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民衆藝術の主張

   

 

 民本主義もしくは民主々義の論議が社会の各方面に行はるゝと共に文壇にも亦民衆藝術に就て語る者が多くなつた。そしてその何れも皆民衆藝術そのものに対して異論を挿まうとするのでない様であるが、今の民衆藝術家(もし)くは民主藝術の主張者の大部分が民主々義()しくは民衆藝術に就て誤れる思想を抱いて居ると云ふことを指摘糾弾せんとする者の様である。

 

 自分は今、今の日本の文壇に於いて、誰が民衆藝術家であるか、もしくはその主張者であるかを知らない。けれど、自分の「科学と文藝」や福田正夫君の「民衆」や百田宗治君の「表現」などは民衆藝術を目指すものであり、これ等の雑誌に書くものもまた、未だ民衆藝術家と称することが出来ないまでも、少くとも民衆藝術たらん事を望み、また、民衆藝術を主張するものであるのを知つて居る。そこで、かゝる時に際して、一つは外部からの誤解を掃蕩せんがために、一つは内部からの誤想を防止せんがために、吾々の態度を明かにして置く必要を感ずる。

 生田長江氏が三月廿九日(大正七年)から三十日にかけて「時事」紙上に書いた民衆藝術に対する論議は大体に於て首肯する事が出来るが、同時にまた、民衆藝術の主張に対して余りに独断的な誤解を披瀝して居る様に思はれる。

 

 勿論、生田氏は「今日民衆藝術を口にする者の十中八九まで、何れも誤れる若しくは不徹底なる民主々義を信奉して居る」と云つて居るのであるから、十中の一二分はさうでない事を暗示して居るし、殊に吾々(と云ふよりは自分)がその何れに属して居るかを云つてないのであるから、自分が敢て生田氏に楯をつく必要がないのであるが、吾々の態度を明かにする便宜の上から仮りに生田氏の議論を対象に引合はす事を許してもらふつもりである。生田氏は云つて居る。

 

「彼等に依れば今日正しき感情と正しき思想とを有して居るのは民衆である。そして民衆とは畢竟労働者の名をもつて呼ばるゝ大多数の貧乏人の謂ひなのである。併し正しき感情を有し正しき思想を有して居られるのは、非常に幸福なことでないか……かの漫然民衆藝術を高唱して居るところの民主々義者は、かくも幸福なる民衆のために此上更に何をしてやらうと云ふのであるか。」

 これによつて見れば、生田氏の見たる民衆藝術の主張者等は、自分を一段高いレヴェルに置いて、貧乏なる大多数の労働者の幸福を計る民主々義者であつて、民衆藝術とは畢竟、此の貧乏なる労働者の幸福をはかる爲めの藝術たるに過ぎないのである。

 しかしながらこれは誣妄(ふばう)である。民衆藝術の真意は決してそんなものでない。また、民衆藝術を口にするものゝ十中八九までもそんな呑気なことを云つて居ない筈である。

 成程「民衆のため」と云ふ事は民衆藝術の一目的であるのは云ふまでもない。けれどそれと同時に民衆藝術は「民衆によつて」なされたものでなければならず「民衆それ自身の」所有する藝術でなければならぬのである。何故なればこれは特に新興人民の藝術だからである。

 

   

 

 論者はしかし云ふかも知れない。

 ()し民衆藝術が民衆によつてつくられ民衆それ自身の所有するものでなければならぬとするならば、今日の藝術家の殆んど凡べては民衆藝術家たるを得ないであらう。何となれば彼は労働者でないからと。

さうだ、謂ふところの民衆なるものが、若し、生田氏の云はるゝやうに大多数の貧乏なる労働者のみであるならばそれは道理だ。かくて、ゴーリキイは民衆藝術家であり得ても、トルストイは(もと)より、ドストエフスキイすらも民衆藝術家たる事を得ないであらう。何となればトルストイは貴族であつたし、ドストエフスキイとても亦、如何(いか)に貧乏をしたとしても()り一個の貴族であつたからである。けれど誰がトルストイやドストエフスキイを民衆藝術家でなかつたと云へよう。

 民衆藝術主唱者の所謂(いはゆる)民衆とは「労働者階級をもつて呼ばれる大多数の貧乏人のことだ」と生田氏は云ふ。しかし吾々はそんな事を云はなかつた。それは本年の一月号に(大正七年)に書いた自分の「新潮」及び「科學と文藝」の小論文を見てくれゝばわかる。民衆とは一体誰のことであるか、これを定めようと思つて、自分は「新潮」に「民衆は何処に在りや」を書いたのである。今、同誌が手元にないから引用する事が出来ぬが、要するにそれは、民衆とは、貴族だとか平民だとか労働者だとか富豪だとか云つた様な外的な関係によつて区別さるべきものでない。民衆とは即ち、真の人間性を体現した、もしくは真の人間性に目ざめ、それを体現しようとする者の事であると云ふ事を謂つたのである。

 

   

 

「それ故に民衆は何処に在るか。民衆は決して大多数の貧乏なる労働者階級にのみ存するのではない。それは労働者のうちにも百姓のうちにも軍人のうちにも知識階級のうちにも貴族階級のうちにも、社会の至るところに存するのである。(さき)に自分が新興人民と云つたそれである。」生田氏も云つて居るやうに、不幸なものは決して労働者階級ばかりでない。貴族も富豪も智者も学者も、凡ては皆不幸である。と云ふよりは凡てはみな、物質文明の重荷の下に押へつけられて居る。ロマン・ロランの云つた様に、重くるしい息づまる様な物質文明の空気の中に窒息して死にかけて居る。カアペンタアやトルストイが指摘した様に、殆ど凡てはみな、物質に支配され、富に支配され、其他人間の造り出したものそれ自身の為めに反つて支配され自由を奪はれ奴隷にされて居る。現代は実に凡ゆる人間の奴隷にされて居る時代であると云つてもよい位である。

 ところが(こゝ)に新しい生命が生れたのである。かうした息づまるやうな空気には耐へきれないで、自由な大空を慕ひ、かうした奴隷の鉄鎖の重みに耐へないで、内に(みなぎ)る力をもてる腕や足の自由に打ち揮ふ事を願ふ新しい生命が甦つたのである。そしてそれは社会の如何なる所にも、如何なる階級にも生じたのである。彼等は今人とならうとして居る。新鮮なる血は脈流し、胸は自由と愛との大空に向つて波打つて居る。彼等は今、曉の光を見たのである。朝日は今、社会のあらゆる方面にも公平にその美はしく健康なる光をそゝいで居るのである。

 斯うした新興の生命を自分は民衆と云つたのである。労働者のみを民衆だとは決して云はなかつた。

 

   

 

 論者は又しかし云ふだらう。さうした自覚は何も今新しく起つた事でない。如何なる時代にもこれがあつた。殊に十四世紀の文藝復興時代の個人主義運動()しくは人道主義運動の勃興と共に特に著しかつたでないかと。さうだ。それは決して今始まつた事でない、それは自然主義運動、個人主義運動、人道主義運動等の通路を歩みつつ茲に至つたのだ。それ故に、もし今日の民衆藝術にして、自然主義や個人主義の洗礼を受けない、思想上の別の系統を創始するものであつたならば、案外根のない幻影のやうなものになつてしまふかも知れない。然し是れは永い間の歴史と閲歴とをもつた深い根を遠くの昔にもつて居るのである。そして今や、自然主義的思想ばかりでも満足せず、単なる個人主義的思想ばかりでも満足せず、現実に足をおろすと共に、その現実の固定したものでないのを知り、そしてその流動する現実のうちに理想を見出し、一切を所有する自我の尊貴を自覚すると共に、その自我はそれ自身、狭少なる孤立的存在たるに止まらずして、本質的に愛と自制とによる大なるマッス・マンもしくは、デモクラティックな生命であるのを知つたのである。彼は自由を翹望するが、しかし又同時にその中に愛と自制とをとかし込まうとする。

 此意味に於て自分は、長谷川天渓氏のやうに、文藝上の民主々義と政治上の民主々義とは別々の源から出たもので、前者は愛を本とし、後者は利を本とすると云つたやうな考へには、同ずる事が出来ないのである。又、田中王堂氏のやうに、民主々義は単に個人主義の運出に過ぎないとも思はないのである。勿論かう云つた時には民主々義と云ふ概念からきめてかゝらねばならぬけれど、今はこれを云はないとして、自分の考へでは、民主々義は個人主義の派生物であるより、個人主義の同じ根幹の上に成つた成長であると思ふのである。又、人間が其本質に於てデモクラティックであるのを信ずる自分に於ては、文藝上の民主々義と政治上の民主々義とが別々の源から流出した者とは思へないのである。しかしそれはさて措き、吾々の云ふ民衆藝術とは、かうした自覚の上に立ち、かうした意識の下に在る新しい個人の思想なり、感情なりを融かし込んだ藝術である。

 かうした個人の経験なり、実感なり、体験なり、憧憬なり、苦悶なり、懊悩なり、悲哀なり、勝利なり、何でもいゝ、(いやし)くも、真の人間性の触れ得る、一切の真の実感を表現した藝術である。

 

   

 

 それ故に吾々は単に、貧乏なる労働者の物質的解放を目標として居るのではない。従つて吉田絃二郎氏が「新時代」で非難して居る様に「自分をば何時も民衆より一歩高いレヴェルに置いて考へて」ゐるのでない、そして「彼等民衆を如何にすべきか」とか「民衆に幸福な生活を与へよ」とかのみ考へて居るのではない。

 民衆藝術はイズムではない。一切の真の藝術は民衆藝術でなければならない。夫が若し単なる社会運動であるならば、社会が改善された曉には無用になる藝術である。けれど吾々はたとひ吾々の藝術に社会問題や政治を取扱ふやうな事があつてもそれを単なる現象として取扱はないのである。現象を現象として取扱ふのは科学者の態度である。けれど、吾々はその現象の真に永遠なる人間性を認めようとする。人間性の悩みや喘ぎや光耀を描かうとする。吾々は今迄の日本の藝術に、かうした態度でかゝれたものを殆ど見ないのである。吾々は只藝術に科学を見て来たのである。そして吾々は今、真の哲人的態度をもつて、真の宗教家の態度をもつて、人生の根本に、(さかのぼ)らうとして居るのである。自分は今かうした事を云ふのを()ぢる、何故なれば自分が未だそんな藝術の一篇も創作しないのに、希望だけ(いたづら)に大きいからである。あゝ、けれど、吾々は遂にそんな藝術を創作し得ないであらうか。自分の力は小さい。けれども、何者かの力が自分を助けてくれるやうな気がする。貧弱な自分の力でなしに、大きな大きな本願が自分によつて何かを創造してくれるやうな気がする。そして、吾々の周囲に存する多くの優れたる才能を通して、多くのよい藝術を創作してくれる様な気がする。吾々は今夫等の人々を此本願に結びつける役目の片端をでも負ひ度いと思ふのである。

 実際今、この悩める者の声が至るところにきこえる。重くるしい空気で充された密閉せる室から大気の下に躍り出ようとして居るものゝ苦悩の声が世界に充ち充ちて居る。此の喘ぎが、此の憧れが、正しい表現を見出し得ないと云ふ道理はない。そして此祈願が遂に達しられないと云ふ筈もない。

 

   

 

 吾々は今、他の貧乏人を何うしてやらうと云ふさわぎではない。吉田氏の云ふやうに「民衆を駆つていやでも英雄の地位にまで引き上げてやるだけの親切」をもつて民衆を愛しようとするのでない。かう云ふ態度はやつぱり、吉田氏自身が非難した民衆藝術家と共に自分を一歩高いレヴェルに置く事である。しかしそれがわるいのでない。さうした余裕の出来て居る人はさうして呉れるがいゝ。しかし吾々は今も尚ほ喘へげる民衆それ自身である。たゞ自由を翹望すると共に、愛と自制との必要を悟つた迄に過ぎない。自分の弱さ、悩み、汚れ、醜悪、不幸、悲哀、かう云ふものの凝視が、(やが)澎湃(はうはい)たる同情と愛の情念に(もゑ)出て来るのを感ずるばかりである。今のところ吾々はたゞかうした態度で藝術に従事する、そしてかうすることによつて、同じ心を、同じ人間を、労働者のうちにも貴族のうちにも、学者のうちにも、愚者のうちにも見出し得ると信じて居る。

それ故にまた吾々は生田氏と同じ様に「凡ての貴族を残らず平民に」しようとするのではないが、同時にまた氏のやうに「凡ての平民を貴族」にしようとするのでもない。勿論、こゝに云ふ、貴族とか平民とかは字義通りにとらないで、生田氏の精神をとらねばならぬことを自分も知つては居るが、兎に角、吾々は今、貴族とか平民とか云ふ階級的観念に超越する事の出来る人間であらうとするのである。そして、よし他人に仕へて居る身分で自分があらうとも、(しか)もなほ自主たるを失はない自分で有り得たいと思ふのである。

 今のところ先づ民衆藝術の目ざす直接的效果はかうした内的自由である。普遍的自主である。そして藝術は(おもむろ)に準備をするであらう。時が来ると外的にも真の自由や自主や愛が楽しまれるであらう。その時は、政治家等の云つて居るやうなそんな不徹底なものでなくて真の世界が忽然として発現するであらう。

 

   

 

 (ついで)に云つて置き度い事は、川路柳虹氏が「科學と文藝」に集まつた詩人の群に民主派と云ふ名を与へた事である。(川路氏の批評に就ては別に云ひ度い事があるが茲<ここ>では云はぬ)自分は此の名前を余り嬉しく思はぬ。何となれば此の名前は余りに政治的臭味を帯びて居る。ことに人民の政治は人民によつてせられねばならぬと云つた様な事を主張する人々を聯想させる。しかし吾々の目的とするところが其麼(そんな)ことでなくて、唯各人が真の人間性に目ざめ、自律内発的な愛と自制の精神をもつて、真の自由に生きん事を欲するに過ぎないのであるからである。吾々は吾々の藝術を必ずしも民主々義と結びつける必要を見出さない。それがなくても吾々の藝術は成立つ。吾々の藝術は川路君の云つて居る様に、ある流派に対立する必要上成立する相対的なものでない。ある流派に対抗せんがための藝術なら、その流派が衰へた時には必要がなくなるかも知れない。しかし吾々の主張する藝術は人間性の真に徹せんとするものであるから、そして、人間性は人間の存続する限り永遠に成長するものであるから、これも亦、永遠にその存在の権利を有するものである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/04/01

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加藤 一夫

カトウ カズオ
かとう かずお 評論家 1887・2・28~1951・1・25 和歌山県西牟婁郡に生まれる。若くして基督教に親近し伝道師にもなったが自然主義・自由主義に感化されて行く。「科學と文藝」を創刊、民衆藝術論を経てトルストイに親しみ人道主義を鼓吹したが、アナーキズム的な自由人へ進み行くなど、加藤なりに必然の転進を続けながら晩年は基督教の日本化をはかるに至っている。

掲載作は1919(大正8)年6月、洛陽堂より『民衆藝術論』を出した中の論説である。

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