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不帰の暦

     

 

 私は自分の娘のように若いあなたに、何故(なぜ)この話をしておきたいのか、わかりません。気を許して話せる人に、昔の苦労話をしたいという甘えた気持からではないようです。

 戦争の話には、必ず屍臭が漂います。けれども、それは同時に、滅んだ沢山の愛の物語でもあるでしょう。あなたは、前に、愛はいつかは終るものだとおっしゃっていたことがありました。たぶん、そうでしょう。戦争によってすべてを奪われるような(おそ)れの全くないときには、愛は陳腐でしかも賛沢(ぜいたく)なものでしょうから。でも、あのとき、消耗品として使い捨てられた男たちは、それぞれの愛がいつかは終るものだとは考えていませんでした。

 たぶん、そのせいです、私があなたに聞いていただきたいのは。

 私は、いつでしたか、あなたに、私が山賊のような敗残兵を引き連れて鏡泊湖に辿(たど)りつき、丘の上から湖畔の部落に立ち昇る炊煙を見て、とめどもなく涙を流したことをお話ししました。あなたは真剣に聞いてくださいましたが、そのときの私の仲間たちは、不思議なものを見るように私を見ていました。なかには笑う者もいました。無理もないことです。いつも突破行動の先頭に立っていた男が、暮れなずむ湖畔の部落ののどかな風景を眺めて、急に泣きだすとはおかしなことだったにちがいありません。そこに辿りつくまで、私たちは殺し、奪い、盗みを重ねながら歩きつづけていたのでした。

 多勢の男たちが殺されたり、殺したりしました。私たちは無事な生活を楽しむ平凡な市民でした。それぞれ、ある日兵隊にとられ、ある日戦闘に投入され、全滅して敗残兵となり、山賊同然の行為をし、果ては乞食のような捕虜になりました。

 もう三十二年も前のことです。

 

 その夜はしとしとと小糠雨(こぬかあめ)が降っていました。防雨外套はじっとりと重くなっていました。銃身には、拭いても拭いても小さな露の玉が出来ました。

 男たちは下給された冷酒を酌み交し、互いに顔をのぞき合って、ぼそぼそと話していました。

 最後の夜なのです。私は、地面にうずくまっている私の分隊員たちに酒をついでやりながら、明日は死ぬにちがいない男たちの顔を、暗がりで見つめました。私は、薄暮前に偵察に出されましたので、知っていました、明日この山間陣地に生きている日本人は一人もいなくなるだろうということを。

 指揮班の伍長が見まわりに来て、景気づけのつもりでしょう、声高にこう言いました。

「虎頭の友軍はウスリーを越えてイマンに攻め入ったそうだぞ」

 私は黙っていました。信じられないことでした。この部隊に転属になるまで、私は虎頭の最前線にいたことがあるのです。虎頭の陣地は防禦戦闘には強靭性を発揮し得るかもしれないとしても、ウスリー河を越えてイマンヘ進撃する用意があったとは信じられないことでした。

「中隊長のところで聞いたんだ」

 伍長は、小銃分隊長の私の反応がないので、不満そうでした。

「大隊から来た連絡将校の話だから間違いない」

 伍長が初年兵たちに気合をかけて立ち去ると、年嵩の初年兵がききました。

「ほんとでしょうか。虎頭の正面では友軍が進出して、綏芬河(すいふんか)の正面ではこんなところまで押れているんでしょうか」

「他の正面がどうあろうと、俺たちが直面している状況に変りはないよ」

 私は答えました。

「この正面に敵が早く進出して来たのは、たぶん、牡丹江が狙いだろう。綏芬河要塞の翼側を抜いて真っ直ぐに来たんだろう。要塞は動かないからな、包囲して、ゆっくり時間をかけて料理するつもりだろう」

「……どうなりますか、ここは」

 それこそ、私が知りたいことでした。けれども、私は何か答えなければならない立場にありました。

 私は二年兵の上等兵であるに過ぎませんから、本来なら分隊を預ることはなかったのです。この山間陣地の中隊では、しかし、下士官が足りませんでしたし、私より上級の兵長や、年次の古い上等兵は、小隊編成のときに機関銃分隊や擲弾筒(てきだんとう)分隊に割り込んで、小銃分隊の指揮は私に割り振られたのでした。分隊員の数も長以下十三名が正規ですが、このときには肉攻班に取られた残りがまわされて、私の分隊は長以下二十一名という変則編成でした。みんな私が手塩にかけた初年兵たちです。

 ですから、私は答えないわけに参りません。

「さあな。敵がどこまでやるかだ」

 私は敵が来るであろう方向を見ました。暗いだけの、雨が音もなく降る夜がそこにありました。

「明日はほとんど各個戦闘だろう。俺の声が聞えんかもしれん。とにかく、ヤケを起こしたり絶望したりして、無駄に死なんことだ」

 私はそばにいる初年兵に酒をついでやりました。

 その男が、こう言いました。突然です。

「最後ですから、お尋ねしてもよろしいですか」

「いいよ」

「……上等兵殿は、明日死ぬことが怖ろしくはありませんか」

 私はその男に婚約者がいることを知っていました。婚約者からの便りがあるたびに、同僚たちからひやかされて、嬉しそうにその男は顔を赤らめていました。手紙は検閲されますから、二人の愛の交信はありふれた味気ない字句の裏に隠しておかなければなりません。それでも愛する者からの便りほど、兵隊にとって、特に、地獄のような毎日を送る初年兵にとって嬉しいものはありません。その男は、召集解除になるまで、老母の世話を婚約者がしてくれているのだと言っていました。彼は、そのころの一般国民がそうであったように、日本が敗戦するとは思っていなかったようでした。したがって、彼の召集解除も早いか(おそ)いかの問題だけだと考えているようでした。

 そうは行かなかったのです。あの年、昭和二十年八月九日零時、ソ連軍はソ満国境全線にわたって怒濤の侵入を開始したのでした。

 私たちは国境の陣地から百キロほど後退して、山間部に陣地構築をしていました。大本営や関東軍総司令部では、ソ連軍の進攻はその年の秋ごろと判断して、そのときの抵抗線を準備するのが、私たちの作業の目的でした。

 この判断は甘かったのです。国境線は一挙に突破されました。私たちの正面に敵が来たのは八月十二日。霧のような雨降る夜の私たちの山間陣地の正面には、展開一キロメートルについて戦車及び自走砲四十台、大砲と迫撃砲の射撃密度は突破一キロメートル平均で二百六十発という火力を持った敵が、明朝からの攻撃を用意していました。

 私たちは、軽機関銃若干、擲弾筒若干、小銃手は各人九九式短小銃一挺、実包(実弾のことです)(わず)かに三十発、手榴弾二発をもってこの敵を迎えようというのです。

 軍隊のことや戦争を御存知なくとも、これでは私たちに生き残る可能性のないことがおわかりでしょう。

 そうです。明日は死ぬのです。

 婚約者が待っているその男は、もっと早くに結婚しておくか、婚約などせずにおくかするべきでした。

 私は答えました。

「俺だって怖ろしいよ。だからって、怖れてどうなる。危険は、直面するまでは怖れろ。直面したら、怖れるな。俺たちは直面したんだ」

 相手は、おそらく納得はしなかったでしょう。死の恐怖は理屈ではないのですから。無理にでもそう信じ込むように、長い時間をかけて、何百ぺんでも自分に言い聞かせる以外に死の恐怖を覚悟に転化する方法はありません。初年兵にはそんな自己訓練の時間はなかったでしょう。

 私には、内心に怖ろしいような願望がありました。誰かが、私に、「明日、何故戦わなければならんのですか」ときいてくれることでした。きかれたら、私は、おそらく、息を呑んで、あたりを見廻して、早鐘のような自分の心臓の音を聞きながら、軍隊に来て、やっと、はじめて、ほんとうのことを語るときが来た、と思ったことでしょう。私が初年兵たちを教育した期間を通じて、語り合いたくてどうしてもできなかったことが、それでした。

 いまは最後の夜です。今夜をおいては、真実を語る時間は私たちにはないのです。

 けれども、なんということでしょう、この期に及んでも、私は勇敢にも正直にもなれませんでした。私は、単に、よく訓練された兵隊であるに過ぎませんでした。

 私はみんなに言いました。

「明日は俺の声が聞えないかもしれない。そばに行って手を貸してやることもできないだろうと思う。だから、いま言っておく」

 私は、なんと、みんなに説教をはじめたのです。私が一番言いたかったこと、俺たちを死地に叩き込んだ奴は誰か、知っているか、そう言う代りに。

「操典には戦闘惨烈の極所という言葉がある。明日はそうなると思う。何事が起きても臆病になるな。勇敢に戦えとは言わん。臆病にだけはなるな。今夜はいくら臆病でもいい。明日はいかん。臆病になると、できる判断もできなくなる。動く体が動かなくなる。動いてはならんときに動いたりする。それだけ死ぬ率が高くなる。もう一つ、何が起きても絶望するな。絶望して自殺したりするな。生きていれば、どうにでもなる。射撃は、お前たちの腕では、敵の歩兵が百メートル以内に入るまで射ってはいかん。百メートル以内だぞ。それより早く射つと、敵が目の前に来たとき、弾がなくなる。戦車には手出しをするな、タコ壺に潜っていろ。戦わんでいい。俺たちの武器では、打つ手がない」

「戦車が来たら、タコ壺潰れませんか」

 もっともな心配でした。私だって経験のないことです。

「明日になればわかるさ」

 初年兵たちは各自のタコ壺に散りました。

 霧雨は降りつづいていました。まっ暗でした。地表の異常を捉えるには、動物に還元した眼が必要でした。

 私は銃身を拭きながら言いました。

「夜襲はない。みんな寝ろ。俺が起きている」

 そうです、夜襲はありません。敵にその必要は全くありません。夜襲は、火力に劣る軍隊が、その劣勢を、夜陰に乗じて襲う白兵戦によって補おうとする戦法です。(おびただ)しい戦車をこの正面に持って来ている敵は、安心して明日まで眠るでしょう。

 

 小糠雨は依然として降っていました。陣地は闇の底に眠っていました。暗くて何も見えません。何も聞えません。明日この山が修羅場になるなどとは、とても思えないほどの静けさでした。

 私は手入れの終った銃でタコ壺のなかから一挙動据銃を何回かやりました。一挙動据銃というのは、肩つけ、頬つけ、片目を閉じる、息をつめる、引鉄の第一段を圧する、照準線を(おおむ)ね目標の中央下際に指向する、この六つの動作を同時に行なうことです。つまり、より早く、より正確に射撃出来るようにするための訓練要領です。

 私は初年兵のときに狙撃手訓練を終了していました。私が受けた訓練では、狙撃手としての最低条件は、伏的(人間の頭と両肩をかたどった標的)に対して、距離三百(メートル)で五発射って、全弾命中は勿論のこと、そのうち三発は握り拳大の面積に集中していなければなりませんでした。それから限秒射撃に進みます。狙撃時間を四秒、二秒と限定するのです。その段階が終るころには、銃は自分の体の一部になったような感じがします。

 私は面白いことの一つもない軍隊で、射撃だけが好きでした。銃には、人間が持っているような理不尽さがありません。答えを正確に出します。銃の個癖を知った上で、狙って射って(あた)らなければ、射ち方が悪いのです。銃は、人間が持っているすべての悪徳と無関係です。不思議なことです、人間を殺す武器である銃だけが、人間のいやらしさから自由であることは。

 私の必中限界は、限秒二秒で、二百でした。必中限界というのは、どんな場合でも射ち損じのない距離のことです。限秒四秒なら、三百でもほぼ確実でした。

 したがって、明日、私が一挙動据銃をして照準線上に捉えた敵影は、必ず倒れることになるはずです。そうでない場合はただ一つ、その瞬間に私の方が死んでいることです。明日は、しかし、敵の戦車群が殺到して来ますから、狙撃は何の役にも立たないでしょう。

 私は銃に実包を装填して、安全子をかけました。もう何もすることがありません。否応なく死を考えるだけでした。

 ようやく人生をはじめたばかりでした。それなのに、もう終点に立っていました。やれば何でも出来そうな気がしました。まだ何一つやり遂げたことはありませんでした。勿体ない気がしました。何のために捨てる命かと思いました。私に限らず、ここで死ぬ男たちは死に値するものを知りませんでした。

 国家のためなどということは何の説得力もありません。戦場の消耗品でしかない男たちにとって、国家とは何でしょう。天皇とは、その名において死地に投じられた男たちにとって、何でしょう。その名の下に死ぬ理由を、男たちは誰も納得してはいませんでした。誰も、国家と称する制度とその権力を握っている人間たちの意思を拒否する勇気がなかったから、明日は墓穴となるタコ壺で、いま濡れそぼちながら最後の夜を眠っているに過ぎませんでした。

 私個人のことをいえば、私は自分が属する国や民族の運命を予見する能力は幾らかありましたが、その予見に従って必要な行動をする勇気と能力は少しもありませんでした。権力が企図していることを予感して、それに抵抗するのではなく、びくびくしながら生きていました。そして最後の夜を迎えたのです。

 いまは、もう、一人の平凡な男の煩悩が意識を食い荒らすばかりでした。

 もうどうすることもできません。ここにいる男たちの生命は、朝が来るまで、時間単位でしか残っていません。後悔してもはじまりません。悶えても、誰も助けてはくれません。あとは待つだけでした。死が来るのを待つだけでした。それが来たとき、何を考えるか、誰も知りません。

 人生がすばらしく豊富なものに思えました。男がいて、女がいて、愛があって、悦びと哀しみがあって、怒りと憎しみもあって、人びとは働き、楽しみ、生きていました。変化無限の、充実した風景でした。それは、しかし、遠い昔のことのようでした。いつか見たことのある、途方もなく遠い世界のことのようでした。

 もうそこへは戻れない。逢いたい人にも逢えないでしょう。いいえ、絶望しさえしなければ、生きることを諦めさえしなければ、逢いたい人には逢えるのだ。そう信じようとしました。

 私は闇のなかにある人の(おもかげ)を見つめました。その人は私より十一年上の、何不自由なく暮らしておられる人妻でした。私は貧しい苦学生でした。三度の食事にも事欠く有様でした。そのくせ人から同情を示されると、(かたく)なに拒否の態度を示すような生意気な青年でした。私の下宿先の近くに短い坂があって、そこを登るのに息が切れて、立ち停らなければならないことが再々ありました。戦後二十年も経って、そこへ行ってみましたが、あのころより二十も齢をとった私が楽に登れる、坂というほどのものではないのです。ひどい生活だったのだと、そのときしみじみ思いました。そういう生活のなかで、人のお情けは受けないと気負っていた私が、その人の好意だけは素直に頂戴していました。私の学生としての最後の一年間は、その人の温かい思いやりに包まれていました。私にはお返しできることが何もありませんでした。私はただ自分の心に誓うだけでした。その人の黒い瞳に映して恥かしいような人間にだけはなるまい、と。

 その人と別れたのは、昭和十五年の三月でした。銀座のスエヒロでビフテキを御馳走していただいたあと、四丁目の地下鉄へ下りて行かれたその人の後姿を見送ったのが最後でした。

 私は卒業して満洲へ帰り、勤め人になりました。ある日、東京の友人から手紙が来ました。その人が病気になったことと、私の胸が絞られるようなことが書いてありました。

「あの人は君のことばかり心配している。君はあの人に何を言ったのか」

 私は何も申しませんでした。言える立場ではなかったのです。その人は精神的に満されないものがあったとしても、日常生活には何一つ不如意なことはない人でした。私は学校を出たら軍隊に取られる、軍隊に行けば戦場に出される、戦場に出れば死ぬことを覚悟していなければならない青年でした。そう考えることは算術的には正しくありませんけれども、あのころの青年の一般的な宿命でした。ですから、私の心に何が芽生えていたとしても、それを口に出すべきではありませんでした。

 私は東京へその人の見舞に行きたくて、上司に一週間の休暇を願い出ました。汽車と関釜連絡船で走りづめに走って往復五日はかかる計算でした。ちょうど私は年度生産計画の基礎データを作成中で、上司は三日だけなら目をつぶってやると言いました。三日ではどうにもなりません。残る手段は飛行機だけです。航空便はあるにはありましたが、そのころは軍人優先で、頼みに行きましたがニベもなく断わられました。

 私は悔いを残しました。

 月日は経ち、私は国境部隊に取られ、生き地獄のような異常な体験を重ねました。病気から恢復されたその人の手紙を頂戴しました。手紙は検閲されていました。私からは何も書けませんでした。私は、苦痛に耐えるたびに、ただただその人の瞳を意識するばかりでした。私は耐え抜いて、いつの日にかその人の瞳の前に立ちたいと念じていました。そのときには、帰って参りました、長い間私を見守ってくだすってありがとうございました、と申上げたいと希っていました。

 最後の夜、私はその人の悌を闇に見つめていると、殺伐とした心がやさしく、けれども悲しく潤ってくるのを覚えました。

 もうお別れです。残念ですけれども、仕方がないのです。私が弱かったのです。抵抗すべきときに、勇気がなかったのですから。せめて明日は、死ぬ瞬間まで冷静でいたいと思います。私は戦う名分を持ちませんけれども、明日は冷静に頑強に戦うだろうと思います。私が死ぬ前に、憎くもない人を私は沢山殺すでしょう。理由は、相手が殺しに来るからということ以外には、何もありません。お目にかかっていたころの青年は、私のなかから消えてしまいました。私は各個戦闘技術に熟練した兵隊になってしまいました。この山にいる何百という男たちの最後の仕事は、明日、戦って死ぬというだけのことになりました。人間が国家などというものを持ちさえしなければ、こんなことにはならないでしょうに。お別れの時が刻々と近づいて来ます。お世話になりました。とうとう御恩返しができませんでした。人間の心のなかの美しいものを、人から人へ伝えることができなくなったのが、この最後の夜、何よりも残念に存じます。

 

     

 

 夜が明けました。八月十三日です。雨は上っていました。

 私は林間の幕舎へ戻って、肌着を着替えました。みずから死を承認したしるしです。

 陣地に戻ると、緊張がみなぎっていました。遥か前方の稜線上には、視野いっぱいの広さに夥しい黒点が等間隔に展開して現われていました。戦車群です。

 さあ、いよいよさようならを言うときです。あなたは、よく「さよなら」とおっしゃいますが、人生にはさよならを言うときは、そう幾度もあるものではありません。このときは、まさに最後のそれでした。

 私は分隊員の顔を順々に眺めました。みんな陽に灼けて、蒼ざめた顔はありませんでした。浅黒く、緊張しきっていました。

「小銃分隊、位置につけ」

 私は号令しました。

 声には出さずに、心のなかでみんなに言いました。

 お前たち、自分が生きるだけのために戦え。国家も天皇も俺たちに関係ない。関係ないもののために死ぬ必要はない。せめて、お前たちの女房子供、親姉妹、いとしいものが退避する時間を稼ぐために戦え。

 初年兵たちはタコ壺に散りました。ろくに実包射撃をやったことのない男たちが、これから戦車を主力とする敵と戦うのです。

 稜線上の黒点は、攻撃前進を開始し、徐々に、徐々に、向う斜面を下りはじめていました。

 

 砲撃がはじまりました。私の予想をはるかに上廻る凄まじさでした。

 戦車群は斜面を下りきって、停止して砲身を揃えました。日本軍に火砲がないことを知っているからです。

 私の分隊と山間の道をはさむ位置に隣の中隊がいて、これは岩山の突角陣地に機関銃を据えていました。はじめは、なかなか旺盛に射っていましたが、これがまず潰されました。戦車群が火蓋をきって、轟音と土煙が暫くつづいたあと、砲撃が()むと、その陣地からはもう一発の銃声もしなくなりました。

「全滅でしょうか」

 私の近くのタコ壼から声がしました。

「らしいな。今度はこっちの番だ。あれがはじまったら、潜る一手だ」

 戦車群が一斉に砲塔をまわしました。私たちの陣地の直撃を狙っています。

 零距離で一斉砲撃がはじまりました。この打撃は強烈をきわめました。山が叫喚しました。タコ壺に潜っていて、地震のように山が揺れるのです。発射音、炸裂音が驚くべき速さで連続しました。岩石が飛散します。土砂が煙のように舞い上って立ちこめます。

 手の施しようがありません。敵が前進して来るのが気になるので、ときどき顔を出しました。戦況はよくわかりません。中隊正面に戦車群が二十輌はいたと思います。展開密度が高かったのは、こちらに対戦車火器がなかったのと、山間を通っているただ一本の道路に隣接して中隊が布陣していて、敵戦車群はこの道路を進撃路として指向していたからでしょう。

 何度目かに顔を出したとき、私はしたたかに土砂を浴びました。至近弾です。不思議に私は無傷でした。私は変な自信がつきました。私に弾丸はあたらないという、何の根拠もない、狂信者流の信念です。いや、信念などという高いものではなくて、そう思い込むことで自分を支えたかったのかもしれません。

 顔を出して見ていました。実は、よくは見えませんでした。土砂が舞い上って視界を遮るのと、近くで砲弾が炸裂すれば、やはり、反射的に首を引っ込めるからです。

 どのくらいつづいたでしょうか。随分長かったように思いますが、時間は大して経っていなかったかもしれません。私は時計を持っていませんでした。最初に入隊したとき事務室に預けたまま、一期の検閲を終り、衛兵勤務の連続上番でシゴかれているうちに、急性肺炎を起こし、入院している間に原隊が沖縄へ動員され、私の時計はそのままになってしまったのです。

 砲撃が熄みました。戦争とはこうやってするものだというお手本を示すように、戦車が前進し、その後ろから歩兵が続々と来ました。

 戦車が私たちの斜面陣地を、岩を噛みながら登って来ます。一輌の戦車に歩兵が十五、六人ずつついて来ます。

 こちらからは誰も射ちません。私は、私が生きているように、まだみんな生きていると思っていました。私が注意したにもかかわらず、早くから無駄弾を射って、敵が接近しつつあるいま、弾がなくなってしまったか、砲撃のあまりの凄まじさに、観念してタコ壺に潜っているのか、どちらかだろうと思っていました。

「小銃分隊、戦車はやり過ごせ。歩兵だけ射て」

 私は怒鳴りましたが、戦車の機銃音や歩兵のマンドリン(自動小銃)の発射音に掻き崩されたようでした。

 私は一挙動据銃をして、標的を捉えました。少しも憎悪感はありません。ただ、真っ直ぐに私の方へ登って来られては困るだけなのです。

 標的になった異国の男は、戦車と戦車の間、やや後方をのそのそと登って来ていました。勝敗既に明瞭ですから、匍匐(ほふく)さえもしない、屈進さえもしないのです。私は少し腹が立ちました。敵に対してそういう接近のしかたはないからです。その男たちの正面には、私がいるのです。狙撃訓練をいやというほど仕込まれた兵隊が、まだ生きているのです。

 その異国の兵隊は、日本人と大して体格がちがわないように見えました。齢は、遠くて、わかりません。まだ若いようでした。独ソ戦で若い男が沢山死んだはずなのに、という疑念が(かす)めました。赤毛のようでした。歩いて来ます。並んで登ってくる戦友と話を交しているように見えました。

 私はその男に恋人がいるだろうと想像しました。あるいは、若い妻がいて、マシュマロのような頬っぺたをした可愛い赤んぼがいて。もしそうなら、その男はそんなに不用意に歩いて来てはいけないのです。私が射つ。その男が死ぬ。恋人か若い妻かが自分の豊かな胸をかき抱くようにして号泣するのが見えるようでした。だから、その男は私の方へ真っ直ぐに登って来てはいけないのです。

 恋人か若い妻は、月日が経ったら悲しみを忘れて、また別の男を愛するようになるかもしれません。そうやって、生きている者は生きつづけるのです。その男は、しかし、今日で人生とは永別です。私も同じでした。その男や仲間たちが真っ直ぐに登って来たら、ある瞬間に自動小銃が火を吹いて、私の体は蜂の巣のようになるでしょう。

 あるいは、私が手を上げたら? この答えは、いまもって出ません。交戦最中にたった一人の男が手を上げたら、相手が発砲しないという保障はありませんでした。

 仮に射たれないとしても、捕虜になるのが厭でした。私が厭だったのは、捕虜になるのが不名誉だから、あるいは恥辱だから、ではありませんでした。単純に、それが徹底した不自由を意味したからでした。自国の軍隊にいたって、自由などは少しもありませんでした。不自由という点では、捕虜はそれ以下だと想像されたのです。事実、そうでした。

 私の標的は、そのとき、突然、自動小銃を射ちだしました。日本兵の陣地に近づいたから、警戒したのかもしれません。気持よさそうに、腰だめで射ちました。

 私は既に引鉄の第一段を圧していました。照準線上に目標を正確に捉えていました。相手が()ぎつけてくる弾で、私の顔の横の草がピシッと音を立てて折れました。

 その瞬間に、私は射っていました。標的はもんどりうって倒れました。並んでいた連中は横へ跳んで戦車の後ろに隠れようとしました。戦車までは十メートルほどあったように思います。彼らは、何をおいても伏せるべきだったのです。

 私は狙撃訓練のときのように遊底操作をして、残り四発を正面幅員十五メートルほどの間に見える歩兵に向って射ちました。一人ずつ次々に。据銃と同時に目標を照準線に捉えます。引鉄は既に圧しています。銃は微動もしません。射撃教範にある通り「射撃姿勢ハヨク兵ノ体格ニ適合シ堅確ニシテ凝ルコトナク」です。射ちます。そのときには、もう、遊底をひらいて、射殻薬莢をはじき出し、遊底を閉じています。眼は次の標的の変化を見ています。単純で、機械的で、正確な動作の迅速な繰り返しです。この動作が迅速で正確であればあるほど、人間の生と死にかかわる思考と意識を排除します。射ちはじめたら、射つだけなのです。目標が伏的であろうと、人間であろうと。私が射っているのではなく、銃が勝手に私を動かしているような感じでした。倒れたかどうかを確認する時間はありませんでしたし、必要もありませんでした。標的はとっくに私の必中限界に入っていました。

 私はタコ壼に沈み、次の五発を装填して、顔を出しました。敵の歩兵たちは、左右に分れて走っていました。戦車群だけはゆっくりと直進して来ます。私は横走する歩兵を射ちました。より早く、より正確に。それだけでした。

 戦車の一輌が不埒な日本兵の存在に気づいたようでした。機関銃を連射して、速度を上げました。私は銃眼を狙って射ちました。当然入ったはずですが、何の異状も起きません。

 直進して来ます。怖ろしい巨きさです。私はタコ壺に潜って、手榴弾二発を結束しました。申しおくれましたが、小銃分隊で私だけは実包百二十発、手榴弾四発を与えられていました。

 戦車がのしかかってきました。タコ壺のなかが暗くなりました。熱気が私をおしつけました。キャタピラのきしむ音が私を圧延機にかけようとするかのようでした。タコ壺がゆがみました。

 明るくなりました。熱気も去りました。私は手榴弾を鉄帽に打ちつけ、発火させて、私を圧し潰そうとした戦車の後尾へ投げ込みました。爆発の瞬間を私は見ていません。自殺になるからです。爆発音と同時に顔を出しました。戦車は何事もなかったように、ゆっくりと前進していました。私は戦うのは、もう諦めようと思いました。牛に小豆ほどの小石をぶっつけても、皮をふるわすぐらいのことはするものです。戦車は全然痛痒を感じないもののようでした。

 敵の歩兵は続々と登って来ていました。それからの私は、私の正面だけを射ちました。情けない思いでした。何のために虚しい抵抗をするのか、納得のゆく名分がありません。正面を射てば、正面の敵は左右に大きく分れて、依然として登りつづけます。私は自分の正面に敵を来させないだけのために戦っているのでした。

 敵は、勝敗が既に定まったのだから、少しぐらいの抵抗は無視して、避けてもよかったのです。私がいくら射っても、大勢に影響はないのです。無駄なのです。敵は、戦とはこうしてやるものだ、と再び教えてくれたようなものでした。

 敵は私の斜面陣地を蹂躙(じゅうりん)して、台上へ登ってしまいました。全滅でした。私が全滅を実感したのは、しかし、もう少しあとのことです。

 砲声は熄みました。銃声もしません。戦闘は終りました。はじまってからどのくらいの時間が経ったか、わかりません。陽はいくらか西へ傾いていましたが、日暮れまでにはまだ随分時間がありました。虫の声がしはじめました。蝉の暑苦しい声も遠くでしていました。

 私はタコ壺から這い出して、分隊の担当区域を這いまわりました。

 前夜、死ぬのが怖くないかと私に尋ねた男は、許婚者のもとへはとうとう帰れませんでした。体が二つに千切れて折れ曲っていました。直撃弾が飛び込んだのなら、痕をほとんど残さないはずですが、どういう状況でそうなったのか、理解できません。

 その隣のタコ壺では、砲撃の破片によるものでしよう。顔を削がれていました。この男は楽天的で面白い奴でした。入隊後間もなく、内務検査(所持品検査)のときに、彼が写真は持っていてもいいかときくのです。

「どんな写真だ」

「女であります」

「女じゃわからん。おふくろだって女だぞ」

「若いんであります。水着を着ているんであります」

「お前の何だ」

「何でもありません」

「何でもない女の写真が大切なのか」

「そうであります。いろいろ空想できるから大切なんであります」

 つまり、アメリカの兵隊たちが壁やロッカーに貼りつける、ピン・アップ・ガールと同じことでしょう。日本の軍隊では、初年兵にはとてもそんなことは許されません。

「没収されたくなかったら、褌のなかにでもしまっておくんだな」

 私はとっさにそう言ったのでした。よほど思想的に疑われでもしない限り、身体検査までされることのないのが普通でしたから。

 その男の答えがふるっていました。

「近くていいや」

 私は吹き出しました。その男の顔を改めて見直しました。私が初年兵だったら、とてもこうはやれないことでした。

 その男は、桃色の空想を現実に移す暇もなく死にました。彼はよく猥褻(わいせつ)なことを言っては同年兵を笑わせていました。猥褻は軍隊では醜悪ではなくて、一種の救いなのです。女に生命の希望をつながない兵隊は一人もいません。けれども、その生命の希望が実現しないのがほとんどでした。

 次のタコ壺では、這い出しかけたところをやられていました。その男は私の方へ這い出ようとしていたらしく見えました。私は分隊員の位置を扇形に展開して、扇の(かなめ)の位置に私がいましたから、私の方へ来るということは、敵に背を向けることになります。彼の背には傷がありませんでした。私は死体を裏返しました。胸が血糊と土でべっとり汚れていました。手には安全栓を抜いていない手榴弾を握っていました。手榴弾の実物投擲演習は、彼らはまだ行なったことがないのです。

 その若い死者は、前身が職工でした。性格から推して、勤勉だったにちがいありません。彼は、戦争が終ったら、小さくてもいいから町工場を作ることを目標にして働きたい、と言っていました。

「作るって、奉天でか」

 私はきき返しました。奉天というのは、いまの瀋陽のことで、当時満洲では最大の都市でした。

「そうです」

 彼も日本が敗けるなどとは考えていなかったようです。

 私は申しました。

「時代が変るかもしれんよ」

 私は勤め人をしていたころの職掌柄、日米の生産力に関するデータを一年おくれで持っていました。石油とか鉄とかの重要物資十数品目の生産高の単純算術平均値の比較は、米国の七四・二に対して日本の一でした。ですから、時代が変ると私が申しましたのは、日本は勝てない、という意味でした。

 彼は、しかし、そうはとらなかったのです。

「時代は変っても、大工場の下請けの町工場は必要です」

 そう言うのです。

 彼の未来の設計は、労働者的発想ではなかったでしょう。明らかに小所有者をめざしていました。それでも、私は、彼の誠実な性格を愛しもし、評価もしました。ですから、私は、彼の夢に冷たい水をかぶせるようなことは言えませんでした。時代が変って、彼は自然に会得するだろうと思っていました。

 彼もまた帰らぬ人となりました。胸に致命傷を負って、向きを変えて私の方へ来ようとしたのは何故だったでしょう。分隊長の指示を必要と考えたのか、彼が手榴弾を握っていたことから臆測すると、私にその手榴弾を使わせる方が有効と考えたのかもしれません。擬製弾による投擲訓練のとき、立投で彼は三十メートルそこそこしか飛ばず、私のが七十メートルを越えるのを見て、目をまるくしていたことがありました。私はそれを思い出したのです。もしそうだとすれば、致命傷を負いながら私の方へ這って来ようとした彼の心根がいじらしくてなりません。

 私はタコ壺からタコ壺へ這いまわりました。みんな死んでいました。死体の数が足りないような気がしました。這い出して、まるで別の場所で死んでいるのもいました、地形がすっかり変ってしまって、タコ壺のあるべき場所がわからなくなっているところもありました。

 私はやはり気が立っていたのでしようか、無残な死体をばら撒いたような凄惨な戦場風景が、這いまわっているときには、無残とも凄惨とも感じませんでした。実は、それどころではなかったのです。私が動くと、草むらが揺れます。台上からそれをめがけて、自動小銃が射ってくるからです。

 私は自分の分隊区域を見てまわって、自分のタコ壼へ戻ろうとしました。なんということでしょう。戦闘は終ったのです。私は生き残ったのです。私の戻って行くところは、自分のタコ壺しかないようでした。タコ壺へ戻って、これからどうするかを考えようと思いました。

 ふと見ると、指揮班のタコ壺から伍長が手招きしていました。前夜、友軍がウスリーを越えてイマンヘ攻め入ったという虚報をもたらした下士官です。

 彼の顔は今日一日で小さくなって、眼ばかりになったように見えました。私の位置から五十メートルぐらいはあったでしょう。

 そこまで、途中に草むらの深いところがあって、匍匐などしていたら台上から銃弾で縫いつけられそうでした。私は呼吸をととのえて、全力疾走しました。掃射が来て、私の脚を追い越し、草むらを薙ぎつけました。

 伍長のタコ壺のそばに私がからだを投げるだけの時間がやっとありました。草の深いところでした。動いて場所を知らせさえしなければ、まず安全でした。

 草むらに伏せてから気づいたことですが、私の足の方に指揮班に入った五年兵の兵長がタコ壺のなかで生きていました。

 状況について伍長と私が言葉を交したあとで、伍長が言いました。

「最後は突撃だからね」

 私は軍隊に入って以来、はじめて、上級者に対して「文句」を言いました。

「突撃するって、どこへですか。前後左右みんな敵だ。出たら、とたんにやられるにきまってる。犬死にですよ。それでもやりますか」

「……じゃ、どうする」

 伍長は私の顔を見ないようにして呟きました。

「このままじゃ、捕虜か、殺されるかだ」

「暗くなるまで待つんです」

 私が答えました。

「脱出しましょう。暗くなったら生存者を集めてきます」

 伍長の顔は土色でした。

「……どこへ」

「わかりません。状況次第です」

「どこへ行っても敵ばかりだぞ。脱出できるかね」

「できます」

 私は、一年十ヵ月前私が出て来た生活の場へ、現在地点から宙に直線をひいていました。そこには、重畳とした山脈がつらなっていました。涯もない曠野がありました。戦場で使い捨てられて生き残った男にとっては、無明の闇を手さぐりで歩くに似た心地でした。でも、国家権力から紙片一枚でひっぱり出されたのです、私たちは。今度は自分の意志で戻って行く。できないということはありません。

 台上から、何故か、断続的な射撃を加えられました。私の頭の上で草が千切れて飛びました。

 私の足の方にいた兵長が言いました。

「危い。早く入れ」

 あとの経過から考えて、これは私の身を案じてくれたわけではなかったでしょう。兵長は仲間がほしかったに過ぎないでしょう。

 私は、伍長のタコ壼か、兵長の方か、選択に迷いました。伍長のタコ壺は伝令一名を余分に入れるだけの広さがありましたが、私は兵長の方を選びました。伍長が下士官の権威をもって再び最後の突撃を強制する怖れがないとは限らないからです。

「戦闘はまだ終らんか」

 兵長が、私が入ったので窮屈そうに身動きしながら言いました。

「敗けたんか」

「全滅だよ。戦闘なんてもんじゃなかった」

「……援軍が来てくれんかな」

「そんなものは来ないよ。俺たちは捨駒なんだ。いまごろ援軍が来たって、死んだ奴が生き返るか」

 私の神経は、そのころになって、戦慄的な戦場風景を再生しはじめていました。

 そのうちに、生き残った私たちの魂を凍らせるような恐怖の時がはじまりました。

 台上から、敵兵が幾組にも分れて、自動小銃を点射しながら、斜面を下りて来はじめたのです。これは、敵が、負傷した仲間を救い出し、戦友の死体を収容するための戦場整理だったにちがいないのですが、生き残った私たちにとっては、私たちを探しに来たとしか思えませんでした。あちこちで自動小銃を射っているのは、ひそんでいる日本兵を射殺するためとしか思えなかったのです。

 あのとき大声をあげて両手を高く上げて出たら、どうだったでしょう。私は、いまは、そうすべきだったと思います。そうすれば、その後の数十日を、無用の殺傷と、追いつめられた野獣のような緊張に明け暮れすることはなかったでしょう。少くとも、その日にはじまった殺人を、その場限りでやめることができたはずでした。

 そのとき、そこにいて、まだ生きていた僅かばかりの日本兵は、そうしなかったのです。

 敵兵は下りて来ました。話し声が聞えました。足音がしました。点射が間近に聞えます。足音が近づきます。私は全神経を耳に集中しました。足音がとまりました。みつかったような気がしました。

 私は小声で兵長に言いました。

「手榴弾は」

「ない……」

 私は一発を兵長に渡し、自分は安全栓を抜いて、鉄帽にあてがいました。みつかったら、撃針を鉄帽に打ちつけて発火させるのです。発火したら、爆発まで四秒。それで終りです。私は彼我もろともに爆死することを考えていました。私だけが射たれて死ぬのは厭でした。降伏して捕虜になることも、前に申しました通り、一切の不自由を意味するから厭でした。みつからずに、敵が去ってから、戦場を離脱し得たとして、そのあとにどんな自由があるかといえば、何もありません。最も堅固であったはずの東部国境地帯を、敵がこんなに簡単に蹂躙したのだから、おそらく、関東軍は壊滅したにちがいありません。したがって、何処(どこ)へ行っても日本兵に自由はないでしょう。それでも、捕虜にならずに自主的に行動したい、と思っていました。

 だから、敵よ、来ないでくれ。私をみつけないでくれ。みつけたら、高いものにつくぞ。私はそう念じていました。

 突然、タコ壷の底にまるくなっていた兵長が、

「神様、助けてくれよ」

 と呟きました。

 あとから考え合せれば、彼は発狂寸前だったのでした。

 私自身、冷たい汗がすーっと糸を曳くような恐怖に締めつけられていました。戦闘間には覚えなかったことです。生き残ったら、俄かに怖ろしくなりました。ふるえこそしませんでしたが、この圧縮された恐怖の時間は、一生忘れられないものとなりました。

 俺に銃口を向けるな。私は手榴弾を握りしめて、息をとめていました。私が銃口を敵に向けて、正確に照準線上に敵影を捉えたように、いまは敵が私を捉えているのかもしれませんでした。私のそばに来ているソ連兵は、私が射った何人かの男たちの戦友であるのかもしれませんでした。

 偶然というものはあるものです。話がわき道へそれますが、そのときから二十六年後の夏、私はソビエト作家同盟の大会に招かれて、モスクワヘ参りました。大会三日目に、私のスピーチの順がまわってきました。

 私は次のようにはじめました。

「私は、こうしてみなさんの前に立つには、かなりの勇気を必要としました。それというのも、私は二十六年前、みなさんのお国の軍隊と殺し合いをした人間であるからです」

 同時通訳が終ると、満員の会場がシンとなりました。私は二十分ばかりの私のスピーチをあなたにお聞かせしようとは思いません。偶然は、私のスピーチがきっかけで、姿を現わしました。

 二人のロシア人のジャーナリストが私をホテルに訪ねて来ました。彼らは、私がスピーチをはじめる直前に、会場を出ようとしかけたのだそうです。何か気になって、立ち停ったそうです。そして私の話を聞いたというのです。彼らは、私と同じ戦線で、敵味方となって戦った人たちでした。異常な熱心さで、彼らは八月十三日の私たちの戦闘状況を聞きました。あのときはああだったとか、このときはこうだったとか、しきりに合の手が入ります。彼らと私と、両方の話がぴったり合うのです。彼らが私の正面を登ってきた人たちではなかったとしても、限られた空間で殺し合いをしたことは、間違いのないことでした。

 頑強に射ってくる日本兵がいたそうです。

「ひょっとすると、あんたかもしれなかったね」

 と、彼らは笑って、皿のように大きな手で何度も私に握手を求めました。

「いや、あなたがたを射たないでよかった」

 私はそう言いました。ほんとうにそう思いました。

 個人的には少しも憎み合っていない者同士が、もし生きのびたら互いによき友となるかもしれない者同士が、射ち合い、殺し合いをしたのでした。

 話を戦場に戻しましょう。

 戦場は、もう、終末段階です。

 私と兵長は狭いタコ壺のなかで体を縮めていました。

 彼我もろともに爆死する覚悟をしていた私は、近づいてくる敵に無言で訴えていました。

 俺は天皇の兵隊ではない。俺は兵役を拒否できなかった意気地なしだ。俺は戦争の行く末を見透していながら、何もしなかった臆病者だ。だが、俺を裁くのはお前ではない。俺自身なのだ。

 草を踏みしだく音がしました。息づかいさえ聞えるようでした。私は握った手榴弾を鉄帽から少し離して、撃針を打ちつける準備動作に入りました。もう一秒──

 突然、上の方で鋭い口笛が鳴り、甲高い声がしました。それに答えて、私たちの直ぐそばから、何やら大声で喚き返しました。つづいて、入り乱れた足音が去って行きました。三人はいたようです。

 私は長い吐息をしました。息は出て行ったきりで、なかなか戻って来ませんでした。べっとりと脂汗をかいていました。濃縮された恐怖の時間が、信じ難いほどゆっくりと過ぎて行きました。

「行ったか。もう行ってしまったか」

 兵長がタコ壼の底で顔も上げずにぼそぼそと言いました。

「行ったが、まだ安全とは言えない」

 私は答えながら、手榴弾に安全栓をさし直しました。これが不思議なのです。私は助かるつもりでいたらしいのです。普通は、安全栓を抜いたら、そのピンは何処かに捨ててしまうものです。あとは手榴弾を発火させて投げるだけなのですから。私はそのピンをタコ壺のふちに置いていたのです。つまり、使用しない場合に手榴弾を元の状態に戻すために。勿論、無意識のことでした。

 兵長にとって不運なことは、そして私にとっても逆の立場で不運としかいいようのないことは、そのあとに起こりました。

 指揮班の伍長が、せっかく引揚げて行った台上の敵兵に対して発砲したのです。悲鳴が聞えました。声の元気のよさから判断すると、擦過傷ぐらいだったでしょう。台上からは、返礼が早速来ました。自動小銃の掃射と数発の手榴弾です。

 伍長はまだ射とうとしていました。さっきしたたかに味わわされた断末魔の恐怖に対する、報復のつもりだったのでしょうか。

 彼が射ちつづければ、敵はまた下りて来るでしょう。戦闘は終ったのです。無用の挑発でした。

 私は兵長のタコ壺から這い出して、伍長のタコ壺ヘ入り込みました。

「やめるんだ」

 私のこの言い方は、兵隊が下士官に言う言葉ではありませんでした。私の意識のなかでは、軍隊組織はこの瞬間にほとんど崩壊していました。

「せっかく助かったのに死にたいんなら、一人で上へ向って突撃しなさい」

 伍長は口を少しひらきかげんにして、呆然と私を見ていました。

「暗くなったら生存者を集めて脱出する。最寄りの部隊に合流するまで、行動の指揮は私がとる。いいね」

 伍長の指揮に従ったら、とても命をながらえることはできそうもない、と私は判断したのでした。

 この指揮権の交替には、今日の惨敗の経験から、関東軍は至るところで総崩れになったにちがいないという判断が、前提としてありました。それがなければ、上等兵が伍長を指揮するなどということは、いくら関東軍が弱体化してカカシの兵団になっていたといっても、あり得ないことでした。

 関特演以来の伍長は、全軍の崩壊を想像させるに足りるその日の潰滅で、すっかり意気沮喪していました。

 関特演というのは、昭和十六年七月二日の御前会議で、ソ連に対して武力を発動する準備を決定し、それに基づいて行なわれた大動員のことで、関東軍特別演習という名称の略称です。関東軍は、この年、七十万の大軍に膨れ上り、関東軍史上最強の軍団となりました。

 関特演の伍長が意気消沈しているのに反して、私は軍隊の重圧からの解放感を抱きはじめていました。

 思いがけない出来事は、私と伍長のやりとりがあった直後に起きました。

 私は憶えています。曇った空に太陽がかなり西へ低く傾いていました。長い一日がようやく終ろうとしているときでした。私は東京で別れた人のことを偲んでいました。無論八方に気を配りながらです。

 まだ生きています。これからは自分の意志で行動しようと思っています。けれども、この先、どうなるか、何が起こるか、全くわかりません。敵のなかを何百キロも歩かなければならないことになるでしょう。見守っていてくださいますか。生きてさえいれば、逢いたい人に逢えるのだと、これから毎日考えることにします。

 時間にすれば、何秒とは経っていなかったでしょう。

 突然、間近で、嘔吐する声が聞えました。私が出て来た兵長のタコ壺からです。私と伍長は顔を見合せました。何が起こったのか。敵が忍び寄って来て、兵長の首を締めたか、刺しでもしたか。

 そうではありませんでした。嘔吐の声がやむと、兵長がタコ壺から出て来ました。仁王立ちです。まだ明るいのに、なんという馬鹿なことを。帯剣を片手に握って、ブツブツ言っていました。

「やい、露助、来てみろてんだ。叩き斬ってやる」

 神様助けてくれよ、と祈っていた男が、そう言っているのです。

 発狂したのです。彼は、私が伍長の発砲をとめるために兵長のタコ壺を這い出してからの、孤独の恐怖に耐えられなくなったにちがいありません。私がはじめから彼のタコ壺に入ったりしなければ、あるいはこうならなかったかもしれないのです。

 私は、しかし、この関特演の五年兵が、自分たちに較べて、戦争最後の年の初年兵が素質的に劣っているという理由でビンタをくらわすような古兵の一人であったことを、死屍累々とした戦場でさえも忘れてはいませんでした。彼らのビンタでシゴかれた初年兵たちを、私は手とり足とりして教えていたのでした。

 兵長は、吊り上ってしまった眼で伍長と私を発見し、敵兵と思い込んだようでした。

「野郎!」

 と呻いて、帯剣を振りかざしながら、ちょうど酔っぱらいが躍りかかるような恰好で襲って来ました。

「どうする」

 伍長が困惑して言ったとき、私は答える暇はありませんでした。兵長がタコ壼の上から振り下ろした帯剣を下から銃身で受けて、床尾で相手を突き倒していました。

「奴を押えてくれよ。あんたの同年兵だろ」

「できんよ、俺は」

 何故できないのか、火急の場合に一向に要領を得ない伍長の返事でした。私は、誰に対してともなく、どす黒い怒りがいちどきに胸にひろがるのを覚えました。

 台上から、タコ壷の周囲の草を払うような射撃が来ました。手榴弾が二発ゆるい抛物線を描いて落ちて来るのが見えました。爆発の瞬間を、当然、私も伍長も見てはいません。

 顔を上げたとき、私は血が逆流するようでした。片膝ついて立ち上りかけている兵長が、手榴弾を鉄帽に打ちつけようとしていたのです。いまの手榴弾の爆発を、私たちの仕業と思ったのかしれません。彼が握っている手榴弾は、さっき、タコ壺のなかで私が彼に与えたのです。

 私は跳び出して、兵長の手から手榴弾を叩き落としました。まだ発火はしていませんでした。私は彼を地面に押えつけようとしました。狂っていても「関特演」の肉体は確かに強壮でした。頑強に抵抗するのです。手加減すると、あべこべに私がやられそうでした。

 台上からの射撃音がつづきました。早く片づけることが必要でした。兵長の腕を背なかに捻じ上げて俯伏せに組み敷こうとしましたが、格闘は相手のあることです、そう思い通りにはなりませんでした。私は上になりましたが、彼が私の胸倉を掴んだ腕を突っぱって放しません。びっくりするような力でした。

 私は彼の顔を張って、喉輪に手をかけました。そのまま全体重を預けました。

 時間が停止しているような感じがありました。兵長が急に動かなくなりました。

 殺してしまった。その意識が、遠くから、ゆっくりと来るようでした。罪の意識は少しもありませんでした。自己弁護の気持も少しもありませんでした。殺意があったのか、なかったのか、私は兵長に馬乗りになったままで、ぼんやりと考えました。なかったとは言いきれません。でも、あったとも思えないのです。片づけるには、気絶させるだけで足りることでした。殺す必要はなかったのです。夢中で手に力が入り過ぎたなどというのは、遁辞(とんじ)に過ぎません。私はさめていたはずでした。射撃音も聞きましたし、さすがに「関特演」は強いと思いながら争ったのも事実でした。喉輪を締め上げながら、戦場離脱にこの発狂した男を連れては歩けない、と考えていたことも事実です。しかし、それなら、気絶させて捨てて行けば済むことでした。殺す必要はなかったのです。

 私は一人の男を殺しました。銃で狙撃したのではなく、格闘してこの手で殺したという意昧で、はじめての殺人でした。

 もう、何人殺しても同じことだ、と思いました。これから、何人、何十人を助けても、この事実は消えないのだ、とも思いました。過去は決して消えません。変えることもできません。これが、このあと百日間の敗残兵の行動のはじまりでした。

 怖ろしいことでした。酸鼻をきわめた戦死者の群れにも、みずからの手を汚した殺人行為にも、なんの感傷も湧かないとは。

 三十二年経っています。事実は事実として残っています。私は、この話は、まだあなたにもしてありませんでした。あなたが今後私をごらんになる眼が変るかもしれないと想像するのは、耐え難いことです。事実は、しかし、事実です。黙って隠していても、消えません。自分が生き残るために殺したのだと思われても、仕方のないことです。

 そうです、そのようにして私は生き残ったのでした。生き残るための論理が、その後百日間、私を貫いていたのでした。

 

     

 

 暗くなりかけました。私はタコ壼を出て、中隊陣地の生存者を求めて歩きました。上からは下は見えない暗さです。立って歩いても危険はありませんが、私は銃を構えて歩きました。

 私の行動以前に戦場を離脱した者があったかどうかは、わかりません。もしなかったとすれば、私が探し出した生存者は、擲弾筒班の初年兵二名でした。うち一名は前額部骨膜に達する銃創を負って半ば昏睡状態にありました。これに伍長と私を加えて計四名です。いいえ、ついいましがたまで五名だったはずでした。一名は私が殺したのです。

 その朝、陣地配備についた中隊は百五十八名でした。

 私が教えた初年兵はみんな死にました。私が狙撃した異国の人たちも、おそらく死んだでしょう。私自身は殺人者となって残りました。私が狙撃しなかったとしたら、敵は私の正面から登って来て、私を殺したかどうか。私は、射っても、敵は登って来ると思っていました。あのように敵が左右に分れて、私が取り残されることになろうとは、思ってもみませんでした。敵が分れるのを見てからは、その間隔をできるだけひろげさせるために、私は意識的に射ちました。一人の人間が生きるために人を殺す。沢山殺す。それを正当化する理論を私は知りません。どこまでが必要な行為で、どこからが必要の限界を超えた行為であったかも、私は分析できません。戦闘のなかにあって、戦闘の勝敗とは別個に、生きようと決意している人間がいることを、相手に知らせる方法はありませんでした。

 砲声は熄み、硝煙の臭いも消え、暗くなり、陣地斜面には死体が散乱していました。私は陣地の跡を歩いては(たたず)み、また歩いては佇みました。今日の長い一日がバラバラの印象となって、連続しませんでした。今朝まで多勢いた男たちが、みんな死体になっていました。何が、どの瞬間に、どうなったのか、一人一人の人生の歴史の終末を、誰も知りません。犬や猫の死体でもこれだけ沢山散乱していれば、人は慄然とするでしょうに、男たちはただ無意味に、死体となって散乱していました。

 戦闘の勝敗を決める必要があったとしても、こんなに沢山死ぬ必要はなかったのです。はじめから勝敗の帰趨はわかっていました。上等兵の私にさえわかっていたことが、高等司令部の将軍や参謀にわからないはずはなかったのです。男たちが死んだのは、敵が殺したのではありませんでした。無駄な戦闘を無駄と考えなかったか、あるいは無駄と知りつつやらせたかした戦争指導が殺したのです。

 誰も、何のために戦うのか、その意味も効果も知らずに死んだでしょう。後方で生きる者のための時間の稼ぎにさえもなりませんでした。敵は圧倒的な戦力を揃えて押し寄せて、瞬時に私たちを蹂躙して通過したのです。

 誰も、天皇のためになど戦いはしませんでした。そんな魅力は天皇の軍隊にはありはしませんでした。

 国家は国民の生命など問題にしてはいませんでした。国民は消耗品でしかなかったのです。いいえ、兵隊はどんな物資よりも安価で、ぞんざいに扱われていました。

 権力を構成する人びとは、国体護持という名目の下に、天皇を頂点として、彼ら自身と、彼らを利益代表とする受益階層を含めた体制の護持だけが重要だったのです。そのために、いま、多数の男たちが死体となって散乱していました。

 私は伍長のタコ壺の方へ戻りました。何処かで、ギ、ギ、と名も知らぬ鳥が啼きました。戦闘の終った山へ鳥が自分の(ねぐら)を求めに戻ったのでしょうか。不気味な声でした。

 生き残った初年兵の一人が心細そうにききました。

「これからどうなるんでありますか」

 私は心が乾燥しきっていたようです。

「お前ちょっと新京まで行って、山田乙三にきいてくるか」

 新京というのは「満洲国」の首都、山田乙三は関東軍総司令官、実質的に「満洲国」の支配者です。

 もうこれだけやれば沢山だ。私は肚のなかで思っていました。これからは、俺が俺自身の主人になる。天皇も国家も知ったことか。軍人勅諭も戦陣訓も返納する。自由を俺たちに支払ってもらおうじゃないか。

「当分の間、夜しか歩けない。敵が行ったばかりのあとを行くのは危険だろう。今夜一晩、敵が来た方へ歩いて、後続を確かめてから反転しよう」

 私はみんなにそう言いました。心の中での目標は、私が出て来た南満でした。

「敵はもう牡丹江に入っているだろう。ソ満国境全線でここと同じようなことになっているだろうと思う。俺たちは敵の後ろで生き残った。必要なのは戦闘間兵一般の心得ではなくて、あれには書いてなかった敗残兵の心得だ」

「戦闘間兵一般の心得」では、原隊を失った兵隊は最寄りの部隊に合流することになっていました。私はそれを否認したのです。最寄りの部隊に合流する意志はないことを、目的地は私たち自身で決めることを、私は間接に伍長に聞かせたかったのでした。

 私はつづけました。

「どうやって生きのびるかだ。一つ、決して諦めない。一つ、細心の注意。不注意は絶対に許されない。一人の不注意は直ちに四人の死を意味する。一つ、危機は極力回避する。回避できなければ断固として突破する。一つ、和を保つ。俺の指揮に不満なら、直ちに去ってくれ。不満のままの共同動作は絶対にいけない。いいな」

 私は負傷していない方の初年兵を連れて、陣地をもう一度まわりました。食糧を集めるためです。収穫は乏しいものでした。乾麺包(かんめんぽう)三袋、糖衣落花生若干、戦闘間に自決しした小隊長の図嚢から抜き取った羊羹一本、これで全部です。四人の一日分にも足りません。

 星屑もない黒い夜が山々を蔽っていました。死者たちの呟きが聞えそうでした。

「脱出できるでしょうか」

 初年兵がききました。

「できなきゃ、死ぬまでだ」

 私が答えました。

「死んで元々だろ。死んでたはずだ、今日、俺たちは。だが、生きている」

 遠い人のことが、ふいに、私の乾いた心を掠めました。私は人の死に絶えた山のなかの暗闇で、その人に生き残ったことを報告したいと思いましたが、その人の顔をまともには見られないような気がしました。昨日までの私と今日の私とでは、まるで違ってしまったのです。これから敵中を突破することになれば、もっと変るにちがいなかったのです。私はその人の眼を怖れました。私の所業をお話ししたいま、私があなたの(ひとみ)を怖れているように。

 私は、しかし、感傷に耽ってはいられませんでした。これから、私は先頭に立って、何処に待ち受けているかも測り難い危険を引き受けなければなりません。頼るところは、私に備わった五官と意志と銃だけでした。

 私は銃を腰に構えて歩きだしました。

 こうして、四人は鬼が()いているかと思われる戦場から離脱しはじめました。

 陣地斜面を途中まで下りたとき、遠くからの哀れな声を聞きました。

「助けてくれ」

 暗闇の何処かに横たわっている負傷者でした。

「動けないんだ」

「どこをやられた」

 私は叫びました。

 (すが)りつくような声が返ってきました。

「腹だよゥ」

 私は伍長と顔を見合せました。暗くて、見えません。伍長の眼だけが白く光って見えましたから、私の眼も白く光っていたのでしょう。

「……腹じゃ、駄目だ」

 伍長が呟きました。

 私たち兵隊が最も怖れていたのは、腹部の負傷でした。体のうちで一番柔かくて、臓器が集まっている腹部をやられては、よほど早期に高度の処置が施されない限り、助からないとされていました。それでいて、なかなか死ぬにも死ねないらしいのです。

 私は、このとき、真っ二つに裂けている自分を意識しました。一つは、なんとかして助けようとしている私でした。私たちが軍衣の内側に携帯していた昇汞(しょうこう)ガーゼは、前額部を(えぐ)られた初年兵の傷の手当に使ってしまっていました。別の負傷者に処置を施す材料が何もありません。結局、そばまで行って、彼が死ぬまでついていてやることしかできません。やがて朝が来ます。明るくなれば、私たちの姿が暴露します。これは避けなければなりません。

 もう一つの私は、これ以上の無理は自滅の因だから、捨てて行こうと考えている私でした。こちらにも負傷して意識朦朧(もうろう)としている初年兵がいるのです。まだ二十歳にもならぬ子供でした。私は彼だけはどうあっても助けようと決心していました。彼は私が手塩にかけた兵隊ではありませんでした。けれども、私が教育して死なせてしまった多勢の初年兵の身代りのように思えたのです。腹をやられている負傷者には、担架を作って担送してやることも考えましたが、誰が運ぶかです。私には、負傷兵を庇いながら、警戒し、方向を選択し、針路を拓かねばならぬ仕事がありました。すると、残りは伍長ともう一人の初年兵だけです。伍長の方はともかくとして、二国上り(第二国民兵役出身)の初年兵の体力では、担送は一晩とはもちません。患者はその間にも死ぬかもしれません。

「……どうする」

 伍長が言いました。

「助かりゃせんぞ」

 私は伍長に答える代りに、闇へ叫びました。

「タマと手榴弾は持っているか」

 私は、彼が私だったら、そして山のなかに見捨てられ、助からないと知ったら、手榴弾で自爆する途を選ぶだろうと思いました。

 間をおいて、弱った声が返って来ました。

「助けてください。お願いします。動けません」

 私は闇のなかの、見えない三つの顔に言いました。まるで、これから見捨てて行こうとしている負傷者に言い訳をするように。

「これから先、何があるかわからん。俺がやられて動けなくなったら、まごまごするんじゃない。俺を捨てて先を急げ。いいな」

 私は、山のなかの闇の何処かに横たわっているはずの負傷者を見捨てました。

「……行こう」

 私たちは、自分の足もとさえ見えない山を下りました。

 昭和二十年八月十三日のことでした。

 人里離れたあの山に散乱した死体は、ほどなく白骨となったでしょう。年経て、あの山を歩いた人は、枯れた骨を発見して、これはかつて満洲を侵略した日本の兵隊の骨なのだと言ったでしょう。

 枯骨は何も語りません。それは風化して、歴史の彼方へ消え去るばかりです。

 私は結局、何をあなたにお話ししたかったのでしょう。語っても詮ないことばかりでした。変えることのできない過去、返らぬ日々、帰らぬ人びと、それらは今日のために少しは役に立ったのでしょうか。私は、ときおり、怒りがこみ上げて来て、困ることがあります。何百万という壮丁が私と同じような経験をして、何千万という老弱男女が国家に翻弄されて、しかも日本人の精神風土はあまり変りはしなかったのです。

 死んだ男たちは、遂に、死に値するものを与えられませんでした。

 

 あれから、何十年と経ちました。年老いて想い出す青春は、溢れる涙のなかに甦ります。

 私は帰国して、昭和二十三年の初夏のころ、生きて帰って来たことをお報らせしたいと念じていた人へ、東京駅の八重洲口から公衆電語をかけました。

 信号音が鳴っている間じゅう、私の胸は少年のように弾んでいました。

 電話線の彼方で受話器を取り上げる音がしました。聞えた声はその人の声ではありませんでした。私はその人が御在宅かどうかを尋ねました。

 声が返って来ました。たったひとこと。

「亡くなりました」

 私は耳が鳴るようでした。騒がしい街の音が消えました。狭いボックスのなかが息づまるほど暑くなりました。

 私はその人が不帰の人になられたなどとは、考えてもみませんでした。いつの日にか、私は、その人の家の扉を叩く。扉がひらく。その人の瞳に光がほとばしる。そうです、私はその瞳に向ってあの山野をひたすら歩きつづけたのでした。逢ってどうしようなどという心算(つもり)は少しもありませんでした。ただそうすることが、危険のなかを生きていく導きの糸なのでした。私が先頭に立っていた餓狼の集団は、盗みました。奪いました、殺し合いもしました。何のためだったのでしょう。

 電話の声は、私の長い夢を微塵に打ち砕いてしまいました。とうとう私はその人にお礼の言葉一つさえお返しできませんでした。

 私はその人の墓の所在は知っていましたが、なかなか墓詣りは果せませんでした。無言の墓碑に(ぬか)ずくことがあまりに哀しく思えたからでした。

 ずっと後になって、東京オリンピックの年の夏のころ、私はようやくその人の球形の墓碑の前に立ちました。ちょうどそのころ私は、何年かかるかわからない長い仕事に取りかかろうとしているときでした。

 墓碑に刻まれた字を見て、私は愕然としました。その人は、私がソ満国境の警備に配属されていたころ、亡くなったのでした。それとも知らずに、私はなんと遠い心の旅をしたことでしょう。

 私は何か人生に途方もなく贅沢な希いをしたのでしょうか。

 迷夢昏々とは、二・二六事件で刑死した香田大尉の言葉です。彼と私とでは思想も立場もまるで逆ですが、私の青春も、まさしく迷夢昏々としていました。

 返らぬ日々と帰らぬ人びとに、私は別れを告げたいと思います。私に罪があれば、許しを乞いたいと思います。許しを乞うて許されることではありませんけれども。私に残された時間は、そう沢山はありますまい。あなたの眸を怖れなくて済むようになるだけの時間が、あるかどうかもわかりません。

 私は、しかし、生きている限り、死者たちの恨みをその行き着くべきところに、行き着かせたいと思います。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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五味川 純平

ゴミカワ ジュンペイ
ごみかわ じゅんぺい 小説家 1916・3・15~1995・3・8 中国大連近郊に生まれる。菊池寛賞受賞。東京外語学校卒業後、当時の満洲(中国東北部)の昭和製鋼所に入所するも昭和十八年(1943)に召集され、ソ満国境各地を転戦する。昭和二十年(1945)八月、ソ連との交戦で所属部隊は全滅し、捕虜となる。昭和二十三年(1948)帰国した。非人間的な軍隊組織と個人との闘いをテーマに書き下ろされた『人間の条件』(昭和三十一年から三十三年)は大ベストセラーとなり、映画、テレビドラマ化もされ評判となった。

掲載作「不帰の暦」は『人間の条件』に繋がる戦争体験を短編小説化したもので、「別冊文藝春秋」(140号)初出。後に1990(平成2)年、『戦記小説集』(文藝春秋刊)に収載された。

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