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元禄御畳奉行の日記(抄)

 八千八百六十三日の日記

 

  もうひとつの元禄

元禄という時代は、日本史のどの時代よりも町人のいきいきした時代であった。関ケ原からすでに百年。武士は禄をもらって寝て暮すだけの遊民になってしまい、都市が栄え、町人たちが大きく成長し、

《侍とても貴からず、町人とても賎しからず》(『夕霧阿波鳴門』近松門左衛門)

と、刀よりも金銀のちからがものをいう時代であった。

肥料の改良、灌漑技術の向上などによって農業生産が増大し、城下町の建設が全国的におわって都市に人口が集中し、貨幣経済が浸透して商品の流通にたずさわる町人たちの生活は急上昇し、その余力が独得の町人文化を、市民生活に密着した大量消費的なあたらしい文化を育てた。文化というものが、不特定多数の人びとを対象として産業的に成長し得たのは、この時代からのことであろう。

 元禄の世は、人びとの表情も動きもきらびやかであった。江戸では大分限者(だいぶげんじゃ)紀伊国屋(きのくにや)文左衛門、奈良屋茂左衛門(もざえもん)、京の中村内蔵助(くらのすけ)、大坂の淀屋辰五郎といった伊達男たちが湯水のように金銀を撒いて豪興を競った時代である。松尾芭蕉が俳諧を天下にひろげ、浮世草子の井原西鶴が、日本のシェイクスピア近松門左衛門が、歌舞伎では江戸の初代市川団十郎が、上方では初代坂田藤十郎、名女形の芳沢あやめが、そしてまた浄瑠璃の竹本義太夫が、画人では土佐絵を再興した土佐光起(みつおき)、浮世絵の祖、菱川師宣(もろのぶ)、絵画から工芸、染織の意匠にまで奔放な作風をみせた尾形光琳、その弟の陶芸の乾山ら元禄文化の旗手たちが華やかに登場した季節でもあった。

 元禄の世は、庶民の世界に一種の文化革命(衝撃(ショック)といっていいか)をもたらしている。家庭での食事が、夜食をふくめて三食となり、旅をしても宿で炊事をしなくても食事が出て来、女中がなにくれと世話をやいてくれるようになり、江戸の町に屋台店の元祖ともいう、一串三文(さんもん)田楽(でんがく)の辻売りが現われたのである。それまでの江戸の町には、食物屋さえなかった。江戸の人びとが外食できるようになったのは、この頃からのことだ。そしてやがて蕎麦が大流行し、お茶漬も出現した。菓子の進歩も目ざましく、その種類も蒸菓子、干菓子、唐菓子と三百五十種におよび、裏通りには駄菓子を売る"雑菓子屋"ができたと『男重宝記』(元禄六年刊)にいう。

食物ばかりではない。庶民の家にも畳が普及し、着物の左を上に合わせて帯を後ろにしめる形になったのも、女帯が幅広になり、ぜいたくな元禄袖が、京絵師、宮崎友禅斎の創案した絢爛多彩な友禅染が、蛇の目傘があらわれ、当世化粧大秘伝『女重宝記』が出版された。男女(町人)のあいだに見合の(ならい)がうまれたのもこの頃である。

 住吉具慶描く「洛中洛外図」は、そんな華やかな都のにぎわいをいきいきと(うか)びあがらせている。仕立(したて)屋、縫箔(ぬいはく)屋、扇屋、人形屋などが軒をつらね、獅子舞や人形つかいなどが町のにぎわいをそえ、色とりどりに思いのままの模様を染めあげた華麗な小袖をまとった女が、前髪姿の若衆が、絵巻のなかを通りすぎていく。この、元禄の都市風俗の華やかさを、ひときわ際立たせているのは、

 《風流なる出立(いでたち)、肌に綸子(りんず)の白無垢、中に紫鹿の子(むらさきかのこ)の両面、うへに菖蒲八丈(あやめはちじょう)(もみ)のかくし裏を付て、ならべ縞の大幅帯、いづれか女の飾り小道具のこる所もなし。……此衣裳の代銀にては、南脇にて六七間口(けんぐち)の家屋敷を求めけるに、したりしたり、寛闊者目(贅沢者め)と、人皆うち(なが)めける》(『好色一代女』)と、西鶴がいった女たちの姿である。

 元禄の女たちは寛闊であった。奔放に身を飾り、その生を高らかにうたいあげている。着物は金襴、緞子(どんす)、びろうど、金紗(きんしゃ)、惣鹿の(そうがのこ)、一尺五、六寸にも及ぶ元禄の袖の、袖口に鯨の(ひげ)を入れて形をつくり、その大振袖に鈴を縫いつけ、歩くたびにりんりんと音をひびかせ、首すじから上だけでも装いに十六品、髪の油、(びん)つけ、長かもじ、小まくら、平元結(ひらもっとい)、忍び元結、こうがい、指櫛(さしぐし)、前髪立、臙脂(えんじ)、白粉、(まゆずみ)、おもり頭巾(ずきん)、留針、浮世つらら笠……そして爪先に薄紅をさし、白繻子(しろしゅす)紅裏(もみうら)をつけた足袋に、ばら緒の草履(ぞうり)をはいて花の都の往還を歩いていく。

 ──その元禄のころ。尾張德川家六十一万九千五百石の家中(かちゅう)に、朝日文左衛門重章(しげあき)という御畳奉行(おたたみぶぎょう)がいた。知行(ちぎょう)百石、役料四十俵。

 もっとも、いた……といっても別に武士としての芸にすぐれていたという意味ではない。それどころか、俊秀とか逸材とかの文字にはおよそ無縁の、ありふれた武士である。

 文左衛門、酒におぼれ女を愛し博奕を好み、芝居と聞いただけで目のいろを変える。そしてその芝居見物に夢中になっていて、あろうことか脇差の刀身をすり盗られ、鞘だけを差したまま帰ってくるという、いささか頼りなげな侍である。

 ところが、この文左衛門に奇妙な(へき)があった。じつに筆まめなのである。

 「時に()れ元禄四辛未(かのとひつじ)(一六九一)六月十三日、予(=自分)、佐分氏へ(やり)稽古に行く……」

 十八歳の夏の夜、古ぼけた天神机をひきよせ筆を走らせて以来、この日記はえんえん二十六年八ヵ月。日数(ひかず)にして八千八百六十三日。かれの死の前年の享保二年(一七一七)の十二月二十九日まで、飽きることなく()むことなく、おそろしいほどの根気で書きつづけられていくのである。日記の名を『鸚鵡籠中記(おうむろうちゆうき)』という。

 この、ちょっと気どった日記の名は、日ごろ自分のまわりに流れてくる風説(うわさ)、見聞をそのまま、ありのままに写して"鸚鵡返し"に書き記したという意味なのであろうか。

 ともあれ文左衛門は、当時の世相、物価から天候気象、日蝕、月蝕の観察、城下に起った大小の事件から身辺雑記、演劇批評から博奕情報まで、それらを一種独得のリアリズムをもって赤裸々に書きとめている。

 おどろいたことにその記述のなかには、当時のサムライ社会では死を覚悟せねぱ書けなかった幕政への批判、藩政の無能や、名君といわれる藩主吉通の陰の部分、藩主の生母、本寿院の淫乱きわまりない行状まで、小心な文左衛門が躊躇することなく書きつづっているのである。

 その『鸚鵡籠中記』のなかに現われてくる"元禄"は、豪奢絢爛たる美とロマンに刷き重ねられた華麗な世界ではなかった。ここには、そんな"元禄"のイメージとは裏腹な、幕府の秕政(ひせい)に喘ぎ、市場経済の血液ともいう貨幣の悪鋳によるインフレ、家康の時代からみると十倍という米価の高騰、諸物価の値上りのなかで、一粒の年貢米(ねんぐまい)もなく逃散(ちょうさん)していく潰れ百姓や、貧窮ゆえにわが命を絶っていく微禄な武士や町の人びとの暗い表情、そして、なまぐさいまでに揺れあがってくる欲望と痴情に彩られた"もうひとつの元禄"があった。

 

  朝日家の来歴  

名古屋市の蓬左文庫に納められている尾張藩士たちの系図「士林泝洄(しりんそかい)」によると、『鸚鵡籠中記』の主人公、朝日文左衛門重章の鼻祖、重虎は甲州の出で、農夫から身を起して武田信玄の足軽となって戦場を往来するが、やがて三河で戦死する。

 その子、古田右衛門また剽悍無双、槍をひっ摑んで奔走奮迅、その戦功によってあるじの朝日永寿から"朝日"の姓をゆるされる。武田家滅亡ののち右衛門は、德川家康の老臣、平岩親吉に仕え、再度の軍功によって食禄三十石。のち慶長の役で加増二十石、大坂の陣で五十石と加増を重ねて都合百石。尾張德川家御城代組同心となる。これが文左衛門の曽祖父である。

 この曽祖父から祖父の惣兵衛重政、父の定右衛門重村とくだってくると、戦国風雲の草の根を掻き分けて甲斐の国から這い出てきた朝日家の人びとの顔つきも、ひどく柔和になってくる。そうであろう。関ケ原から一世紀、最後の叛乱があった島原の乱からでも五十年。すでに殺伐武弁の通用する世ではなかった。武士といっても、もはや軍隊仕立ての戦闘要員としての用はなく、尾張藩庁に出仕する地方公務員といった感がつよい。城下の往還を歩いているのは、いずれも戦場を知らぬ泰平の武士ばかりで、腰の両刀も武士という身分を証明する象徴でしかなかった。

 文左衛門が『鸚鵡籠中記』のなかに書き留めた侍たちの姿も、そんな元禄の世のサラリーマン武士たちである。武士の魂だといわれた刀を置き忘れてきたり、うっかりして踏み砕いたり、紛失したり、そしてそのしくじりのために藩を追われていった侍たち……そんな時代の下級武士たちの表情や、町人や農夫たちの哀歓を、文左衛門の日記はヴィヴィッドに描きだしている。

 ともあれ、曽祖父以来の家職である百石どり御城代組同心としての朝日家の住居は、名古屋市の東郊、百人町辺にあった。文左衛門の日記のなかに散見する記述を束ねてみると、その屋敷地は二百五十坪前後で、門があり、屋敷の周辺には板塀や生垣をめぐらし、藁葺き平屋だての母屋には両親を、別棟には文左衛門たちが住み、野菜などは畑で自給自足、といった暮しぶりであったようだ。

 御城代組同心というのは、百石どりの同心四十八人が御本丸番組と御深井(おふけ)番組の二組に分かれ、一組二十四人の同心が三人で一班をつくり、九日目ごとに登城、宿直勤務をする。その、月に三度の勤番のとき三人の同心の部下として足軽が数人付くといった構成で、現代でいえば主任級か、よくても係長といった役どころであろう。

 

  武芸者志願

文左衛門がサムライの表芸である武術の稽古をはじめたのは十八歳の時の、貫流槍術の佐分源太左衛門道場だというのだから、いかに泰平の世とはいえ、そのスタートは随分おくれている。そのかわり、その出発の遅れをとり戻そうとするのか、この頃からの文左衛門の武術入門、諸道場への通いぶりはすさまじい。もともと気の多い、飽きっぽいたちだが、この場合の文左衛門は、まさに手当り次第といった感がある。

 文左衛門の武術遍歴の第二番目は弓術であった。槍の稽古をはじめて三月後の元禄四年九月に、弓術の師、朝倉忠兵衛の名が日記に現われてくる。

 こうして槍、つづいて弓の道場に通いだした文左衛門は、次には据物斬りと柔術に熱中し、友人の蛯江庄左衛門をさそって猪飼忠四郎の道場に出かけていった。そしてその場で神文誓紙二通を書いて出し、入門してしまった。

 据物斬りは巻藁や、処刑された死体などを斬ってまなぶ刀術で、刀剣の利鈍をも(ため)す。猪飼道場に足を運んでいるうちに、その試し斬りの機会が意外に早くやってきた。

 「十四日、晴、空燭烏(そら、しょくう)。今朝、五つ過ぎに予、師の猪飼忠蔵、同忠四郎に随つて星野勘左衛門下屋敷にて(ため)し物を見物す……様し物胴三つ 是は昨日迄、広小路にさらされし惣七、新六、三郎衛門なり。首は獄門にかかる。もつとも首は打て来る。浅井孫四郎 御馬廻役一の胴を斬る。これ惣七が胴なり……余も股の肉を切落す」(元禄5・12・14)

 師の猪飼の供をして、弓術師範の星野勘左衛門の下屋敷に出向くと、折から広小路で晒されていた獄門首の惣七ら三人の首なし死体が運ばれてきた。で、文左衛門も、「またとない機会じゃ、存分に試してみよ」と、師にうながされ、きざみあげるような手つきで刀を引き抜き、叫びごえをふるわせて土壇場の死骸の股に斬りつけたというのである。が、はずみというのは恐ろしい。その頼りなげな刀が、どうしたことか見事にきまって、片脚ががつん! と断ち切れた。

〈や、やったぁ!〉

と、ここまではよかったのだが、文左衛門は不覚であった。師と別れての帰途、友人の渡辺平兵衛宅に寄り、酒を馳走になっている最中、目の前の皿の中の刺身の色が、にわかに先ほど斬り落した死骸の腿の切り口と重なり……そう思った途端、

 「手ふるへて気色悪敷(あし)きゆゑに次の間へ行き休息し……舌(こわ)ばり物言ひ定かならず、ほとんど中気に似たり」

 そんな哀れな有様であった、と文左衛門はその夜の日記に書き、唾でも吐くような調子で、しきりに「燭烏」という文字を書き散らしている。燭烏というのは、おそらく触穢(しょくえ)(=けがれに触れること)の当て字で、試し斬りをして身が汚れたという意味なのであろう。以来、これに懲りたのか文左衛門は、ふっつりと据物斬りの稽古をやめてしまった。

 こうして据物斬りを断念した文左衛門だが、そんなに熱しやすく冷めやすい彼が、朝倉忠兵衛の弓術道場にだけは熱心に通いつめている。その専心ぶりを見込まれた文左衛門は、やがて師の愛娘けいを嫁にむかえることになる。

 しかし、文左衛門の弓術熱心もそこまでであった。なんのことはない。文左衛門が夢中になっていたのは、弓よりも、けいの心を射落すことであった。けいを嫁にしたとたん、文左衛門の弓術熱はけろりとさめてしまった。

 稽古を怠けている娘むこを励ますため、師であり義父である忠兵衛は、さまざまに心をくだいている。近く行われる藩主の御前での晴の「御的(おまと)御覧」の競射に文左衛門を(強引に)推挙し、泥縄式の特訓をつづけさせた。

 「(いぬ)の刻、忠兵衛より手紙来る。曰く、御的御覧有るべき旨仰せ出され候(あいだ)、予に明日より来り、的を射る可しと。ここに於いて俄かに弓を張り、巻藁を射る。去年三、四月の頃より(稽古に)通はず打ち捨てしゆゑ殊のほか射にくし」(元禄7・10・26)

 「同廿七日、予、忠兵衛へ行く。的を四、五本射て見るといへ共、甚だ射難きにより巻藁を射る……」

 「廿八日、予、朝より忠兵衛へ行く。夕飯たべ、暮すぎて帰る」

と、それからは連日、大あわてで忠兵衛道場に通ってにわか稽古に励んだ。が、生まれつき武芸ごころのない空っ下手(からっぺた)はどうしようもない。「ちいっ、またはずれたか」という散々な有様で、さすがの忠兵衛もこれには頭をかかえてしまった。かくして文左衛門、予選の前に失格。

 ところが、そんな頼りない文左衛門が師の猪飼忠四郎から、柔術の免許(ゆるし)を授けられているのだ。

 「猪飼忠四郎より(やわら)(=柔術)の印可(しるし)の巻物に判をすへ、余にあたふ」(元禄6・9・28)

というのだが、入門からわずか一年未満、いかにも嘘くさい免許である。

 が、こんなことを気にする文左衛門ではない。あっけらかんとした顔つきで軍学指南の神谷久左衛門のところへやってきて、

 「予、神谷久左衛門軍法の弟子になり、今日、誓紙をなす」(元禄7・9・29)

と、またしても入門するのである。

 文左衛門の武芸志願は、なおもつづいている。軍法の次に入門したのは、恒河佐左衛門の居合(いあい)術であった。文左衛門が友人の石川瀬左衛門と共に、この師から居合の印可(いんか)を授けられたのは元禄八年五月二十日のことである。

 「晴。(さる)ノ刻より雨。恒河佐左衛門、居合の印を予と石川瀬左に授く。昼過ぎに付き(恒河道場に)至りて之を請ける。萩の花の餅、吸物、酒出る。瀬左と予と両人して肴代として方金一分(いちぶ)佐左へ(つかわ)す」

 文左衛門の入門癖はこれだけではすまない。元禄八年六月二十四日、鉄砲場へ見学に行って玉ぐすりを貰って射ったのが病みつきになって、ついに鉄砲師範に弟子入りしてしまう。

 「予、水野作兵衛鉄砲の弟子に成る。誓盟をなし牛王(牛王宝印の起請文に)血判」(元禄8・7・22)

 文左衛門の武芸遍歴のなかで、この鉄砲場通いだけは比較的ながく続いたほうである。もっとも腕前のほうは相かわらずで、「予、鉄砲芸に(たしな)むこと甚だし……」と当人は云うものの、

 「七月朔日(ついたち)、予、鉄砲打ちに行く。五ツ打つも皆あたらず」

 「七月三日、鉄砲場へ行く。十三発打つも皆はずれ」

 「予、玉十打ち一つ(あた)る」

といった程度であったらしい。

 このほかにも文左衛門は、

 「予、八田九郎右衛門の兵法(剣術)の弟子となる。今日行き、誓ふ」(元禄9・2・26)

と、あちこちで神文誓紙(しんもんせいし)を書き散らし、血判を()してまわっている。

 こうして文左衛門の日記を繰ってみると、これでだいたい、武芸ひととおり修業したことになる。なかには目録をうけた槍術、印可をゆるされた居合、柔術などもあるが、さて実力ということになると、どうにも師匠のヒザツキ(束修)、謝礼金目あての免状濫発といった感があって、胡散(うさん)くさい。

 

  花嫁のくる夜

文左衛門の結婚は元禄六年(一六九三)四月二十一日、花嫁は前述の朝倉忠兵衛の娘けいで、文左衛門ときに二十歳。

 花嫁の道具が運ばれてきたのは十九日。結婚式は二十一日の(とり)ノ刻(午後六時)から行われている。日記によると、その夜の光景は、

 「酉半刻(とりのはんこく)、忠兵衛の娘、駕物(かごもの)来る。挑燈(ちょうちん)星の如くに耀(かがや)き、人跡絡繹(じんせきらくえき)たり。彦坂平太夫(仲人)馬上にて来る。渡辺平兵衛、門へ出て対談す。部屋にて待女郎(まちじょろう)おいと、娘と余の三人並び居、引渡す。雑煮、吸物、酒事(さかごと)終りて、余、源右衛門とともに駕籠に乗じ 忠兵衛方より来る、上下(かみしも)、扇を用ゆ。(やり)をつかする、戌ノ半刻前に忠兵衛の処へ至る。玄関に野崎五郎右衛門、前田伝蔵居す。座敷へ出たる人々には、彦坂平太夫……以下客の名を省略……」

という有様で、盃ごとが済んだあと文左衛門は駕籠で朝倉家に出向いて、忠兵衛夫婦や縁者に対面、酒、雑煮、吸物の膳にむかったのち帰宅。

 「忠兵衛の内(家)より雨降り出す。かばやき町にて四ツの鐘(午後十時ごろ)を聞く」

 するとこんどは忠兵衛が朝日家にやってきて、挨拶をかわし祝いの膳にむかう……と、この夜のあわただしさが描かれているのだが、どうしたことか文左衛門の日記には、花嫁けいを迎えての記述は一行もない。新郎文左衛門の筆は、花嫁などそっちのけにして、ひたすら結婚式の馳走の品々をえんえんと書きつづっていく。

 「献立

 引渡しさんぼう盃。雑煮 こんぶ、たつくり、ふだん草、花かつほ、大こん、盃、吸物ひれ、あつめ汁塩たい、大こん、ごほう、(なます) なよし、いか、たつくり、ささがき大こん、たで、ほうふ、めうがの紅、香之物、二汁 こち、氷こんにやく、煮物 くづし、山のいも、ごほう、竹の子、ふき、あつ物 大根、葉、焼物 かまぼこ、干きす、取肴 するめ

 こんなところはいかにも筆まめな、記録マニア文左衛門の面目躍如たるものがあるのだが、おかげで元禄の人びとの食卓を垣間見ることができる。

 「忠兵衛殿御出(おんいで)候時(の献立)

 引渡し雑煮前の如し、吸物前の如し、冷酒、取肴 のし、数の子、するめ、かん酒、吸物 、肴、熬物(あつもの) しきふ、かまぼこ、取肴 小梅、からすみ

 新郎の文左衛門は多忙である。一夜明けた二十二日、雨降りしぶくなかを忠兵衛方の親類への挨拶廻りに出向き、挨拶しては酒を飲み、酒を飲んでは挨拶にまわり……こうして祝宴はえんえんと二十四日までつづくのである。

 二十四日は朝倉・朝日の一族縁者が朝日家に会して酒宴をくりひろげる。瞽女(ごぜ)のおもんが()ぎ唄をうたって宴を盛りあげ、小唄をうたう者、琴を弾く娘、あちらこちらで盃が交されて小一日、やがて主人公の文左衛門もろともに泥酔、

 「(酒宴)数刻、皆酔戯す……座中多く吐逆す」

というから、よほど飲んだのであろう。正体のなくなった惣兵衛老人は駕寵で運ばれ帰っていった。

 この日の献立は、

 「指身(さしみ) すすき、たです、いり酒、九年母、わさび、すいせんのくり、塩鴨、香の物いろいろ、筒干 竹の子、梅干、くしこ、焼あゆ、焼物 かまぼこ、嶋ゑび

 酒一通りでて吸物 鰌、生椎茸、麩、煮〆、塩辛 がうな、鮓、吸物 すすきのわた、水物 くり、なすひしみ、大こん花、取肴 からすみ、小梅、かずのこ、いろいろ」

 ──こうして朝日家の嫁になったけいは、翌、元禄七年九月懐妊、さらに翌八年三月十日、駈けつけてきた取揚婆、腰抱婆らの手によって巳ノ刻(午前十時ごろ)女子誕生。歓喜した文左衛門はその嬰児にこんと名づけた。

 

  親父どの攻略

文左衛門が父、定右衛門重村(御城代組同心のち御天守鍵奉行)の跡式をついで名古屋城、御城代組御本丸御番を命じられて初出仕(はつしゅっし)するのは二十二歳のとき。といって、文左衛門のこの家督相続がすんなりいったわけではない。紆余曲折、じつに涙ぐましいばかりの辛抱の末にようやく摑んだものだ。

 文左衛門が朝日家を嗣ごうという第一番の障碍は、父の定右衛門であった。嫁も貰ったし、この辺りで朝日家をついで……という文左衛門を引きすえ、定右衛門は御城代組勤仕の心労の数々を例にあげ、くどくどと語りだしたのである。

「よう聞け文左衛門……(わし)が御城内へ初出仕したのは……」

 定右衛門の、いつ果てるとも知れぬ長ばなしに文左衛門はうんざりした。要するに定右衛門は、朝日家当主の座を手ばなす気など毛頭ないのである。一計を案じた文左衛門は、親類の渡辺弾七や渡辺武兵衛に泣きついた。定右衛門が苦手の二人である。翌日、弾七たちがやって来た。もちろん、定右衛門に隠居をすすめるためである。

「考えてもみよ、定右衛門」

と弾七たちは、渋い(つら)つきで云う。

「おぬしも、もう年だ。御本丸に詰めていても、いつ火事、地震が襲ってくるかも判らぬ。その突然の場で、霧眼(かすみ眼)のおぬしがうろたえ不覚をとれば朝日の家はどうなるか。一日も早う御役儀差し上げ(隠居)を願い出られよ」

 弾七たちに説得された定右衛門は、

「……そうまで仰言(おッせ)るなら」

 しぶしぶ頷いて翌日、御城代組の小頭、相原久兵衛の家を訪れ隠居願を提出。が、帰宅してからが大変であった。その夜、定右衛門は文左衛門に紋服を着せ、仏壇に燈明をあげるとおもむろに礼拝を捧げ、ひどく勿体ぶった顔つきで振り返り、「よいか」と文左衛門に云った。

「もはや、朝日家のあるじはお前である。その心算(つもり)でいよ……そもそも、わが朝日家と申すは──」

 文左衛門を前にした定右衛門は、おもおもしげな口ぶりで、またしても朝日家の来歴を物語りはじめたのである。が、その途中からふいにわが身の隠居ばなしになり、愚痴っぽい調子で、

「……これに依つて役銀も出るなれば、手前殊之外(ことのほか)つめずしては成り難く、随分諸事覚悟せよとくどくど唾をやく」

 つまり、家督相続をして新しく役職に就いた藩士は"御礼銭"として藩主へ役銀を差し出さねばならない。このためわが家の家計もよほど切りつめ倹約せねば暮し向きが立つまい。で、お前もそのつもりで覚悟していろよ、と文左衛門に掻きくどくのである。

 「予、その迷惑さ、対悩(脳)響胆鬱腸一時に九回するかと怪しまる」(元禄6・7・11)

 いつ果てるともない親父の愚痴に"頭にきて、腹わたがでんぐり返る思い"であったと文左衛門は日記の中で溜息する。

 が、定右衛門が隠居願を出したからといって、すんなりと家督が相続できたわけではない。なにしろお役所仕事である。鬱陶しいくらい時間がかかる。待望の切紙(きりがみ)がきたのは、翌、元禄七年の三月二十一日である。

 「晴天。(とり)ノ二刻(小頭の)源右衛門、久兵より(れんの)切紙来る。明朝五ツ前に三左衛門殿(城代)へ親と同道つかまつれと申し来たる」

 「同廿二日、親の御役義兼ての願ひの如く御免(おゆるし)……予、今日落梅之詩つくる。

   得春字

  流水几前花落辰 満空玉雪委泥塵

  香魂一夜馬嵬夢 従是姑山減却春」

と丈左衛門は詩などひねくりまわしていい気なものだが、これで相続がすんだわけではない。まだまだ煩雑な手続きと、藩主へのお目見えの機会を得るためのうっとうしいくらいの長い時間と根気が必要であった。お目見えが得られなければ家督を相続することができないのである。

 

  御目見の衆

主君と家臣の主従関係が確立するのは、お目見えの時である。家督の相続がそのまま、家禄の相続というこの時代では、お目見えは公的にも私的にも、藩士の身分、地位を確立する起点となっていた。父子といえども、私的な契約による家督相続は許されなかった時代である。以下の文左衛門の日記には、その「御目見(おめみえ)」の文字がひしめいている。

 「十七日、昨日、卯ノ刻、予、御目見に出る」(元禄7・5・17)

 「廿日、(あさ)の間曇。辰ノ刻、予、御目見に罷り出る」

 「廿一日、公、御下屋敷へ御成り。御目見ノ衆大勢にて、どやつき(殺到し)御供之節、御先へ参るな、と叫ぶといへ共、大勢崩れ立ち聞き入れず、御先へ走りぬく……」

 「廿二日、巳ノ刻、公、大殿様へ御成り。予、四つ過ぎに出る。両度御目見つかまつらず」

 「廿三日、暁より雨降、辰ノ刻止む。予、御目見に出るも(藩主)御出なし」

 「廿四日、晴天。卯ノ七点。予、御目見に出る」

 「廿五日、予、御目見に出、御出なし」

 「廿六日、辰ノ七点。予、御目見に出」

 こうして文左衛門の"お目見え"運動は、やがて「土用に入る、極暑蒸すが如し」という炎暑をくぐりぬけ「雪降る、厳寒(はだ)を裂くが如し」というなかで、連日、つづけられていく。

 なにしろ、数十人もの(かみしも)すがたの御目見の衆が、藩主の視線を浴びるため、城内の大腰掛(下級藩士たちが主君に拝謁するための場所)や、その行く先々に待ちうけて平伏するのである。時にはお供衆の制止をもきかず、糸の切れた奴凧さながらにどっと駈け走り、われ先に、人よりも前に坐ろうと場所を求めて争うのである。このため幾度か御国御用人から「自今、××御門に一切居るべからず」「御目見に(まか)(いで)、昼迄に(藩主)御出の沙汰なくば帰る可し」などの警告を受けている。

 とはいえ、御目見の衆の辛労もまた並たいていではない。くる日も来る日も大腰掛に坐りこんで、いつお成りになるともしれぬ殿様を待ちかね、ときには、

 「去る人の子、退屈やしけん、涙をほろりほろりと流したる(あり)と」

ということもあった。こうした御目見の衆のあいだでは、どこから湧いたかも知れないデマも、まことしやかに囁きかわされる。

 「御目見の衆は今日より勝手次第に、新番頭(しんばんがしら)の町野助左衛門宅へ行くべしとの御意(ぎょい)あり」

という話を耳にした文左衛門は、早速、おなじお目見えの友人と一緒に、町野邸に出かけ、玄関に置かれている帳面に記名して帰ってきた。以来、御目見の衆たちも押しかけ署名してくるという日がつづいたが、どうにも様子がおかしい。で、玄関番に訊いてみたが、ぽかんとしていて要領を得ない。結局、それが嘘ばなしであると判ったのは数日後のことである。

 「……故に是より後は行かず」

 デマに振りまわされて無駄足をはこんだ文左衛門は、いまいましげにこう書きとめている。

 この、お目見えに奔走している人びとのあいだにも、運不運がある。七月十五日に、文左衛門より後に願い出た若尾弥次右衛門の跡役を伜の政右衛門に仰せつけられる旨、沙汰があった。その七月二十九日、その日は篠つく雨でお目見えに出る衆わずか三十九人であった。その三十九人に、思いがけなく、

 「当人の名、ならびに(かしら)の名、親の名を書付けて出すべし」

との申し付けがあった。三十九人は躍りあがった。いよいよだな。けれど、その"願い書"は糠よろこびであった。

 「九月廿五日、城代組、加藤清左衛門、平岩弥左衛門、隠居相済み、家督相違なく世伜(せがれ)に下さる。

 余が親も前に隠居願ふといへども、此の度済まず、是非ともに思案に落つる。余、鬱々として楽しまず」(元禄7・9・25)

 ここにきても、まだ文左衛門の名は出てこない。忿懣(ふんまん)やるかたない文左衛門は「終日大酒し」乱酔のあまりその日の日記に意味のわからない歌を書きつらねている。

 

  老いぬれば枯木とぞなる五十余りただ酒呑まん夢の浮世に

 

 文左衛門が念願の朝日家の当主になるのはその年の暮、十二月十日のことである。

 この日、城代組同心小頭(こがしら)の相原久兵衛、渡辺源右衛門同道のもとに城代、沢井三左衛門邸に出向いた文左衛門は、そこで首尾よく「隠居相済み、家督相違なく世伜(せがれ)文左衛門に下しおかる」の沙汰をうける。が、こうなると文左衛門も負け惜しみがつよい。お目見え運動八カ月間の愚痴や泣きごとなどけろりと忘れたように、

 「……願ひの趣きを昨日三左衛門殿へ指し出ししに、早や今日に相叶(あいかな)ふ」

といった調子で日記に書きこんでいる。もちろん、前日の日記のどこを引っくり返してみても、三左衛門に願い書を提出したという記述など一行もありはしない。数カ月まえ祈るような思いで文左衛門が願い書を差し出したくだりは、すでに読まれたとおりである。

 

 御畳奉行どの

 

  文左衛門出世する

文左衛門が"もっけもない"幸運を摑んで御畳奉行に就任するのは二十七歳の時である。御畳奉行というのは、この元禄期あたりからようやく一般化されるようになってきた"畳"の需要が、にわかに増えたため設けられた役向きである。

 江戸幕府で、御畳奉行が三人置かれたのは元禄九年(一八九六)十一月。文左衛門が拝命するのはその四年後だから新設早々の、新しいもの好みの文左衛門にはうってつけの職名だし、御畳奉行の仕事といっても、べつに忙しいわけではない。畳の新造、取替、修繕、調査といった御用を管理するだけで、あいかわらずのんびりしたもので、そのうえ御役料四十俵を給され、警備係長から一躍、管理職の用度課長といった席に抜擢されたのである。

 文左衛門にしてみれぱ、役付き手当のこの四十俵はなによりもありがたかったし、百人町の同心屋敷を離れて、建中寺から善光寺街道(現国道19号線)を越えた西の、三の丸に近い白壁町と撞木町の(あい)主税(ちから)(四丁目付近)の、三百石クラスの屋敷に移り住んだことが嬉しかったようだ。

 それに新しい仕事といっても、仕事のほとんどは手慣れた部下の手代(てだい)や御畳蔵番たちが取り仕切ってくれる。文左衛門は、その部下の仕事をみて頷いてさえいればよいのだ。なにしろ、一人分の仕事を三人で分担するといった、仕事よりも武士の員数のほうが多い時代である。暇がたっぷりあるのは前の、御本丸御番のころとかわりはない。

 で『鸚鵡籠中記』に描かれている御畳奉行としての記述も、きわめて微量である。新奉行として登場した文左衛門の活躍ぶりを期待して、まる一日『鸚鵡籠中記』の頁を繰り返し、引っ繰り返し探し求めたのだが、結局、その仕事ぶりらしい記述を数ヵ所見出しただけであった。

 奉行就任の翌日、こんど配下になる御畳方の手代四人、それに御畳屋治兵衛、弥左衛門などが挨拶にやってきたほか、べつに文左衛門としてはあらためて書き留めるほどの出来事もなかったのであろう。以来、日記のなかには時折、畳見分(検査)などに出向したことなど二、三行、それもきわめて無表情に書かれているだけである。

 「御具足多聞へ出る(出向)。今度、瑞竜院様(二代光友)、泰心院様(三代綱誠(つななり)の御具足請取ゆゑ、新に畳替。縁がはに新規に薄縁(うすべり)敷込の由……」(元禄14・7・23)

 「万松寺へ政右と畳見分に行く。予、昨夜より風邪悪感(おかん)あり、昼すぎ帰り、悪感つよく(ふすま)を重ねて臥す。熱あり」(宝永2・2・22)

ということだが、これだけの記述ではまったくとりつくシマもない。新製品として登場した"畳"という元禄文化を人びとはどのように受けとめたのか、その値段は、また藩邸や城下での利用度、普及度は、などと御畳奉行の目を通した記録を期待していたのだが……。もっとも文左衛門のこの『鸚鵡籠中記』三十七冊は、書くことが何よりも好きな文左衛門が自分の愉しみとして書いたものだ。世間に公開するためでも他人に見せるために書いたものでもない。それを後世の私などがとやかく云うのは、文左衛門にしてみれば余計なお世話、筋ちがいというものであろう。で、ここのところは文左衛門の筆のすすむにまかせて頁を繰っていくとしよう。

 御畳奉行を拝命した文左衛門が嬉しかったのは、役料の四十俵だ。もともとが知行(ちぎょう)百石。わかりきったことだが、知行百石というのは、百石の米の()れる土地を拝領しているということで、実収は米四十石。白米にすると()き減りして三十五石、俵に直して約百俵。その上に四十俵もの役料がころげこんできたのである。軍役は槍一本。槍持ち、中間(ちゅうげん)が一人。普通の生活をしていれば充分すごしていける収入である。元禄の一つ前の貞享年間に書かれた『豊年税書』によると、夫婦二人、子供一人、作人四人の家計で、一ヵ年の入用は生活費その他雑費をふくめて米十八石、小判に直すと十八両。このうち十二石が食費だという。

 こうして文左衛門は、この四十俵の役料とともに主税町の御畳奉行の屋敷に移っていく。この界隈は中級武家屋敷の町で、名古屋市蓬左文庫に現存する城下町古図「尾府名古屋図」にも、主税町筋に、

  朝日文左衛門

と記された屋敷を見ることができる。

 

  文左衛門の俸給

ところで、この文左衛門の収入源だが、前述したように、元禄の頃は諸大名家では家臣の知行地(領地支配権)を廃して蔵米制によるという傾向になってきていたのだが、尾張藩はその例外で、依然として地方(ぢかた)知行制をとりつづけていた。寛永八年(一六三一)の記録をみると百石以上の知行取りは九百三十一人、そのうち千石以上が八十余人。もちろん、文左衛門も小なりといえども給人、地頭(じとう)(=知行取り)のひとりである。時にはひとかどの面つきをして庄屋を呼びつけ、年貢をきめ、村役を叱りとばしたりなどしている。

 「今日、野崎村へ検見(けみ)に行く筈のところ、庄屋来て免を請ひし故止む。長良村の免四ッ八分五厘、野崎村の免三ッ九分五厘、ともに去年のに一分づつ上がる」(元禄9・10・2)

 右の野崎村、長良村というのは御城代組同心衆の知行地である。文左衛門の御畳奉行としての役料は藩庫から四十俵の禄米を支給されるが、知行地は元のまま。で、文左衛門もよく段之右、三郎左、儀平といった友人の御城代組同心たちと知行地へ検見、つまり年貢の課税のため稲の稔り具合を調査に行く相談をしている。

 だが、村方としてはそんな同心衆たちにぞろぞろ押しかけられては接待の酒代、肴代とモノ入りがかさむ。そこで毎年その時期になると先手をうって、庄屋や頭百姓たちは同心屋敷を訪ねて行って、なにとぞ、「検見なしに仰せつけ下され候へ」と懇願する。

 文左衛門たち同心衆にしても、わざわざ肥臭い田舎まで足を運ばなくても済むのだから、手間がはぶけて好都合なのである。そこで同心衆があつまって、年貢の賦課率を算定して、

 「長良村、去々年の免の通り四ッ七分五厘に申しつくるなり。(そう云えば庄屋たち)(かしこ)み奉ると請け合う……」(宝永5・9・10)

ということになる。免とは、全収穫の一部から租税をとり残部を(ゆる)してやるという意味で、一石の収穫に対して租税一斗が免一つである。

 で、こうして庄屋たちに受状へ判を捺させると、あとはその年貢率の交渉成立を祝って酒、こわめし、吸物などが出てき、まずは落着ということになる。

 年貢地はこういうことだが、例の、役職に対する俸禄、役扶持を貰うには制規の券証、米手形を蔵奉行まで出さねばならない。もちろん、いつでもというわけではない。蔵米給付の時期は春、夏、冬の三期に分けられている。文左衛門はその米を、

 「役料手形七斗八升かへに払ふ、六両三百余」(元禄16・3・5)

 「御役料の米手形を御蔵へもたせ(つか)はし、四分通り御買留の金一両と五十六匁請け取る」(元禄16・7・1)

などと、藩の御買留の手数料を差引かれたりしながら現金化している。

 

  二人の妻に妾ふたり

 文左衛門が結婚をしたのは元禄六年(一六九三)二十歳の時であった。が、女ごころは変りやすい。新婚当初、内気で、花はずかしき風情であった新妻のけいも、娘こんを生んだあとは手のつけられないヒステリィ女房に変貌している。

 「けい、禽妬出づるにより、吾が憂鬱、堪ゆべからざるが如く、かつ(おそ)る」(元禄13・10・2)

というのが御畳奉行に就任した年、結婚七年目の日記である。懼る……というところをみると、よほどすさまじく嫉妬に荒れ狂ったのであろう。

 翌十四年二月、この無類のやきもち女房は城下に流行した疱瘡に(かか)って、看病する文左衛門を悩ませている。顔と手にできた庖瘡は(うみ)をもち熱もでてきたのか、けいはあたりかまわぬ大声で「ああ痛い、痛い」と呻きごえをあげる。近所の医師の通庵が脈を診ているあいだも、声を()げつづける。その夜、顔と手の庖瘡が膿みきってしまったのか、その痛みは他の部分にうつり、

 「……痛し、(かゆ)しとて、堪へかね、熱もつよく妄語あり、高く哥(歌)うたひ、また笑ひ、また浄るり……」(元禄14・2・15)

と、突然あらぬことを口ばしり、高い声で唄ってみたり、かと思うと気味の悪い顔つきで笑いだし、次には浄瑠璃を唸りだすという有様である。文左衛門と母親が、あまりのけいの狂態におろおろしているうちに夜が明けてしまった。が、その夜もまた、

 「狂言妄語、甚だ痛む由、悶ゆるが如し……」

 文左衛門を悩ませたけいの疱瘡も、十日ほどでようやく癒った。しかし、平癒したからといっても顔のアバタだけは残る。このことがけいをさらにヒステリックな女にし、病的なまでの嫉妬心を掻きたてさせるようになっていったのであろう。

 そのころ文左衛門には、妾同様の、

  "茶の間の女"

女中の(れん)がいる。つまり、文左衛門は一つ屋根の下に妻妾を同居させていたのである。もっとも、外泊を許されなかつた当時の武士社会では、べつにめずらしいことではないのだが、悋気症のけいにしてみれば、穏やかでおれる筈はない。文左衛門をみると、

「ええい、お(みゃい)さまというひとは……」

と武者ぶりつくように声を荒げ、目を吊りあげる。文左衛門にしてみれば、身から出た錆とはいいながらそんな険悪な、鬱陶しい家に居る気はしない。すっかり女房恐怖症になってしまって、友人宅を転々として深夜まで酒を飲みにまわっている。その午前さまの文左衛門の帰宅を待ちかまえてけいは……と、連日、そんな悪循環を繰り返している。

「地獄だな」

 文左衛門もそう思うのだが、気の弱い彼には、酒の他に逃げ場がなかったのであろう。この(かん)、妾の連が妊娠している。青くなった文左衛門は、あわてて知りあいの中条流の医師に頼んで処置をして貰い、

 「正月十七日、連、安く堕胎」(元禄16・1・17)

 その夜、()っとした思いで文左衛門は、日記をひろげて一行、そう筆を走らせている。思ったより費用もかからなかったのであろう。「安く堕胎」などと安堵しているところなど、いかにも小心な文左衛門の浮気らしくて可笑(おか)しい。

 文左衛門はこの悋気妻と、宝永二年(一七〇五)一月七日、離婚する。結婚十二年目の破局である。宝永二年乙酉(きのととり)一月七日、午前十時ごろ、けいは広井町の実家へ帰っていった。

 離縁状は夕がたの四時ごろ、文左衛門の父、定右衛門重村がけいの父、朝倉忠兵衛のもとへ持参した。朝日家が迎えた嫁だからである。

 「(さる)ノ刻、親より予が妻離別する由の状を忠兵衛へ(つかわ)す。予は肝煎(きもいり)、彦坂平太夫へ遣す」

 文左衛門自身もまた、離別の理由を仲人の彦坂のもとに書きおくった。江戸時代の結婚は家同士のものであったから、離別もまた婚家先の事情によって決められてしまう。夫婦の(きづな)、子は(かすがい)などといっても、生ま身の人間の関係など(はかな)いものだ。ときに文左衛門三十二。こののち日記のなかにけいの名が出てくることはない。

 こうして文左衛門は、ふたたび生気を甦らせて『鸚鵡籠中記』のなかを闊歩(かっぽ)していくのだが、男というのは面妖(みょう)なものでいままで頭の上におおいかぶさっていたけいがいなくなると、急に茶の間の女、(れん)への興味も失せてしまったのか、その後、連の名もまた日記の中にみることはない。久しぶりで独身生活をたっぷりと味わっている文左衛門を、悪友の神谷段之右衛門や加藤平左衛門などが揶揄(からか)うと、

「なにを仰言(おッせ)る」

 そういうと文左衛門は、顔の前で()をひらひらとふった。

 だが、そんな文左衛門の自由な時間もながくはなかった。もともと女が嫌いなわけではないのだ。おとこ三十二歳、独り寝の寂しさを(こら)えかねたのか、けいと離婚した年の秋、文左衛門は海東郡東条村の百姓娘りよを客分(内妻)として屋敷に入れている。

 やがてりよの道具、長持や簞笥(たんす)葛籠(つづら)などが運ばれてき、内輪で結婚式をすませたのが翌、宝永三年九月二十七日。

 「巳ノ刻、双親来たり、客分を妻と()る。よつて祝儀の強飯、吸物、酒など出す。謡曲これ有り万歳を祝ふ……」

 内縁の妻から正式に迎え入れるまで一年近くかかっているのは、りよが百姓の娘であったからだ。ひとまず藩士の古田勝蔵妻の妹として入籍し、その手続きに時間がかかったのである。

 文左衛門の後妻におさまったりよは、二年後の宝永五年(一七〇八)すめと改名している。

 改名の理由はよくわからないのだが、その前年、女子を死産したことによるのかもしれない。が、改名したもののすめの死産はなおつづく。二度目の死産は改名の翌年、宝永六年六月であった。

 「すめ腹亦すこしづつ痛む。穏(産)秘行(ひぎょう)を尽す。背二重になり出すを、もみ直して産ましむ……女子胎死……胎死子を西趣院へ(つかわ)し埋めしむ」

 この二度の出産に失敗した後ごろから、すめは先妻のけいに輪をかけたような悋気女房になる。

「ああ、こやつもか……」

 思わぬ計算ちがいであった。野育ちの百姓娘なら素朴だと思っていた。が、素朴だとみえたのは粗野であった。その野性を丸だしにしてすめもまた嫉妬に暴れ狂うのである。そんな颱風のような呶声、罵倒、叫喚にくらべれば、武士の家庭で躾られたけいの悋気などは団扇の風であろう。文左衛門は頭をかかえてしまった。

 文左衛門がふたたび乱酔し、深夜の帰宅をつづけるようになるのはこの頃からである。

 ところが、おどろいたことに文左衛門は、そんな最悪の状況の中にあって、稀代の妬妻すめの目を盗んでひそかに女中のえんに情をかけていたのである。大胆といえば大胆だが、そんなつまみ喰いがいつまでも露見しないわけはない。やがて発覚、

「このオジョロまむし(お女郎蝮)め」

と、えんに躍りかかろうとするすめを文左衛門は()めたが、嫉妬で目前が真っ暗になっているすめである。こんどは文左衛門に摑みかかって悪態のかぎりをつくし、あげくの果てに、

 「廿七日、(いぬ)前、すめ悪妬の余り、そよ一人つれ弥四郎へ行き宿す」(正德元6・27)

と家出してしまった。このことを知ったすめの両親は、弥四郎の家に泊りこんでいるすめを口が()くなるほど説得して、ようやく翌日、帰ってくることになるのだが、それからがまた大変である。

 「廿八日、双親度々催促して、昼前すめ来る。いぶり(ののし)り大言止まず……えん、堪へがたく、(ひつじ)半出で去る」

 すめが帰ってきたと思うと、こんどは妾のえんが家を出てしまった。文左衛門はその嵐の中にあって、ただうろうろしているばかりである。さいわい、四日目の午後四時前に妾のえんが帰ってきた。

 「七月朔日、大幸にして、えん(さる)前帰り来る」

 大幸というのは大幸運といった意味なのであろう。だが、えんの帰還をまだ手放しで喜んではいられない。以来、文左衛門・えんの二人はすめの、黒けむりをあげるばかりの嫉妬に黒()げにされつづけていくのである。そのすさまじさが、どれだけ文左衛門をふるえあがらせたか、二ヵ月後の日記に書きとめられたその一行をみれば、説明は不要であろう。

 「八月二十七日、(ひつじ)より雨、終夜降る。すめ悪妬ほとんど通宵()ねず」

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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神坂 次郎

コウサカ ジロウ
こうさか じろう 作家。1927(昭和2)年 和歌山県に生まれる。1982(昭和57)年、日本文藝大賞受賞。2002(平成14)年に南方熊楠賞受賞。

掲載作は『元禄御畳奉行の日記尾張藩士の見た浮世』(中公新書、1984)より初章と三章とを抄出。

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