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山縣有朋

 アメリカあたりでは、新前の新聞記者を「仔牛」というそうだが、私が「仔牛」に生れたその月に政変が起つた。第二次桂内閣が倒れ、第二次西園寺内閣に移ろうとしている時だつた。当時、議会はあつても、議会政治の原則は認められていなかつた。原則がやや認められかかつたのは、時代がずつと下り原内閣の頃だつたが、原はその代償として、東京駅頭で刺し殺されなければならなかつたのである。

 こんなわけで次の内閣に、何人(なんぴと)に大命が降るかは、天皇の思召によるということになつていた。しかし天皇といえども専制君主の如く、意の欲するまま指名するのではなく、その頃生き残つていた山縣有朋、松方正義など、三四の元老の推奏を待つて、大命を降したのであるから、実質的の権力者は天皇ではなく、元老であり、取り分け元老の中でも勢力のあつた山縣有朋であるということができた。内閣を起すも倒すも、彼の胸一つにあつたわけである。彼が何を考え、何を欲するかが判れば、それがそのまま政治の上に事実となつて、現われてくると思つて、誤りはなかつた。ところが彼は神秘の扉を固く鎖し、新聞記者を寄せつけない。従つて新聞記者たちは、暗中に摸索し、霧中に彷徨することを余儀なくされた。

 さて政変が起ると、物馴れた記者たちは、持ち場持ち場から、山縣の側近者から、情報をとりあつめ、心理学者のように、山縣の心理を解剖し、打診すべく、八方に手分けして活動を始めた。生れたての「仔牛」である私は、まだ一人前の働きに堪えないので、私に振り当てられた役目は、山縣の本邸である目白椿山荘の門前に張り番をして、出入りの政客の首実験をし、それを一々本社に報告することであつた。考えようでは重要な仕事だが、はした人足でも間に合いそうなことでもあつた。責任は比較的軽かつたが、肉体的の苦労は重かつた。夜昼をぶつ通し二十四時間、雨の降る中を洋傘一本でしのぎながら、他人の門前に立ち番する苦労は相当なものだつた。当節の政治家なら、私たちのために、玄関わきの一室ぐらいは提供し、熱いお茶の一杯も振舞つてくれたであろう。もつと人間味があれば、お茶代りのアルコール分で、私たちを元気づけてくれたかも知れなかつた。だが山縣に限らず、あの頃の藩閥政治家は、新聞記者を虫ケラ位にしか思つていなかつたから、雨の中で虫ケラが、門前を這つているのを、心に掛けるはずもなかつた。

 夜が更け、私たちも大分へタバッて、心が緩んできた時分、突然玄関口から一台の人力車がとび出してきた。当時はまだ自動車というものはなく、人力車が一般の足になつていた。私たちがソレッとばかり後を追うと、車は門前をすぎたところで停止し、一個の巨漢が車内から出てきて、シャアシャアと排水作業を開始した。とんでもない高官もあつたものだと思いながら、近よつてみると、それが何と私たちの同類の記者だつたので、一同ガッカリしてしまつた。すると私たちの中から、ここで立小便するとは生意気だ、身分を考えろというものがあつた。私たちは元老の身分を考え、山縣老公の立小便する姿を聯想し、大笑いに笑い出した。哄笑が目白台の夜の静寂をふるい動かしたことである。最近壇浦軍記と称する、建礼門院と義経との情事をつづつたワイ本が、市中に売り出されているが、興味の中心は、ワイセツそのものより、私たちの想像だもできない高貴の方が、下賎の行為をすることにかかつているようである。山縣という人もこの時代すでに、立小便と対比して、滑稽感を催すまでに、神聖化してしまつていたのである。

 話は横に外れるが、話ついでに話しておこう。この政変が終ると間もなく、明治天皇がおかくれになり、世は明治から大正に替つた。それから両三年して京都に即位の大典が行われることになる。この儀式で一番大切な行事の一つは、悠紀、主基の御儀で、夜を徹して行われた。この式に参列を許された高位高官の用意のいい人々はズボンの下に、ゴム袋や竹筒ようのものを忍ばせ、自然の要求が起ると、密かに用を弁じたそうであるが、用意の悪い人は、その場で立往生したり、中途から病と称して、退去したりした。祭場の外に、まつ蒼の顔をしてヨタヨタになつて出てきた。それを私たちは彼等の宿まで追いかけて、儀式の進行の模様を知ることができた。この時も私は祭場の外で、張り番をしながら夜を明したのであるが、立小便をするにも身分がいることを、しみじみと思い当つた。山縣公の如きはこの祭式では、皇族に次ぐ第一位の席に列していたことであろう。しかし人並はずれて細心の彼のことだから、立往生して垂れ流すような、醜態を演ずるはずがなかつた。多分彼なども竹筒党の一人だつたのであろう。してみると往年の山縣邸前の小笑劇も、笑いごとではなかつたのである。

 大正八年秋、陸軍の特別大演習が、摂河泉の平野で展開された。第一日の払暁、大正天皇は十数名の幕僚を従え、加古川附近の小高い丘の上で、演習を統監されていた。私たちは従軍記者として、御野立所のつい近くで、観戦を許され、陛下の御様子を手にとるように、拝することができた。と、丘の下から一人の老将軍が馬でやつてきて、馬から飛び降りると、そこに居合せた幕僚は、謹巌そのものの如くシャチコ張つて、挙手の礼をした。陛下も手を挙げられた。老将軍は軽くこれに応えた。偶然の時間のズレで、礼の交換に遅速が起つたのであろう。だが端から見ていると、どうやら陛下が長上を迎える如き形となつた。わが国では天皇以上の長上のあるべきはずはない。ないことが起つたのである。大学生が赤旗を押し立て、天皇の自動車をとりかこみ、戦犯呼ばわりするいまの時代には、問題にするにも当らず、人の気がつくことでもないが、あの頃としては一大事だつた。それなればこそ三十年もたつた今日まで、忘れないでいたのであろう。

 この老将軍こそ山縣だつた。その時私は、ふと秀吉没後の、秀頼と徳川家康との関係を、思い出していた。秀吉が没してその後をうけた秀頼は、名義的に日本の支配者のはずだつたが、実権は家康に移つていた。大名の大半が家康に帰服し、家康を大御所として奉つていた。家康が秀頼に謁する時、どういうお辞儀の仕方をしていたか知らない。肚の中ではこの小セガレめと、さげすんでいたに違いなかつた。私は山縣が家康であるというのではない。家康である関係もあり得るというのである。山縣の知遇をうけた徳富蘇峰は、有朋伝の巻頭に、「伊藤がハルピンにおいて、非命に(たお)るるや、公は元老の筆頭として独特の地歩を占め、その第一人者となつた。何れの政党も何れの政治家も、公を除外して内閣を組織するものなく、否な内閣を組織することができなかつた、何れの内閣も何れの首相も公の勢力を度外視して、殆んど政機の運用を全うすることができなかつた」と叙述していた。これを言葉通りに解するなら、山縣が天皇以上に政治的の実力者であつたというべきであろう。

 家康の後に天下の政権が徳川氏に帰したように、山縣の没後も政治的の実権は天皇に帰らず、軍閥に止まつた。軍閥を政治の外におき、しかも絶えず政治に容喙(ようかい)しつつ、政治からは一指を染めざらしむることが、彼の八十五年の生涯の目的だつた。軍閥が政治を指導し、支配するために、天皇を利用した。天皇を神格化し、絶対化すると共に、天皇をデクノ坊化し、その権益を軍閥の手に収めようとした。これが彼の寝ても覚めても忘れない宿望だつた。この目的を達するため、あらゆる陰険なる策謀をも辞せなかつた。この意味では彼は実に偉大なる人物だつたということができる。以上の事実を認むることなしには、天皇がどうして戦争犯罪の責任から免除されるか、その理由が分らなくなる。戦争は天皇の詔勅により始められた。これ以前に私たち国民の間に、なぜ英米と戦わねばならないかを、論議されたことはなかつた。戦争の可否を論ずる如きは、許されもしなかつたのである。突如として日本軍は、真珠湾を襲い南洋の島々に襲いかかり、然る後出された宣戦の詔勅なのである。忠良なる国民は、何ごとも知らないながら、詔勅なるが故に、命を的にして戦つた。もしも天皇がいうが如く絶対の権力者であり、その権力の発動により、戦いが起されたものなら、天皇こそが戦争犯罪の元兇でなくして何であろう。しかし敗戦の後で判つたことは、天皇が戦争を好まれず、戦争を阻止するにあらゆる努力を尽された。しかも軍閥の勢いがあまりにも強く、その強要により心ならずも、詔書に署名されたというのである。秀頼は無力ながらも家康に対し、天下分け目の戦を戦つて、大坂城に滅びたのであるが、天皇は秀頼ほどの力もなく、軍閥の要求に唯々として屈従せざるを得なかつたのだ。

 軍閥の巨魁東條が、戦犯者として絞首台に上つたのは当然である。本来東條などという男は、つまらない人物で、ヤミ米の担ぎ屋の仲間に入れても、格別光つて見えそうもないしろものであるに拘わらず、独裁的に天下を率いるようになつたのは、軍閥の勢力を背景にしたればこそであつて、軍閥をかくあらしめたものは、実に山縣有朋に負うところ大であつた。彼は敗戦を見ずに、胸にも腹にも並べどころのないまでに、多くの勲章と、栄誉を身につけてあの世に去り、国葬の礼をもつて葬られたのであるが、ことの本末を考え、敗戦のよつて来る真因を究めるなら、戦犯の元兇は、山縣にありと断定せざるを得なくなるであろう。

 廣田弘毅が戦争裁判において、死刑の宣告をうけたのを、世はあげて奇なりとした。彼が極刑を免れなかつたのは、内閣条令を旧に復し、陸海軍大臣の任命を、現役大中将に限ることに改めたことによるのだそうである。これにより陸海軍の同意のない内閣は、すなわち戦争を好まない内閣は出現する見込みがなくなつた。これが急激に日本を太平洋戦争に追いこんだ直接の原因となつたというのである。廣田はこの責任を問われたものだといわれる。軍の統帥権を政府から切りはなし、天皇の直属とし、しかも天皇を無力化し、軍統帥の実権を軍閥の手に収めると共に、軍部大臣を現役大中将に限定し、軍の同意なくしては、組閣を不可能にしたものは、山縣だつた。直接彼が関係しないでも、そうあらしめたものは軍の大御所山縣であることに疑いはなかつた。蘇峰が、山縣の勢力を度外視して、いかなる内閣も政機の運営不可能といつた所以はここにあつた。原内閣以後の政党内閣はこの不合理を修正すべく、全力をつくして戦つた。原敬日記を読めば、いかに原が山縣に敵意をもち、蛇蝎(だかつ)の如く嫌悪していたかを知ることができる。政党の努力にも拘らず、為し得たところのものは、精々現役大中将の範囲を、予備役にまで拡げ得たにすぎなかつた。英米の内閣が、軍部大臣に市民を任用することと比較するなら、軍閥の横暴、思い半ばにすぐるものがあつた。もし山縣にして戦後までも生あらしめば、国際軍事裁判は、彼を国葬をもつて遇する代り、恐らくは絞首の葬をもつて礼遇したに違いなかつた。

 山縣が軍権を掌中にし、政治を壟断(ろうだん)する手口は、元老たりし日から始まつたのではなく、由来するところ久しいものだつた。元治元年(1864)の夏、英、米、仏、蘭四ケ国八隻の軍艦が、関門海峡に出現した。これより先長州藩は、尊王攘夷の実践として、海峡通過の外国商船に、しばしば砲撃を加えた。その報復として、長藩の責任を糺し、かつ海峡を強行突破するのが目的だつたのである。警報に接するや挙藩震駭(しんがい)して、防備に就いた。時に山縣は奇兵隊の軍監として軍に従つた。軍監とは隊長に次ぐ、いまいう参謀長のような格式だつた。この時の戦いは散々の敗北だつた。砲の射程が短く、砲弾が敵艦に届かないのに、敵弾は正確に味方の塁に命中した。それでも滅茶苦茶に撃ちまくつているうち、旧式なやくざな大砲だつたので、一日の交戦で、砲は自ら炸裂し、あるいは破壊して、物の役に立たなくなつた。やがて敵の上陸が始まつた。これとても新式銃と火縄の種ケ島との撃ち合いでは、勝負にならなかつた。彼が親しく口述したという「含雪山縣公遺稿」には、彼の率ゆる一隊は最後まで踏みとどまつたと書いてあるが、けだし彼の負け惜しみであろう。藩兵は守りを捨てて後退し、長府に集結して後図を策するうち、講和の議が起り、戦いは中止となつた。

 この一戦の教訓は、彼等の攘夷論が、自らの実力を知らざる無謀の企てであつたということである。彼等の間にもこの教訓を受けるまでもなく、すでにこれを知つていたものもあろう。知つていながら敢てこれを幕府に強要したのは、難きを強いることにより、幕府を倒壊しようと策したのであろう。また他のものは攘夷が天下の大勢となるに及び、攘夷の不可能を説くは、俗論と非難され、国賊と罵られることを恐れ、知つていながら、知らざる如く、攘夷に雷同したものもあるだろう。山縣はその何れであるかを知らない。ただ彼が、一筋に尊王派であり、攘夷党であることにより、正義なる志士であるということだけだつた。だから彼は聯合艦隊により、骨身にこたえる実物教訓をうけながら、教訓を受け容れるのは節を屈することであり、更に彼等の功名の野望を捨てることだと考えたのであろう。シナ事変から太平洋戦に至る世相は、維新の当時を回想すると、実にその引き写しである感が多い。

 この敗戦のすこし前に、京都に一騒ぎが起つた。薩州が会津と手を握り、尊皇攘夷を公武合体に塗り変えた。朝議も変り、長州の禁裡守護が解かれた。これに憤激した長州勢が禁裡に押し寄せ、世にいう蛤門前の乱闘となつた。ここでも長州方は大惨敗で、久坂玄瑞、入江九一等が自刃して相果てた。長州藩にとり、最悪の厄年だつた。内憂外患、腹背より迫る、大難関に逢着してしまつた。この機会に俗論派――正しくは穏便派、漸進派がようやく勢を盛り返し、藩主を擁して、支配的の立場に立つようになつた。藩主は萩城に引き寵り、恭順の意を表し、予て庇護していた三條以下の公卿を、九州に移そうとした。

 時に奇兵隊は山口附近の徳山に駐屯し、あくまで尊王攘夷の素志を果そうとして、百方画策するところがあつたが、大勢は彼等に利あらず、穏健振は日に勢いを増すのみだつた。ある日同志の福田侠平が山口からやつてきて、山縣に面接し、正義派の形勢非で、挽回の望みがなくなつた。それで山口の諸隊は合議の結果、公卿を奉じて奥阿武郡須佐に退き、山険に拠り、時機を察して事をあぐるに決した。三條以下の公卿もまたこれに同意したと報告した。

 山縣はこれをきき、この策を甚だ拙なりとし、別に一策を福田に告げた。山縣の考えそうな非常に緻密で、複雑で、陰険で執拗なものであるが、手短かにいうなら、軍隊はあくまで軍隊として存置し、武力を背に負いながら、一面温順に、一面恫喝的に、藩主の翻意を強要しつつ、武力によりて藩政を彼等の手中に収めるというのである。この謀は正確な時計のように誤りなく実行に移された。俗論派は武力の恐るべきを知つていたから、なるべくことを平和的に収拾しようとして、解隊を条件にしばしば妥協を図つたのであるが、遂に軍隊の一撃によつて潰え去り、藩の支配権は完全に軍隊派に握られるようになつた。ここにおいて天皇の如く無力なる藩主毛利は、天皇の如く心ならずも、討幕の宣戦を布告せざるを得なくなつたのである。武力を負い、政治を操ることは、山縣のお家藝で、明治維新に始まり、大正の死に至るまで一貫していたのだつた。

 奇兵隊その他長州の軍隊が、藩主の命に従わず、よく結束を固めることができたのは、軍の構成の性格によるものだつた。従来戦争は武士の職業であり、平常無事の日においても、高禄を給せられ、庶民より一段高い階級におかれた。階級が固定してくると、階級を維持するため、戦争をすることすらが武士の特権でなければならなくなつた。庶民階級が糧食運搬などの補助的の役割に利用される外、主役として戦争に参加することは許されないことになつた。当時の庶民観によると、庶民とは戦争のような高尚な仕事に堪えない動物なりというのが通念だつたようだ。これはある意味で労働組合のクローズド・ショップと似たところがある。 不熟練工の無制限の採用により、労銀の低下を防ぐため、また組合の結束を固くするため、組合員ならざるものを、工場外に排斥したように、武士は一般庶民を不熟練工として、戦争工場からクローズド・アウトしたのである。しかしながら武器の変革は、戦争の形体を変革した。いまや戦争は少数の武士階級による屋内工業から、大産業組織に移行する課程にあつた。この要求に応じて出現したものが、高杉晋作等の主唱による奇兵隊その他の諸部隊だつた。

 これ等部隊においては、隊員たること、すなわち戦争屋となることは、武士階級に限らず、百姓町人も無差別に迎え入れた。百姓町人が戦争屋たることは、武士階級と同等たり得ることだつた。この故に百姓町人の、階級的に不満あるもの、立身出世に野心あるもの、天下に志あるものは、争つて隊員たろうとした。隊の創設者でその幹部である高杉、山縣等すらも、百姓町人と呼ばれないのみで、正確には武士階級には入らなかつた。足軽よりはさらに一階級下の、仲間(ちゆうげん)組というに所属していた。「雨の降る夜も風の日も、お供はつらいネ」と唄の文句にある「奴さん」に、三本ほど毛の多い身分でしかなかつたのである。維新の功臣と称せられるものの多くが、足軽、仲間の軽卒の間から出てきていることは注目に値する。

 尽忠報国の凝り固まりのように、自らも誇り、伝へられもしているが、彼等の階級的反発意識が、活動の原動力となつていたことは争われない。彼等は階級的に誇るべき何物も持つていない。それ故に天皇を担ぎ出し、天皇をダシにして上層階級と対抗しようとしたのであろう。忠君というような道徳談義では、運動にはならない。人間の欲望と結びついて、機関車は動き出すのである。奇兵隊その他が、藩主のいかなる説得にもかかわらず、解隊を(がえ)んぜず、尊王一筋に邁進した所以なのであろう。

 山縣の家は系図書きによると、清和天皇に発し、物語でお馴染みの、六孫王経基や、源頼光等を先祖とし、世が降るにつれ身分も降り、徳川の末期には、仲間組という、武士の仲間にも入らない最低の家格に、落ちついたことになる。彼の生地は萩を流るる阿武川の岸にあり、生誕地と刻した石碑が建つのみだが、次で移転した五反田横町、三転した川嶋小橋筋の居宅は、いまなお保存されている。最後のものは、父の雅号に因み汲月草堂と命名された。建坪僅かに四坪余り、ここに一族が目白が押し合うようにして、寝起きしていたのである。貧寒のほどが察せられた。彼がこの時代に立小便をしても、身分違いを咎めだてされることはなかつたであろう。

 仲間組は庶民と区別するため、帯刀を許されていた。しかし士分とは、甚しい差別待遇があつた。山縣が特に許されて藩政有倫舘(注)に学んでいた時、校門の前で有地品之允と行き会つた。有地は士分の有資格者である。慣例によると、士分以下のものは、履物をぬぎ、土足のままで敬礼しなければならなかつた。彼もこの慣例に従い、下駄をぬぎ挨拶しようとした際、誤つて泥を飛ばし、有地の袴のすそを汚した。有地は憤り、刀を抜き無礼打ちにしようとした。彼は百方陳謝してようやくことなきを得た。これにより彼は大いに発奮し、他日の成功を堅く決意したという話が伝つている。山縣の伝記者は、彼の如き低い身分のものが、藩校に入学することは、有り得ないとし、事実を疑つているが、事実の有無にかかわらず、彼の生活そのものが、階級的反撥心を刺戟しないでは措かないのに違いなかつた。

 ことさら彼は同輩の高杉晋作や伊藤俊輔(後の博文)のように、性格が開放的でなく、陰に籠つたタチだから、彼の場合には反撥というより、むしろ怨恨(えんこん)というに近いものがあつたかとも想像された。高杉伊藤等は、等しく小物の出で、反撥者ではあるが、根がカラッとした淡泊なところがあるので、時と場合では相当融通のきく行動をした。時と場合では階級闘争の裏切り者と疑われそうな、あぶない線を出入することもあつた。聯合艦隊との一戦で大敗を喫し、これはイカんと思えば、高杉伊藤等は自ら講和の役目を買つて出るくらいの、幅の広い態度もとり得た。山縣にはそれができなかつた。眼前の敗北は、実物教育である。しかしながら一刻たりといえど、攘夷を捨てることは、怨恨を捨てることである。怨恨は理屈や道理に、従うべきものではなかつた。一筋に怨み晴らさでおくべきやと、思いつめることである。もとより私は山縣が怨恨を意識していたというのではない。多分怨恨は無意識に全身にしみこんでいたと想像しているまでである。これが彼を尊皇攘夷の一辺倒にした。尊王攘夷の美名を得て、怨恨がナパルム爆弾の如く、燃え上がつたのであろう。

 多分鎮守の祭礼か何かの時であろう、姉の壽子が、大道の易者に人相を占わせ、その序でに、背中に背負つていた辰之助(彼の幼名。後小助と改め、狂助と改め、有朋と改めた)の人相をみてもらつた。大道先生は天眼鏡をとり、ためつすかしつしていたが、暫くして、この子に異相がある。後年大になり上るだろうといつた。壽子はこれを聞き、恐しくなり、後をみずして逃げ帰つたそうである。私がこの話に興味を覚えたのは、易者がうまくいい当てたことではなかつた。

 易者が成功をいい当てる話は、古今東西いくらもあることで、後年の伝記者の附けたりでなければ、偶然にすぎないだろうからである。易者の商売繁昌する秘訣は、顧客の将来をお芽出たずくめに占うことだそうだ。この大道先生も商売の秘訣を応用したものとすれば、いい当てを驚くにも当らないだろう。私の面白く思つたのは、山縣が赤ん坊の時から、愛矯のない子で、赤ん坊のくせに大人のような顔つきをしていたという点である。腹の中から持つて生れた怨恨の相である。易者が異相ありといつたのは、これを指したものであろう。易者にイタヅラッ気があれば、石川五右衛門になるとも、太閤秀吉になるとも、何とでもいいたいところだつた。

 こういう人相は恐しい顔である。人殺しでもしかねない相である。殺されたら化けて出る相である。幸い人相見がいい当てたからいいようなものの、不幸にして彼が逆境に死ぬようことがあれば、柳の下に人魂になつて現われたかも知れなかつた。私は新聞記者をして、多くの人の顔をみてきたが、あんな薄気味の悪い顔をみたことがない。冷々として無表情で、偶々笑えば、死人の笑いとなつた。この顔はどうみても冷酷な、エゴイストの持ち物である。

 彼が同志と共に、京都にありし日、西陣の友禅一反を購い、好便にまかせ国許の祖母に送つた。母は五歳の折すでに亡く、以来祖母の手に養われた彼であつた。膝を容れる余地もない四坪の貧家に、友禅ちりめんが届いたのは、空から天女の羽衣が降つてきたようだつたであろう。それより幾何(いくばく)もなく彼が奇兵隊を率い馬関に出陣中、祖母の訃を伝えてきた。報によると祖母は、孫の贈り物のちりめんにて、新衣を裁し、これを着用して、傍を流れる橋本川の淵に投身自殺を遂げたというのである。

 自殺の原因はわからない。彼の藩庁に差出した届書きには、水に溺れとあるのみで自殺とは書いてないが、彼が他人に語るところでは、祖母の愛に引かれ、尊攘の鉄石心のくじけるだろうことを恐れ、死をもつて激励し、後顧の憂いなからしめたものだといつていた。これが真実だとすれば、随分お芝居がかつた話というべきである。山縣家の系図によると、彼の父と母とは、祖母とは血肉的の関係がなかつた。子なきにより彼の両親がいわゆる夫婦養子として入籍、山縣家を襲つたもので、従つて彼と祖母とも、血のつながりはなかつた。こういう関係にある一家において、老婆たるものの立場がどんなものかを考えれば、自殺の原因を解明する手がかりになるかも知れない。

 これまでは山縣が偉く出世して、土地の自慢になつているので、彼の人格を傷つけるような想像を、土地の人はしたがらず、なるべく彼に箔をつけようとしていたため、真相が蔽われているのであろう。しかし私の想像する如く、彼が相当冷酷な性格者であることを、前提にして推理を進めるなら、割合いに簡単に、事件の真相が明かになりはしないか。貧しい家に一人ぼつちに、置き去りにされたたよりない老婆なら、それだけで随分、自殺するつもりにもなり兼ねないであろう。孫の贈つた新衣を着て死んだというのも、喜びのあまりとも取れ、悪意にも取れる。アテツケということも、女にはよくあることである。ともかくこの祖母の身投げ事件は、もつと掘り下げ、史実を明かにする必要がある。これによりオベッカを山と積んだ山縣伝ではなく、丸裸にした人間山縣を知る手がかりになるかと思われる。

 京都で近藤勇を隊長とする新選組の手で暗殺された杉山松助は、山縣の隣家に住居した、やはり仲間組の子に育つた。隣り同志で竹馬の間柄だつた。山縣より一年の長で、夙に吉田松陰の松下村塾に入り、学問において数年を長じていた。しばしば彼に学問を勧めたが、肯じなかつた。彼が考えたことには、学問の才能において、いかに努力するも、到底杉山の(たぐい)ではない。後れて学に志し、杉山の後塵を拝するより、別に武道をもつて身を立て、杉山に対抗するに如かずというのである。

 尽忠報国に専念するという彼が、同士にして竹馬の親友をすら一敵国とみる、尻の穴の狭い彼なのであつた。何という素直さの欠けた、ヒネクレ男であつたことか。私は大人のような顔をして、可愛気がさつぱりない赤ん坊の山縣を、改めて思い出したことである。そしてまた改めて祖母と彼との関係を思い出してみた。彼は国学を学んだ父の感化で、和歌をよく詠んだ。生涯を通じて数千首にも達したであろう。その中に、亡母をしのび、亡父を悲しみ、故友を懐う歌の多くをみるのであるが、奇妙に祖母の死に関しては彼の感懐を述べたものが見当らない。もし祖母の死が、彼を愛するあまりであるとするなら、歌詠みの彼が何等の反応を示さなかつたとは、考えられないことである。これは彼と祖母との冷たい関係を解き明す、鍵となるものではあるまいか。

 私の山縣観は、苛酷にすぎるとの非難を、免れないかも知れない。だが苛酷にまで従来の山縣観を訂正しておかないと、明治この方の日本の、歴史が判らないものになるだろう。私の見るところでは、彼は偉大なる権勢欲の固まりだつた。しかも彼は周到なる注意をもつて、表面に欲望を露出するような下手な真似をしなかつた。しかしいやしくも彼の権勢欲の障害となるものがあれば、これを除去するに手段を選ばなかつた。日本の議会政治が、腐敗の極限に達し、ついに国を滅ぼすに至つた根元が、彼にありと断じて過言ではなかつた。私はこれを事実に基いて叙述し、ことの本末を明かにしなければならない。

 維新以来、藩閥政府の終始一貫して変わらない目標は、天皇専制政治の顕現だつた。ただ世界の趨勢が、専制政治を許さないものがあつたため、漸次地方自治制度を布き、国会を開設するなど民論の緩和に努めないではなかつたが、天皇専制の根本の骨組みを、動かそうとするものではなかつた。だから明治以来の日本史は、帝国主義発展史であると共に、民論の弾圧史であるということができた。伊藤博文の如きは、後年、鬱勃(うつぼつ)たる民論の抗すべからず、専制政治の維持すべからざるを悟り、自ら政友会を創立し、また軍人から政治家に転向した桂太郎も、憲政擁護運動の教訓に鑑み、立憲同志会を組織し、それぞれ党総裁として、政党政治の発展を志すまでになつたのであるが、山縣に至つては、死に至るまで、専制政治に対する信念を、易えようとはしなかつた。

 私たちは封建時代から、人権、自由の圧迫に、馴れつこになつていたので、少々のことではあまり感じないほど、無神経なのであるが、それでも私たちを慄え上らせた暴圧が、少くとも三度数えられる。その一は明治二十年の保安条例、その二は明治二十四年の総選挙大干渉、その三は昭和のシナ事変中発布された治安維持法のそれだつた。この内二つは山縣が主動力として、直接または間接に関係し、第三のものは前二者の精神を継承したものであるから、春秋の筆法をもつてすれば、死せる山縣治維法を制定すというも、可なりであろう。

 明治十九年から二十年にわたり、条約改正問題を契機として、反政府の民論大いに起り、建白、陳情相次ぎ、処士横議して、風雲ただならざるものがあつた。二十年の年も押し迫つた十二月二十六日、二府十八県の有志総代が会合して、内閣総理に建白書を呈し、議が容れられないなら容れられるまで、その場を動かないという決議をした。今日の坐りこみ戦術である。先ず星亨、大石正巳を先発とし、片岡健吉をもつて殿(しんが)りとする計画だつた。しかるに政府はこれに先手を打ち、突如保安条例を発布し、民党の有志を一網打尽的に、都門三里外に放逐し去つたのであつた。この条例によると、内乱を陰謀し、または治安を妨害すると認めたるものは、首都の三里外に放逐し、命に従わないものは、一年以上三年の禁錮に処すというのだから、治安妨害の事実の有無に拘らず、政府に認定されたが最後、放逐されることを免れなかつた。片岡健吉等十数名は、事実の有無を反問したのみで、即座に三年の禁錮に処せられた。これほどの暴政は、わが国に嘗てなく、世界にもその類は稀だつた。

 この暴政をなしたものは、内務大臣山縣有朋だつた。警視総監三嶋通庸は、福島事件で暴吏の名を走せた官吏だつたが、山縣より条例起案の命をうけ、さすがに躊躇の色を示すと、山縣は声を励まし、汝が無力で為すことができないなら、我れ親らこれに当たるべしと、叱りつけたそうである。

 第二の選挙干渉事件は、松方内閣によつて行われた。しかし松方内閣、山縣内閣の延長とみるべきもので、山縣はこの内閣をして、政党を腰の立たないほど、叩きつけようと目論んでいた。それなら自らの内閣で、自らの責任において、この戦いをやるならば、まだしも男らしいところもあるが、理由もないのに一年そこそこで、内閣を投げ出し、松方をしてこの嫌な仕事をやらせようというのである。その心事の卑怯さ、狡猾さにおいて、最も彼の本領を発揮したるものというべきだ。松方内閣の使命は、政党打破だつた。この聖戦の正選手として選ばれたものは、品川彌二郎だつた。

 品川も初め、この兇悪なる戦いの選手たることを好まず、極力入閣を拒否し、難を那須野の念仏庵に避けた。彼に句あり、きのふ都今宵那須野のほととぎす。もう二度と都へ出ない心意気を現わしたものだつた。しかるに元勲山縣ともあろうものが、林野局長でしかない品川をわざわざ那須野にまで追いかけ、口説きたつること徹宵、ついに品川を落城させて入閣を応諾させたのである。品川が内相の椅子につくと、京童は彼に綽名(あだな)して杜鵑大臣と呼んだ。

 かくして松方内閣は成り、一挙にして政党を覆滅する覚悟をもつて、第二期議会に臨み、忽ち予算案を挟み、野党と衝突起るや、予ての画策に基き政府は遅疑なく、議会解散を断行した。解散の報に接するや山縣は快哉を叫びながら、次の要領の書簡を松方に送つた。解散の報を忝うし、国家のため大慶の至りに存ずる。かくの如き切迫した情勢を到したものは、政党首領どもの陰謀によるのである。この上は党派の議員どもを手痛い目に会わせ、悔悟させるより外に手段がない。春以来内々打ち合せた通り、政府において続けざまに二回の解散をやる覚悟がないと、政党討伐の目的を達すること覚束なしと察する。十二月二十六日早天、於大磯、芽城山人朋、とあつた。芽城とは目白のモジリである。以て彼が選挙干渉犯人の、張本人たることが知られよう。

 この年の選挙干渉は、いま以て党人の語り草にされ、永久に忘れられない、物凄いものであつた。政府は御用候補者に、選挙費用を給し、公然買収を行わしめるとともに、警官をして野党候補者を巌重に監視せしめ、違反がなくとも違反あるものとして、片つ端から引つくくつた。この激闘により、全国到るところの選挙場に乱闘が起り、死者二十五、負傷者三百八十八を算うるに至つた。凄惨の状想うべきである。第一期の選挙は、買収もなく、干渉もなく、公明盛大に行われた。然るにこのことあつて以来、日本の選挙には買収と干渉とが、附き物となつてしまつた。今に至り弊風は止まないのである。この(いたみ)を為したものは山縣だ。党人が彼を目して憲政の賊という、故なしとしないのである。

 彼はただに選挙を腐敗せしめた元兇であるのみでなく、政党政治家と不明朗なる政治取引を始めた元兇でもあつた。欽定憲法により召集された議会は、明治二十三年開会されたのであるが、不幸にして時の内閣は、議会主義の原則を頭から認めまいとする第一次山縣内閣だつた。山縣によると政治の大権は天皇にあり、議会はただ諮問機関たるにすぎず、内閣は政党の外に超然たるべしというにあつたらしい。この故に彼は、政党の実力を無視することができないのを悟るようになつても、なお二大政党対立を排し、三党鼎立もつて日本の国情に適するものと思意していた。三個の政党を操縦することにより、政党を根拠としない超然内閣の存在を可能ならしむると信じていたからであろう。

 第一期議会の政党分野は、野党が自由党百三十、改進党四十一計百七十一。これに対し政府に与するもの大成会七十九を主軸とし無所属その他を併せて百二十九で、これでは政府に到底勝ち味がなかつた。議会政治の正道からすれば、解散か、政府総辞職か、二つに一つしかないのに、彼の取つた策はその何れでもなかつた。予算の八百八十万円の削減をめぐり、ゴタゴタを繰り返しているうち、何時となく、何という理由もなく、野党の一角が崩れ出し、ずるずると政府との妥協案が通過してしまつた。これは山縣と板垣のヤミ取引の結果だといわれる。取引条件の何であるか、その価格幾何であるか、遂に明かにされない。しかし値段の非常に高価であつたことは、後に山縣が松方をしてヤミ取引によらず、政党討伐を決行せしめたことにより想像されるのである。

 以上の事実から私は山縣をもつて、権勢欲の固まりだと結論した。だが山縣のために弁ずるものは、政治的見解の相違であるというかも知れない。「公爵山縣有朋」の著者は、保安条例につき、公の反対者はこれを以て、武断政治を濫用した暴令だと、口を極めて難じているが、政府の立場よりすれば、不測の危機を未然に防いだ、非常時に処する英断だつたと礼讃しており、また他のものは、彼の国会における施政演説を引例し、選挙干渉の()むを得なかつたことを、弁護していた。彼の演説によると、およそ国の独立は、主権線を守り、利益線を保つことにより確立する。そのため国民たるものは、寸を惜しみ尺を累ね、そのすべてを陸海軍の増強に宛てなければならないというのである。政党の輩が愚民に迎合するため減税を主張し、国防費を削減せんとするのは、国の独立を否定するものだ。かくの如き国賊的政党を、討伐するに手段を選ぶべきでないというのである。私はすでにすぎ去つた問題につき、是非の論を蒸し返す勇気がない。ただ国防の是非を論ずること自体が、国賊的であるという考え方が、後に軍部を止め度がないまでに増長させ、この増上慢が止め度のない戦争に突入させ、国を滅ぼす禍因となつたことだけ、いつておけば足りるであろう。

 とにかくこれが私と山縣との、見解の相違だというなら、見解の相違といい切れない、動きのとれない今一つの事実を、提示してみよう。山縣が卒去する一年前の大正十年三月十一日、彼は一篇の封事を上り、一切の公職と栄爵とを拝辞せんことを願い出た。時の新聞は某重大事件というのみで、内容について報道することを避けた。

 事件は皇太子妃冊立に関していた。久邇宮第一女良子が、皇太子裕仁妃たるに内定するや、山縣から異議が出た。久邇宮家には色盲の遺伝がある。これを神聖なる皇室に導入するのは、国家の不祥であるというのである。これは皇室を思う純一なる至誠から出たというが、世間に噂が漏れると、世間はそうは思わなかつた。

 久邇宮妃は島津家の出だつた。色盲は島津に伝わるものであつた。だから良子の入内は、色盲を皇室に持ちこむのみならず、薩摩の勢力を宮中に持ちこむものと理解された。たとえ山縣の異議が純一の心から出たものとしても、薩摩と長州の政権争奪、勢力消長の歴史を知るものは、山縣のいうことを額面通り受けとるつもりにはなれなかつた。彼は長州の権勢を維持しようとして、宮中の婚儀にいわれのないケチをつけ、薩州勢力を阻止しようとしたものだと解した。長州勢力を維持するとは、彼自らの権勢を維持する所以に外ならなかつたのである。新聞は某重大事件というのみだが、内容は口から耳へ、全国に伝えられ、公然の論評が許されない故に、無言の非難が一斉に彼の上に、注ぎかけられたことである。

 これは彼にとり思いもよらぬ非難だつたかも知れない。だが彼の無私公正に対する民衆の信用感があつたならば、こうまできびしい非難が彼に向けられるはずはなかつた。いかなる勲位爵禄をもつて、彼の全身を飾り立てても、これまで彼がしてきた政治的罪悪の数々を思い起すなら、彼の無私性を信用する気にならないのが当り前だつた。私は新聞記者として、いくつかの国葬というものを見てきた。国葬となる元勲と称せられる人々は、本来的に民衆の友ではなかつた。それでも私は山縣の国葬ほど、寂莫たるものを見たことがなかつた。葬場は日本の国の内にある。だが民衆の国境から遠くかけ離れた、離れ島にあるような感じがした。山縣という人間は、民衆からこんなにも縁のない、むしろ憎しみの的となつていたのである。

 こうした民心の帰趨を察せず、一大事を自ら口外したのは、小憎らしいほど狡猾で、用心深い彼にしては、一世一代の不覚だつた。本来の山縣流の戦法なら、他人をしていわしめ、他人を憎まれものにして、自らは知らぬ顔をするのだつたのに。

 高橋箒庵というは、とんでもないゲスな太鼓持ちで、日本の茶道を堕落させた茶坊主だが、山縣のお気に入りで、絶えず山縣邸に出入りしてお太鼓を持つていた。この男が私に山縣がいかに物事に用心深いかを語つたことがある。小田原古稀庵の造庭に、箱根山中から大石を持ちこみ、これをどこに据えるかが問題になつた。一たん石を坐らせてから、再び据え直すには、非常な労力がかかつた。だから一度でピタリその処を得さしめなければならなかつた。画家が墨をたつぷり含ませて、画箋紙に筆を下ろす直前の心持ちだつた。すると山縣は表具師に命じ、大石と同形の張りボテを作らせ、これを庭の各所に置いてみて、石の坐り場所を決定したというのである。また彼の副官の語るところによれば、彼が医師のすすめで、晩酌に日本酒を廃し、葡萄酒コップ二杯と決めると、コップに指で目印をつけ、それ以上を注がせなかつた。山縣はこういう用心深い人間だつた。それなればこそ彼の維新以来の僚友が、牢獄につながれ、戦いに討死し、病に倒れ、権勢から失脚し、次々に姿を消して行つたのに、彼のみは一度として失敗もなく、八十五年を鰻上りに上りつめることができたのであろう。某重大事件はゴール直前の顛倒(てんとう)だつた。彼も焼きが廻つたと感ずいたのであろう、それ以来俄かに元気がなくなり、翌十一年ついにあの世に旅立つことになつた。彼の生涯を顧みて、誠に淋しい一生だつた。こんな淋しい生涯を、八十五年も堪え忍んだのは、ただこれ彼の権勢欲のさせたことだつた。死んでから彼は、三途の川のほとりの捨て石に腰をおろし、手足を存分に、大きな伸びをして、やれやれと始めて重荷をおろした、ゆつたりした心持になつたことであろう。

 

(注) 萩藩藩校には明倫館、南苑医学所(後に好生館と改称)、博習堂などがあった。「藩政有倫館」は「藩校明倫館」の間違いと思われる。また本文中、(高杉は)「正確には武士階級に入らなかった」とあるが、高杉家は百五十石取りの藩士であった。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/08/23

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阿部 眞之助

アベ シンノスケ
あべ しんのすけ ジャーナリスト・評論家 1884・3・29~1964・7・7 埼玉県に生まれる。菊池寛賞、新聞文化賞を受賞。東京帝大卒業後、満州日日新聞を経て東京日日新聞(現毎日新聞)に入社。一時大阪毎日新聞に転じたが1929(昭和4)年東京日日新聞社に復帰、要職を歴任した。戦後評論家として活躍し、人物、政治、社会評論とその活動の幅はひろく、生涯自由主義的な論調を展開した。1960(昭和35)年NHK会長に就任。『阿部眞之助撰集』全一巻がある。

掲載作は、阿部の人物を見抜く、確かな目を通して描かれた人物評、1953(昭和28)年『近代政治家評伝』(文藝春秋新社)中より、軍閥の元兇と断罪する「山縣有朋」を採録。

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