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歴史小説の人生ノート(抄)

目次

  社会の壁に抗する虚無

   大佛次郎『赤穂浪士』…堀田隼人
 敵はその背後のものである。

 われわれ亡君の御意趣を継ぐ者は、亡君が御一個として天下に示そうとなされた御異議を、一団体を創って全身全力を挙げて叩き付けるのである。

 われわれの存在そのものが、天下、御公儀に向けての反抗、大異議だからである。

「達者でお暮らしなさいよ。人間、自棄(じき)になってはいけません。お互い、早く生まれ過ぎたと思うことでさあ。あせったところで、どうとも出来ませんや。石が動き出すまではね。いつまでも、こいつが動かずにいますか……帰ったら、なにに(よろ)しくおっしゃっておくんなさい。では、左様(さよう)なら……だ」

 「忠臣蔵」に材を取った平成十一年(一九九九)度のNHK大河ドラマ「元禄繚乱」の原作は、舟橋聖一の『新・忠臣蔵』である。昭和三十一年(一九五六)から足かけ六年間にもわたって連載された新聞小説で、それまでに書かれた幾多の「忠臣蔵」ものを集大成した感のある大長編であった。

 NHK大河ドラマの「忠臣蔵」ものといえば、昭和三十九年(一九六四)一月から十二月にかけて放映された「赤穂浪士」を思い起こす方も多いことだろう。大河ドラマの第二作で、大石内蔵助(くらのすけ)に扮した長谷川一夫の「おのおのがた」という重厚なセリフ廻しが、当時の流行語ともなった。

 こちらの原作は、大佛次郎の『赤穂浪士』であった。昭和二年(一九二七)五月十四日から翌年十一月六日にかけて「東京日日新聞」の夕刊に連載された作品で、舟橋忠臣蔵のおよそ三十年も前に書かれたものということになる。

 この大佛忠臣蔵は、それまでの忠臣蔵のイメージを大胆に打ち破った画期的な作品で、今読んでも古めかしさを感じさせない。それどころか、平成不況下の現代社会の状況とも照応する部分もあって、瑞々しい生命力を依然として持っている。

 その大きな特色は、まず何よりも、作品連載時の時代状況との関わりである。そして、大石内蔵助の人間像に加えて、ニヒル剣士の堀田隼人(ほったはやと)や怪盗・蜘蛛(くも)陣十郎(じんじゅうろう)といった架空の登場人物たちのキャラクターの魅力が、作品の面白さをより一層引き立てる要因ともなっている。

 物語展開と登場人物たちのキャラクターを見ていく前に、「忠臣蔵」の名で親しまれている仇討ち事件のことを考察しておこう。というのも、これほど人口に膾炙(かいしゃ)しているわりには、何かと不明な点が多い事件だからである。

 「忠臣蔵」というのは、元禄事件あるいは赤穂事件と呼ばれる一連の事件に題材を取ったフィクションを指して言う。

 元禄十四年(一七〇一)三月十四日に江戸城・松の廊下で、播州(ばんしゅう)赤穂城主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が高家筆頭の吉良上野介義央(きらこうずのすけよしひさ)に斬りつけた刃傷事件に始まって、内匠頭切腹、赤穂城明け渡し、家中離散を経て、翌十五年十二月十五日未明の赤穂四十七士の吉良邸討ち入り事件、さらには元禄十六年二月四日の四十六士(高輪の泉岳寺へ引き揚げる途中で、寺坂吉右衛門が姿を消したため)の切腹に至る、ほぼ二年間に起こった一連の事件、これを元禄事件あるいは赤穂事件と呼ぶ。

 この元禄事件あるいは赤穂事件は、刃傷から討ち入りまでを細かくチェックしていくと、不明な点が多く、不可解な事件である。内匠頭が上野介に斬りつけた理由にしても、諸説紛々で、現在に至っても十分に納得させられる説が出てこない。また、四十七士の討ち入りを幕閣連中が見て見ぬふりをしていた様子もうかがえ、事件の背後に複雑な政治の駆け引きがあったともされている。元禄時代は江戸期におけるニューウェイブの時代であったのだが、そうした新しい時代の潮流が複合し合って生み出した事件とでもいうほかないところがある。

 だが、このよく分からない一連の事件は、「忠臣蔵」と総称されるものに結晶して、日本人のメンタルな部分を刺激するモンスター的な存在となっていった。

 この一連の事件を総称するシンボル語として「忠臣蔵」の三文字が使われるようになるのは、二世竹田出雲(いずも)らの人形浄瑠璃「仮名手本(かなでほん)忠臣蔵」が寛延元年(一七四八)の初演で大当たりをとって以来のことである。すぐに歌舞伎の世界にも採用され、その代表的演()し物の一つとなっていった。人形浄瑠璃と歌舞伎による「仮名手本忠臣蔵」の成功によって、以後、討ち入り事件を含む一連の事件を扱った義士劇は、すべて「忠臣蔵」の名で呼ばれるようになる。

 演劇界に始まったこうした「忠臣蔵」の人気は、やがて川柳、落語、講談、浪花節などのジャンルにも導入され、義士物語としての「忠臣蔵」の名が庶民の間に浸透していった。この現象は、近代以降の小説はもちろんのこと、その後の映画やテレビの映像メディアのジャンルでも、同じような現象をもたらしている。その内容もスタイルも、人口に膾炙した義士伝説を伝える講談調のもの、史実を洗い出した史伝ものや実録もの、一連の事件に異説を打ち立てた新解釈もの、四十七士の内面に踏み入って心理を分析したものなどなど、多種多様なものがある。

 刃傷事件から討ち入り事件までの二つの大きな事件の間にはさまざまな人間模様があり、そこから派生してくるエピソードには数知れないものがある。元禄事件あるいは赤穂事件は、まさに元禄時代の矛盾を象徴する大事件であった。その謎と実態を探ること、そして事件から生み出された「忠臣蔵」の魅力を解明することは、日本人の心情と行動パターンを分析することでもある。その分、作家の奔放自在な発想による物語展開が可能なわけで、作家にとっての腕のふるいどころともなっている。

 作家それぞれにそれぞれの「忠臣蔵」があるわけなのだが、昭和二年に連載が始まった大佛次郎の『赤穂浪士』には、どんな発想が見受けられるかを見ていこう。

 物語は、生類憐(しょうるいあわ)れみの令が重苦しくのしかかっていた元禄期、その時代風潮を象徴するかのように、ニヒルな剣士の堀田隼人がいきなり登場してくる。

 「ただ、灰色の厚い壁が目の前に立ちふさがっている」といった閉塞(へいそく)感から虚無的で刹那(せつな)的な生き方を選んでいくこの青年の存在感が、それまでの「忠臣蔵」ものには見られなかった新鮮な魅力であった。そして、堀田隼人とはまったく対照的な存在の怪盗・蜘蛛の陣十郎のキャラクターの魅力がさらに加わって、赤穂四十七士の討ち入り事件が絵解きされていく。

 大佛次郎は、当時の武家社会の二つの流れを物語の背景に置いている。一つは、武門の伝統を守って剛毅廉潔の清らかさを保持しようとする旧流であり、もう一つは、賄賂と情実で世の中を渡っていこうとする現実派の新流であった。浅野内匠頭は廉潔一辺倒の古い流れに属し、吉良上野介はその逆の現実賄賂派の新しい流れに属していた。さらに大石内蔵助に上杉家の江戸家老・千坂兵部(ちさかひょうぶ)を旧流側に、将軍側用人・柳沢吉保(よしやす)、豪商・三国屋、犬医者・朴庵(ぼくあん)を新流側に位置づけることで、元禄武士の倫理観のありようと時代思潮の変化を如実に差し示している。

 新興町人階級と結託して甘い汁を吸おうとする柳沢吉保らの幕府官僚機構に対して、そんな政治体制の変革を求めて立ち上がる大石内蔵助、こういった図式の中で、読者にとってはすでに周知の討ち入り事件の顛末が描き出されていく。討ち入りの首尾が分かっているにも関わらず、ついつい読まされてしまうところが、「忠臣蔵」の魅力であるわけだが、大佛忠臣蔵は、こうした図式を物語の中に貫徹させることで、元禄時代が内包していた時代不安をクローズアップしていくのである。これが連載時の時代状況と関連して、この作品にいっそうの凄味をもたらすことともなった。

 昭和二年という年は、その三月に始まった金融恐慌によって未曾有(みぞう)の不況時代となった。七月には、芥川龍之介が自殺した。その枕元に遺されていた「或旧友へ送る手記」の中の「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」の一文が、当時の知識人たちにとって、まさに「時代の不安」とも重なっていったのだった。大佛次郎が創り出した堀田隼人のキャラクターは、そんな時代の知識人の心を見事なまでにとらえたのである。

 こうした時代と作家との、そして読者とのクロスぶりに関しては、堀田隼人のニヒリストぶりを見ていく個所でもっと詳しく述べることにしたい。この時代とのクロスは、大佛次郎が、作品のタイトルを「赤穂義士」とはせずに、「赤穂浪士」としたところにも表れているものだ。

 そして、もう一つ、赤穂浪士たちが集団で公儀に異議を申し立てる行動を起こしたことが力説されている点にも、作家と時代のクロスぶりのありようを見ることができる。本稿の扉裏ページに掲げた一文は、大石内蔵助のセリフなのだが、「われわれの存在そのものが、天下、御公儀に向けての反抗、大異議」と内蔵助に語らせた作者の心境は、当時の知識人のそれを代弁するものであった。

 大石内蔵助は亡き主君の意趣を受け継いで、元禄太平の世相の中で廃れつつある素朴な精神である〝武士道〟に殉じていった。政治の厚い壁を、内蔵助は自ら行動することで、しかも、それは単独行ではなく、あくまでも集団で一糸乱れぬ行動をとることで、真の敵、つまり、元禄の世の濁った流れに、主君同様に(やいば)をふるったのである。素朴な精神である〝武士道〟を前面に押し出しているとはいうものの、社会経済的な矛盾があらゆるところで噴出していた昭和二年から三年にかけての時代に、よくこれだけ大胆な「忠臣蔵」を書き続けることができたものだと、大佛次郎の精神力の強さに感心させられる。

 新聞連載の開始時の大佛次郎はまだ二十九歳であったが、すでに流行作家だった。大正十年(一九二一)に東京帝国大学の政治学科を卒業してから、鎌倉高等女学校の教師をしたり、外務省の嘱託をつとめたりしながら、読物雑誌にいくつものペンネームで翻訳や創作を発表していたが、大正十二年(一九二三)九月の関東大震災を機に文筆生活に入った。

 大正十三年(一九二四)からの「鞍馬天狗」シリーズや大正十五年(一九二六)の初の新聞小説『照る日くもる日』などで、一躍、人気作家となった。その一方で、『由比正雪』(昭和四年)などの歴史小説、『ドレフェス事件』(昭和五年)などのノンフィクション、『白い姉』(昭和六年)などの現代小説も手がけて、自らの創作領域を押し広げていった。

 明治三十年(一八九七)十月九日に横浜市で生まれた大佛次郎は、小学校一年生の五月に東京へ転居となるまで、港ヨコハマのエキゾチシズムの中で育った。後年、横浜の海岸通りに面したホテル・ニューグランドを仕事場としたのも、この港町への愛着からであった。『霧笛』などの明治開化ものには、そんな作者の愛着の深さをうかがい知ることができるのだが、開港場として常に外へ開かれた港ヨコハマの風土に幼い頃から接したことで、自由人の気質がその内部に植え付けられていったことは、容易に想像がつくところだ。

 大佛次郎は、こうした明治開化もので、明治期の青年たちが外国人に対して抱いていた複雑に屈折した微妙な心情をとらえていた。そして、この『赤穂浪士』では、それから半世紀を経た時代の青年たちの屈折した心情を違った角度からとらえ切ったのである。当時の青年たちの屈折した心情、それを堀田隼人に見出すことができる。この青年像を創造した点に、『赤穂浪士』の存在意義がある。

 昭和の初年に若い知識人たちの心をとらえたニヒル剣士の堀田隼人は、『赤穂浪士』の第一章「(かげ)を歩く男」の冒頭部にいきなりの形で登場してくる。つまり、物語の一番最初にこのニヒル剣士が姿を見せ、しばらくは赤穂浪士の「あ」の字も出てこないし、浅野内匠頭や吉良上野介の名も出てこない。

 物語は、五代将軍徳川綱吉が退出したあとの護持院の境内の描写から始まる。

 《大門をくぐって入り堂と堂とをつないで動いている群衆も花を水に浮かせて見るように、色さまざまにたとえようもなくはなやかだった。度々の華奢の禁令も、熟れきった時代の空気の醗酵を止めることは出来なかったと見える。》

 と、元禄期の太平な時世を反映した人々の華やいだ様子を描き出していく。

 そして、こうした境内の喧騒のフル・ショットから場面は一転して、大門の脇に立ってこの雑踏を眺めている一人の若い浪人者にズームアップされる。その若い浪人者の容貌は、こう記されている。

 《この若者の切長の目にはどこか人と違うものがあった。(とし)二十(はたち)を出たくらいであろう。鼻筋がとおって(ほり)の深いはっきりとした顔立をしている。服装(なり)を当今風にさせたならば、あるいは人目をひくだけの美貌ではなかろうかと思われる。が、顔全体の表情が、齢に似ずおっとりしたところがなくて、けわしいといいたい位つめたく冴えて見えた。目つきがそれを代表している。切長の、はっきりした()い形をしていながら、この華やかな雑踏を眺めても他の者のように浮いた色を見せることもなく、終始、水のようにひややかな一色に(とど)まっている。いや、時にその冷たい色が(じっ)と重なり合って来て、冬の水の底にきらりとする魚のうろこのように色なく閃く時がある。その刹那(せつな)に、肉の薄い形のいい唇が、隅のところで心持反()って、さげすむような微笑を含むのである。》

 長い引用になってしまったが、この容貌描写に、若い浪人者、すなわち、堀田隼人のキャラクターがみごとに象徴されている。堀田隼人がその身につけているニヒルな(かげ)りを物語の冒頭部に置くことで、元禄期の華やかさとは別の次元に生きる青年の鬱屈(うっくつ)を表象しているのである。

 そして、堀田隼人のこうしたニヒルな翳りと心情が、一体、どんなところから生み出されたものであるかが、次の展開の中で説明されていく。

 堀田隼人は、母とともに父方の叔父の〝かかりゅうど〟(居候)となっている。父の甚右衛門(じんえもん)は、護持院建立のときに普請(ふしん)奉行をつとめた幕臣であったが、一徹な武士気質のために、建築用材三、四本のことで、御奉行「(むき)念入れざる仕方不埒(しかたふらち)」と三宅島へ遠島(えんとう)処分となり、配所で病没した。理不尽な死であった。

 母はわが子の将来に夢を託し、出世してほしいと期待を持っているが、「今の世の中は働きたいにも遊んでいなければならぬように出来ている」と思う堀田隼人には、そんな希望は皆目感じられない。

 《ただ、灰色の厚い壁が目の前に立ちふさがっているのが感じられる。たたこうが、押そうが、びくともしない岩畳(がんじょう)な壁である。(こわ)したい。何もかもたたき潰すよりほかにこの息苦しい気持から逃れる法はないような気がする。ちょうど着物の裾に火がついたようにじっとしていられないように思う。》

 元禄の世の中は自分を受け入れてくれそうにもない。こういった焦燥感を常に抱いている堀田隼人には、母の期待は重荷でしかなかった。もう一つ、掘田隼人の心情を表現した個所を紹介しておこう。

 《この心の裂目を風が吹いてとおる……日の目を見ない草の葉のようにしらけたものが、かさかさに胸に詰まっている。

 暗い。

 鉛のように重い心持だ。沼だ。曇り空の下にまどろむ泥沼だ。降らず照らず動かぬ空だ。さッ! と天地を覆して降る雨がほしい。

 こんなでいて、ほかに、もっと明るい朗らかな生き方を考えられないとは、みじめなことだ。追い詰められたのだ。一歩、一歩、暗い梯子(はしご)段を降りて来たわけだ。といって、上へ引き返すわけには行かない。》

 現実世界への虚妄感を母よりも強く感じている堀田隼人は、生きることの焦りも手伝って、厚い壁の前に立つ息苦しさから逃れるには、何もかも叩き潰すよりほかないと、虚無の剣を振りかざす。そして、いつしか、斬り倒した相手の裾で血に汚れた刀身を拭う瞬間に、何となく満ち足りた実感を味わうようになっていった。

 この『赤穂浪士』が連載された昭和二年(一九二七)五月から翌三年十一月にかけては、金融恐慌のあおりで失業者が巷にあふれていた。大佛次郎が連載小説のタイトルを、「義士」とはせずに「浪士」としたのは、そうした時代状況を意識してのことであった。また、二次にわたる山東出兵や張作霖(ちょうさくりん)爆死事件が起こるなど、大陸進出に向けて緊張が高まりつつあった時期でもある。

 こうした時代状況がもたらす「時代の不安」の中で、自らの去就をきめかねて悩んでいた若い知識人たちに、堀田隼人の虚無感がアピールしたのだった。昭和三年十月に『赤穂浪士』の上巻が刊行され、十五万部の売れ行きを示したのも、「忠臣蔵」を政治の問題としてとらえた大佛次郎の視点とともに、ニヒル剣士・堀田隼人の存在が当時の青年たちの心をとらえたからである。

 物語の冒頭部で、堀田隼人が護持院の大門にたたずんでいたのは、実は、「何もかも叩き潰してしまいたい」という鬱屈から、父がらみの恨みが籠もる護持院に放火するためであった。だが、放火は失敗に終わり、腕利きの御用聞きに追われる羽目となる。怪盗・蜘蛛の陣十郎の庇護を受けて、人生の裏街道へと入って行った堀田隼人は、やがて、上杉家の家老・千坂兵部の隠密(おんみつ)組織の一員となって赤穂浪士たちの動静を探り、兵部の命令のままに挑発工作に従事する。

 しかし、赤穂浪士たちの討ち入り後は、「義士が幾人できようが世の中が利口になろうが、なるまいが、それが何だというのだ」と、ますます虚無感を強めていく。本稿の扉裏ページに掲げたもう一つの言葉は、自暴自棄に陥っていく堀田隼人に向かって蜘蛛の陣十郎がさらりと言ってのけるセリフなのだが、この神出鬼没の怪盗は、「なるようにしかならないのが人間だ」と、時の流れに身をまかせ、いただくものはしっかりと自分のものにし、状況に応じて逞しく生きていく。時代を達観したその生き方を、大佛次郎は堀田隼人の虚無と対置する形で骨太に描き出している。

 護持院の境内の雑踏の模様と堀田隼人のニヒルな容貌の描写で始まった物語は、次のような一節で終わっている。

 《その後のことは(よう)としている。

 蜘蛛の陣十郎は呂宋(ルソン)へ渡ったという説を立てる者があるが、その真偽は言明出来ない。堀田隼人がお仙とともに、相模の小坪の寺で心中したことだけは事実だ。今でも、南の海に向かった石段に椿の老木が枝を垂れている寺である。》

 お仙というのは、千坂兵部が放った隠密の一人であるが、このラストでも、堀田隼人と蜘蛛の陣十郎のその後の生き方が対照的にとらえられている。

 私がこの「堀田隼人」と出会ったのは、つまり、大佛次郎の『赤穂浪士』を初めて読んだのは、昭和四十二年(一九六七)十一月に刊行された『カラー版国民の文学5 大佛次郎』(河出書房)であった。京都の狭い下宿で、一晩かかって夢中で読んだことを覚えている。当時、大学四年生で、就職か大学院進学かで悩んでいた時期だった。

 この長編作を原作としたNHK大河ドラマ「赤穂浪士」の放映は昭和三十九年のことであったから、林与一(よいち)扮するところの堀田隼人のニヒル剣士のイメージはすでに知ってはいた。だが、原作の堀田隼人像に触れて、周囲の壁を叩き潰してしまいたいとする堀田隼人の閉塞感と焦燥感とに大いに共鳴したものだった。一九六〇年代半ばの学生には、六〇年安保を体験した学生のような挫折感こそなかったものの、堀田隼人が感じる閉塞感は十分に理解することができたからだ。

 そして、この長編を読んだ翌年、昭和四十三年十一月二十一日に、封鎖中の東大の正門前で、東大生の母親たちが、学生たちに「童心にかえれ」とキャラメルを配ったことが話題となった。このニュースを見たとき、思わず堀田隼人の母の次のようなセリフを思い出したものであった。護持院の放火に失敗した堀田隼人が、叔父の屋敷の離れに戻って来て、母の愚痴を聞く場面に出てくるセリフである。

 《お前はまだ若いし……とにかくこれからなのだから……ほんとうに何といっても江戸だからね。子供の内から何をやっても他人様(ひとさま)に負けたことがなく、よく出来たお前だもの、自棄を起こさないで辛抱強くしていたら、きっといいことがあると思っていますよ。ほんとうに、お母さんには、お前だけなんだから……》

 この堀田隼人の母のセリフのうち、「江戸」を「東大」に変えれば、そのまま昭和のキャラメル・ママのセリフになるのではないか。そう思えてならなかった記憶がある。

 堀田隼人の母は、こうしたセリフを息子に聞かせることで、ますます彼を絶望の淵へと追い込んでいることに気づいてはいない。わが子の出世に、まだ期待を待っている。母親の一途な愛を感じて、堀田隼人は母を可哀相だとは思うものの、社会の厚い壁に跳ね返される自分の不甲斐なさに腹を立てて、「そもそも生まれてきたのが間違いだった」とまで、自らを追い込んでもいくのだ。

 大佛次郎は、この『赤穂浪士』の連載が完結した五年後の昭和八年(一九三三)七月から九月にかけて、『霧笛』を「東京朝日新聞」に連載した。この作品は、明治開化期の横浜を舞台にとって、当時の若者たちが居留地の外国人に対して抱いていた屈折した感情をよくとらえているのだが、英国人の使用人となった主人公千代吉は、異人の主人への憎悪と畏敬という相反する複雑微妙な振幅の中で揺れ動いている。そして、「人間の生きているということが、むやみやたらとわびしくさびしい」という思いに駆られていく。この千代吉の心情は、堀田隼人の虚無感と相通じるものがある。

 堀田隼人が強く感じていた閉塞感は、昭和初年のファシズムヘとなだれこんでいく時代のそれを表象するものであったのだが、青年が感じる閉塞感というものは、いつの時代にも存在するものだ。その意味からも、堀田隼人のニヒルな心情は、永遠の青年像の一つといってよいだろう。

  無位無冠から這い上がる

   黒岩重吾『天風の彩王—藤原不比等』……藤原不比等
 何の悩み事もなく、花吹雪に包まれながら、我が世の春を謳歌しているように見える不比等(ふひと)も、その内心に地獄の闇を抱えていた。世を捨てない限り、欲につかれた人間は皆そういうものである。

 誰が見ても不比等は天風に乗っている。それにもかかわらず不比等の不安感は消えない。

 一見、順風満帆で、不比等と三千代の野望を積んだ船は、目的地に向って進んで行く。だが不比等は安心してはいない。病もある。いつ、嵐が吹いて船は転覆するかもしれないのだ。

 海が穏やかであればあるほど、不比等は周囲に神経をとがらせた。

 主人公の藤原不比等(ふじわらのふひと)は、持統(じとう)朝(在位六八六〜六九七年)の時代に頭角を現して大宝律令(たいほうりつりょう)の編纂と平城京遷都を推進し、その後の律令国家の基礎を固めた知謀の政治家である。西暦六四五年の乙巳(いっし)のクーデターと大化改新の黒幕だった中臣(なかとみの)(藤原)鎌足(かまたり)の二男として生まれ、天武(てんむ)天皇亡きあと、持統、文武(もんむ)元明(げんみょう)元正(げんしょう)の各天皇から厚い信任を得て、娘二人を入内(じゅだい)させて天皇の外祖父や皇后の父となり、天皇家の外戚としての位置を確保して権力の頂点に立った。

 黒岩重吾の『天風の彩王 藤原不比等』は、この知謀の政治家の生涯の光と影を追って順調な出世を遂げることができた謎と実像に迫った長編力作である。平成七年(一九九五)一月号から平成九年(一九九七)五月号にかけて「小説現代」に連載され、平成九年十月に講談社より上・下二巻で刊行された。

 物語は、藤原不比等がまだ中臣(ふひと)の時代、七歳の少年期の描写から始まる。「赤いトンボが高床(たかゆか)式の屋形を取り巻く(さく)に止まっている」という書き出しに続いて、その赤トンボを眺めている童子にズームアップされ、童子の容貌が次のように描写されている。

 《童子は筒袖の上衣を着、筒様の(はかま)(くつ)もはいていた。

 農民の子供なら衿などはかない。膝からしたは剥き出しで裸足である。明らかに高貴な身分の童子に違いなかった。そういえば、童子の肌は北国の女人に似て白い。一文字に結んだ唇は淡紅色である。ただ眉は濃く釣り上がり、勝気な性格を示している。当時の倭人(わじん)にしては鼻筋が通り鼻梁が高い。

 トンボを眺める一重の眼は切れ長である。もしこの童子が女人に扮したなら、誰も男子(おのこ)とは気づかないに違いなかった。》

 この童子が主人公の藤原不比等で、こうした描写の中に後の不比等の特色がすでに表現されているのだが、読者はそのことを物語が進展していくにつれて気づかされることとなる。まことに心憎い書き出しである。

 しかも、この童子、単にトンボと戯れているわけではない。トンボに指を近づけたり、小石を投げてみたりすることで、トンボの生態を観察していたのである。

 《童子は柵に片手をかけ、執拗にトンボを凝視(みつ)めた。観察者の眼である。》

 《童子は小石を拾った。

 柵の間から小石を投げた。小石はトンボには当らず羽を掠めて草叢(くさむら)の上に落ちた。童子は唇を突き出し小首をかしげた。納得できないという顔である。石が当らなかったことではない。

 自分の指よりも、石に驚いたトンボの気持を計りかねているようだった。》

 トンボとの関わりの場面から、この童子の観察眼の鋭さの一端が分かり、只者ではないことを、読者に先ず強く印象づけている。観察眼の鋭さは父親譲りなのだが、童子の観察の域をはるかに超越するものであった。

 こうした資質に加えて、「もしこの童子が女人に扮したなら、誰も男子とは気づかないに違いなかった」と描写されているように、史は女人を魅了する魅力をも、少年の頃からすでに有していた。その分、早熟で女人への好奇心も()みの童子よりも強く、七歳の時に、男子と女人との身体の違いを自分の眼と指で学んでいた。そして、十四歳の時にはすでに、自分の魅力で女人を利用できることを知っていた。

 物語の冒頭部で展開されている鋭い観察眼や女人を狂わせる魅力に関するさまざまなエピソードから、藤原不比等の策謀家としての片鱗がうかがえる。

 父の鎌足は、壬申(じんしん)の乱(六七二年)が勃発する前に亡くなったが、その死の前日に、共に蘇我蝦夷(そがのえみし)入鹿(いるか)親子を倒して大化改新を押し進めた天智(てんち)天皇から大織冠(だいしょっかん)大臣(おおおみ)の位、そして藤原の(かばね)を受けた。その壬申の乱を十代半ばで迎えた史は、父の後ろ楯を失ったことで中立の立場を堅持せざるをえず、乱の外側で戦況を見守るしかない不安な心境の日々を送る。百済(くだら)からの渡来人で養育係の田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)と共に、飛鳥(あすか)から山科(やましな)の地に移り、父が集めておいてくれた渡来系氏族の学識者に学んで、学識を深く広いものにしていった。

 これは父の厳命でもあった。「最高峰に坐るよりも、その下あたりにいるのが一番居心地が良い」を信条とした鎌足は、少年の史が現実の政治に眼を向けることを禁じていた。今の史に必要なのは、倭国の官人が持っていない新しい知識であり、「政治の流れはどう変化するか分らぬが、どのように動いても、学問が必要な時代となる」と、時代の趨勢を睨んでいたからである。

 壬申の乱後、天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのみこ)、つまり天武天皇の親政が始まる。天武天皇は六七三年に大舎人(おおとねり)の制度をつくり、それまでの有力豪族の特権を剥奪した。大舎人とは任官志望の官人候補生に与えられた名称で、この大舎人にならなければ、どんなに有力な豪族の子弟であっても任官はできなくなった。有力豪族優先の基本方針を覆す画期的な制度であった。

 この制度がつくられて以来、天武朝における史の授位、任官の記述がなく、史は無位無官のままに放置されていた。「渡来系の学識者の中で育ち、新時代にとって必要な学問を備えている史は、まさに時代が最も要求する人物の筈である」とする黒岩重吾は、当時の史に授位、任官の記述がないことに疑問を持ち、次のような推測を展開している。

 《史はなぜ、任官できなかったのか。

 答えは一つである。天武に嫌われていたとしか考えられない。

 藤原鎌足を(たた)える「家伝」がどう書こうと、天武は人間的な面で鎌足に好意を抱いていなかった。自分が策謀家だけに、天武は鎌足の胸中が読め、鼻についてならなかったのであろう。

 同時に、その出生に大きな謎を持つ史にも生理的な不快感を抱いたに違いない。》

 ここに記されている史の出生にまつわる謎というのは、史が童子の頃から抱いていた母に関する疑問、謎である。

 自分が誰の子であるのかを、史は母の存在を通して考え、悩んできた。そして、自分は天智の子であるという確信にたどりつく。これは父を失った史が天武朝の中で生きる方向を定めるために自らつくり上げた確信であった。つまり、史はそう確信することで、壬申の乱に勝利して専制王者となった天武天皇の治世下を生きるためのアイデンティティとしたのだった。そして、同時に、さまざまな葛藤を経て得たこのアイデンティティは、偉大な父親の呪縛から解放されるためのものでもあった。

 無位無官のままに置かれていた史を登用したのは、天武天皇の皇后であるう鸕野讃良(うののさらら)、後の女帝・持統天皇だった。

 天武天皇の死後、六九〇年に女帝となった持統の庇護のもとで、史は新時代に欠かせない若手官僚となり、婚姻による閨閥づくりと巧妙な派閥づくりとで自らの政治的立場を強化していった。女帝の史に寄せる信頼は、史の才と人格によるところが大きかったのだが、出自に対する謎、つまり天智天皇の子かもしれないという隠された血の問題があったと指摘すると共に、女帝の異性への好意も混じっていた、という作者独自の分析がなされていく。こうした分析は、物語の冒頭部から描写されていた史の少年期の魅力とつながるものであり、その伏線の張り方に周到な展開ぶりがうかがえる。

 その少年期から渡来系の学識者に学んできた史は、(とう)新羅(しらぎ)の律令制度に詳しく、律令国家こそ新国家の象徴という使命感に燃える。「古代から新世界に橋を渡る際には吾の手で幕を開きたいもの、それでこそ、この世に生まれて来た甲斐がある」と律令の施行に向けて懸命に働く中で、史は徐々に実力と勢力をのばしていく。史から不比等と改名し、持統、文武、元明、元正の各天皇の厚い信任を得て、天皇家の外戚としての位置を確保していく。その一方で、大宝律令の編纂と施行、平城京遷都などを推進していった。

 天の強力な援護、天の風を得て、父の鎌足を上回るめざましい昇進を遂げながらも、不比等の内心の不安感は終生消えることがなかった。この不安感をとらえたのが、扉裏ページに掲げた一文なのだが、これは本作品のモチーフでもある。

 知謀の限りを尽くして異例の昇進を遂げていった藤原不比等に対する関心を、黒岩重吾は以前から強く持っていた。昭和六十三年(一九八八)に刊行された古代史エッセイ集『古代史への旅』の中の「持統女帝と不比等の目的」章で、不比等に関する関心のほどを次のように語っていた。

 《不比等は持統朝になって、突然、台頭してくるんですね。不比等の名が『日本書紀』に初めてあらわれてくるのは、六八九年(持統三年)です。不比等三十一歳のときのことで、竹田王(たけだのきみ)ら八人とともに判事に任じられ、直広肆(じきこうし)となった、と記されています。判事というのは刑部省の所属で、律を解釈する実務家です。

 不比等は、天智をバックアップした藤原鎌足の子ですから、近江朝に縁の深い人物。だから、持統朝でも、普通ならなかなか出世できないはずです。それが持統朝のときに、突然変異のようにあらわれて、のし上がっていくんですね。》

 《不比等は壬申の乱に加わっていなかったけれど、どちらかといえば近江朝なんですよ。ただし、その出自が不明で、謎に包まれています。》

 こうした関心の深さと共に、不比等が天智天皇の子である可能性もあることをエッセイの中で言及している。また、同エッセイ集の「新発見・新発掘がもたらすもの」章のエンディング部では、「これから取り上げたい人物」を語ってもいる。何人かの人物を挙げた中に、藤原不比等の名前が見られる。

 《それから藤原不比等も書いて見たい人物です。藤原鎌足のほうは書きたくないけれども、不比等というのは、ある意味で這い上がってきて、最高の位を得て死んでいった人間です。これまで比較的悲劇の人物を書いてきたから、こういう人物を一度は書いてみたい。》

 こうしたエッセイから、不比等がなぜ、権力の頂点に立つことができたのかという問い掛けが関心の根底にあったことが分かる。

 律令政治を必要としている時代の流れ、そして持統女帝の厚い信任、それが藤原不比等に対する天風であった。そして、「そんな不比等に神は更なる恵み」を与えた。文武天皇の夫人(おおとじ)となった娘の宮子(みやこ)身籠(みごも)り、妻の三千代も身籠ったのである。

《身籠ったのは嬉しいが、男児をと願う欲は嬉しさが伴う大きく重い負担となった。まさに人間の欲には切りがない。ことに不比等の場合は、欲が欲を生んでいる。》

 《天風は更に不比等に味方した。

 文武天皇の夫人・宮子がその年、待望の皇子(みこ)を産んだのである。皇子の名は(おびと)、後の聖武(しょうむ)天皇である。》

 それでも不安の雲は、扉裏ページに掲げた一文のように、次々とわき起こってくる。

《不比等の頭を占めるのは、政治よりも首皇子が、すこやかに成長することだった。

 地位が上昇し、人間の望みが膨れあがればあがるほど、不安感も増す。》

 不比等は、政治の場では感情を糊塗し、悠然と振る舞っていたが、不安感に苛立ち、かつての鷹揚さを失っていった。「孫は皇太子、娘はその正妃である。それでも不比等は安心できなかったのだろうか」と、不比等がその内心に抱えていた拭い切れない不安感、地獄の闇が(あぶ)り出されていくところに、この長編作品のモチーフが読み取れる。そして、これは黒岩重吾が現代小説の分野でも深く追究していたモチーフでもある。

 黒岩重吾は、大正十三年(一九二四)二月二十五日に大阪市で生まれた。父は、独学で電気技術者第二種の免状を取得して電気技師となった。母方の祖父・池田勤之助は日本基督教団の創立に奔走したキリスト者で、母も敬虔なクリスチャンであった。苦学力行型の父も晩年にクリスチャンとなった。

 奈良県立宇陀(うだ)中学校を経て、昭和十六年(一九四一)に同志社大学予科へ入学した黒岩重吾は、昭和十九年(一九四四)に予科から法科へと進んだが、学徒出陣で大阪の信太(しのだ)山連隊へ入隊となり、一週間後には北満に送られた。翌二十年(一九四五)八月、敗戦の夏には、ソ満国境からの脱出と満州の荒野の彷徨(ほうこう)という極限状況下での過酷な体験をした。

 釜山から密輸船で内地に帰還し、昭和二十一年(一九四六)二月に同志社大学法経学部法科へ復学。弁護士への夢がまだ残っていたのかもしれないが、作家になろうという思いもほのかにあった、とも振り返っている。昭和二十二年(一九四七)九月、大学を卒業し、証券会社や業界紙に勤務。全身麻痺による三年間の入院生活や釜ケ崎のドヤ街での暮らしなどを体験した。

 プロの作家として本格的にデビューしたのは、昭和三十五年(一九六〇)五月に書き下ろし長編『休日の断崖』を処女出版してからのことなのだが、それ以前の約十年間、黒岩重吾は小説を書き続けてきた。『休日の断崖』の出版のきっかけとなったのは、「週刊朝日」「宝石」共催の懸賞に応募した「青い火花」が佳作人選したことによる。昭和三十四年(一九五九)のことで、この年に文学の説話性、説話のロマンを回復することをモットーにしたユニークな同人誌「近代説話」の同人となっている。私淑していた源氏鶏太(げんじけいた)の紹介によるものであった。「近代説話」は、昭和三十二年(一九五七)から昭和三十八年(一九六三)まで全十一号が発刊され、同人の中から、司馬遼太郎、寺内大吉、黒岩重吾、伊藤桂一、永井路子と直本賞の受賞者が続いた。

 黒岩重吾の直木賞受賞は昭和三十六年(一九六一)一月のことで、寺内大吉と同時受賞となった。受賞作の『背徳のメス』は、その前年の夏に書き下ろした長編であった。『休日の断崖』が直木賞候補として話題となり、そのことに力を得て、ミステリアスな手法を駆使して書き下ろしたという。

 以後、現代の世相・風俗の中に人間の根源的な生と欲望のさまを活写し、その裏に(よど)んでいる(かげ)りの部分に焦点を当てて、今日的なテーマを抉り出した作品を数多く手がけていった。初期のミステリアスな手法はしだいに薄れていき、複雑な現代社会が生み出す思わぬ亀裂と陥穽(かんせい)をとらえ、その狭間で呻吟する男と女の内面に鋭いメスを入れた社会派的な現代小説の作品が多くなっていった。

 このジャンルでの第一人者の定評を得た黒岩重吾が古代史小説を手がけるようになったのは、昭和五十一年(一九七六)一月から連載を開始した『天の川の太陽』からのことである。壬申の乱をテーマに、当時の時代相や人間関係を立体的に写し出したこの古代ロマンで新境地を拓いた黒岩重吾は、以来、古代史小説のジャンルでも第一人者となっていった。

 現代社会の(ゆが)みとその底辺で(うごめ)く人間のさまざまな欲望と愛憎のありようを見つめてきた冷徹な観察眼で、黒岩重吾は古代史の謎とロマンをも見通していった。朝鮮三国に中国という当時の国際情勢をも視野に入れたグローバルな歴史認識に基づく古代史観と芳醇なロマンの肉付けという基本原則は、この『天風の彩王』にも貫徹されているものだ。

 初期の現代小説を執筆していた頃に、黒岩重吾は「人間の貪欲な本能、危機感、勇気、孤独感、焦燥、絶望感などに、私は創作意欲をかきたてられる」と語っていたことがある。これは古代小説にもそのまま当てはまるものだが、古代史ブームに言及した歴史エッセイの中で、次のように記してもいた。

 《古代史ブームは何時まで続きますかね? 等という質問を受けることがある。

 私はその度に、あなたは我々の国の本当の歴史を知りたくはないのですか? と答えることにしている。

 それは私が旧制中学生時代、建国二千六百年と教え込まれ、神武天皇を祀る橿原神宮の大拡張工事に駆り出された昭和十五年以来、漠として抱いた私自身への問いかけでもある。

 敗戦後四十年、日本は世界の諸国から憎悪と嫉妬の視線を注がれる経済大国になった。

 当然日本は先進国の一員として胸を()らしている。だが七世紀以前の歴史が曖昧模糊(あいまいもこ)としている先進国があるだろうか、と私は疑問を抱かざるを得ないのである。(中略)

 そういう意味で、古代史ブームと一部で呼ばれる現象はブームではなく、時代の流れの中で生まれた日本人の血と日本民族特有の知的欲求の産物なのである。》

 さまざまな謎に包まれた日本の古代史を探ることで、祖国の本当の歴史と文化のありようを知りたいとする黒岩重吾の古代史小説に寄せる熱い思いのほどが理解できる。

 黒岩重吾が古代史と取り組むきっかけとなったのは、昭和四十七年(一九七二)三月に高松塚古墳で発見された極彩色の壁画であった。この〝日本考古学界の戦後最大の発見〟に、黒岩重吾は大きなショックを受けたという。古代人が活躍した飛鳥(あすか)の地は、宇陀中学時代の思い出ともつながる地であったからだ。高松塚古墳のある明日香(あすか)村は、三八式歩兵銃を担いで軍事教練をやった場所であり、橿原(かしわら)神宮は勤労奉仕に駆り出された場所であった。

 少年時代に無意識のうちに古代史と接触していたことで、古代史小説を手がける以前から『古事記』『日本書紀』を読み始めてはいたのだが、老後の楽しみになどと漠然と考えていたという。それが極彩色の壁画の発見という外的なショックを受けたことで、古代史との回路が一気につながって、黒岩重吾の古代史への傾倒が始まったのだった。

 豊かなロマンを膨らませていくもとは古代人に対する人間的共感だと黒岩重吾は述べているのだが、『天の川の太陽』以来、三世紀前後の卑弥呼(ひみこ)から八世紀後半の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)まで、さらにはヤマトタケルや神功(じんぐう)皇后といった神話の人物などを、黒岩重吾は長・短編さまざまな趣向で描き上げてきた。『天風の彩王』でも壬申の乱が重要なポイントを占めているが、この乱を扱った黒岩作品には、『天の川の太陽』『天翔(あまかけ)る白日—小説大津皇子(おおつのみこ)』の長編に、『剣は湖都(こと)に燃ゆ』『影刀(えいとう)』の作品集がある。『天風の彩王』では主人公の藤原不比等を通して、これらの作品とは違った角度からのアプローチがなされている。

 作家デビュー四十年にあたった平成十二年(二〇〇〇)、それを記念したインタビュー「書き続けるということ」(「本の話」二月号)の中で、古代史の勉強を始めた頃のことを、黒岩重吾は次のように振り返っていた。

 《「違う世界を見ないと、小説に膨らみがなくなるということはある。沢山書いていると、どこか同じものを書いている気がしてくるんだ。本の売行きが少し落ちてきたというのも気になったけど、それよりこれは前に書いたものじゃないかと、ギョツとすることのほうが怖い。

 古代史の勉強を始めたのもこの頃。自分が育った土地には古墳が多かったし、奈良県の中学にいたということもあって、老後のために、ひょっとしたら小説になるんと違うかなと思いながらね。でもね、やっぱり恐怖感がある。これまでは恰好つけてあまり言ってなかったけど、絶えず恐怖感はあるんですよ。こんなもん書けるかな、現代小説以外にも俺は書けるんやろうか、と」》

 また、直本賞を受賞して流行作家になっていった頃のことを振り返った発言もある。

 《「ただ無数の小説を次々と書いていけるのかどうか、というのは絶えず不安に思ってた。直木賞をとって五、六年はそのことで頭がいっぱいだったな」》

 《「明日は突然書けなくなるんじゃないか、そんな不安に絶えず(さいな)まれていた」》

 《「舞踏病にかかって、踊りながら道を歩いている姿だとか。無に近い悩みの透明感。まあ、修羅場の中で無になって、一生懸命走っとる感覚やな」》

 《不安感と同時にやはり小説の鬼が書かせたんじゃないかな。もの凄い量を書きなぐったよ。自分がこれまで書いた原稿を見て、ここまで書いたんだから、これからも大丈夫だ、と。そういうふうに自己暗示をかけるしか方法がなかった。たとえば連載を六、七本。それだけで月に五百枚ぐらい書いているわね。そこへ『別冊文藝春秋』から一挙掲載で三百枚の原稿依頼が来る。そのためにスケジュールを無理して十日ぐらい空けて、山の中の旅館を借り切って書くわけです」》

 黒岩重吾という作家を理解する上で、これらの発言は、書くという行為に対する作家の不安感、恐怖感を吐露したものとして貴重な補助線となるものだ。創作に関するこうした不安感と恐怖感は、『天風の彩王』の主人公・藤原不比等の権力にまつわる不安感と恐怖感とは全く別次元のものではあるのだが、物語のラストに記された「それでも不比等は安心できなかったのだろうか」という問いかけに、黒岩重吾が自らの不安感と恐怖感を重ね合わせていくナイーブな心情が表出している。

 権謀の限りを尽くして権力の座を独占し、それを維持し続けようとした不比等の孤独な不安感、それを黒岩重吾は直視して、不比等の内面に分け入っていく。不比等が死ぬまで不安感を抱き続けていたことには理解を示しつつも、それがかつて自分が感じていた不安感とは全く別のもの、権力者に特有の自家撞着であることを描き出してもいる。権力者や独裁者の孤独というステロタイプな図式を超越したところに、この長編の存在感がある。

 不比等が不安感に苛まれることへの共感はあっても、不比等の不安感の中味には決して共鳴してはいないところに、黒岩重吾の作家魂が感じ取れるのである。主人公への関心のありようと距離の取り方といった独自の創作手法を探る上でも、不比等が抱く内心の不安感の指摘には注目すべきものが多い。人間の本質を探り出すことが小説の本来的な機能であることを、黒岩重吾はこの古代史小説でも改めて実感させてくれるのである。

 黒岩重吾が七十九歳で急逝したのは、平成十五年(二〇〇三)三月七日午後一時二十分のことであった。『役小角(えんのおづぬ)仙道剣』と『闇の左大臣 石上朝臣麻呂(いそのかみのあそんまろ)』の二つの長編が遺作となったが、とりわけ『闇の左大臣 石上朝臣麻呂』は、連載の最終回が死後に書斎から発見されたという、絶筆ともなった遺稿であった。

 黒岩重吾は昭和五十九年(一九八四)に発表したエッセイ「憤り」(「東京新聞」九月一日)の中で、こう記していた。

 《私の青春時代は戦争下にあった。私達は戦争への批判を一切口にすることが出来なかった。その当時のことを思い出すと、今でも憤然とする。祖国を焦土と化して日本人が得た最大のものは自由であった。この自由こそ、われわれは何が何でも守り通さねばならないのである。》

 戦中派作家・黒岩重吾の現代社会に対する肉声、憤りのほどが感じられるのだが、黒岩重吾ありせば、自衛隊のイラク派兵や憲法改正の動きに揺れ動く現在の日本社会をどう斬りまくるか、それを聞いてみたいという思いが、改めて沸き起こってくる。

  自ら「捨て石」になる志

   杉本苑子『孤独の岸』…平田靭負正輔
 普請場へおもむく藩士も、肉親をそこへ送る家族の者も、〝死〝への覚悟は、とうに持ってしまっているに違いない。だが、その覚悟は覚悟として、なお、あたうるかぎり我々は生きぬき、ふたたび故郷(ふるさと)へ戻って来なければならない。生命への未練ではもとより無い。愛する者たちへの執着とも違う。生きぬくことが、せめても薩摩の藩士らに残された、公儀へのたった一つの抵抗……。

 自分を含めて、島津藩上下、薩摩(さつま)の国人すべてが否応なく体験させられるであろう苦しみの、ひとつひとつの性格は、今、平田にもわからない。ただ、商量(しょうりょう)できないほど巨大ななにかがこれから始まる……同時に、自分自身のすべては、今日で終ってしまったのだという動かしがたい実感はあった。

 杉本苑子は昭和二十六年(一九五一)に、「サンデー毎日」の「創刊三十年記念百万円懸賞小説」に応募した「申楽新記(さるがくしんき)」で佳作を取り、翌年には「(りん)()」で「サンデー毎日」大衆文芸賞に入選した。

 数多くの有力な作家を育てた新人賞として記憶されるこの賞の受賞を契機に、杉本苑子は選考委員の一人であった吉川英治に師事することとなる。そして、師の言に従って、以後十年間、商業雑誌に作品を発表することなく、創作の研鑽を重ねたことはよく知られているところだ。

 昭和三十六年(一九六一)から商業雑誌に小説作品を発表しはじめたのだが、昭和三十七年(一九六二)十月に講談社より書き下ろし刊行したこの『孤愁の岸』で、翌年一月に第四十八回直木賞を受賞した。江戸中期の宝暦四年(一七五四)から翌年にかけて、薩摩藩が徳川幕府の命令で行った木曽・長良(ながら)伊尾(いび)(揖斐)三川の治水工事を題材に取った長編で、「複雑に入り組んだ暗い材料を自身に取り込み、壮大でしかも緊密な作品世界を構築し得た技倆の確かさ」「格調高く詩情豊かな本格歴史小説」という評価を得て、選考委員の全員一致による文句なしの受賞であった。

 濃尾平野を貫流するこの三川は、当時、美濃・尾張・伊勢の三国にまたがって網目状に合流していた上に、川底の高低差もあって、しばしば大洪水をもたらしていた。古来、水害の常襲地帯であったことは、『今昔物語』の中に長良川の洪水に触れた物語があることからも分かる。三川分流の抜本策を計画した幕府は、薩摩藩に治水工事の手伝い普請を命じた。薩摩藩は多大の犠牲を出して工事を完成させたのだが、「宝暦治水事件」として語り継がれているものだ。

 物語は、宝暦四年(一七五四)一月、七草(ななくさ)は過ぎた(なま)温い新春の宵から始まる。

 この夜、薩摩藩の重臣たちに非常召集がかかった。島津七十七万石の居城鶴ノ丸城の本丸の小書院に集まった彼らは、江戸表より急飛脚が届き、旧冬十二月二十五日をもって薩摩藩に「濃尾川普請手伝い」の幕命が下ったことを知らされる。木曽、長良、伊尾三川一帯の氾濫を防ぎ、穀倉の沃野を守るための大工事である。

 二十六歳の青年藩主・島津重年(しげとし)をはじめ重臣たちは、恐怖と絶望感に打ちひしがれた。普請手伝いとは、人夫の賃金、資材の購入費など、ほとんどの経費の負担を意味する。大名の財力を削ぐために幕府が用いる常套策であった。

 工事の着工は二月、今年中に竣工の予定で、総入費は当初見込みの倍の三十万両。外様大名の雄とはいうものの、相次ぐ大火による復興費用や将軍家からの御降嫁による婚姻費用など物要りに物要りが続いたことで六十六万六千両もの厖大な借財に喘いでいる島津藩にとって、藩財政の破滅どころか、死の宣告にも等しい幕命であったが、(あらが)うすべはなかった。

 総奉行に任じられた五十一歳の勝手方(かってがた)家老・平田靭負正輔(ひらたゆきえまさすけ)は、「なぜ、このような無残が許されるのか」と、幕府が持つ権力について考える。しかし、島津の社稷(しゃしょく)を護り抜くためには、幕命を甘んじて受けるしかない。死の宣告にもひとしい幕命を、「有りがたき仕合せ」と受け、祝詞さえ述べ合わねばならぬ矛盾きわまるしきたりに、重年はじめ薩摩の藩士らは、もはや何ごとも言わずに耐えた。待ちかまえているであろう行く手の苦難に比べれば、まだまだたやすい我慢であった。

 江戸と国許(くにもと)を合わせて千人近い家中の者が、異郷の地で治水工事に関わることとなった。薩摩藩士たちにとって、生き抜いて再び故郷に帰ることこそ、理不尽な重圧をかけてきた幕府への抵抗だった。

 勝手方家老の平田が総奉行に選ばれたのは、資金の調達と経費の節約、一にかかってこの二点のためであり、彼の全能力、全責任もこの二点に凝縮していた。平田は大坂の両替商を相手に、武士の誇りを捨て、道端の金さえ拾う覚悟で金策に奔走し、何とか資金の目処(めど)をつけてから現地入りした。

 木曽川と伊尾川合流部の千間(げん)に及ぶ切り離し(油島千間堤(あぶらじませんげんづつみ))、支流を長良川から締め切る(大榑(おおくれ)川の締め切り)二大工事のほか、川底を浚い、枝川や埋め立て地を造るという空前の難工事が、四組に分かれて始まる。工事を行うのは幕吏であり、請負人であり、計画の変更や普請の出来栄えに一喜一憂するのは土地の農民である。他人が他人のためにする工事へ、資金と労力をそそぎ込む。御手伝い方の役目はこれに尽きた。

 藩と公儀の役人の衝突、村方請負いの無駄の多い仕事や経費の不正請求、資材の隠匿と高騰、事故、大雨による工事箇所の崩壊、疫病の流行、そして藩士の自殺と、艱難(かんなん)が次々に襲いかかる。そんな困難の中で、平田は村方請負の一部を町方請負に切り替えることに成功して、十四、五万両を節約することができた。

 暗い日々の中で、出府途上の藩主が工事現場を訪問し、御手伝い方一同は狂喜して出迎えたこともあった。重年は工事に従事する藩士たちと同じ食事を取り、病舎に廻って、「健やかになれよ。そして一日も早く国許へもどるのだ」「桜島の噴煙をのぞむ汝らの故郷、あの鹿児島城下へ、そろってふたたび帰ってくるのだ。よいか。よいか汝ら」とかきくどき、励ました。

 また、十歳の嫡男・善次郎を伴い、この幼い世継ぎに、「幼いそなたにはまだ判るまい。が、やがてはそなたも濃尾の川普請で、島津の家中がどれほど苦しんだか、藩士たちがどのような艱難を()めたかを知るだろう。その日のためにも善次郎、そなたは明日、普請場へ行かねばならぬ。その足で踏んだ河原の石、その眼で見た藩士らの姿……心に刻みつけて、成人ののちも決して忘れてはならぬぞ」とこんこんと言い聞かしてもいた。この若き藩主の言動が、一時的にも現場に明るさをもたらした。

 翌年三月二十七日に油島千間堤が、一日遅れて大榑川洗い堰工事が完成した。この二大難工事の終了は、そのまま全工区の終了を意味していた。

 だが、野面(のづら)一面に波うつ声は、工事竣工の狂喜や喜びの凱歌ではなく、吐息とすすり泣きだけだった。待ちわびていた完成の日なのに、底知れぬ明るい穴へ身体がふわっと陥ち込んでいくような虚脱感を藩土たちは感じていた。工事の完成、帰国、息詰まるほどの感激ではあったが、そんな喜びとはうらはらな、言いしれぬ哀感と敗北感とが伴っていたのだった。

 平田も「工事は完成した。そして同時に、薩摩の敗れも決定したのだ!」と思う。もともと敗れ切るために汗を流し、力を絞ってきた御手伝い方であり、工事の竣工は完敗の同義語でもあった。

 治民—その目的の上では空前の治水事業を完成し、政策—軍事的な意味からは、とことんまで島律家を痛みつけ得た幕府……。みごとに彼らは勝ったのだ。無力なはずの農民も、その幕府権力に便乗して、やはりみごとに水に勝った。公儀も農民も、望んだものを得た。薩摩が得たのは、死者の骨壷と厖大な借金だけだ。権力との闘いに勝ちはなかった、と平田は感じていた。

入費は四十万両、屠腹(とふく)した者五十名、病死者二百二名。薩摩藩の二年間の全収入を上廻る巨額で、工事受諾以前の旧借金を合わせると九十万両近い負債を払いこなしていかねばならない。島津上下の苦しみはこれから始まるのだ。

「時代は変ってしまった」と、平田は思う。そして、「侍というものの観念の置き方も、否応なく変らされてくるのが当然なのだ。甲冑に血をしぶかせ、城乗りの先頭を競う時代は去った。武士たちは金との闘いに命も誇りをも磨り減らさねばならなくなってしまったのだ」と、時代の潮流を分析した平田は、「自らの怒りの炎に焼き亡ぼされるのだ」と下僚に告げ、自害して果てる。

杉本苑子は「深く腹を裂き、返す刀で頸の動脈を断ったみごとな最期だった」と、感慨をこめてその最期の様子を記している。遺書はなく、床の間に香炉と並んで、「住みなれし里も今さら名残りにて 立ちぞわづらふ美濃の大牧」の短冊だけが残されていた。この地で命を落とした藩士たちとともに眠る覚悟を、平田は工事受諾の直後から持っていたことが分かる。

 杉本苑子には土木事業を扱った作品として、ほかに『玉川兄弟』『穢土荘厳(えどしょうごん)』『冥府回廊(めいふかいろう)』などの長編作があるが、本作は宝暦治水事件をテーマとして、幕府という絶対権力が仕掛けてきた惨酷な戦に命懸けで抗う薩摩藩士たちの苦闘、苦境の中で交わされる家族や主従、同僚との細やかな情を描き出している。それとともに、公共事業の経済的な側面にも焦点を当て、幕府官吏、政商、高利貸し、農民などのそれぞれの利害にからむ人間模様も描き出していく。こうした公共事業の実態は、現代社会のそれに思いを馳せさせるものがある。

 幕命により、よその地のために資金と労力をそそぎ込む絶望的な治水工事で、多くの薩摩藩士たちが命を落とした。竣工の日、生き長らえることができた藩士たちが、惨苦の記念にと堤に松の苗を植える。「この苗木が根張りたくましい老松に生い立つころ……われわれは此の世に生きていまい。が、松籟(しょうらい)は千間堤あるかぎり、薩摩藩士一千名の悲泣を奏でつづけるのだ」という描写に万感迫るものがある。

 杉本苑子はさらにこうも記している。

 《治水の意義—それを喋々することとは別に……まったく別に、御手伝い方藩士らの胸底に燃えたぎっているであろう抑えがたい無念。これから先も子へ孫へ、受け継がれ受け継がれ息づきつづけるであろうひと筋の火に……(きょ)となって燃え上る日は恐らくは来まい、が、また、決して消えることも無いであろうひと筋の火に……薩摩藩士一千名の〝怒り〝の哀しさに……。》

 ここでは確とは記されてはいないが、幕末期に薩摩藩が倒幕運動に踏み切っていったことが想起されもする。宝暦治水事件の怒りが、薩摩隼人たちの胸の底にくすぶりつづけていた。そんな角度から幕末維新史を眺めていく面白さもあるわけだ。

 何度も舞台化された『孤愁の岸』は、幕府が押しつけてきた理不尽な治水工事に多くの青春が空費される姿を浮かびに上がらせている。そこに出陣学徒たちを見送った杉本苑子の戦中派としての視点と思いが作品の中に投影されている。

 公共工事の背後に存在する幕府政治のありように関して、杉本苑子は物語の中で次のように記している。

《諸侯へも民衆へも、一寸のゆるみも無く立ち塞がっている幕府の機構、幕府の権威—。だが一歩、壁の裏側へ足を踏み入れれば、欲にからんだ不正や馳け引きが、汚水さながら渦巻いているのが実態なのだ。その規模の大きさ、根の深さにくらべれば、堤方(つつみかた)役人と村役どもとの、一杯飲ませた飲まされた程度のくされ縁など、他愛ないと言っていい。》

 また、工事の途中で、総奉行の平田靭負が目付役の愛甲源左衛門に語りかける場面がある。

 《—むき出しな利己の集まり……そうした中でも工事はたゆみ無く進められて行く。そしてやがては、感激に満ちた完成の日も訪れてくるだろう。堂々、河中へ延びた千間堤(せんげんづつみ)。整然と並んだ水制の蛇籠(じゃかご)……。それを造った人間たちの我欲も痛憤も超越して、かれらは美しく、見事に違いない。しかし出来上ったものの美しさ、その感動に、造った人間の醜さまでをすり替えて許してはならないのだ。それは胡魔化(ごまか)しだと自分は思う……。》

 難工事に関わるさまざまな人間模様とその裏に存在する人間の醜さを象徴する場面として印象深いものがある。作者の戦中派としての視点と思いは、扉裏ページに掲げた「普請場(ふしんば)へおもむく藩士も、肉親をそこへ送る家族の者も、」云々という一節からも強く感じ取ることができる。

 戦時中に杉本苑子が見送った出陣学徒たちには、扉裏ページにあるような「あたうるかぎり我々は生きぬき、ふたたび故郷へ戻って来なければならない」といった心情はなかったことだろう。国のために、愛する者のために、と彼らは自分を納得させて出陣して行ったのだ。こうした戦中体験に照応させて、杉本苑子は薩摩藩士たちの苦衷を描き出していったのである。

 大正十四年(一九二五)六月に東京・牛込の若松町で生まれた杉本苑子は、戦争一色に塗りつぶされた時代に青春期を過ごしている。昭和十八年(一九四三)に駒沢高等女学校を卒業して千代田女子専門学校の国文科に入学し、古典を学ぶかたわら、観能に熱中した。翌年、戦争の激烈化によって中退。戦後の昭和二十二年(一九四七)に文化学院の文科に入学し、観能と能研究熱を高めていった。

 誕生の翌年、満一歳の暮れに昭和の改元があったから、杉本苑子は満年齢が昭和の年と同じ世代になる。そして、昭和十八年(一九四三)十月二十一日に東京の明治神宮外苑陸上競技場(現・国立競技場)で開かれた出陣学徒壮行会で、雨中を行進した世代であり、彼らをスタンドから見送った世代である。

 『昭和 二万日の記録』(講談社)の「第六巻 太平洋戦争」には、「学徒出陣」の項が見開きページで説明されている。文部省主催の出陣学徒壮行会には、東京とその近県七十七校から集まった出陣学徒たちが雨中を行進し、見送りの家族・級友・中学生・女学生など六万五千人がスタンドを埋めた、とある。

 《出陣学徒代表東京帝大の江橋慎四郎の答辞がのべられると、会場には『海ゆかば』『紅の血は燃ゆる』の大合唱が起こった。駒沢高等女学校の生徒、杉本苑子(作家)もスタンドにいた一人だった。びしょぬれの小旗が破けて棒だけになっているのを振り回して、出陣学徒を見送った。》

という解説記事に続いて、次のような一文が収録されている。

 《「ワァワァ泣きながら隊列を乱して、その出て行く人たちのあとを追っていった。『行ってらっしゃい。行ってらっしゃい』って」)(「潮」昭和四十年七月号)

 杉本苑子の戦争体験に関しては、杉本作品の解説などで何度か触れたことがあるのだが、この「行ってらっしゃい」の繰り返しの箇所を紹介する時は、その都度に涙が出てくる。その折りの解説には、「幼子が出勤する父親に『行ってらっしゃい』と言っているのとは、状況が全く違う」と書いたことを覚えている。

 出陣学徒代表の答辞は、「生等もとより生還を期せず」という言葉で終わっていた。『昭和 二万日の記録』第六巻の解説記事も、前の文に続けて、「戦場からふたたび祖国に戻ることのなかった学徒は、さまざまな感慨を書きのこした」として、六人の手記を紹介している。「行ってらっしゃい」という言葉は、あくまでも「お帰りなさい」という語と対で使われるべきものであろう。それが分かっていて、ほかの言葉が使えなかった苦しさ、悲しさが、この繰り返しの言葉の中に、そして答辞の結びの言葉に感じられるのである。

 杉本苑子は昭和二十四年(一九四九)に文化学院を卒業したが、この時の卒業論文は「世阿弥(ぜあみ)」であったという。あるエッセイの中で、能と小説との関係を記したあとで、次のように続けている。

 《このように、私の人生と深いかかわりを持った能にくらべると、歌舞伎とのつきあいはごく、軽い。能との思い出は、すべてあの、敗戦を中に挟む戦中戦後の感情とつながっており、真剣で熱かっただけに、苦しくもあったが、歌舞伎の場合ははじめから遊びごころで愉しんできた。》

 ここに記されている「敗戦を中に挟む戦中戦後の感情」には、出陣学徒たちを見送った体験も含まれているのだ。この「戦中戦後の感情」が、杉本苑子を歴史小説の創作へと駆り立てているものであり、戦前戦中の皇国史観に基づいた歴史教育とは異なるアプローチで歴史をとらえていく独特の杉本史観の基となっている。

 杉本苑子は自らが属する世代を〝捨て石の世代〝と呼ぶ。昭和五十年(一九七五)に発表したエッセイに、この語をタイトルに取ったものがあるのだが、そこには杉本作品に見られる史観のありようがよく表れている(随筆集『片方の耳飾り』所収)。その中にこんな一節がある。

 《戦前—つまり出生から敗戦までの歳月は、私の場合、軍国主義ひと色に塗りつぶされていた。教育の根幹がミリタリズムを土壌にしたものだし、生活をめぐる社会環境のすべてが、軸を一つにして転回しつつ結果的に破局に終った戦争へと、大股に歩みつづけていた時代だから、免疫性のなかった私たち子供が、骨の髄からそのように〝作られる〝ことになった。》

 このあとで、「時代の重圧」を子供ながらに感じていた十代の頃の心情を思い起こして、杉本苑子はこうも綴っている。

 《考えてみると、満洲事変、上海事変、国内では五・一五事件、国際聯盟(れんめい)からの脱退、二・二六事件、そして盧溝橋(ろこうきょう)の銃声によって始まった日中事変と、エスカレートし肥大化する一方だった国家の意志の前に、私たちの世代は、ちょうどそれぞれの未来図を模索し出す青春期にさしかかったにもかかわらず、個々の幸福をまったくと言ってよいほど、願っていなかった気がする。(中略)個人の幸せが、国の理念や大義と結びつくところに達成されるのだとしても、それを手にするのは次代の者たちであり、自分たちは甘んじて、そのための、〝捨て石〟にならねばならないと信念していた。》

 二十歳の時に敗戦を迎え、杉本苑子の戦後が始まった。

 《敗戦によっていっさいの価値観、土台となった信念の、崩壊に遭い、もはやふたたび〝作られる〟ことを拒否しようとのやみくもな自覚を核に、私の戦後は始まったし、むしろ一面には、より一層、生きにくさの増した三十三年間を精いっぱい、その核を抱いて生きてはきたけれども、今、自身の生きざまをみつめ直してみれば、やはり明治ではなく昭和二桁(ふたけた)でもないあの時代に、いやおうなく〝作られてしまった人間〟の悲哀を、けものの尾さながら曳きずりつづけてきた事実にぶつからざるをえない。》

 昭和二十二(一九四七)、戦時中は自由主義教育の弾圧で閉鎖されていた文化学院の文科に進んだ杉本苑子は高等女学校時代から関心を持ち続けてきた能の研究に励む。自分の好きなことに好きなだけ打ち込むことができる時間を持っているのが青春期であるとすれば、杉本苑子の青春は戦後に始まったと言える。そして、能への関心から小説を書いてみる気を起こしたというのだが、それが冒頭部で紹介した昭和二十六年(一九五一)からの「サンデー毎日」への応募作「申楽新記」「燐の譜」へとつながっていったのだった。

 この〝捨て石の世代〟としての青春の体験、思いが、杉本苑子の史観に照射されている。個人の自由や幸せが〝国の意志〟の前にひとたまりもなく呑み込まれていくさまを見てきた「皇国教育の申し子そのもの」の世代として、再び〝作られる〟ことを拒否しようとする姿勢が感じられる。

 こうした姿勢が創作姿勢にもつながっているわけなのだが、その創作の上で、杉本苑子は徹底した史料渉猟を行っている。さまざまな史料を駆使することに関して、かつてこう述べたことがある。

 《できるだけ良質な史料をできるだけ広範囲に読み込む。史実の部分も史料読みをやればやるほど構成力がしっかりしてくるし、同時に、フィクション部分も史料を読み込むことで思わぬ展開やら膨らみを見せてくれるという気がします。》

 史料の読み込みに関して、別のところで『孤愁の岸』の史料についても語っていた。

 《土木技術のことを調べたり自分なりに想像したことを、専門家に伺って理解するよう務めました。後に書いた『冥府回廊』でも、岐阜の山奥にダムを築く話で、水利治水を扱ってますが、元来、治水とか土本工事というものは、世の中を住みよくするために、血と汗を流す人がいて成功するのですね。その裏に感動のドラマがあり、政治経済の仕組みも浮き彫りにされてくるわけで、そういう歴史の中から、現代と共通し、共感しあえるものを汲み取っていただきたいですね。)

 この『孤愁の岸』では、「その裏に感動のドラマがあり」というさらにその裏側の人間ドラマ、政治ドラマが描き出されていく。そこに〝捨て石〟世代だという杉本苑子の創作姿勢のありようをうかがうことができる。

  大国のエゴに克った望郷の念

   吉村昭『大黒屋光太夫』……大黒屋光太夫
 不意に激しい勢いで胸に突き上げてくるものがあった。それは、抑えがたい怒りにも近いものであった。

 「私たちは、毎日ひたすら故国へ帰ることのみを願って生きています。それ以外のことはさらさら考えたこともありません」

「オロシアノ役人ハ、私タチヲドノヨウニ考エテイルノデスカ。私タチハ日本人デアリ、日本ニ断ジテ帰ル。役人ハ生地ニ帰ルノヲナゼ押シトドメルノカ。帰国ヲ思イトドマレトハ、人間ノ言ウ言葉デスカ」

 光太夫(こうだゆう)の眼から涙があふれ出た。

 自分たちには日本という祖国があり、ロシア領に漂着したのは思わぬ海難事故に遭遇した結果で、あくまでも帰国する権利がある。ロシア政府の帰国はまかりならぬという返書に、光太夫は激しい苛立ちと憤りを感じた。

 江戸時代の交通網、とくに海運関係のそれは、現代のわれわれが想像する以上に発達していた。江戸中期から後期にかけて、つまり十八世紀の前後には、東廻りと西廻りの航路による廻船(かいせん)が隆盛した。だが、その分、遭難事故も増え、数多くの漂流民を出している。江戸後期、漂流の末にロシア領に漂着し、十年にも及んだ異国での過酷な日々を生き抜いて帰国した大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)も、その典型的な一例である。

 この『大黒屋光太夫』は光太夫の波瀾の後半生を描いた歴史長編である。吉村昭は「あとがき」の冒頭部で、「若い頃から江戸時代に多発した廻船の漂流記に興味を持ち、小説を本格的に書くようになってから関心はさらにつのった」と記している。

 昭和五十一年(一九七六)に刊行された漂流ものの長編第一作『漂流』では、江戸時代の千石船と呼ばれた運送船は積載と帆走の能力にすぐれていたが、「シケに弱いという重大な欠陥があった」ことが指摘されていた。幕府の鎖国政策によって、西洋の進歩した航海術を採り入れることができず、船の建造に関しては沿岸航海用に限られており、漂流事故の背後には、こうした幕府の政策があったという。

 また、日本列島を取り巻く複雑な海流の状況、とりわけ黒潮の存在が、「漂流事故とかたく結びついている」とも記されていた。大黒屋光太夫の船も、早い潮流の黒潮に乗って、アリューシャン列島にまで流されたのだった。

 千石積みの「神昌丸(しんしょうまる)」の沖船頭・大黒屋光太夫が伊勢国白子浦(しろこうら)を出帆したのは、天明二年(一七八二)十二月、三十二歳の時であった。船乗りは光太夫を含めて十六名、それと紀州藩の藩米運搬責任者一名が乗船していた。

 だが、鳥羽浦を出帆して間もなく、神昌丸は遠州灘で大時化(しけ)に遭遇し、舵と帆柱を失って東へ流される。七カ月間もの漂流の末、光太夫たちはアリューシャン列島のアミシャツカ(アムチトカ)島に漂着した。

 ラッコの毛皮商人のロシア人と原住民とが住むこの孤島で、無気力に日を過ごしていた光太夫たちにとって、「エト・チョワ」というロシア語が「これはなんぞや」と問う言葉であると知ったことが、大きな刺激となった。この言葉を連発して、光太夫たちはロシア語の語彙(ごい)を次第に増やしていき、そのことでロシア人との交流を深めていく。言語によるコミュニケーションの重要さを認識することができるエピソードである。

 孤島に滞在するロシア人を迎えに来た交代船が座礁したことで、光太夫たちは習得したロシア語でロシア人に協力して、破船したロシア船と神昌丸の残骸の船材で五、六百石積みほどの船を造り、カムチャッカヘ向けて出帆することができる。

 光太夫たちは、カムチャッカからオホーツク、ヤクーツク、イルクーツクヘと移って行く。その間にも、風土と食物の違いに耐えられなかった者が次々に絶命していき、生き残っているのは六名だった。

 光太夫たちはロシア政府に帰国願いの書類を何度も提出する。だが、「いささかもゆるぎない態度で、不許可の回答をしたロシア政府に、広大な大地を支配する政府のしたたかな姿勢を見る思いがするのだった」と、吉村昭は光太夫の胸の内に分け入ってもいる。

 光太夫は、自分たちの以前にも、ロシアに漂着した日本の船乗りたちがいて、日本語の教師をつとめていたことを知る。ロシア政府はなぜ、日本の漂流民を帰国させようとしないのか?

 彼らが帰国できなかったことに、光太夫は巨大な力が作用しているのを感じた。ロシア政府は、ロシアの南進政策の一環である日本との接触を目標に、将来に備えて日本語学校を設立し、その教師として漂流民の滞在を必要とし、帰国させなかったのだ。

 伊勢国生まれの光太夫の体は、極寒のロシアの地では本質的に耐えられないものであった。ロシアで生存することは不可能であり、なんとしても帰国せねば、と光太夫は気持ちが挫けそうになりつつも、帰国の望みを捨てることはなかった。

 光太夫の強い望郷の念を、吉村昭はこうも記している。

 《光太夫の眼の前に故郷の若松村のたたずまい、白子浦の海の色がうかび上った。その地には菩提寺に先祖代々の墓があり、春には梅、桜が花開き、夏はまばゆいような緑が大地をおおい、秋には村の前面に遠くまでひろがる海の色が澄む。生きているかぎり、なんとしてでもその地に帰りたかった。》

 こうした光太夫の強い意志を理解して、ロシア政府に帰国願いの書類を提出することに尽力してくれていた陸軍中尉で学者のキリロ・ラクスマンが、皇帝に直接願書を渡すことを提案する。光太夫たちはキリロに案内されて、首都ペテルブルグヘと向かう。別宮のあるツワルスコエ・セロでエカテリナ女帝の引見を受けた時は、生存者は五名になっていた。

 光大夫たちの願書は、政務官のところで止まっていたことも判明し、女帝が怒るという場面も出てくる。こうした場面の描写に、官僚制度の弊害を苦々しい思いで見つめている吉村昭の視点を感じ取ることができる。

 引見からおよそ三カ月後の九月二十九日、女帝からやっとのことで帰国許可が出る。十月二十日、光太夫たちは宮殿に参内し、女帝から餞別の品々を貰う。光太夫が帰国後に、ロシアの良き理解者として日露両国の友好に寄与してくれるのではないか、という思いから、「政府高官たちの態度も変化していた」という記述に、手の平を返すような官僚たちの勝手さが表現されてもいる。

 十一月、光太夫、磯吉、小市がペテルブルグを出発。ロシアの宗教に帰依して洗礼名を受けていた庄蔵と新蔵は残る。

 光太夫たちはイルクーツク、ヤクーツクを経て、オホーツク港からロシア軍艦エカテリナ号で日本へと出帆した。白子浦を出帆したのは十年前、この間に十二名が死亡し、洗礼を受けた二名が残留して、日本へ向かう船に乗っているのは三名のみである。光太夫たちを日本へ送り届けるロシア人は派遣使節団の形をとっており、使節はキリロの次男で、二十六歳の陸軍中尉ラタスマンであった。

 寛政四年(一七九二)九月、蝦夷(えぞ)地の西別(にしべつ)に到着し、さらに根室へと向かう。根室上陸後、小市が病没してしまう。翌年八月に光太夫と磯吉は箱館から江戸へ送られ、町奉行所で取り調べを受けた。幕府にとって、二人はロシアの最新情報を得るための貴重な存在で、第十一代将軍家斉が江戸城内で引見した。質問者は蘭学者の侍医・桂川甫周(かつらがわほしゅう)であり、この時の記録が後に『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』としてまとめられたのだった。

 将来のロシアの進出を予測した幕府は、二人を折衝要員として江戸に留め置く方針を打ち出し、四十四歳の光太夫と二十九歳の磯吉は番町の薬園内に住むこととなった。

 生活費が支給され、行動も拘束を受けず、二人は自由に江戸市中を歩き、人の集まりに招かれてロシアでの見聞を話すこともできた。随斎会(ずいせいかい)という俳句の席に呼ばれた時、そこに一茶の姿もあったという。こうした意外なディテールに出くわす面白さがある。

 光太夫は寛政七年(一七九五)に、磯吉はその翌年に結婚。二人は故郷・若松村への帰郷も許可されたが、「十七人中わずか二人が帰国したことを、死亡した水夫(かこ)の遺族たちやロシアに残留した庄蔵と新蔵の家族がどのように思っているか」と、光太夫は留守家族たちの反応に複雑な思いを抱くのだった。

文化二年(一八〇五)十二月、陸奥国・石巻の若宮丸の水夫がロシアから帰国したことで、光太夫はロシアに残った庄蔵と新蔵のその後の消息を知ることができた。庄蔵は九年前に死亡していた。ロシアとの関係が緊迫化するにつれ、光太夫のもとには語学の才能にめぐまれた者たちが姿を見せるようになり、光太夫が記録していたロシア語会話集やロシア文を筆写していった。

 文化三年(一八○六)から翌年にかけて、樺太やエトロフ島に置かれていた日本の会所、運上所がロシア軍艦に襲撃される。幕府に意見を求められた光太夫は、今後も同様の事件が起こるだろうと答える。その予言どおりに、五年後にゴロヴニン事件が起こり、高田屋嘉兵衛の拉致事件と、事態は複雑な変転を示すこととなるのだった。

 文政十一年(一八二八)四月に光太夫は七十八歳で老衰死し、十年後の天保九年十一月に磯吉が七十三歳で死亡した。ともに本郷の興安寺に葬られた。この後、光太夫の息子・亀二郎のことにも触れている。十四歳の時に木綿問屋に奉公したが、その後、学識豊かな学者となり、多くの門弟を擁した。姓を大黒、号を梅陰と称したという。

 光太夫の息子が、その号に「梅」の字を用いていたことに注目したい。父の光太夫は異国の地ロシアで、梅の花咲く故郷を目指してひたむきに闘い続けた。『大黒屋光太夫』は、仲間たちの死、ロシア語の習得、ロシアの厳しい寒気、牛乳や牛肉を食べることへの嫌悪感など、十年に及んだ光太夫たちの不屈の闘志のありようを存分に描き出しており、読む者の胸を強く打つのである。

 この大黒屋光太夫に関しては、先行作として井上靖『おろしや国酔夢譚(こくすいむたん)』がある。伊勢漂民大黒屋光太夫一行の苦闘を年代記的文体で綴った長編で、昭和四十三年(一九六八)に刊行された。

 光太夫の比較文化的な視点と認識に注目した井上靖は、帰国しても故郷の伊勢へ帰ることができず、江戸で半幽閉の後半生を送らなければならなかった光太夫の心情を、「前半生の烈しさに較べると、死んだようなものであったろうと思われる」と描いていた。

 いっぽう吉村昭の『大黒屋光太夫』は、平成十三年(二〇〇一)十月一日から平成十四年(二○○ニ)十月三十一日にかけて「毎日新聞」夕刊に連載され、平成十五年(二〇〇三)二月に毎日新聞から上・下巻で刊行された。つまり、刊行時期からいえば、井上作品から三十五年後ということになる。

 この吉村作品では、新たに見つかった帰郷の事実を示す新史料に基づいて、取調べを受けた後の光大夫の行動は自由で、むしろロシア事情を知る貴重な存在として扱われた、と帰国後の光大夫の存在感に大きな違いを示している。

 また、漂流してロシア領に漂着した日本の船乗りたちを押しとどめ、日本語教師として帰国させない方針を採ったロシア政府に、光太夫は「自国の利益のみを念頭に自分たちをその犠牲にしようとしている。人間としての当然の権利を剥奪するもので、到底容認できるものではない」と怒りをおぼえる。この心情には、最近の北朝鮮の拉致問題と被害者の姿が重なり合ってもくる。

 光太夫は「背筋が冷く凍りつくのを感じた」と描写されている。ロシア政府は、他の日本漂流民と同じように、自分たちをも底知れぬ深い淵の中に落しこもうとしている。だが、と光太夫は思う。いかなることがあっても故国へ帰らねばならない。同じ船に身を託した十一名は死に絶えたが、帰国を願い続けていた彼らの霊を背負い、日本の土を踏む。光太夫は確固とした意志を持つこととなる。

 こうした点を突き合わせても、井上作品と吉村作品には、三十五年の歳月の移ろいが如実に表れていて、実に興味深いものがある。

 ロシア政府の政策転換で漂流民として初めて日本に送還された光太夫とその配下の磯吉、小市について、吉村昭はかなり以前から関心を寄せていたという。

 光太夫の聴き取り調査は蘭学者・桂川甫周がまとめた『北槎聞略』があるのだが、もう一人の帰還者・磯吉からも陳述を引き出し、記録した者がいるに違いないと考えていた吉村昭は、磯吉の陳述記録『魯西亜(ロシア)|国漂舶聞書(ききがき)』が存在することを知った。この聞書の記述は、人間臭さがにじみ出たもので、磯吉の若さからくる新鮮な観察も随所に見られ、これを読んで小説『大黒屋光大夫』の執筆を思い立った、と「あとがき」に記されている。

新聞連載完結後に書かれたエッセイ「漂流に見た人間劇」の中では、「この小説を書く間、死にたくない、と何度か思い、どうしても書き終えたいと願った。それが果たせたことに、満ち足りた思いである」と記されていた。その意味からも、『大黒屋光太夫』は吉村昭の漂流小説の集大成と位置づけることができる。

 また、平成十五年(二〇〇三)四月に刊行された『漂流記の魅力』(新潮新書)は、ロシアから世界一周をして帰国した若宮丸の水夫たちの漂流記を紹介したものだが、その第一章「海洋文学」で、吉村昭は、イギリスと同じように周囲を海に囲まれ、規模もほとんど変らぬ島国である日本に、イギリス流の海洋文学が見られない原因を探っている。

 二本または三本の帆柱(マスト)に多くの帆を展張して外洋航海が可能な西洋諸国の大型帆船に対して、弁才船(べんざいせん)と称される和船は内海航行のみを目的に設計、建造されており、絶えず陸岸を視認して岸沿いに往き来するという外洋航海には不適なものであった。こういったイギリスと日本の船の構造の違いに注目して、だからこそ、日本には広大な海を舞台にしたドラマが起こるはずもなく、イギリスのような海洋文学は生まれなかった、と結論づけている。

 だが、江戸時代、港湾の設備が整備され、内海航路の形態が確立し、その充実度は世界屈指のものとなっていた。この外洋航海に適さない和船の構造に関して、鎖国令を敷く幕府の意向とする説に、石井謙治『図説・和船史話』や金指正三『日本海事慣習史』などを参照して、吉村昭は異議を唱えている。この鎖国に対する観点は、前述した『漂流』の中の指摘とはまた異なった視点を示しており、その後の史料渉猟の成果のほどを見せてもいる。

 この鎖国政策に関して、『漂流記の魅力』の中に興味深い指摘がなされている。

 《日本各地で産する物は豊富で種類も多く、自国の生産物で十分に事足りた。鎖国政策で海外諸国との通商は禁じられていたが、もともと外国の地の産物を積極的に導入する必要はなかったのである。

 中国、オランダ二国との交易はゆるされていて、それらの国から交易品が輸入されはしていたが、日本経済を左右するような品々はない。日本は、海外の物品を輸入しなければならない状況にはなかったのである。》

 江戸時代とは経済の規模がまるっきり違うとは言うものの、食糧自給率ゼロとされる現代社会への警鐘とも受け取ることができるからである。

 それはともかくとして、江戸時代、船による荷の運搬が盛んに行われていたわけである。船が主体となっていた分、それだけ遭難・漂流事件が頻発したのだった。

 こうした分析に加えて、吉村昭は、黒潮の恐ろしさと遭難・漂流との関係を論じた上で、奇跡的に帰国した漂流民に関する記録が幕府の吟味書として残されていることに注目し、「帆船時代、イギリスで海洋文学の作品が生まれたが、同じ島国の日本でも、まさに海洋文学の名に値いする漂流記が数多く生み出された」としている。壮絶な人間記録である漂流記は、「江戸時代の日本独自の海洋文学としていちじるしい光彩を放つ」「第一級の海洋文学の内容と質を十分にそなえている」「日本独自の海洋文学」と結論づけている。

 大黒屋光太夫は、日露交渉史の狭間で運命を翻弄された。光太夫の波瀾の生から、幕末外交の裏面史を探ることも可能である。

 その疾風怒濤の幕末維新期の開幕をどの時期に設定するかについては、さまざまな論議がなされてきたところだが、一般には、嘉永六年(一八五三)のペリー艦隊の浦賀来航、いわゆる黒船来航に始まるとされている。幕末の動乱は、蒸気船という西洋の産業革命の産物が引き金となって始まった。

 日本への黒船来航、中国のアヘン戦争からも分かるように、十九世紀は欧米列強のアジア進出の時代であった。

 こうした列強のアジア進出を、日本の歴史年表に並列してみると、アヘン戦争が始まった一八四〇年は、水野忠邦の天保改革がスタートする一年前、天保十一年のことだ。一八五六年に始まり、一八六〇年に終結した第二次アヘン戦争は、駐日アメリカ総領事ハリスが来日した安政三年から桜田門外の変が起こった万延元年にあたる。イギリスはさらに一八五八年にインドのムガール帝国を滅ぼし、直接統治を開始した。安政五ケ国条約が結ばれ、安政の大獄の弾圧が起こった年である。

 欧米列強の圧力と進出は、当然のことながら、日本にも向けられていた。その危機感から攘夷運動が起こるのだが、吉村昭は平成二年(一九九〇)刊の長編『桜田門外ノ変』で、井伊直弼(なおすけ)大老襲撃事件に水戸側から迫って、水戸藩に尊皇攘夷の思想が生まれた要因、そのプロセスを丹念にたどっている。

 水戸藩領の長い海岸線が原因だった、と吉村昭はこの長編の中で指摘している。異国船が日本へ来襲すれば、その上陸地点は、江戸に近い水戸藩の海岸線だろうという危機感が尊皇攘夷の思想の根底にあったことに気づいて、この思想を真に理解することができた、とも記している。

 吉村昭は『海の祭礼』でアメリカ捕鯨船員から英会話を学んで通詞となった森山栄之助の生涯をたどり、『黒船』ではペリー来航時に主席通詞をつとめた堀達之助の苦悩と悲哀の生涯を描いた。ペリー再来航時の主席通詞は森山で、堀は補佐役に回された。この二作で、吉村昭は、激動の歴史の中で翻弄される語学の才能を持った男たちの悲しみに目を向けている。そして、ペリー来航の背景には、当時のアメリカの捕鯨業の問題がからんでいたことを解き明かしてもいる。

 吉村昭は、昭和二年(一九二七)五月一日、まだ東京府だった日暮里町に生まれた。現在の荒川区東日暮里である。父は製綿工場(後に綿糸紡績工場)を経営していた。私立東京開成中学二年生の十二月に肋膜炎を患い、戦時特例の繰上げ卒業まで断続的な病気欠席が続いた。昭和二十年(一九四五)四月の夜間空襲で家が消失した。その前年の八月に母を、終戦の年の十二月に父を亡くした。

 昭和二十二年(一九四七)四月に学習院高等科文科甲類に入学したものの、翌年九月に肺結核の胸郭成形手術を受け、左胸部の肋骨五本を切除された。翌年の五月から十月まで、栃木県の奥那須で療養した。

 この若き日の闘病と手術が、吉村昭の死生観に大きな影響を与えるものとなっている。後年、昭和四十六年(一九七一)、「文學界」三月号に発表したエッセイ「詩人と非詩人」の中に、次のような一節を見出すことができる。

 《人の死は、常に残忍である。首に荒縄をくくりつけられ強引に引きずられてゆくような、たけだけしい暴力を感じる。》

 この一文からも、吉村昭の独特の死生観をうかがうことができよう。

 昭和二十五年(一九五〇)四月に学習院大学文政学部に入学。文芸部に属して、「學習院文藝」後に「赤繪」と改称)に脚本や小説を発表し始めた。その後も「環礁」「文学者」「Z」「亜」などの同人誌に加わって、短篇を発表していった。

 昭和四十一年(一九六六)六月、「星への旅」で第二回太宰治賞を受賞。ついで長篇「戦艦武蔵」が「新潮」に一挙掲載された。三十九歳の時で、「自筆年譜」には「ようやく文筆生活をする自信めいたものをいだく」と記されている。戦史小説、動物小説、医学小説、自伝的小説、歴史小説と、みずからの創作領域を広めていった。

 

 吉村昭が歴史小説を書くようになったのは、昭和四十七年(一九七二)に連載を始めた『冬の鷹』からである。これは『解体新書』の翻訳者の一人、前野良沢(りょうたく)を主人公にとったものであったが、その三年前に心臓移植のことを描いた『神々の沈黙』で医学史を調べているうちに、しだいに江戸時代へと興味が向いていったという。

 以来、吉村昭は、幕末・維新の史実に材を取った歴史小説を数多く発表してきた。そのいずれもが綿密な史料収集と現地踏査に裏打ちされた密度の濃い仕上がりを見せ、事実の手応えと緊迫した臨場感が共通して感じられる。桜田事変を扱うにあたって、吉村昭は近・現代史の流れを視野に入れ、「大変革が行われる時代には、それをうながす要因が凝集されている」と述べている。これは現代の内外情勢にも通じるもので、合わせ鏡としての歴史の照応といったものを強く感じさせる。この長編『桜田門外ノ変』から十三年後に刊行された長編『大黒屋光太夫』にも全く同様のことを指摘することができる。

 平成十八年(二〇〇六)七月三十一日、吉村昭は膵臓がんのために七十九歳で亡くなった。一年にわたる闘病の末のことであった。同年八月二十四日に、ゆかりの地である東京・日暮里のホテルで「お別れ会」が聞かれた。作家、評論家、編集者のほかに、インターネットで知ったという愛読者も参列して、六百人が集まった。その席上、妻で作家の津村節子さんが、発病から死まで一年余の闘病の様子を語った。遺言状に「延命治療はしない」と明記してあったことや点滴の管などを自ら引き抜いたことも明らかにされ、参列者に大きな衝撃を与えた。前ページで紹介した独特の死生観を表したエッセイの重みを、改めて感じ取った次第である。

 その死後、「新潮」十月号に掲載された短編「死顔」が遺稿となった。兄の死に接した主人公の感慨とともに、幕末期の蘭方医が自らの死期を悟って高額の医薬品の服用を拒み、食物も絶って死を迎える姿にも触れており、吉村昭は最後までこの作品の推敲に全力を注いでいたという。 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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清原 康正

キヨハラ ヤスマサ
きよはら やすまさ 文藝評論家。 1945年 旧満州(現中国東北部)・鞍山生まれ。主な著作は、「中山義秀の生涯」、「山本周五郎のことば」など。

掲載作は、「歴史小説の人生ノート」(2006年11月「青蛙房」刊)より、著者の自選で、抄録。

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