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欠損

 昼前に、叔父の電話で起こされた。弘前まで往復した翌日だった。無愛想を抑えず、何ですかと訊いた。電話の向うでとまどったようだ。東京の真ん中で会社を経営(やっ)ていると、自分の電話をみなが心待ちにしていると思いこむらしい。小さな広告会社は、田町にある二階建てだ。自社ビルではないらしい。

 さつきが会いたがっている、と叔父貴は切り出した。最後に会ったときの記憶よりは、ずっと丁寧な言い方だった。少くてもおれよりはましだ。親父が六人、おふくろが七人兄妹なので、いとこの数は多い。この二十年間で一度きりしか会ったことがないのもいる。さつきの名前と顔を憶い出せたのは、叔父と叔母が一時期、おれの家に居候していたからだ。同い歳のせいもある。きれいな娘で頭もよかった。おれは出来が悪かったから、おふくろは何度も、さつきちゃんに勉強をみてもらえと迫った。おれは一度もうんと言わなかったし、うるさく言われると、すぐ逃げ出してしまった。さつきはそのつもりだったらしい。一度、逃げる途中の庭から、居間の卓袱台の前に坐っているさつきが見えた。襟の白いピンクのシャツを着て、髪は腰のあたりまであった。夏だったと思う。陽ざしが強くて、さつきのいる居間だけが暗く淋しそうに見えた。勉強なんかしようというのに、何となく愉しそうだった。きれいだが、変な女だと思って、おれはそれから避けるようにした。十年前から、心臓で入院中なんだと叔父は声を落とした。昔から頼みごとをするときは、声を落とすので有名だ。後でその礼をし終えるか、しなくてもほとぼりが醒めた頃になると、不必要に大きな声を出す。具合がかなり悪いと言われても、鵜呑みにはしなかった。十年も会っていないいとこに興味はない。そうですか、と言っておいた。付き添っている女房の話では、ここ数日、加減が悪くなると、決まって祐二くんの名前を呼ぶそうなんだ。来てくれないのかな、会いたいな、と。忙しいのはわかるが、一度、見舞ってはもらえないですか。

 少し考えてから、おれは、やめときます、と答えた。どうしてだ。ろくに覚えてもいないし、あんまりぴんと来ないんです。心配もしていない相手が見舞っても、さつきさん喜びませんよ。そう言わずに頼む。叔父の声に怒気がこもった。この自分が、成功者の自分が頼んでいるのに、おまえはうんといえないのか。おれは、やめときますと繰り返した。叔父はなおも食い下がったが、そうそうに電話を切ってやった。派手に受話器を叩きつけなかったのが、病気の娘を持つ親へのせめてもの思いやりだった。あらためて布団へもぐりこみ、すぐ眠りこんでしまった。また起こされた。叔父貴だった。今度は哀願だった。演技にしてもうまいものだ。話半分でおれは挨拶もせずに切った。すぐかかってきた。四度目に、何回かけるつもりなんです? と訊いた。祐二君がさつきに会ってくれるまでだ。本気だと思った。毎日、睡眠不足にされては敵わない。明後日は札幌まで飛ばなきゃならないのだ。わかりました、とぶっきら棒に承諾した。病院の名前と場所を教えてください。今日、これから伺います。面倒ごとは、早めに片づけるに限る。余計なものならなおさらだ。

 叔母が出て行った。ふたりきりだ。ベッドの上に腰を下ろしたさつきの顔が、記憶とあまり違わないので、少し意外だった。よお、と声をかけた。気の利かない挨拶だ。さつきは小首をかしげるようにして、こんにちわと言った。あまり血の気のない顔なのに歯の白さが目立った。おれはふたことめに、ひさしぶりだな、を選んだ。そうねと答えたきり、さつきが眼をそらさないので、おれの方がそらした。いま、何をしているの? 長距離トラックの運転手さ。いいな、どの辺へ行くの? きのうは弘前だ。明後日は北海道へ行く。いいね、色々なところへ行けて、とさつきはためいきをついた。病気が治れば、おまえだっていけると、おれは言った。そうだね、とさつきは答えた。もう打ち切りにしたかった。何を言っても、今のさつきには羨ましいに違いない。羨ましがるのはいいが、羨ましがらせるのは、おれの性に合わない。悪いが、急ぐんだ。おれはきっぱりと言った。おかしなことに嫌な気分だった。さつきが引き止めなかったので、ほっとした。これ以上の義務を負わされても困る。だが、そううまくはいかなかった。ドアのところまで近づいたとき、今度は北海道の話をきかせてと声をかけてきた。今度はない、と言いたかったが、黙っていた。さつきの後ろの窓が眼に入った。空がひどく青い。病人向きの空だ。

 二日後に、札幌で園子に会った。向うからホテルヘ誘ってきた。いい加減にしろと言った。少しは学生をやれ。園子は高校の三年生だ。いいのよ、学校の勉強なんか、これからわたしの働く世界では何の役にも立ちやしないわ、と園子は言い張った。いつもの、疲れたみたいな、たるんだ言い方だが、眼が据わっている。それよりセツクスしようとおれの手を引いた。費用は自分が持つ。当り前だ、と言ってやった。誘ったのは園子だ。公園の近くには、奇妙な形をしたホテルが並んでいる。城のようなホテルヘ入った。園子は相変わらず激しかった。雪のような肌をさくら色に染めて求めてきた。それを林檎色に変えるのがおれの仕事だった。園子は何度も、もう勘弁してと叫んだ。許さなかった。おれがシャワーを浴びてバス・ルームを出てからも、たっぷりとした肉体(からだ)はベッドから起き上がることはできなかった。

 話ができるようになるのを待って、東京へ来るかと訊いた。園子は驚いたように、ベッドの縁にかけているおれを見上げた。おれも眼を合わせた。園子はすぐ、いつもの投げ槍な表情に変わった。いいわよ、そんなの、とかったるそうに言った。結構、札幌が気に入ってるの。東京なんか面倒臭いわよ。たまにあんたが来てくれればいいわ。わかったよ、とおれは答えて、「ピース」を咥えた。百円ライターで火を点けたとき、何か心配事でもあるの? と訊いてきた。そう見えるかよ? ええ。何もありゃしねえよ。でないと長距離の運転手なんかできゃしない。八戸へ入る前に眠っちまってな、気がついたら、小樽行きのフェリーに乗ってたこともあるが、あんな真似は二度とごめんだ。今度気がついたら、海の中か病院のベッドかあの世の門の前だろう。親が死んだって、いちいち気にしてちゃ、運転手は無理なんだ。親よりも気になるものがあるわ、と園子は言った。あたし、親なんか狂い死にしたって平気だけど、あんたが事故ったら泣くわよ。帰り、気をつけてね。おれは煙草を灰皿に押しつけるくらいしかお返しができなかった。

 東京へ戻ると、その日のうちに電話がかかってきた。さつきの容態が悪化した、と叔母は涙声を出した。十年ぶりに聞くにはふさわしくなかったが、仕方がない。昨日の午後に苦しみ出して、いま集中治療室に入っている。何度もおれに電話をしたがつながらなかったと、愚痴に化けた。おれの返事は、大変ですね、だった。トラックの運転手はできるが、心臓病は治せない。受話器の向うで般若のような形相を浮かべている叔母を想像するのはたやすかった。意地の悪い言い方で傷つけるのは簡単だ。願ってもない機会だった。その前に、叔母の声が聞こえた。言葉ではなかった。すすり泣き? そんなはずはないが、そうだった。おれは受話器を持ったまま立っていた。いい加減にして欲しかったが、そうするためにはどうすればいいのかは、さっぱりときている。会ってやってよ、と叔母は首を締められてるみたいな声で訴えた。あの()、昨日からずっと、あんたの名前を呼んでるのよ。

 だが、必要なかったようだ。翌日の夕方、病院へ行ってみると、さつきは以前の病室へ戻っていた。眼の下に隈をこしらえ、痩せこけた叔母に訊くと、昨夜、おれへの電話の後で持ち直したという。今朝から眠りっ放しだが、じきに起きるだろう。それなら後で、とおれは言った。病人と健康人は別の生きものだ。近づくべきじゃない。そのとき、糸みたいな声が、待ってと呼んだ。やめてくれ。おれは胸の中で吐き捨てた。

 叔母が出るのを待って、迷惑だとはっきり伝えた。さつきは悲しそうな顔をした。会いたかったの、十年間ずっと。ここは、おれのいるべき場所じゃなかった。だから、会いたくなかった、と言った。おまえと別れてから、一度も会いたいと思ったことはない。さつきは眼を伏せ、父と母のせいね、と言った。さんざんあなたの家の世話になったのに、叔父さんが死んだら、古い証文を楯にとって、あなたと叔母さんを追い出してしまった。でも、私は一度もあそこへ戻ったことがないのよ。だから、いい思い出しか残ってないわ。そりゃ、よかった、もう帰っていいか? おれはドアの方を向きっ放しだった。さつきは求めている。人が他人(ひと)に求める時の顔は好きじゃない。背中が冷たくなった。沈黙には温度があるらしい。背中がびりびりしだした頃、さつきは、庭へ出たい、といった。莫迦、病人のくせに、死ぬぞ、とぶっきら棒に言ってやった。いいの、それでも、一度、祐二さんと肩を並べて歩いてみたかった。返し技を使う絶好の機会(チャンス)が来た。男と肩を並べようなんて女は嫌いだ、と言った。えらそうなこと言うな。気に(さわ)ったらごめんなさい。さつきの物言いから、すがるような調子が消えていることに、おれは驚いた。もうお願いはしません。だから、一度だけつき合って、お願い。ほら、お願いしてやがる、とは言えなかった。いいだろ、と口にするのは気分が悪かった。不貞腐れた風を装ったのも嫌悪を強めた。代わりにさつきが喜んだ。本当(ほんと)に? 本当にいいの!? うれししいな。臆面もない喜び方に、おれは少しうんざりした。どいつもこいつも、他人に何かしてもらうと、どうしてこう恥も外聞もなくなれるのだろう。

 どうするんだ? と訊いてみた。これから出よう、とさつきは答えた。医者に訊かなくてもいいのか? おれは少しあわてた。正直な話、さつきがどうなろうと自分の責任だが、連れ出しただの、なぜ止めなかっただの、絡まれちゃ敵わない。放ったらかしておいた相手に何かあると、そのとき近くにいた人間を責めるのが親戚どものやり方だ。大丈夫、お医者さんよりも私の方が自分のことはよくわかるわ。それに、医者(せんせい)は、絶対に駄目っていう。何かあったら、死ぬ前に、おれは無関係だと証言してくれよ、おい? わかったわ、まかせてといて。さつきは、安心しろという風に胸もとに手を当てた。そのときようやく、おれはその胸の薄さに気がついた。そんなつもりはなかったが、長いこと見つめてしまったようだ。さつきはうつ向いて、見ないでと言った。ほかの()みたいに無いから。外へ出られるのか? と訊いてみた。白い顔が上がった。喜んでいるようだ。ええ、すぐ! はじめて聞く元気な声だった。別人かと思ったほどだ。

 母さんがいないか確かめてというので、廊下を覗いてみた。いない。トイレにでも入っているのだろう。おれが調べている間に、さつきはガウンの上にカーディガンを引っかけた。病室を出るとき、右腕が引かれた。さつきの左腕が絡まっていた。何だよ、と言って取ろうと思ったが、にらむくらいにしておいた。さつきは笑っていた。心臓より頭がおかしいんじゃないかと思う。廊下にはもう照明が点いていた。窓の外は闇だ。遠くの建物が何とか見えるが、じきに溶ける。庭へ出るにはエレベーターで一階に下りなくちゃならない。看護婦に見つかったらアウトだ。二、三歩で、さつきは立ち止まった。何してるんだ、とおれは噛みついた。ごめんね、急ぐと苦しいの。おれは速度を落とした。エレベーターの前に着いたとき、おれたちはVサインをつくった。下りスイッチを押してすぐ、ドアが開いた。さつきが悲鳴を上げた。ドアの向うに立つ白衣の女と、もろに見つめ合ってしまったのだ。何してるの、後藤さん、と看護婦は柳眉を逆立てて喚いた。あなた、自分がどんな身体かわかってるの、すぐに戻りなさい。この(ひと)は何者よ? おれは反撃の態勢を整えていた。こういうタイプには慣れている。彼氏ですと頭を下げた。彼氏? 看護婦は、あんたみたいな男に用心するのが仕事です、と言わんばかりの眼つきを崩さなかった。この()をどこへ連れていくつもりなんですか? 昨日まで重態だったんですよ。わかってます、ようく、わかってます。おれは女の肩をぱんぱんと叩いて、もっと険しい表情にしてしまった。とにかく戻りなさい、と看護婦はさつきに命じた。口の聞き方が気に入らねえ。ついでに、こっちを見ないのも気に入らねえ。おれは素早く前へ出て、看護婦の腰に腕を巻きつけた。ちょっと、何するの。いいからいいから、誰か、と看護婦が声を上げる前におれは唇を奪った。呻くのも構わず舌を入れる。強引に看護婦の舌を吸い出して可愛がると、意外にすぐ大人しくなった。後ろのさつきがどんな顔をして、どんな気持ちでいるのかは考えないことにした。

 抱いたまま半回転した。ドアが閉まるのを、さつきが手で押さえていた。おれは看護婦を押し出し、さつきの手をドアから離してやった。ドアが閉じる寸前、茫然とこちらを見つめている看護婦の顔が、桜色をしているのを確かめた。

 病室にいたときは、遠くの影が透かせたのに、庭に広がる闇は、常夜灯に映し出された木や小路(みち)以外は黒く塗りつぶしていた。空は満天の星だ。おれたちは肩を並べて小路を歩き出した。三叉路へ来て、おれが立ち止まると、さつきが右側へと引っぱった。どうした? いい路があるの。一〇〇メートルほど進むと、コンクリートの路は突然、赤黒い敷石に変わった。煉瓦だ。これが目当てか、と訊いた。ええ。煉瓦が嬉しいのか? ええ。良くない? いいも悪いも、さっぱりわからない。ひょっとして、ロマンチックだというのか? さつきが、ええ、というまで少し間があった。よくわからないよ。おれは正直に言った。女の考えてることはわからない。さつきはおれを引っぱるようにして歩き出した。仕方がないからついていった。五分くらい歩くと、さつきは眉を震わせはじめた。笑っているのかと思った。それにしては止まらない。そもそも笑われる理由がない。泣いているのか、と訊いてみた。さつきはうなずいた。声は止まらなかった。おれはためいきをついた。どうしたんだ? 尋ねるのも面倒だった。どんな返事だって、嬉しいはずがない。キスなんかするから、と、さつきはとぎれとぎれに言った。あれは仕様がない。ああしときゃ、戻っても君が文句を言われないんだ。誰にでも、あんなことするの? ああ、そうだ。胸が少し痛んだが、またチャンスが来たことにおれは気づいていた。おれはこうやって生きてきたんだ。嫌なら呼ぶな。莫迦、とさつきはささやくように言った。莫迦莫迦莫迦。手が離れた。おれは歩きつづけた。大分離れてからふり向いた。さつきはもとの位置にうずくまっていた。おれは駆け寄った。心臓か。声をかけてみた。苦しいのか? 少し、とさつきは答えた。ごめんね、しばらくこうしていると収まる。祐ちゃん、帰って。そうもいかなかった。おれは辺りを見廻し、小路の先にぽつんと置いてある木のベンチに気がついた。常夜灯のすぐ下だ、かがやいて見えた。あそこで横になれと言って、おれは身を屈め、さつきに背中を向けた。おぶってくれるの? 仕様がねえ。ありがとうと重さが加わった。やわらかくて熱い。なるべく急いでベンチまで歩き、横にした。ごめんね、とさつきは詫びた。いちいち謝るな。病人相手だ、覚悟はしてるよ。おれはベンチの横に胡座をかいた。煉瓦の冷たさがジーンズを通して滲んでくる。道の両脇にはプラタナスが天を仰いでいた。おれはほう、と言った。東京の真ん中で、こんなに星が見えるとは思わなかった。文字どおり、満天の星だ。星、わかる? さつきの声がひどく近くに聞こえた。俺は指をさし、あれが北斗七星だと教えた。あの赤いのが火星だ。わかるわ、戦いの星ね、だから赤いのね。そうだ。あの高い木の上を見上げていけ。ゆっくり、ゆっくり。わかるか、あれがシリウスだ。何もかも、地球の物質の何千倍もの質量を持っている。だから、シリウス人がやって来ても、おれたちにわかるのは、奴らがめりこんだ、でかい穴だけなんだ。さつきは笑い出した。ひとしきり笑うと、感心したような表情で、色々なこと知ってるのね、と言った。少しは、な。これでも読書はしている。だからキスのやり方も詳しいんだ。まだ、うだうだ言うのか。これだから女ってやつは。ののしってやった。さつきは黙って聞いていた。少し言いすぎたかなと思った。嬉しいなと来た。驚いた。私が我が侭言っても、誰も叱ってくれなかった。この十年ずっとそう。どうせ長くないんだから、好きなようにさせてやれって、見え見えだったわ。死刑囚とやさしい看守さんたち。そういう考え方はやめろ、とおれは歯を剥いた。自分で自分を憐れんでいい気分になるな、莫迦。さつきは、そうねとうなずいた。あまり素直なので、拍子抜けしそうになった。祐ちゃんに何か言われると、すぐに納得してしまうの。昔からそうだった。ね、星のこと、もっと教えて。さつきの言うことを聞いてしまう理由はわからない。とにかく、あれはすばるだの、オリオンだのを指さして教示した。授業料を貰いたいくらい、辛抱強く教えた。ふと、さつきが小首を傾げて、足りないわ、と言った。顔は夜空に向けられ、眼は星の輝きを映していた。足りないって何だ? わからない、さつきは答えた。よくわからない、でも何かが欠けているの。いま、ここで何かが足りないのよ。星のことかと訊いた。かもしれない、でも、違うわ、きっと。おれは、ふうんと口にするしかなかった。鈍い音がしたのは、そのすぐ後だった。ベンチから落ちたさつきの呼吸(いき)は、弱く浅かった。福岡の交通事故の現場で見かけた男も、同じ呼吸をしていた。胸をぶつけたのだ。男は三分も保たなかった。おれはさつきを抱き上げ、病院へと駆け戻った。途中でふと、空を見上げた。満天の星だった。

 三日後、おれは札幌のラヴ・ホテルに園子といた。ほんの一分前まで二人に寄せていた熱い波は去りつつあった。一緒にならないか、と俺は誘ってみた。あら不思議、と園子は愉しそうに言った。あたしは、別れようと言うつもりだったのよ。どうしてだ? あたしの方を向いていないからよ。おれは園子の方を見た。ようやく両眼から頬まで走るすじに気がついた。そういうことだった。うざったいことを塗りつぶすペンキの代わりにあたしを使わないでよ。園子は声を叩きつけてきた。あたしのこと、あんたがいなけりゃ生きられない娘だなんて思わない方がいいわよ。別の男だっているんだから。来年、高校を出たら勤めるお店だって決まってるわ。あんたが来なくなったって、あたしは、ずっとこの街でひとりで暮らしていけるんだ。それから、園子は毛布を眼に当て、声をたてずに泣きはじめた。俺はベッドを下りて、窓のそばへ行き、カーテンを開いた。何かをしなくては、やりきれない気分だった。夜空を星が覆っていた。北海道の星は東京と別物だ。おれはちょっとの間、見惚れた。背中に重いものが触れた。園子の頭だった。おれにもたれかかって動こうとしなかった。おれも黙って星を見上げていた。足りないわ。ぽつんと耳に入ってきた。どこかで聞いたことがある、と思いながらも、すぐにはわからなかった。足りないわ、と園子は念を押すようにつけ加えた。何がだ? とにらみつけたとき、おれはさつきと散歩道を憶いだした、何が足りないというんだ? ふり向いて、園子の肩をゆすった。わからない。園子の眼尻から光るものが跳んだ。わからない。でも、足りないの。いま、あたしたちに必要なものが、ここにはないのよ。莫迦野郎。おれは園子を床へ突き倒した。取り残されているような気がした。そんなこと気にしたこともなかつたのに、いまはひどくやり切れなかった。

 次の晩、ひとりでバーへ入った。今回は片道輸送だ。園子は、さよならと言い残して去った。カウンターの向うで愛想笑いを浮かべているママに、足りないものがあるか、と訊いたときは、しこたま酔っていた。返事はなかった。一見の客だと見抜いたのだろう。酔っ払いのくだ巻きに、いちいちつき合ってはいられないというわけだ。キレかける寸前、別の客が入ってきた。サラリーマンとOLのアベックだった。おれの隣に来た。男はトム・コリンズ、女はジンフィズを注文した。それが届く前に、おれは、ママにしたのと同じ質問をOLの方にした。やだあ、この人、とOLは口もとに手を当てて笑った。確かに最悪の歯並びだ。莫迦野郎、答えろ、とおれは女の肩を掴んでゆすった。ママがやめてと叫び、サラリーマンが、この野郎と喚いた。その後のことはよく覚えていない。顔や腹にごつごつしたものが当たり、OLが足りないものなんかないわよと大声を上げていた。

 気がつくと、公園のベンチにいた。顔と肋骨が痛みを訴えている。ひどい顔ね。隣の声だった。ショートカットの娘が腰を下ろしていた。ピンクのセーターとプリーツスカート。こんな格好でこんな時間にうろついている理由は一つだ。エンコーすると言ったか、おれ? と訊いてみた。うん。飲み屋の前でね。娘は割とまともな声を出した。即ホテルかと思ったら、公園へ連れてけ、よ。ヘンな男だと思ったわ。おれは立ってたか? ええ。何かやらかしたのね。すぐそばの店から女の人が出てきて、このやくざって、灰皿をぶつけてたわよ。どうやら、サラリーマンには勝ったらしい。よしとしなくちゃなるまい。どうして、こんなところへ来るの? 娘は面白そうにおれの顔を跳めた。ひょっとして、憶い出の場所? 星が出てるな? おれは眼を閉じたまま訊いた。うん、いっぱい。きれいだよお。おれといて嬉しいか? 娘がうんと言うまで、少し間があった。うん、嬉しいよ。なら、欠けているものがあるはずだ。感じるか? 今度はあっさり、ううんと来た。おれと一緒にいて満足してるんだろ。それで感じないのか? 何言ってんだか、よくわからないけどさ。娘はおれの肩に頭をもたせかけてきた。あんたとあたしは商取引をしてるだけなのよ。その分は愛してあげるし、あなたも本当の恋人だと思ってくれていいよ。一回だけね。だから、ホテルいこう。欠けてるだの足りないだの言ってる場合じゃないじゃん。そのとおりだ。おれはポケットから財布を取り出し、何枚か抜いて娘に押しつけた。ちょっと。多すぎるよ、悪いわ。いいんだ。じゃ、な。娘は眼を丸くした。じゃなって、帰っちゃうの? そうだ。それじゃ、こんなに貰えないよ。あたし、二回でもOKだと思ったのに。それは好きな相手としな。金目当てじゃない相手とな。そしたら、おれの質問の答えもわかるだろう。娘は手の中の万札を眺めてから、おれを見上げて訊いた。あんた、わからないの、何が欠けてるか?

 北海道から戻っても、おれはアパートヘはいかず、仲間のところを泊まり歩いて日を送った。そのたびに、彼女がおかしなことを言わないかと訊いてみた。みな、笑いとばした。ひとりを除いて。赤羽の、おれの倍もひどい安アパートに住む初老の同業者だった。年上の女房の尻に敷かれていると、評判の男だった。ああ、しょっ中口にしてるよ、何かが足りないって。そして、おれもそう思うとつけ加えた。おまえもわかるのか、おれは正座してしまった。ああ。何だかわからないけど、欠けてるような。こんな晩は特にそう思う。茫然としているところへ、女房が帰ってきた。予告もせずに邪魔をして、にっこりされたのは初体験だ。ごめんね、遅れちゃって、と女房は亭主に詫びた。安香水の匂いが鼻をついた。赤羽のバーに勤めているという。いいんだよ、飯の仕度はできてるぜ。わあ、ありがと、うれしい、父ちゃんの炊いてくれたご飯は一番おいしいからね。女は亭主に抱きついてキスをした。さ、すぐいただくよ。あ、お客さんも付き合ってくださいな、若いからもう一回ぐらい食べても大丈夫でしょ。喜んで、とおれはうなずいた。

 次の日遅く、病院を訪ねた。たかだか十日間のうちに、さつきの身体は倍も縮んで薄くなったように見えた。もう来てくれないのかと思ってたわ、とそれでも、声だけはしっかりとしていた。おれは窓の外を眺め、煉瓦の道へ行ってみようか、と訊いた。叔母ははっとしたようだが、何も言わなかった。さつきを背負って病室を出た。看護婦と出会っても、知らぬ顔で通した。邪魔をされたら、張り倒すつもりだった。十日の間に、空気はすっかり秋の気配を湛えていた。おれの足下を枯葉が追い抜いていった。かさかさと煉瓦に触れる音が、やけに耳についた。例のベンチにさつきを横たえ、おれはこう話しかけた。やっと、欠けているものがわかったよ。いや、何がじゃない。欠けていることが、だ。うれしいわ、とさつきは眼を輝かせた。白い頬に赤みがさしたような気がしたが、勘違いだったかもしれない。本当はね、とても怖いの、とさつきは口にした。祐ちゃんとこんな風にここにいられて、願いは二度も叶ったのに、何かが足りない。十分じゃないって思いが、どんどん強くなるの。どうしてかな、どうしてかな? おれもそうだ、とおれは嘘をついた。このままじゃ、死んでも死にきれないよ、祐ちゃん。さつきは泣いていた。あたしの人生、ずうっと何かが欠けていたの。祐ちゃんがそうだったの。やっと手に入れたと思ったら、いちばん大事な何かが足りない。ここに祐ちゃんといることが、いちばん大切だって思わせてくれる何かが。何も言えなかった。ねえ、手を握って、怖いままで逝くのは嫌。それぐらいなら叶えてやれる。透きとおった手を握りしめた。さつきの指から力が抜けたのがいつなのかはわからない。呼吸をしているのかしていないのかもわからない。おれはガウン姿の身体を抱き上げた。子供より軽い。歩きながら、空を見た。わからない。何も感じられない。涙さえ流れてこない。おれは歩きつづけた。空には星が光っている。星ばっかりだ。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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菊地 秀行

キクチ ヒデユキ
きくち ひでゆき 小説家 1949年 千葉県銚子市生まれ。

掲載作「欠損」は2001(平成13)年4月『死愁記』(新潮社)に収載された作品。

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