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硫黄島

 片桐正俊がはじめて私の前にあらわれたのは、一九五一年四月二十一日の夕方であった。私たちは私のつとめさきである新聞社の応接室で顔をあわせた。そのときかれの着ていた、いくらかくたびれかけた紺サアジの背広の肩さきにこまかな水玉がきらきらひかっていたのを、私はいまでもあざやかに思いうかべることができる。

「雨になったんですね」と私は言った。それは私のかれに対する最初の言葉だったと思う。するとかれはそれがなにか自分の落度ででもあるかのように肩をすくめて「ええ」と小さく答えた。

 かれはひどく顔色がわるかった。髪の毛をみじかくかりあげていて、そのために四角い顔がよけい角張って見えた。一般に表情に乏しくて、ひかえめな静かな声音で、多少もどかしそうに言葉をさがしながらゆっくり話をすすめていく、そんな印象が、かれの生き方の不器用さを正直に示しているようで、私はなんとなく好感をもった。かれの私をたずねてきた用件というのは、ひどく風変りなものだった。かれは言いだしにくそうにして、いつまでも、もじもじしていた。ときには苦しそうに身をよじったりするのだった。かれは海軍上等水兵として、硫黄島にいたのだが、木谷という同じ階級の戦友と、終戦後もなお洞窟にたてこもっていて、一昨年二月にやっと帰国した、と語った。

 そういえば、土気色にくすんでいて無表情でかたくなな感じのかれの顔つきには思いあたるふしがあった。私は一力月ほど前にもフィリピンの山奥に立てこもっていて、ようやくこんど帰国したという兵隊に市ヶ谷の復員局で会ったばかりだが、そういった人たちに共通のある表情が片桐のうえにもひろがっているのに気がついた。この種の人たちは、かれらがそのなかで住みついたジャングルの土や木や草や岩やすべてそれらのものとの一種の同化作用によって、非人間的なもの、あるいは自然に似てくるのではないか。そんなふうに思われるのである。だからときどき妙に話の通じあわないようなところが出てきて、いらいらさせられてしまう。片桐正俊にもたしかにそういうところがあった。

 かれが用件をきりだしたとき、私は思わずひざをのりだしてしまった。それは私をそうさせるだけのものをもっていた。けれどもかれがしゃべりおわったとき、私の胸にはいくつかの疑点のようなものがかたまってぶつぶつ吹きだしてきていた。その用件というのはこういうことであった。

 片桐正俊は一九四四年二月一日、横須賀の武山海兵団に入団した。3カ月後、館山の砲術学校にはいった。さらに三カ月たつと、かれは浦賀の防備隊にまわされ、その年の九月、硫黄島警備隊に編入されて横浜を出発した。かれが硫黄島に着いた時分はまだ空気は、それほど切迫してはいなかったが、十一月にはいると空襲もはげしくなり、ぐんぐん戦局はかたむきはじめ、ついに翌年三月、二万数千名の日本軍将兵はほとんど死にたえてしまったのである。そんななかにあって、片桐は自分の生命をまもりとおし、木谷上水(=上等水兵)とふたりで終戦後さらに三年余も穴居生活をつづけた。そしてこの期間にかれは大学ノオトに鉛筆で、せっせと日記を書きつづった。それは米軍に投降するときまでつづいたのだが、投降するとき、そのノオトを岩穴にうずめてきた。こんど米軍当局の特別のとりはからいで、かれが単身硫黄島にわたり、その日記を掘りだしてくることになった。そのことを新聞記事としてとりあげてほしい、それがかれの用件のすべてであった。

 私にはかれがいいかげんなことを言っているとは思われなかった。かれははじめから終りまで低いおしつぶしたような声で、まだるっこいくらい時間をかけて、そういうことをしやべった。あるいはかれは昂ぶってくる気持をおさえようとしていたのかもしれない。かれの態度は、いくぶんものうげで、いくぶんなやましげで、そしていくぶんかなしげでさえあった。私はなるべくかれの要求に応じたい、けれどもそのためにはなおいくつかのあいまいな点が残っているようなので、これをあきらかにしたいと言い、そのいくつかの疑点をつぎつぎにかぞえたててみせた。

 それはこんなふうにである。まず、日記をとりにいくというような全く個人的な必要のために、米軍当局が一介の日本人に渡島の許可をあたえることはありうるか。そのために片桐はどんな手続きをふんだのだろうか。おそらくはいくつかの段階にわたって当事者の出頭をしつこく要求するにちがいない当局との交渉の過程をどういう方法で踏みとおすことができたのか。もし渡島に成功したとしても、はたしてかれは日記をうずめた場所を、まちがいなく指摘できるかどうか。それができたとしても、その日記は地熱や風化に耐えてどの程度まで原形をとどめているだろうか。そんな日記をなんのために掘りおこさなければならないのか。こんなにもあやふやでたよりない計画に、やすやすと協力の手をさしのべるほど米軍当局は、ロマンチストぞろいなのだろうか。

 片桐は私の問いかけに、身をかたくしてじっと聞きいっていたが、しずかに顔をおこし、言葉をまさぐりながらぼそぼそ答えた。第一の質問について、かれはジェエムス・へンドリックスというアメリカの放送会社に勤務する特派員がかれのためにはかってくれた便宜のかずかずを述べたてた。かれはこのアメリカ人のことをくだけた気やすさでジミイとよんだ。ジミイとはグアム島の捕虜収容所で知りあったのだとかれは言った。そのジミイはかれに硫黄島行きをすすめ、すべての手続きをかたづけてくれたあと、朝鮮戦線に飛び立った。

 うずめた場所については銀明水に近い野砲トオチカの岩穴だと言い、地図を書いて、日記のありかを示した。ノオトは乾パンをいれるゴム袋に包んで、厳重に梱包しておいたから、原形はいちじるしくそこなわれることはまずないと思う。そう片桐は言った。

「これがもしかしたら一ばん肝心な点だと思うんですが」と私は言った。「なんのために日記をとりにいくんですか」

 かれは恥ずかしそうに顔をゆがめて笑った。「じつは、出来たら出版でも、と思いまして。もっともそんなあつかましいことは、ともかくとして、あの日記をいちど手にとってみたい。そんな気持から――」

 私がかれに職業を聞いたとき、かれはつぎのように答えた。「ぼくは昔は製罐工をやっていましたが、いまは鈑金(ばんきん)のほうです。渡り職工のような生活でした。いろんなことがありましてね」

 かれはよわよわしい微笑をうすく目もとにうかべ、ため息をもらした。かれは江東区北砂町九丁目の平和荘というアパアトに住んでおり、そこから北砂町六丁目の江東製作所という鈑金工場へかよっていた。そこでは主としてフライパンや鍋、バケツなどをつくっているのだった。私はかれのなかに町工場のもっている鉄と鉄とのふれあう重いひびきだとか、さびた屑鉄の刺すような匂いなどを、聞いたりかいだりした。

 

 日本軍が一応玉砕したとみなされていたあとも、なおかなりの数の日本兵が分散して洞窟のなかに立てこもっていた。片桐は、三井兵曹長以下六人のグルウプとともに、北地区海岸の陸軍機関銃トオチカの岩穴に身をひそめていた。かれらはひるまはじっとその岩穴にかくれていて、夜がこの凝灰岩でおおわれたシャモジ型の小さな火山島を、深い闇の底にのみこんでしまってから、外へ這いだし、いまではそれが唯一の仕事である食糧さがしに出かけるのだった。それは、ひるま敵の眼をさけて洞窟の暗がりに、じっとヘばりついているときよりも、はるかに濃密に恐怖や戦慄にみちた時間のなかヘ、かれらをはこびこんだ。

 ある午後、かれらはその岩穴にうずくまりながら明瞭に敵の気配を感じとることができた。片桐が通風孔に顔をおしあて外部をのぞき見たとき、かれのせまい視野のなかで、軍用犬をつれた数名の米兵がきれぎれにゆれうごいた。片桐たちは岩肌を抱きこむようにして腹這いになった。ふ、ふう、ふ、ふう、というセパアドの熱っぽい息遣いがあらあらしく流れこんできた。犬は日本兵の匂いをもとめて、鼻づらを岩肌にこすりつけるようにして、かぎまわっているらしい。米兵は大きな声で何か言いあっていて、ときどき口笛がするどく鳴った。岩を蹴りつける靴音が話し声をかきみだしながら、にぶくひびいてくる。その洞窟の入口は大きな岩でふさいであった。その岩穴に手をかけて揺りうごかそうとしているらしく、両足に力をこめて靴底を岩にぎしぎしこすりつける音や、岩がわずかにきしんで、ボロボロ泥がこぼれ落ちるかすかなひびきだとかが岩穴のおくふかくまで、つたわってきた。けれどもそれはすぐにやんでしまった。岩穴にこもった熱気が肌のうえを這いまわり、皮膚の内側にまでじとじとしみこんできて汗が全身からどっと吹きこぼれるのだ。のどはからからにかわいてしまって口のなかはあつい火のかたまりを押しこまれでもしたようだった。時間がどろどろにとけて、にかわのようにかれらをその岩穴のなかに、ねばっこく、とじこめてしまうかもしれなかった。とつぜん岩の割れ目が火を吹いた。米兵が自動小銃をうちこんだのだ。弾丸は岩にあたり、陰気な炸裂音とともにくだけ散った。硝煙の匂いがゆるやかに壕のなかにひろがった。米兵はそのまま立ち去ってしまい、時間はやっと動きをとりもどした。

「ちくしょう」と三井兵曹長が言った。「ちくしょうめ。このトオチカもあぶなくなってきやがった。やつら感づいたにちがいねえ。ぼやぼやしてると爆雷で吹っとばされるか、火焔放射器で焼き殺されちまうぞ」

 それからかれは片桐と木谷の名をよんだ。かれはふたりにできるだけ早く外へ出て、より安全な洞窟をさがしてこいと命じた。ふたりは顔を見合わせた。片桐は暗がりのなかで汗にぬれた木谷の顔がぶきみにひかり、眼玉がぎらぎらしているのを見た。ふたりは入口の岩を、長い時間かかって、ほんの少しずらし、からだをけずるようにしてその岩のすきまにすべりこませ、這いだした。ふたりは砲弾のためにえぐりぬかれた地面のくぼみや岩かげに身をかくしながら、焼けてどすぐろくなった砂のうえを這っていった。かれらはやっとのことで短十二(サンチ)砲台のあとにたどりついた。そこなら六人ぐらいはもぐれそうだった。かれらがもとのトオチカの近くまて這い戻ってきたとき、すでにあたりは夕闇に包まれていた。そしてトオチカに近づくにつれて、異臭がするどく鼻孔をつきさしてきた。ふたりのいないあいだにそこで何かが起ったことはあきらかだった。

 片桐は岩と岩の割れ目に顔をすりよせて奥をうかがった。すると脂の焼けこげたような臭気が一そう濃厚に流れてきた。それは、うたがいもなく焼けた人間の皮膚の匂いだった。かれは木谷と、入口の岩をずりうごかし、内部へふみこんでいった。木谷がマッチをすった。マッチの火はぼっともえあがり、ちろちろゆれながら、ほのぐらい視野のうちにいくつかの日本兵の焼死体を照らしだした。片桐はとつぜん全身ががたがたふるえだすのをおぼえた。

「見たか」とかれは木谷に言った。「顔が焼けただれて、べろっとむけ落ちてたな」

「うん」と木谷は言った。「腕がぼろきれみたいにこげてねじくれてたぞ」

 片桐も火焔放射器をあびせかけられた経験をもっていた。そのときの記憶が焼死体の匂いにたちまじってよみがえってきた。放射された火は、まるでそれ自体が明確な意志をもった生きものみたいに、通風孔から、突風のようにはげしい唸りを生じて吹き込んでくる。火はグオウ、グオウとほえたてながら伸びたりちぢんだり、ひろがったりとびあがったりして、自由自在に岩肌をなめまわした。ときには球体のようになってものすごい速度で岩から岩へころげまわるのだった。火は片桐に恐怖と同時に美的感動とでもいったふうなものをもたらした。火の運動はあまりにも美しい活気にみちていて、ときに、片桐は自分のからだをその火のなかに投げこんで焼きつくしてしまいたい衝動にかられたほどだった。

 こうして片桐と木谷のふたりだけの放浪がはじまった。かれらは、顔が黒こげになり、片腕をもぎとられ、ちぎれかかった残りの腕をぶらぶらさせながらただようようにジャングルのなかを歩き、とつぜんばったり倒れる日本兵の姿も見たし、迫撃砲弾に吹っとばされた首が木の枝に突きささり、しげみをざわめかせたのち、ぽおんところげ落ちる場面も見た。やがて八・二五平方(キロ)ほどのせまい火山島で、生きている日本兵は片桐と木谷のふたりだけになってしまった。ふたりは米軍の残していった衣類や食糧を熱心にひろいあつめた。そのころにはすでに米軍の火器による生命の危険はほとんどとりのぞかれていたのでかれらは要するに生活を充実させていきさえすればそれでよかった。石で針金をたたきつぶし、帯剣のさきで穴をあけ、さらに先端を石でこすってとがらせ、針をつくり、それで米軍の天幕の布を切りとりズボンや靴を縫いあげたりした。かれらは、たぶん死ぬまでこういう生活がつづくのだろうと考えていた。これ以外の生き方を考えることはほとんど不可能だった。かれらは投降すれば殺されるか、あるいは殺されないまでも、いまよりさらにもっとみじめな境遇に追いこまれるにちがいないと思っていたのである。そういうわけで、ふたりは何かの変化がとつぜんやってくることを、一ばんおそれた。いまの状態のまま時間が経過し、そしてその疲労にみちた時間の堆積の下で、少しずつ死んでいくのが一ばん好ましいことに考えられたのだった。そしてかれらのおそれていた変化は、ある晩、ついにやってきた。しかしそれは、かれらがおそれていたふうにではなく、いわば甘美に、快楽の気配をさえともなってやってきたのである。

 その夜、ふいにふたりは洞窟の闇の底で眼をさました。わずかにひらいた岩のすきまから光がさしこみ、岩の向うに、おびただしい生きもののひしめく気配が、ふたりの眠りの領域にまで、しのびよってきたのである。そのひしめきは、敵意というものを全く感じさせなかったので、ふたりは洞窟の入口に這い寄っていった。岩のすきまから流れこんできた光は焚火であった。火は音を立てながら燃えあがっていた。生きもの——これは米兵であった。十人ちかくの米兵は火をかこんで歌ったり踊ったり笑ったりとびあがったり叫んだりしていた。かれらはビイルを飲んだり罐詰の肉を食いちらしたりしていた。大きな影法師がふくれたりしぼんだりして岩のうえに倒れこんできた。火がゆれていた。それは木立や岩や砂をあかあかと染めあげて燃えつづけるのだった。米兵のあいだから聞きなれない歌声がきれめなしに流れ、炎に(あぶ)られてふくれあがっていった。

 米兵が立ち去ったあと、ふたりは入口の岩を動かしてそとに這いだしていった。ふたりは米兵の飲み残していったビイルを飲み、罐詰の肉を食べた。頭のうえで、夜が湿っていった。それはふたりの頭上でやわらかく閉じ、飽満がふたりを眠りにみちびいた。

 木の間から射す朝の最初の光が、片桐を現実につれもどした。そのときかれは自分の内部に何かがはいりこんてきたのを感じた。その何かは、かれに立ちあがれ、と命じた。かれはからだをおこし、ゆっくり立ちあがった。次いで木谷をゆりうごかした。

 それからふたりは腰をのばして、あせらずに潅木のしげみをわけて進んでいった。一足ごとに世界は新鮮さをまし、足もとから眼ざめていくように思われた。やがて海辺にちかいアスファルト道路に出た。道路はあさの光をはじきかえして白くどこまでも続いていた。片桐は眩暈(めまい)に耐えながらそこにじっと立ちつくしていた。米兵をのせたトラックがふたりをみとめた。

 米兵が叫んだ。「チャイニィズ」

 ふたりはそのトラックで米軍の航空隊本部につれて行かれた。そこからLST船でグアム島にはこばれた。グアム島で、放送会社の特派員をしていたジェエムス・へンドリックスに見いだされた。ジミイは海軍の日本語学校を卒業し、海兵隊の中尉としてサイパン、テニアン戦にも参加したことがあり、親切にもふたりのために帰国の面倒いっさいをみてくれた。

 そしてかれの手によって、奇妙なジャングル・ボオイのストオリィが、その放送会社にもたらされたのであった。

 

 片桐は、四月二十六日には出発できる、と言った。かれはかなり疲れているようだった。帰りがけ、私はかれがほんのわずか左足をひきずっているのに気づいた。私は「失礼ですが、硫黄島で?」と聞いた。「いいえ」とかれはかすかに首をふった。それからかれはそんな欠陥を私の眼からおおいかくそうとするかのように活溌な足どりて、室を出ていった。私はかれが、軍用機で立川を出発するという四月二十六日の夕刊に、硫黄島日記の物語を書いた。その四月二十六日の正午ちかく私は片桐正俊の二度目の訪問をうけた。かれは申しわけなさそうに、出発が来月の六日にのびた、と言った。私はいそいで私の書いた記事のうち、出発の日時のところを訂正した。それは最後の版に、やっと間に合った。私は、そういうことはもっと前に連絡してくれなくては困る、と少しきつい調子で言った。それというのも、信用していたこの青年から肩すかしをくわされたようないまいましさをおぼえたからだった。私にはもしかしたらこの男は案外くわせものなのかもしれぬという気さえした。それが私の物言いにもしぜんににじみ出ていたのだろうが、片桐は、おびえたようなまなざしで私を見るのだった。それからかれは何か言いたそうに唇をひきつらせたが、結局何も言わず、左足をひきずりながら帰っていった。

 そのとき私をある疑念がおし包んてきた。それは、片桐ははじめから、硫黄島へ行く意志などなかったのではないか、ということだった。一日本人の全く個人的な事情に動かされて、米軍が、いまではほとんど要塞化しているはずの硫黄島への渡航を許すというのも考えてみれば、少しおかしい。要するに片桐は、私をまるめこんで、新聞に渡島の記事を報道させ、あたかも島からほりだしてきたような顔をしていいかげんな日記をこしらえあげ、出版しようという魂胆ではないのか。そういう想像は、私にとってもほとんど耐えがたかった。けれどもその疑いをはらいのけることも私にはできなかった。そしておどろいたことに——そしてそれはますます私の疑念を一方的に深める結果しかもたらさなかったのだが——その日の夕方、片桐は、もういちど私のところへやってきたのである。

 かれはあおぐろい顔をさらに陰鬱に沈みこませて、「もしかしたら硫黄島行きは、だめになるかもしれません」と少し声をふるわせて言うのだった。

「いま行けば帰ってこれないかもしれない、そんな気がするもんですから」

「そんなことは、どっちだってかまいませんよ」と私はいらいらして言った。「もう新間には出ちまったんですから」

 私はかれのからだが、こまかくふるえているのに気がついた。かれは、あわれみを乞うような視線を私に当てた。私はそういう視線をはね返すように、ぷいと横を向いてしまった。かれはおどおどしていた。かれは私にお礼とおわびを言い、いまにも泣きだしそうに四角い顔をゆがめた。それから、かれは、例によって左足をひきずりながら私の前から、消えていったのである。そしてそれはまさしく、消えていったのであり、以後、私は二度とかれを見ることはなかった。

 

 五月十日附のM新聞の朝刊は私をひどくおどろかせた。社会面のトップに、でかでかと片桐正俊の死が報ぜられていたからである。M新聞によれば、かれは硫黄島で自殺したのだった。その記事は主として米極東空軍司令部歴史課のS・G氏の手記というかたちで発表されていた。S・G氏は終始片桐につきっきりで一しょに日記をさがしたという。そして日記はどこにも見つけだすことはできず、あたえられた時間ももうあとわずかで切れてしまうというときになって、とつぜん片桐は摺鉢山の旧噴火口からほぼ九十米はなれた地点で両手をたかだかとさしあげ「バンザイ」とさけびながら崖下に身をひるがえしたのだった。S・G氏は片桐のからだが突き出た岩角に何度もぶつかりながら、火山灰をもうもうと立ちのぼらせて、ゆっくり落ちていったのをはっきり見たと書いている。死体の捜索は七時間もつづけられた。捜索はB17空の要塞機、ジイプ、水陸両用車などあらゆる機動力を動員しておこなわれた。死体は頭蓋骨を打ちくだかれたまま崖の中腹のくぼみに投げだされていた。それは収容するのに二十分間ほどかかった。S・G氏は自殺の原因はわからない、いっさいは、なぞに包まれているとややもてあまし気味に書いている。

 私はこの記事によって二重のショックをうけることになった。そのひとつは私の憶測を裏切って、かれがまちがいなく硫黄島に渡ったという事実によるものであり、もうひとつは、そこでかれが原因不明の自殺をとげたことによる。私は深い衝撃の底で、片桐に疑念をさしはさんだ私の軽率な想像力をひそかに恥じた。

 そしてその日の夕刻、私はもうひとりの未知の人物の訪問をうけることになった。その男の名刺には第三商事、物資部輸出課主任、瀬川宗夫と印刷してあった。私はかれにさそわれ、有楽町駅に近い小料理屋にあがった。かれはもと海軍少尉で、片桐正俊の直属上官だった。かれは硫黄島の日本軍が玉砕してからまもなく投降したのだった。かれは上衣の内ポケットから茶色のハトロン紙の封筒をとりだした。

「ぜひあなたにおみせしたいんです」とかれは商事会社の社員にふさわしいやわらかな語調で言った。「片桐君は出発する前にぼくのところへこんな手紙をくれたんです」 

 文面はつぎのようなものであった。

 

 いろいろありがとうございました。こんどの件あなたさまとジミイとのご好意ありがとうございます。日記がみつかるかどうかぼくにはほんとうは自信がありません。でもやっぱりやってみます。ぼくのいまの気持はとにかく一度島へ行ってみたいということで一ぱいです。そのあとのことはあまり考えたくないのです。あるいはもうおめにかかれないことになるかもしれません。何だがそんな気もしますが大丈夫と思います。ぼくはだれも身寄りがないので気楽です。とにかく力一ぱいやってみたいです。さようなら

 

「おわかりになりますか」と瀬川は言った。

「さア」と私は言った。「遺書のつもりなんでしょうか」

「そうであるような、ないようなおかしな手紙ですね」かれは口についたビイルの泡を、まっしろなハンカチイフて注意ぶかくぬぐいとった。

「なにかこうはじめから死を予感しているようなところがありますね。でも遺書らしくないところもある。それに力一ぱいやってみたいというのは、どういうことなのか、なにをやりたいのか――」と私は言った。

「日記をさがすことを、でしょうね。それでないとわからない」

「そうすると日記が見つからなかったので、自殺した、そういうことになりますかな」

「とばかりも言えないような気もしますね」瀬川は色白のほりのふかい顔をくもらせた。

 私は言った。「日記ということではなくて、なにかもっとべつな、たとえば自分の生き方についての悩みのようなものがあって、それに区切りをつけるために島へ渡りたがってるふうなところもみられやしませんか」

「ええ、それだからよけいわからなくなる」

 私たちは考えこんてしまった。片桐は、はじめから死ぬつもりだったのか。それともかれの意志とはかかわりなく、死はとつぜん発作的にかれにつかみかかり、かれをあの世へ送りわたしてしまったのだろうか。

 たんに自殺の舞台として硫黄島をえらんだのならどうして新聞社をおとずれる必要があったのだろう。ジェエムス・ヘンドリックスや瀬川へのある種の配慮からか。それとも自分の行為を客観的な記述のなかに封じこめておきたかったのかもしれない。だれにも知られずひとりひっそり死んでいくことの恐怖に耐えられなくて――。私はしぜんに吐息がもれてくるのをおさえかねた。自殺の意志があったにしろなかったにしろ、片桐を島へかりたてた何かがある。瀬川あての手紙のなかの「ぼくのいまの気持はとにかく一度島へ行ってみたいということで一ぱいです」という一節が私の心につきささってきた。これは何なのか。この死の予感にみちあふれた危険なもの、これは何なのか。

「これはぼくの勝手な考えなんですが」と瀬川は言った。「片桐君は島へ行こうかどうしようかということでひどく迷ったようです。どうにもふんぎりがつかなくてそれで新聞社へ行った。もしそのとき新聞社のほうで黙殺したら島行きを断念する。そういういわば占いの気持で新聞社をたずねた。つまりかれはそういうかたちで行為の決定を新聞社にゆだねたんです。ところが新聞社はそれをとりあげて記事にした――」

「するとぼくがかれを殺したことになる」

 あるいはそうかもしれない、と私は思った。片桐は何かを訴えたくて何度も私を訪ねたのかもしれない。何かを私に聞いてもらいたかったのかもしれない。それで左足をひきずりながら何度も私のところへやってきたんだ。それを私は非難にみちたまなざしで、つきはなしたんだ――。

 私はあの男がもしかしたら私に語りたがっていた何かを、こんどは私の方で、あの男が残していった生の痕跡をたどりながら、さぐりださなければならない、そんなふうに思うのだった。

 

 私はバスを降りたとき、そのまちへずいぶん遠いところから長いあいだかかって、さまざまな曲折を経てたどりつきでもしたような重い疲労をおぼえていた。そこへ行くために私は湘南電車に一時間乗り、さらにバスで三十分間ほどゆられただけだった。その町は細長くまがりくねった白い舗装道路をはさんで古ぼけた家並みが両側にひしめきあっていた。家々は、ほこりをうっすらとかぶっていて、どの家も硝子戸を指先でなでれば、指の腹にくろいほこりがくっついてきそうだった。私のめざす料理屋は街道をそれて、いくぶんおくまったところにひっそりと建っていた。私は二階の座敷にあがり、板前の木谷さんにお会いしたいと言った。柱時計がどこかでふたつ鳴った。まもなく白い前垂れをしめたまま木谷があらわれたが、それはやせて小がらでひどく貧相な中年男だった。かれは前垂れをはずし、小さな眼を光らせて、何でございましょうか、と言った。私は片桐さんのことでいろいろお話をしてもらえないかと言った。木谷は少し考えるふうだったが、一たん階下へおりて行き、しばらくしてまたあがってきた。そのときかれの顔がはじめ見たときよりもやわらいでいるように、私には映った。私は片桐とくらべて木谷のほうがずっと現在の自分の生活になじんでいるようだと思った。片桐にはまだ穴居生活といまの生活との平衡がとれていなくて、たえず不安定にゆれているといったふうな様子がみられた。けれども木谷の生活の重心はしっかり現在に結びついていて、それはまさしく垂直に現実の平面のうえにたれさがっているようなのだ。私はかれに盃をもたせた。かれはまるで酒を口のなかへほうりこむようにして飲んだ。しかもかれは何かにせきたてられてでもいるように、すばやく、なんべんもたてつづけに盃を口もとにはこぶのだった。そして私はかれから、やや意外な事実を知らされたのである。かれは片桐は日記などを、少くとも出版するに足るだけの内容をもった日記などを、書いていた形跡はないと断言したのだ。だとすると、片桐が日記をもとめて島へ渡ったというのは、どういうことを意味するのか。はじめからありもしないものを求めて何のためにかれは島へ行ったのか。そういう口実を設けてまで島へ行かなければならなかったのは、一体何のためなのか。私は胸がはげしく波立つのを感じた。そんな興奮が私にやってこようとは、ひどく意外だった。

「わたしはなるべく島のことは忘れようとしてるんです」と木谷は言った。「半月ほど前、片桐がわたしんちへやってきたときも、わたしはなつかしさよりも、恥ずかしいような気持が先に立って困ったものでした。自分の恥ずかしいところをすっかり見て知っている人間が、わざわざそのことを思い出させようとして遠い所をやってくるなんて愚の骨頂じやありませんかね。あいつは、いま考えると、お別れに来たんでしょうが、島へ行くなんてこたアこれっぽっちも口にしませんでした。あいつは島のことが忘れられねえって言いやがるんてす。わたしゃ、忘れろって言ってやった。わたしゃ、この板前って仕事にいのちを賭けてる。板前ってなアつらい商売です。ウナギをさくとき目打ちをするでしょ。だけど名人の域に達するてえと、目打ちなんかしなくたって、そのまま尻尾から、すすすうっと裂いちまうんです。コイのはら骨をこわさずに肉に庖丁をいれてって、ぐいと骨をそのまんまのかたちで抜きとって、コイを池に放すと、すいすい、およいでいくってんです。板前ってのはそこまでいかなくちゃいけねえ、そう思うんですよ。ね、あなたこれでもわたしんちじゃスジの通らねえ料理は出しません。コノワタにウズラの卵がはいらねえ、タイちりに春菊がつかねえ、ポンズの代りに醤油をもってきたなんてそんなスジの通らねえまねだけは、ぜったいしません。わたしゃ、あいつに言ってやりました。おめえもなんか全身で打ちこめる仕事をみつけなきゃいけねえってね。するとあいつは青い顔してだまって、こう涙ぐんでるんです」

「木谷さん、日記がはじめからなかったとすると」私は相手の饒舌をさえぎって、言った。

「片桐さんは自殺するつもりで島へ渡ったことになりますね」

「へっ」木谷はとんきょうな声を出して盃を下に置いた。かれは料理には全然手をつけなかった。かれはうなだれてじっと何か考えこんでいるふうだったが、しずかに顔をあげて、「あいつは悩んでましたからね」と低い声で言った。「わたしゃ、こんなことは何でもないことだと思うんですがね、あいつにとっちゃたいへんな問題だったんでしょうね。とにかく片桐は島で日本兵をふたり殺した、いえ、殺したってふうに思いこんでたんです。そのことと、こんどの自殺とは、どうもひっかかりがあるような気もするんですがねえ」

 

 それはまだ瀬川宗夫が片桐や木谷と同じ壕にいたころのことだった。兵隊たちは交代で夜になると、岩穴を抜けだして食糧あさりに出かけた。勇敢な兵隊は手榴弾を米軍の幕舎に投げこみ、相手があわてて逃げだしたあとをおそって罐詰や野戦食をぬすみだしてくるのだが、そんなことをしなくても、ひるま米兵がひそんでいた岩かげや窪地をさぐれば、かなり豊富な食糧をひろいあつめることは、それほど困難でもなかった。またある者は、いくつもの水筒を抱えて貯水タンクヘ水くみにいく。ひるま米兵はしばしば貯水タンクの附近にかくれていて、水くみにきた日本兵を機銃や自動小銃で狙撃するが、夜間はそういう心配はほとんどなかった。ある晩、片桐と木谷とそれから岡田という若い一等水兵の三人が水くみに出かけた。三人はくろぐろと枝をさしのばした灌木のしげみをかきわけ、地下足袋の足音をしのばせて進んでいった。ときおり米軍の照明弾が打ちあげられ、まばゆい光の波がいりくんだ木立のすがたをくっきりと浮き出させたかと思うと、ふたたび闇が、それらをねっとりと抱きこんでしまう。そのたびにかれらは、べたっと地べたや岩肌や木のしげみにからだをおしつける。

 ふいに片桐は足首をなにかに強くおさえつけられてしまった。その力をふりほどこうと足をふんばったせつな、かれのからだは、無造作に草むらのうえにほうりだされてしまっていた。するどく張りめぐらした米軍のピアノ線がかれをとらえたのだ。かれが投げ出されたのと同時に、そこに仕掛けてあったマグネシウムが発火し、しゅっ、しゅっというしめっぽく何かがこすれあうような音がして白い炎を吹きあげた。その、かあっともえあがる閃光のなかに岡田一水(=一等水兵)の、こちらに向って身をこごめながらかけよってくる中腰の姿勢が白っぽくうかびあがった。岡田一水は「大丈夫ですか」とみじかくさけんだ。それを片桐が聞いたと思った瞬間、くらやみから火を吹いた米軍の機銃が岡田一水をうちぬき、かれのからだは、ぴょおんとはねあがり一回転して草むらに叩きつけられた。それを木谷も岩かげから息をつめて見ていた。木谷にも岡田一水が片桐を救いだそうとして敵弾に倒れたのだということが十分のみこめていた。銃撃は岡田をうち倒したことに満足したのか、それっきりとだえてしまった。木谷は岩かげから身をおこし、片桐のところへ這っていった。ピアノ線から片桐をたすけおこしたとき、かれは片桐が、のどをつまらせて、う、う、とみじかくうなったのを聞いた。それから片桐は木谷の胸に顔をこすりつけ、声を殺して泣きはじめた。「泣くやつがあるかい、おい、泣かんでもいい、泣かんでも」と木谷は、ささやくように相手の耳もとで言った。ふたりは岡田の、うつぶせになったからだを抱きおこした。銃弾は腹部をうちぬいていて、傷口からねばねばした血がとめどなくどろどろふきこぼれていた。それはなまあたたかく片桐の手をぬらした。岡田のからだはぐにゃっと片桐の腕のなかに沈みこんできた。片桐はそのまますすり泣きはじめた。岡田ののどがごろごろ鳴って、のどぼとけのあたりが小きざみにけいれんした。「手榴弾を下さい」とかれはきわめてかぼそく言った。片桐は泣きながら手榴弾を岡田の両手にしっかり持たせた。それからふたりは這いながら岡田を残してそこを去った。やがて手榴弾の炸裂するひびきがふたりの身をひそめている岩がげまでとどいてきた。そのひびきはいつまでも尾をひいて闇のなかをさまようように鳴っていた。

 

「なるほど」と私は言った。「つまり片桐さんは岡田一水を殺したというわけですね」

「ええ」と板前の木谷は小さな眼を光らせた。「あのときおれたちはなぜ岡田を見殺しにしたんだろう、あいつはおれを助けにきたというのに、おれはあいつを殺しちまったんだからな、片桐はそういつも口ぐせのように言ってました」

「もうひとりはどういうふうに、殺したんですか」と私は言った。

 

 日本兵は死んだ兵隊の水筒の水をのみ、乾パンや米を雑嚢からひっぱりだして、かじった。それはむしろ死んだ者が生きている者におくる無言の友情のようなもので、生きるためにはだれもがしてきたことだった。その日本兵は、眼をなかばひらいたまま岩にもたれるようにして死んでいた。その死体にはどこにも傷あとらしいものを見つけだすことはできなかった。飢えがこの男の生命をうばったのにちがいなかった。唇が色を失ってかさかさにかわき、みにくくふくれてまくれあがり、むらさき色の歯ぐきと黄いろい前歯をそこからのぞかせていた。眼はどんよりにごり、焦点をうしなったままうすく見ひらかれていた。たれさがったまぶたのまわりを銀バエが這いずりまわっている。この男のなかで例外なのは髪の毛で、これだけはくろぐろとのびほうだいにのびていて、それがこの男の死をさらにたしかなものにしているようだった。この男は身にまとつているのはぼろきればかりだが、あるきちょうめんさで水筒を右肩から左下方にかけてつるしていた。この水筒が片桐によびかけた。片桐は身をこごめてその水筒にそっと手をふれた。すると男のからだからいやな匂いがむっと立ちのぼった。片桐はこわごわ水筒をゆすってみた。水筒のなかで水が身もだえするように、重たくゆれた。片桐はこわばる両手を水筒にかけ、その男の肩からとりはずすために、ぐっと力をこめた。そのとき奇蹟が起った。それまでだらんとたれさがっていた男の両腕が、あきらかにうごいて、それはおそろしい強さで片桐の、水筒にかけた両手の手首を、つかんだのである。つかまれた部分からつめたい感触が電流のように片桐の全身に走りひろがっていった。ばね仕掛けのように、片桐の両手は相手の両腕をはらいのけ、かれのからだは一米近くもはじけとんだ。相手の腕は重たく投げだされ、ビシッというするどいひびきがどこかで鳴った。しかしそれはどこから発したものかわからなかった。死んだ男の首がぐらんとゆれて草の中にめりこみ、首が、こわれた人形のそれのように、みにくくよじれた。それはひどく奇妙なぐあいにそうなっていった。片桐の両足から、力が急速にぬけていき、腰がすとんとその場に落ちこんでしまった。それは全く信じがたいことだった。

 死体の水筒から水をのむことと生きている人間の水筒をもぎとることとは全く違うのだと片桐は思った。生きている人間の水筒をもぎとろうとしてその人間をつきとばしたら、相手は死んでしまった、つまりそういうことがいま起ったのだ。ただ言いわけがゆるされるのは、自分は相手を死体だと信じていたという点についてだけなのだ。しかし結果は同じことだ。

 

「そんなばかなことがあるかって、わたしゃ言ったんです」と木谷は言った。「それは何かの錯覚じゃないかってね」

「あるいは死後硬直がそのとき急にやってきて死体の筋肉をぐっとひきしめたために、そういう奇怪なことが起ったのかもしれませんね」と私はあいまいな知識をもとにしてそんな想像をはたらかせてみた。

「どっちみち、その兵隊は、死んだも同じだったんだ。べつに片桐が殺したことにゃアならない。わたし、そう言ってやったんですがね、どうもだめなんですなア。そりゃア、わたしたち生き残りには死んだ戦友に対して、何となくうしろめたい感じがうごきます。しかしそういう気持は、どんどんのりこえていかなくっちゃしょうがねえだろう、わたし、そう思うんですよ」木谷はくしゃくしゃと顔をゆがめて泣き笑いのような表情をつくった。それで、私はこの男の内側にもいまある悲哀がさしこんできているのだろうと判断したのだった。

 その次に私がおとずれたのは北砂町の平和荘というアパアトだった。このアパアトに片桐は住んでいた。そのアパアトは厩舎(きゅうしゃ)を思わせる細長いひと棟の棟割長屋で、何か外部の人間がそこへ近づくのをこばむかのようになやましげに建っていた。アパアトの西側は沼になっていて、暗い水面にはメタンガスがたえまなく泡をふきあげていた。沼は重たげにそこにそうしてうずくまっており、水面のあちこちに棒切れや板や穴のあいた長靴や片っぽだけの下駄や、要するにすべて無意味ながらくたが投げやりな姿勢で流れもやらず浮かんでいるのだった。沼は一日中、異様な臭気を放っていた。臭気は沼のほとりのひとびとの生活のなかに完全にとけこんでしまっていて、外部の人間だけをあやまりなくえらんで執拗にまつわりつくのである。岸辺には葦の群落が切り立った葉さきを並べて密生し、ときおり渡る風に大げさにゆれさわいだ。沼の向うは小学校で、校舎の窓がきらきら光り、生徒たちの叫び声が沼のうえにあかるくひろがった。管理人の老人が私を迎えてくれたが、その顔は好意にみちていて、かれがどれほど片桐に対してよい印象をもっていたかがわかるようだった。細君は老人よりずっと若くみえ、もしかしたら後妻かもしれなかった。彼女もまた好意的に私をもてなしてくれた。

 ふたりともどうして片桐が自殺しなければならなかったのか、全然見当がつかない、と口をそろえて言うのである。

「片桐さんの足がどうしてああなったかご存じかしら」と細君のほうが言った。私が、いいえ、と答えると彼女は同意を求めるように老人のほうを見た。老人は眼をしょぼしょぼさせた。そのときこの夫婦のあいだに何かの共感が生れたのをみたように私は思った。

 

 その日はとほうもなく暑かった。街は燃えたつように明るかった。すべてのものが輸郭を鮮明にきわだたせていた。管理人の細君は買物かごをぶらさげながら、片桐とつれだって焼けつくような街路を歩いていた。片桐は失業中だったが、そのときまでは、まだかれの左足は健康だった。で、かれはよく散歩がてら、細君の買物のおともをしたのだった。細君のたったひとりの息子――細君は私の想像どおり後妻で、少年は彼女の連れ子だった——が道の反対側をスキップでとびはねながら、歩いていた。細君と片桐は、日のかんかん照りつける明るい側を歩いていたが、小学校一年生のこの息子は反対側の日かげをえらんだのだ。

 細君はふいに不安が胸をつきあげてくるのをおぼえた。それは彼女にとって全く新しい経験だった。そんな不安がとつぜん胸をしめつけてくるなんて――。それは息子が反対側の道をおおっている奥深い暗がりのなかにそのまま吸いこまれていくのではないかという不安だった。少年が暗い道へとけこんでしまい、もう自分のところへは帰ってこないかもしれない。そんな妙なわるい予感が、理由もなしに彼女の意識のうえにすべり落ちてきたのである。彼女の胸はさわぎたち、思わず彼女はさけんでしまった。「ヨシオ! こっちへおいで!」

 少年はふっと足をとめて振り返った。かれはまぶしそうに顔をしかめた。少年の白いシャツが暗がりのなかからぬけだし、そのうえに投げかけられてくる影を、はねあげながら、光のなかに、浮きあがってきた。少年を太陽がとらえた。少年の皮膚を太陽が焦がした。皮膚がひかるのを母親は見た。そしてそのときそれは起ったのだった。母親の悲鳴が暑さのためにふくれあがった空気をきりさいて、道路一ぱいにひびきわたった。彼女はトラックが、道を横切る息子をめがけて突進してくるのをみとめ、そのままそこへ顔をおおい、うずくまってしまった。買物かごはそのとき路上へ投げだされた。トラックがタイヤを熱でふくれたアスファルトにこすりつけ、急停車した。少年の泣き声が反響した。母親が顔をあげたとき、その眼は息子が泣きながら立ちあがるのを見た。母親はさけんだ。「ヨシオ!」息子は母親の胸にとびこんてきた。このとき彼女はまだ何が起ったかを知らずにいた。それを知ったとき彼女はほとんど気を失いかけた。アスファルト道路のうえに若い男が倒れていた。その男を中心にやじうまが輪をつくってむらがっていた。彼女はやっとすべてを理解した。彼女はもういちどその場にうずくまってしまった。

 

「片桐さんがとびだしてくれなかったら」と細君は感動にあふれた声で言った。「うちの子は死んでたかもしれないんだわ」

「あのひとは、せがれをたすけてくれた恩人ですよ。あのひとの左足をみるたびに、私たちは心のなかで手をあわせていました」と老人は涙声で言った。

 私は新聞記者ならだれでも聞くにちがいないことを聞いてみた。

「片桐さんは、すきな女のひととか、結婚の相手とか、そういったようなつきあいはなかったんでしょうか」

 夫妻は顔を見あわせた。お互いにゆずりあっていたが、細君のほうがとうとう口をひらいた。

「あったんです。あるにはあったんですけれどね」

「だめになっちまった」と老人が言った。「どういうわけですか、だめになっちまった」

 相手の女性は、片桐がトラックに足をひかれたとき、入院した外科医院の看護婦だった。ほとんど話がきまりかけていたのに、とつぜんそれはこわれてしまった。その理由は夫妻にもわかっていないらしかった。夫妻はタブウをおそれる迷信家のように、その話題にほとんど恐怖を感じているふうだった。

 

 そういうわけで私はその小さな外科医院へやってきたのだった。もう夕方になっていた。患者はだれもいなかった。「看護婦の森さんにお会いしたいんですが」と私は受附で言った。私の呼びかけた看護婦はおどろいたように顔をこわばらせた。彼女がその森さんだったのだ。その医院には看護婦は彼女ひとりしかいなかった。私は小さな窓口ごしに用件をのべた。彼女はうなずいて奥へ引込んでしまった。しばらくすると、玄関があいて、同時にブザアが鳴り意外にも外出すがたの森さんが立っていた。私たちはつれだって外へ出た。私たちはまるで内気な恋人同士のように、おしだまったまま少しはなれてしかも同じ歩調で歩いていった。私たちは小ぢんまりした喫茶店にはいった。そこはたぶん、昔彼女が片桐とよくきた店なのだろうと私は思った。向きあってみてはじめて私は森さんの色の白い顔の眼のふちにそばかすがかなり濃く浮きでているのに気がついた。それは見るものにあるいたいたしさを感じさせた。けれども彼女は自分のそばかすが相手にあたえるそんな心理的な影響をはね返そうとするかのように、ややひかえめな微笑をたえずゆらめかせていた。

「片桐さんのことって何でしょうか」彼女はいくぶん甘ったるく言った。

「あのひと、どうかなさったんですの?」

 私は思わず、あ、と声をあげそうになった。彼女はまだ片桐の自殺を知らないのだ。私はためらったが、いまさらあともどりはできないので、できるだけおだやかな調子で、相手にあたえる衝撃をいくらかでもやわらげるようにとつとめながら、事実をつたえた。彼女の眼がみるみる大きく見ひらかれていき、その眼がやわらかな光をふくみはじめたと思うと、その光は急速にもりあがり、下瞼(したまぶた)のふくらみをのりこえて、すべるように頬のうえを流れ落ちた。私はこんなにまぢかに女の涙を見ることははじめてだったので、それは少からず私を感動させた。涙はそばかすをぬらし、そばかすは光をはじいて、きらめきはじめた。

「自殺だなんて信じられないことです」と森さんは身をもむようにして言った。彼女はクレゾオルの匂いがした。私はどうしてふたりのあいだがうまくいかなくなってしまったのかと聞いてみた。すると彼女は涙のために赤味をおびた眼を私に向け、「とつぜんあのひとが交際をことわってきたんです」とするどく言った。それはやや意外に私にはきこえた。私は片桐のほうから話をことわったのだというふうには少しも想像してみなかったからである。じつをいえば、私は森さんとの話がこわれたことと片桐の自殺とを、かなり通俗的な判断の仕方で、結びつけて考えていたのだった。つまりなにかの事情で、森さんから結婚をことわられ、それがひとつのうごかしがたい動機になって、かれを硫黄島へかりたてたのてはないか、というふうに。それが片桐の側から持ちだされたのだとすると、少し事情が変ってくる。

「どうして片桐さんはとつぜんそんなことを言いだしたんでしょう」と私は言った。

 彼女はうつむいたまま心のなかにゆれうごいているものに一生けんめい耐えているといったふうであった。「それが私にもよくわからないんです。ふしぎにお考えになるかもしれませんけど、わからないんです。私にとってあのひとはどちらかといえばわかりにくいひとでした。でも私は、そのわかりにくさに惹かれておりました。だから私は理由もいわずにとつぜんあのひとが、ぼくたちは結婚してはいけないんだ、ときりだしたとき、そのわからなさに耐えることができたんです。そして私はあのひとがそう言ったとき、理由はわからないけれど、きっとこのひとが言うとおりに違いないと思いました。けれどもそう思うことには、たいへんな努力と悲しみが要りました。私はじっとそれをがまんしたんです」

「あなたは自殺なんて信じられないとおっしやった。それからいま、片桐さんが理由もなく結婚をことわってきたとおっしやった。そうすると、こういうことは考えられませんか。つまり自殺するために結婚をことわったんだというふうに――」

「まア」彼女はきっと顔をあげた。そばかすがぐっと濃く彼女の眼のふちに浮きあがったようにみえた。「そんなばかな――」

「つまり自殺の理由も結婚をことわった理由も結局同じあるひとつの理由から生れている。ではその理由とは何だろう、そういうふうには考えられませんか」

「あのひとは戦争のためにうちひしがれてしまったんですわ。戦争があのひとをゆがめてしまったんだと思います。あのひとは、まるで自分ひとりで戦争のつぐないをしなければならないとでも考えているふうでした。そんなあのひとには、だから自分が仕合せになったり楽しい思いをしたりすることが、とてもがまんできなかったんです。まるでもう、ことごとに自分をいじめていじめて、いじめぬいている、そんな感じでした。私はさっき自殺なんて信じられないなんて申しあげました。でもじっさいにはあのひとの人生は、自殺の連続みたいな感じでした。トラックにからだをぶっつけて子供を助けたのもどこかに自殺をねがう心のうごきのようなものがひそんでいて、それがあのひとを、そこへ追いこんだんじゃないか、私、ひどく意地悪になってそんなことを考えたこともあるくらいでした。でもそういうあのひとの態度と、結婚をことわったこととは、少しべつのような気がするんてす。もっとべつな何か理由があってそれで結婚をことわってきたんじゃないか——。それがそのまま自殺につながっているのか、それは私にはわかりません。とにかくわかりません。でも私の口からは言いにくいんですが、あのひとは私との結婚をとても強く望んでいたんです。私たちがふたりでいるとき、あのひとはものすごく生き生きして、眼をかがやかせながら、さア、人生をやりなおすんだ、そんなふうに申しておりました。だから私にはわからないんです」

 私にもよくわからなかった。わからないなりに私の胸に、じいんとこたえるものがあった。彼女が片桐のわかりにくさを愛したというのも、ほんとうだろう。そしてそれは、ひどくもどかしいことだったにちがいない。愛するということのもどかしさを、からだ一ぱいに感じそのもどかしさだけをしっかり抱きしめていく。彼女にとって愛するということは、そのもどかしさに耐えぬくことにほかならないのだろう。そして私はこの看護婦に会ったことによって、もうこれ以上、片桐正俊の人生に踏みいることのむなしさを思い知らされたような気持になったのだ。  

 私はそれ以来、何かしら空虚なものが、ひえびえと私の胸をひたしているのをもてあましながらも、片桐の問題については中途はんぱのままほうりなげてしまっていた。そしてある日、偶然が私をもういちどその問題のなかへ投げかえしてくれたのだった。それは紫斑性天然痘の発生というかたちでやってきた。江東区の北砂町に住む十九歳の工員が、紫斑性天然痘にかかって死んだのである。私は東京都衛生局予防課の防疫係長からその病気の症状や伝染経路などを聞くことになった。かれはまず紫斑性天然痘というのは俗称で、正しくは紫斑性痘瘡とよぶべきであると言い、つぎのように説明してくれた。

「この病気の潜伏期間は二週間前後で、発病後五、六日から一週間で百パアセント死亡します。確実な治療法は全くなく種痘があるだけですが、これも菌にふれてからおそくも翌日までにやらないと手おくれになる。はじめに頭痛、腰痛、悪感がします。それからわきの下とか横腹に赤黒い斑点を生じ、やがてそれは全身にひろがる。ものすごい高熱を発するが、意識は死ぬ瞬間まで、さえている。死ぬと赤黒い斑点は消えてしまいます。うそのように、ね」

 翌朝、私は患者の発病までの行動範囲を調べるために同僚の湯村とカメラマンと三人で患者がつとめていた工場に向って車を走らせた。私たちはまず城東保健所に行き、種痘をしてもらった。種痘をうけるひとたちが行列をつくって待っていたが、どの顔も不安にかげっており強い恐怖がまちをおしつつんでいるのがはっきりわかるのだった。私たちは保健所を出て、工場へ向った。そのときはじめて私はひとつの事実を発見した。私は自分がうかつすぎたことにひどくやりきれないものをおぼえた。その患者の工場は北砂町六丁目の江東製作所で、これはあきらかに片桐のかつてのつとめ先にほかならなかった。この偶然は私の心をこわばらせた。私は自分が何かにあやつられているのを感じた。私の頭のなかでは、硫黄島で死んだ片桐と紫斑性天然痘で死んだ十九歳のプレス工とがひとつに重なって、めまぐるしく回転しはじめるのだった。

 片桐のからだは岩角に何度もぶつかり、にぶくはね返されながら火山灰のうずまくなかをゆっくり落ちていく。やがて頭蓋骨を粉砕されたかれの死体が崖の中腹の岩と岩とにはさまれたわずかな窪地から発見される。十九歳のプレス工の若い未熟な肉体は、かれ自身の内側から発する高熱にもえあがる。やがて赤黒い斑点がひかえめに皮膚をいろどりはじめ、それはみるまにかれの全存在を、めざましいほどの速度とひろがりでのみつくしてしまう。とつぜん青年は高熱からときはなたれる。生命が最後の一呼吸とともに吐きだされてしまう。そして斑点はぬぐいさられ、かれはかれ自身の皮膚をとりもどす。かれが生命を失ったとき、斑点もまた存在の意味を失って消えていく……。

 江東製作所の事務所は工場主の自宅と棟つづきになっていた。私たちは、ふとった、ちょびひげの工場主に会い、紫斑性天然痘で死んだ工員の発病までの行動などについてお聞きしたいのだと言った。工場主は事務をとっていた中年の男を、私たちに引きあわせた。私はそのほうの話は湯村にまかせて、工場主に「片桐正俊さんと一ばん親しかったひとにあわせてもらえませんか」と言った。工場主の肉のもりあがった頬が感動的にふるえ、かれは「いい男だったのになあ」と言い、私を工場のほうへ案内してくれた。工場主は私を入口のところに待たせ、クランク・プレスのレバアを足でふんでいる若い工員のそばに近づいていった。工場主がその工員に何か話しかけると、その工員は私のほうへ視線をめぐらした。そのときかれは微笑した。その微笑は、少年じみたはじらいをふくんでいるようだった。

 私とその工員は工場を出、板壁にもたれながらあいさつをかわした。かれは富田と言い、まだ二十歳にしかならなかった。かれの眼は生き生きともえていて、いつもなにかを追いもとめているような光をたたえていた。富田がどんなに片桐を尊敬し、愛していたかは、そのようにして私にそそがれるかれの眼をみれば、あきらかだった。かれの胸のなかには、いま片桐に対するいろんな思いが一ぺんにふくれあがってきて、かれをなやましくかきみだしているようにみえた。

 私は片桐が、昔は製罐工だったが、いまは鈑金のほうをやっていると言ったのを思いだし、そのことを聞いてみた。それは片桐が親方と喧嘩をしたからだと富田は言った。製罐工や撓鉄工(とうてつこう)には親方がいて、徒弟制度の枠のなかで親方は何人かの職工を抱えこんでいる。親方がほうぼうの工場から注文をもらい、それに応じて自分のところの職工をその工場にまわすという仕組みになっている。この親方の不当な中間搾取に対して、職工たちのあいだに不満がひろがった。けれどもそれを親方に向って直接ぶちまける者はいない。そんなことをしたら、どうなるか、だれもが知りすぎるほど知っていたからである。そのとき、片桐がそんな猫の首に鈴をゆわえつけるような役割を買って出たのだった。親方は職工たちの要求をしぶしぶうけいれたが、それとひきかえに、ひとつの条件をもちだした。それは今後のみせしめのためにも、片桐だけはうちへ置いとくわけにはいかない、ということだった。それで、片桐はひとりだけそこからほうりだされてしまったのである。その失業中、かれはトラックにからだをたたきつけた。

「ぼくは」と富田はわかわかしい声で言った。「片桐さんが死んだとき、何もする気がしなくて、一日中、うちんなかで、ごろごろしてました。なんだかはりあいがなくなって、つまんなくて、なにもかもがいやんなっちやったんです。でも、ぼくは、いまでも、シャアリングのかげかなんかから、あのひとがひょっこり出てきそうな気がするんだ。出来上ったフライパンをひょいと手にとりあげて、指さきで底をそっとなでてみる。するとねっとりとした感じが指さきに吸いついてくる。片桐さんは、にやっと笑うんです。そういう片桐さんをもうみることができないのかと思うと、ぼくは——」

「あなたは看護婦の森さんのことは、ご存じですか」と私は言った。富田は私の眼の奥をのぞきこむようにして、うなずいた。私はどうして片桐が結婚をことわったのか、いきさつを聞かしてほしいと言った。

 富田はいらだたしげに両手を作業ズボンにこすりつけた。「森さんの兄さんが硫黄島で戦死したということがわかったからなんです。片桐さんはそのことで、ずいぶん苦しみました。そしてとうとう話をこわしちやったんです」

「それはどういうことなんでしょう。どうして話をこわさなければならなかったのか——」

 富田は下唇をかみしめ、遠くを見る眼つきになった。やがてかれは言葉を重たそうにひきずる、といった調子で話しはじめた。

 

 その日のひる休み、富田は片桐とふたりで工場を出て小名木川の堤防まで歩いていった。向う岸にも工場がいくつも並んでいて、くろいけむりが鈍色の空に巨大な影法師のように立ちのぼっていた。片桐はだしぬけに、「おれはやっぱり森くんとは結婚できない」と言った。その言葉の調子はさびついた鉄屑かなにかのようにひどくささくれだっていた。片桐は、それから硫黄島で、水筒をもぎとろうとしてまだ完全に死にきってはいなかった人間を殺した話をした。

「なあ、富田」と片桐は言った。「ひょっとしたらおれが殺したあの日本兵は、森くんの兄さんだったんじやないのかなあ」

 そのとき片桐の眼がいやにねばねば光ったように富田は思った。富田は胸苦しくなって「どうしてそんなことを考えるんだい。ばかだなあ」とむりに笑ってみせた。

 片桐はふといため息をついた。それから自分自身に向って話しかけるように、低い、うちにこもった声で言った。「いや、あの兵隊が森くんの兄さんだろうと、だれだろうとそんなことはどうだっていい。どっちにしたって同じことさ。おれがあの兵隊を殺したということは、つまり硫黄島のすべての日本兵を殺したのと同じことなんだ。おれは水筒のなかのほんの少しばかりの水で自分のかわきをみたすために硫黄島のすべての日本兵をこの手で殺しちまったんだ」

「どうして」と富田は言った。「どうしてそういうことになるの? ぼくにはわからないな」

「それは、きみが戦争にいったことがないからだよ。人を殺した経験がないからだよ」片桐は苦しそうに言った。「ひとりを殺したのと百人を殺したのとどう違うが、そういうことをきみは考えたことがあるかね。それは数のうえの問題じゃないんだぜ。ひとりの人間を殺すというのは、そのひとりの人間のなかにこめられているすべての人間のねがいやよろこびやかなしみやのぞみを、同時に殺すことなんだ」

「そんなこと、考えないほうがいいぜ」富田は心配そうに言った。「ね、やめなよ」

「おれは自分が生きるために他人を殺したんだ。この手でな」

 片桐はふたつのてのひらを前につきだして、力一ぱいひろげてみせた。そのてのひらはがっしりしていて、厚ぼったく、いかにもかたそうで、そこから鉄や油の匂いがぷんぷん立ちのぼってきそうだった。それはうたがいもなく工場労働者のものだった。富田は、きゅうんと胸がしめつけられるような悲しみをおぼえた。

「そのことを森さんに話してみたら? きっと森さんは、そんなこと問題じゃないって言うぜ」

 片桐は首を振った。「それはできない」

「どうしてだい」

「どうしてもだ」片桐は身をこごめると、石ころをあらあらしくつかみとり、小名木川の黒い流れに向けて打ちおろすように投げつけた。

 

「なるほど」と私は言った。たぶん片桐は、森さんに苦しみをうちあけてなぐさめられたり許されたりすることが、たまらなかったんだろう。その苦しみは自分ひとりで抱きしめていかなければいけない、そう信じたんだろう。そしてその結果、かれ自身はほろび、森さんは傷ついた。あの男は、もしかしたらかれ自身を幸福といったふうなものにみちびいたかもしれないすべての可能性の芽を、こうしてその手でひとつひとつひねりつぶしていったんだ。

 私は自分のからだが急に重くなるのを感じた。工場からはドリルの小刻みなひびきやリベッティングのいらだたしげな槌音がきこえてきた。私には、そこには鉄と鉄とで組みあげられた、なにか堅固なものの世界があるように思われるのだった。そして片桐は、もう二度とそこへはもどってこない。

 私は言った。「結局、片桐さんは、はじめから自殺するつもりで硫黄島へ行ったということになりそうですね。あのひとの背後にくろぐろとつみかさなった過去の重みからどうしても抜けだすことができなくて、結局、そこへひきもどされていった――」

 そんな私の言葉をはねつけるように富田はつよい調子で言った。「そうじゃありません。あのひとは、そんな弱虫じゃない。負けて、硫黄島へ逃げだしたんじゃありません」

 私はおどろいてかれを見た。「じゃあ、どうなんです? どういうつもりで島へいったというんです?」

「片桐さんは、もういちどはじめからやりなおそうとしたんだ」富田は確信にみちて言った。

「死んだひとたちのところへいって、自分を裁いてもらおうと思ったんです。死んだひとたちの声に耳をかたむけてそこから自分の人生を新しくふみだそうとしたんです。そういう新しい力を自分のなかに呼びさますために行ったんです。死ぬためにじゃなく、生きるために――」

 私には、いまこの青年の内部で、はげしくゆれているものが何であるか、はっきりわかるように思われた。富田の眼に涙がじわじわしみ出て、それがやわらかく光をはじいた。そのきらめきは、私に、はじめて片桐があらわれたとき、かれの紺の背広の肩さきで、つつましやかに緻密な光を放っていたあのこまかな雨の水玉を思いださせた。そして私の胸のなかに、片桐正俊の、暗い遠い道を左足をひきずりながらゆっくり、きわめてゆっくり歩いていく孤独なうしろ姿が鮮明に映しだされた。かれは私の胸のなかの暗い道をどこまでも歩いて行き、それは私から無限に遠のいていくのだった。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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菊村 到

キクムラ イタル
きくむら いたる 小説家 1925・5・~1999・4・3 神奈川県に生まれる。

意想外の角度から玉砕の島に生き残って故国に帰った一兵士の、謎めく死を追及した感銘深い掲載作「硫黄島」は、1957(昭和32)年第37回芥川賞を受賞。

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