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天野忠さんの生と詩

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 上野瞭先生は高名な児童文学者ですが、ある日、同志社女子大学の講師控室にいましたらやってこられて、「ぼくたちは晩年学というのをやっているんですが、一度講演をお願いできませんか」といわれるんです。「晩年学て、なんですか」とたずねましたら、「老人問題をみんなで考える会なんです。老人学じゃパッとしませんので、晩年学ということで……」。

 哲学者の片山寿昭先生と上野先生が主催しておられることもそのとき知ったのですが、児童文学と晩年学、どこでどう結びついているのかと思いましたら、「ぼくも、もう年寄りの仲間でしょう。だから」と、大変明快なお答えがかえってきまして、「わかりました、やらせていただきます」とお約束したんです。

 わたしは上野先生とおない年で、見かけはもちろんのことですが、お年寄りの仲間なんです。お若く見えますが片山先生もおない年です。

 そんなことで今日寄せていただいたわけですが、晩年学にふさわしい話題をあれこれ考えました結果、三年ほどまえに八十四歳で亡くなられた天野忠という京都の詩人についてお話させていただくことにいたしました。

 この会ではすでに話題になったことがあるだろうと思うのですが、晩年あるいは年寄りというのはいったい何歳くらいから上のことなのか。「高齢者」とテレビなどでは申しますが、それは六十五歳以上のようであります。しかし、長年サラリーマンをやっていたわたしどもにしてみますと、どうも定年退職後は晩年という気がするのです。同志社は六十五歳が定年ですから、高齢者といわれる年齢と一致するわけですが、それが六十三歳でも六十歳でも、定年退職すると晩年、もしくは老後という気持になるのが普通じゃないでしょうか。つとめを終えたら、老後しかないわけです。その老後をどう生きるかというのが晩年学のテーマでしょう。

 じつは、わたしが天野忠さんのお宅へ、毎月一回か二回寄せていただくようになったのは、天野さんがおつとめを辞められてからだったのです。たしか天野さんは六十二歳で、二十年勤務された奈良女子大学の図書館を退職されました。昭和四十七年ごろだったと思います。ただ、天野さんの退職は定年退職ではなかった。定年までにあと一、二年残っていたはずですが、勤務年数が年金をもらえる年数に達したから辞められたのです。そこが、定年まではなんとかつとめてという普通のサラリーマンの退職と、大きく違うところです。なぜ辞めたかというと、詩を書くことに専念したかったからです。年金で生活はなんとかやっていけるという条件がととのったわけです。わたしが知っている詩人では、NHKにつとめていた黒田三郎さんがそうでした。天野さんの場合、二人の息子さんはすでに独立して生計を営んでいました。

 

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 退職されるまでの天野さんの半生を、最初にちょっとご紹介させていただこうと思います。と申しましても、わたしが承知しておりますことはごく限られたことなんですが、天野さんは明治四十二(一九〇九)年に新町御池で生まれた方です。お父さんはぼかし友禅と金銀箔置の職人だったそうです。天野さんは長男でしたがお父さんの仕事を継ぐにしては手先が器用でなかった。図工が苦手で、子供のころ、そのことにひどく劣等感を覚えていたそうですが、もともとお父さんの仕事を継ぐ意志はなかったようです。

 そんなことで、普通なら仕事の見習いということで丁稚にやられるところですが、反抗したためか、見込みがないと思われたためか、京都市立第一商業学校へ進学させてもらえた。大学へ進学させられる家庭なら、府立一中などへ子弟を入学させたわけですが、商家の息子さんなどはたいてい、実技の勉強ということで商業学校へ行かされる。当時としてはそれがいいほうで、シナリオライターの依田義賢さんなども第二商業へ入っています。家業が染色業だったのです。

 この商業学校時代に、天野さんは古本市などをまわっては本を買って、かなり乱読したようです。文学をやる人には、そういう時期があるもののようであります。

 商業学校を卒業した天野さんは四条の大丸の店員になりました。映画が大好きだったようですが、詩の習作を始めるのはそれからです。当時はまだ仲間でもなんでもなかったわけですが、依田さんはつとめていた銀行で労働争議に加わって解雇されます。天野さんは余暇にやっていた詩のほうで、思いがけない災難にあいました。

 天野さんが詩作を始めてほどなく加わった文学グループは、『リアル』という雑誌を昭和九年五月に創刊しました。ところが三年後の十二年七月、このグループは特高警察の弾圧を受けまして、メンバーの何人かは検挙され、雑誌は十三号で廃刊になりました。天野さんは検挙はまぬがれたものの、警察のブラック・リストに名前がのっていたというのです。まさか監視されるほどではなかったと思いますが、天野さんはそれから、昭和二十四年五月に、戦前からの京都の詩の書き手が集まって「コルボウ詩話会」というのが結成されるまで、詩を書いていないといってよい状態です。二十八歳から四十歳までの十二年間であります。

 戦後の四年間は生活難で詩どころではなかったといったことがあったにしても、敗戦までの八年間は生活難とはいえない。十八年末まで大丸につとめていて、その後は徴用のがれで神戸の軍需工場へ移っている。額はともかく、収入は毎月あったわけです。ですから、詩を書かなかったのは、なにか別の理由があったはずです。

 こういうことも、生前におききしておけばよかったのですが、いや、おききしても天野さんのことですから、恥じらってこたえて下さらなかったかもしれないのですが、詩を書かなかったのは、書けない外的条件があったからではなくて、全くなかったとは申しませんが、天野さんの内的理由、つまり抵抗だったんじゃないかという気がするのです。

 『リアル』が弾圧を受けました十二年の十一月には、京都の評論雑誌『世界文化』が弾圧を受けて解散させられていますし、十五年二月には例の『京大俳句』事件がおこります。いずれもリベラルなだけで危険思想をもつグループでもなんでもない。そんなグループにまで特高警察の手が伸びてきて、徹底的にやられた。街には軍歌しかきこえてこない、新聞も雑誌も軍事色一色になって行ったといってよかった。天野さんは好きな映画を観ることでわずかに憂さを晴らしていた。そして、書きたくてならない詩は書かない。これは抵抗ではないでしょうか。たとえ書いたとしても、戦争を賛美するような詩は絶対に書かなかったでしょうから発表のしようがない。時流に迎合するような詩を書くような人ではなかったのです。戦後においてもそうでした。

 とにかく、最も脂がのってしかるべき三十歳代に、完全に沈黙を守った。これは大変なことであります。小説家の場合をみますと、二十歳代で芥川賞、三十歳代に直木賞というのが、最も理想的な在り方のようであります。

 天野さんの詩的生涯を考える上で、どうしても看過するわけにはいかないのが、三十歳代の沈黙の事実であります。

 

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 昭和二十四年五月、「コルボウ詩話会」が結成されましてからの天野さんの詩作活動は、まことに目覚ましいものでした。文字どおり堰を切った奔流の勢いであります。

 十二年ぶりに詩作を再開したころの詩に、「四十微笑」というのがあります。記念すべき作品だとわたしは思っています。

 

  いつも淡いひかりの中で

  それを崩すまいための

  しずかな呼吸をしていた

  夜は正しく横になって眠り

  僅かの時間のあと 割れた卵のように

  ドロリと不機嫌にさめた

  その白い小さな掌は

  いつもためらうための寒さにふるえ

  自分の外の

  ひとの営みの深いおどろきにも触れず……

  四十歳 そしてわたしは生きて在り

  いまいつもの淡い人生の裾の方に

  それを崩すまいためのしずかな呼吸をして

  世にも恥ずかしい微笑をした。

 

 四十歳というのは天野さんが詩作を再開した年で、『小牧歌』(昭和二十五年)という、戦後はじめて出版した小さい詩集に載っている作品です。これ以後、『重たい手』(昭和二十九年)、『単純な生涯』昭和三十三年、『クラスト氏のいんきな唄』昭和三十六年とつづくわけですが、天野さんが独自の詩風を確立するのはこれらの詩集によってです。つまり、詩作を再開して十年間のことで、三十歳代の詩的空白がなかったらどうだったかと想像せずにいられないのであります。

 この時期でありますが、敗戦後、戦災をまぬがれた京都には小さい出版社が次々に生まれ、そして消滅して行った。そういう出版社につとめたり、古本屋を営んだりしていた天野さんは、昭和二十六年五月から、奈良女子大学付属図書館に職をえます。その大学の某教授の紹介だったようですが、とにかく生活におびやかされることはなくなったわけです。絵でも文学でも生活の危機にさらされているようでは、充実した創造活動はできないのではないか。独身なら別ですが、妻子があればなおのことであります。

 天野さんの充実した詩作の再開と就職が、ほぼ重なりあった時期であることがわたしにそういうことを教えてくれるわけですが、もっと興味ぶかいことは、天野さんが日常の勤務、もしくは勤務先のことについては、詩ではもちろん随筆でもほとんど書いていないことです。わたしもおたずねすることをしなかったのですが、お話のなかでもふれることがほとんどありませんでした。

 退職なさってから、随筆ではちょっと書いておられますが、その一編である「記憶からのたより」(昭和五十二年)などを読んでみますと、これにはたしかに勤務先のことが書かれてはいるんですけれども、それは次のように書き出されているのです。

  二十年ほども奈良の学校へ勤めていたのに、めったにその頃のことを思い出すことがない。毎日それこそ見たり聞いたり考えたりしたことが二十年どっさりある筈なのが、それがあっさり消しゴムでスッスッとこすって消えてしまったように、呆気なく私の生涯という薄っぺらな本からまるで脱落したように無い。

 

 二十年というのは、申し上げるまでもなく、人間の生涯にとって決して短い歳月ではない。にもかかわらず天野さんは、その二十年間で記憶に残っていることとして、放課後の校庭に毎日しとしとと歩きにくる一頭の鹿のことと、通勤道の八百屋の店先に座っていた老犬のことしか書いていないのです。通勤の電車が本を読むのに適していた、ということをなにかに書いていたように思います。まあ、それぐらいなんです。

 天野さんならずとも記憶は薄れます。しかし、勤務していたときに会った人とか、さまざまな出来事とかいったことは、天野さんがいわれるほどきれいに忘れてしまえるものではないはずです。その忘れがたいことを書いてよさそうなものだし、書くのが普通です。しかし、天野さんはそうした題材については全く書いていません。ほとんど潔癖なまでに、といっていいほどです。いったいなぜなのか。

 あくまでもわたしの想像にしかすぎませんが、天野さんにとって詩は、あるいは随筆は、本来ならそっと胸のなかに秘めておきたいようなプライベートなものだったのではないか。生涯の作品を通読して、そういう印象がわたしにはある。それが天野さんの詩の特質だといってよいと思うのです。小説なら上林暁とか尾崎一雄、木山捷平といった地味な私小説作家の作品のようなものです。勤務とか勤務先というものは公的なこと、パブリックなものなんです。天野さんはそういう公的な題材については書く興味がなかったんじゃないか。あるいは書きたくなかったんじゃないか。どうもそう思えてならないのです。三十歳代の沈黙についてもそうであります。沈黙していたのは天野さん個人だけれども、その沈黙はプライベートな事情によるものではなかった。国家権力というこれ以上ない公的の暴力がしからしめたものであった。なんでも自由に書ける時代になっても、さだめし口惜しかったであろうし無念であったはずのその詩的沈黙、詩的空白の時期についてほとんどなにも書かなかったのは、勤務先について書かなかったのと同じ理由によることではないかという気がするのです。

 ただ、公的な主題について全く書かなかったわけではない。たとえば次の「米」(『単純な生涯』昭和三十三年 所収)がそうです。

 

  この

  雨に濡れた鉄道線路に

  散らばった米を拾ってくれたまえ

  これはバクダンといわれて

  汽車の窓から駅近くなって放り出された米袋だ

  その米袋からこぼれ出た米だ

  このレールの上に レールの傍に

  雨に打たれ 散らばった米を拾ってくれたまえ

  そしてさっき汽車の外へ 荒々しく

  曳かれていったかつぎやの女を連れてきてくれたまえ

  どうして夫が戦争に引き出され 殺され

  どうして貯えもなく残された子供らを育て

  どうして命をつないできたかを たずねてくれたまえ

  そしてその子供らは

  こんな白い米を腹一杯喰ったことがあったかどうかをたずねてくれたまえ

  自分に恥じないしずかな言葉でたずねてくれたまえ

  雨と泥の中でじっとひかっている

  このむざんに散らばったものは

  愚直で貧乏な日本の百姓の辛抱がこしらえた米だ

  この美しい米を拾ってくれたまえ

  何も云わず

  一粒ずつ拾ってくれたまえ。

 

 若い方には多少注釈が必要かと思いますが、戦後の食糧不足の時代に、滋賀県あたりへ闇米を買いに行った「かつぎや」といわれた女たちが、駅の改札口を通るとき警察官に米を没収されたうえに、食糧統制法違反で逮捕されるものですから、駅のホームが近づくと米袋を窓から外へ落とすのです。そして、改札口を手ぶらで出てから大急ぎで拾いに行く。その光景をえがいた作品で、まさに絶唱であります。通勤途上で目撃した光景かと思われますが、三十歳代の沈黙の爆発が感じられるのです。繰り返す必要はあるまいと思いますが、こういう主題の作品は、この時期にほんの数編書いているだけです。おそらく書かずにいられなかったんだろうと思います。

 

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 先ほどあげました三冊の詩集につづいて、『しずかな人 しずかな部分』(昭和三十八年)、『昨日の眺め』(昭和四十四年)、『天野忠詩集』(昭和四十九年–無限賞受賞)、『その他大勢通行人』(昭和五十二年)、『讃め歌抄』(昭和五十四年)、『私有地』(昭和五十六年–読売文学賞受賞)その他、いずれも非常に個性的で円熟した詩集があいついで刊行され、京都にいて日本を代表する詩人の地歩を確定することになります。随筆集も刊行されています。

 この時期、特にその前半でありますが、特色の一つに、天野さんがしきりに、わしはもう「老人」やさかい、といいはじめた、ということがあります。

 すでに昭和三十三年九月に出版した『単純な生涯』に、次のような詩があるのです。

 

  昨日私は五十歳だった

  今日はさびしい風が吹いて

  揮発油の臭いがして

  パタンと日が暮れてしまった。      (「単純な生涯」冒頭の部分)

 

さらに、『しずかな人 しずかな部分』では、次のようにうたっています。

 

  人は五十歳になり

  身のまわりをながめ

  俺もソロソロ……と思う

  ソロソロ……と私も思い 手持ちぶさたで

  庭に出て

  金魚が二匹およいでいる小さなガラス鉢に

  いとみみずをくれてやる

  ゆったりと金魚はうごき

  小さいなガラス鉢の中で

  何か考え深そうに 居場所をかえ

  いとみみずは

  いとみみずの生れかたのままに

  せいいっぱい

  うじうじともつれ

  うじうじともつれあい

  すこしずつ

  小さな金魚に

  たべられていく。

(「みみず」)

 

 老後もしくは晩年の意識を表現すると、おそらくこういうことになるでしょう。わたしのような年になって思えば、五十歳というのは随分若い。いい年代かどうかは別として、夢や可能性がしぼんでしまうといった年ではない。肉体的にもそうです。ただ、当時は五十五歳定年の会社が多かったし、「人生五十年」ということばのリアリティは、まだ今日ほどには失われていませんでした。しかし、まだまだご隠居さんという年ではないんです。けれども、天野さんの詩を読むと、「役たたずが生きていて申し訳ありません」という、老いの切なさのようなものが感じられるのです。公的なこと、世間的なわずらわしいことから、老人だからということを理由に身を引きたい、できるかぎり接触を避けたい、そういう気持がおそらくあったでしょう。

 随筆の中でも、「私は『老人ぶる』という悪趣味をもっている」(「バスの中」と、ご自身はっきり書いていますし、また、次のようにも書いています。

 

  そういえば、私は、ほんとうに用心深く年をとってきたように思える。もう十年わかかったら、あれを(あんな仕事を)するんだったのに、という勝手気侭な嘆声を何度洩らして過ごしてきたかとおもう。

   (中略)

  ほんとうは、いつからでもうごきだせばよかったのである。自分の心となれあいで、自分の体裁をつくろうて、ここまで、それこそ石橋をたたきたたき、それでもおっかなびっくりの臆病な足つきで、辞書にあったような「どっこい、どっこい」と、無為徒食の道を歩いてきたようである。その  本心は、一番安全らしく見えた低いところから、そろりと上の方を窺っていたかったのである。「あれを成し遂げるには、今からでは十二分に遅すぎる」というあきらめを自分に否応なく押しつけるために、大急ぎで年をとろうとしたのではなかったか。用心深い年のとりかたというのは、そんなに狡猾な、しかも自分の眼をふさぐために、自分の心を眠らせるような仕方ではなかったか……。

(「ゆりかもめなど」)

 

 ただ、これが全くの本音とは思えません。もしことばどおりだとしたら、三十歳代の沈黙のあとの四十歳代の十年間はなんだったのか。五十歳代以後の仕事ぶりはどういうことなのか。これは多分にジェスチャーなんです。詩を除いて天野さんにやってみたかった「仕事」など、あったとは思えないのです。詩作というやりたいことをしっかり持っていて、やり遂げられた。

 老人ぶりは、天野さんの詩的演技であったとわたしは思っています。演技ももちろん技の一つであります。この技は、昭和三十六年十月に出版した『クラスト氏のいんきな唄』(昭和四十一年九月に増補改版して『動物園の珍しい動物』と改題)に始まります。

 この詩集には天野さんにしては、というよりも現代詩にしては珍しく、長文の前書きがついているんですが、前書きには「クラスト氏のこと」という題がついている。いまにして思えば、これも作品の一部なんですが、その中で天野さんは次のようなことを書いています。

 あるとき、夜店の古本屋で、四十歳ぐらいの西洋人らしい男に出会った。男は下駄ばきで貧相な身なりだった。わたしは物好きにもその男を近くのうどん屋へ連れて行って、一杯十銭の大盛りうどんをご馳走してやったところが、二杯も大盛りをたいらげて別れぎわに、彼の詩をタイプで打った十枚ほどの便箋をくれた。彼の名は「クラスト」といった。

 わたしは辞書を繰りながらクラストにもらった詩を翻訳したのであったが、戦争中に紛失していた。先日それが思いがけないところから出てきたので、彼はもう生きてはいないだろうが、「私は彼の詩集を、ほんの三十篇位だが、せめて粗末なものでもいいから(いや、粗末なものほど似つかわしい)自分の手で出してやろうと、そのときフッと思いついた」。これがその本だ、と。

 『クラスト氏のいんきな唄』は、ことばどおり見映えのしない本で、表紙の右下隅に狐のカットが小さく描かれていました。

 そういう前書きがあるにもかかわらず、奥付は「著者・天野忠」となっていて、原著者の名前がないんです。わたしは『ノッポとチビ』という小さい同人雑誌の仲間である大野新の紹介でその詩集の出版記念会に出ました。天野忠という詩人とはそれまでほとんど面識がありませんでしたから、このときが出会いのようなものであります。

 文字どおり末席に座って人々のスピーチを聞いていて、この詩集が正真正銘の天野さんの創作詩集であることを知ったのですが、クラストという架空の外国人を設定して、彼の口を借りたかたちにして己れを表現するとんでもない芸当に、ほんとに驚きました。こんなことがあっていいのかと思いました。要するに天野忠という詩人はそういう芸当をやってのける人なんです。

 こういう例はほかにもおそらくあるでしょうが、小説のほうに多そうに思います。最もいい例が谷崎潤一郎の名作『春琴抄』です。モデルかそれに近い人物は実在したかもしれませんが、ご承知のように春琴も佐助も全く虚構の人物です。しかし谷崎は、春琴の弟子で俗名温井佐助、号琴台が、春琴の三周忌に編纂して配り物にした『鵙屋春琴伝』をよりどころにした、というふうに書いていて、その伝記もまた架空のものだとは、最後までひとことも断っておりません。読む人が読めば当然明らかなことだ、という前提があるわけです。

 とにかく、天野忠という人はそういう芸当をやってのける詩人ですから、「老人ぶる」ことなど、全面的にその手を使っているとは申しませんが、そうむずかしい芸ではなかったのです。ミスティフィケーションというべきかどうか、己れの意志や感情を「米」のように直叙しない。ストレートに表現しないのですから、どこまでが素顔であり本音であるかは、『クラスト氏のいんきな唄』あたりからわからなくなってくる。素顔のようで案外そうではないのです。

 『クラスト氏のいんきな唄』から一編ご紹介しておきます。「動物園の珍しい動物」という、これも大変な傑作であります。

 

  セネガルの動物園に珍しい動物がきた

  「人嫌い」と貼札が出た

  背中を見せて

  その動物は椅子にかけていた

  じいっと青天井を見てばかりいた

  一日中そうしていた

  夜になって動物園の客が帰ると

  「人嫌い」は内から鍵をはずし

  ソッと家へ帰って行った

  朝は客の来る前に来て

  内から鍵をかけた

  「人嫌い」は背中を見せて椅子にかけ

  じいっと青天井を見てばかりいた

  一日中そうしていた

  昼食は奥さんがミルクとパンを差し入れた

  雨の日はコーモリ傘をもってきた。

 

  5

 

 やっと天野さんの晩年についてお話させていただく段階に達したようでありますが、晩年というのは、むかしふうにいえば、息子に代をゆずって隠居する。それからが晩年というにふさわしい時期であります。サラリーマンだと先に申しましたように定年退職後がそれに当たるかと思われます。とは申しましても、最近は長寿社会というものになりまして、それから再就職したりボランティア活動をしたり、第二の人生などと申しまして様子が変って参りました。ですからうかつに隠居だの晩年だのといったら叱られるおそれが大いにあります。

 天野さんの退職は昭和四十七年ごろ、しかも六十歳を過ぎていたんですから、定年前の退職であったにせよ、現在とは事情もちがうことですから晩年といってよろしいでしょう。ところが、天野さんは晩年どころじゃなかったんです。つまり、もりもり仕事をされた。

 先ほども昭和五十年代つまり退職後に刊行された詩集についてちょっと申し上げましたし、読売文学賞をもらったことも申しました。それ以後も、亡くなられるまで平均二年に一冊くらいのペースで詩集や隨筆集を出しておられます。著作に専念したかったから、年金がもらえるようになると同時につとめをやめられたわけでありますが、壮者を凌ぐということばがありますけれども、凌ぐなんてものじゃなかった。

 退職までに功成り名遂げた詩人だったといってよろしいのですが、功だの名だのにこだわっている様子は全く見えませんでした。わたしは天野さんの退職後、わたしたちの小さい同人雑誌に詩を書いていただくために、毎月一回くらいの割合いでお宅へお邪魔しては二、三時間話し込んで帰るようになったのですが、詩や小説の話になると、天野さんの年齢を意識しませんでした。若々しくなるというとちょっとちがう気がするのですが、とにかく年齢を感じさせないのです。詩や随筆と同様、座談がとても上手な方でしたし、ユーモアのセンスがある方で、楽しくて仕方ないという感じで話をされるので、こちらも楽しくて仕方なくなってくる。

 ときどき、わたしは話の腰を折らないようなタイミングをとらえては、「あまり長居しては……。お仕事中でしょう」というふうに申し上げるんですが、「いや、遊びよんね、年寄りやから、時間なんぼでもあるさかいな」といわれるのです。奥さんもまた「お話し相手がほしおすのどすわ、ゆっくりしとくれやすな」といわれるものですから、それをいいことにして、ご迷惑をおかけしたことも多かったにちがいないのです。わたしにとっては願ってもえがたい貴重な時間だったわけですが、晩年の時間は、申し上げるまでもなく貴重です。まして天野さんのようにやりたいことをもっておられる方にとっては、なおのことであります。

 そんなふうで、お邪魔するたびにずうずうしく長居をしてはいろいろお話をうかがったものですから、いまだに記憶に残っているお話もかなりたくさんございます。その中のひとつに、前後のことは忘れたのですが、「わたしが、少しものがわかってきたように思えたのは、六十を過ぎてからやったなァ」といわれたことかありまして、はっきり憶えています。「へぇッ?」と思ったのです。

「わかってきた」ことにもいろいろあるでしょう。世間のこととか、文学のこととか、暮らしのこととか、自分というものとか……。政治や政治家の話はおききしたことがありませんでしたから、そういうものではない。

 そのときは深く考えてもみなかったのですが、いまにして思えば、「わかってきた」ことのいちばん重要なことは「人間というもの」についてではなかったか。そう思います。天野さんの詩の主題は、花でも鳥でも風でも月でもない。一貫して人間でした。老いも含めて、その人間に対する認識が、六十歳を超えてどうやらはっきりしてきた、おそらくそういう意味だったでしょう。それは悟りなどといった宗教くさいことではなくて、端的にいえば、人間は必ず死ぬということ。しかも、死など、およそ念頭にないかのように、欲張ってみたり、あくせくしたり、セックスしたり、飲んだり食ったりしている。結局のところ人間というものはどれほどのものでしかないか、ということです。死の側から眺める眼をもつにいたった、といったらいいかもしれません。そういう視座から眺めると、人間というものは、まことに愚かしく、滑稽な、哀れにもいとおしい存在だ、ということになりそうな気がするのです。

 詩集『私有地』の表題作「私有地」などを読むと、わたしはその感を深くせざるをえないのです。

 

  五十五歳で

  父は

  卒中で倒れた。

  額に大きな瘤をもっくりとつけて

  いきなり死んだ。

  水を打ったばかりの狭い庭石の上で。

  河鹿笛が上手だった。

 

  母は

  長いこと寝たきりで

  六十歳で死んだ。

  畳のへりをさすりながら、熱い息をして

  あのとき

  私の方をしきりに見るふりをしたが

  私は眼をそらせて

  足をさすってばかりいて……

  父の五十五歳も母の六十歳も

  何の障りもなく

  私はスーツと通り越してきたのだが。

 

  いろいろなむかしが

  私のうしろにねている。

  あたたかい灰のようで

  みんなおだやかなものだ。

 

  むかしという言葉は

  柔和だねえ

  そして軽い……

 

  いま私は七十歳、はだかで

  天上を見上げている

  自分の死んだ顔を想っている。

  地面と水平にねている

  地面と変らぬ色をしている

  むかしという表情にぴったりで

 

  しずかに蝿もとんでいて……。

 

 何度か繰り返される「むかし」ということばは、肉親の死、あるいは死の世界と同義かと思われます。死を直視する、そしてその眼で生を直視する。それが「わかってきた」ことの本質であり、天野さんの到達点だったのではないか、「私有地」はそういう眼の所産ではないかと、いまわたしは思うわけです。それは、悟りではないがニヒリズムでもない。詩作を重ねてきて獲得するにいたった曇りのない眼であります。

 このような晩年の詩についてあれこれ申し上げますのも、天野さんという詩人は、死にいたるまで停滞することがなかった、ということを申し上げたかったからです。精力的に詩作したということはすでに申しましたが、それは惰性によることではなかったし、わたしたちがやっていたような片々なる同人雑誌に書いて下さるものにしても、決しておざなりなものではなかった。書くごとに新しく、書くごとに深くなる。「七十歳」で書いた「私有地」がまさにそうであります。

 

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 やや極端にいえば、こと詩作もしくは表現に関するかぎり日々に新しく、充実した日々を過ごされた晩年の天野さんの私生活について、わたしの知るかぎりのことを少しご紹介してお話を終わりたいと思います。

 ことさら申し上げる必要はないことかもしれませんが、詩の原稿料などというものはささやかなものであります。それはいまはじまったことではなくて、むかしからそうです。

 たとえば萩原朔太郎といえば詩など全く読まない人でも名前は知っているほど有名な詩人でありますが、その朔太郎の原稿料について、生涯彼を師として敬慕した三好達治は、「当時(朔太郎の)稿料は、『新潮』の場合、一枚二円五十銭、この相場は、誰の定めたものか、萩原さんの年齢なみで仮りにいふなら、その標準の、世間並みの半額がたのところであつた」(『萩原朔太郎』)と書いています。三好は朔太郎に頼まれて、朔太郎の原稿を新潮社などへ売り込みに行ったので、よく知っていたわけです。「当時のへっぽこ小説家輩に較べても遥かに安かった」、とも書いています。朔太郎ほどの詩人にしてそれですから、他は推して知るべしであります。

 それは、詩の文学的価値の問題ではなく、商品としての、つまり需要と供給の関係にもとづく商品価値によることです。この事情は現在も変っておりません。

 わたしは天野さんの原稿料が、平均して一枚いくらだったかおたずねしたことはありません。おたずねしなくても、わたしも永年、もの書きの端くれのようなことをしていますから、ほぼ察しがつくのです。だからこそ年金によって生活をまかなわねばならなかったのです。天野さんが退職された昭和五十年ころというのは、月給そのものが現在に比べて非常に安かった。だから退職金にしても年金にしても、その後の物価の上昇や金利の低下などから察して、失礼ながらどうにか食べてはいけるものの余裕などなかっただろうと思うのです。

 だが、天野さんにはもともと経済的余裕をもとめる気持などなかった。食べていけたらよかった。加えて、原稿料を得ることを目的としての詩作ではなかった。これははっきりいえることです。ですから、その生活はつつましいものであったといわねばならないわけです。

 そういう生活であったにもかかわらず、わたしはただの一度も、いわゆる貧しさを感じさせられたことがありませんでした。逆に、ゆとりのようなものを感じました。ご夫婦の人柄とも無関係ではもちろんなかったでしょうが、門から路地、そしてお家の中がとても清潔なんです。天野さんの書斎はわずか三畳の間にすぎませんでしたが、南側がたしか掃き出し窓になっていまして、障子がはいっていました。その障子はいつ行っても、いま張り替えたばかりのように真っ白でした。その窓のそばに、西側の壁に向けて小さい座敷机が置いてあって、原稿書きも読書も、その机でなさっていました。

 三畳の書斎というのはまことに狭い。そこへ夏は扇風機、冬は炬燵矢倉が置いてあるのですから、書斎へ通されて座りますと、もう空間はほとんどないといってよい状態でした。にもかかわらずというべきか、だからというべきか、実にきちんと片づいているのです。畳の上へ開けた本や資料を乱雑にちらかして書き物をするわたしにとって、その片付きようはまことに驚きでした。いつも突然うかがうわけですから、事前に片付けるといったことではないのです。玄関は二畳の間になっていまして、両方の壁際に本や雑誌がぎっしり山積みにされていましたが、それもまた整然と分類した積み方でした。

 ほかの部屋のことはよく存じませんが、たぶん六畳ほどの居間と茶の間ぐらいだったでしょう。三畳の書斎が応接間を兼ねていたようです。小さい平屋で、しかも借家でした。終戦前からのお住まいだったようで、かなり古びてもいました。

 天野さんの随筆に「路地暮らし」というのがありますが、そのなかに次のように書かれています。最近、お家の南側が貸ガレージになったのです。

 

  ガレージの車がではらったあと、いつかこのへんの子供達が遊びに来て、ガヤガヤやっていたが、そのうち自転車の荷台に乗って、こちらを覗きこんだのがいた。夏のことで障子をあけ、簾をかけた内から見ているのも知らず「なあんや、阿呆らし、ちっぽい家や」とガッカリした声を出した。何のためにのぞく気になったのか分からない。

 

 たしかに「ちっぽい家」だったのは事実です。隣家がとりこわされてガレージになったら、明るくはなったでしょうが、通りの音も聞こえるし騒々しくなったのではないかと思います。排気ガスの問題だってあります。しかし、天野さん夫婦は転居しようとはしませんでした。住みなれた家だから辛抱して住んでいるなどという感じではない、愚痴もいわれない、ごく自然な住まわれ方でした。狭いけれども居心地がいいのです。だからいつも、ついうかうかと長居をしてしまったのです。

 もう一つ強く印象に残っていますことは、ご夫婦がいつもきちんとした身なりをしておられたことです。奥さんは夏でもたいてい和服でした。お世辞でなく奇麗なご夫妻でした。老醜ということばがありますが、そういうものが全くないのです。奇麗好きということもありますが、天野さんに関するかぎり、目的をもって精一杯仕事をなさっておられる方というのは、老醜どころか老いそのものを感じさせないのではないかという気がしました。若さを保つ秘訣といったものがもしあるとしたら、天野さんのように精魂こめて仕事をつづけること、もしくはそういう目的と仕事を持つことではないでしょうか。

 いろいろ申し上げましたが、「清貧」というのはこういう暮らしのことなんだと、わたしはしみじみ思いました。詩を書くことができる最低限度の条件さえ満たされれば、それで十分なので、余計なものは一切持たない。金銭や住居にしてももちろんそうであります。持とうとされなかったのです。決して気張ったり我慢してそうしているのではない。ごく自然に、無理なしにそういう生き方ができている。わたしにはそう感じられました。

 二十年も親しくしていただいたにもかかわらず、わたしはただの一度も、天野さんに詩の書き方についてご指導を受けたことはありませんでした。天野さんもわたしの書いたものについてはひとこともいわれませんでした。書き方などというものは、教えられてどうにかなるものではないとわたしは思っているものですから、お教えいただこうとは思っていなかったのです。

 二十年間接してわたしが学びましたことは、おこがましいようで気がひけますが、詩人の生き方についてでした。学んだと申しましても一つとして真似もできないのですが、また、真似ようとしたところで身につくとは思えないのですが、ほんとうの詩人というものはどういうものか、それがわかった気がしておりますし、それでもう十分過ぎることだと、感謝しているのであります。

 平成五(一九九三)年十月二十八日、天野忠さんは八十四歳で亡くなられました。なしうることは全部やった、そういう思いでの永遠の旅立ちであったことを祈らずにはいられませんでした。また、そう考えてよい晩年であった、とわたしは思っています。

 晩年の作品をもう一編ご紹介して、つたない話の結びにさせていただきます。

 

    万 年

  田舎に居たころ

  古い大きな沼に住む亀に

  たずねたことがある

  何年生きてる。

  そうさな

  ざっと九千七百年だな。

  もの憂い眼で私を見上げ

  もう直きだな、儂の寿命も。

  そう云って

  のそり、のそり水の中へ入って行った。

  あれから

  もう五十年にもなるかな。

  儂も年をとったもんだ、七十八歳になる。

 

  もう直きだな。

 

 長時間ご清聴くださいまして有り難うございました。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2006/08/25

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河野 仁昭

コウノ ヒトアキ
こうの ひとあき エッセイスト 1929年 愛媛県生まれ。

掲載作は、1996年7月、同志社女子大学を会場とした「晩年学」に関する講演の記録に加筆したもので、「晩年学フォーラム通信」20号(1996年8月)初出、『二つの故郷』(青磁社、2002年)所収。

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