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ドミノのお告げ

 或る日――

 足音をしのばせて私は玄関から自分の居間にはいり、いそいで洋服をきかえると父の寝ている部屋の(ふすま)をあけました。うすぐらいスタンドのあかりを枕許によせつけて、父はそこで(あえ)いでおります。持病の喘息が、今日のような、じめじめした日には必ずおこるのです。秋になったというのに今年はからりと晴れた日はまだ一日もなく、陰気なうすら寒い、そんな肌に何かねばりつくような日がつづいていました。

「ただいま帰りました。おそくなりまして。いかがでございますか……」

 父は黙って私の顔をみつめております。私は父のその目つきを幾度もうけて馴れておりますものの、やはりそのたびに恐れ入る、という気持になって、丁寧に頭をさげます。そして、ぎごちなく後ずさりをして部屋を出ました。

 つめたい御飯がお(ひつ)の片側にほんのひとかたまり。それに大根の煮たのが、もう赤茶けてしるけもなくお皿にのっております。土びんには、これもまたつめたい川柳のお茶がのこりすくなくはいっております。私はいそいでお茶漬けにして食事を済ませました。胃のなかに、かなしいほどつめたいものが大いそぎでおちて行った、という感じがします。その時、母が父の部屋にはいったらしく、二人の会話がきこえて来ました。私のことなのです。

「雪子は今ごはんのようですね。九時になるというのに」

「何ですかねえ。夕方から出ちまって、家のことったら何一つしようとしないで」

「あなたがさせないからいけないのです」

「申し訳ございません」

 母は父の背中をさすっているらしく、時折苦しそうな父の声と、母のものうさそうな声にまじって、つむぎの丹前のすれ合う音がします。私には両親の話す言葉が、自分のことだとさえも感じられないくらいなのです。それよりも私は、今日父に五十グラムの輸血をしてあげて、代償にもらった五百円のそのお金で買って来た李朝の皿のことで一杯でした。薬も注射も三時間しか効果がつづかず、それも度々(たびたび)やるためにだんだん効力が失われて来て、輸血でもするほかによい方法はないという一人の医師の言葉に従って、私の血を父の血管に入れました。父は母に財布を取りに行かせ、黙って百円紙幣を五枚、私の前に並べたのです。私も一言も云わないでそれをもらうと家を出たのでした。夕方のうすら寒い街を歩きました。そして、ほしかったその皿を買い、残りでコーヒをのみ、高級煙草も吸いました。

 (よご)れた食器をがちゃがちゃ手荒く洗って、ぞんざいに戸棚の中へかさねて置くと、自分の部屋へ戻って新聞紙のつつみをほどきました。陶器のそのとろっとした肌を頬につけてしばらくそれを愛撫しました。

「また、姉様の隠居趣味。食うに困ってるのに。そんなもの買うくらいなら牛肉でも買ってくりゃいいんだ」

 はいって来た弟の信二郎は、いきなり皿を爪ではじきました。

「いけない。こわれるじゃないの」

 私はそれを本棚の上に置きました。自分の「血」が「皿」になったことが、私には滑稽と思われて来ました。皿の包みを大事に抱きながら一人で夜の街を歩いたことが(たの)しいことに思い出されます。隠居趣味? 信二郎の云った言葉を思い浮かべました。云うのは非難なのでしょうか。嘲弄の気持からでしょうか。私には羨望だろうと思われました。自分の逃げ場所をこんなところに求めるところは、父と私のたった一つの共通した点でありました。戦争のはじまるもっと前、父は私を連れて、京都の古物屋へよく行きました。そして、壷や鉄びんなどを買って来て、二階の父の部屋に並べました。日本に二つしかないという、鶏冠壷は、それ等のなかで、一番大事にしておりましたけれど、戦火の下に、やはり他のものと一緒になくなっておりました。しばらくの間、失った子供をなつかしむように、私は数々の品を一つずつ目の前にうかべて回想にふけっておりました。

 急にジャズがやかましく鳴り出しました。とすぐ、ぷっつりきれて静寂にかえりました。

「そら、しかられた。馬鹿ね、信二郎さん」

 いつの間にか、隣の部屋へ出て行った信二郎を、私は軽くたしなめました。父が苦しそうに、それでもかなりの大きい声を出して怒っております。

「ふん。ジャズもわからないのか。全く、家にいるのはゆううつさ。面白くもねえ、姉様だってアプレのくせに……」

「こんな老嬢でもやはりアプレのうちなのね」

「来年から年一つ若くなるんだよ。だけど、麻雀やカードは話せるなあ」

 私は賭事、勝負事は三度の御飯より好きなのです。私は夢中になって勝とうと致します。その間は、他のことをすっかり忘れております。

「姉様、僕アルバイトやろうと思うんだけども」

 その時、又私の部屋にはいって来た信二郎は、小さな声でそう云いました。

「何の?」

「ジャズバンドさ。スチィールギター」

「いつ覚えたの」

「いつだっていいさ。大したもんなんだぜ」

「いいわ、おやんなさい。でも夏のこともあるんだからよく考えてからよ」

 夏のこととは、野球場でアイスキャンデーをうりあるくとはりきって、いよいよそのアルバイトの初めの日、いさんで西宮へ出かけた信二郎は、からのキャンデー箱を肩からつって二三歩あるいたなりもう動けなかったという話であります。「それみろ」父は申しました。信二郎は今年新制大学にはいりました。一人前に角帽をかぶっているのに、末子で、いつまでたっても一人でどんどん事をはこぶことが出来ません。

「母様にはときふせてあげましょう。父様は金城鉄壁、大の難物だけれど何とかなるでしょう」

「ダンケ。頼むよ」

 父が、嗅薬を用いたとみえて、きなくさい臭いが家内中にただよいました。それから私と信二郎と二人で、さいころを始めました。私が勝てば元々で、弟が勝てば、先刻(さっき)の煙草一本まきあげられるのです。私は何のことはない、損なことですけれど、つまりさいころを転がすこと自体が面白いのです。

 

 あくる日――

 私は兄の見舞いに病院へ行きました。たった一人の兄は信一といって大学に通っておりましたが、戦争中の無理が原因となって一昨年の夏、肺結核のため入院したのでした。要心深い細心な人ですから、入院して以来、一歩も外へ出ずにじっと養生しているのでしたけれど、この病気は簡単にはなおらず今も気胸をつづけて入院しているのでした。

 長い廊下をつきあたるとすぐその端の部屋が兄の病室でありました。庭に咲いた菊を五六本、新聞紙に包んだのを私は持っております。ノックをすると低い返事がありました。

「おはようございます。いかが、御気分は」

「やあ」

 兄は上半身を起して私の方を見ました。

「きれいな菊、中庭のかい」

「ええそう、香りはあまりないけれど」

 私はコスモスが枯れたままつっこんであるペルシャの青い壷にその菊を()けました。白いはなびらときいろい芯とがこの青い壷にはよくうつります。柔い丸い壷の肌を、兄は大変好んでいて、売れば随分の価になるものでしたけれど兄のためにおいてあるのでした。

「兄様、父様に輸血をしたの」

「父様随分おわるいの」

「そんなでもないのよ。いつもの如くなの。雪子の血、五百円也よ……、ふふ」

 私は白いお皿を思い出して笑いました。

「五百円って?」

「売ったのよ、血を……」

「え、お前が、父様に? そして五百円もらったの?」

「いけない? 雪子、それみな使ったわ。今度ん時は、兄様モーツァルトのレコード買ったげるわね」

「親子じゃないか、しょうのないひとだ」

 話はとぎれます。私はサウンドボックスのふたをあけて、兄の好きなというより、もう心酔してそれより外のことは考えられなくなっているモーツァルトのレコードをかけ出しました。ニ長調のロンドです。兄は白い敷布の上に長く寝て目をつむりながらきいております。

「ねえ、信二郎さんが、ジャズバンドのアルバイトやりたいって雪子に昨夜云ったんだけど、兄様どうお思いになる?」

「信二郎がかい。夜稼ぐのじゃ大変じゃないか。おそく迄なんだろう」

「でも土曜日曜らしいことよ。それも、きまってあるのじゃなくて……」

「僕のように体をこわしちゃつまらないからな、で何をやるの?」

「スチィールギター。借りるんだって。で一二回やれば自分のを買う事が出来るっていうの」

「まあ、場所が場所だから、僕は反対だけれど……。二年間も世間と没交渉なんだからな、口はばったいことは云えないね。僕なんか気持は世間からみれば馬鹿な、時代おくれなものだろうし……」

「兄様、そんなことはないわ。どんな世の中になっても兄様はモーツァルトの音楽を愛する方でなきゃ……」

 私は兄の部屋をあらためてみまわしました。中宮寺の観音像やモーツァルトの肖像の額がかけてあります。その下には、外国の絵の本やカタログや、レコードの類がぎっしりあります。この夏、皮表紙のルーヴルのカタログを売ろうと云い出した時、兄は怒ったように私の顔をにらんでおりました。そしてあのレコードを、この本をと、あれこれ買って来てくれといつも私にたのむのです。私はそのためにお金の工面をせねばなりません。一ヵ月でも註文品をおくらせますと大変な見幕でおこり出してしまうのです。

「とにかく、信二郎のことは私が責任持つわ、あれだってもう本を買ったりしなきゃならないんですものね」

 私は病院の玄関まで送りに出て来た兄と握手をして坂を降りました。悄然とたたずんでいるその兄の姿は、どうみても時代の臭いのない、もう世間から締め出しをくった者のような気がして、さっきはなしたことを思い出しながら私自身かなしくなりました。

 病院の帰りに、古いジャケットを売って三百円得ました。それで私はコーヒをのみインキと便箋を買い、残りの百円で映画でもみようとにぎやかな街に出ました。とそこに、信二郎の後姿をみました。三十五六のやせ型の美しい奥さんと一しょです。まっぴるま、学校へは行かないで。私は不安な気持になりました。いつになくズボンの折目をただすために寝押しをしていた昨夜の信二郎の姿を思い出します。私はその後を三十米もつけて歩きましたが、ふと横筋にそれるとそこの袋小路で長い間二人でただつったっておりました。信二郎は一体どんな気持でいるのでしょうか。

 信二郎は小さい時から気立てのやさしい素直な子でした。体が弱く一年のうち寝ている方が多いようでした。自然外へ出て近所の子供達とあそぶような事はなく、家の中で本をよんだり、縁側でカナリヤの世話をしたりすることを好んでおりました。他所の人がよく、勝気な私と比べて、信二郎と私といれちがっておればよかったと申しました。顔立もおとなしく、今でもお餅のような肌をしていて、目の下などにうすいうぶ毛があります。背は私よりかなり高いのですが、抱きしめてやりたいようなあいらしさを持っております。私は姉が弟に対する世間一般の気持以上のものをいつからか持っておりました。若い仲間より自分が一人とりのこされたようなさみしさをなくすために、私はよくお酒をのみにゆきますけれど、そんな時、わいわいさわいでいる中に、たえず信二郎のことは忘れませんでした。信二郎は姉の私に口答えもせずいい子でしたけれど、私のともすれば行動にまで出る愛情をきらっておりました。それなのに、信二郎は年上の奥様の愛撫をうけているのではないでしょうか。おさげの女学生なら私は何とも思いません。相手が私と(むか)いあっているような人だけに私は敗北感に似たものを感じ、嫉妬さえおこしました。露地を出て、家へかえるまで、私は信二郎のことを考えつづけました。映画をみる気も起りません。この頃、よく新聞に出ている阪神間の御婦人方の乱行ぶりの記事がちらと頭をかすめました。信二郎だけはまっすぐに歩んでほしいのです。兄様は落伍者、私は女なのですから、始めっから大した希望も抱負もないのです。信二郎が大きくなってこの家をおこさねばなりません。家産の傾きを元へ戻さねばなりません。いやそれよりも信二郎だけでも、安定した平和な生活をおくってほしいと思うのです。私はあの子の力にならなければ、母様は教育もなく、もう毎日のたべることだけで他のことは考える隙もないのです。父様も廃人。私は足をはやめました。門をはいると別棟の茶屋の庭で父の妹の未亡人が火をおこしておりました。もう十何年か前に主人をなくして、今は中学へ通っている一人息子の春彦と二人、編物の内職とわずかな株の配当でくらしております。

「ただいま、おばさま」

「おかえんなさい。そうそう郵便が来てましたよ、二三通だったかしら」

 狭い船板で出来た縁側には、おいもがならべてあり、その横で野菜をきりかけたまま庖丁が放り出してあります。昔、その茶屋で四季にかならず御茶会をしておりました。湯のたぎる音、振袖のお嬢さんや、しぶい結城などきた奥様の静かな足さばき。ぽんとならすおふくさ。今は、青くしっとりとしていたたたみも、きいろくところどころやぶれておりました。

「雪ちゃん、おばさん今日から一日を五十円以下で済まそうと思っているのよ。朝は番茶とパン。おひるは漬物と佃煮、夜は一日おきに蒲ぼことちくわ」

 叔母はそう云ってからから笑いました。この叔母のお嫁入りの頃は家の全盛時代でしたから、そのお嫁入りの御仕度は叔母の美貌と共に随分世間に評判になったのでした。あの頃の追憶を父や叔母は度々はなします。何しろ私達が生まれる頃はやや降り坂だったらしく、その豪華版を私はしりませんでしたけれど、父の生まれたという家など通りすがりに眺める度に茫然とするのでした。その屋敷も戦前人手に渡り水害のため全壊し、また空襲でわずかにのこった門番小屋や大門も焼けてしまいました。園遊会の写真などを土蔵の隅にみつけ出したりする時に、こんな生活を羨しがったり、或いは祖先がそういう生活をしたと得意がる以上に、明日知れぬ運命をおそろしくさえ思うことが度々ありました。いくらかかたむきかけた私達の幼少の頃といっても、今思い出しておかしくもさえある生活でした。すぐ近くへ行くにも自動車に乗り、ショフワーの横の席を子供達は取りあいでした。幾人ものお客様をもてなしたりしたことを思い出します。お二階のお座敷には、大きなぶあついおざぶとんが並べられます。女中達が、白いエプロンをぬいで黒ぬりのお膳を運びます。お茶碗などはそんな時特別にしまいこんである桐の箱より出します。床の間には、三幅のかけ軸がかけられ、大きな七宝焼の壷にその季節々々の一番見事な花が活けられます。私もお振袖をきてお客様に御挨拶を致します。けれど、じっと坐ることが出来ないのですぐに奥へひきさがって兄や信二郎とおしょうばんの御馳走をたべます。その頃はそれがとりたててたのしいことではなく当然のように思われていたのでした。

 その夜、遠い親類にあたる松川の祖母さんの葬儀よりかえった母が、食事の後でこんな話をしました。

「松川さんのところのおばあさまね、まあ、御葬式の費用に仏様の金歯をはずしなさったそうな。いくらなんでもねえ、ひどい世の中になりましたよ」

「どうしていけないんだい?」

 信二郎が(そば)から口を出します。私は父の顔をちらと見ました。

「どうしてって、あきれた子だよ、死んだお人の身についているものなんですよ」

 と母は申します。

「いいじゃないか、おん坊に盗まれるよりかしこいさ。姉様どう思う?」

「私もいいと思う。とがめることはないわ。信二郎さんみたいに、唯物論者じゃないから死者の霊をまつりたい気持はあるわ。でも、金歯を抜くことが死者の霊に対して無礼だとは思わないわよ。それでお葬式してあげられたらいいじゃないの」

 父はにがい顔をして黙っております。叔母がとんきょうな声を出しました。

「だって誰が抜くのよ」

「誰か、歯医者さんでも抜くでしょう」と私。父がその時はじめて口をひらきました。

「いやな話、もうよしたまえ。お前達は父さんが死んだら、たくさん金歯があるから、それでうんと食べるんだね」

 私は笑いながら云いました。

「雪子が死んだってあてはずれよ。金歯なんて一本もないわよ。人間の価値少しさがったわね。でも生きているうちはない方がよさそうね」

 話はそこでぷっつり絶えてしまいました。

 

 食後私は信二郎の部屋へ行きました。勉強しているのかと思ったら、ごろんと横になって煙草をふかしております。

「勉強なさいよ。何してるの、時間が無駄よ」

「考えてるんだ、無駄じゃない」

「何を御思索ですか、紫の煙の中に何がみえるのでしょう」

 私は茶化すように申しました。

「ほっといてくれよ、うるさいね」

 信二郎はおこったような顔をし、私の方へ背中を向けました。私は傍へすわってしばらくの間、じゅうたんの破れ目から糸をひっぱったりしておりましたが、

「あなたきょう、学校へ行かなかったのね。大学だからいいのかも知れないけれど」

 とやさしく問いました。信二郎はだまっております。

「街であなたをみかけたの。一人じゃなかったわ。お友達とでもなかったわ」

 何か云おうとするのをさえぎって私は更に、

「何にもききたくないし、云いたくもない、でもそのことから……やっぱりバンドはよしましょう。姉様、何とかして本代ぐらい、こしらえてあげます。姉様はあなたにしかる資格はないかもしれないけれどあなたの将来を案じてるの。偉そうなこと云って、って、あなたはおこるでしょうけど……」

 と云いました。

「何も姉様に対しておこらない。だけど、僕は僕勝手に生きるんだ。バンドのことはよすもよさないも駄目になっちゃったんだ」

「今日の、どこかの奥様なんでしょう。どんなお交際なの」

「どんなでもいい。どんなでもいい。姉様あっちへ行って。僕を一人にしておいて下さい」

 私は立ち上りました。そして自分の部屋へはいると急に信二郎がかわいそうになって来ました。信二郎はどんな風に生きるのか。私はやっぱり黙っているのがいいのでしょうか。信二郎は信二郎。私は私。私は私しか導くことも出来ないし、制御することも出来ないのです。寝る前に信二郎の部屋の前にもう一度何気なく来た私は、そこにすすり泣いているような気配をききました。

 

 またある日――。

 私と信二郎と叔母と春彦と、カードをしておりました。父は相変らずぜいぜい云って隣の室で(あえ)いでおります。

「ハート一つ」

 くばられたカードのうち六枚もハートがあります。そうしてオーナが四つもあるのです。

「クラブ二つ」

「ハート二つ」

「クラブ三つ」

「ハート三つ」

 サイドカードもこんなにいい。それに、手に、クラブがないから最初っからきれるわけです。私は得意になってせりあげました。ハートに決まります。叔母と組になっているのですが、開いた叔母の持札も割合にいいのです。四つとって一勝負つけてしまいました。

「ビヤンジュエ、マドモアゼル」

 叔母が私の手を握つて喜びました。二十年もの昔、巴里(パリ)仏蘭西(フランス)人とブリッジをしたことがある叔母はよく云いました。そして彼等の勝負好きの話や怒りっぽいこと、などもききました。私達は弟のために勝負事をやめようと決心した翌日から、また、やりだしておりました。隣から父がそのさわぎに遂々怒り出しました。

「はやくねろ、十一時すぎだぞ」

 私達はこそこそと渡り廊下を渡って叔母達の室である茶屋に退去しました。そこで一時頃までブリッジをつづけました。

「また明日、おやすみなさい」

 私と信二郎は夜風のふき通しの、渡り廊下を走るようにして戻って来ました。母はうすぐらいところで東京の叔母へ手紙をかいておりました。肩越しにのぞくと、私の結婚の依頼がながながとかかれてありました。私は苦笑しながら自分の部屋にはいり、ふと結婚についてかんがえだしました。二十七だという年齢がまっさきに頭に浮びます。婚期とは幾つにはじまって幾つに終るのか、ともかく私はもう若くもないと思っておりました。今迄、何をしていたのでしょう。同級の人達は随分お嫁に行ってます。子供までいる人も少なくありません。未だ一人でいる人は一人なりに学校の先生をするなり、会社で秘書をするなりそれぞれはっきりした生き方をしております。私だけがあぶはちとらずなどうにも動きようのない恰好でいるじゃありませんか。私は「女性失格」だろうと自分でそう思います。今迄、縁談は数える程しかありませんでした。みんなことわられてしまっておりました。一番最初の縁談の時、私はまだ二十歳前で元気一杯でおりました。相手の方は外交官の令息で立派な青年紳士でした。どこも欠点のないような方でしたけれど、それが如何にも社交なれた赤裸々でない感じがし、私は好きになれませんでした。派手な社交は私の性に合いません。お部屋の熊の毛皮の上にたって大勢の御知合に紹介された時、どきまぎして夢中でハンカチをにぎりしめておりました。そんな私ですから、当然のようにおことわりがまいりました。父母は大変落胆しましたが、私はほっとしたのでした。とにかく、強がりな我無しゃらな私ですけれど反面、意気地のない気弱なところもあります。それが今日までどっちつかずのままいさせたのかも知れません。今更、結婚ということを重大視も致しませんし、どんな人でもいいと思っているのです。いずれはこの家を出てゆかねばなりません。私は生家への愛着など微塵も持っておりませんし一生独身で通そうとも思っておりません。水の流れにぽんと体をおいて、何処まででも行って頂戴、行きつくところで私は落着きます、と云った気持でこの頃はおりますものの、肝じんの縁談もなく、ますます若さがすりへってゆくようなさみしさと、それに対するあせりを感じないでもありません。

「母様、貴族や華族の部類はやめておいた方がいいわよ」

 他所事のようにそう云って私はひとりでクックッ笑ってしまいました。

「それよりお金のある方がいいんでしょう」

 母は軽くそう云いました。

 寝床にはいってから明日の予定をたてました。お天気がよかったら京都へあそびに行こうと決心しました。紅葉が丁度よい頃です。ぶらぶら人の行かないような道を選んで歩くのが私は好きでした。二三日前に、ピアノの売買を世話してわずかな謝礼金がはいりましたから、それで一日のんびりして来ようとほくほくしながら眠りについたのでした。

 ところが翌日の朝。

 父が今日は少し加減がいいから、私にしらべ物をしてくれと、そのリストをこしらえはじめました。売る物のリストです。出足を止められて少し不機嫌な私は、父の机のそばにむっつり坐りました。十五六ばかりの品物が記されました。硯石や香盒。白磁の壷、掛軸や色紙。セーブルのコーヒセット。るり色の派手なもので私の嫁入道具にすると云って一組だけ今までうらずにいたのでした。それから銀器が五六点。

「雪子、これ土蔵から出しておいてくれ。それから東さんを呼んで来てね。だいたい値をかいておいたけれど、よくもう一度相談してみてくれ。銀は東さんでない方がいいだろう。貴金属屋の方が……」

「では今日中に」

 私は渋々立ち上り、袋戸棚から重い鉄の鍵を出して土蔵を開けました。ぎいっと大きな戸をあけると、かびくさいつめたい臭いがします。もう大方がらんどうになっていて、うすぐらい電灯の上に、ほこりが一ぱいつもっておりました。品物を父の寝ている部屋の縁側へ並べて傷がないかしらべたりしました。母や叔母は、それ等の品を悲壮な面持で眺めております。

「仕方ないわね。編物の内職でなんとか春彦と二人食べて来てるけれど、だんだん注文もなくなって来たし、株だってさがる一方だし、売る物もないわ。ひすいやダイヤもすっからかん。今はめている指輪、これは十銭で夜店で買ったのよ。魔除けの指輪。もう三十年になるわ」

「おばさまはお偉いわ、どん底でも案外平気でいらっしゃる」

「なるようにしかならないものね」

「私はならせたい。やりたいのよ」

「八卦でもみてもらったらちょっとはいい考えが浮ぶかもしれないわね」

「いい考えだわ、そう、雪子みてもらお。母様もみてもらおうじゃありませんか」

「いや、私はいやですよ、私はただ神様におまかせしているのです」

 その時始めて口をきいた母はきっぱり()う云いました。母は神霊教という日本の神道の一派の信者なのです。どんな(わざわ)いがあっても神様がおたすけ下すって最少限度で事が済んだと、早速お礼まいりです。狂信的なほどの信仰でした。父も私の家も神霊教ではありません。母一人です。毎月、一日十五日はお祭りがあり、仏壇の隣りの祭壇に(さかき)がのせられ、神主さんがやって来ます。この頃は母以外誰もその祭りに加わりませんが、幼い頃は義務のように私達もすわらされました。長い神勅の間、私達兄妹は、畳の目数をかぞえたり、むき出している足をつねり合ったりしてよくしかられたものでした。母の信仰に対して私は何とも思っておりませんでした。が時々、御献費を倹約すれば靴が買えるなどと思うことがありました。

 縁側から座敷へ品物を運んで来て片隅に並べました。そうして私は道具屋の東さんを呼びに行きました。

 神社の横手の露地をはいるとすぐそこに東さんの店があります。ガラガラ戸をあけて中へはいるといいお香のにおいがします。

「いらっしゃい。お嬢さん」

「おひさしぶり、この頃いかが?」

「さっぱり売れまへんな」

 長火鉢に煙管(きせる)をぽんといわせて、主人は首をふりました。店をみまわしますと、いろいろな形のものがごちゃごちゃにおいてあります。朝鮮の竹の棚がいいつやをみせて、その上の宋胡六(すんころく)の鉢をひきたたせております。

「このお店へ来ると、いつまでいてもあきないわね」

「へっへ、まあどうぞおかけ、お茶をいれますから」

 主人は相槌をうちながら、おいしい煎茶をいれてくれました。

「あのね、父が少し残っているものを買っていただきたいって申しますの、来ていただけません? 大したものでもないんですけれど」

「ああさようですか、お宅のものならなんでも買わせてもらいまっせ。今日の午後からでもうかがいましょう」

「有難う」

 この主人は頭がひかっていて仲々の恰幅(かっぷく)で、あごがふくらんで滑らかな福相をしています。私は主人の福相に、ふと八卦をみてもらわなきゃと思って立ち上りました。時計を見ると十時半、これから、時計や貴金属をあつかっている心やすい堀川さんの店へ行って、よくあたるという、三宮の八卦へ行って、家へかえったら丁度、東さんが来る頃だろう、と道をあるくのもせわしく、にぎやかな表通りの堀川さんのところへ行きました。主人が不在で技術師が時計をなおしておりました。

「銀を買ってほしいのですけど」

「買いますよ」

「幾らしますの」

「さあ物によって、品はなんですか」

「盃など」

「十八円から二十一二円のところでしょうな。一匁(もんめ)が」

「そんなにやすいの」

「今さがってますからね、でも毎日ちがいますから、とにかく御損はさせませんよ。品物をみた上で、主人とも相談せにゃなりませんから」

「そうね、とにかく品物を明日持って来ますから、確かな物にちがいないけど」

「お嬢さん、他でもきいてみて下さい。他の云った値が家より高けりゃ、その価にしますし……。主人に内緒ですけど、造幣局へ持って行ってでしたら一番高く売れますよ、我々も結局造幣局へ持って行くんですから、その代り、一週間はかかるでしょうし、大阪へ行く電車賃やなんやかやいれたらわずかのちがいですけどね」

 親切にそう云ってくれます。私は堀川さんの店を出て、二三軒、通りがかりの貴金属屋に銀の値をきいてみました。十五円だと云ったり、二十四円だと云ったり、かなりまちまちでした。銀のことは明日、品物をみせてからにして、よくあたる八卦見だという、そのゴチャゴチャした支那うどんを食べさせたり、安物のスタンドバーのあったりする裏通りの角っこに私はやって来ました。他にお客はなく、白髪のおじいさんは何か和とじの本をよんでおります。

「みてほしいんですけど。一体幾ら?」

「百円」

 ぶつっとそう云って、彼は私の顔をみました。その顔は小学校の時の先生によく似ておりました。

「年は、生まれた月日は?」

 私は自分の生年月日を告げます。竹の細い棒を何度もわけたり一しょにしたりして呪文を唱えているのをみながら、始めは冷やかし半分の気持でしたが、だんだん真剣になって来ました。何を予言されるのだろう。五分間位、呪文がつづきその揚句(あげく)、又木のドミノのようなもので、裏がえしたりおきかえたりしております。そのドミノの赤い線がみえたりかくれたりして、私の心を冷々させます。

「あんたは……」

「はい」

「結婚してますか」

 私は八卦見のくせにわからないのはいささか滑稽だと思い笑いながら、首を横にふりました。

「そうでしょう。成程ね」

 しきりに感心したような顔をして、ドミノを眺めております。

「今月中にね。動という字が出てますからね。何かあんた自身、或いはお家に変動があります。それは、幸とも不幸とも云われません。とにかく、その後のあんたのになってゆくものはますます大きい。あんたはになうことばっかりかんがえて、自分の力がどれ程かに注意しておらない。だから荷物に押しつぶされてしまう恐れがあるのだ。とにかく今月中に起る一つの事件によってですね、あんたは、今迄の方針が自ずと変えられると思います」

「どんな変動かわかりませんの」

「それは予言出来ますまい。とにかく、注意をしとりなさい、結婚はまあ今のところいそがなくていいでしょう。あんたのような人はひとりでいた方がいいようなものです。金銭には不自由せん。一生は短い、十年も生きればいい方でしょう。これは又変るかも知れないです。人間必しも長命が幸福だとは云えん。だが、惜しむらくは、あんたが女だということ。男なら英雄になっとる。銅像がたつ。女であるが故に、そういう宿命的なものがかえってわざわいの種ともなります。とにかく、動がありますから、それに注意して下さい」

 私は百円置くとにげるようにそこを出ました。彼の云った言葉を順序立てて思い出して見ました。矛盾しているようで結局、何が何やらわかりません。急におかしさがこみ上げて来ます。銅像といえば、私の祖父も曾祖父も銅像がたてられました。けれども赤襷(たすき)をかけて戦争中出征致しました。御影石の台だけが、お寺のある山にのこっております。雨のふる中を読経しながら銅像をひきおろしたことを思い出しておかしくなったのです。

 家へ戻って食事をしていると東さんがやって来ました。店に坐っている時は着流しで、真綿のちゃんちゃんこをきていましたが、玄関でみた彼はうすっぺらの背広をきていてネクタイがゆがんでおります。御しゃれをして来たつもりなのかもしれませんが。東さんは断然、あの着流しがいいのに。

「どうぞ、父もお会いするでしょうから」

 私は父の部屋に東さんを招じ入れ、いそいで食事を済ませると、お茶を持ってふたたび彼等のところへ行きました。

「惜しいな」

 と時々申します。東さんは、一つ一つをゆっくり観察しました。

「全部で二万三千円」

 東さんはそう云いました。私も父も少なくとも三万円にはなると思っていたのです。私は病のため剃ることも出来ないで白くのびた父のひげのあたりをみておりました。父も私の顔をみます。

「だって東さん、これ価値ものよ。茶碗だって、あんたんとこのあれよりずっといいことよ」

 私はお腹の中で一つ一つを勘定しながらそう云いました。

「でもね。こんなものは、すぐうれないのでね。……これが四千円、これがまあ八千円、セーブルはさっぱりなんでっせ。印刷の色紙、三千円ね。後は全部で八千円。随分ふんぱつでっせ」

 私は、床に今掛けた山水の絵をみます。箱の上においた茶碗をみます。父は黙っております。

「東さん、この壷はあんまりやすい。せめてこの小さいものを全部で一万二三千はほしいわよ」

 あれこれ、東さんと云い合っているうちに私も、もうどうだっていいという気持になりました。いくらに売れても同じです。一週間食べのびるか否かなのですから。結局二万五千円で話がつきました。父も、それでいいと云うのです。東さんは話し終ると一服煙管にきざみをいれて、ぷうっと美味(おい)しそうに吸いました。きざみ入れのさらさのえんじがいい色です。

「東さんのところへ行くと、ほしいものだらけ。父様、朝鮮箪笥もあったわよ」

「そうかい。焼いてしまったけどあのうちにあったのもいい色だったね。さみしいことだよ」

「まあまあ旦那さん。元気出しなされ」

 東の主人はそう云って明日品物をとりに来ると出て行きました。

 叔母がはいって来て、宝くじが全部駄目だったと告げました。

「雪ちゃんに、ホテル約束したのにね、ワンコースを。駄目だった。来月はあたってみせるわ」

 つぎだらけのスカートをはいた叔母は、大きな声で笑いながらそう云いました。

「おばさま。毎月毎月買う分、計算したらずいぶんのマイナスでしょう」

「そうなのよ。でもやめられないわ」

 二人は又笑いました。

「まだまだ、貧乏と云っても、私達はぜいたくかも知れないわ。おばさん、今夜は牛肉よ。宝くじにあたらなかった残念会にしようか」

 叔母はせかせかと茶室の方へゆきました。渡り廊下の戸がパタンといって冷い風がはいって来ました。

「もう湯たんぽがいるわね」

 私はガラクタ入れの中から湯たんぽを出して来ました。ほこりをはらって水をいれるとそれはジャージャーもって使えないようになっておりました。

 その晩、私は自分の部屋にいて雑誌をよんでおりました。母と叔母とは隣の部屋で編物をしておりました。二人の会話がきこえて来ます。

「お義姉様。春彦の本代が随分いりますのよ。科学の材料費なんかも。ノートや鉛筆やそんなものも馬鹿になりませんわね」

「本当ね。でも勉強のものだけは十分にしてあげたいわね。雪子にも、たんす一本買ってやれなくて……」

 私は苦笑しました。そして襖越しに声をかけました。

「母様。お金はふっては来ませんよ。すわってて待ってたって駄目よ何かやらなければ……、売喰いはもう底がみえているし」

「商売でもやるの、出来ませんよ。商売人でない我々がやったら結局損をしてしまうんですよ」

「だって、じゃあ一体、これからどうするつもりなの。何もやらないとしたら、いつまで続くとお思いになるの」

「税金のこともあるんだし、まあ、神様におまかせしてあるんですから、昔、あまりぜいたくした罰だと思わなきゃ。もう少し、辛抱していたら又神様がお授け下さいます」

 私は云っても無駄だと思いました。父と母とには見栄があるのです。なまじっか商いでもやろうものなら、すぐにこの街中噂がたちます。それは恥だというのです。私が勤めに出たいと云ってもゆるされません。何分、世間体があるからというのです。だから、私は今迄、内職にいろんなことをしてお金を得ました。飴屋もしました。石けん屋もしました。佃煮屋もしました。知合から知合の紹介をもらったり、見知らぬ人の裏口にも声をかけました。いくらかずつの口銭で、煙草やコーヒをのみました。雑誌や骨董品を買いました。自分のことだけで生きてゆけばいいのですから、家のことなんか考えなくともと思います。その夜は久しぶりに信二郎とダイスをして遊びました。

 

 あくるあさ。

 私は、東さんの所から来た使いの人に品物を渡し、現金を受け取って父のまくら許に置き、銀器をうるために出かけました。二十三円五十銭で全部を堀川さんに買いとってもらいました。三万六千円とわずかでした。菊の御紋章入のさかずきは何故か特別光りがよいようでした。銀の肌に私の顔がうつります。はっと息をふきかけるとその顔はきえます。他愛のない仕草をくりかえしていると、堀川の主人がそれをみて笑いました。桐の箱の紫の紐が、かるくひっぱったのにぷつりときれました。きれっぱしの紐を、お金と一しょに私は大事に風呂敷にしまいこんでかえりました。家へ着くと、叔母が飛んで出て来ました。

「父様がおわるいのよ。でね、大阪の野中先生を呼んで来てほしいんですって」

 父の居間へはいると一種の臭いが致しました。喘息がひどくなると、この嫌な臭いがするのです。母は背中をさすっておりました。父の友人の野中さんは大阪で大きな病院を経営しておられる方でした。私はすぐにその方を呼びに参りました。忙しくして居られて直接お会い出来ませんでしたが、丸顔の人の好さそうな看護婦さんが、きっと今日夕方か晩(うかが)うからとのことでした。すぐに引きかえして三時頃、おひる御飯をたべてますと、兄の病院の先生が来られました。余程、父は苦しいと見えて、母に又、神霊教の先生のところへ行って祈祷してもらってくれとも申します。病院の先生が注射をして帰られ、母が祈祷をたのみに出ました。父は注射の効果もなく喘いでおります。嗅薬をかがせました。煙が散らないように、私は両手でかこいをします。手と手の隙間より父は、スースー云いながら煙を吸います。暫くしてひどい発作が終りました。晩になって、野中先生が丸顔のさっきの看護婦を連れて来られました。又注射をします。静脈のどこをさそうとしても、注射だこがかたくなってしまっており、中々針がはいりません。静脈に針をちかづけると、にげてしまうのです。それでもやっと二本いたしました。喘息を根治する薬はないらしく頸動脈の手術も駄目だろうと野中先生は言われました。母が御神米をいただいて帰り、それを炊いて父にのませました。九時頃になって、すっかり発作は鎮まりました。もう今晩は大丈夫だろうと言って母は兄のところへ泊まりに行きました。兄もこの間うちから少し具合が悪く附添さんにまかせているのは心配だったのです。

 その晩、私は夜中に何かしら目がさめました。こんな事はまれなことで何か胸さわぎがするので起き上って暫くじっとしておりました。隣の室で父はよい按配に眠っている様子。信二郎の部屋をうかがうと、電気がついていて寝がえりをうっているようです。日本間を洋風に使って、信二郎だけは寝台に寝ているのでしたが、その寝がえりの度に、スプリングの音がきこえてきます。何か頭がさえて眠れないのですが、そのまま又ふとんの中に首をすくめてしまいました。

 

 翌朝。

 いつも早く目ざめる父が今日に限って、うんともすんとも言わないのを不審に思い、しずかに襖をあけました。と、私はそこに父の死体をみたのです。いえ、近よってみて始めてわかったのでした。青くなって、うつぶしている父の体にふれました。ぬくみがほとんどありません。私はおどろきました。信二郎をおこしました。叔母を呼びました。母に電話をかけました。とにかく、すぐに帰るようにとのみ伝えたのでした。私は何をすればよいのやら(ただ)茫然としたまま父の顔をみつめております。けれど、悲しいとか、御気の毒だとかいう感情はちっとも湧いて来ません。信二郎は父の机の抽出しをゴソゴソかきまわして何もないというなり自分の部屋へ入ってしまいました。父は、嗅薬を飲んだのでしょうか。その劇薬が、からになっており、コップに水が半分のこっておりました。昨夜、少しの呻吟もきこえなかったことが私には不思議に思えました。あの目がさめて起き上った時は、もうすでに死んでいたのでしょうか。父の死が、本当だろうかと疑う気持さえ起りました。叔母が、湯を沸して持って来ました。母が帰りました。私も手伝って、死体の処置をいたしました。母は口の中で神勅をとなえながら泣いております。春彦を呼びにやって近所の心やすい医者がまいりました。私は父の死の動機が、病苦からか、神経衰弱がこうじたからか、或いは虚無か、貴族の誇のためなのか、考えてみようと致しました。が、すぐにどうでもいいじゃないか、という気持になって一人自分の部屋へはいって昔の父のことを回想しはじめました。

 父は孤独な人でした。人から愛されない人でした。友人を一人も持っておらず、順調に育ったであろう筈の父は、妙に意地けてゆがんだ性質でした。若い頃、マルキシズムにはしったこともあったそうです。そんな父が、たった一つの憩いの場所の家庭において、親しもうとしながら、かえって子供からはなれられたことは、父の最も不幸なことだったかも知れません。でも、これは子供達の罪ではありません。父の性格と時代のへだのたりのせいでした。父は自分から孤独のからの中にはいっておりました。父はまた恋愛などは罪悪のように考えていたようでした。母との結婚は勿論(もちろん)親から決められた平凡な御見合結婚でしたし、私の記憶にある限り、父が女の人の名前すら言ったことはないようでした。私達が、冗談(じょうだん)半分に、どこの奥さんが美しいとか、誰の型は好きだとか話しますと、大変嫌な顔をいたしましたし、新聞などの情事事件をあれこれ批評することも、父の前では出来ませんでした。私達子供が成長するにつれ、父との距離はどんどん遠くなって行くのでした。母はと申しますと、父よりも神様、なんでもすべて神様でした。私達は肉体的にのみ親子であって、同じ姓を名乗る人にすぎないのでした。意見のちがいだけではありません。生きるということからしてちがう意味でちがう方法であったようです。

「父様は食べないでも食べた風をよそう人なのよ。お金がなくともあるようにみせる方なのよ。貴族趣味なのね」

 私はよくそう申しました。父には、そういう(ひと)りで高い所にいるといった誇のようなものがありました。でも父と私と一つだけ、ほんのわずか愛し合うことの出来る時がありました。絵を描いている時と、陶器を愛玩する時でありました。私と父は無言で喜びをわかちあうのでした。展覧会に行って私達は二人の世界を見つけておりました。一つの筆洗で二つの絵をそれぞれにつくり上げる時に、私達だけの安息場所を感じていたのです。母もはいることの出来ないところでした。一つの仲介物があって、それが父と私を和合させていたと云えましょうか。

 私は父の机のところに行きました。この間少し気分のよい時に、私にまとめさせた句集がありました。

  いつまでの吾が命かやほたる飛ぶ

 句集を何げなく開いたところにこの夏の作がありました。私は信二郎の部屋へ行きました。信二郎はダイスをころがしながら口笛をふいておりました。

「口笛、お止しなさい」

 私は少しきつく云いました。信二郎は、素直にやめました。そうして、

「姉様、父様は死んだ。僕は生きる。父様の行き方を僕はならわない」

 と、むっつりした顔で云いました。

「信二郎さん生きるのよ。でも、父様の選んだ道はあれでまたいいの。軽蔑出来ないの。もし、あなたが自殺したなら私はゆるせない。父様がお死にになったのは、いいのよ。いいのよ」

 私はふと兄の事を思い出しました。兄にしらせねばなりません。お体にさわるといけないけれど、とにかく後継者なんだから、お呼びしなければ、そのことを母と叔母とに相談しました。

「信二郎に呼びにやりましょう。唯、御病気がひどくなってとうとう駄目だったことにして」

 結論はそういうことになって、信二郎は、しぶしぶ病院へ行きました。人が多勢入れかわり立ち代りにやって来ます。その接待をしながら、私は父の死を感じないのです。白い絹でふとんを作りながら、私は、それが、父の体をつつみ、木の箱の中におさまり、やかれるのだとは思えません。昔長く家にいた女中が、午後来てくれて、私は、すっかり用事をまかせて、又自分の部屋に戻ると、ふたたび、父について思い出をたぐりはじめました。父と私は、新緑の奈良や、紅葉の嵯峨野をよく散策しました。古寺を訪ね、その静かなふんいきの中で色をたのしんだり、形を眺めたりしたのです。

「母様とね。まだ結婚して間なし、こうやって奈良や京都をあそんだ事があるんだよ。母様は、つまらなくて仕方がないという風でね、父様が一生懸命、建築の話をしているのに、居睡りはじめたこともある。かなしかったよ」

 そう云って父はさみしく笑ったこともありました。でも、母としても父には不満があったわけなのでしょう。東京で比較的自由な娘時代を送った母にとって、父の趣味は理解出来ず、ダンスや音楽や、そういう方面にうとい父は、ばんからなやぼな男だったでしょう。公使館のパーティの話をよく私はきかされました。馬に乗って軽井沢をかけまわったこと、大勢の男友達とスキーに行ったり、ヨットにのったりした青年時代。そんな環境のちがいからだけでも父と母とは、とけあうことが出来なかったのは、当然だったでしょう。そして父は母にないものを私に求めました。父の持つ趣味は私だけが又持っておりました。兄も弟も、母のものばかりを受けておりました。けれど私は、派手なところ、つまり母の部分も持っておりました。

「シャンデリヤや香水が好きよ。ろうそくの灯で、ぽつりぽつり喋ることも好きよ。お寺であのお線香のにおいをかぐのも好きよ」

 私はこう云ったこともありました。夕方になって、自動車で兄と弟が帰って来ました。兄は痛々しいほど泣きました。

「僕が、こんな体で申し訳ございません。父様。父様。きっともう一度家を興します。僕が丈夫になってやってみせます。父様、きこえますか、父様、お返事をして下さい」

 死骸にむかって真面目に必死になって言葉をかけている兄の姿に、私はわずかばかり心打たれました。

「死人に口なしさ」

 弟がため息と一しょにそう云いました。私はだまって弟に目くばせしました。兄に弟のすっかり変った様子をみせたくなかったのです。御通夜の人達のために、私は女中と御料理をいたしました。火鉢を並べたり、御ざぶとんを出したりいたしました。以前、執事をしていた豊島が来て、兄や叔父達と葬儀の相談をしました。死亡通知の印刷のこと、新聞掲載のこと。遺産のこと。勿論遺産と云っても、今住んでいる土地家屋と菩提寺の他は何もありません。そんな話が随分長くつづきました。あれこれ小さい道具を買いととのえることだけでも意外に多くのお金を使わねばなりませんし、葬儀の費用は、とにかく、知合先や、会社関係より借用することにして予算をたてたりしました。私は、ふと松川さんのお祖母さんの葬儀の時を思い出しました。父には金歯が四五本もあるのです。あの話の時の父の苦い顔を思い出しました。金歯のことは黙っておりました。御通夜の人達より離れて部屋に戻ると、私は信二郎に頼まれた、欠席届を書くことに気付いて、硯箱をあけました。墨をすりながら、私は小学校の頃父に呼びつけられて硯の墨すりをさせられたことを思い出しました。たくさんの墨水をつくります。お皿にあけてはすり、あけてはすりしました。そうです。松の絵にこっておられた時でした。最近は小さい淡彩の絵ばかりでした。

 

 死の一日おいて翌日――

 それはその季節になってはじめてのよく晴れた静かな午後でした。父はお骨となりました。死の一日おいて翌日でした。東さんの好意で売れていなかった白磁の壷を葬儀の日だけ借りて来て、机を位牌の前に置きました。父の以前関係していた会社の人が多勢来て型通りのおくやみを流暢にのべてくれました。菊の花が部屋中に香り高く咲き、その中に婦人の喪服の黒さが目にしみました。兄を私の部屋にやすませて、しばらく二人だけでおりました。

「兄様、しっかりね。信二郎だってもう大きいし、兄様に何でもおたすけしますわよ。とにかく今はお体のことだけをかんがえてね。わずかな株や何かで何とか致しますから、心配なさらないでね」

「雪子に済まないよ。どうにも仕様がない。雪子に何でもたのむから、母様と力を併せてやってくれ。兄様もなるべく我儘云わないから」

 兄は弱々しくそう云いました。八卦見の云ったことは当りました。家に大事があったのです。けれども、私の生き方は変りません。私の意志。私のエゴイズム。私の自由。私はそれを押えてこれからも大きな荷物を背負います。それがつとめだと、宿命だと考えねばなりますまい。

「僕が死んだら、ショパンのフュネラルかけてね」

 兄はその時、ぽっつりそう云いました。信二郎がはいって来て、

「僕が死んだら葬式なんかせんでいい。死体をやいて、その灰を海へ捨ててくれ。パーッパーッとね。その時そうさね。高砂やでもうなるがいい」

 私は信二郎に、あちらへ行けと申しました。兄が、急に苦しくなったと云い、洗面器に顔を伏せ赤いものを出しました。びっくりするくらい鮮かな赤でした。

 

 また或る日。

 私たち――私と信二郎と叔母と春彦は、父の部屋の次の間で、電灯の下に集って、カードの卓をかこんでいました。もういくら夢中になっても、父の部屋から怒鳴られる心配はありません。父のたたかいは終ってしまいました。兄のたたかいはまだつづいています。母のお祈りもまだつづいています。信二郎はどうしたのでしょうか。いつかの夜のとき以来、信二郎はすっかり自分のからの中に閉じ(こも)ってしまいました。毎日うかない顔をして帰って参ります。その顔の奥の方に起っていることは、(うかが)うことが出来ません。そんなことを気にかけても仕方がないことを知りながら、私はそんないろいろなことをぼんやり気にかけながら、うっすらと生きています。結婚はいそがなくてもよいでしょう、と八卦見は申しました。

 十年も生きればいい方だろう。人間長命が倖せとは限らんと申しました。でそれは短命でもいいのです。倖せでなくてもいいのです。お荷物が重くてもいいのです。

 ただ人間が生きるように生きられさえすれば——。いのちがすりへって行くのを待っているのでなく、それを燃やして、燃しつくすことが出来さえすれば。しかしそれはこの嗅ぎ薬の匂いのこもっている、祈りのつぶやきの充ちている家の中では、恐らく無理なことなのでありましょう。

「ハート二つ」

「クラブ三つ」

 敵方は喰い下って来ます。私と組になった信二郎は、ちょっと躊躇して、私の方を窺うように見ましたが眼をキラリと光らせて、挑戦するように叫びました。

「ハート三つ」

「いいわ、クラブ四つよ!」

 叔母は追及して来ます。信二郎とまた眼が合いました。クラブで戦って勝てる見込みはありません。かと言ってハートを四つまでせりあげて戦えるでしょうか。信二郎の顔に追いつめられた苦悩の色がありありと現われていましたが、その顔がフッと明るいものに変りました。それは私の気持が変るのと同時でした。やりましょう姉様、踏切りが大事ですよ。とその顔は言っています。

「ハートの、四つ!」

 私は叫びました。時間の流れが停ったように思われます。果敢な賭けの世界に身を躍らせてゆくときの、白い閃光のようなものが脳裡を縫って過ぎます。信二郎の中にも同じ閃光があっで、それが瞬間空中で感応し合い紫色の火花をあげるように思われます。そして。ああ、このときだけ、私は信二郎を理解し、私はいのちを燃やしていることを自分で感ずることが出来るのです。このときだけ。

 その時、突然獣の叫びのような奇怪な叫び声が仏間の方で起ります。

 母が夜の行をはじめているのです。

(『作品』昭和二十五年六月)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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久坂 葉子

クサカ ヨウコ
くさか ようこ 小説家 1931・3・27~1952・12・31 兵庫県神戸市生まれ。相愛女子専門学校中退。島尾敏雄の紹介で、昭和24年、「VAIKING」に参加、富士正晴の指導を受ける。精力的に作品を書きつづけ、「ドミノのお告げ」が昭和25年の芥川賞候補となる。小説のほか、詩、戯曲と多彩な活動を展開するが、「幾度目かの最期」を書き上げた後、昭和27年の大晦日に鉄道自殺。

掲載作は「VAIKING」に「落ちていく世界」というタイトルで発表され、少しの改訂が加えられた後、標題に改題され、「作品」(昭和25年6月春夏号)に掲載されたものである。

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