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乳の匂ひ

 ……その頃、伯父は四條の大橋際に宿屋と薬屋とをやつてゐた。祇園の方から鴨川を西に渡つて、右へ先斗町(ぽんとちやう)へ入らうとする向ひ角の三階家で、二階と三階を宿屋に使ひ、下の、四條通りに面した方に薬屋を開いてゐたのだつた。そして宿屋の方を浪華亭といひ、薬屋の方を浪華堂と呼んでゐた。

 私は十三歳の夏、この伯父を頼つて京都へ行つたのだつた。中学へでも入れて貰ふつもりで行つたのだが、それは夢で、着いた晩、伯父はお雪さんといふ妾上(めかけあが)りの細君(さいくん)に腰を揉ませながら、

「今夜だけはお客さんやが、明日から丁稚(でつち)やぜ。」

 と宣告した。そしてその通り、翌日から浪華堂の店先に立たされたのだつた。ありふれた売薬や化粧品を、宿屋の片手間に小売りしてゐたので、他に店員も居なかつた。

 ところがそれからまだ五六日も経つか経たぬに、或日私は使に出された。伯父の留守の時で、主婦のお雪さんに言ひつかつて、西洞院(にしのとういん)蛸薬師(たこやくし)の親類まで、夜具か何かの入つた大きな風呂敷包を持つて行かされたのだつた。

 私は大に面食つた。何しろ昨日今日北国の片田舎から出て来たばかりで、まだ京の市街(まち)の東西も知らず、言葉も碌に聞き取れぬ時分のことだつたのだ。四條通りを西へ幾筋目かの辻を(あが)つてとか(さが)つてとかと、道はくはしく教へられたが、もとより充分呑込めもせず、見当もつかぬ位だつた。それに前に一度、七つの時父が京詣りの時一緒に連れられて来て、六條の伯母の家に滞在中、或日一人でうかうかその辺へ遊びに出て迷児になり、通りがかりの見知らぬ男に半日もあつちこつち引つ張り廻された揚句、トドのつまりに、着てゐた羽織を(かた)り取られた上、黄昏(たそがれ)の場末の街上に置き去りにされた苦い経験があつたので、尚更不安に感じたのであつた。

 だが、勿論拒むべくもなかつた。

「旦那はんお留守の間に早よ行つて来てんか。何でもあらへん。眼つぶりもつてでも楽に行ける。えら行けの丹波行けや。」

 お雪さんはさう事もなげに言ひながら、私にその包みを背負はせるのだつた。包みは大きい割にさほど重くもなかつたが、小さな私の背丈にもあまる位だつたので、それを背負つて歩く恰好は、見るも無態(ぶざま)なものだつた。店の片方の壁に、何かの薬の広告用の額鏡がかゝつてゐて、それに映つた自分の姿でそれと知つたのだが、風呂敷包みに手足が生えたとでもいはうか、何のことはない、亀が後脚に立つて(うごめ)いてゐるやうだと、それを私に背負はせたお雪さん自身さへ、思ひ遣りなく手を拍つて笑つたほどだつた。{私はこの時以来、このお雪さんにあまり好意を持たなくなつた。三十五六の、細面の美人顔だつたが、何となく(ひや)つこい、底意地の悪るさうな人に思はれた。}

 京都でも一番目貫(めぬ)きの四條の大通りを、私はそんな恰好でよちよち歩いて行つたのだつた。私は往来の人々や、両側の店々の人々の眼が悉く私の上に注がれ、そしてみんな可笑しがつて笑つてゐるやうな気がして、子供ながらも恥しいやら情ないやらで、顔もよう上げられなかつた。その上、始めて様子も分らぬ所へ行くので、道も殊更遠く感ぜられるのに、背の荷物は段々持ち重りがして来るし、さらでだに暑い八月の日盛り頃で、全身汗水漬(みづく)になるし、前からも後からも人力車が突ッかけて来て、車夫にぽんぽん怒鳴られるし、ほんとうに泣き出したい位だつた。

 でも、漸くその家に辿り着くことが出来た。人に道を尋ねる(すべ)も知らず、またそんな勇気もなく、辻々の電柱に貼られた町名札を唯一の頼りにして行つたのであるが、迷児にもならず路地一つ間違ひもしなかつたのは、我ながら幸ひよりも(むし)ろ大手柄といふべきだつた。

 それはとある細い路地の奥の小さなしもた家だつた。お雪さん{私はこの人を、伯父と本人に向つては「伯母はん」と言つてゐたが、他の第三者と話す時には、本名で呼び習はしてゐた。}の姉さんの家だと聞かされてゐたが、その姉さんの人らしく、顔に疱瘡(はうさう)の跡のある四十前後の女が出て来て、

「おほきに御苦労さん、えろおしたな。」

 何処の国の訛りか、変に抑揚のついた尻上りの口調で言つて、私の背から荷物を取り下してくれた。

 私はその時通り庭の土間を入つた所に立つて、汗を拭き拭き、何気なく奥の方へ眼をやつたが、手前の部屋との(さかひ)葭障子(よししやうじ)を透して、其処に女が一人寝てゐるのが見えた。後ろ向きになつてゐたので顔は分らなかつたが、若い女の人らしく赤ん坊に添乳(そへぢ)でもしてゐた様子だつた。

 後になつて分つたことだが、その女が、これから話さうとするお信さんといふ人だつたのだ。伯父の養ひ子で、だから私には義理の従姉に当るわけだつた。当時、お産をして故あつてその家に預けられて居たのだつた。

 

 お信さんは元は乞食の子であつた。——そんな意外な話を聞いたのは、それから二三ケ月もしてからだつた。四條の橋の下にゐて、朝夕浪華亭の裏口へ、客の食べ残りなどを貰ひに()い来いしてゐたのを、伯父がその親達に幾らかの金を与ヘ、二度とその辺へ顔を見せぬといふ約束で拾ひ上げたのだといふ話だつた。お信さんの七つ八つの頃のことだつたさうな。

「えらい(しらみ)でな。風呂へ入れるいうて着物(べべ)脱がさはつたら、大変や。身体中一面真赤に腫れ上つてゝな。見られしまへんどしたんえ。」

 六條の伯母の家へ遊びに行つてゐた時、出入りの或る心易い女の人が、自分もその時その場に居合せたもののやうな調子で、私にさう言つて聞かせた。

「そやけど、ぢき、いい別嬪(べつぴん)はんにならはつてな……」

 そして情人(をとこ)こしらへて、嬰児(やゝこ)生まはつたんや——といふやうな(さげす)みの意味を言外に匂はしながら、その人が続けるのだつた。

「尤も、乞食してはつた時分から、可愛らしい別嬪の子どしてな。ふた親の人かて、(はな)から乞食してはつたんやないねや。始めてからまだそないにもならなんだんやし、元は中京の油屋はんか何かで、結構やつて居やはつたいふ話やし、浪華亭はんもあい風な人やよつて可哀相や思はつたんどツしやろ。後で藝妓(げいこ)はんにでもしやはる気どしたかも知れへん。」

 伯父は元来堅気な人ではなく、所謂遊侠の徒であつた。私の父のすぐ上の兄で、本願寺附近の或る仏壇屋の次男に生れたのだが、十六の時家を飛出し、大阪で何とかいふ侠客の乾児(こぶん)になつたりして、十年ばかりもごろごろしてゐた後再び京都に舞ひ戻り、七條の停車場前にうどん屋を開いたのが当つて、それから後はとんとん拍子に発展し、五條に鳥屋、西石垣(さいせき)に会席料理屋、木屋町に席貸し、先斗町(ぽんとちよう)に藝者屋、それから四條に宿屋といふ風に次々と手を広げ、妾の四五人も持つて、それぞれさういふ小商売をやらせるといふ豪勢さで、一時は京都の遊び人社会でも、「浪華亭はん浪華亭はん」といはれて、相当幅利きの顔役にもなつてゐたさうだ。私が頼つて行つた時分には、(しか)し、伯父も衰運の一途を辿つてゐて、店も最後の四條の宿屋兼薬屋を(あま)すのみとなり、女も一番新しいお雪さんだけみたいになつてゐたが、お信さんを養女にしたのは、それから十四五年も前の、丁度全盛時代のことらしく、一種の侠気の外に、多分の気まぐれも手伝つてゐたらしいのだつた。

 (ついで)だが、伯父は最初から正妻といふものを置かず、妾から妾を渡り歩くといふ放縦遊冶(いうや)の生活をつゞけてゐて、そしてその誰にも子供がなかつたので、お信さんの外にも、後嗣ぎの養子を別にして、他に二人も養女と名のつく者を持つてゐた。一人はお藤さんといつて、西石垣(さいせき)に会席料理屋をやらせてゐたお文さんといふ女{お雪さんの前の妾本妻で、病気で伯父と別居してゐたが、交際はずつと続けてゐた}の娘分にしてあつたのだし、今一人はお高さんといつて、先斗町(ぽんとちよう)に藝者屋をやらせてゐたお鶴さんといふ小女の娘分にしてあつたのだ。それでお信さんは、お雪さんの娘分になつてゐたわけであるが、私が行つた時分には、養子の恵三郎{大阪の新町の藝者屋の息子。}は兵隊になつたので伏見の聯隊に入営してゐたし、お藤さんは旦那を持つて、養母のお文さんと共に祇園の方に一戸を構ヘ、三味線の師匠をやつてゐた。二十七八で、眼のばつちりした面長の美人だつた。それからお高さんは、丹波の福知山で藝者になつてゐた。自分から好き好んで是非なりたいといつて承知しないので、まさか眼と鼻の先斗町や紙園から出すわけにもいかず、或る縁故から福知山へやつたのださうだ。もう四五年にもなるといふことだつたが、私が行つてから二月あまり経つた頃、病気で戻されて来て、その晩、まだ宵の口にふらつと表へ出て行つたと思ふと、その儘嘘みたいに疏水(そすゐ)に身を投げて死んでしまつた。私はその時、監視かたがた見えがくれに後をつけて行つたのであるが、四條の橋を東に渡つて、灯影まだらな川端通りを少し上つたところから、駆けつけて救ひ止める暇もあらばこそ、アツといふ間にざんぶりと飛び込んだのだつた。そして団栗(どんぐり)の橋際まで二町程も流されて()つと引上げられ、その場は息を吹き返したが、勿論それが基で、二三日病院に居て死んだのだつた。二十四五の、色の浅黒い、その名のやうに丈の高い痩せぎすの女だつたが、重い神経衰弱に罹つてゐたらしいのだつた。

 さてお信さんのことであるが、私がお信さんと直接会つたのは、私の数年間の京都生活中、後にも先にも、たつた二度しかないのである。それも極く僅かな時間のことだつた。それにも拘らず、その時の印象が非常に強く私の胸に刻まれてゐて、四十年後の今日でも、尚且(なほかつ)昨日のことのやうにありありと思ひ出されるのである。

 一度は、最初の使ひから半月程の後、二度目に使ひに行つた時だつた。今度は片手に持てるやうな小さな包み物を持つて行つたのであるが、その時お雪さんの姉さんの人が留守だつたらしく、お信さん自身が出て来てそれを受け取つた。二十前後の小柄な、肉附きのいゝ、下ぶくれの圓顔で、眼のやゝ細い、柔和さうな顔附きの人だつたが、私がすぐ帰らうとすると、一寸お待ち、といつて奥へ引込み、間もなくラムネを一本手に持つて戻つて来た。そして、

「たつた一本や、飲んでお行き、結構冷えとす。」と言つて私の前にさし出した。

「へえ、おほきに」

 私はまだほやほやの怪しげな京言葉で礼を言つたが、実はまだラムネなるものを飲んだことがなく、栓の抜き方も知らなかつた。あの首のくゝれたやうな独特の形をした瓶の口を塞いでゐる圓い硝子玉(ビーだま)、それを拇指(おやゆび)でぐつと押すと、ポン・シュッと胸のすくやうな快音を立てて抜ける、あの原始的な素朴なやり方を知らなかつたのだ。で、上り(かまち)に腰掛けたまゝ、暫く戸惑ひの形でもぢもぢしてゐると、お信さんは遠慮でもしてゐると思つたか、折角冷えてゐるのだから、(ぬる)くならぬうちに早く飲めと頻りに勧めるのだつた。私は益々当惑し、暑さよりも恥しさで赫くなつて、(いたづ)らに額の汗を拭くのみだつた。と終ひにお信さんもそれに気がついたらしく、併し私に恥をかゝせまいとの心遺ひからだつたのか、只一寸口元に微笑を浮べただけで、

「ラッパ飲みした方がおいしいんやが……」

 とさりげなく他を云ふやうに呟きながらコップを持つて来て、手づからポンと口を抜いてそれに注いでくれた。そして私が御馳走になつてゐる間、その側に生後間もない赤ん坊に乳を呑ませながら、私に年や名前や境遇のことなぞ、いろいろと聞いたり尋ねたりした。

 私は問はれるまゝに、年が十三であることや、郷里には父が漁師をしてゐるが、母は()さぬ仲だといふことや、実の姉が一人あつて、その姉も三年前矢張り十三の年に京都へ来て、六條の伯母の家{これも宿屋だつた}に奉公してゐることや、それやこれやで、自分もつい最近伯父を頼つて一人で出て来たのだといふことなどを、ありの儘に打ち明けた。お信さんは何かしら特別興味を(そゝ)られたやうに、一々さうですか、さうですかと、うなづきうなづき聞いてゐた。殊に私が伯父の家に奉公してゐるのだといふことや、姉が六條の伯母の家に居るのだといふことを話した時には、まあとばかりに顔の表情を変へさへしたが、最後に、

「なあ、大抵やおへんえな。そやけど感心や。小さいのに中々しつかりしてはる。いゝ丁稚(でつち)はんや。えらいことおしても辛抱してな、せいぜい機嫌ようお働きやす。」

 と優しく(いた)はるやうに言つて、帰りしなに十銭玉を一つお駄賃にくれた。

 私はまだその頃お信さんが何者であるか、その身上のことなど何一つ知つてゐなかつた。伯父の養ひ子だといふことはもとより、名前も知つてゐなかつたのだ。たゞ、多分その家の嫁さんか娘さんか位に想像してゐたに過ぎなかつたが、(しか)し大変優しい親切な思ひ遣りに富んだ人だといふ気がして、何となく親しみ深く、且つ一種慕はしいものをさへ感ぜずに居られなかつた。それも単に、ラムネを御馳走になつたとか、お駄賃を貰つたとかいふことの為ではない。そんなことより(むし)ろ、その時お信さんから受けた直接の印象——私にいろいろ身の上のことなど尋ねて、まるで姉が奉公に出てゐる弟でも慰撫するやうに、優しく(いた)はり(ねぎら)つてくれたお信さんその人に、何となく、情愛に富んだ、人間的な温いものを感じて、それに一層心を動かされ、且つ引きつけられもしたのだつた。

 元来私は、生れて間もなく母を失つて、温い母性的な情愛といふものを知らず、常にさういつたものに飢ゑ(かつ)ゑてゐて、少し年上の女の人などに親切にされると、すぐその人の胸にすがりつき、その情に甘えようとする傾向を持つてゐた。そしてそれが(やゝ)もすると、恋愛的な感情にまで変化することがあるのだつた。さうでなくとも、何といつてもまだ十三やそこいらの幼い身で、遠い他郷に丁稚奉公に出てゐた私だつた。たとひそれが伯父といふ近親の者の家であつたにせよ、まだ日も浅くて人にも土地にも馴染親しみが薄く、何かにつけて孤独的な、うら悲しい哀傷の思ひに堪へ兼ねてゐたのだつた。さういふ私にとつては、だから、たつたそれだけのお信さんの親切も身にしみて嬉しく、まるで曠野に知己を見出したやうな喜びとも慰藉(ゐしや)ともなつたのだつた。

 今一つその時の印象で忘れられぬものがあつた。それはお信さんが、稀に見る色の白い人だといふことだつた。京の女は鴨川の水で化粧するので色が白い、といふことは物の(はなし)にも聞いてゐたし、また実際、ついその頃まで田舎の漁師村の、日焼け汐焼けのした女ばかり見てゐた私の眼には、誰も彼も皆その様に思はれたが、併しお信さんはまた格別だつた。容貌の美醜などは、もとより子供の私には分らなかつたが、色が白くて肌膚(はだ)の美しいといふ点では、恐らく他に比もあるまいと思はれた。丁度赤ん坊に乳を呑ませながらで、その上暑い夏の日のことで、胸も殆どはだけられてゐたが、その肌膚(はだ)の色の清らかに美しいこと、全く玲瓏として透き通るばかりだつた。雪を(あざむ)くとか玉の肌とかいふのはこんなのを指すのであらうかと、まだ物心つかぬ少年の私も、何となく一種眩しい思ひなしに(ぬす)み見ることも出来なかつた。私はもうそろそろその頃では、初期の思春期に近づいてゐて特にさうしたものに心を引かれたのであらうか。少くともその時以来、私の異性を見る眼が違つて来たやうだつた。

 

 二度目はそれから半年もそれ以上も経つてからだつた。私はそれまでに何度も、大抵月に一度位の割に西洞院(にしのとうゐん)へ使ひに行つてゐたのであるが、つひぞお信さんに会ふことがなかつたのだ。留守であつたり、居ても奥の間にお針か何かしてゐたりして、自分で応対に出て来ることがなかつたのだ。いつもお雪さんの姉さんの人が来て、おほきに御苦労さん、えろおしたえなと、判で押したやうな定り文句を、たゞ口先だけに言つて迎へるのであつた。

 私はその度毎に、何かしら失望に似た寂しいものを感ぜざるを得なかつた。殊に、お信さんが家に居ながら顔を見せてくれない時にはさうだつた。自分だけ勝手に親しみ深く感じてゐるのみで、お信さんの胸には、もうあれきり、私といふものが影も止めてゐないのだと思ふ心が、私をして異様に佗しい、味気ない気持にならせるのだつた。

 そんな間に、私はいつかお信さんの生ひ立ちや身の上の概略を知るに至つたのであつた。即ち、元は乞食をしてゐたのだといふこと、それが伯父に養はれて、学校にも行き裁縫の師匠にも通ひ、やがて年頃の美しい娘になつて、女中等に交つて客座敷へも出るやうになつたが、その(うち)東京の者で森田といふ男と恋仲になり、遂にその男の(たね)を宿したのだといふこと、森田は逓信省の電信技手とかで、三十前の独身だが、毎月一度位京都へ出張して来て、その都度(つど)浪華亭を宿にしてゐたのだといふこと、ところで、最初その森田と(ねんご)ろになつたのはお信さんではなくて、実は養母に当るお雪さんであつたのだといふこと、お雪さんはその秘密が発覚しさうになつたので、それとなくお信さんを身代りに押しつけて、未然にうまく伯父や世間の眼をごまかしたのだといふこと、そしてお信さんが妊娠すると、西洞院の姉の家に預けて身二つにさせたのだといふこと、お信さんは男の子を生んだが、伯父はその不身持を憤つて森田との結婚を許さないのはもとより、お信さんがその子供を手放し、森田とも手を切つて了はない限り、一生勘当するといつて家へ寄せつけもしないのだといふこと、ところがお信さんは子供が可哀相だからといつて、誰が何と説得を試みても、頑としてそれを(がへ)んじないのだといふこと、お雪さんは自分に弱味があるので、伯父に隠れて何かとこつそり面倒を見てやつてゐるのだが、伯父はそれを知つて居ながら(わざ)と知らぬ顔で居るのだといふこと等々……

 以上は一人の口から一度に聞いたことではない。幾人もの口から幾度にも亙つて、直接間接にちよいちよい耳にしたことを綜合したので、何処まで真実か分らなかつたが、兎に角私はそれによつて、お信さんが伯父の家の養女だといふのに、産後の肥立(ひだ)ちが過ぎても戻つて来ないばかりか、顔出し一度しないのは何故だらうといふ疑問や、又、私が西洞院へ使ひに行くのはいつも伯父の留守の時に限つてゐて、お雪さんがそれを伯父に内證にしてゐたらしい{後で思ひ合せたのだが。}ことの意味などが、自然に成程とうなづかれたのであつた。

「旦那はんに黙つてお居や。別に構やへんけれどな、(ほか)の用でお()はんが店空けたいふと悪るいよつて……」

 こんな風に、お雪さんが、何気ない軽い調子で注意したりしたものだつた。

 併しそんなことは——お信さんが乞食の子であつたとか、(てゝ)なし児を生んだとかいふやうなことは、私のお信さんに対する感情に、何等の影響も与へなかつた。流石(さすが)に一寸意外に驚きはしたものゝ、それが為にお信さんを卑しむとか蔑むといふやうな心は、微塵も起りはしなかつた。却つて、さういふ数奇な生ひ立ちや境遇に加ふるに、お雪さんの不義の犠牲になつたり、伯父に勘当されたりしたといふことなど色々取り集めて、何かしら世にも哀れな不幸な人だといふ気がして、子供心にも(ひそ)かに同情を感じてゐた位だつた。否、さう言つては少し強過ぎる。人の境遇を憐むとか、その不幸に同情するとか、さうした大人的な批判的の感情は、まだその頃の私の内には成長してゐなかつたのだ。お信さんの境遇——伯父やお雪さんや森田等との間の複雑な関係や情実、さういつた大人の世界は、まだ私の窺知(きうち)や理解や批判の範囲外にあつたのであつた。私はたゞ初対面の印象から、自分がお信さんに特に好意を持たれてゐるもののやうに思ひなして、自分だけ勝手に片思ひ的に彼女に親愛の情を感じ、その生ひ立ちや境遇などに関係なく、只単に孤児が肉親の情愛を(おも)ふやうな単純な心持で、何となく一種の思慕を感じてゐたに過ぎなかつたのだ。そして西洞院へ使ひに行くのが楽しみで、往きにはいつもいそいそとした心持になるのであつたが、今言つたやうな事情で、帰りは常に期待外れの充ち足りない心持で悄然となるのであつた。

 ところが或時、お信さん自身が思ひがけなく突然伯父達を訪れて来たものだつた。三月の末のことだつたが、その頃伯父は、お雪さんと私と三人で清水の方に住んでゐた。伯父は前から長らく胃腸を患つてぶらぶらしてゐたのだが、私が行つてから間もなく、S坂の近くに別荘風の小宅を建てて、一時保養旁々(かたがた)、その年の暮に其処ヘ引越したのであつた。そして私は飯焚きの下女代りに連れて行かれたのであつた。

 お信さんは子供も連れずに一人でやつて来た。日暮れ過ぎ、丁度夕飯の後片附けも終つて、私が流し元から上らうとしてゐると、突然外から慌しく駆け込むやうに入つてきて、意外に驚いてぽかんとしてゐる私に、

「此処どすか、居やはる?」

 といきなり(あび)せるやうに伯父達の在否を尋ねると、その儘返事も待たずに、何か迫つた真剣な面持で、勝手につかつかと奥の間へ押入るやうに入つて行つた。まるでさうしなければ或は追返されるかも知れぬと恐れて居たかのやうだつた。

 この不意の訪問は、ひどく伯父達を驚かした。伯父は毎晩の食後の例のやうに、寝床の上でお雪さんに腰を揉ませてゐたが、急に色を変へて起き上り、何か口の中で訳の分らぬことを唸るやうに呟きながら、一寸手の()き所にも困つてゐた程だつた。そして暫く雙方の間に異様な狼狽と動揺のだんまりが続いた。

「何しに来よつたんや。」

 さう伯父が口を切るまでには、かなりの間があつた。そしてその声には、怒るよりも怯えたものの微かな(おのゝ)きがあつた。

 

 私は隣室から襖越しに、三人の話に聴き耳を立ててゐた。三人は時に聞き取れぬやうな低声(こごえ)になり、時に荒々しい喧嘩声になり、又時にはお信さんの歔欷(すゝりなき)の声が交つたりしたが、私の聞き得たところによると、お信さんは、今度森田が上海(しやんはい)へ、海底電信の仕事で一二年出張することになつたので、自分も一緒に行かうとして、その諒解を求めかたがた暇乞(いとまご)ひに来たらしいのであつた。

 お信さんと森田との関係が、その頃どんなことになつてゐたか、もとより私の深く知るところではなかつたが、併し、矢張り森田が時々出張して来ては、これまで通りの恋愛関係、否、夫婦関係が続けられてゐたに違ひなかつたらう。私も一度西洞院でそれらしい男の姿を見かけたことがあつた。背のすらつとした、鼻下に美しい八字髭を蓄へた立派な男だつた。で今度の上海行きも、二人で前以て手紙でゝも打合せてゐたか、または森田が赴任の途中立寄つて、急にお信さんも()いて行くことになつたものか、それとも森田が既に彼地(かのち)へ行つてゐて、そこからお信さんを呼寄せようとしてゐたのか、或はお信さんが自ら後を追うて行かうとしてゐたのか、何れにもせよ、お信さんはもうすつかり腹を定めて了つてゐて、その出発も二三日に迫つて居たやうだつた。

「そんなんなら、何も今更そんなこと言うて来よるこたあらへん。黙つて勝手に行きよつたらいゝがな。阿呆かいな!」

 伯父は侮辱されたもののやうに、ぷりぷりして言つた。

「そやかて、上海言うたら支那どすがな。外国どすがな」

 お信さんの言ひ方は、まるで無知な無邪気な少女のそれのやうだつた。

「それが何や、支那ならどないした言ふんや。」

「そんな遠い(とこ)へ行かういふのに、何ぼ勘当されてたかて、親に黙つて行けまツかいな。」

 上海といへば、今でこそ日本の内地も同様の感じになつたけれど、日露戦争も前のその頃では、一般にまだ所謂(いはゆる)唐天竺(からてんじく)といはれた海外万里の異邦の地であつたのだから、お信さんにして見れば、たとひ義絶の間柄にもせよ、これまでの親子としての恩愛や情誼として、流石に黙つて行つて了ふに忍びなかつたのだらう、勘当の身にも拘らず、自ら押して訪れたのもその為で、あはよくば之を機会に勘当も許され、森田と夫婦になることにも同意して貰はう、さう思つて来たのに違ひなかつたのだ。

「わてかて、親の恩や義理忘れてへんのどす。」

 お信さんは涙声で言ひ続けた。

「何ぬかしよる。まるで俺が可哀相やいうて会ひに来てやつたみたいに。無茶やがな! 誰の承知でそない所へ行かういふんや。」

「…………」

「親の恩や義理忘れて居よらんなら、何でその親の言ふこと()きよらん。親が大切か情夫(をとこ)が大切か。」

「そんな殺生なこと……」

「何が殺生や。」

嬰児(やゝこ)が可哀相どすがな。」

「そんなもの誰が生め言うた。」

「…………」

「そんなもの泥溝(どぶ)へなと捨てて了ヘ。」

伯父の持前の癇癪が次第に昂じて来た。

「あんまりどす。」とお信さんは恨めしさうに啜り泣きを始めた、「お父つあん等、自分(めんめ)の子を生みやしたことおへんよつてお知りんのどす。」

 昂奮のあまりでか、お信さんもとんだ失言を口走つたものだつた。伯父は「なに!」とばかりに、矢庭に太い銀の煙管(きせる)を振り(かざ)した。(へだて)の襖に青い(しや)(すか)しが入つてゐて、それを透してその場の光景も朧ろげに窺はれたが、病褥の上で大儀さうに脇息に支へてゐた痩せた上体を前に乗り出して、頬の()けた、色沢(いろつや)の悪るい、蒼いよりは(むし)(くろ)く病焼けのした顔に朱を注いで、深く落ち窪んだ両眼をぎろぎろさせながら、はたとお信さんを睨みつけた伯父の形相(ぎやうさう)は物凄かつた。年はまだ五十にも充たないのだが、病衰や早老性の為でか、歯も両顎とも抜け落ちて、六七十の老人の如く醜くく老けて見えた。

 だが、お信さんは身動きもせず、深く覚悟を決してゐるもののやうに、向う向きに撫で肩の背を圓めながら、ぢつと頭を首垂(うなだ)れてゐた。赤い手柄の丸髷に結つてゐたが、その白い襟脚のあたりが、小刻みにぶるぶる震へ(おのゝ)いてゐた。

 さうしてお雪さんはといふと、伯父さんとお信さんと何方へも斜めに向つたやうな位置で、その鼻のつんと高い、顎のとがつた、冷つこさうな瓜実顔を上向けにして、何か勿体ぶつた、瞑想にでも耽つてゐるやうな澄まし方で{これはこの人のよくやる癖で、私の好かぬものの一つだつた。}その切れの長い眼をぱちつかせてゐたが、この時さつと手を揚げて伯父を遮りながら、キッとなつてお信さんをきめつけた。

「これ、何をお言ひや。親に向うて、その言ひ方それ何や。早ようお謝り!」

「そやかて、あんな殺生お()やすもん。」

「何言うてや。おまはんが分らず言ふよつてやがな。おまはんさヘ、おとなしく親の言ふ通りしたらいゝんやがな。自分で不仕だらしててからに、親の言ふこともきかへんで、おまけに勝手に支那てら上海てら行くいうて、そんな無茶なことおすかいな。旦那はんが、あない言うてお叱りやすのが当り前や。」

 お雪さんはさう言葉巌しくお信さんの不心得を詰責するやうに言つた。併し何となく腹の底からでないやうだつた。何か自分で自分の言ふことに後ろめたいものを感じながら、その場合伯父の手前さう言はねばならないで言つてゐるやうなところがあつた。けだし、()しもお信さんを自分の身代りに森田に売つたといふのが真実だとしたら、お信さんがそれを知る知らずに拘らず、自らは気がひけて、さう権威を以て強くも言はれないわけだつた。

 お信さんはこれに対して何も言はなかつた。たゞお雪さんがさう言つてゐる間に、二度ばかりチラリとお雪さんを横眼で見やつた。するとお雪さんは、何故かその視線を避けるやうに、あわてて眼を天井へ向けながら、例のパチパチをやるのであつた。

 それから尚ほ一しきりいろいろ応酬があつて後、お雪さんが言つた。

「そんなら、おまはんどないしても、親に(さから)うて、森田と一緒にならう言ふんやな? そして支那へ行く言ふんやな?」

「どうぞさうさしてお呉れやす。お願ひどす。」

 お信さんは軽く頭を下げた。哀願よりも決意の表明に近かつた。

「ならん。阿呆言ひな!」

 と伯父が言下に大喝した。そして急に腹痛でも起つたやうに、顔中皺にしてぎゆうと首を捩ぢつた。

 私は、何故お信さんが親の意に従はうとしないかといふことよりも、何故伯父がお信さんの願望を容れて、森田と夫婦になることを許してやらないのかと、お信さん贔屓(びいき)に思はずに居られなかつた。子までなして居るのに、(しか)も伯父のやうな経歴を持つた者が、若い男女の恋愛に理解がない筈もなからうし、それならお信さんが婿取り娘かといふにさうでもない。兵隊に行つては居るけれど、後嗣ぎの養子はちやんと居るのである。その養子の恵三郎にお信さんを(めあ)はせる積りだつたのかも知れないが、だとしても、お信さんに、既に子までなしたいゝ人が出来た今となつては、必ずしもお信さんでなければならぬ訳でもないだらう。まさか、お信さんは謂はば金で買つたやうなものだから、矢張り何かの方法で金にしようといふ打算からとも思はれないし、ひよつとしたら、後嗣ぎの恵三郎が、その頃再役(さいえき)を志願して下士になり、長く軍隊生活を続ける積りで居たので、お信さんに適当な婿養子を迎へて商売の方を継がさうと考へてゐた為でもあらうか。(いや)、たゞ単に、伯父は非常に頑固一徹で、一度言ひ出したら是が非でも押徹(おしとほ)さねばやまない暴君的な荒い気性の人だつたから、たとひ腹の中ではどう思つてゐても、今更自分の口から森田との結婚を許すとも言はれない、といふやうな、単にそれ位な単純な、感情的な理由からに過ぎなかつたのかも知れない。それかあらぬか、結局最後には、俺は貴様を勘当したんだから、どうなとも勝手にしろ、もうこれきり親でもない子でもないからさう思へ、と強く突放したが、事実上黙認の形に陥つて了つたのだつた。たゞその時、伯父はふと一言次のやうに口走つた。

「あいつ泥棒やがな、俺の仇敵(かたき)やがな!」

 それはどんな意味であつたのか。その瞬間急に座がしんとなつて、無気味な沈黙が室内に漂つた。とお雪さんが、何かしら狼狽の有様で、例のぱちくりする眼で素早く四方(あたり)を見廻したが、急に(わざ)とらしい咳払ひと共に立上つて、(さかひ)の襖を引開けた。そしてそこの暗い片隅に(うづくま)つてゐた私を見て、「なんや、おまはんか——おゝ、喫驚(びつくり)した」

 と大袈裟に言ひながら、そゝくさと便所の方へ行つて了つた。

 間もなくお信さんが(いとま)を告げた。私は坂の上の人力車(くるま)の帳場まで提灯(ちやうちん)をつけて送つて行つた。

「お出でやす。」

 外へ送り出て、私は始めて迎への挨拶をした。

「送つておくれやすか、おほきに。」とお信さんが優しい調子で返した。「済まんえな。」

「滅相な。」

 私はかうして、久し振りにお信さんに親しく言葉を交はすことの出来たのが嬉しかつた。長い間の思ひが、漸くのことでとゞいたといふやうな気持だつた。

「えらう、大きならはつたえな。てんと変つて(しま)ははつた。」

 お信さんは私に近く身を寄せて、自分と背比べでもして見るやうにして言ふのだつた。

 実際私は、去年出て来た時に比べると、僅か半年余りの間に、見違へるほど大きくなつてゐた。痩せてひよろひよろはしてゐたが、背だけは梅雨時の(たけのこ)のやうに伸びて、誰も十三や十四の子供に見る者がなかつた。今迄麦飯に味噌ばかり嘗めて居た者が、京へ来て急に御馳走が当るやうになつたからだなどと、よく伯父達に揶揄(からか)はれたが、気持も、それにつれて大分大人染みて来かゝつてゐたやうだつた。

「田舎のお父つあん見やはつたら、喫驚しやはりまツせ。——矢つ張り機嫌ようしてはりまツか。」

 意外にも、お信さんは私の父を知つてゐた。

「あれ、いつどしたかいな。この前京へお()なはつた時、四條の家にも二三日泊つてお行きやしてな。たしか浅はん言はゝるんどしたな。いゝお人はんや。」

 さうお信さんは、すつかり打解けた調子で話した。この前西洞院(にしのとうゐん)で私と始めて会つた時には、私がまだお信さんの身の上——伯父の家の者だといふことを知らないものとして{事実さうだつたが}、わざと打明けなかつたらしいのだつた。

 この事は急に一層私の心をお信さんに近づけた。知らぬ土地で、自分の親兄弟を知つてゐるといふ人に出会ふといふことは、自分自身を知つてゐる人に会つたと同じ程度にも懐しく嬉しく思ふものである。まして日頃ひそかに慕はしく思つてゐたお信さんのことだつた。私は実際その時お信さんを、肉親の姉のやうにも親しみ深く感じたのであつた。

 お信さんは更に続けた。

「そやけど、あんた良うおまツせなア、お()はん(ちご)てはつても、お父つあんお居やすよつて、まだ幸福(しあはせ)や。」

 私は何かはツとするやうなものを感じながら、思はずお信さんを見返つた。それはお信さんが、さう言つて私を慰めるよりも、自分には生みの両親は揃つて居る筈でも、会へもせねば便りも出来ず、生死の程も分らない、さう言つて自分自身を悲しんでゐるのだといふ風に聞えたのであつた。

 月のない暗い晩で、季節外れの寒い冷たい風が強く吹いてゐた。昼間はお(のぼ)りの遊覧客で賑ふその辺も、夕方から急に人足が絶えて了ふのが常で、まだ宵少し過ぎたばかりだつたが、戸の開いてゐる家もなく、四方(あたり)はもう真夜中のやうにひつそりしてゐた。坂の中途の瓢箪屋で、カタヽヽ、カタヽヽと瓢箪の種子を抜いてゐる音が、霜夜の空にでも響くやうに高く冴えて、一層四方の静けさを増してゐた。

「わてのこと、何もかも知つてどツしやらう?」

 少し行つてから、お信さんはさう前置して、しみじみと自分自身について語り出した。

「あんたどない思ててか知らんけれど、わてもそりや辛ろおツせ。お父つあんはあない(きつ)いこと言ははるし、お母はんかて、なあ……。ほんまに、わての身になつてくれる者いうたら、一人もあらへんのどツせ、可哀相なもんどツせ。そりや何えな、わてが男こしらへたのが悪るいいうたら悪るいのやし、お父つあんに抗ふのも善うおまへんけれど、そりや、わても()う知つてまツせ。そやかて嬰児(やゝこ)も居るしするんやもん、お父つあんかて、少し殺生どすがな。わては何も、是非森田と添ひたいいふんやあらへん。嬰児が可哀相やよつて、さう頼むんや、嬰児をどうかして了へいうたかて、そんな殺生なこと出来るかいな。罪どすがな。わて、殺す言はれたかて、そんなこと能う出来(でけ)へん。子供かて、たとひ親が乞食してても、矢つ張り生みの親と一緒に暮すのが幸福(しあはせ)や。さうお(おもひ)ひんか?」

 私は何となくお信さんの顔を見ることを避けずに居られなかつた。暗い提灯の明りではよく分らなかつたが、お信さんはその時涙に頬を濡らしてゐたやうだつた。お信さんが子供の愛故に、飽くまで伯父に背いて、たとひ親子の縁を絶たれても、尚且つ森田の許へ(はし)らずに居られないといふ心持や、その事の是非善悪などは、私は充分理解したり、判断したりする力を持つてゐなかつたが、さうした苦しい羽目に陥つてゐる不幸な境遇そのものには、何かなしに気の毒に思ふ心で一ぱいだつた。そして、取るに足らぬ一介の丁稚(でつち)に過ぎぬ私如きに向つて、まるで親しい友達か何かのやうに、その苦衷(くちふ)を訴へるやうに打明けた孤独な心持も分るやうな気がして、何かそれに酬いるやうなことを言ひたかつたが、何も言ふ言葉を知らなかつた。

嬰児(やゝこ)さへ居イヘなんだらな……」

 お信さんは更に続けて言ひかけたが、その時突然石段に躓いて、あはや前にのめり()けようとした。丁度坂の中途だつた。私は咄嵯に、提灯を持ち換へる(いとま)もなく、持つた儘の手を突出して防ぎ止めた。

「おゝ危な!」

 お信さんは私の腕に掴つて、漸く身を支へたが、私も少しひよろひよろしたので、その拍子に、提灯が烈しく揺れて、火がパッと消えた。同時にお信さんの下駄の鼻緒が片方切れて了つた。

「あれまあ、何したんやな。阿呆かいな!」

 お信さんはさう自分で自分を罵りながら、更にしつかり私にしがみついて、

「こんな所で()けて死んだら往生や。」

 この坂で転ぶと三年の(うち)に死ぬ、そんな言ひ伝へが昔からあるのだつた。

 折よく私はマッチを持つてゐた。さつき家で提灯をつけ、たまたまそれをその儘懐にしてゐたのだつた。で直ぐ火を点け直し、何か紐片(ひもぎれ)でもと思つて家へ引返しかけたが、お信さんはそれを差止めた。

「よろしよろし、もう()きやよつて。」

 そしてその儘鼻緒の切れた下駄を引きずり引きずり歩き出した。だが傾斜も急だつたし、三尺幅もある広い段々の敷石が、磨き立てたやうにつるつるしてゐて、ともすれば滑つて足元が危げだつた。

「おつかまりやす。」

 私はさう言つて、片方の肩と腕とをお信さんの前に斜に差し向けた。

「さうどすか、おほきに。そんなら一寸頼みまツさ。」

 お信さんは躊躇もなく、気軽に私の肩に手をかけながら、

「よう言うておくなはつた、大助かりどす。どつさりお礼言ひまツさ。」

 私はさう言はれて嬉しかつた。たつたそれだけのことでも、お信さんの為になつてゐるといふ思ひが、何となく私を喜ばすのであつた。もつと何か役立つことがあれば、どんな事でも進んでそれに当りたい気持だつた。肩肱のあたりに、お信さんの身体の重みや温みを、絶えずやんはりと感じてゐるのも快かつた。

 

 坂を上つて少し行くと清水(きよみづ)の通りで、そこの角の所に車の帳場があるのだつた。帳場とは呼んでゐたが、実は顔のきまつた二三の車夫達の共同の駐車場(たまり)で、いつも必ず車があるとは限らぬのだつた。殊に夜は、その時の工合で早く引上げたり、または出先からその儘戻つて来なかつたりすることも多いのだつた。そして私達が行つた時には、折悪しく皆出払つて了つてゐた。

 私達は仕方なく、暫く車夫溜りに待つて見ることにした。往来から少し引込んだ、一寸した空地の隅に、古びた板囲ひの掘立小舎(ほつたてごや)がある。それが車夫溜りで、人々がそれを帳場と呼んでゐるのだつた。狭くむさ苦しく、殆ど身を入れるにも堪へない程だつたが、外の吹き曝しがあまりに寒かつたし、中には打附けの腰掛けがあつて、休むにもよかつたのだ。

 実際その夜の寒さ冷たさは異常だつた。夕方少し前から急に変つたのだが、もう四月の声も聞かうといふのに、真冬の空風(からかぜ)のやうな寒風が吹き立つて、雪でもちらついて来さうな馬鹿陽気だつた。お信さんは手が(かじ)かむといつて、提灯の火で温めた程だつた。

「これでも幾らか違ふえ。」

 提灯を膝の上に抱くやうにして、両手をそれに(かざ)しながら、お信さんは照れ隠しのやうに笑つたが、その白い(ほつ)そりした指先が、中の灯の明りを受けて、どうかすると、上簇(じやうぞく)中の(かひこ)のやうにほの紅く櫻色に透き通つて見えた。それは私に、或る種の精製された上等の干菓子を聯想させた。一寸それを口にしたら、言ひ知れぬ微妙な甘い露となつて、じんわりと舌の先で溶け去つて了ひさうで、一種食慾に似たものを感じさせさへした。

 十分間ばかりも待つたが、一向車の来さうな気配もなかつた。通りの店々は皆もう(とつ)くに閉つて了つて、ほの暗い軒燈の光が、ぽつりぽつり間遠に往来を照らしてゐるのみで、人通りも殆どなかつた。

「ねツから()いへんえな。こない待つてて、若し戻つて来いへなんだら、往生やな。鼻緒さへ切れてゐなんだら、何処ぞそこら辺、車通るとこまで歩いて行くんやに、辛気(しんき)くさ!」

 お信さんはじれつたさうに言つて、胸の辺を掌で撫でさすつた。乳が張つてゐたのらしかつた。

「かまへん、この儘下駄引きずりもつて行かうかしらん。」

 その時斜向(はすむか)うの五條坂の方から、一台の車の上つて来るのが見えた。私はすぐ飛び出して行つた。人が乗つてゐる様子だつたが、帰りを頼まうと思つたのであつた。だが、それは医者の自用車で駄目だつた。

「けツちやな!」。

 するとそれが清水寺の方へ上つて行つたのと殆どすれ違ひに、上からまた一台やつて来た。これも人が乗つてゐたが、私はその側へ走り寄つて、若し下で風来にでも出会つたら、此処まで上つて来てくれるやうにと車夫に言伝を頼んだ。車夫は返事もせずに駆け去つた。

「えらい厄介かけるえな。済まへんえな。」

 お信さんも今のが空車かと思つて往来へ来てゐたが、さう私に感謝するやうに言つた。

「何お()やす。」

 その時一陣特に強い風がさつと山の方から吹き下して来て、夜目にも白く私達の足下に濛々と砂塵を捲き上げた。私は咄嗟に身をかはしかけたが、その瞬間、私はもう眼が開けられなかつた。真正面から強い砂塵の眼つぶしを食はされ、何か眼に入つたのであつた。私はあツと叫んで、両手に(かほ)を掩うて立ちすくんだ。

「どないしなはつた。眼エ(ごみ)入らはつたんどすか?」

 お信さんは私の手と手の間から、顔をさし込むやうに下から覗き上げながら尋ねた。私はお信さんの唇が、頬に触れたのでないかと思つたほど、真近にそれを感じた。

「どつちどす?」

「右どす。」

 (しか)しその影響で、両方とも一刻も開けて居れなかつた。私は頻りにこすつたり瞬きしたりするのだつたが、(いたづ)らに涙のみぽろぽろと溢れ出るばかりだつた。

(いし)でも入つたんかいな。一寸お待ち、矢鱈(やたら)こすつたりしたらあかへん。わて今取つて上げまほ。」

 お信さんはさう早口に言ひながら、私を元の小舎へ導いた。十歩にも足らぬ距離だつたが、今度は私がお信さんに手を引かれねばならなかつた。

(ちんば)盲目(めくら)や。」とお信さんは片足を引きずつて歩き出しながら笑つた。「そやけど、かうなると跛の方がましえな。」

 私も眼の痛さを忘れて、つい失笑せずに居られなかつた。

 お信さんは私を腰掛の上に仰向けざまに掛けさせ、片手に提灯を持ち(かざ)させながら、半巾(ハンカチ)の先を唾液(つば)で濡らし濡らし、幾度となくこするやうに拭き取つた。

 けれども一向効能(ききめ)がなかつた。何が入つたものか、眼球に(とげ)でもさゝつたやうな痛さだつたが、何だかお信さんが、却つてそれを奥深く突き刺したのでないかと思はれさへした。

「何が入つたんやろ、(しつ)こいえな。どないしまほ。舌で(ねぶ)つて見まほか。」

 そしてお信さんは、今にもさうしさうに思はれた。

「結構どす、結構どす。」

 私は慌てて、お信さんをその胸のあたりで突きのけるやうにした。

「困つたえな。どないしたらいゝか知らん。」

 お信さんは頻りに気を揉んだが、ふと何か気が附いたやうに、「あ、そや、それがいゝ。」と自分自身に呟くと、いきなり、私の膝の上に跨るやうに乗りかゝつて、無理に顔を仰向かせたかと思ふと、後はどんな工合にさうしたものか、私は眼で見ることが出来なかつたが、次の瞬間、あツと思ふ間もなく、一種ほのかな女の肌の香と共に、私は私の顔の上にお信さんの柔かい乳房を感じ、頻りに瞬きしてゐる瞼の上に、乳首の押当てられるのを知つた。

(ばゝ)うても、一(とき)辛抱おし。」

 私は拒むべくもなかつた。それは全く分秒の間に非常に手早くなされたのであるが、さうしたお信さんの所為(しぐさ)には、到底私の拒否や抵抗を許さない、何か迫るやうな真剣なものがあつた。溺れる者を救はうとする、といふよりも、自分自身溺れんとして周章(あわ)てふためいてゐる者のやうな、一種本能的な懸命なものが感ぜられた。私はそれに圧倒されて、身動きも出来なかつたのであつた。

 かうして乳汁(ちゝ)の洗眼が行はれた。それがどれ程の間続けられたか、ほんの一二秒のことのやうでもあつたしまた大変長い間のことのやうにも感ぜられた。私はその間只もう息もつまるやうな思ひで、固く口を食ひしばり、満身の力を両手にこめて腰掛けの板にしがみつき、一生懸命自分自身に抵抗してゐた。さうしなかつたら、私の口は何時お信さんの乳房に吸ひついたかも知れなかつたし、又私の両腕が、何時お信さんの腰に捲きついたかも知れなかつた。

「もう結構どす。おほきに。」

 やがて私はさう言つて自ら顔をそむけた。そして漸く夢からさめたやうに、ほつと大きな吐息と共に立上つて、始めて眼を見開いた。

「治らはつたか。」

「へえ、おほきに。」

「よかつたえな。これで顔お拭きやす。」

 お信さんは私に半巾(ハンカチ)を貸してくれた。そして自分もほつとしたやうに、につこり微笑んで見せた。が、直ぐには乳房を仕舞はうとはしなかつた。私が顔を拭いたり、尚眼をぱちくりさせてゐる間、もういいかといふやうに、それを(もた)げたまゝ、ぢつと私を見守つてゐた。

「気持悪るおしたやろ。そやけど、そんなこと言うて居られへん。(ほか)(ちご)て、大事な眼どすよつて、愚図々々してたらあかん思うてな。」

「おほきに!」

 私はまたも繰返して心から礼を迹べた。

 その刹那、何故だか急に胸が迫つて、思はず歔欷(しやく)り上げさうになつた。単なる好意とか親切とかいふもの以上の、何か別のもの、謂つて見れば一種人間的な、本然的な優しい真実な思ひ遣り、さういつたやうなものが、お信さんの胸から、ぢかに熱々(あつあつ)と感ぜられたのであつた。

「お蔭さんで、わてもこれで幾らか助かつた。」とお信さんがまたにつこりして、「(せん)から乳が張つて往生してたんや。これお見やす、こんなや。」

 一度出口の立つた乳汁は、胸中それかと思はれるほどにまで、圓くふつくらと小山のやうに盛り上つた真白な乳房の先から、ぽたぽたと止度(とめど)もなげに溢れ滴つてゐた。お信さんは一寸それを絞るやうにした。すると恰も噴霧器からのやうに、提灯の火の薄明りの中に、ぴゆつと勢よく虹を描いて霧散した。この片方の影響で、今一つのも口が立ちかけたといつて、お信さんは更に胸をはだけてそれをも取出した。そして両方一緒に、くるくると指先でその乳首を揉みこみながら、

「重たうて、しんどい位どす。」

 と悩ましげに肩で大息を吐いた。併し何となくいゝ気持さうだつた。

 私は到底長く正視してゐるに堪へなかつた。燦然と闇を(つんざ)くサーチライトの光芒に射られたやうに、眼がくらくらとなつたのだつた。お信さんは、まだ私の中に異性を認めて居ないやうだつた。だが私は、漸くそれに目覚めかけてゐた自分を、その時おぼろげに意識した。

「やゝこ、どない欲しがつて泣いてるか知れへん。」

 次いでお信さんはさう言つて両乳を胸にをさめた。

 その時下の方から空車が一台来た。さつきの言伝がきいたのだつた。

「もうこれでお出ではらしまへんのどすか。」

 私はお信さんの手を引いて歩き出しながら、それとなく訊いて見た。お信さんがこの儘上海へ行つて了つて、そしてもうこれきり会ふことも出来ないかと思ふと、私は何となく名残が惜しまれてならなかつた。勿論それは私だけの気持だつた。私がお信さんに対してどんな感情を抱いてゐるかといふことは、お信さんはちつとも知つてゐないのだつた。私はそれを知つて貰へさうもないのが非常に残念だつた。お信さんにとつては、私は矢張り、何んといつても単なる伯父の家の一丁稚(いちでつち)以外の何者でもないのだ。といふことを思はねばならぬのが、そしてその儘でお信さんを失つて了はねばならぬのが、この上もなく寂しいことだつた。

 お信さんは私の問ひに答へなかつた。で私は更にまた尋ねた。

「矢張り支那へお行きやすのどすか。」

 お信さんは、(しか)しそれにも直接の答を与へなかつた。只だ一言、

「達者でお居なはいや。」

 と言つたきりで車上の人となつた。

 

 お信さんは矢張り上海へ行つたのだつた。一ケ月あまり経つてからさういふ手紙が来た。私がそれを読んだ。伯父は無学無筆であつたので、大抵の手紙は私が代読もし代筆もしてゐたのであつた。お雪さんは変体仮名などで書けば書けたのだが、結局私に押付けるやうになつて了つたのだ。私は当時四年制の高等小学を半途退学したばかりで、書くことはもとより、他から来る草書の続け字の手紙など容易に読めなかつたのであつたが、必要に強ひられて、代筆代読ともに、不随意ながら何とか間に合はせてゐたものだつた。

 お信さんはその手紙で、今度の自分の我儘や不幸の罪を謝した上、たとひ勘当の身ではあつても、自分としては、何処までも伯父やお雪さんを親と(あが)め、きつとその(うち)御恩返しするといふ意味のことを書いてあつた。

「うまいこと言うてくさる。」

 伯父はさう言つて苦笑した。

 一年あまり経つて、お信さんは内地へ帰つたといふ通知を寄越した。(しか)も東京からだつた。少し病気してゐて、船で寝たまゝずつと横浜まで通したので、京都へは立寄れなかつたこと、森田の両親の家に同居してゐること、森田の父親は警視庁の老刑事だといふことなどが書かれてあつた。

 私はいつまでもお信さんのことを忘れなかつた。殊にあの乳汁で眼を洗つて貰つた時の事が、一種惑はしい幻となつて、絶えず私の眼の前にあつた。私は温い母の懐を慕ふと同時に優しい恋人の胸に憧がれるやうな気持で、お信さんを思ひ出すのであつた。

 さういふ間に、またその後数年の間に、私の周囲に、従つて私自身の境遇に、さまざまの激しい変転があつた。——清水(きよみづ)へ行つてから足掛け三年目の春、伯父は再び四條へ戻つて、今度は宿屋の代りに洋食屋を始めた。そして私は下足番(げそくばん)や出前持などをやつてゐたが、それから一年半程経つた翌年の秋、伯父は病気が再発して急に死んで了つた。私は二十五まで満足に勤めたら暖簾(のれん)を分けてやるといはれ、遣言状にも記載されてゐたが、私にとつて幸か不幸か、そんなものは直ぐ一片の反古(ほご)にも値しなくなつた。といふのは、伯父の死後半年も経たない中に、浪華亭の店も何も、急にばたばたと跡なく絶えて了つたからだつた。家は伯父の遺して行つた借債の為に人手に渡る。お雪さんはまだ忌も明けない(うち)に新しい男を作る、養子の恵三郎は恵三郎で、お雪さんの不始末からやけを起して、これまた勝手に女をこしらへて出て行つて了ふといつた有様だつたのだ。

 かうして私は、まだ十六の少年で独りぼつち世の中へ放り出されたのであつたが、それから代書人の書生になつたり、弁護士の事務員になつたり、大阪へ行つて郵便局に勤めたり、あつちに半年こつちに一年と転々として歩いた後、今度は郷里に帰つて小学校の教師になり、更に志を立てて東京へ遊学に出ることになつたのであつた。二十一歳の秋のことだつた。

 或る時、私はふと思ひ立つて、お信さんを訪ねて見る気になつた。私は不思議にも、お信さんの東京の住所を知つてゐた。上海から帰つて伯父の所へ寄越した手紙に書いてあつたのを、五六年も後のその時まで、ちやんと記憶に止めて居たのであつた。下谷区御徒町(おかちまち)二丁目××番地といふのであつた。

 私はとある細い横町の通りに、「森田寓」と墨色も明かでない古びた標札の家を見出した。建具屋と仕立屋の間に挟まつた小ぢんまりとした二階家で、その二階の出窓に、萬年青(おもと)の鉢が二つ三つ、晩秋の午後の薄日を浴びて並んでゐた。私は何度となくその家の前を往きつ戻りつした後、漸く思ひ切つて入口の格子戸に手をかけた。森田の母親であつたらう、腰の曲りかけたお婆さんが出て来て、怪訝(けゞん)さうにじろじろと私を見つめてゐたが、聞いて見ると、矢張りそれは当の尋ねる家だつた。

 併しお信さんは居なかつた。上海から帰つて、暫く森田の任地だつた鳥取市に住んでゐたが、二年程前に森田に死なれて、間もなく離縁になつたといふのであつた。

「子供さんが居られましたね?」

 あんなに「嬰児(やゝこ)が可哀相や可哀相や」といつて、その為に多年養育の恩義ある育ての親をも見捨てたとも言へる程の、あの子供はどうなつたのであらうかと、私は是非の判別もなく、殆ど反射的に尋ねた。

「えゝ、子供は居るには居つたのですが、上海で死にましてね。もう一人、あちらで生れたのも、失張り、一月か二月居て亡くなつたさうですよ。何しろ陽気や何かの悪るい所ださうですからね。惜しいことを致しました。子供でも残つて居りますれば……」

 お婆さんはそんな風に物語つた。そして尚も続けて、

「そんな訳なもんですから、(せがれ)が亡くなりますと、こちらでは別にどうといふこともなかつたんですけれど、まあ、自分から身を引いたやうな訳でしてね……」と弁解でもするやうに言ふのであつた。

 私は、更にお信さんの行先を尋ねて見たが、多分京都へ帰つたのだらうが、それきり消息がないので住所も何も分からぬといふことだつた。

 それから又更に三年程経つた。私はその頃某私立大学に学んでゐたがその年の夏休みに帰郷する時、久し振りに京都へ廻つて一週間ばかり遊んで行つた。

 或日私は四條から清水(きよみづ)と、思ひ出深い少年の日の生活の跡を訪ねて廻つた後、宮川町のお藤さんを訪ねて見た。お藤さんは前に話したやうに、伯父の養女分だつた一人で、以前祇園の方に三味線の師匠をしてゐたが、その頃、程近くの宮川町へ引越して、小さな煙草屋の店を開いてゐた。

「三年程前から、慰みにやつて見たんどす、女中衆(をなごし)と二人きりで寂して仕様おまへんよつてな。三味線教へたかて辛気臭(しんきくさ)うてあきまへ ん。()うに やめて了うたんどす。」

お藤さんはさうその後のことを語つたが、私をすつかり見違へて了つて、最初中々思ひ出せなかつた。以前お藤さんの見て居た私とは、年恰好も体つきも服装も、すべて似ても似つかぬ学生姿の私になつてゐたので、「お(いで)やす。何あげまほ」などと、通りがかりの客と思ひ込んで、私がそれと名乗つても、なほ容易に信じ兼ねてゐたものだつた。

 お藤さんももう四十近い年で、その面長の美しい顔の様子は一見以前と変つても見えなかつたが、よく見ると、もう小皺も出来、殊に凄い程だといはれてゐた美しいぱつちりした眼の周囲に、(かさ)がかかつたやうに、微かに薄黒い(くま)が取られてゐた。そして旦那も変つてゐたことも、私は宿にしてゐた六條の伯母の家で聞いてゐた。

 養母のお父さんも疾うに死んでゐた。伯父の死後一年程後のことだつたさうであるが、念仏気狂ひだとかで、行住坐臥、何を見ても何を聞いても、すぐ南無阿弥陀仏を唱へた人だつた。私達が清水に居た時分のこと、目白が二三羽飼つてあつたが、或時もやつて来、その目白が餌を食べたり水を浴びたり高音に(さへづ)つたりしてゐるのを見て、有難い有難いこれもみな仏の慈悲恩徳のお蔭だといつて、その鳥籠に向つて頻りに合掌念仏したものだつた。伯父との仲が疎遠になつたのも、さういふ病気になつたからだといはれてゐたが、一方ではまた、それも元はといへば、お雪さんが後から入つて来て、それまでのお文さんの本妻的地位を奪つたからだといふ者もあつた。お藤さんの如きは勿論その人で、常々お雪さんを好く言つてゐなかつた。四條の家を潰し、伯父の跡を絶やして了つたのも、みなお雪さんの(せゐ)だとさへ言つてゐるのだつた。

 私達は伯父を中心にしたさまざまの出来事や人々について、いろいろと昔の思ひ出話を語り合つたが、その(うち)お藤さんが言つた。

「あんたお信さんを知つてお居やすな。あの人、今どないしてるお思ひどす?七條新地(はしした)娼妓(おやま)してはるんどつせ。」

「えつ! 娼妓? 本当ですか?」

 あまり私の驚き方が激しかつたので、お藤さんが却つてそれを不思議がつて、じろじろと私を見つめた程だつた。

「もう半年も前のことやよつて、今でもそこに居やはるかどうか知れへんけれど、(うち)へ来る牛乳屋(ぎうちや)はんが遊びに登楼(あが)らはつたら、そしたらその敵娼(あひかた)はんが、どうどツしやらう、お信さんどしたいふやおまへんか。」

 お藤さんはそんな風に物語つた。私はどうしても急に信ずることが出来なかつた。きつとその男の思ひ違ひ、即ち人違ひに相違あるまいと思はずに居られなかつた。第一その牛乳屋なる男が、お信さんを知つてゐるといふのも一寸合点の行かぬことだつた。お信さんはもう十年も前から京都に居なかつたではないか。

 だが聞いて見ると、その牛乳屋は、最近女房を失くした四十男で、ずつと以前から浪華亭へも出入りして、お信さんを娘の時分からよく知つてゐる男なので、間違ひはないといふのであつた。それで先方も驚いたが、こちらが一層喫驚(びつくり)して、倉皇と逃げ帰つたといふ牛乳屋の話を、お藤さんは面白さうに私にして聞かせるのだつた。

「ヘえゝ、そりや驚きましたね。一体どうしたんでせう。その家御存じですか。」

 私はすぐにも訪ねて行かうとするやうな気勢で言つた。

「何といふ名で出てゐるんでせう?」

「ねツから覚えて居まへんけれど、乳屋はん何とか言うてはつた。何なら聞いときまほ。」

 とお藤さんは薄笑ひを浮べながら戯談(じようだん)に、「あんた一度、知らん顔して買ひに行つてお見やす。」

「あはゝゝ、さうしたら大変でせうな。」

「かまやしまへんがな。あんたどしたら気が附かんかも知れへん。お互にあんまりお知りんのどツしやらう?」

「ほんの一二度、一寸顔見ただけです。」

「そしたら尚更分らへん。わてかてあんたやいふこと気が附きまへんどしたもん。——そりや、いゝ別嬪さんどツせ。色の白い、肌の綺麗な、それに情が深いし、あんな女は男が好くもんや。きつと流行(はや)つたるに違ひあらへん。」

 私は急に何ともいへぬ厭な暗い気持になつた。そんな風なお藤さんの言ひ方によつて、お信さんのあの美しい、柔かな肉肌(はだか)が、(きたな)い泥足で踏みにじられてゐる浅ましい光景を、眼の前に見せつけられたやうな気がしたのだつた。

「そやけど、可哀相は可哀相えな。」とお藤さんは真面目になつて、「嬰児(やゝこ)も居たんやに、あの男どないしたかしらん。」

「さうですね。」

 私は東京でのお信さん訪問の一條を打明けようとしたが、妙に言ひそびれて了つた。その時の話の工合もあつたが、また今更、私がそんなにもお信さんに関心してゐたのを知られるのも、何か後ろめたい気がしたりしたのだつた。

「矢つ張り男に捨てられたんどすな。」とお藤さんは想像した。そしてそれをさう独断で簡単に肯定して、「きつとそれに違ひあらへん。あの時わて等の言ふ通りに、嬰児(やゝこ)を里にやつて、男と手エ切つて了うたらよかつたんや。お父つあんも、さうしたら勘当許す言うてはつたんやよつて、そんな目に会ふことなかつたんや。支那くんだり、男の尻くつついて行つたりして、阿呆なんや。乞食の子は矢つ張り乞食の子や。」

 と憐れむよりも(むし)ろ蔑むやうに言つた。またこんなことも言つた。

「そやけど、乞食してるより()しやらう。元が元やよつて、丁度()つてるかも知れへん。」

 随分苛酷な、同情のない言ひ方だと思つたが、私は何も言はなかつた。そして、お信さんがさういふ悲惨な境遇に陥つた直接の事情は分らなかつたけれど、さうなつて行くまでの径路といつたやうなものが、いろいろと同情的に推量された。子供も失くなり夫にも死なれて了つては、到底その儘森田の家に寡婦として止つてゐるわけにもいかず、義理にも自ら身を引かねばならなかつたらうことは、あまりにも容易に想像されることだつた。だが、さりとて他に身の振り方もなく、先づ先づ生れ故郷の地に立戻つては来たものの、さて何処に寄辺(よるべ)もない、全く文字通り孤独の身であつた。知己もなければ友達もなく、今となつては、流石に自ら捨て去つた昔の家に寄りつけもしなかつたらうし、たとひ夜陰ひそかに彷徨(さまよ)ひ寄つたかも知れないとしても、既にそこには昔の人達の影もなく、跡絶えて了つてゐたではないか。さうして生みの父母は……? ひよつとしたらお信さんはその時、生中(なまなか)浪華亭の養女(むすめ)になどなつたのを、そしてその為に生みの父母を失つて了つたのを、自ら悔い且つ恨んでゐたかも知れない。

「たとひ親が乞食してても、{子供は}矢張り生みの親と一緒に暮すのが幸福(しあはせ)や……」曾ての日から一途に思ひつめて、我が生みの子に対する盲目的な愛の為に、恩義ある育ての親にも(そむ)き去つたお信さんだつた。それは自分自身の体験から出た痛切な叫びであつたのだが、この痛切な思ひを、今一度自分の胸に新に思ひ返しはしなかつたらうか。乞食よりも()しだらうとお藤さんが言つたが、さうしたどん底の生活をしてゐる人の中でも、お信さんほどの孤独な人は他にあるまい……

 私はそんなことを思ひながら、間もなくお藤さんの家を辞した。ラムネを御馳走してくれたり、姉のやうに優しく(いた)はつてくれたり、殊に最後の別れの夜、乳で眼を洗つてくれたりしたお信さんの(おもかげ)が、髣髴として眼の前に浮んでゐた。その時の乳の匂ひが、未だに鼻に残つてゐるやうな気もした。

 半時間ばかり後、私は七條新地の通りを歩いてゐた。五條の大橋際(おほはしぎは)から(しも)の方へ、鴨川の流れを背にした狭い、()さくるしい一筋街で、丁度六條の宿への途すがらであつた。同じやうな格子造りの二階家が両側に並んで、娼婦の名前を沢山書き列ねた掛行燈(かけあんどん)が戸毎に掛つてゐたが、既にその行燈に明るく灯が入つて、涼みがてらの嫖客の姿もぼつぼつ見られる頃合だつた。

「ちよいと、ちよいと、お寄りやす。ちよいとお寄りやしてお行きやす。」

 どの家も同じやうに、表格子の隅つこに、小さな桝形の窓、といふよりも穴を()り抜いてあつて、そこから白い首の女が顔だけ覗かして、さう頻りに呼びかけてゐるのであつた。

 私はどの顔もどの顔もみなお信さんの顔に見え、どの声もどの声も、みなお信さんの声に聞えるやうな気がした。そして若しも奇蹟が、私にお信さんと邂逅させたらどうだらうと思ふ心と、(やゝ)もすれば袖を取られて、()れかの一軒へ引きずり込まれさうなのを恐れる心とに胸を轟かしながら、用ありげにすたすたと、(しか)も二度も、端から端を往きつ戻りつした。

 

          (昭和十五年六月)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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加能 作次郎

カノウ サクジロウ
かのう さくじろう 小説家 1885・1・10~1941・8・5 石川県羽咋郡に生まれる。14歳の時伯父を頼って京都へ出、のち東京に転じ早稲田に学んだ。

掲載作は、生い立ちの貧しさを通して不幸な下積みに生きる人間をリアリティ豊かにしみじみと書き込んでおり、「中央公論」1940(昭和15)年8月号初出。翌年、これを表題作とする作品集の校正中に急逝した。

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