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純文学と文芸誌

 坂本忠雄 様

「文芸誌とは何か、何だったのか」のコピーをいただき、拝見しました。その感想を手紙のお返事として書くよりも、評論風に別仕立てにしたほうが、自分の言いたいことがはっきりすると思われましたので、次のようなものを書いてみました。ご笑覧下さい。

 

『文芸誌とは何か、何だったのか』を一気に読了する。聞き手の斎藤美奈子さんの質問の仕方が悪い、というほどではないのかも知れないが、腰が座っていないような感じがする。

 もともと本文は、岩波書店が出した『21世紀文学の創造』というシリーズのなかの一冊で、その第四巻『脱文学と超文学』に収載されている九つの論稿の一つである。質問を受けているのは坂本忠雄氏、『新潮』の編集長を長く勤められた方だ。きびしいことで定評のある方だから、これ以上適切な人選はないと思われるのに、なんとなくテーマにそぐわない内容になっているのは、最初、斎藤さんの質問のせいかと考えたのだが、このメイン・テーマの立て方のほうに、むしろ問題があるのかも知れないと思い直してきた。脱文学とか、超文学という文字が、新鮮なようにチラチラしていたのが、正直のところ、実態のない飾り文句に見えてきたのである。

 ぼくは五十年、同人雑誌をつづけてきたので、この中で坂本氏が語っておられることの多くを、耳学問で知っていた。しかし、びっくりすることも勿論いくつもあった。その一つは、文芸雑誌が赤字であることは知っていたが、『小説新潮』や『オール読物』までが、いまや赤字で、出版社のお荷物となっているという事実は初耳であった。いわゆる中間小説の雑誌類は、かつては四十萬部も出て、ドル箱だったようだから、この衰退の意味は、別に考えなければならないだろう。

 また赤字だから、雑誌発行の意味はないとか、出版社のなかで文芸雑誌の編集者たちは小さくなっているというのも、総合的に考えれば、変である。同人雑誌にいるぼくたちは、雑誌の発行は、作家を専属のようにすることと、本にする原稿とを確保するための手段だと聞いていた。だったら、赤字の部分だけを切り離して考えるのは、おかしいのは当然のこと、両者を一体にして黒字になっていれば、目くじらを立てることはない。非生産部門と過剰生産部門とがあって、共同して事業を行っているというに過ぎないだろう。

 本文には、いくつもの小見出しがついているので、列挙してみる。おおよその内容を推測することも出来ようからだ。

 ■ 文芸誌って何ですか?

 ■ 純文学と中間小説

 ■ 文芸誌共同体

 ■ 文芸雑誌編集者と文学者の関係

 ■ 八○年代以降の作家と編集者

 ■ 文学賞の功罪

 ■ 文芸誌の可能性

 以上であるが、主に坂本氏の言葉にならって感想を述べてみたい。断るまでもなく、目標は《純文学とは何か、どうして衰退したのか、それが生き残る可能性はあるのか》ということが、中心であって、派生してくる問題は、本当は、本質から外れていると考えるほうが常識であろう。

 最初の項目の第一問、だから真っ先の斎藤さんの質問の言葉が、「文芸誌とは何か、全く知らない読者のために」云々であったのには、仰天した。『文学の創造』というこのシリーズを買って読もうというほどのひとのなかに、その種の読者がいるという想定、仮定のほうがぼくには驚きであった。そこまで考えなければならない世の中になっているのなら、もう処置なしであろう。放って置いたほうが、良い。

 ぼくは、文芸誌が頂点にあり、その下に大小無数の同人雑誌群がたむろして、ピラミッド状態をなしていた、その堆積が何時、何故崩れてしまったのかに興味があるのだが、そういう話題はこの中には出てこない。《同人誌文壇二軍論争》などのことは、もう誰も知らないのだろう。

 ここで興味がわくのは、かっては文芸ものは、総合雑誌の片隅にやっと居場所を確保することが出来ていた、ということであろう。『中央公論』や『改造』が檜舞台になっていた。瀧田樗陰が有名な編集者で、彼の人力車が家の前に停まると、その家の物書きはもう一流の作家になれたとか、芥川が村松梢風のような読み物作家と同列に並ぶのはいやだと執筆を拒否したというゴシップなら、ぼくでも知っている。

 それほどの権威に支えられていた文芸欄が、その程度以上の発展は見せずに、独立した文芸雑誌のほうが、それ以上の権威を持つようになり、部数もそこそこの伸展を見せたということは、少数かも知れないが、文芸ものを読みたいという熱心な読者が、確実にいることを示すものであり、それを過大に、時に過少に見計らってしまったことが、現今の文芸誌の不振を招いた根本にあり、はっきりと言えば、出版社の盲点に入ってしまったのではないのだろうか。

 そこで、ついでのことだから、一挙に最終項目の「文芸誌の可能性」に飛んで、結論めいたことを言ってしまうことになりそうだが、述べてみよう。

 斎藤さんの、《単行本の受け皿、製造工場みたいな役割が大きくなった》という問題提起の下敷きに対して、坂本氏はこう答えている。《文学プロパーだけではもう厳しくなってきているので、文化全般のジャンルを貪欲に取り入れたほうがいい》という考え方を基本として、進みたいと言っておられるように取れるが、すこし視角を変えると、微妙に違った発想をしておられるのではないかという感触を持たされる。

 この考え方の基本には、ぼくは安直に賛意を示したくはない。この対談の中間部分で坂本氏が強調されているように、文芸誌の発行部数は、最盛期にでも、たったの二万なのである。現在、それは半分以下になっているだろうとおっしゃる。本当に文学の解るひとは、坂本氏は三〇〇〇と思ってやってきたと、率直に言われる。その外側に、甘く見積もって七〇〇〇から八〇〇〇、いまではそれもずっと減っているだろうと言われる。

 その通りだろうとぼくも思う。だったら、思い切って三〇〇〇部しか刷らないほうがいい。いや、この数を三、四誌で争うのだから、一〇〇〇部でも余るだろう。一人で二、三種類の雑誌を毎月とっている文学愛好者や作家志望者、文学青年の存在なんて、全く信じることは出来ない。

 これでは採算がとれないという発想は、最初に言ったように、基本から間違っているのである。採算がとれなくても、いまでも同人雑誌は滅びないで耐えているのである。十人前後の同人が、七、八十ぺージの雑誌を、年に二回以上は出している。長年続いている同人雑誌は、みなその程度の動きを何年も根気よくつづけている。そんなちっぽけな規模でもできることが、大出版社にどうして出来ないのだろう。それは、やはり本気でやる気がないからだと解釈せざるを得ない。この思考法には恐らく坂本氏は失笑されるだろう。そこで、ぼくが質問者になってみよう。文芸雑誌は、

 ☆ 定期購読制をとることは何故できないのだろう。(但し、いまの雑誌の状態では、無理というより、皆がいやがるだろう)

 ☆ もっと薄い雑誌で充分、どうしていけないのだろうか。

 ☆ 連載はやめるべきだろう。少なくとも、読み切り連載に限定できないのか。

 ☆ 長編一挙掲載したかったら、単行本で編集者の識見を賭けてみるべきではないのか。

 ☆ 文壇に出ているひとの作品は、採用レベルはうんと高くして、無名の作者をどんどん登用できないのだろうか。(新潮社は、例年十二月号でやっていた全国同人雑誌推薦作品特集をなぜ止めたのだろう。あんな好企画はなかったのに。小島信夫や河野多恵子、瀬戸内晴美など、みんなあそこから出発したのに)

 ☆ 同人誌その他からの転載を積極的にやれないのか。(『文学界』がやっているが、回数が少ないし、評価の基準の低いことがしばしばである)

 ☆ 新人発掘専門の批評家を養成すべきではないのか。新人と言うよりは、新作品と言うほうが本当だろう。(これは編集者の専門家でもいい)審査は有料にして、簡単な批評をつけて返送の仕組みにすれば更にいい。

というような試案が、すぐに頭に浮かんできた。だから、文芸誌の未来図というか、将来の可能性という方向を眺めると、坂本氏とは逆に、外側に向かって門戸をひらくよりは、文芸としての純粋性をもっともっと守るという方角へ動きたいという気持になる。

 その意味では、坂本氏が提唱しておられる、《外国の作家との交流を深めよ》ということや、《評伝文学という分野を確立し、推進したい》という二点に関しては、大賛成である。率直に言わせてもらえば、これまで編集者たちは、雑誌の内容についての考察が乏しかったのではないだろうか。《大学の紀要を書いているだけではいけない》という言葉が出てくるが、これはどの程度の重みをもって言われたのか分からないが、言葉としてはその通りなのだが、実質においては、天地のへだたりがあるのではないだろうか。例えば、文芸誌の執筆者の肩書を一覧してみると、そこにおびただしく登場しているのが、大学の先生連中であることが、よく判る。かれらは文学部で教えている通りにしか、文芸作品を生み出すことが出来ない。書く小説は、文学部にたむろする学生たちの生態を出ることができない。社会というものを形成している種々の職業や環境への知識がなく、軋礫を繰り返している人間関係の繁雑さへの体験がない。

 そういう人生しか体得していない人の書く小説というものが、ある型にはまって、見事に文学的であることを、善しとしか見ていない。一般の人々が読むと馬鹿馬鹿しい状況や人間関係の在り方が、心理の回路や交錯が、文学的という固定された視角からばかり評価されているので、一般の社会人から眺めると、ただ神経質でいじましいだけで、面白くもおかしくもない。そんな小説なんか、読んでもあほらしいばかりだから、いわゆる中間小説のほうへと視線がゆき、勿論それらも文芸誌に毛の生えた程度のものだから、時代ものや、探偵もの、ドキュメント、実話ものへと趣向を変えてゆき、年配者は文芸雑誌を読んでいることを表向きにすることは出来なくなる。

 坂本氏があげておられる、八十歳近い愛読者などという代物は、極端な例外であろう。私事にわたるが、大学の医局に通いながら開業医になるための勉強をやり直していたころ、帰宅の電車に、もと勤めていた総合病院の院長と一緒になったことがある。乗車時間は一時間半ほどで、読書には手頃で、ぼくはいつも文庫本の小説を読むことにしていたのだが、わずかの世間話や病院の近況を話し合った後に、院長がとりだした雑誌を見て、ぼくはびっくりした。院長は外科医だったから、その方面の医学書だろうとちらっと視線をやったところ、なんと『文学界』だったのである。白髪の初老の男との取り合わせは、珍妙であり、理由もなく滑稽に見えた。

「先生は、そんな雑誌まで読まれるんですか」と思わずぼくは言ってしまった。

「ああ、二十代から続けているよ。大岡昇平が高等学校の同級で、仲がよかったんだ。そうだ、君は小説を書いていたんだねえ。大岡に紹介してやろうか」

「いいえ、結構です」とあわてて答えた。院長はぼくたち夫婦の仲人だったから、今にしてせっかくのチャンスをと惜しい気がするが、これは余談である。

 小説は青臭いが、評論もよくない。それこそ紀要のまがいものがほとんどだ。年譜に外国の文学理論をまぶしただけの代物がまかり通っていて、かむと活字がパリパリと音を立てそうな気がする。あちらでは哲学書だって普通の言葉で読めるというのに、この国の文芸誌の評論は、特殊な文学用語の知識がないと、解読不可能である。もっとも、解読できたところで、味もそっけもない内容を読ませられるだけで、本当の知識となって胸の奥にたまってくれることなど更々ないのだから、読むはしから忘れてしまうのである。

 坂本氏の指摘でやっと気がついたのだが、ツヴァイクのような作家は、我が国には一人も育っていないなあ。いや、育てようと誰もしなかったのだろう。そういう発想さえ浮かんだことがなかったのか、企画としては出されたが、つぶされたのであるのか。

 だんだん横道に逸れてきたが、ついでにHという、若くて急死してしまった評論家の話を書くことにしよう。Hはよく口にした。「おれはカフカやドストエフスキーを論じることが出来るんだ。いや、論じたいんだよ。だけど、出来ない」「どうして?」とぼくは尋ねた。「判ってるじゃないか。おれには学歴がない」彼は技術屋からの転身で、たしか電気関係の専門学校しか出ていない。「学歴なんか、問題じゃないよ」とぼくは言った。「そうじゃないんだ。語学だよ、語学ができないことを、みんなが知っているから、原語で読まないで書いた評論なんか、信用ならないと言うに違いないのだ」「原語なんか、誰だって知らないよ。せいぜい英訳本から読んでいるくらいだろう。英訳が原語にまったく同じという保証なんか、どこにもないんだ」「それでも、違う評価を受けてしまうんだ」「黙って書いて、編集者に持って行ってみれば」「やっぱり、読みもしないで、突っ返されるだけだね」

 日本語で書いたものでさえ、まともに読めるひとは、数が少ないと言いたいところだったが、ぼくは口をつぐんだ。Hの言うことに一理ありというよりは、それが現実の社会だろうと考えられたからだ。Hはだから、古典や仏教哲学のほうからはよく引用して、論文を書いていた。しかし、それらには速読のための誤解や、早とちり、表面的な理解による誤読も多かったが、世の中では立派に通用していた。酒飲みの喧嘩っ早さで、評論家の仲間でも、一方の旗頭になりつつあった。三島由紀夫を面詰しても通るくらいの顔になりつつあったのだが、病名不明で一日で急逝した。糖尿病が起因の脳出血ではなかったかとぼくは推論しているが。

 前置きや、末節への世間話が余分になってしまったが、ぼくは坂本氏の解放・拡大論には賛成できない。文芸雑誌を読みたいひとは、良い小説や文芸評論、詩、座談会、随筆などをずっと読みたいのだ。だから、七十歳になろうが、八十歳になろうが、そういう雑誌があれば、是非読みたいのだ。年をとったから、肩のこらない講談や大衆小説、探偵ものからドキュメンタリィにくら替えをしたがるというのは、一種の通念であり、若い人の老人を知らないための単なる推論にすぎない。文芸誌編集者たちの根拠のない推論によって、文芸誌は若い文学青年たちだけしか読まないものと決めつけられているだけのことだと、ぼくは信じている。

 その根拠を示せと言われると、困惑せざるを得ないが、どんな町村に行っても一つや二つ、都市部なら四つや五つにとどまらない読書会の隠れた繁栄を見聞し、専門家に統計を取ってもらえば、びっくりするような数字が出てくるのではないかと思う。各読書会には十人前後の人々がおり、熱心に毎月集まって読んでいる。かれらが困っているのは、小説の良書の選択である。文庫本には、相変わらず漱石、鴎外、藤村などなどが並んでいるばかり。中間層の力のある作家のものがあまり無い。若い流行作家のものはたくさんあるが、みんなチャラチャラした若者のお喋り本ばかりである。眼の肥えた中年層にくいこめる文芸雑誌があっていいはずなのに、誰も作ろうとしない。読書会用の本当の文芸誌を作ってみたい出版社が、なぜ現れないのだろうか。

 ぼくが目指す未来の文芸誌とは、そういうものだ。

 話が前後したが、《純文学とはなにか》というのは、難問である。ぼくはあるとき医者たちの会席のど真ん中で質問を受け、窮して立ち往生した。解っているひとには、質問するまでもなく、解らないひとには、いくら説明しても解らないから、難問なのである。音痴にどこが音痴なのかを説明するようなものだ。その時には、一人の外科医が、「純文学とはね、額にこうやって立て皺を寄せて読む小説のことさ」としかめた顔を突き出す助け舟を出し、十数人、輪になっていた医者たちがどっと笑っておしまいになったが、ぼくは釈然としなかった。社会的には知性のあるグループに入るはずのこれだけの人々が、純文学を知らない。実物を知らないのか、言葉を知らないのか、読んでいても実感していないのか、エンターテインメントと区別できないのか、できるから娯楽小説のほうが良いと思っているのか、さまざまな思いがこみあげてきて、複雑な気持だった。酒が急にまずくなった。即答できなかった自分が情けなかった。

 坂本氏は純文学を《正確をめざすもの》と表現されているようだ。これも解釈がむつかしい。氏は《執筆の動機、主題、表現などの課題を、自分のヴィジョンに照らして最も正確に表す》というように敷延(ふえん)されているので、すこし分かりやすくなった感じはするが、やはり抽象的な発想であることは免れず、一般の読者には何のことやらさっぱりであろうと思う。実際に小説を書くことに腐心しているひとだけに理解される言い方ではないかと思う。

 ぼくはよく一片のノイエス(新しいもの)があればいいというふうに考えた。ノイエスというのは、医学の論文を書くときに使われる言葉で、それを文芸に応用してみたのである。坂口安吾は、スペシアリテ(専門性)という言葉によって、読者も勉強してある境地にまで昇ってきてもらうしかない、という意味のことを断言している。ぼくもそう思う。むつかしいことではなく、小説なら小説で、その種のものばかり読みつづけていれば、自然に身についてくるものだと確信している。この読者教育という意味ででも、しっかりした、大人の読める、喜んで楽しく読める文芸雑誌を、心をこめて作ってほしいと熱望するのである。

 坂本氏の具体的な定義として、《読んでいて途中からストーリーがわかってしまう》というのがあり、分かりやすいものの、疑問がないわけではない。ぼくは逆に《再読に耐える作品》ということを言いたいと思う。この場合は、ストーリーはもう分かっているも同然なので、なぜそれを繰り返し読んで、しかも感動するのだろうかと考えざるを得ない。もっと卑近な例だと、落語がある。あの筋も落としも承知していながら、なんどでも聞きに行き、笑うというのは、何なのだろう。落語家の表情や身振りがもたらすものなのか。芸か。呼吸か、間のとり方か、乗せ方なのか。雰囲気のなかに没入することなのか、あたかも自分が話のなかの登場人物であるかのように。

 ストーリーの結末が見えているのに、作者だけが知られていないつもりで書いていると太宰治を難じたのは、志賀直哉の有名なエピソードだが、太宰治は「如是我聞」を書いて反撃した。この一点に関しては、志賀の明らかな勇み足であり、我が身を顧みることのなかった傲慢さの現れであろう。私小説が純文学であるというような迷妄を、文壇に出ているひとまでが口にしている現状は、なげかわしい。当然、猛反撃にさらされるかと思えば、誰もなにも言わない。民主主義教育はこのような温厚で不誠実な人間どもを作り出すことであったのかと、情けなくなる。せめて文学を志すひとのなかに、反骨を期待したいと思ったが、夢は消えた。

『中間小説』という、言葉をひねりだしたのは、誰かは知らないが、これは読者に対しても、作家側に対しても、大失敗だった。言葉が定着してしまい、現物を眼の前にしてレッテルを張りつけてしまうと、どうにもならなくなってしまった。明らかに純文学の作品が、中間小説にまぎれこんでしまった。純文学の作家が出来のわるい作品を書いても、中間小説だと言える逃げ道を作ってしまった。小説のわからない読者が、こんな面白くもないものが文学かと考えるようになった。やがて来る衰微は、眼力のある編集者には予見できたはずではないのだろうか。井伏鱒二や梅崎春生が、直木賞であり、歴然たるポルノ作家が芥川賞をもらっている図は、文壇の恥ではないのだろうか。選考委員もふくめて、文学の世界のいいかげんさが見え透いている。文学をやる者は、清貧に甘んじ、もっとかたくなになる決意を固めなければ、いけないのではあるまいか。

 坂本氏が、発言した内容で、ぼくを刺し貫いたものが、いくつかある。それについて述べることで、この迷走船を陸地に引き上げてしまうことにしよう。海は広いし、この迷走ぶりでは、どこの港を目指しているものやら、到着するものやら、当ても見込みもなくなってきたらしいからである。

《純文学の場合一番まずいのは自作を模倣することだと思います》というのは、最高のショックでした。自作を模倣する、なるほどと思った。こういう厳しい言い方があったのだ。具体的には解らないが、あり得ることだと確信できたし、そのような評価の在り方もぼくは知らなかったし、これまでにも似たような言葉さえ聞いたことがなかった。文学賞をもらった作家の大部分が、自分の守備範囲から出ようとしない。坂本氏の言っていることは、同じようなことなのだろうが、はるかに厳しい。しかし、多くの先輩たちは、自分の領域をつかんだことを成功と考え、それを守りつづけることが作家の道であると断言してきた。ぼくもそう信じながらも、そこで文学的成長は止まるのではないかと、首をかしげてはいたのだが、その程度のものだろうと、いわば文学をなめていたのである。模倣!模倣!そういう視点もあったのだ。多くの編集者たちは、忠告することをあきらめてしまってきたのだろうか。ここまで言われたら、編集者と作家との関係などというテーマは、甘いし、あれこれ実情を述べたところで、すべて世迷いごとだろう。

《原稿は耳で読む》というのも、良い言葉ですねえ。質問者の斎藤さんも感嘆しているが、この言葉もどんな批評家からも聞いたことがない。坂本氏はやっぱりこわいひとだ。そのことをぼくに教えたのは、言葉にきびしい人という表現だったはずだが、森敦さんだったか、駒田さん、松村肇だったか、一向に思い出せないが、みんな死んでしまった。

《批評家的な編集者というのはダメですね》、というのも良い言葉だ。

 そして最後に《近代文学を形成した作家たちはまず賞とは無縁ですよ》という、背中が凍りつくような一言をあげて、おしまいにすることにしよう。

 小見出しの選別を見ても分かるように、斎藤さんの質問というのは、甚だ現代ジャーナリズム風であって、ソツはないのだが、本気になって文学の未来像を探索したいというような熱意は感じ取れないものである。

 しかし、その程度でいいというのが、当世風なのだろう。思い込みがはげしすぎては、次の仕事に差し支えるのである。職業としての態勢から考えれば、なかなかに見事なテーマの取りようであって、取りこぼしなどはなく、うまく、うまい結論へと導入してゆく手腕の人と言うことができるだろう。

 しかしぼくは、あえて泥臭くなりたいと願っている。作家も批評家も、みんなスマートになりすぎた。泥をかぶろうとはしなくなった。かぶったところで、うまく行って自己満足が得られるくらい、下手をすると自分だけが泥まみれとなるだけで、みんな高みの見物、温厚そうな笑顔で鑑賞していてくれるが、なに、腹のなかでは舌をだしてあざ笑っているのである。

 みんな同人雑誌なんか読まなくなった。その中から新しい作品をひろいあげることを誇りとは思わなくなった。森敦さんは、顔を合わせるたびに、君たち用心しろよ、作品を盗まれないように気をつけろよと言ったものだが、そんな心配など無用の世の中になってきた。

 それに応じて、文芸雑誌も読まれなくなった。同人雑誌をやっている連中が、聞き知る限りでは、一人として読んでいない。読まなくても、小説は書けるし、出来上がったら懸賞に応募すればいいのだから、作品を見せ合って悪口を言い合ったり、喧嘩をしたり、その上になけなしの財布をはたいて印刷所に持ち込み、出来上がった薄っぺらな雑誌をそちこちに送りつけて、吉報を待つなどというような作業は、茶番以外のなにものでもないのである。みんな賢くなって、世渡りが上手になった。

 すでにうたかたと化した同人雑誌のように、文芸雑誌が同じ道を歩くだろうことは、眼に見えている。

 だが、雑誌はともかくとして、文学はこれでいいのだろうか。良い小説とはどんなものなのか。感動するとは、どういうことなのか。このあたりで手をとって教えることをしないと、干からびた枯れ草のような人間ばかりが、はびこってくるばかりだと思う。そしてこのことは、いま大人のふりをしている我々の責任なのだ。子を見るには、親を見るに如かず。たぐってゆけば、敗戦後だけでもすでに半世紀、我々はなにかを残そうとする努力を、少しはしたのであろうか。

    平成十四年五月二十八日0時

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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庄司 肇

ショウジ ハジメ
しょうじ はじめ 作家 1924年 父勤務地の関係から朝鮮慶尚南道で生まれる。大野茂男賞。

掲載作は、2002(平成14)年5月28日執筆、2004(平成16)4月1日、同人誌「きゃらばん」52号に掲載。

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