるわねえ。そして逢つた人は忘れて、忘られない人とは最早一生逢ふんじやない。私なら泣いてばかり居なきやならないわねえ。どうしても知つた人は皆忘られない。一度知つた人が路傍の人となつて、行き過ぎるなんて、私はそんな悲しい事は出来ない。あなたは――。』

 鈴木さんはぢつと水枝の顔を見て居た。水枝はふと自分が独白(ひとりせりふ)をして居る様な、可笑しさと、果敢(はか)なさに口をつぐんだ。沈黙がつゞく。三月の病院生活に誠の慰を与へて呉れた、この悲しいローマンスを持つた、若い、自分と同じ年の看護婦が眠の時を()いて別れに来て呉れたのに――飛ぶ様な時を知りながら沈黙がつゞく。前から予期してた退院の大なる悲しみよりは、別になにか水枝は強ひられる様な苦しさと悲しさに身動きもしなかつた。

 ガチヤガチヤと騒がしい音をさして、小さな看護婦がストーブに火を入れて行つた。音の静まつた後の静けさに押し出される様に鈴木さんが、

『お互に忘られるんですもの、だけど、だけど貴方の事だけは忘られません。私は手紙を書きますけれども、偶には御手紙を下さいね。』と言つた。

 水枝はなんだか別れの場合に別れの話をかはすなんて云ふ事が、一寸も信実のない事の様に思はれた。皆上の空の様な気がして、この場合自分の心との間に少しの空隙のない様な言葉が見出されないので、たゞいらいらと心が波立つて居た。

 鈴木さんは思ひついた様にスカートのカクシに手を入れて、ガサガサと紙をさぐつた。そして散薬を包む四角な蝋紙を出した。それには鉛筆で淡い文字が記されてあつた。

『これ、伊藤さんから伺つて書いといた歌、讃美歌と同じ節なの、一緒に歌はない?』

 ピリピリと慄へる小さな紙を毛布の上に置いて見つめたまゝ、漸く二人の息づまつた様な声が口を出た。

『ましろき富士の根、みどりの江のしま、仰ぎ見るもいまは泪、かへらぬ十二の――。』

 二人のむせんだ様な声が消えて、ほつと見合つて笑つた。白いカーテンがカラカラとまくり上げられ、窓のスカシ彫りの扉から暁の青白い光線が静かにゴム引の床をつたひ、二人の尼僧の様な頬の横をも流れた。

 幾度も繰り返しつゝ、水枝の心は淋しく澄んだ。細い声がシーンと響き渡る時、自分は今無言の舞台に立つて、次の瞬間には床に倒れて号泣しなければならない様な気がした。

 バタバタと冷たく響いて居た、廊下の足音が次第に暖くなつて来た。電気の光がすうと薄れてほつと消えた、ストーブの火もいつか消えて居る。窓からも扉からも白い光線が流れ寄つて、その上に太陽の微笑(ほゝゑみ)が踊り初めた。スリ硝子の様に白く曇つた廊下の窓硝子に、水蒸気の凝つた霧が流れ初めて、室内に立ちこめた夜気がどんどんと遁れて行く、看護婦の裳のひらめきの趾には賑やかな、さゞめきが残つた。

『これ写さしてね。』

 水枝はノートを出してぺンを持つた。

『ましろき富士の根、みどりの江の島。』

 鈴木さんの言ふ通り忙しく書いて、終りに、「十二月十一日退院の朝」と書いて見た。

『私これからこればかり歌ひませう。』

 嬉しさうに言ひながら、今日退院などゝは、とても実行の出来ないものと考へた。

 鈴木さんが帰つて終ふと、水枝は例の通り忙しく髪を結つたり顔を洗つたり、坐つたまゝしきりに手を動かした。ひよつこりと起き上つた隣の女の子の赤い少ない髪を念入に結つて、赤い大きなリボンを掛けてやつたり、とき色の三尺の前を拡げてやつたりした。

 窓からは初秋の様な風が流れて来た。山茶花(さざんくわ)がキラキラと輝いて、空は水色に晴れて居た。

 食後水枝は扱帯(しごき)を胴に巻きなほし、羽織を引かけて、松葉杖を両脇にはさんでトントンと病室を出た。青磁の裾にネルを重ねた下から紅緒(べにを)の草履をしつかり穿いた小さな一脚の足がちよいちよいと、見え隠れする。

 水枝は不具になつたのだ!

 けれども血色のいゝ艶やかな顔をして、べツドの上に起き上つて居る時は、通りすがりの人に何処が悪いかと疑はしめた。

『何処がお悪く居らつしやいますか。』

 隣室の人等がつれづれに来て訪ふ時、水枝は淋しさうに微笑{ほゝゑ}んだ。そして何か胸が躍る様にいらいらした。

『足ですの。』

『あのリウマチスでも?』

『いゝえ。』水枝は毛布の上に手を重ねて、相手の顔をヂツと見て居る。けれどもその人は容易に言ひあてさうにもないので、苛立たし相に、その人の驚きを予期する様な瞳をすゑて、

『切断したんです。』さう言つた時も相手の人の表情と言葉とを、どんなに暗やかな復讐的な眸子(ひとみ)で眺めやったか、解らない、こんな事か幾度あつたらう。

 すべて病院に居る水枝の行為は非常にあきらめがよく、また強いものと思はれた。けれどもそれは十八の少女が悲しみに疲れて幼児(をさなご)に帰つたのであらう。かゝる大手術をしたのも、大方は水枝の決断が好かつたゝめだとは云へ、それは死を望む少女が心弱さからきたのだ。

 其時水枝は結核性の関節炎に右足は身動きもならず、その上肺に故障があつたので、只死の安らかさを考へて居た。己が黒髪一条さへも抜く事の出来ない女の身として、この大きな肉体の一部を殺すといふ事は考へても出来ない、況してや全体を殺すと云ふことは――けれども、只殺して呉れたら――とそんな事を考へ初めた。そして片足を切断しては如何な事があつても生きて行かれるものぢやないと断定した。夜も昼も薄明りにも風がないのにも只々意味もなく涙があふれた。そして泪もなく死人の様に物言はぬ水枝はやがて病院に運ばれたのであつた。が手術後の経過はすべて予想外に良好であつた。

 青桐の葉が廊下ごし彼方にゆらいで居るのを見た時、毛布の上に投げ出された水枝の手は、青い静脈のすつきり浮いたまゝ、ピクピクと動いた。水枝は自分が生きて居るといふ事を夢の様に考へた。そして自分が生きつゝあるといふ事に考へ及ぶと、急にメスの様な冷たく鋭い、すべてを敵とする心強さになつて、憎しみと(のろ)ひとに水枝の瞳子(ひとみ)は深く澄んだ。

 そして強ひても心強さを装つたが、あゝ、少女の心は疲れ易い。水枝は悲しみと憤りに疲れて静かに寝入る赤子の様に、夢の様な月日を送つた。実際、楽園の様な、温室の様な病院では、不具と云ふ自覚をも忘れさせる程、何の苦しみも恥しさをも(もた)らさなかつたのである。同じ人間――然うだ。水枝は同じ人間と思つて居た。それに生れてから十八年間の惰性は、足を失つたといふ事を少しも水枝に感ぜしめなかつたし、また、水枝自身も一度も切断した痕を見なかつた。

 水枝はやがて繃帯(はうたい)交換に行つた、蒸される様な交換場のベツドに横になるや、すぐ長い袂で常の様に顔を押へた。その中に幼児の頭の様に円くころころと巻かれた右足の繃帯は解かれて新らしいのに換る、そして前の着物が合された時、ほつと汗ばんだ顔に微笑を浮べて出て行く。水枝は力なくベツドの上に倒れて、折から入つて来た看護婦に、

『わたし、今日退院するの。』と、

 哀みを乞ふ様に言つたけれども、

『さう、嬉しいでせう。』と捨白(すてぜりふ)を残して出て行つた。

 すべての看護婦の態度が急に冷たくなつた様に思はれて、水枝は泣き出したい様な心になつた。

『あゝ、去るものは行く者は返り見られないんだ! 来る者残るものばかりをあの人たちは考へて居るんだ!』

 これまで人一倍愛せられ、(いた)はられ、多くの看護婦を友の様に思つた水枝は痛切に無常を感じた。それがすべて義務上の愛であつたと言ふことも、彼等の慣習だと云ふことも、忙しかつたと言ふことも考へられないのである。

『ねえ、やつちやんはまだまだ病院に居られて宜いねえ。』

『お家に帰るのが、どうして厭なの。』

 女の子は絵草紙の姉様を一心に切り抜いて、水枝に取り合ふともしない。水枝はふらりとまた廊下に出た。廊下の窓の午後の日光が照り返つて、山茶花の葉がつやゝかに笑つて居た。けつして冬とは思へない。

 四五人の看護婦と共に水枝は中庭に降りた。薬室の鈴木さんも走つて来て、写真を写した。まぶしい程の日光がさして、瑠璃色に晴れた大空を見上げた時、瞳の底になつかしい涙がしみじみと湧き出る様な心持になりながら、只恍惚(うつとり)とした。

 足元に散り残つた山茶花の薄色の花弁が、ひらひらと落ちた。鈴木さんは青い小さな瓶を日光にすかして見て居る。

『まあ随分晩かつたのねえ。今からでも帰るの?』

 水枝が遣瀬(やるせ)なさ相に、べツドに俯伏して居る時、兄の茂が真面目になつて入つて来た。

『むゝ。』

『今日は帰らない積りで居たの。』投げ出した様に言つて兄の顔を見つめたが、黙して居るので仕方なく帯を解いた。すべての人、家の人までが退院と云ふ事に成ると、辛く厳格に自分に当るものだと考へた。

『着物は?』

『此中にある。阿母様がすつかり揃へてよこしたんだよ。』

 オレンジの風呂敷包を解いて見た時、水枝は知らない下着が重ねてあつた。

『まあこれは。』そつと兄の目を見た。

『むゝ、阿母様が、咋夜一時まで起きて(こし)らへたんだよ。』

 茂は低い声で言ひながら、何も言はずに早く着なと目で知らした。水枝はふらふらと着物を着換へ、巾の広い、赤い大きな帯を倒れさうになつてしめた。しまりなく、しめた帯だけれども、水枝の胸は痛々しく圧せられた。

 兄に()いて水枝はゆふべの長廊下を淋しく玄関に出た。夕陽が蔭つて白銀色(しろがねいろ)の空気の静けさに松葉杖の響がシーンとひゞく。

『さやうなら――さやうなら――。』

 水枝は不安さうに(くるま)にのせられた。そして、白い道を音もなくすべる。薬室の鈴木さんは飛んで来て悲しい瞳で送つた。病院の門口にアーク燈が白衣の人の面影の様にぼうとついて俥は矢の様に赤い煉瓦塀をめぐる。初秋の朝、水色の幕を垂れた釣台がこの血の様な塀に添うてトボトボと来たのだが――水枝の追憶はすぐ現在に引戻された。俥は電車通りを横ぎつた。黒いボアを頸にしめて、荒い冷たい師走の風に水枝は身をすくめた。

『何と云ふ恐ろしさ、この烈しさ。』

 夕暮のどよめきは大波の様に――また戦場の様に人々は物狂はしく右往左往に走つて居る。其中に青い灯を見せて、電車が猛獣の様な叫び声を上げて轟然として行き過ぎる。暗い空には非常を知らせる様な赤い火が所々高く上つて居た。水枝の膝掛の下に立てた一脚の足はぶるぶると慄へて、右足の切断面がチクチクと痛んだ。はつとなつて側にたてかけた杖を抑へて、きつと硬く身を引しめたが、自分の身体は俥と共に矢の様に走つて居る。

 あゝ再び小鳥は巣に帰られない! 運命の手は彼を何処につれて行くのだらう!

 やがて俥がゆるやかに墓地の中を行く時、水枝は落着いた様に、漸く病院の方を振りかへつた。黒い木立の中に赤い火がチラチラ見えた。あの赤い灯のかげには、白衣の人が病人の手を取つて優しい物語をして居るだらう、『私は病人ぢやないんだ! 片輪なんだ!』いつか溢れた泪の中に、縞の着物を着た世の中の女がついと通つた。

『自分はなぜ家に帰らなけりやならないんだ。自分はなぜ世の中に生きて行かなきやならないんだ!』

 水枝は何もわからずそんな事ばかり思ひつめて、八百屋の店先の美しい、そこばかりは静かな瓦斯の灯にてり返つて、黄色く光つたオレンヂなどの目に映つた時、又新たに涙が溢れた。それから銀の様に底光るお濠の水や、黒く聳えた土手の松の中に淡く輝く星を、静かに淋しく彼女は見守つた。

 やがて物珍らしい灯かげの漏れた格子戸の前に、けたゝましく鈴が鳴つて、元気よく、お帰り! と叫ばれた。と、静まりかけた水枝の神経が、一度にはつと昂ぶつた。

『みいちやんかえ。』家の中で母親の声がした。

『みいちやん。』妹の絹枝がおどおどとした様に玄関に出た。

 水枝の心にはなんとも言へぬ物悲しさが迫つて、俥を降りる不自由さと、敷居をまたぐ不自由さに、訳もなく泪が溢れた。杖がなくては一歩も歩けぬ。水枝は涙を抑へて漸く部屋の真中にぺたりと坐つた。その身体の冷たさ、頭の上の白けた電気の光りに、四辺の静けさは恰度広野の様な、また地下室の様な。その中に水枝の涙のみ暖かく滾々(こんこん)と泉の様に湧き出て居た。

『誰も来ないで、誰も来ないで』

 又言葉をつゞけて、

『いま一寸私の涙のをさまる迄――私はなにも悲しくないんです。片輪になつたなんて、少しも悲しくはないんです。――誰もいま一言も私に言葉をかけないで下さい。』

 水枝は自分でなす術を知らない、いまもし、今の自分に一言でも言葉をかけられたら、この胸は破れ、自分は死んで終ふ様に考へた。少しの間である。膝の上に落ちる緩やかな涙を見つめて、たゞ斯うひたすらに繰りかへして居た。

 ガラツと格子が開いた様である。華やいた声かなんか遠くの方でする様な――、水枝はそつと前にある新らしい更紗の布団の掛けられた炬燵に手を入れて、暖かく泪にぬれた頬を名も知らぬ赤い花模様の中にうづめた。恰度夢に(ひた)つた様に――湧き出づる涙は、なつかしいものゝ様に止め得ない。

『本当にみいちやんが斯様(こんな)に丈夫になつて帰つて来たんだものねえ、あの青く血の気のない人が――足が片方なくなつてどんなに善いか。片輪になつたつて、何も悲しむ必要なんてありはしない。義足が出来るんだもの。』

 いつか水枝の前には、つやゝかに肥えた伯母が来て居て、慰めの積りで言つたのであらう、こんな事をくどくどと言つて居た。涙を出すまい、瞳を動かすまいと、伯母の顔を見守つた水枝は、その言葉が終るや否や、

『解つて居ます、何も言はないで下さい。』

と心強く叫んだけれども、それは口には出なかつた。水枝は人に片輪になつたのが悲しいから泣くと思はれるのが何より厭だつた。片輪になつたなんて何でもありはしない。丈夫になつて帰つて来たのが、自分が生きて居るのが、之からも生きて行くと云ふのが悲しいんだ! 自分の涙も悲しみも皆生きて行く事にあるんだ! 片輪だなんて、そんな低級な(いや)しい事に泣いちや居ない。水枝は殊更にさう思ひつめた。自分が生を悲しむと云ふ事も、つまりは不具になつたためだとは考へない。自分の悲しみの中に不具と云ふ事が少しも関係がない様に(しりぞ)けて居る。反抗は口を(つぐ)ませて、涙となつてほとばしる。

『折角帰つて御目出度いのに。そりや生れもつかぬ片輪になつたんだから、悲しからうがそんな事は諦め様一つ――』

 水枝が息づまる程覗きながら、また伯母さんが言つた。

『まあ、みいちやんはどうしたんです。え。』

 柔らかな暖かな母の言葉が耳に響くや、赤子が乳をさぐる前声を立てゝ泣き出す様に、とうとう啜り泣きを初めながら、

『生きて来たのが悲しい――』

とたつた一言水枝は云つて、すがる様に母の後姿を見まもつた。

『みいちやん泣かないで――』

 妹の絹枝がおどおどした調子で耳元に囁いたのも、穏やか耳に入つた。そつと恥しい様な心で横を向くと、絹枝の大きな瞳は労はる様に姉を見まもつて、黒いリボンがだらりと前髪に垂れて居た。水枝はなんとも知れぬ暖かさを感じた。茂が赤い顔して帰つて来た。他に寄つた事など言ひながら、涙に光つた水枝の瞳を見て『どうだ』と声を掛け様として、そのまゝ口をつぐんだらしい。懐から薬瓶と書付を出しながら、

『今度は之を呑むんだと。』

『何?』母は静かに言った。

『丸薬……』黄色の小さな瓶を透して見て、『これはね、亜砒酸丸(あひさんぐわん)なんだよ、だからこの表の通りに間違へずに飲まなきやならないのさ。まあ明日の朝一つ呑むとすると、昼は二つ晩は一つとか。それが毎日日によつて違ふんだからね。亜砒酸は毒薬なんだよ。』

 茫然となつて居た心に、最後の『毒薬なんだよ。』と云ふ言葉が千斤の重さを持つて水枝の心を抑へつけた。それに依つてじめじめした心が急に晴れて澄んだ、底の知れない程冷静に心が慄へて来た。覚えず頬に上った微笑が、心を突き透す様に冷たく悲しく感じられると、暫くぼつとした。

『これを一度に飲むと死ぬんだわね。』

 側に居た伯母がなんとか言つたが分らない。水枝は振り返らないけれども、母の凝視を強く自分の頬に感じた。

『まさか死にやしまいさ。だけど表通(へうどほ)りに呑まなきや身体に悪いんだよ。』

 茂は何気ない様に言つた。水枝は茂がそんな事を言つたのが可笑しい様な気がした。何にしても毒薬なんだ。自分は之で死ぬるんだ! 掌の上に薬瓶を載せて、粘つた淡黄な丸薬が片隅について居るのを覗きながら、秘める様に袂の蔭に隠して、元気よく居ずまひを直した。

 何と云ふ幼稚な事だらう。只水枝は疲れて居る。死ねやうが死ねまいが毒薬と云ふ言葉、亜砒酸と云ふ言葉は、女の心を夢の様な誘惑に導いた。自殺の前に沈む心の表面を、誰も愉快を装ふ様に、水枝もやがて元気よく、皆と一緒にテーブルに向つた。無意識に箸を取つて一口喫べながら、

『久し振りの家の御飯だから(おい)しいこと。』

 空洞(うつろ)をたゝく様な声が何の意味もなく口を離れた。と、底の知れないやうな淋しさが、つぎつぎと押しよせて来た。水枝はハツとして、カチリと白い角の箸を下に置いたまゝ、

『自分は、死ぬんだ。』と考へると、

 彼女は横も振り返られない様な気がした。

 やがて水枝はその薬瓶をまたそつと床の間に人知れず置いた。そして低く敷かれる床を見つめながら喪心した人の様に坐つて居た。

 頭の中にはいろいろの事が走馬灯の様に入りかはり、立かはり行き過ぎて、どれもどれもつかまへる事が出来ない様であつた。また捕まへ様と云ふ気も起らなかつた。

 水枝は悲しみに疲れた、低い床の中に、海の底にひかれて行く様な重苦しさに、悶えながら、うつらうつらと夢に引かれた。

 翌朝、水枝が目覚めた時、たゞなにとなく瞳が曇つた、縁側の障子に風がピリピリと鳴つて、脱ぎ捨てられた着物や夜具の乱れた様を見つめて、絹枝が元気よく登校する靴音を聞いた時、只なにがなしに涙ぐまれた。漸くのこと着物を着て、台所の前まで畳をすつて出ながら、くしやくしやと並べられた(くりや)の道具をぢつと見つめて居た。朝顔の絵のある自分の茶碗が、ザルの中でカチリと音を立てゝ動いたり、七輪の上に掛けられたお鍋が、ぶつぶつと煮えて居るのを見ても、訳もなく胸がふさがつた。

 母の雪枝がすつかりと片づけて後、母と子は冷えきつた朝の御飯に取りかゝつた。

 なにか言はねばならぬ様な気がして雪枝は箸を取つて、(ども)りながら『足の方はどうだえ。』

『繃帯がぬけさうで――』水枝はなぜか泣きさうな声が出て終つた。何か(わだかま)りがある様に折角言ひかけた雪枝の言葉を聞かうともしなかつたり、水枝がふいと言ひ出した話に雪枝の返事が詰つたりして、お互に小食に、やがてバタバタと食事はかたづけられて終つた。

 家の中が厭に暗い、水枝は明るい白壁の病室の事ばかり考へた。退院の前日?二の側の患者から貰つた、綺麗に垂れ下がつた南天の枝は如何したらうと考へた。持つて来ればよかつたが、持つて来ても詰まらない、きつとやつちやんがあの実を一つ一つもいで、敷布の上に散らして居るだらうと茫然(ぼんやり)した。遅く起きて来た茂が、

『どうだ。』と言つたきり黙つて新聞を読み出した。午後になつて黄色い貧しい日光が醜女の笑の様に輝いて来たので、それを避ける様に伯母の所へ出かけた。

危険(あぶな)いよ、気をおつけよ。ほら前に石があるから。』

 初めて土を歩く水枝はふいふいと浮き上る様な感じがして、母親の注意のまゝに蝸牛(かたつむり)の様に遅く、輝きのない顔をして歩いた。細い頸に巻きつけた濃小豆(こいあづき)のショールが何遍かくるりと解けて落ちた。

『いゝのよ。』

『でも寒いから。』雪枝は何遍でも丁寧に巻きつけて襟に挟んだ、伯母さんの家は明るく静まり返つて眉の青い肥えた伯母さんと、色の白い人形の様な顔をしたお嫁さんが微笑{ほゝゑ}んで居た。水枝はそこに強ひられる様な笑を洩して坐つた。伯母さんの家は水枝に初めてゞあつたので、やがて伯母さんの勧めるまゝ、松葉杖を両脇にはさんで恥しさうに畳の上をふはりふはりと歩き出した。そして玄関前の梯子(はしご)の側に行つた時、足を慄はしてぢつと俯向いた。

『まだ、みいちやんに梯子は駄目だらうねえ。負つてなり、如何(どう)になりして曳き上げられるだらうが――。』

『えゝ、みいちやんは梯子はとても駄目です。まあ義足でもつきましたら、どうか――。』雪枝と伯母が後でこんな話しをした。

 水枝は罪人の様に元の部屋へ引返して杖を投げ出して坐つた。畳の上に淡い影を投げた黒塗の両杖は、たゞ無暗に悲しい道具だ。この部屋に坐つて物言はぬ人の呼吸が、すべて大きな吐息の様に考へられた。水枝は少しのことに非常に疲れて家に帰つた。

 暮れは驚く程早かつた。絹枝が学校から帰つて、隅に脱ぎすてた袴をたゝむ間もなく電気がつく。

『きいちやん、伯母さんの家は実際近いのねえ。今度の家は前の家よりいゝ様じやないの。』

『みいちやん、行つて見たの、あの広様が小さい時書いたつて云ふ「日夜之思」つて云ふ変な字の額があつたでせう。』

『えゝ、あんなに近いのに私が寝て居る時、いつもきいちやんが行つたり来たりするのが不思議な様な――どんな道をどこへ行くんだかと思つてたわ。』

 水枝は初めて自分が道を歩いたと云ふ事が、なんだか或気にかゝる打明けなければならない事件の様に考へられて、道を横ぎつて露次(ろじ)に入つた時、新らしい板塀に赤い日があたつて居たことや、瓦を敷いた下水の綺麗にチヨロチヨロと流れて、御飯粒が少し沈んでたこと、あんなに道が湿つて居たこと等を考へると新らしい興味のある事の様に思はれて、

『あそこいらの家は新らしいのねえ。』

『さう。』絹枝は気のない返事をして本を見て居た。水枝は詰らな相に黙つたけれども、何か自分の心の中に輝きがある様な気がしてならなかつた。第一格子を開けて外に出たと云ふこと、そして自分はある別な家の戸を開けて入つて遊んで、また自分の家に帰つたと言ふことが、どうしても輝きがある様な気がしてならない。けれども誰も瞳をかゞやかして語ると云ふ人もないので、茫然と絹枝を見て居たが、自分はうつかりして居られない。非常な仕事がある様な気がして、あせり出した。

 まづ絹枝の襦袢の袖がみつともなく汚れて居たので、()へてやらねばならぬと思つた。自分は炊事の方は出来なくとも、裁縫の方は一切出来ると考へて、

『なにかメリンスの(きれ)がないでせうか。』

『今頃から何をするの。』母の雪枝が迷惑相にして居た。

『きいちやんの襦袢の袖を縫つてやるんです。』

『明日にしたら。』

『だつてきいちやんの袖は、みつともないぢやありませんか。』

 メリンスのオレンヂの巾があつたので、水枝はチクチクと縫ひ出した。針もつ事は、久し振りなので、一心に急いでも煩はしく、(ぢき)倦きが来た。しかし何とも知れぬ力を感じた。

 どんな些細な仕事でも、または大きな仕事でも水枝は忽ち死をかけた。それが此上もない尊いことの様に、そしてけつして廃人とは言はれたくない、自分は何でも出来ると云ふ考へが深く根ざした。

『まあ嬉しい。こんなに綺麗に――どうもみいちやん有難う御座いました。』

 絹枝が袖口を覗いて、嬉しさうに見て居るのを難しい顔をして見つめたまゝ、

『ねえ、襦袢の襟でも汚れて居たら、みいちやんがすつかり換へて上げますからね。』

『お前、そんな事云つてまた身体(からだ)でも悪くなつたら大変ですよ。』

 雪枝は強い事を言ふ我子をなだめる様に言つた。時計はもはや十時を過ぎて居た。

 次の日は非常に風が烈しかつた。

『よしたらどうだ。』と茂が言つたけれども水枝は仕度をした。また再び水枝は俥に乗つて灰色の煙の様な中を病院に行つた。今度はなにか歯痒(はがゆ)い様な希望を持つて、廻診衣を着た医師の顔がさまざまに浮んだ。

 たゞ一日を見なかつた病院だけれども、水枝が居た時よりもなほ一層清らかに静やかに、そして安らかに楽しく見えた。街には灰色の風が狂つて居たけれども、病院ばかりは、春の様な柔らかな日光が流れて居た。此処は自分の住みかである、此処は自分の居るべき所だと、水枝は考へて嬉しくてたまらない。入院当時恐ろしかつた輸送車の響も音楽の様に聞きながら、薬室の鈴木さんを呼び出して長廊下を歩いた。別に話すこともない、たゞ、

『御忙しいの、いつまで勤務?』

 などと言ひながらも、穏やかな、ゆるやかな感じがした。やがて水枝がふと立どまつてほつれ毛を耳にはさんだ時、鈴木さんが驚いた様に、『まあ佐々木さんの手の汚なくなつたこと。』言はれてハツと手を引いた。手は風で赤くふくれて居る。

『ねえ、病院にさへ居ればねえ。』

 さう言つた言葉は口を出たかどうか解らぬ。水枝はいぢらしい形をして、(ゆるや)かに大きく溜息の様に病院の空気を吸つた。そして後、やつちやんの部屋や、其他の病室などをそはそはと渡り歩いた。が、自分は家に帰らなければならないと考へて途方に暮れた。

 帰ると云ふことなど思はず、悠長に赤い傷の繃帯などをして貰つてる患者が羨ましい。どこか私に血の出る傷がないか。赤い傷が。けれど、水枝の手や頬や頸はなめらかにくぼみさへなかつた。

 健康な不具者! 何と云ふ浅ましい言葉であらう、病は尊いものである。美しいものである、優しいものである。

 水枝はまだぶらぶらして居た。鈴木さんが標本室を見ませうと言ふので、其まゝ後に従つた。アルコールの香ひがプンと鼻ついて、よろよろとたふれ相になりながら、鈴木さんの背を見つめて歩いた。何も見まい。多数のギヤマンの瓶から怪しい影が立ち上つて一つを凝視する事が出来なかつた。漸く頭が(しづ)まると酸ぱい水の中に青い、細かい、瞳の大きな赤子や、黄色く膨脹した眼を堅く閉ぢて夢見て居る様な赤子が、小さな手足をくなりと上げてさかしまに浮いて居る様が見えた。ハツとして目蓋を返して横を見ると、側の大きな鉢に眼の白い赤子が重た相に首を(もた)げて手足を慄はしながら吐息をついて居た、なにか呟く様な呪の声が四辺から限りなく起つて来る様な光景! 白いカーテンが死んだ様に垂れて居た。一まはりまはるとたゞ最う逃れる様に扉を出た。と目の前に細長いギヤマンの器の中に、古綿がぼろぼろと落ちた様な暗色をした隻脚(せききやく)がアルコールに浸つて居るのが見えた。ギリギリと鈴木さんが錠をかけて居る、あゝ水枝はたしかにそれを見た。人間は研究のため、研究と云ふ名を借りて恐ろしい罪悪をするものである。そしてその罪悪はまた立派な名の下に保存されて居るのである。人の智は残忍である。

 水枝はその夜若い外科医に手紙を書いた。その後、水枝は日一ぱい仕事を一心に仕つゞけた。妹の着物や、母の着物など暮のうちにすつかり片づけ様と考へた。何事も考へずにたゞ全速力の針の運びと仕上げのよろこび、心を張りきつて居るが漸く出来上つて、はふり出した着物を見つめてはしらずしらず涙がにじんだ。肩と指先のかすかな痛み、自分は何のために斯した仕事を一生懸命せねばならないか。苦しんでまでも休む間もなく、本を読む間もなく縫はねばならないか。けれども、水枝は余程小さな銀色の針を持つて絹ぎれを縫ふ――ある形に完成すると云ふ事に離れがたい興味と執着を持つて居たらしい。やがては悲しいあきらめに心を澄して、不具だものと、一口に自分を哀れむ心の底に泣いても針に糸を透した。水枝はたゞ一人意地の様な事をして居た、綿入を二日で仕上げたりなどして淋しさを味はつた。

『阿母さん、今度は阿母さんの被布(ひふ)を縫ふのよ。この裏は似合ふわね、ハイカラよ。何日までに縫ひませうか。』

『まあ、今年のうちに縫つて置けばいゝさ。』

『どうしてまあそんなにかゝつて居られるもんですか。まだ阿母さん五枚縫はなきやならないの。此は明後日(あさつて)までにしませうね。』

『そんなにつめてしなくつても、また身体でも悪くされたら――。』

『身体なんて悪くするもんですか。ね、明後日まで。明後日までにするわ。きつとね。』

 どんな事があつても必ず縫つて見せる。死んでも――水枝はこんな事にでも、すべてに死をかけると云ふ勢であつた。そして仕事のために死ぬと云ふことは、此上もなく善い事に考へた。一心に縫ひ出す。何も考へずに――けれども、もしふつと糸をぬいて見上げた瞳に夕陽が赤く映つたりすると恐ろしい悲しみと遣瀬(やるせ)なさに、鋭い針は柔らかな水枝の手を突き破つた。そして白い皮膚の上に、紅玉の様な血がぼつちりと浮き出るのを見ては、また故もなく涙ぐまれる。針箱の中から紅絹(もみ)の切をさがし出して巻きなどして従順なおとなしい心に帰つた。

 かうして他人の着物は縫はれて行く。そして自分の着物を縫はなきやならない時、訳もなく身が引けた。そしていろいろと不思議な言訳等をした。水枝にはなんでも、自分の仕事をすると言ふことが此上もなく侮るべき事の様に考へられた。そして自分の着物を一日も二日も一生懸命に縫ふと言ふことは人も悪く思ふし、また自分でも悪い事と考へたので、自分の着物を縫ふのも人の為だと考へた。もし自分が縫はなければ、阿母さんが縫はなければならない。さうでなければ仕立屋に――矢張自分が縫つてやるんだ。家のために――。

 水枝はこんなに考へて漸く縫ひ出すのである。何と云ふ難しい心だらう。でも水枝は斯うして自分の行為に一点の非の打どころのない、最上の最善なものであると安心した。

 水枝は其後病院に一度行つたばかり、只最う一日針を持つて送つた。伯母さんの家では、あまり家にばかり居ると気が(ふさ)いで悪いからと度々迎ひに来た。水枝は裁縫の包を持つて来て貰つて、伯母さんの家でも相変らず一生懸命に裁縫をした。お嫁さんのよし子さんや従姉の光子さんが、側で面白相(おもしろさう)なお芝居の話をして聞かした。

 水枝の髪はいつも二三日もなでつけの束髪なので、多い髪が落ちさうになつて居た。伯母さんはぢつと長火鉢の側によりかゝりながら、水枝を見て『みいちやんに一つ髪を結つてやらう。』と言つた、水枝は喜んで鏡台の前に坐つた。伯母さんは多い髪を持ち憎さうに梳きながら、

『何にしようかねえ、みいちやん。』と訊いた。『桃割、銀杏返し?』

『銀杏返し。さうして髪を長く出して、髷を小さく結つて下さいな。』

 水枝は自分を堅気な商家の深窓に育った、髪は日本髪にばかり結つて、こまかい黒い着物を着て、お針ばかりに暮して居る娘の様に考へたり、年若な未亡人などに考へたりした。そして着物もけつして矢絣は着まい、(みんな)しぶい立縞ばかりにしようと考へて、けつしてどんな事があつても更へまいと思つた。

『まあこの(たぼ)のよく出来たこと、よし子や、一寸来て御覧。みいちやんは毛が宜いからどんなにでも出来る。』

『まあ水枝さん、実際よく出来たわ。』お嫁さんは爪立(つまだち)をしてぢつと見入つた。

『ほんとにねえ。みいちやんは毛が宜いんだから、一度宜い髪結様(かみいさん)に島田を結はして見たい。あの何か掛けないの。』

『えゝ、なんにも掛けない方が好きなの、島田なんて大嫌ひ。一生私はこんな銀杏返しに結つて居ようと思ふの。』

『でも白いくづ引位なら宜いだらう、お嫁に行けないからつて、島田が結へない事はないさ。今度一度結つて見るが宜い。』

 水枝は恥しいことをしたと思つた。何か言訳をしようとしたが黙つたまゝ、

『有難う御座いました。』と御礼を言つた。

『まあ綺麗ですこと、後の格好なんか絵の様で御座いますよ。』

 女中まで来て、そんな事を言つた。水枝はなんとなく暖かい羊毛でくるまれた様な歯痒い心地がした。

『まあ、みいちやん一寸横を向いて御覧。実際好く出来たよ、みいちやんは毛が宜いからねえ。まあ、さうして居ると、一寸二十五位には見えるね。あゝ肩上げがあるけれども二十二三。なにしろ(えり)はあんなのを掛けて居るし、着物は真黒と来て居るんだから。』

 赤い色のある半衿を掛けたり、明るい色の着物を着た従姉やお嫁さんは静かに笑つた。水枝はお(いとま)をして瓦斯のほんのりと()いた露地を出て、僅か四間ばかりの道を横切る時、多数の女学生が通るのに逢つた。水枝は丁度女学生の前を通る内気な女工の様な心で、松葉杖をぎゆつと握りしめて、白い道を見つめたまゝ通りすぎた。

 家に帰つてから、母の前でなにか話す事がある様な気がして、もじもじした。水枝の心には伯母さんが先刻言つた島田と云ふことが、そゝる様な嬉しさと重苦しさに浮沈(うきしづ)みして居たのである。

『伯母さんにかい。』

『えゝ。』と、水枝はつかへ相な髱に一寸俯向きながら『私に似合うでせう。みいちやんはね、これから(いつ)もこの髪ばかりにしようと思つて居るの。束髪なんてけつして結はないわ。』

『日本髪も似合ふねえ。けれども、さうさう伯母さんに、結つて貰ふ訳にも行くまいから。随分年寄に結つたねえ、丈長(たけなが)でも掛けたらよかつたらうに。』

『厭な阿母さん、じみなのが宜いんですよ。私は一生大人(おとな)しく暮すんだから、斯した方が宜いんですよ。』

『さうかえ、お前はまだ十八ぢやないかえ。』

 そこへ茂がひよつこりと次の間から出て来て、

『伯母さんかえ?』

『えゝ、いゝでせう。』

『どれ、むゝ、みいちやんには其方が余程いゝ。もうあんな束髪なんか結ふな。お前の様な者は(いつ)もさうして大人しくして居た方が宜いんだ。』

『えゝ、私も前つからさうしようと思つて居るの。』

 水枝が茂の顔を仰いでさう言つた時、娘が縁談の決心を漸く言ひきつて、何とも言へない恥しさと淋しさに身がしまる様な気がした。髪を結つて貰つた時のお話を、いろいろと水枝はしたけれど、とうとう島田のことは言ひ出す事が出来なかつた。御飯を食べながら、

『何処の学校の生徒でせう。沢山あの道を通るのね。』と、水枝は箸を置いて言つた。

 絹枝が眼を円くして、

『伯母さんの家に行く途中? あれはね、生徒ぢやないのよ。交換手なの。』

『まあ、さう、でも皆ハイカラにして居るのねえ、交換手にでもなりたいけれども――』

『まあ、厭だわ。みいちやん。』

『馬鹿な奴だな。』

 茂も絹枝も雪枝も笑つた、水枝も笑つた。然し、実際自分は交換手にでも女中にでもなりたかつた――不具でさへなかつたら――。

 

 雪枝は早く水枝に義足をつけさせたいとあせつた。けれども、切断面の肉を打つても、痛みのない様に按摩にもんで貰ふか、自分で毎日打つかして、皮膚を強く硬く肉を引きしめなければ、義足はつけられないのであつた。

『お前少し足を打つて居るかえ。』

 雪枝はいつも静かに訊いた。

『いゝえ。』

『少しづゝでも打つて居ないと義足をつけるに困るからね。』

『えゝ、だけど。』水枝は糸をぷつんと切つて、たまらない様に、

『だつてねえ、阿母さん、なんでもない足でさへ自分で打つなんて言ふことは厭ですわ。あの足は触るのさへ厭なのですもの。一寸触つてさへ凡ての神経がそりや大騒ぎに慄へるんですもの。』

『ぢや按摩を頼まうかえ。』

厭々(いやいや)、按摩なんか。』

『それでは阿母さんが少しづゝ揉んで上げよう。』

『厭! 私がするから――。』

 水枝は夢の様な気がした。夢で見たことを話し合つて居る、自分はまだ夢を見つゞけて居るんだ。しつかりしなけりや不可(いけ)ないと思つて、眼を見張り口を閉ぢて、母の顔をぢつと見つめながら右足をぴくりと動かして見た。足の指も、膝もなにも小さく折つて、縄できりきりと縛つた様に重く石の様に動かない足が、ふつと動いた。水枝はこの足は延びるんだと思つた。障子につかまつて漸く立つた。そして着物の裾を一寸上げて見た。やはり一脚だつた。切断面がビリビリと慄へて痛むけれども、右足は畳につかない。下を見つめて居たけれども、クリームの裾の下からは、白い一脚の足が覗かうともしなかつた。

『なに? 便所にでも行くのかえ。』

 雪枝は障子を開け様と手をかけた。

『いゝえ。』

 水枝は一寸着物の上から抑へて見たら、右足は五寸ばかりで終つて居た。坐りなほして、縫かけの着物を引よせながら、

『矢張り一本なのねえ。』と小声で言つたが、また自分のして居ること、言つてることは夢だと思つた。なんでもすべての事が薄ぎぬを隔てゝ見る様で、どうかして実際の物を見たいとあせつた。大声で叫んだら――この針でチクリと胸をさしたら、幕が切れて、本当のはつきりした事実が解つて来るんぢやないかと思つた。が大きな声は息づまつて少しも出ない。糸を巻き終つた雪枝が、

『阿母さんなどはどうしたつて実際(ほんと)とは思へない――。』と、ほつとした様に言ひ出した。

 大抵雪枝の言ふ事は水枝に解つて居る。けれども、その次々と母の言ふのを聞いて、心を苛立たせた。雪枝は又語りつゞけた。

『杖を見ても、誰のだらうと考へたり、御前が杖をついて居るのを見ると馬鹿な悪戯(いたづら)をして居ると考へたりして、どうしても実際だとは思へない、お前が片輪になつたとは考へられないのだよ。』

 雪枝は水枝が入院中一日として離れたことなしについて居た。そして娘の不具な事について幾度人に嘆き、また幾度円い繃帯の足を抱いたか。それだのに猶自分の眼を疑つて居る。当人の水枝すら疑つて居る様に――水枝は黙して聞いて居た。雪枝はしばらくたつて、

『兄さんどんなにお前の事を心配して居るか、阿父さんもない事だし、自分も側について居ないんだから、なにしろ義足で歩ける様になつたら、職業学狡へでも入れて呉れつてね。それから私は琴か活花(いけばな)がどうだらうと思つて――。』

『私が病院に居る頃から、快くなつたら職業学校にでも入れる様につて言つて来たんだつてね。』と、水枝は言つたが忽ち夢から覚めた様に、

『厭です、阿母さん、私はこの身体で学校になんて、どうして通はれるもんですか。普通でさへ競争の烈しい学校に――私は負けるのが厭だもの。』

 終りの方は独語の様に小さくつぶやいて、また静かに言つた。

『阿母さんは片輪の娘を持たうとは思はなかつたでせう。』

『生れつきなれば(あきらめ)もつかうが、こんなに大きくなつて、どんな不慮な禍があつても、お前が片輪にならうとは思はなかつた。阿父さんもさぞ草葉の蔭で泣い居なさらう。』

 水枝はなんと云ふことなしに、

『そんな事言つたつて仕方ないわ。皆これが運命なんだから、運命だと思へば何でもないわ、生きて来たんだから仕方ない。』

『運命だからつて、菊代(水枝の姉)の様に死んだのなら諦めもつかうが、お前のはそうなつて生きて居るんだから――阿母さんは一層手術の時お前がこのまゝ死んで呉れたらと考へたが――でも、失張生きて居れば何か楽しみがあらうし――。』

 雪枝の声は苦しかつた。水枝はいま初めて自分の手術の時母が死んで呉れたらと考へたと聞いて、何か非常に過失をした様な気がした。取返しのつかない事をしたと考へた。

『生きて居れば居るだけ苦しいんです。一寸も楽しみなんかありやしない。なぜ私は生きて来たらう、死にたい――。』、

『まあ、お前死ぬなんて、お前はよからうが――兄さんだつて今に来ようし――。』

『兄さんになんて逢ひたくない。兄さんだつて私に逢ふのは嫌でせうさ。片輪の妹なんて――。』

 水枝はふと『死ぬなんてお前はよからうが。』つて言はれた言葉が恨めしくつて『えゝ私はいゝんですから死にます。』と言はうとして息がつまつた。死ぬと云つても、自分は杖をついて何処を歩いたらいゝのか、自分は海も知らない、川も知らない、道も知らない。(みじ)めな姿が思はれて黙つてしまつた。

『みいちやん! お前さう云ふ思ひを――。』

 平素なにも水枝の事など考へて居ない様な雪枝は蜘蛛をつゝけばつゝく程糸を出す様に、水枝が言へば言ふ程つぎつぎと言ひ出す。水枝はそれを聞くのが厭になつた。そして聞けば黙つて居られないので、

『もうもう私はすつかり解つてますから。』

 かうして母と子は口をつぐむのであつた。

『ねえ阿母さん、広衿(ひろえり)にしませうか。』

『さう、その方がいゝだらうねえ。』

 やがて水枝はなんの(わだかま)りもない幸福な少女の様な声を出して、雪枝の心に、いとしさを増した。こんな夜、水枝は一人起きて巻紙にながながと、

あなたは肺病の人を痛はる苦しさなんか言はないで下さいな。私の一番好きな姉はその病で死にました。私はそんな悲しい病人の誠の友となつて清らかな白衣(びやくえ)に一生を送りたい! 病院に暮すあなたは幸福ですね。私は看護の勤めをもなし得ない不具となつて終ひました。

等と書いて、鈴木さんに送つた。

 時は悲しい悪戯(いたづら)をして走る。どんどん走つて大晦日と云ふどん底にぶつつかつた。今年の暮は門松もなにもなくたゞ地球が飛んで行く様な騒ぎに、すさまじく悲しいばかりであった。水枝は其日も針を持つた。そして近頃のさほど不自由を感じない、普通の人間の様に物事に恐れない自分の態度をかなしんだ。

 自分は世間に慣れた片輪になるだらう。慣れる事は悲しい。手のない人が口やなにかで上手に着物を着たりして、平気で居ることはどんなにみじめだらう。慣れる事は厭だ! 私が平気で人と話しながら電車通りを歩いたり、電車に乗つたり、梯子を上つたりして、それで当り前だ平気だと云ふ様になつたら、どうしよう等と思つた。

 水枝は何気ない時、茫然と爪立(つまだ)つたりして右の方に倒れることがあつた。悲しみと驚きに涙を見せながらも、また不具に慣れないと云ふ喜びに微笑が浮んだ。

『ぢき御慣れになりますれば、此位のことは何でも御座いませんよ。御面倒なのは今のうち一寸の間ですわ。』

 さうやつて慰められる時、水枝はなんと云ふ無情な人だらうと思つた。

 実際不自由なのは今のうちだらう。犬が芸を教へられて苦しむのも少しの間だ。やがては犬が出来得なかつた――生れつき用のない、知らなかつた動作を苦しむまゝに覚えて、慣れて、公衆の前にその変則な芸を誇る様になる。水枝は世間に苦しめられ、そして慣らされて居る。そして並の人には要らないことを時が教へつゝある。彼はそれに気がついて、出来得る事でも、初めのまゝの不慣れをよそほつた。覚えず上手に敷居を飛び越して、何人も知らない悲しみに打たれた事が幾度あつたらう。

 その夜は皆御馳走を喰べながら、色々の事を話した。雪枝は

『今年は色々の出来事があつたから、来年こそは皆無事だらう。みいちやんはもうこれで病気はしなからうしね。お前たちも気をつけて病気をしない様にしなければ――。』

等と云つた。

『私は十九になるんだから厄年ね。来年死ぬかも知れない。』

『お前は大丈夫だ。前厄でこんな大きな事をして終つたからなあ。当分は無事だよ。』

 茂は呑気さうに云つた。

『私は来年まだまだ驚くこどが起ればいゝ、十九から三十三ね。三十三に死ねばいゝけれど。』

 水枝はふと老人の片輪だつたらと思つて、ぞつとした。自分は若い、自分は若い、若いから生きて居るんだし、生きても居られるんだと思つて、もし自分のこの若さが衰へたら、私は一刻も生きて居られない。

 若いと云ふ事は不具者を生かして置くだけの強い力を持つて居る。

 二十七日頃降つた雪がまだ溶けずにザクザクと土にまみれて青い月光が流れて居た。夜おそくなつてから、思ひ立つた様にして、水枝は髪を洗つた。熱いお湯の中に渦まく黒髪を蛇の様に恐ろしがつたり、又なめらかな千条(ちすぢ)の髪が繻子の小切れの様に、自分の胸に懐しかつたりした。

 雪枝はその髪をやがて()いて呉れた。スーと梳くと長い髪の濡れた先が生きて居る虫の様にピタと畳に吸ひついて、またつゝと引かれて行つた。水枝は俯向いて寒い程清らかな心に慄へて居た。

『明日は元日なのねえ。』

 さう言ひながら今度は水枝が坐つたまゝ、畳に裾を引く冷たい髪を淋しさうに解かした。

 除夜である、水枝は母に従つて黒髪を垂れたまゝ床に入つた。長く起きて居た(せい)か、母子は心がさえて耳をすました。除夜の鐘が鳴つて居る。除夜の鐘が鳴つて居る。目覚めた二人を冷たい流れに流し沈めるやうに鐘の音は響いた。

『お前。』雪枝は目を閉ぢたまゝ何か誘はれる様に言ひ出した。

『お前、そのまゝ尼になつたらどうだい。』

 水枝の髪が剣の様な冷たさに慄へて、頸筋(くびずぢ)にぴたりと巻きついた。

『どこか大きな尼寺にでも入つて――髪を洗つた時、そのまゝそり落して――。』

 鐘は絶えず鳴つて居た。母子は暗黒な部屋に枕をならべて娘の眼は大きく開き、母は夢見る様に安らかに閉ぢて居た。水枝は暫くたつて、漸く首に巻きついた髪を手でよけながら、ほつとして、

『阿母さん。』と呼んだ。

『阿母さん!』

 何の返事もない、雪枝は寝入つて終つたのかどうか。水枝は天井を見つめて呼んだので解らない。母の顔を見るのが恐ろしかつた。苦し相に首を持ち上げて、白い敷布と枕掛を見つめたが、其侭顔を伏せて水枝は寝入つた。

 

 正月も十日になる。水枝は一歩も外に出ない。新刊の文芸雑誌を炬燵に入つて読んで居た。そして小説や歌や詩を読んで、妙に水枝の心に光りが入る様に感じたり、また非常な欲望が燃えるのに苦しんだ。彼は文学に先天的趣味を持つて居た。而して時々前に新聞を読んで居る雪枝をぢつと見つめては、除夜のことを思出した。尼と云ふ事が時々水枝に暗い感じと、何かけがらはしい感じを与へるので、事実か夢かと繰り返したが、矢張り事実であつた。

 なぜ母があんな事を言つたか。水枝はそれが不思議でならなかつた。雪枝はその前後にも一度として尼のあの字も口に出したことはない。水枝が言ひ出しても、大方思ひ出せないだらうと思ふまで。人間が悲しみの極度に達し、喜びの極度に達した時は、すべて何の情もなく、極めて冷静に、そして神秘的の心に帰るものだらう。いかなる人に於ても奇蹟の様に――。

 水枝はこんな事を考へつゝ読書に没頭して居た。そして活字の中から裸体と云ふ字を見出す時、ふと本から眼をはなして考へた。そして不快を感ずるのである。ある本の中には、泰西の彫刻家や画家の作品を写真版にして五六枚も入れてあつた。それは大方裸体画のふくよかな曲線美を表はしてあつた。水枝はそれを見る。そして不快な心をまた別な心が凝視して、眼は眼で別に画面を見て居る。かうして水枝の茫然と裸体画の不快を味はつて居る時、雪枝はいつも話しかけた。

『兄さんはどんな気で居るんだらうねえ。家の様に財産のない所には婿(むこ)の来てもないし、もしや兄さんの下役の人にでも貰つて貰ふ気かもしれない。――けれどもお前の様な身体(からだ)のものは貰つて下さいと言ふ訳に行かず。――彼方からたつてと言ふのならば。』と言ひ差して、『なにしろ職業学校にでも入れて、手のことでも少し覚えなくつては。』

 水枝は聞いて居られなくなつた。如何して親と云ふものは、あゝした事を平気で言ふものであらう。水枝はそれに対して返事の仕様がなかつた。

『阿母さん厭ですよ。学校だけはどんな事があつても。――阿母さん私は家に居て一生懸命お裁縫(しごと)をして居たらいゝんぢやないの。お琴を習へと云ふなら習ひますが、みいちやんは師匠をする気なら出来ません。』

『お前はまた――兄さんが面倒を見て呉れるからよいけれども、自分は自分で考へて置かなけりや。今々の為ぢやない。お前の後のためですよ。』

 水枝は逆境と云はゞ逆境だが、順境と云へば順境に育つたのである。尤も財産はない家だが、苦しい気苦労の点にかけては、父の気兼も、兄の気兼も、女中の気兼も知らなかつた。

『女中になつてもいゝ。女中は出来ないかも知れないが、お針にでも雇はれた気になつてたら一生置いてくれるでせうねえ。』

 暗い部屋で一人針を動かして居る自分の姿を思ひ浮べたけれども、何も苦しくはなかつた。自分の未来を苦しいとすれば、それを丁度小説でも読む様に想像して、自分の命が価値あるものゝ様に嬉しかつたのである。そして自殺を考へても然うであつた。が水枝はどう云ふ訳でお師匠様が嫌なのか。病院に居る頃から、水枝を慰める為に好く話して聞かされた、近所の御師匠様のはなしは自分を侮辱するのだと、反抗もし冷笑もした。けつして自分は御師匠様などはするものか、一人身を通す師匠の生活はみじめで、最後は悲惨であると思ひつめたのである。彼は意地にもその信念をつよめた。

『まさか、そんな事ありやしないけれども――そんな事があつたら、阿母さんが承知しやしないけれども。』

 水枝はなんだか可笑しくなつて来た。

『私はどうしてだか御料理をしたり、着物を縫つたりする事が、大好きでたまらないの。』

 雪枝は声も沈んで、

『さう云ふ家庭的に生れたお前が家庭を作ることが出来ないと思へば――。』

 水枝は悪いことを言つたと思つた。どうしたらよいかと急いで、

『私は随分お金を(つか)つてねえ。茂ちやんよりも費つたでせうねえ。』

『あゝ、あれだけのお金を掛けたら、立派な帯と紋附が出来たらうに。』

『阿母さん、そんな事を言つたつて、私が紋附と帯を作らないかはりに、病気につかつちまつたんですわ。』

『それが――お前。』

『阿母さん解つてよ。私ね、明日病院に行かうと思つて居るの。』

 翌日水枝は久し振り病院に行つた。何かまだ病院の空気に未練が残つて、いま一度行つたら、水枝は満足を与へ、あの柔らかな空気が、自分を赤子の様に包んでくれる様な気がして居た。病院は矢張り温室の様に静かに温かく輝いて居た。けれども廊下を通る白衣(びやくえ)の人は皆見知らぬ人で、自分を疎外して居る様に見えた。水枝はなにか腹立たしい様な感じがして、鈴木さんに温かみを求め様として、窓際で話をしたが、鈴木さんは病人をこそ温める人情はあれ、水枝には只弱く静かに、物たりない。山茶花(さゞんくわ)の花を見る程の心をも与へない。いろいろの事を水枝は瞳を輝かして話した――見た事聞いたこと。けれども鈴木さんは何も知らない。何の反響をも与へない。水枝は非常に詰らない気がした。彼女は白き牢獄の尼僧であると考へて、自身の身に考へついた。自分には世の中がある。自分は尼僧の友ぢやない。病院等に来るべき身ぢやない。水枝はダリヤの如き熱烈な熱と力を求める様にあせつた。そして鈴木さんの弱い瞳に、病室の夕ぐれ、青い瞳のうるんだ少女と、枕辺の薬瓶に細長いコスモスをさした白衣の人との対話を、幼き日読んだ物語の様に漸く思出して帰つた。そして、自分がたゞ一つ行く処のやうな気のして居た病院を失つたと考へた時は、たゞやたらに多勢の人が歩く道、日光の輝く戸外が恋しかつた。それで寒い日でも赤い日影を見れば、訳もなく胸が躍つて、どこかへ出たい様な気がした。

 日本髪が時々あきが来て、前髪を高く束髪などに結つた。そしてセピヤの髱櫛(たぼぐし)一つさすと云ふ事が非常に物たりなく思はれた。

 其頃、水枝の友達で目白の学校に行つて居る親戚の娘が、二度ばかり遊びに来た。トランプ等をして騒いだ後、浅草に行くとて、茂も一緒に出ると云ふ時、

『茂ちやん買つて来て頂戴な。』と水枝が恥しさうに言つた。

『なによ。』

『あのノートとね、それから――。』

『それから何だ。』

『あの――あのね、ほらリボンと。』

『それから。』

『それだけなの。』

『なんだ。』水枝は漸く安心した。

『あのね、リボンはね。』

『むゝ、お前が掛けるのかい。そんならよした方がいゝぞ!』

『えゝ、ぢやなんでもいゝわ、くすんだ色なら――。』

 漸く言ひ終つて、水枝は一人残されたけれども、別段自分も行きたいとも考へなかつた。只形のいローマの髪を思つて、白の小さな市松のある甲斐絹地のリボンを頼まうと思つて、頼まなかつたのを残念に思つた。

 翌朝髪を結ひながら、茂が買つて来たかと枕辺を見たけれども、見あたらなかつた。茂が起きて来てからでも、漸くのことで言ひ出した。

『リボンは。』

『う、リボンかい、リボンは駄目だよ。』

『どうしたの。』

『どうしたのツて、お前が掛けやうつてんだらう。』

『だつて。』水枝は悲しくなり出した。

『私はじみに、大人しく掛けるんですよ。それでも茂ちやんは――。』

『大人しく掛けるつたつて、リボンなんか掛けるのは可笑しいよ。お前はなにも掛けずにさうして居た方が一番いゝんだよ。お前には解るまいが――そしてリボンのいゝのは少しもないんだもの。』

『だつて、よし子(さん)や光子様はいつも(かんざし)やなにか挿して居るぢやないの。みいちやんなんか、何んにも掛けた事がない――十四の年から――。』

『それがいゝんだよ。お前も解らないなあ。何んだ! よし子様たちの可笑しいこと。』

『家でばかりなんだけど――。』

 水枝はそれ以上なにも言へなかつた。そして只リボンも掛けられない自身の身を哀れんだ。飾ると云ふ事は女の一生を通じての本能であらう。愛するものゝ為に飾る事がなくとも、只それ自身の為にもするのである。もし一切に飾る事をしなかつたなら女は自分があまりに哀れに下げすまれて、生きて居ることが出来ないかも知れない。

 近頃水枝はすべての事が出来ると考へ出した。で『みいちやんには出来ないだらう。』などと廃人あつかひにされる事が腹立しかつた。で水枝に取つてはなんの事はない。人のした事でも、どしどし悪く言ふのである。

『お前の身を考へて見て、お前に出来ることなら何とでもお言ひなさい。』

 雪枝はよくかう言つて水枝の過言(くわごん)を叱つた。

『私がしようと思つて出来ない事はありません。今迄はしようと思はなかつたから、出来ませんでしたけど――。』

 身を考へろと言はれるのが、一番憎らしく悲しかつた。そして自分の言ふ事は正しい事だと考へてどこ迄も言ふ。雪枝と水枝との間には、僅かな事で争ひが起つた。

 ある日の午後、伯母さんは水枝を近所の招魂社につれて行つた。漸く歩いてベンチに腰をかけた。噴水はまだ(わら)をかけてあつた。あまり多くもない人だけれども、物()い眼で、さぐる様に水枝を見た。水枝は伯母さんに訴へる様な目つきをして、次々と歩いたが、人の眼はすべて水枝の頭の先から足の下まで追うて歩いた。水枝は恰も囚人の様な気がした。あゝ一生涯放たれない囚人である。多数の子供の黒い小さな瞳がハツと一時に切断面に集まつたと思ふと、ピクピクと痙攣して(ころ)びさうにつた。

『私はもう来ない。』と言つて家に帰つた。

 しかし水枝は光りのない家に帰ると、また太陽の光線が油の様に流れて居る白い静かな道や、限りない大空の下の落つきのないベンチ等が恋しかつた。で行くまいと思つた招魂社へも、日盛りの一時頃になると、フラフラと伯母様を誘つて出た。そして、往き来の人の裾のひらめきや、白い足袋の鼻緒の色彩が、夢の様に動く不思議な運動と音楽とを、俯向いた冷たい瞳にうつとりと眺め入つた。けれども、家に帰る時は茫然として帰つた。

跛々(びつこびつこ)つて言ふんですもの。』

『跛と違ひますつて言つてやれやいゝのに。』

 雪枝はいとし相に言つた。

『だつて、あのね小さな子供なんか、私の周囲をぐるりと廻つて、足を覗いて居るんですもの。』

『ほんとにね、子供は解らないから。』

『私子供が憎らしくつて仕様がない。』

 もしも水枝が歩く時伏せた瞳を上げて、土塀に映る影や、横に流れた影を見たらば、子供よりも何よりも、その影が憎らしく悲しく思はれるであらう。水枝は其後母の後に従つて電車通りを歩いた。彼はおどおどと自分の頭の上に烈しい真夏の太陽の熱と光りを感じ、あらゆる身辺には、幾多の星の様に光り物を投げられて居る様な、すべての音響は恐ろしい破壊の音の様であつた。松葉杖を玄関に投げ出して、汗に濡れた体を母の膝に横たへた時、電車通りのある商店の前に置かれたたゞ一輪の花を持つたフリージヤの可憐な姿を思ひ浮べた。と器械の様に歩く人間の様が目に見えた。烈しい熱と光り! 切られた花は、電車通りなどに捨てられたら、忽ち萎えて死んで終ふだらうと思つた。

『阿母さん、人はねえ、なぜ自由にあゝ放逸に歩いてるんでせう。』

 水枝は招魂社の事を考へた。皆人は何処にでも来て道も木も空も世界も自分一人の所有の様に自由に歩いて居る。水枝に対しては世の中の道の木の空のある一部分より与へられない。

 けれども(いさゝ)かな所からでも世間のことが、すべて見たかつた。水枝は日蔭に暮すと云ふことが飽きたらなく、物たらなく考へた。求めさへすれば、何か明るい静かな所が見出せる様な気がした。桜がぽつぽつ咲き相な頃、水枝は漸く一人で招魂社に行つた、なにか足りない心を満たさうとして。また強い刺戟を求めやうとして。――(やしろ)の屋根の金色した菊の御紋がキラキラと輝いて居た。彼の空想は非常にたくましい。すべて未知の世界の事について――男の事、恋の事など水枝の胸を縦横にかけめぐつた。

 その頃から彼は決心しなければならない様に、自分の心に見えかくれした小さな芽をグーと引張つて結びつけて終つた。雪枝が時々、

『お前さへ病気をしなければ親類中で家が一番勝つたんだけれども。お前がどうも――。』なんか云ふ時、水枝は非常に(いきほひ)づいて、

『さうぢやないのよ。私が病気しなかつたら負けるんだけれども、私が病気したから勝つたのよ。私は今に立派な小説家になつて見せるわ。』

『お前が――。』と雪枝は笑ひながらも、娘の態度を頼もし相に、

『お前が小さい時であつた。さう阿父さんが居なした時だから、三つか四つの頃だつたらう。お前が紫のネルの寝衣を着て居たので、阿父さんが成長(おほき)くなつたら紫式部になれよ、紫式部になれよつてお前を抱く度に聞かして居なしたものだから、訳のわからないお前までが、紫式部になるつてさわいで居たが――お前がそんなになつても、ひよいと阿父さんの言ひなした通りに――。』

 水枝は瞳を輝かして、

『阿母さん、それはねえ、阿父さんが私の運命を予言したのよ。私は矢張り幼い時からかうなる運命だつたのね。』

 彼女は非常な決心がある様に、また反抗する様に、

『私はどうしても予言通りに進まなければならない。ね、阿母さん、私はどんな事があつても進みますよ。』

 水枝はその頃からすべてに反抗する様な、そして自分は偉くなつて、すべての人を見返してやらなければならない様な気がして、ある大きな仕事に手がつかない様にそはそはして居た。それから彼はすべて空想を描かうと考えた。自分には小説に書く様な、華やかな、そして物悲しいローマンスをも持たない。一人の男も知らなければ恋もない。これから以後、今以上の経験や事件があり得ようとは思へない。まして恋の経験等は絶無だと考へた。自分はそんな事の出来得べき女ぢやないと考へたのであらう。この悲しい淋しい心を()しい侭に描いた恋や空想の中に入れて楽しませたならば――水枝はさう考へたことが非常に嬉しく美しく楽しく清らかな様に思へて微笑{ほゝゑ}んだ。

 一生波瀾のない変化のない生活! そして自分は三十三で死ぬ。とさう考へたら急に寂しく果敢(はか)なくなつた。火の様に人を恋して狂女になつたら――弱い優しい心が急にそれをなだめた。そしてまた元の心に帰つて水枝は安心した。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2006/03/03

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素木 しづ子

シラキ シヅコ
しらき しづこ 小説家 1895・3・26~1918・1・29 北海道札幌に生まれる。札幌高等女学校在学中から「少女世界」の常連投稿者であった。4年生の秋、結核性関節炎を罹病。翌年一家とともに上京し、間もなく右足切断。やがて作家の道を決意し、森田草平の門を叩く。「松葉杖をつく女」「三十三の死」など発表して、好評を得、新進作家として嘱望された。静養先で、同郷の無名の画家を知り、親族の反対を押し切って結婚した。貧窮の中で次々に作品を発表し、樋口一葉の再来との評価を受けるが、大正7年、23歳で結核悪化により死没。作家生活はわずか5年ほどであった。

掲載作は、その右足切断という運命の苦悩と悲哀をもとに描いた、1913(大正)2年『新小説』に発表された処女作である。

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