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日本の文学への眼

   

 

 考へてみると、日本人のもつ文学の世界の中にずゐぶんと西洋の文学が入つて来たものである。日本人の夢は北欧に飛び南欧に飛んだ。深い霧の夜の中に(むせ)ぶスラブ人たちの魂の彷徨にも会へば、中欧の森の中に聞えた清純の乙女たちの歌をも知つたのである。若しヨルダンの河のほとりに結ばれた愛と憧憬であつたら、もう何百年もの昔日本人の詩の世界に一つの綾をつくつたのである。アフリカの熱沙の上に燃えた幻想や南米の野に薫る友情までも今ではフランスやアメリカの文学を通じて日本人の文学の中の一つの要素となつてゐるのである。私たちは日本の文学の広さと豊さとを想つてみて驚くのである。

 しかし、どんなに日本の文学が日本人の詩心の馳けめぐる世界を広げようとも、日本の文学は自分自身の境地をもつてゐるやうに思へる。いや、もつて居たればこそ世界の文学を逍遙の地となし得てゐるのである。逍遙はひとつの基点をもたねばならない。

 とはいふものの、この逍遙のための基点がつねに明治以来の日本文学の中で意識されてきたとは言へないのである。それのみでなく、幾度か日本の文学に苛重の批判がなされてゐた。日本の小説は、その構想の狭さと知性の処理の拙さとのために、低く評価されてゐたし、日本の俳句や短歌や近代詩もまた同じ非難を受けてゐた。しかし日本の文学

は、西洋の文学の構想に(なら)ひ、すぐに継ぎたしのできるといふ形質のものではなかつたのではないか。西洋の文学者たちの知性的処理は日本文学の中の知性と同じ線の上での進歩では決してなかつた。日本の文学は引き伸ばしや継ぎたしで、発展をするといふかたちをもつた文学ではなかつた。だから、西洋の文学者たちが、日本の文学を理解することは至難なことだといつて、よいかも知れない。否、日本人によつてすら、ともすればその姿を見失ふかも知れないやうなものが、日本の文学の文学であるところのものであると言ふことができるのである。

 

   

 

 わが国の文学作品は作品以外のものと連繋し合つて文学の世界をつくつてゐる。俳句が「茶」につながるのはほんの一つの例であり、短歌が「書」につながるのも、数あるものの実例の中の一つにすぎないのである。日本人は作品の理解に於て作家の生活態度やその文学生活の()さを、西洋の人々の場合とは比べもつかず、評価の底に置いてゐる。作品はかなりに作品以外のもので支へられてゐる。ヨウロッパの作家たちは作品を一つの全き客観的な世界のものにつくりあげ得る習俗の中にゐる。西洋の哲学者たちがすでにその人格から離れた純粋なひとつの理論の世界を築きあげ得ることをよく示してゐる。西洋に科学が特に発達した理由と、文学作品が超然とした客観的な世界をもつ理由とは同じものから出てゐる。キェルケゴールが、学問の超然たる精神は実は精神的なものでなくて、むしろ非人間的な好奇心の一種であると言つたのは、ヨウロッパのさうした文化特質をよく見破つたものと思へる。かやうな文化本質上のわれとかれとの違ひを想うてみる人には誰にでも、彼我の長短についての感想があれこれと湧き起ることであらう。ヨウロッパの文化的習俗の中に広い眼で見てよしとするべきものがないことはない。ヨウロッパに或るよさがあるからこそわれに思慕のやみがたきよさがあることが私たちにわかるのである。それのみでなく、われのよさは方法を得てするときは、ヨウロッパの文学の上にこれを移してみることのできる可能性がヨウロッツパにあるからである。そこに日本の文学の世界性があると解せられる。

 日本の文学は、日本のすべての庶民たちのすべての生き方、感じ方、考へ方を豊饒に知り且つ反芻するのでなければ、私たちに客観的に描いてみることができないのである。日本の文学はそこに或るむつかしさをもつてゐる。或る民族たちのもつ文学が生の享有をうつすとか、ヒューマニズムをゑがくとかいふのであれば、その文学の本質をつかむといふことはそんなに困難ではない。しかし、日本の文学は、人間の生の享有を表現しようとするところのものでもなければ、ヒューマニズムを本質とするところのものでもない。又人間の情緒を通じた自然の描写でもない。それらのいづれかでもあるのではない。けれども、それらのいづれに対しても少しも背を向けてゐるのではない。日本の文学のわからなさは日本人の生き方・世界観の全体から来てゐる。日本の文学の本質の把へにくさは、日本の文化の本質の欧米的把へにくさも同じ根源をもつてゐるのである。把へるといふこと、理解するといふことは、そこに或る実体が示され得る場合になされるのである。私たちは谷神不死(こくしんはしなず)といふ老子の言葉を面白く思ふ。谷は山と山が実体的にそこにそびえたつとき見られるのであつて、谷はまことに(きよ)である。谷を実体的につかまうと思ふ人は、山をつかむより外に方法をもち得ぬのである。谷は実体的に存在してゐないのである。存在しない谷はつねに不死である。日本の文学の本質に「無」を置かうとする者は、この虚をすべての日本の文化の各々の側面に洞察せねばならない。

 私は日本の文学のあるところを、芭蕉にならつて「風羅坊」とすることの文学的方法をとつてみたいと思ふのである。

 

   

 

「百骸九竅(けう)の中に物あり、かりに名付けて風羅坊と(いふ)。」これは「芳野紀行」の書き出しの言葉である。風羅坊が何であるかを私たちは字義的に探る必要はない。風羅坊とは「誠にうすものの風に破れやすからんこと」をいふのであらうといふ芭蕉自身の説明でその字義は尽きてゐる。人間の存在を(はかな)きものと見るといふのでは、風羅坊のことが言ひつくされる筈はないであらう。必ずしも佛教にいふ無常迅速をのみ言つてゐる訳ではないから。

 私たちがここにパスカルの「人間は葦でしかない」だが、「考へる葦だ」といふ言葉を思ひ起すのは自然であらう。パスカルが風にも水にも破れ易い葦に於て人間の表現を思ひついたことは、風羅坊に似通はないことはない。私たちが春の水のぬるむにつれて水面に出てくる葦の芽の色の鮮さを想つてみたり、又殊に芽のうちに思惟といはれるものの不変なるを明らかにしてゐるのを思つてみると、「考へる葦」といふ見方がヨウロッパ的であることは誰にも感じられる。かれが考へる葦を想ひ、われ

が風羅坊を言ふことの違ひには、はつきりと西洋的なものと東洋的なものとの本質的な相異を示してゐる。風羅坊は、人間の中の考へる(思惟)によつて実体を支へられるやうなものとして、理解されてはゐない。といつて、何としても捕捉しようもないものを(いたづ)らな摸索のうちに言つてゐるのではない。芭蕉は「百骸九竅の中に物あり」と言ひ、この物を風羅坊と呼んだのであつた。客観的な認識にもたらされることの絶えて無き如きものに「物」といふ表現を与へることを、芭蕉は敢てしたのであつた。「物」といふ表現は日本人の思想文化史では貴重である。芭蕉はかの「物」のために或る時は「すすんで人にかたん事をほこり是非胸中にたたかうて」身安からざるをつねに経験してゐたのである。「幻住庵記」の中で彼が言つてゐるやうに、楽天が五臓の(しん)を破り、老杜が痩せたのも、この風羅坊のためである。してみればどうして風羅坊が捕捉されやうもないただの想定物であり得よう。ほんたうは、風羅坊は実の虚のなどと言はない方がよいのである。「二十五箇條」の中で支考は虚実の弁をしてゐるが、戯論に落ちてゐるやうに思へる。ヨウロッパ的思惟から言へば「百骸九竅」こそが「物」なのである。日本の文学からいへば、肉体や心的作用の外に「物」をつかんでゐるのである。たとへば、人の激情を激情の如く表現したのであつては、日本の文学とはなつてゐなぃ。それは激情の「物」をとりにがしてゐるからである。芭蕉は「一たび吟じて感を起し、二たび誦して感を忘る、三たび読みて其無事なる事を覚ゆ、此人や此道に至れり、尽せり」と言つた。作品の中の或る表現が、直接的に感を起すだけでは、日本の文学ではない。直接的な感が特に消されても、ほんたうではない。芭蕉がその次にもつて来てゐる「無事」なるもの、これこそは風羅坊の世界でなくてはならぬのであらう。

 

   

 

 私は日本の文学の本質を言ふために、芭蕉の文学を例にとつてみたのである。芭蕪の文学はどの時代の日本の文学本質にも通ずるからである。芭蕉の言つた「此一筋」なる道は和歌にも絵にも茶にも「貫通」するものである。彼が、「俳諧は萬葉集の心なり」といつたことは、日本の文学の「此一筋」をよく言ひ破つたものといはねばならない。

 心敬の「ささめこと」のなかの次の言葉は、日本の文学を考へるものにとつて、閑却できない。「句のすがた言葉のやさばみ、花の咲きたるにはあるべからず、むねのうち清く、人間の色慾うすく、よろづあはれ深く、物ごとに跡なき思ひをしめ、人のなさけを忘れず、その人の恩には一つの命をもかろく思ひ(はべら)ぬ人のむねのうちより出たる句なるべし。」花のさきたるかたちが文学の表現の真ではないことはもちろん、強く人間の色慾のうたはれることが、文学に貴重のことでもないのである。「むねのうち清く」なくては「物ごとに跡なき思をしめ」ることがむつかしいのが日本の文学なのであらう。禅竹が申楽(さるがく)歌舞の曲音に就いて八音なるものを説いてゐるが、その第五に、「恋慕」を、第六に「哀傷」を言つてゐる。「恋慕のふかさに猶そめさらん哀傷の色をあらはしうたはん事一大事と(いつ)つべし。たとへば諸木の冬枯になりはてたるが(ごとき)也。」「至道要抄」 哀傷は一般に文学の真実であると思へる。では哀傷は何であるかといへば、恋のあはれを人は想ふかも知れぬが、「れんぼのあはれに哀傷の心ふかめても、深むべき心なれども、愛執のあはれ恋路のあはれ」に過ぎないのである。といつて、「哀傷は無常のなげきのあはれ」とも全く異つてゐる。「枯木の心」はよく言はれる幽玄を想はせるが、幽玄にしても禅竹が解釈してゐるやうに「つよき儀」、「とほりたる儀」のものである以上、「枯木」といふも亦至らざることである。

 風羅坊とはかかる哀傷に外ならぬのである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/08/05

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三枝 博音

サエクサ ヒロト
さえくさ ひろと 哲学者 1892・5・~1963・11・9 広島県山県郡に生まれる。東京大学西洋哲学科で富士川游・桑木巌翼に師事しのち日本製鉄勤務から戦後鎌倉大学校長、横浜市大学長を経つつ技術哲学や三浦梅園研究、さらに『日本の唯物論者』で毎日出版文化賞を受ける。

掲載作は、『文学のフィジカとメタフィジカ』(1938(昭和13)年3月河出書房刊)を思索した著者の短編ながら深い洞察と把握の結晶である。ひと頃の日本の哲学者の物言いが観念の小飛躍を伴いながら直観的に微妙にあらわされている。

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