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大百科事典の完結に際して思い出を語る

   一

 

 三歳にして父を喪い、母の手一つで育った私は、恥ずかしながら満足に学校教育を受け得なかった。小学校へは十一歳まで通い、十二歳から学業を廃して家業を助けねばならなかった。しかし生れついた知識欲は年と共に成長し、激しい労働に服しながらも夜学などして一日たりとも研学の志は捨てなかった。二十一歳の時、神戸に出て小学校代用教員になり、独学にて小学校教員の免許を得た。私の奉職した小学校は、五十余の学級を有する学校だけに、参考書が豊富であった。私は、小学校尋正の検定試験に合格してからは特に国語に興味を覚え、他の宿直までも引き受けて、学校図書館の蔵書を片っ端から辞書を引き引き耽読した。その頃、たしか佐村八郎氏の『国書解題』が分冊刊行中だったと記憶する。幾月目にか到着する仮綴じ本を貪り食うように一行一行読み耽った。「解題」を読みながら、『埃嚢抄』、『うけらが花』、『翁草』、『あゆひ抄』、『かざし抄』、『貞丈雑記』など実物を読み得たらばさぞと、帝国図書館のあると聞く東京の空に憧れた。大槻文彦先生の『広日本文典』、同別記がその頃刊行せられて流行した。これをも、私は幾度となく読み返した。腰折れ和歌、月並発句を同僚と共にものするようになったのもその頃。読書欲とならんで創作欲も進み、日本文学史の新組織を立て、謡曲、狂言の文化史的研究を試みなどした。一方、学校教育上の仕事にも自分の研究を結びつけることを怠らなかった。『小学校における国語及びその教授法』と題する二百ページ足らずの一書を著作したが、もとより、出版を引き受けてくれる書肆(しょし)のあろうはずはなく、ついに自費で出版した。菊半截仮綴じ本一冊二十五銭、それでも千部刷って七百部ばかり兵庫県下だけで売れた。これが私の処女作であり、処女出版だったのである。

 

 二十四歳の暮れ、憧れの東京に出て、帝国教育会の国語漢文講習科というに入学した。これは夜学で二年修了の制度だったが、半年で止めた。先生の講義を聞くより図書館で研究する方が実のある勉強が出来ると思ったからである。私は、その頃、言語学、比較文法、文章法の研究に興味を覚え、その方面の書物はずいぶん広くあさり読んだ。文法は、初めに文の組織を簡単に説明して品詞に入り、品詞の分類から声音学、文法学に入り、さらに各品詞の個別的説明に進み、最後に、文の解剖に及ぶべきだというような、一家の見を立てて総合文法書の著作を思い立ったりした。

 

 明治三十五年から四十年までは、新興日本の胎動期であった。文学界にはロマンチシズムから自然主義への移行があり、思想界には、社会主義、美的生活、自称神仏輩出などの混迷が連鎖し、現実社会には日露戦役が戦われた。時代は、国語国文学の一小学徒を駆って、哲学宗教に耽らせ、社会主義にかぶれしめ、暴露文学に興味をもたしめ、学問上の一浮浪人たらしめねばやまなかった。

 その頃である。丸善が『エンサイクロペディア・ブリタニカ』の第十版三十五冊を予約申込金のみで一時に配本し、あとは月賦で集金するという大胆な販売法を発表したのは。私は友人と共同して早速予約したが、十分には咀嚼できぬまでも、その内容の豊富なるに驚かされ、わが国にもこれくらいの整った百科事典があってもよいと思った。

 

 明治三十八年から四十一年まで、私は日本女子美術学校の教師兼幹事となり、私立学校経営の艱苦(かんく)をつぶさになめたが、その間に私は美術研究にも深入りし、学問上の浮浪人は、さらにその浮浪的地域を拡げた。国語国文学も愉快だが、哲学宗教にも深みがあり、社会科学も教育学も面白く、文学美術にはまた捨て難い醍醐味がある。初め、国語国文学の研究に出発した私は、歳三十にしてついに興味過多症に陥り、種々の方面へ心が拡がって行った。

 

 明治四十一年から約二年間、大久保百人町の小さな藁葺小屋に独居して、戸山ヶ原に山の芋を掘り、東中野の小流れに蜆を拾い、鉄無地の十徳を着て、さながら隠者の生活を続けた。徳冨蘆花を粕谷の農園に訪い、メシア・ブッダの宮崎虎之助と道すがらに語りなどして、自ら悟りすました気にさえなっていた。

 今も監獄の教誨書などになっているという話の『通俗菜根譚』、『通俗呻吟語』、『通俗読書録』、『通俗言志四録』、『通俗洗心洞剳記(せんしんどうとうき)』、『現代語訳靖献遺言(せいけんいげん)』などは、私のその頃の著述である。

 

 明治四十三年中等教員検定試験に合格し、明治四十四年、埼玉県師範学校に職を奉じ、教育学、心理学、倫理学などを講義することになったが、この学校はかつて文部卿森有礼氏が、わが師範教育制度を創始するに当って、実験的に諸制度を試行した学校ではあり、横田国臣、清浦奎吾(けいご)などいう後の諸名士が教鞭をとったことのある学校だけあって、和漢洋の参考書が夥しく用意せられてあった。後年、学校火災のために大部分焼失はしたが、当時は『古今図書集成』、『佩文韻府(はいぶんいんぷ)』、『二十一史』、『資治通鑑(しじつがん)』、『通鑑綱目』、『群書類従』、『史籍集覧』、『古事類苑』、『国史大系』の類は言わずもがな、辞書類では『三才図会(さんさいずえ)』、『雅言集覧』、『古今要覧稿』、『和訓栞』、『嬉遊笑覧』、『日本社会事彙』、山田美妙斎、物集高見らの国語辞書をはじめ、三省堂版『日本百科大辞典』、『言海』、『ことばの泉』、『仏教辞典』、『美術辞典』、『ウェブスター英辞書』など一通りの研鑽に必要な参考書は、ほとんどこと欠かぬ程度に備わっていた。興味過多症に(かか)っていた私はこの学校に勤めることによって恵まれた。ことにそのころ、外国書の翻訳で大きな貢献を示した文明協会本の第一期、第二期が刊行せられていて、語学の力の足りぬ私に、百科的知識を吸収せしむるに絶大の便宜を与えてくれた。『価値の哲学』、『社会の経済的基礎』、『今日の化学』などいうような書物は、独学者の私の知見をどんなに広めてくれたことか。五十冊近い文明協会本を私はほとんど目を通した。理解を助けるために、三省堂の『日本百科大辞典』を時おり開いて、辞書の有難さをしみじみ味わったが、さて、辞書は用い慣れると、欠点が眼につき、次第によき辞書への欲求が起こる。私の百科事典編纂への意志は確かにこの時代に潜在固定した。

 

   

 

 大正三年、私は『や、此は便利だ』と題する新語辞書を著作し、これを成蹊社という出版社から発行したが、資金関係でその社がつぶれ、私自身自ら出版せざるを得ぬことになった。これが平凡社のそもそもの起こりである。平凡社という名は、どういう意味かとよくたずねられる。いろいろの名を選んで見ても、高尚な名にはすべていわれがあり、偏りがあって面白くなく苦しんでいると、傍から妻が、それなら平凡社がよいでしょうと言い出したので、それをそのまま社名とした次第で、深い意味は何もなかったのである。

 さて『や、此は便利だ』を通信販売法によって発売して見ると、随分よく売れる。売り出した年一年に三万部くらいも売れた。この書は、単に新語、流行語の辞書であるばかりでなく、文字の用法、人口に膾炙(かいしゃ)する詩、歌、句、格言、故事、諺などの略解等もあって、私どものような学校教育を満足に受け得なかったものにとっては、便利な書物である。つまり、私自身必要とするところ他もまた必要とするであろう、という信条に立っての出版だったのである。

『や、此は便利だ』がよく売れたので、私はこれに力を得て、早く立派な百科事典を発行するような機会をと待ち望んだ。

 平凡社は、おいおいに発展して、大正十二年六月、株式会社になり、九月の震災で焼失したが、『や、此は便利だ』、『神祗辞典』、『家政講話』などの再版もので社運を挽回し、昭和二年『大衆文学全集』、『世界美術全集』の二大叢書を出版するに至って平凡社の社会的声価は高まり、社基もようやく立ったから、私は世界的な百科事典の完成へと徐々に準備を始めた。

 当時、私の考えた理想的な百科事典は、四六倍判千五百ページのもの三十六巻、世界のありとあらゆる事象を網羅説明し尽すというにあった。で、まずその準備出版を始めることに注意し、昭和二年から昭和六年までに、計画し、着手し、中止した百科事典が五種ある。 (一)『国民百科事彙』(菊判三冊案)。(二)『分科百科事典全集』(四六判八百ページ十五冊案)。(三)『常識百科全集』(四六判千ページ十二冊案)。(四)『文明百科新事典』(四六判七百ページ十二冊案)。(五)『小型百科事典』(四六判七百ページ十二冊案)。このうち、『文明百科』と『小型百科』とは、名は異なるけれども、実質は全く同じ案であった。

 昭和四年春、かつて、高畠素之君の『社会問題辞典』の編纂にたずさわったことのある小栗慶太郎君から国際辞典を発行せぬかとの奨めがあった時、これは狭くて営業性に乏しい、分科百科事典の案があるからその一つに加えてもよいと話して別れた。その後、一方、児童百科事典の項目選定中だった大西伍一君と、さらに一方、国語大辞典の執筆委嘱中だった松浦林太郎君と小栗君と私との間に話が熟し、案がかなり成長したので、昭和四年の暮から、編纂に着手し、昭和五年五月、笹塚に編纂所を特設して、専門の編纂者が毎日五、六人従事することになった。これが前記の『小型百科』案だったのである。

 昭和五年秋、笹塚を引き上げて、虎の門の和合倶楽部に編纂所を移転した時には、小野俊一君の指導の下に、正垣清君、関本重雄君、犬飼時男君、神永文三君等が加わり、社外執筆者数十人を委嘱し、一方原稿を依頼すると共に、一方カードの整理を行ない、着々編纂事務は進行して行った。しかし、仕事が進むにつれて、いろいろの困難が起こった。

 社外から集まって来る原稿は、長短とりどりでそのまま使うわけに行かない。項目選定の標準を現代文明に重きをおくとはいえ、百科事典としては歴史的記述が大切である。中等程度の学生を標準にするというものの、そういう程度を目安に原稿を書くことは困難である。出版後の営業成績にも自信が持てそうにない。

 むしろ思い切って、年来の宿望たる『世界大百科』を一挙に完成しよう、『小型百科』、『分科百科』はむしろ『世界大百科』完成の後に譲ろう、それがよいと決心した。

 かくて、『小型百科』への過去の努力の集積を一応すべて反古(ほご)にし、何万円かの投資を無にして、ただ苦難の経験だけを生かして、ここに新たなる大計画『世界大百科』へと方向を急転回した。

 当時、平凡社は、故有島武郎君の旧宅七百坪を用いていたが、特に七十坪の二階建仮建築を『大百科』の編纂所として建築し、七十余人の編纂者によって仕事が一時に始められた。

『大百科』編纂の最初の苦心は、適当な編集長を(へい)することにあった。私は、少なくも私の知る範囲においては、かかる仕事に適すると思われる人を日本中で二人だけ頭に描き得た。一人は京都の土田杏村(きょうそん)君、一人は前早大講師木村久一君、この二人であった。ところが、土田杏村君は常に薬餌に親しんでいて、案の相談くらいにはあずかってくれるにしても、実務をとってくれられる人でないことはわかり切っておる。そこで、結局、木村久一君しかない。何とか同君に頼みたいと思って相談したところ、同君は、「意味のある仕事だが、しかし」とためらって、さて「下中君、そんな大規模な計画を、しかも君の要求するような期間に出版するということは、とうてい不可能だよ」という。

 不可能であっても可能ならしめなくてはならぬ。編纂の仕事は、刻々進んでおる。カード部の活動、編纂方針の打ち合わせなど毎日戦場のような騒ぎである。事情を詳細に話して、何とか考えてくれないかと繰り返し相談に及んだ結果、「とにかくやれるだけやって見よう。が実際、君、この仕事は命取りだよ」といって、ついに引き受けてくれた。

 編集部には、すでに立派な人たちが集まっている。アルスの編集部に重位を占めていた近藤憲二君、前記の小栗慶太郎君、第一書房で鳴らした山田勝次君、永らく欧州にいた守田有秋君、新光社の編集部で『万有科学』をやっていた徳満喜義君、『国際年鑑』を一人でやった古荘国雄君、『東日』の学芸部にいた安成二郎君、アルスの編集長だった今井末夫君、天人社の編集長だった鎌田敬止君、『科学画報』の編集長だった岡部長節君、第一書房の編集長だった酒井欣君(これは後れての入社)、編集校正の経験から言えば一流の出版元でみな腕を鍛えた一国一城の主格(あるじかく)の人たちが十数人いる。専門の方面から言っても、科学、哲学、文学、法律、社会、すべてにわたって網羅されている。語学の方面から言っても、ドイツ語、フランス語、英語、漢語、国語のそれぞれの専攻者が含まれている。

 これに、哲学、社会学方面の専攻であって、しかも諸学に通ずる沢田久雄君が、学者専門家への交渉万端一切を切り廻してくれている。これらの人たちの間に編集長としての仕事をやって行こうとする木村君の労苦や実に容易のことではなかったろう。木村君には、編集長として項目の決定、原稿の内容、釣合い、説明の難易、文体、発音、語法の統一という方面に主力を注いでもらい、沢田君には、編集事務長として、顧問・執筆者との交渉、原稿料の支払い・決定、原稿収集から、編集各員の統制等を担当してもらうことに一決した。

 作られた編集組織は、カード調整部、原稿依頼収集部、原稿精査統制部、校正部、図版部、庶務会計部に大別され、原稿部はさらに、第一部=自然科学及びその応用、第二部=精神科学一般、第三部=文学美術、第四部=社会一般に区別され、校正部は初校再校部、小張審査部、大張指導部、大張仕上部に区別され、それぞれ連絡を保ちつつ仕事を進める。

 昭和六年六月初旬、上野精養軒に第一部の顧問会を開いて、次の計画案を提出して批評を乞い、諸先生御指導のもとに、各大学の研究室の専門家を悉く動員してもらうよう依頼した。

 (計画案省略)

 

 さて、なお編集及び出版方針については、左の諸点を特に強調した。

 一、なるべく完備せる日本語の百科事典を作りたい。内容量は、三省堂の『日本百科大辞典』の約五割増の計画。

 二、なるべく、現代の生きた知識を網羅したい。歴史的記述は百科事典の生命だが、古いことよりはむしろ現代生活に関した知識を重んじたい。

 三、第一巻刊行から最終巻を出すまでの期間をなるべく短くしたい。願わくは月一冊二ヵ年間に完結したい。

 四、広く普及するためにはなるべく価を安く供給したい。出来得るならば一冊五円以内で供給したい。

 五、内容上、大物扱いすべきものは『ブリタニカ』流に、精密をきわめるように。一般事項は『マイエル』流に、なるべく簡潔に。各々の長所を採り入れたい。

 すると、諸大家、諸先生の多くは、ただあっ気にとられたという様子。熱意ある先生方は、その無謀をたしなめられる。鋭い質問が次から次へと出る。随分応答に窮するほどの質問も出た。しかし私は、大胆率直にいちいち応答した。最も鋭い質問は、

「二年間に終るには月一冊あて出さなくてはならぬが、そんな無法なことが果たして出来るか」

「百科事典は出版事業中、至難の事業とされている。三省堂さえそのため行きづまった。平凡社に果たしてさような能力があるか」この二点であった。私は答えた。

 一、今日、印刷文化の進歩はいちじるしい。月一巻四六倍判八百ページくらいのものを出すことは必ずしも不可能ではない。殊に今度採用する単式印刷法は、一語一語タイプライター(四号活字大)で印字したものを校正しておき、印刷する直前になって、項目順に配列して大張り(一ページにまとめる)する。それを写真でちぢめて、オフセット印刷に付する。これによると、校正中、沢山な活字を組み置く要なく、原稿も、初めから順を追うて出さなくともよいので、仕事が非常にやり易い。

 二、次に、平凡社にその能力ありやの質問に対しては、断じて御心配に及ばない。その理由は、今日の平凡社は月々二十余種の全集を出している。その月々の分量は一万ページ二十万冊以上である。それを難なくやってのけている。『美術全集』、『書道全集』等みな編纂ものであるが、まだ一度も期日を違えたことがない。百科事典はなるほど困難な事業には相違ないが、平凡社の今日の能力と経験から言えば何でもない。百科事典といえば三省堂のこと以来必ず損をするものかのように世間では考えているが、百科事典必ずしも損をするとは限らない。三省堂破綻の禍根は、百科辞典よりは、むしろ他にあったと言われている。平凡社は今日財的に必ずしも豊かではないが、第一流の紙屋、印刷屋、広告屋、大売捌店によって支援されている。この意味において平凡社の経営基礎は磐石である。

 そこで、さらに顧問の諸先生から次の質問が出た。

「技術的にも財的にもこの計画が可能なりとして、さて、何年後にその第一巻を出すつもりか」

 私は即座に答えた。

「本年十一月から」

 すると、諸先生方は、互に眼を見合わせて驚かれた。

「いかに神わざでも、そんなに早く出来るはずがない」

とて、日本の例、外国の例を示され、

「さように無謀きわまりなき計画には容易に同意しかねる」

とさえ極言された。けれども私は、いちいちその無謀ならぬ理由を説明した。

「一冊四千枚、百六十万字として、これを百人で分担執筆すれば四十枚、一万六千字。五百人なれば八枚、三千二百字。すなわち一日一人百字ばかりとなる。先生方への原稿依頼のためには、それに必要なだけの編集員を増員する。出来る、出来ないは結局、費用を存分に投じ得るか否かの問題である」

 すると加藤武夫博士は、

「千人の執筆者に一人一人編集者をつけるくらいでなくてはだめだ、それが出来るか」

と暗に不可能を証するように言われ、その他の方々も、

「無茶なことをいうな」

というような顔をなされた。ただ一人、倉橋藤治郎君は、

「下中君の話を聞いて見ると、なるほど出来るという感じもする。仕事というものは覚悟一つだ」

 白け切った席を見かねて、助け船を出してくれられた。

 食堂ヘ入る時、常から懇意な伊東忠太博士は、

「君、専門によっては、学者がただ一人しかない、かけがえのない人があるからな、病気でもすると困るよ、君のいうように計算ずくではだめだ」

と注意して下された。

 続いて第二部、第三部、第四部の顧問会を開いて、それぞれ同じような説明、同じような質問、同じような応答、そして、諸先生に危ぶまれながら、どうあってもやり抜かねばならぬというので、昼夜兼行、日曜祭日すら休みなく、編集各部一同、大馬力をかけて活動を続け、校正部のごときは印刷所の付近に宿を借りて、十日以上も家庭に帰らず連続的に活動してくれ、予定通りの十一月二十五日、その第一巻の雄姿を全国書店の店頭にあらわし得た。

 

   

 

 昭和六年十二月八日、東京会館に『大百科事典』刊行披露会を開いたが、学界諸先輩、執筆諸家、同業者等、来会者約八百名。席上、田中館愛橘博士は、

「世には羊頭を掲げて狗肉を売るものの多い中、狗頭を掲げて羊肉を売るというのが平凡社のやり方である。平凡社は名は平凡だが、その為すところは常に非凡である。殊に今回の百科事典計画のごとき最も非凡なる計画であって、しかも最も意義深き仕事である」

と冒頭して、百科事典の現代的必要を述べ、一転して、

「ある学者は、大陸移動説という新学説を十五分間で講演してくれと頼まれた時、二時間の講演なら今すぐにでも準備なしに引き受けられるが、十五分間に講演するとなると、少なくとも一週間ぐらい猶予をもらって、ゆっくり用意しなくては出来ない、といったそうだが、すベて物を要領よく簡潔に説明するということは実にむずかしいもので、ぼんくらには出来ないことである。『大百科事典』は、わが国のあらゆる学者を動員してやっておるというが、もってわが国の学者のメンタルテストになるであろう」

とて、百科事典原稿の執筆すこぶる困難なるを諷されたのであった。

 

 第一巻はともかくも世に出た。第二巻、第三巻と続けて出さなくてはならぬ。月一回必ず配本と公約しておる以上、どうあってもやり抜かなくてはならぬ。その苦心また実に一通りではない。一方、第一巻出来と前後して予約会員の募集に取りかかった。さすがに百科事典への熱望は国民の各知識層に溢れ漲っている。予約申込みが続々ある。しかし一方にまた、平凡社がこの大業を果たしてやり遂げ得るかの懸念から、申込みを差し控える向きがあるとの情報が頻々と来る。大阪のある大会社では、二十三人申込者が集まってから、中途挫折せぬとも限らぬとの浮説のために、一列申込みを差し控えたとの話が耳を打つ。読者の、かかる危惧と相まって、各地の書肆(しょし)が心配し出した。予約はとっても、中途で出来なくなると、他の出版物と違って、中途半端では役に立たぬ、得意先から戻されるようなことになると迷惑するというので、申込みがあっても、事情を話して断わっている店さえあるという。

 これは大変だというので、大阪の大取次柳原書店では、かかる浮説を封じ、書店を安心させて活動させるために、弊店が後援している平凡社である、決して中途挫折させるような恐れはないが、万が一にもそのような場合には、決して貴店ならびに読者に迷惑はかけぬ、不用に帰した書物はその場合引き取ってもよろしい、心配ならば一札を入れてもよいとまで保証してくれられたので、やっと関西の書店も安心して予約を募ってくれたというようなわけで、予約者獲得には随分と苦しんだ。第一巻の月報の中に、私は「地球の運行の停止せぬ限り『平凡社の大百科事典』は必ず月一回発行される」とまで発行日励行を強調したのも、実は天下に安心してもらいたかったからである。第一巻発刊披露会の席上、平凡社の経済的問題に言及して「平凡社は、経済的には大船に乗っておるようなものである。執筆者諸氏はその点に少しも心配されぬように願う。平凡社は、月々十五万の売上げを有する。代りに五、六十万の買掛けを有する。買掛け先は、日本第一流の洋紙店、印刷会社、広告取次店、製本所等である。この取引先の諸君は、平凡社の発展をこそ願え、決して平凡社の没落を好まれるものではない。従って、必ず、平凡社の事業の進行を助けて下さるはずである。くだらない出版物ならばとにかく、学界の諸権威を網羅する劃時代的の国家事業である。必ず助けて下さることを信じて疑わない」と、それぞれの取引先の主人を前にして言明したのも、 執筆者諸氏に不安を抱かせては大変だと考えたからであった。この間の苦心配慮、まことに、知る人ぞ知るである。

 

 幸いにして、『大百科事典』予約募集の成績は相応の程度に達して成功した。書店が危ぶみ、同業者が危ぶみ、専門家も執筆しながら危ぶんでいたにもかかわらず、平凡社に対する国民的信頼はこの予約募集の上に如実に反映した。予約締切り当初一万六、七千人の予約者だったのが、巻を重ぬるごとに増加して、昭和七年十二月十四日、前半完成祝賀会を催した頃には、すでに二万五千人を突破していた。同祝賀会の席上、私が「今や危ぶまれながらも月一回必ず配本の約を履んで、二十四巻の前半十二巻をここに刊行し得たるは、執筆諸家の努力、編集部一同の奮闘、営業部の活躍にまつところもとより大ではあるが、同時に、予約募集の際、平凡社を信頼して、海のものとも山のものともつかぬ最初から、何等の躊躇なく予約会員となって下さった全国一万七千人の支持者こそ、この仕事を完成せしめられるに最もあずかって力のあったことを言明して、ここに満腔の謝意を表する」と言ったのは、実に衷心そのままの叫びだったのである。

『大百科事典』は初め二十四巻で完結の予定であったところ、原稿がだんだん精緻になり、読者もまた、終りを端折って不完全なものとするよりは、たとい数冊増巻するとも完全を期してほしいとの要求が多く、編集部においても、なるべく重複を省き表現を引き締め、項目や内容を不完全ならしめずして、しかも冊数はなるべく予定通りにと努力したが、ついに二巻増の二十六巻をもって一応完結することになった。しかし第一巻を発刊してからはや三ヵ年に近くその後の研究も進み、新事実も現われ、また第一巻以来、脱落せるもの、説明の足らざるもの等をまとめて一巻とし、これを第二十七巻(補巻)として発行することにしたのは、完璧の上にも完璧を期そうとする努力の現われであることを御諒承願いたい。さらに、目下編纂中の総索引が第二十八巻として発行せられることになっているが、内容総索引の編纂は実に容易の業ではなく、本年一ぱいに刊行の予定であるが、恐らく若干遅れるであろう。原稿の分量からいうと、普通の巻の四倍余にも相当するので、膨大なる大冊になりそうである。用紙の選択、組版の研究によって、いかに分量が多くとも一冊にまとめる積りで、目下編纂を進めている。

 

 書名を『大百科事典』とした来歴、一冊七百ないし八百ページとした理由、背文字を左横書きとした理由、地図製作の苦心、挿図資料収集の苦心、二ヵ年半の間に編集部に起こった出来事、エピソード、執筆者の変動、他界などいちいち数えあげればいずれも限りなき思い出ではある。しかし、ここには一切これらを略することにする。

 

   

 

 最後に私は、かつて、『大百科月報』に発表したと同じ言葉を繰り返して、この思い出語りを結ぶことにする。

「私は、ほとんど学校教育を受け得ないで育ったために、書物ばかりにたよって学問しました。私が教職を抛って出版事業を始めた動機も、出版事業着手の最初から、立派な百科事典を出したいと念願するようになった動機も、ともに私の経歴が然らしめたのです。私の要求するところ、他もまたこれを要求するであろう。私はこの信条に立っております。私は百科事典を要求する、私の家庭また百科事典を要求する、ゆえに百科事典は隣人同胞の要求であり、万人家庭の要求であろう。百科事典出版せざるべからず、すなわち、これが私の百科事典出版に対する一貫不惑の動機だったのです。

 百科事典の刊行! 口で言い、頭で考えるだけならなんでもないが、いよいよこれを具体的に実現しようとなると、実に困難な事業なのです。第一には正しい計画を立てること。第二には執筆者の賛同を得ること。第三には資金の準備。第四には編集の組織。第五には出版技術の問題。広告にもうたっていますように、案を立てて十年、案を改むること五たび、この五たびというのは、頭で考えての案の変更ではなく、事実着手して、ある程度費用をかけて、それを反古にしてまた新しく出発することを指すので、頭で考え、頭で変更した案について言えば、恐らく百たびも変っていましょう。資を投ずること七十万、これも今日では厳密にはもっとかけているかも知れません。とにかく大努力、大奮闘の集積が、今日ただ今、ここにこの『大百科事典』となって現われたのです。

 本『大百科事典』の完成に当り、わが学界の諸権威が快く参加せられ、知と時と労とを惜しみなく提供せられ、きわめて懇切なる指導を与えられたことをまず何よりも特筆したい。お陰でわが国にもはじめて世界的に遜色のない百科事典が誕生しました。フランスに『ラルー ス』があり、ドイツに『マイエル』があり、イギリスに『ブリタニカ』があり、日本に『大百科』があると、今日只今から高らかに言い得ることは発行者の私にとって非常な喜びであります。この喜びを喜ばせて下された大方の関係者——執筆、編集、営業、製版、製図、印刷、装幀、製本、製紙、販売——諸氏に対し、私はここにわが平凡社を代表して謹んで感謝いたします」

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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下中 弥三郎

シモナカ ヤサブロウ
しもなか やさぶろう 平凡社創業者 1878・6・12~1961・2・21 兵庫県に生まれる。家業の陶器造りから小学校教員を経て上京、教育畑を歩んで後、大正3年に自ら『や、此は便利だ』を著述、平凡社を興して出版に成功。以降文学全集、美術全集、百科事典など民衆教育に貢献し更に戦後は国際平和への行動でも大きく寄与した。なかでも平凡社の代名詞ともなり世界的に名を馳せた1931(昭和6)年11月25日第一巻創刊『大百科事典』の企画と完結大成功とは、創業者下中渾身の理想の実現であった。

掲載作は、1934(昭和9)年の完成に当たって記された感銘の一文。

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