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堺利彦傅(抄)

 藩主小笠原家の補助と、旧藩出身先輩の寄附とで設立された育英会といふ団体があつて、官立学校への入学志願者は、多くはそこの貸費生にされてゐた。国の先輩には、小澤武雄、奥保鞏(おくやすかた)、小川又次、その外、陸軍の軍人として出世してゐる人が多かつたので、士官学校志願が大いに奨励されてゐた。私等の同期卒業生の中で、青木、生石(おいし)の二君は初め其の志願で上京した。杉元君と私は、内々で少し軍人志願を軽蔑して、大学を志願した。それは一つには、二人ともチビで、第一、体格が軍人向でなかつたのに依るかも知れない。

 是より先、その前年、私は椎田の中村といふ家から養子に貰はれた。後で聞けば、豊津中学校第一等の秀才を選抜したのだつたさうだ! それで私は、忽ちにして中村利彦となり、其の養家の便宜に依つて、安々と東京に遊学する事が出来た。育英会の貸費生となるにしても、少々は其の外に足しが()るので、堺家の財産では迚もそれに堪へられない筈であつた。

 斯くて私の前途は苦もなく自然に切り開かれた。運命は常に私の為に笑つてゐるかの様な心持がせぬでもなかつた。兎に角私は意気揚々として故郷を出た。時に明治十八年春四月。十七歳。

*  *  *

 以上、私の豊津時代をずゐぶん乱雑に、前後の次第もハッキリさせずに書きなぐつた。それは記憶が正確でないからでもあるが、又必ずしも精密に年月を追ふ必要はあるまいと考へたからでもある。然し行燈(あんどう)の事を書いて置いて、それの進化を書き落したなどは本当でない。行燈の第一進化は、種油の皿が石油のカンテラに取換へられた点に在つた。光度は大いに加はつたけれども、行燈としての外形は元の儘であつた。それから第二の進化として釣ランプが来た。これで燈火の外形が全く変化した。そして其の釣ランプのブリキの笠の下に、三分心(さんぶしん)の小さい黄色い火のとぼれてゐるのを、何といふ明るさだらうと感嘆したのであつた。

 ランプと牛肉と、どちらが早かつたか分らないが、兎にかく私は豊津で牛肉の味を知つてゐた。台ケ原に屠牛所が造られてゐた。中学校の昼休みに、そこの屠殺を見に行つて、目かくしをされた牛が、額の眞正面を鐵の槌で打ちおろされ、ゴトゴトと足踏みをしてドタリと仆れたのを見て、非常に厭な気持がしたが、それでも矢張り肉はうまかつた。

 

  第二期 東京学生時代

 

   一 上京の途中

 

 明治十九年(1886)四月、私は初めて生国(しやうこく)豊前(ぶぜん)の地を離れて東京に「遊学」した。その頃、東京に「遊学」するのは、今日、ヨーロッパに「留学」するのと、殆んど同じくらゐの珍しさを感じたので、昂奮、緊張、歓喜、勇躍、十七歳の少年は洋々たる前途の希望に燃えた。

 所が、其の希望に燃えた、得々たる田舎少年の姿は、さぞ見すぼらしかつた事だらう。年弱で十七で、而も小柄で、要するに貧弱なチビで、それが土色(もしくは煤色(すゝいろ))の顔をして、手製のシャツを着て、まだ帽子といふ物をかぶる事も知らずにゐた。(つれ)の杉元平二君、今の神崎(かうざき)平二君(三井信託副社長!)も同年で、同じくチビで、私より少し色の白いのが僅かの取りえくらゐなもので、大抵おなじやうな貧弱さだったらう。而も其の少年が、私の養父と養母と、外に二人の同行者とに交つて、立派な田舎者の一行を作りあげてゐた。

 この田舎者の一行が小さな汽船に乗つて神戸の港に着いた時、彼等はそこで初めて電気燈といふものを見た。神戸の船宿で朝早く目が覚めて、ポオー、ポオー、といふ汽笛の音が碇泊(ていはく)の船々から幾つも幾つも引き続いて聞えた時、それがどんなに珍しく私の心をそそつたか。私は今でも折々、寝ざめに汽笛の音を聞く時、薄靄のかゝつた神戸の港の景色を思ひ浮べる。

 斯くて、貧弱な二秀才を交へた田舎者の男女一行は、初めて汽車といふものに乗つて神戸から大阪に()で、京都を見物し、大津から小蒸汽で琵琶湖をわたつて伊勢に参宮し、四日市から汽船に乗つて横浜に着いた。その頃、東海道にはまだ汽車が全通してゐなかつた。私は船に弱くて、遠州灘(ゑんしうなだ)あたりで、ヘドの吐きつゞけだつたが、それでも船室の丸い小さい窓から、遥かに雪の富士を浪の上に望んだ時、神戸のポオーに劣らないほど、珍しさの昂奮を感じた。

 一行は横浜から汽車で新橋に着き、それから人力車で市ケ谷に向つた。私は其の車の上で、久しく恋ひこがれてゐた東京が、大して「花の都」とも見えないのに、先づ失望した。只一つ、途中の濠ばたで見かけた人々の中に、脊の高い、(はかま)をはいた、二十(はたち)余りの学生らしいのが、饅頭の上に房の玉をつけたやうな帽子をかぶつて済まして行くのが、極めて異様に感じられた。

 

   二 同人社、神楽坂

 

 一行の車がおろされたのは市ケ谷砂土原町(さとはらちやう)馬場素彦(ばばもとひこ)邸であつた。これは私の養父の弟で、陸軍中佐、徴兵課長として陸軍省に出仕してゐる人であつた。中佐と云へば、今日では安つぽく聞えるが、その頃の佐官は大したもので、馬場邸は可なり堂々たる邸宅であつた。

 私の養父母は間もなく帰国した。私は馬場の叔父の監督の下で、近処の下宿屋に杉元君と一緒に下宿して、小石川の同人社に入学した。同人社はスマイルスの「自助論」の訳者として有名な中村正直(まさなほ)氏の創立した英学塾で、江戸川のほとりにあつた。私は初めて東京の櫻を江戸川で見た。同人社では、坪内雄藏さんのクライヴの講義が、軍談か講釈を聞く様で面白いといふ評判だつたが、私の級ではまだそれが聞かれなかつた。私は只、そこで初めて西洋人から英語の会話を教はつたが、嬉しくて堪らなかつた。初めての会話の時間に、其の西洋人がゴールド・フィッシュと云ふのを聞いて、ハハア金魚の事だなと思つたほど、それほど私は聰明だつた。

 同人社には、私等の外に、同郷の友人がまだ数人ゐた。私は初め主としてそれらの人達とばかり交はつてゐた。その頃では、同郷人といふ事に余ほど深い親しみが感じられてゐた。あの男は他県人とばかり交際してゐるなどと、多少非難らしく噂される人もあるくらゐであつた。殊に私等は、小笠原家と豊前出身諸先輩との保護の下に在る、育英会の貸費生であつたので、其の育英会関係者の間には、自然一種の親しみがあつた。

 育英会では、官立学校の生徒、()しくはそれの志望者に限つて貸費するのであつた。それで大体貸費生は士官学校を志望する者と、帝国大学その他を志望する者の二種に別れ、前者は成城学校に入り、後者は同人社その他に入つてゐた。前にも云つた通り、国の先輩には軍人が多かつたので、士官学校志望者が大いに奨励されてゐた。馬場の叔父なども、私の大学志望を余り喜んではゐなかつたらしい。殊に私が何かのついでに、国会議員になりたいと云つた時、叔父は余ほど不興であつた。軍人を志望しないまでも、せめて官吏を志望して欲しかつたのだらう。

 私の東京生活の最初の半年間は、神楽坂を中心としたものであつた。下宿は三四回もかはつたが、皆な神楽坂の近処だつた。初めて寄席(よせ)を聞いたのも神楽坂だつた。初めてアンパンを買つたのも神楽坂だつた。初めて蕎麦屋にはひり、初めて牛肉屋にあがつたのも、皆な神楽坂だつた。今でも私は神楽坂を通るたびに、変に懐かしいやうな、センチメンタルな気持がする。

 それもその筈だらう。初めて父母に離れ、初めて故郷に離れて、大都会の間に下宿生活をしたのだもの、如何に前途は洋々でも、まだ子供気の失せない少年の心は(さび)しかつた。或る日の夕暮、私は下宿の二階の窓から西方の空を眺めて、何とは知らず泣きだした事がある。

 

   三 共立学校

 

 其の年の夏、私は第一高等学校の入学試験を受けたが落第した。その時、同郷者の間で及第したのは私等より少し先輩の大森藤藏君一人だつた。そのお祝として私等五六人は本郷の越知勝(ゑちかつ)で牛肉をおごられた。(大森君は今、故郷の豊津中学の校長をしてゐる。)

其の秋から私と杉元君とは神田淡路町の共立学校(後の開成中学)に転じた。同人社は有名な学塾であつたけれども、実質上には既に衰運に向つてゐる事が発見されたのであつた。それで或者は東京英語学校(後の錦城中学)に行き、或る者は共立学校に行つた。

 共立学校の校長は鈴木知雄といふ人で、高等中学の英語の教師だつた。従つて共立学校から高等中学への入学率が最も多いといふ評判だつた。然し実際の入学率は、東京英語学校と伯仲で、両校が丁度同じほどの人気を持つてゐた。

 或日、鈴木校長が、腹の馬鹿にふくれた、チョット西洋人らしい所のある、大きな紳士を私等の教室に案内して来て、これは高橋是清さんと云つて、本校の為に色々世話をして下さる人ですとか何とか紹介した。あの人がこの学校の金主ださうだと、あとで皆が噂をしてゐた。又あの人は非常な冒険家で南アメリカに行つて奴隷に売られた事があるさうだといふ噂も伝はつた。それが後に総理大臣になる人だとは、思ひもよらなかつた。

 共立学校の先生には大学の学生が多かつた。後の文学士長澤市蔵さんはトドハンターの代数を教へてくれた。僕は哲学が専門だけれど、数学も中々出来るんだよ、などと云つてゐた。非常に好人物だといふ感じが残つてゐる。後にニューヨークの総領事か何かになつてゐた宮岡恆次郎さんは、スヰントンの文法を教へてくれた。宮岡さんは好男子で、発音が好かつた。(私は先年来、折々宮岡さんを丸の内あたりで見かける。今ではたしか弁護士をやつてゐられるやうに聞いた。今でも好男子で、キチンとした洋服姿だが、髭だけは白くなつてる。) 今どこやらの大使か何かになつてゐる日置(へき)(えき)さんは、英語を教へてくれた。読み方の気取つてるのが評判だつた。柿崎さんといふ先生が、寒くなつてからも夏服の金ボタンでやつて来るのが、又一つの評判だつた。それが多分、大阪で有名な弁護士になつてる人だらうと思ふ。西洋人の先生のミスターコックスは、いつも呆れた様な顔をした、実に愉快な好人物だつた。

 学生の中には、清野長太郎君(今の神奈川県知事)、小原せん(=馬ヘンに、全)吉(前の内匠頭(たくみのかみ))、桑木厳翼(げんよく)君(今の文学博士)などがあつた。先年何処やらで桑木君に出会つた時、昔の話をして見たが、桑木君は私を記憶してゐなかつた。然し私の方では、当時まだ東京に来て間のない田舎者として、東京育ちらしい、活溌な可愛らしい桑木君を、羨ましいくらゐに思つてたのだから善く覚えてゐる。小原君は、その頃はまだ男爵では無かつたけれども、頗る貴族的であつて而も野蛮な、我儘であつて而も無邪氣な坊つちやんで学生仲間には「専公」として有名だつた。彼の当時の名は、せん(=馬ヘンに、全)吉でなく、専吉だつた。馬場孤蝶君も丁度その頃、この学校にゐたさうだが、級が違つたものか、お互ひに記憶がない。(尤も、その時の私は堺姓でなく、中村姓だつた。)

 去年の秋、国から犬塚武夫、横山直槌(なおつち)の二友人がやつて来た。私は半年ばかりの先輩として、二君の引廻し役を勤めた。二君も共立学校にはひつた。それで前記の杉元君と私と、四人ながら皆んな脊ひくだつた。横山君だけがほんの少しばかり高かつた。(犬塚君は後に不動銀行の重役になり、今はたしか東京府民銀行といふのを経営してる。横山君は何んでも久しく朝鮮の銀行に居ると聞く。杉元君は前にも云つた通り、先には三井銀行に居り、今は三井信託にゐる。当年の私の相棒は、どういふわけか、斯くて皆な銀行屋になつてゐる)

共立学校はずゐぶん汚ない学校だつたが、然し、私等は非常に愉快だつた。何しろスヰントンの万国史、マコレーのクライヴ伝、グードリッチの英国史、アーヴィングのスケッチ・ブックなど、いろいろ(むつ)かしい英語の本を読むのが嬉しくて堪らなかつた。ロビンソンの算術、トドハンターの代数、ジョーヴネーの幾何など、総て英語でやるのが、それが亦非常に嬉しかつた。或時、学校の記念日か何かに、或る先生が演説をやつて、「今にこの共立学校の塵埃(ぢんあい)の間から幾多の人傑が輩出する」と云つたので、私は其の後、教室にほこりの多いのが余り厭でないやうな気がした。

 私等の生活舞台は斯うして牛込から神田に移つた。駿河台鈴木町の崖の上の下宿屋から九段の方を見晴した景色は本当によかつた。その頃、すぐ崖下の三崎町一円はまだ練兵場だつた。或日、降りつづいた雨の中に其の景色を見晴らしてゐると、崖に茂つた樹木の青葉に、大小の蝸牛(かたつむり)が無数に這ひずつてゐるのが、非常に面白く私の目にとまつた事を覚えてゐる。翌年の春頃には錦町の武蔵屋といふ新築の大下宿屋の六畳の一室に、例の四人が一緒にはひりこんだ。六畳に四人は勿論少し窮屈だつたが、それで無くては、三円五十銭の予算で此の新らしい堂々たる下宿屋にはひれないのであった。

 或時、共立学校で、或る学生が「ソワレーに行く」といふ話をしてゐるのを聞いて、其の「ソワレー」が何の事だか分らなかつた。あとで聞くと、夜会といふ事だつた。丁度その頃、政府の当局が条約改正に骨を折つてゐた時で、欧化主義が盛んに奨励され、鹿鳴館の仮装舞踏会などいふ事が流行してゐた。其の流行の波の一端が、私にソワレーといふ言葉を覚える機会を与へたのであつた。

 又或時、同じく共立学校で、或る学生が「一里半なり一里半」といふ歌を歌つてゐたのが私の注意を引いた。あとで聞けば、その頃、帝国大学の外山正一氏の主唱で「新体詩」といふものが試作されてゐた。そして右の「一里半」は即ち其の一つで、イギリスの詩の反訳だと云ふので、何だか無性に有りがたくなつた。それから学生間にそれの原詩が流行して、「ユアース、ナット、ツー、リーズン、ホワイ」「ユアース、バット、ツー、ヅー、エンド、ダアイ」などと得意になつて諳誦してゐた。

 

   四 当時の物価

 

 当時の下宿料は三円五十銭内外が普通だつた。私が杉元君と一緒に初めてはひつた牛込の下宿は二円六十銭だつたが、それは破格で、思ふに、馬場家から我々の為に然るべき下宿を探してやる事を命ぜられた人が、出来るだけ安いのを然るべきと解釈して、忠義顔に最下等の処を択んだのだつたらう。

 当時の物価の標準としては、蕎麦と湯とが(おのおの)一銭三厘だつた。然し、それを今日に比べると、前者は約八倍、後者は約四倍の騰貴だが、どういふわけのものだらう。

 私が初めて西洋料理といふものを食つた時、それが一人前十七銭だつた。それでもスープ、パン、コーヒー、ケーキの外に、二品か、三品かの皿があつた。紺足袋が一足十八銭には驚いたが、真黒い紺足袋をはかないでは書生の体面に関するので、奮発して買つてゐた。

 小川町で五銭五厘で食へる牛屋(ぎうや)があつた。肉が一人前四銭、飯と新香が一銭五厘だつた。或時、例の四人組が其の牛屋でたらふく食つて帰らうとする時、勘定方を受持つてゐた犬塚が、何か訳ありさうに早く早くと頻りにせき立てるので、皆がドンドン梯子段を下りて、下足を待ちかねて表へ出ると、犬塚はドンドン真先きに走り出して、駿河台の方に行つてしまふ。何だか訳が分らないが、我々も其あとについてドンドン走つて行つた。すると、戸田の邸の辺まで行つて、モウ大丈夫だと云つて犬塚が話すのを聞けば、三十幾銭かの勘定に対して五十銭銀貨を出したら、女中が二十幾銭かの釣を持つて来たと云ふのであつた。つまり四人で十銭まうかつたので、向うの奴の気のつかない内に姿を消したわけだつた。

 その頃、学資は月七円ぐらゐが標準で、私は育英会から五圓づつ貸与され、外に二円、或は二円五十銭、馬場家から貰つてゐた。それを君はらく

だと云つて、或人からは羨まれた事すらある。実際、五六円でやつてゐる者もあつた。

 私が国を出る時、実家の母が、まさかの時の用心にと云つて一円札を一枚くれた。私はそれを内證金として、後生大事に持つてゐた。所が或日、神楽坂で友達が四五人よつて、ぜひ牛肉が食ひたいと云ひだした時、たうとうそれが「まさかの時」になつた。私の大事な一円が忽ちにして半分以上、飛んでしまつた。

 

   五 寂しい心

 

 学校と、下宿屋と、飲食店以外に於て、私が人の家にはひる機会は幾許(いくら)も無かつた。

 第一は云ふまでもなく馬場家。こゝは叔父の家で、而もそこの娘の一人が(まだ僅かに七八歳ではあつたが)、私の将来の妻になる筈で、国元に連れて帰られてゐるといふ関係であつたが、然し幾人もの書生が世話になつて出入する家の事だから、それらの釣合上、私をも他の書生並に取扱ふといふ申渡しがあつて、私は叔父さんに対しても、別だん深い親しみを感ずる事が出来なかつた。私は馬場家に於いて家族的に飲食させられた事は滅多になかつた。馬場家の人々の中で、只ひとり私が親しみを感じたのは玄関番の竹中清君であつた。(竹中君は後に大阪毎日新聞の有名な記者として久しく神戸に働いてゐた。)

 奥保鞏(おくやすかた)さん(今の元帥、そのころ少將)は私の養父の甥に当つてゐた。これも牛込に大きな邸があつて、私も幾度か行つた事がある。或時、をばさんが御病気だと云ふので、私は其の見舞に行つた。病室に通されたが、外に幾人も見舞客はあるし、極りが悪くて、私は只一つお辞儀をしたばかりで、何も云へなかつた。結局、無言のまゝで、又一つお辞儀をして引下つた。こゝにも何等の暖か味が無かつた。

 間宮家は麹町(かうぢまち)番町(ばんちやう)にあつた。をぢさんは陸軍の監督(大佐相当)で仙台の師団に行つて居り、をばさんが其の留守をして居るのであつた。こゝには私の大をば(父のをば)も居り、多少の親しみを感じたが、それでも毎度出入りする程の関係には成らなかつた。外に一二の親族つゞきもあつたが、それも大して心安くなれなかつた。

 小笠原伯爵家に対しては、まだ何となく特別な敬愛を捧げる気持であつた。市谷河田町の邸に御年始に伺候して、大勢の同藩人と共に伯爵の謁見を賜はり、其あとで膳部を下されたりしたのは、大へん嬉しかつた。

 本吉の兄は慶應義塾に来てゐた。彼は英語を学ぶべく、長崎に行き、福岡に行きしてゐたが、矢張りどうしても東京で無ければ駄目だと云ふので、強ひて内の許しを得て上京したのであつた。其の時にはもうお浪さんと結婚してゐた。私は折々兄を慶應義塾に尋ねたが、日比谷の練兵場を横ぎつたりして行く道がずゐぶん遠かつた。然し兄と一緒に食ふ、塾の寄宿舎の暖かい飯はいつもうまかつた。兄は間もなく国に帰つた。家庭の事情が永く遊学を許さないのであつた。

 自分にはハッキリ気がついてゐなかつた様だけれども、その頃の心は寂しかつた。

 

   六 第一高等中学校

 

 二十年(1887)の夏、私は第一高等中学校の入学試験に及第した。その頃、例の四人組は本郷あたりに分散して、私は元町の下宿にゐたが、入学試験の成績を発表される日、早朝から見に行くのも余り慌てた様で残念だと云ふ気持もあつただらう、ゆつくり朝飯を食つてブラブラ出かけると、水道橋の辺で、たしか犬塚が向うから来るのに会つた。どうだと云ふと、君の名と杉元の名はあつたと云ふ。さうかと云つて平気な顔はしたが、実は先づ善かつたと大きに安心した。実際、その時の心持は、意外な様でもあつたし又当り前の様でもあつた。

 その時、国の者で及第したのは、杉元君と私と、外に小関雅楽(うた)君と加来(かく)源太郎君とであつた。小関君は豊津中学で私より大ぶん先輩で、秀才として有名な人だつた。前にかいた異人館志津野は即ち小関君の家だつた。私が漢詩の本で父から叱られたのも、小関君の真似をすると云ふわけであつた。小関君は私に取つて、半ば崇拝の目的物だつた。私が共立学校にはひつた時、小関君は既に東京英語学校の最上級だつた。ナゼ小関君が其の前年に、大森君と共に及第しなかつたかを、私は不思議に思つてゐた。加来君は同国人ではあるが豊津中学の出身でなく、東京では三田英学校にゐたのだつた。加来君は珍しく少し其の顔にアバタがあつて、性質も極くおとなしく、才気の現はれないヂミな人だつたが、それだけに英語の「学力」などは出来てゐるのだつた。私は加来君が、両方の袂に手先を入れて殊勝らしく歩いてゐるのを見て、其の古風な作法に驚いた事がある。

 斯様に小関君の様な秀才が一年二年も遅れて及第する、加来君のやうなヂミな人が存外及第する、又杉元君や私の様な比較的年少者が打揃つて及第する、試験は(とて)(あて)にならないと思はれた。それで私等より多少年長で、駿河台鈴木町の下宿に一緒に居たりした人達は、方面を転じてしまつた。即ち堀富太郎君は高等商業学校に、中野徳一君(後に柏井姓)は札幌農学校に向つた。犬塚、横山の二君も矢張り高等商業に向つた。第一高等中学と高等商業とは、一ツ橋外に向ひあつて、当時の少年が志望する、最も人気のある二つの登竜門であつた。(堀君は後に八幡の製鉄所で失敗をやつた人で、当時新聞紙上に「元兇(げんきよう)」だと歌はれてゐたが、私には矢張り懐かしい旧友だ。柏井君は近ごろ福岡県あたりの中学校にゐる事を聞いた。)

 第一高等中学校は即ち大学予備門であつて、当時日本に()つた一つの「大学」に進む、只つた一つの道だつた。だから何しろ、そこにはひれたと云ふ事は、大変な誇りとなり、大変な羨みを受ける事だつた。私は勿論、非常に得意だつた。早速、(たちばな)徽章(きしやう)を買つて来て麦藁帽子につけた。実は其の徽章のついた帽子をかぶつて国に帰りたかつたのだが、それは馬場家で許されなかつた。それで其の夏休み中、少々ヤケ気味で、犬塚とふたり毎日碁を打つて暮した。初めて少し碁がわかつて来た。或時は、ゑんどう豆のゆでたのをウンと買ひ込んで、二人で上野公園に行つて、木蔭の草原でそれをムシャムシャ食つたりした。又、この夏休みに、私は初めてヂッケンスの小説「オリヴア・トヰスト」を少し読んだ。初めて学校の制服を着た時の心持は、何んとも云はれぬ昂奮状態だつた。鼠色の木綿のジャケツで、色も艶もない物だつたが、初めてそれを着て神保町あたりを歩いた時、人が皆な自分一人を見てゐる様な気がした。

 九月になつて学校が始まつた時、大きな堂々たる建物の中に、それを自分の物としてズンズンはひつて行くのが得意だつた。然し又、建物が余り広くて、幾つもの廊下、幾つもの梯子段で、道に迷つたりしさうなのに、少々気おくれがしないでもなかつた。

 学校の課程は五年で、予科が三年、本科が二年であつた。中学卒業生は初から上級に這入れる筈になつてゐたのだけれども、実際上、英語の学力などが足りないので、私等は矢張り予科一年にはひつたのだつた。予科一年がABCDの四組に別れて各組が五十人ばかりだつた。学科は総て中学校の繰返しで面白くなかつた。只、数学とか、地理とかいふものを英語でやるのが少し嬉しかつた。今さら十八史略など読まされるにはウンザりした。英語としては、スマイルスのセルフ・ヘルプ、ジョンソンのラセラス、チェンバアの第五読本などがあつた。ラセラスは非常に面白いと思つた。初めて少し深遠な思想に接したやうな気持がした。学科の中で一ばん困つたのは図画だつた。二時間もブッとほしでやらされてゐるのに、私は三十分かそこらで粗末なのが出来あがる。それ以上、どうにも念の入れ様がない。残る一時間半をマゴマゴして、手持無沙汰で過ごすのが非常な苦痛だつた。

 先生の中では、今記憶に残つてるのが幾許(いくら)もない。校長は古荘(ふるしやう)嘉門(かもん)。古苔のはえた岩のやうな、如何にも熊本人らしい頑固親爺だと思つた。漢文の先生の岡本監輔(かんすけ)さんは、田舎親爺のやうな好々爺に見えたが、あれで大変えらい人ださうだと云はれてゐた。幾何の先生の小林好古さんが、レット、アス、ドロウ、ツー、パラレル、ラインス、AB、アンド、CD、などと日本流の英語で、ゆつくりゆつくりやつてくれるのが、兎にかく善く分つて嬉しかつた。英語の先生では、まだ若い粟野健三さんが、「さうぢや無いです」と、我々の考へを断乎として退け、極めて明晰な訳解をして呉れるのが、非常に頼もしかつた。会話の先生のミスターストレンジは、「アッテンション! ボーイス」などと我々をボーイ扱ひにするのが甚だ癪だつた。それについて思ひ出す事がある。ストレンジ先生が出席簿を読みあげる時、我々は銘々「プレゼント!」と答へ、欠席者があれば、其の隣席者が「アブセント!」と答へるのだつたが、私の隣席の末延直馬君は大のどもりで、右の手で膝頭を叩きながら、プ、プ、プ、プとやりかけるが、どうしても「プレゼント」が出て来ない。そこで私が見かねて、プレゼントの代弁をやると、サア先生が承知しない。ナゼ本人が返事をしないかと云ふ。本人はどもりですと弁解したいのだけれど、其の「どもり」といふ英語が分らないで非常に困つた。

 

   七 一ツ橋の寄宿舎

 

 私は学校が始まると直ぐ寄宿舎にはひつた。寄宿舎の生活は珍しかつた。第一、椅子テーブルが嬉しかつた。二階の寝室のベッドも嬉しかつた。賄料(まかなひれう)は下宿屋より少し高かつたが、毎日一度は牛肉を食はせるのが嬉しかつた。日曜にはパンと玉子を弁当に呉れるのも嬉しかつた。冬になつてストーヴの(まき)が足りないので、夜ふけてからよく盗みに行つたものだつた。便所が西洋風で、四角な箱の上に丸い穴のあいてるのも、珍しくて嬉しかった。

 寄宿舎の一室には八九人づつ入れられてゐた。私の室には、菊地忠三郎、西加二太(かじた)、末延直馬、加来源太郎、高田采松(うねまつ)、横井実郎、里村敏吉、柴野是公(ぜこう)、などの諸君がゐた。

 菊地君は水戸の産で、肉づきのいゝ、ドッシリした、馴れやすい人だつた。(後に後藤新平氏の秘書官になつてゐた。今は何処やらの保険会社の社長さんだと聞いてゐる。) 西君は胃弱で痩せてゐたが、「ひてい、ふつか」などといふ広島弁が私の記憶に残つてゐる。(後に久しく夕張炭山の技師長か何かになつてると聞いたが、近年の事は知らない。) 末延君はどもりの愛矯者で、大きな顔の大きな鼻をうごめかしてどもりながら一口浄瑠璃をやつたりしてゐた。彼は土佐人で、末延道成氏の弟だつた。彼はよく、これからベルリン会議を開くのだと云つて、ストーヴを赤くして皆を其の周囲に呼び集め、自分は英国の全権アール・オヴ・ビーコンスフィールドを気取つてゐた。(今は北海道で然るべき役人をしてゐる筈。) 加来君は前に云つた私の同国人で、温厚な長者だつた。(久しく検事や判事を務めてゐたが、現在は知らない。) 高田君は脊の高い上品な人、横井君は八字眉の可愛らしい人だつた。(二人とも消息を知らない。) 里村君は岐阜の人で、貧家に生れた秀才だと云ふ事で、医科の志望で、少し出つ歯の、おとなしい、好い人だつたが、中途で病没したと聞いてゐる。柴野君は二年ばかり上級生だつたが、何かの都合で私等の室に来てゐた。笑ふ時には愛嬌もあるが、黙つてる時には恐ろしい様な、六かしい顔の人で、折々酔ぱらつて帰つて来ては、私等の椅子やテーブルを放り投げたりした。たしか西君と同じ広島人だつた。(これが今の東京市長中村是公君だ!)

 他室の同級生では、例の小原専吉君を初として、清野長太郎、俵孫一、池内卓二、松田三彌等の諸君を善く覚えてゐる。小原君は戸田伯爵家の元の家老といふ家柄で、後に男爵になつたほどの小貴族であるに係はらず、前記「専公」の尊称の外、更に「インデヤン」の敬称を有してゐた。(けだ)し色が黒いからであつた。俺は大学を卒業したつて、エライ者なんかになりたくはない。俺は只、鉄砲をかたげて猟をして歩きたいのだと云ふのが彼の抱負だつた。或時、岡本先生から「梅」といふ作文の題を出された時、小原君は、「予が祖父鉄心、梅を愛す」といふ書きだしで、大いに家系を現はし、岡本先生を驚かしたと云つて大ぶん得意だつた。小原鉄心と云へば、維新の際、国事に功労のあつた一英雄であつたさうだ。清野君は共立学校で、小原君や私などより上級生で、物が出来るといふ評判だつた。たしか宇和島の藩士で、旧藩主の貸費生だつた。我々同級生の間では一ばん老成の方で、多くの者から兄分あつかひにされてゐた。俵君は色の白い、然しながらニャケ気味のない好男子で、清野君等と共に最も有望な人物と目されてゐた。(果して、彼は、後に北海道長官に出世し、近ごろ山陰道から代議士に出で、政務次官になつてゐる。)  池内君は強度の近眼で、非常に善良な、温厚な、親しみいゝ人だつた。たしか清野君と同国で、清野君を崇拝する様にしてゐた。池内君は何んでも僕のする通りを真似るので困つてしまふと、清野君が云つてゐた。僕がセルフ・ヘルプを読むと、池内君もセルフ・ヘルプを読む。僕がアルゼブラを始めると、池内君もアルゼブラをやりだすと云つて、清野君が笑つてゐた。それほど池内君はまじめで人がよかつた。(彼はたしか、後に宇和島の中学校の校長になつてゐたが、今は知らない)。松田君は私の二倍もあつたらうかと思ふほど脊の高い人で、これが又、無類の好人物だつた。何んでも、婚約の人の事について頻りに可愛らしい煩悶をして、()まじめな顔で清野君あたりに相談を持ちかけてゐた、(彼は後に立派なお医者になつてゐたが、今はどうしているやら。) 今一人。杉山君といふ、おとなしい人を思ひ出す。杉山君は色の青い、肉体的にも、精神的にも、如何にも弱々しく見える人だつた。性質の善良な事は、池内君松田君よりも又一層で、馬鹿にするのも気の毒なと云ふ程だつた。所が或日、その杉山君が只つた一人で、室内に勉強してゐる時、誰のいたづらだつたか知らないが、野良猫をつかまへて来て、それに赤いんきをぶちかけて、如何にも大怪我をしてゐるかの様に見せかけ、それを杉山君の室に放りこんで、善良な杉山君がどんなに驚いて其の猫を憐れむかを見ようといふ計画を立てた事がある。それが何処まで実行されて、どういふ効果を示したかは覚えてゐないが、兎にかく当時、我々の間で有名な話になつてゐた。その外、同級生の中で覚えてゐるのは、老成な三好愛吉(後に有名な教育家になつた人)、鼻眼鏡の川村金五郎(後に宮内次官になつた人)、美少年の林春雄(後の医学博士)、桜色の好男子田中尚(?)(後の工学士)、田丸兄弟(欣哉および卓哉)、小野塚喜平次(今の帝大教授、これは其の古風な名前で記憶してる)の諸君であつた。

 

   八 運動、遊戯、心の(さび)しさ

 

 暫らく居て見ると、学校はサッパリ面白くなくなつた。英語以外には一つも楽しみになる学科がなかつた。末延君のベルリン会議に列席した事、上級生の企てた(まかなひ)征伐に参加した事、折々神保町の川竹亭に圓朝を聞きに行つた事などが、せめて其の頃の慰みだつた。但し、圓朝の出る頃には、いつも門限が切迫するので、滅多に聞く事は出来なかつた。

 運動や遊戯は余りやらなかつた。兵式体操は最も嫌ひだつた。例の脊ひくで、私より左側に並ぶ者は()つた二人しかなく、而も其の一人は既に不具と目される人だつた。自分が僅かに不具たる事を免れてゐるのだと自覚するのは、余り嬉しいものでなかつた。何処かへ行軍(かうぐん)の催しのあつた時、私は教室のボールドに「アンチ・コーグン・リーグ」(行軍反対同盟)と英文で書いてゐる処を、先生に見つけられて大いに弱つた。それは「アンチ・コーン・ロウ・リーグ」(英国の穀物条例反対同盟)をもぢつて見たのだつた。勿論、私は行軍に加はらなかつた。器械体操も少しはやつて見たが、余り善く出来ないので、好きにはならなかつた。テニスがはやつて、大森藤藏君などがやつてるのを善く見かけたが、あれはどうせ女の遊び事のやうな気がして厭だつた。只すこし好きなのは大弓(だいきう)とボートだつた。ボートで言問(こととひ)の団子を食ひに行くのは非常に面白かつた。

 或る冬の夜、只つたひとり学校の庭にたゝずんで、澄みわたつた星の空を眺めた事を覚えてゐる。宇宙の絶大、人間の微小などといふ事を初めて痛感して、非常にセンチメンタルな気持になつた。その頃同級生の中に、日曜毎に教会に行く人のある事を聞いて、非常に羨ましく感じた。耶蘇教といふものに就いては少しの智識もなかつたが、只だ教会に行く人達は、地位とか年齢とか性とかを論ぜず、皆な親しい友達になるのだと聞いて、それが無上(むしやう)に羨ましかつた。私の心は誠に寂しかつたのである。それで若し其の頃、何かの機会があつたら、私も他の多くの青年と同じく、少くとも一時は、殊勝なクリスチャンになつてゐただらうとさへ考へられる。私の一面には、さういふ処もある。

 

   九 飲む事と遊ぶ事

 

 明治二十一年、十九歳の春、私は既に飲む事と、遊ぶ事とを覚えてゐた。私の体質は発育のおそい方で、十七八にはまだ殆ど子供の姿であつたが、十八の冬から十九の春にかけて、初めて少し丈も延び、()や大人らしい骨組になつて来た様に思ふ。從つて又、酒色の欲が丁度その頃から発達した。

 たしか十八の冬であつたらうと思ふが、忘れもせぬ、眼鏡橋のそばの牛肉屋に、杉元君と横山君と三人で行つた時、彼等二人はいつの間にか既に吉原の智識を持つてゐて、その晩、私を其の悪事仲間に誘ひこむ計画を立ててゐた。私は不安を感じながらも、敢て親友の勧告を拒絶するものではなかつた。つまり、それから遊びといふ事を覚えた。四人組の中、犬塚君だけは用心ぶつて(或は臆病で)、当分はこの仲間に加はらなかつた。あいつは話にならんと云ふのが、三人組の結論だつた。

 それから三人の間に「英学雑誌」を発行するといふ、人真似の計画が立てられた。これも横山、杉元両先輩の智慧から出たもので、(けだ)しそれに依つて遊びの費用をまうけださうと云ふのであつた。私は無論、直ちに賛成して、それには寄宿生活は不便だと云ふので、三人一緒に美土代町(みとしろちやう)に下宿した。そして金策などは主として両君がやり、編輯には私が幾分の才能を現はした。両君としても、正に三つ子の魂であつた。それで兎にかく薄つぺらな雑誌が出来て、市内の雑誌店に並べたのを、ソット見に行つた時の心持は、恥かしいやうでもあり、恐ろしい様でもあつたが、何しろ大胆な、無茶な仕事だつた。勿論、その結果は多少の収入を飲んでしまつて、大ぶんの負債を残したに過ぎなかつた。

 こんな事からして、私等の酒飲み癖と、遊び癖と、金使ひ癖とがついた。杉元君と私とは、最下等の成績で辛うじて二年級に進んだが、学校の成績などはもう二人とも問題にしてゐなかった。二年級からは将来の分科を()めて、それに依つて第二外国語を(ドイツ)にするか、佛蘭西(フランス)にするかを決する事になつてゐたので、杉元君も私も、政治科で独逸語といふ事にした。然し其の頃はもう欠席がちで、殊に独逸語の最初の時間をはづしたので、非常に困つた。それで其の頃、私の得た独逸語の唯一の智識は、イヒ、カン、ニヒト、フェルステーエン(私には独逸語は分らない)といふ事だけだつた。

 

   十 立派な放蕩者

 

 其の年の夏休には国に帰る事を許された。国では、実家の堺家は豊津を引きあげて、小倉に移つてゐた。平太郎兄は小倉の銀行の簿記係として、可なりの地位になつてゐたらしかつた。家も中々立派で、父と母は二階の四畳半の小座敷を居間にして、御隠居様らしく暮してゐた。本吉(もとよし)乙槌(おとづち)兄も豊津から来て、兄弟三人が久しぶりで落ちあつて、盛んに飲んだ。私も既に一人前の飲み手になつてゐた。平太郎兄は真白い皮膚の、まるまると太つたからだを、越中褌(ゑつちゆうふんどし)ひとつになつて、上機嫌で私等に飲ませた。私はその時、乙槌兄と二人で、門司から馬関へかけて一日遊びあるいたが、その時の門司はまだ一面の塩浜で、四五軒の藁屋があるばかりだつた。乙槌兄は国に帰つてから、福岡日日新聞に小説を書いてゐた。(けだ)し彼は坪内逍遙さんの「小説神髄」の随喜渇仰者(ずゐきかつがうしや)であつた。

 養家(椎田の中村家)では、酒ずきの父が毎日、(さかな)の趣向に苦心して、晩酌を唯一の楽しみにして私にも其の相伴(しやうばん)をさせた。然し父は年のわりに健康が衰へて、私の学校卒業が待ち長いと云つて嘆息してゐた。馬場から連れて来た小さい娘のお力さんは小学校に通つてゐた。其の小学校の先生に、私と同期で豊津中学を卒業した大森君がゐた。父は大森君を招いて、一夕、小宴を開いた。お力さんの可愛らしい東京言葉が田舎言葉に変つてしまふのが惜しかつたと、大森君が話してゐた。

 私はそんな事よりも何よりも、東京に拵へてある借金の事が心配になつてゐた。何とか口実を設けて、少しばかり臨時の金を貰つて行かねばならぬのであつた。思ひやりのある平太郎兄が来て口添をして呉れたりして、ヤット幾らか貰ふには貰つたが、それだけでは杉元横山二君の手前、誠に面目ないのであつた。

 それで東京に帰つて来ると、いろいろな焼け気味で、忽ち又た遊ぶ癖が募り、年末の頃までには、正に立派な放蕩者になつてしまつた。金ぼたんの外套を嬉しがつたりしたのは昔の事で、今は寒空に夏服を着て、ズックの破れ靴をはいて吉原の廓内(くるわうち)をさまよひあるいたりした。国で母が丹精をして拵へてくれた博多の帯も、奉書の羽織も、絲入の(あはせ)も、悉く質屋にまげられてしまつた。

 末延君も酒好きで、私は此の先輩からも其の道の指導を受けた。末延君の同郷の友人に川村藤吉君と云ふのがあつた。それが末延君に、寄宿舎に誰か語るに足る人物があるかと云つたのに対し、末延君が私の名を挙げて答へたと云ふので、私は川村君の下宿に連れて行かれた。この川村君は私より二つばかり年上で、既に何処かの法律学校を卒業し、今弁護士の試験を受ける為に勉強してゐるのだつた。然し彼は、飲む事と遊ぶ事とに於いては既に多大の経験者で、末延君と私とを指導するには十二分の資格を備へてゐた。殊に彼は、強情我慢、小男ではあるが精悍の気が眉宇(びう)の間に溢れて、人を威圧するに足るものがあつた。私は彼を一代の英傑だと信じてゐた。彼が盃洗(はいせん)で酒をあふる時、私も亦それに倣はずにゐられなかつた。彼が路傍の鍋焼饂飩(なべやきうどん)の屋台店を蹴とばしたりする時、私は一面にその乱暴を厭ふ気持がありながら、一面には亦た其の豪快を喜ばずに居られなかつた。末延君と私とは全く彼の追随者になつてしまつた。

 

   十一 除名、離縁、帰国

 

 明治二十二年(1889)二月十一日、憲法が発布された。その日、私は川村、末延の二君と共に、小川町の牛肉屋で、雪か雨かの中に大盃を挙げて祝意を表してゐた。川村君は土佐の自由党気分を多量に持つた人で、(いや)しくも憲法発布の日に、飲まずにはゐられないのであつた。所がそこに文部大臣森有礼(もりいうれい)暗殺の号外が来て、我々の酔は悲壮淋漓(りんり)の感を漂はした。

 その時、私は既に、月謝不納の故を以て学校から除名されてゐた。そして馬場家からは離縁の申込を受けてゐた。私は馬場さんに対して、中村家が私を東京に遊学させたのだから、離縁するなら私を国に帰すが当然だと云ふ理窟を云つて、帰国の旅費を請求した。馬場さんは止むなく旅費として金十円を出し、玄関番の竹中君をして私を新橋停車場まで送らせて、私の出発を見届けさせようとした。然し竹中君は、私に対する同情からか、或は恐怖からか、兎にかく其の任を果し得る見込がないと云つて断つた。私は直ちに其の十円を飲んでしまつた。

 実家の父からは、叱責と嘆息との手紙が幾度も来た。利彦さんについて悪評が多いと、間宮から云つて来たと云ふのであつた。父としては、「悪評」といふ言葉に甚大の苦痛を感じたのであつた。その時、母は、道楽も仕方がない、学校をしくじるも仕方がないが、若しや困つた余りに、ツイ、盗みでもしはしまいかと、そればかり気遣つたといふ話を、後に聞いた。

 かういふ間に、或日、国から電報が来た。平太郎急病死去、直ぐ帰れと云ふのだ。理由も何も分らないが、私は間宮家で旅費を貸して貰つて、早速出発した。但し、間宮家では(馬場家と同じく)私が素直に帰国するか否かを危んで、長男の直道さんが、私を横浜まで送つて来てくれて、私の乗船を見届けた。

 然るに私は、船が神戸に着いた時、船の酔が余りに苦しいといふ理由で、船の碇泊中、上陸して宿屋にとまつた。その結果、下の関に着いた時には、小倉までの小蒸汽船の賃銭が不足で、止むなく又下の関に一宿し、郵便を出して迎への者をよこして貰つて、それでヤット小倉の家に帰つた。

 此の帰国の月日がどうもハッキリ分らないが、まだ少し寒かつたと思ふ。私は或る友人から貰つた絲入れの単物を着て、其の上に川村君から貰つた雙子(ふたご)の袷羽織を着てゐた。そして懐には、尾崎紅葉の「二人比丘尼(ににんびくに)色懺悔(いろざんげ)」を一冊入れてゐた。

 

   十二 学校以外の読書

 

 紅葉の「二人比丘尼」を只一冊持つて帰国した程の私であるから、当時の文学熱に十分感染してゐた事は無論である。紅葉君等が硯友社を起して「我楽多文庫(がらくたぶんこ)」を発行した時、その紅葉が自分と同じ第一高等中学校の二三年上級の生徒であると聞いて、殊に興味を持たされ親しみを感じさせられた。

 坪内逍遙さんの「書生気質(しよせいかたぎ)」は、もちろん愛読した。大学生といふものを学生生活の最高の理想としてゐる少年が、「書生気質」の魅力に捕へられない筈がない。「妹と脊(いもトせ)かゞみ」の薄い分冊を神楽坂の麓の雑誌店で買つた事を特に覚えてゐる。「小説神髄」に依つて、新しい小説といふものの性質を教へられた事も無論である。

 雑誌「国民之友」が初めて文藝附録をつけた時の珍らしさは今にも忘れない。山田美妙斎の言文一致の短編小説、殊にその口画(くちゑ)の、若い武者と裸体の美人との配合が、如何に新奇に我々少年の目に映つた事よ。

 「国民之友」は新思想の雑誌として学生必読であつた。徳富蘇峰および民友社一派に対する我々の崇敬と愛慕は殆んど絶対であつた。インスピレーションといふ言葉を初めて此の雑誌から教へられ、その幽玄な意味が「天来(てんらい)」といふ訳語に依つて僅かに髣髴(はうふつ)し得べきことを教へられた時、我々少年は忽ち何か「天来」の妙音を感得した如くであつた。然し「日本人」が「国民之友」と対立の形を以て出現した時、我々は又三宅雪嶺を尊崇した。文学に於いて、紅葉の艶麗でも、露伴の豪宕(ごうたう)でも一緒くたに貪り読んだと同じく、政治社会評論に於いて、平民主義の蘇峰でも、国粋主義の雪嶺でも、皆な同じく丸呑にしたわけであつた。

 さうした新人物のもの以外、中江篤介(兆民)の「三酔人経綸(けいりん)問答」矢野龍渓の「経国美談」島田沼南の「開国始末」など皆な手当り次第に乱読した。末広鉄腸の政治小説「雪中梅」「花間鶯(はなまのうぐひす)」も亦た大に愛読した。東海散史(柴四郎)の「佳人の奇遇」は其の長篇の漢詩の故を以て殊に愛読した。「月は大空に(よこた)はつて千里明かに、風は金波を動かして遠く声あり。夜寂々(よるせきせき)望渺々(のぞみべうべう)。船頭何ぞ堪へん今夜の情」などといふ吟声は、当時、下宿屋の到る処に聞かれてゐた。西村天囚の「屑屋の篭」鈴木天眼の「独尊子」などいふのも、一種の新人の、奇警な新著述として歓迎した。明治二十三年に開かるべき国会の「未来記」も幾種か読んだ。

 その頃はまだ、貸本屋といふものが大きな風呂敷包を背負つて、下宿屋などを廻つてゐた。我々は主としてその貸本屋から新著を供給された。然しそれは必ずしも新著ばかりでなく、「梅暦」「春告鳥(はるつげどり)」などいふ古い艶めいた物も供給してくれた。

 新聞では「改進新聞」が書生間に多く読まれた。須藤南翠の「新装の佳人」といふ小説を記憶してゐる。

 政治上の事は幾許(いくら)も印象がない。来島恒喜(くるしまつねき)の大隈狙撃ほどの大事件も、「二人比丘尼」には比ぶべくもない。

 

──以下・割愛──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/02/13

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堺 利彦

サカイ トシヒコ
さかい としひこ 思想家 1870・11・25~1933・1・23 福岡県京都郡(豊津藩仲津郡)に生まれる。大阪に出て枯川漁史の名で文学活動を始め、のち東京の「萬朝報」に拠り、幸徳秋水と識り徐々に社会主義的傾向をあらわし「平民新聞」発行。根底に自由民権説と儒教の素養を持して、日本の社会主義思潮につねに長くよき底荷のように存在の重きをなし続けた。秋水ら没後、枯川在って日本の社会主義は持ちこたえたという評価が高い。

掲載作は、1924(大正13)年12月より1926(大正15)年6月にわたり書かれ、入獄により中断した。平明で鷹揚な筆致、多くの人名をことともせず記録した文体に、一人の秀才のうねりゆく変貌と成熟とが微笑ましくも読みとれる部分を抄出した。

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