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所謂社会小説

 近来社会小説を口にする者漸く多し。其の意義の如何(いかん)()もあれ、()くの如き要求の現れ来たりし源を考ふるに、例の文学界の狭隘なると、新奇を好むの傾向とは、此の呼声を高からしめし主因なるべし。(やや)文界の事情に通ぜる者は、敢て現時の詩壇の狭隘を責むるに忍びざるべし。真正の日本文学界は尚甚だ幼稚、作家の年歯も経験も、未だ大人の域に達せず、尚アップレンチスシップの時代にあればなり。故に今の作家の書き得る所は、書生社会の上に出でず、書生社会の恋を写し、書生社会の堕落を書き、()しくは書生社会以下の世態を推度し得るに過ぎず。両三年来流行の、比較的単純なる下層社会の機微を穿(うが)てる作だに、文界の珍として賞讃を博す、また()むを得ざる也。此の時に当り、多少世の辛酸を()めて、世態の複雑なる機を知れる者、()しくは実際社会の複雑なる難路を踏める者が、大人(たいじん)小説の出づるを希望し、社会小説の現れんを要求する、(ゆゑ)なきにあらず。更に実際社会に立ちて、厚生利用を口にする士が、幼稚なる文士の(やや)もすれば隠遁的仙人的狂人的態度に傾きて、さながら故意に活社会を避けんとするがごとき状態に関心し、此の際我が小説家が飜然実社会に着眼して、ヂッケンズとなり、サッカレーとなり、ユーゴーとなり、詩的熱血もて俗腸を洗ひ、汚情を清め、以て(おほい)に世道人心を感化せんを希望し、因りて偉人小説社会小説の出現を要求す。これ()た偶然にあらじ。

 社会小説要求の源因ほゞ上の如しとせば、所謂(いはゆる)社会小説の何たるかを知るは難きにあらず。世人が漠然感想する所によれば、今の小説は概して社会の重要なる事件を写さず、個人に関する些事(さじ)のみを画きて団体より生ずる大事件を写さず、一部の末事に拘泥して、社会全体に関する大事に頓着せず。活社会の潮流を追ふを忘れて、(いたづら)に支流の余派に随従す。一言もて蔽へば広く現在の大事件を写さずして、一部の些末なる人情を画くに過ぎず、これ別に社会小説を求むる所以なりと。更にまた厚生利用の点に着眼する者は曰はく、今の小説家にして国家の改造、社会の革新等に思を寄する者殆ど稀なり。彼等も亦社会の一員なる(かぎり)は、当の社会に相当の貢献なかるべからず、これまた社会小説を要求する所以なりと。斯かる所観は多少今の文壇に反対の意気を表せるもの、其の得失は暫く措きて問はず、所観の大要ほどを摘まば(しも)の如くなるべし。

 曰はく(一)現在の社会に何等かの精神を鼓吹する作を出だすべし。曰はく(二)社会組織より生ずる重要なる事件に関する作を出だすべし。曰はく(三)個人的描写を主眼とぜず、社会的描写を中心とせる作を出だすべしと。即ち所謂社会小説は現在の社会の重要なる事件を写すを主眼とすといふにあるべし。

 勿論社会小説といふ語は、近頃の造語なるべければ、上の如く解するの是非は、事実の詮議の後に決せらるべし、必しも斯くの如き小説現存せりと言ふを要せず。仮に上の如き意義の作を社会小説といふを得ば、()は如何なる特質を具へたる小説なるべきか。社会小説の本領を考ふるに先だちて、まづ此の種の小説を他種の小説より区別すること必要ならん。果して所謂社会小説は、現在の社会に関すべきものなりとせば、第一所謂歴史小説と異なるは明かなり。所謂歴史小説は事も想も過去に関すれど、所謂社会小説は其の範囲を現在に限るを便利とすればなり。作の舞台を或は過去に借り、或は将来に借るも、主眼とする所現在にあらば、()は社会小説なり。ただしこは便宜上の問題なれば、社会小説の解釈次第にて、(あなが)ちに其の範囲を現在に限らざるも可なるべし。次に社会小説は、社会組織より生ずる重要事想を中心となすべしとせば、個人に関する事想を中心とする通常の小説とも異なれり。一は社会的事想を中心観念となし、一は個人的事想を中心観念とすればなり。社会的事想を画くにも、個人を主人公となすの要あり、個人的事想を写すにも、境遇社会を示すの要あるべけれど、社会小説は個人描写を客となし、社会描写を主となし、個人小説は社会描写を客となし、個人描写を主となすの差あり。故に一部の小説に如何(いか)ばかり当時の社会が反映せりとて、中心観念だに個人的事想ならば、()は所謂社会小説にあらず。また如何ばかり個人的描写に巧みなりとも、中心観念にして社会的事想に関せば、之れを社会小説といふ不可なかるべし。勿論こは(デグリー)の問題なれば、二者の間に截然(せつぜん)たる区画無きは言ふまでもなし、小説を社会的と個人的と区別すること既に専断なれば也。

 所謂社会小説を解して、単に現社会の重要事想を画くもの、又は歴史小説若しくは個人小説とは異なれるものとのみにては、解釈甚だ漠として、容易に其の本領を捕捉しがたし。別に其の実質を掲げて、一層其の本領を明かにするの要あるべし。精確に現社会の重要事想を探求するは、社会学者の当職なり。こゝには単に実際上の便宜にしたがひて、吾人が思ひ出だせるものゝみを(かか)げん。若し精密に此の問題を解かんとすれば、先づ社会の何ものたるより攻究せざるべからず。現時欧米諸国に於てすら、社会学の(いちじるし)く動揺せる際、強ひてこゝに定説を附せんも要なし。むしろ其の解釈を自由に放任し、其の意義を広闊なる範囲に広め、実際の便宜に着眼して、社会小説の重なる範囲を立つれば

(一) 近世の社会主義(ソシアリズム)に関する事想を画けるもの。

(二) 社会の個人に対する関係を画けるもの。

(三) 漠然謂ふ小社会に関する事想を画けるもの。

(四) 全体としての社会の行動を画けるもの。

 以上列挙せる社会小説の重なる範囲を一層明瞭にするに先だちて、(あらかじ)め作家の注意しおくべきは、小説は元来世態人情の動機を写すを主となし、動機より現るゝ諸般の行為事件を写すを客となすが故に、社会小説もまた社会現象の動機を写すを眼目となし、之より現れたる行為事件を副となすべきなり。世の作家批評家中、(なほ)作の大小深浅は、複雑なる世態の動機を画くと(しか)らざるとに関すること大なるを知らず、一辺己(いちへんき)が嗜好を標準として、漫然作の上下を批判する者あり。近く両三年来世態の動機を画けるものが如何に眼ある読者に喜ばれ、動機に直接の関係なき世相のみを画けるものが、如何に世に冷遇せられしかを見れば、此の理を知るに(かた)からざるべし。所謂社会小説を文壇の良産物となさんとせば、従来の探偵小説、政治小説、経国小説の社会活動の原動力を忽諸(こつしよ)に附せるものとは趣を(こと)にし、之れを読まば、社会の活動する機枢(きすう)を、暗々(あんあんり)に感得し得るものならんを要す。若し社会活動の動機を看過し、(いたづら)に些末の世相のみを画かんか、其の脚色は如何に巧みに、其の写実は如何に精妙なりとも、世に何等の感化をか与へん。今の政治家社交家が、実際社会の複雑なる経験に富みながら、尚好個の社会小説を作するを得ず、又作者にむかひて適当の忠言を与ふるを得ざるは、一は社会の波瀾のみを見て、其の動機を観破し得ざるにも因れり。着眼常に世態の動機にむかへる作者は成功の望あり、然らざる者は到底成功の望なかるべし。動機を穿(うが)つこといよいよ深ければ、其の小説はいよいよ深刻なるべく、いよいよ大なる動機を活写せば、其の作はいよいよ大なるべし。社会小説は個人小説に比較して、其の範囲概して広闊、(やゝ)もすれば動機に関係少なき複雑なる事件のために、動機其のものを看過するの弊は、個人小説より多かるべし。筆を社会小説に染めんとする者、最も留意すべき点ならずや。

 さて此れより前に列挙せし社会小説の主要範囲を吟味せんに、第一、近世の社会主義は、現時の社会問題中、主要なるものゝ一なり。(しも)は労働社会対資本家の問題より、(かみ)は平民対貴族の関係、被治者対治者の関係、幼者対長者の関係、弱者対強者の関係、無教育界対有教育界の関係等一々枚挙に(いとま)あらず。フェルヂナント・ラサール、ヘンリー・ジョルジを産み、マルクス、エンゲルス等を出だしゝ社会主義は、詩壇のラサール、ジョルジ、マルクスを出だすに足らずとせんや。労働社会対資本家の境遇を画くも可なり、無教育界対有教育界の事態を写すも可なり、要は広く社会の歴史上、社会主義の現るゝ原因、労働社会と資本家と争闘するに至る所以の動機、有教育者と無教育者と分かるゝ所以の人世観等に着眼するにあり。作家必しも予め想を構へて事を作するを要せざれど、読み行くうちに、社会主義の起こる動機を読者に感得せしむるを、此の種の小説の上乗なるものとすべし。

 第二、社会の個人に対する関係は、またこれ社会問題の主要なるもの、一見重要ならざるに似て、而も甚だ重要なる問題なり。そもそも個人と社会との間には何等の約束あるか、個人は実際社会のために一身を犠牲に供するか、社会は実際個人の犠牲を先天の約束とするか、此等諸問題の現るゝ複雑なる世相を観ぜば、其の(うち)に人生の秘密を発見し得ざるべきか。古往今来の歴史は、此等の秘密を暴露したが如く、また未だ暴露せざるに似たり。現在は如何(いかん)、はた将来は如何。此の間の消息はまた作者の奮励を要する点ならずや。

 第三、漠然謂ふ小社会とは、全分としての社会に対する一分々々の社会を謂ふ。曰はく政治社会、曰はく実業社会、曰はく教育社会、曰はく宗教社会、曰はく職工社会、曰はく花柳社会等、全分としての社会を構成するに主要なる団体を謂ふ。()く社会といふ語を通俗義に用ふるときは、其の範囲限(かぎり)なきに似たれど、こゝには漠然ながら、全分としての社会を組織するに主要なる団体といふを制限とすべし。こゝにても注意すべきは、事政治社会()しくは実業社会に関すとも、作の中心観念が当の政治社会若しくは当の実業社会の事想を表するにあらずば、社会小説とは(なづ)けがたきこと是れなり、既に社会小説と言はゞ、当の社会全体に関する事想を中心観念となすべきこと論なければ也。さて此等諸社会を活写せんとするに当たりても、要は此等諸社会の活動する機枢に接触せんを第一用意となし、単に雑駁なる事件を臚列するを避くべき也。

 第四、全体としての社会の行動とは、一分々々の小社会にあらずして、全分の大社会の大活動をいふ。便宜のため社会学上の問題もて此の義を説明せんか。そもそも衆個人が相集まりて大団体をなす所以(ゆゑん)は何ぞや、所謂社会とは何等の動機に基きて構成せらるゝものなるか、社会は何のために存立するものなるか、社会は如何やうに活動するものなるか、如何にせば社会は進歩し、如何にせば社会は退歩するものなるか、当の社会は進歩又は退歩の如何なる階段にあるか、はたまた社会は畢竟無意味のものなるか有意味のものなるか等、社会学上の問題は一々数へがたし、吾人は作家にむかひて、斯かる抽象的問題を解かんがために、小説を作せよとは言はず、斯くの如き諸問題を投与する神秘不可思議の社会は、作家の詩的解釈を()つこと(せつ)なりと言はんのみ。(ひるがへ)りて思ふに斯く無量の意義を含める大社会を、小説の舞台となさんは容易の業にあらず、むしろ不可能の事柄として排斥せられんに似たり。然り而も天才は吾人が先見し得ざる所を成就す。此の種の社会小説は、到底尋常作者に望むべからざるも、社会小説の極致として、天才の現はるゝを()つ、必しも空望にあらざるべし。

 以上仮に所謂社会小説の主要範囲を列挙しつ、尚此の外にも示挙するに足るものあるべし。さて仮に斯くの如き社会小説が実際成立し得べしとせば、其の文学上の価値は如何(いかん)。こは暫く問題としてここに附記し、後日吾人が管見を陳述することあるべし。

 

   (明治三十一年二月「早稻田文學」)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/12/26

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金子 筑水

カネコ チクスイ
かねこ ちくすい 評論家 1860・3・10~1938・12・2 江戸(東京都)深川に生まれる。島村抱月等とともに第1次「早稲田文學」中心メンバーとして活躍、1898(明治31)年2月に掲載作を発表社会の動向に関心を深めつつ数年のドイツ・ライプチヒ大学留学を経て帰国、早稲田大学教授として哲学・心理学・美学を講じた。演劇博物館初代館長としても知られる。

掲載した論考は、私小説におおきく流れた日本文壇に比較的希薄な方面を適切に指摘した先駆的な発言。

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