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民衆は何処に在りや

 民衆藝術と云ふことが問題になつて居る。

 外国ではトルストイ、ケイ、ローラン等をその最も熱心なる主唱者とし、日本に於ては福田正夫、百田宗治、富田砕花等の詩人を初めとして、本間久雄、大杉栄、内藤濯等の評論家が此主張者の(ゆう)なるものである。さう云ふ自分も亦田舎の土百姓の息子に生れた真の民衆の一人として、民衆の心を歌ひ、民衆の心を伝へ、民衆そのものを表現せんとする熱心に於ては敢へて人後におちないつもりである。

 しかし、民衆藝術とは一体何を意味するのであるか。メルシかんばら ありあけ 詩人 1876・3・15~1952・2・3 東京麹町に生まれる。 日本藝術院会員。、日本近代詩創始期の大きな存在。象徴詩の代表作「智慧の相者は我を見て」は第四詩集『有明集』(明治四十一年一月 1908)の巻頭を飾った。回想「『有明集』の前後」は昭和四年(1929)に書かれている。講談社「日本文学全集22」に拠りつつ若干よみがなを加えた。エは平民によつて鼓吹せられ平民に見せる為めの平民劇と云つた様なことを云つたさうであるし、大杉君は民衆のためにする、民衆によつてつくられ、民衆の所有する藝術と云つた様なことを云つて居る。田中純氏の書いたものは見なかつたけれど、大杉君の文章で見ると田中純氏も同じ様なことを云つて居る様に見える。

 (けだ)しこれは民衆藝術の精神を伝ふる言葉としては最上のものであらう。簡単にではあるが、民衆藝術の希望なり野心なり精神なりを十分に語つて居る。

 トルストイはその藝術論に於て、この様な言葉をつかはなかつたが、あの一篇の全精神は(やは)りこれをもつて貫いて居る。彼は先づ演劇なり音楽なり絵画なり小説なりが、夥しき労働者の労力の消費によつて製作され行はれることを注意し、而もそれ等の多くの藝術が何等の慰藉(ゐしゃ)をも力をも感情をもこれ等の労働者に分け與ふる事のないのを指摘して居る。そして藝術はかゝるものであつてはならない、単なる労働者の労力の消費であつてはならないと云ふことを云つて居る。そしてまた、真の藝術は、自分で少しも労働をしたことのない、ほんとの人間らしい生活をしたことのない、たゞ藝術を職業とした、所謂(いわゆる)藝術家なるものゝ所産であつてはならない。ほんとの藝術は、自分で食ふことのために働らき、ほんとの人間らしい生活をしたものが、自ら経験した感情を他人に伝へたい時にのみ存し得るものであるのを主張して居る。此精神も亦、民衆のために民衆によつてつくられたる民衆の藝術でなければならぬと云ふことに帰するものと云はねばならぬ。

 かうした主張の中には一つの溌溂(はつらつ)たる新興の精神もしくは生命の生動して居ることが容易に感じられる筈である。新しい民衆が今目ざめた(たとひそれが如何に少数であらうとも)その民衆は最早従来の多くの貴族的藝術では満足が出來ない。彼等は彼等自身の新しい生気ある藝術を要求する。否、(ただ)にそれを他より要求するに止まらず、自分で自分を藝術に表現しないでは居られない。それが此の新興人民の願ひであり欲求でありそして一つの新しい活動である。

 過去の藝術は四分の三以上死んだものである。これはフランス藝術にのみ特殊の事実ではない。一般の事実である。過去の藝術は生には何の役にも立たない。却つて往々生を(そこな)ふ恐れすらある。とロマン・ロオランは云つて居る。そして彼は、容赦なく過去の劇をはねのけて、その中の僅ばかりを民衆のために採用して居る。同じ精神をもつて、トルストイは更に峻嚴なる批判をなし、過去の藝術の大部分を排斥して居る。

 自分の寡読は同じ権威をもつて過去の藝術を排斥するだけの資格を自分には與へない。しかしながら少くとも自分の読んだり見たりした数少ない藝術のうちにも真に満足する事の出來ないものは少なくない。殊に日本のものに於て一層そんな気がする。日本の藝術は確かに今、向上し、発展しつゝある。(しか)し公平に見て、誰が今迄の藝術に十分の讃嘆を加へ得よう。

 さうだ、新しい生命が今、民衆の中にあつて(厳密に言つて少数の民衆のうちに在りて)人額の間に生れたのだ。それは最早従来の様な生気のない、生命の消耗しつくされた無気力な藝術には満足することが出來ない。また、民衆の苦しみを知らず悲しみを了解せず、そして生命に根柢を有してない、単なる独りよがりの藝術に一顧の注意を向ける必要もない。

 彼等は今、ほんとの人間を知つたのだ。人間のほんとの価値を知つたのだ。そして彼等自らがほんとの人間そのものになつたのだ。彼等は此の人間性を阻害するあらゆる障碍に向つて戦を挑む。彼等は此の人間性を(そこな)はれた一切の病的な思想や神経を排する。その様なものを唯一の本質であるかの如くに思つて居る従来の貴族的な、又、弱々しい神経の、一切の藝術を排する。そして、此の過渡期に於ける復活の新生命として、かかる障碍や暴力や病的なる思想又は神経やと戦つて人間性の真郷土に帰らんとする努力を示したところの、また帰り得たところの、生命の高揚を歌へる新しい藝術を要求する。

 それ故に、真に目ざめたる民衆とは、真に人間となり、人間としての生活をなさうとする人民のことでなければならぬ。また民衆藝術とは真に人間とならうとする人間らしい感情と人間らしい意思や理性と、人間らしい生活とを具有する闘争の藝術でなければならぬ。人間の心の奥底に於て、誰にでもふれることの出来る、深い情味の豊かな藝術でなければならぬ。

 だが(ここ)に一つの問題がある。

 それでは、我々の社会の何処その民衆が存して居るかと云ふことである。今云つた様に目ざめた僅かばかりの人間は居る。しかし、そんな少数なものゝためにのみする藝術は果して民衆藝術であらうか。民衆藝術の影響すべき世界は、もつともつと広いものではなからうか。

 民衆藝術を論じたものは多い。しかしそのうちの殆んど誰もが、肝心のその民衆そのものに就いて語つたものはない。

 もつともこれは余りにわかりきつたことであるかも知れない。殆んど説明の必要のないものと思つて居るのかも知れない。かくて或る者はこれを単に平民と云ふ言葉でもつて表はし、或るものはこれを労働者と云ふ意味にとつて居る。勿論それであるのには違ひない。だが、それ等の平民なり、労働者なり、農民なりにして、ほんとによく此の人間を自覚した新興の生命を何処にもつて居るか。自分がさきに新しい民衆が目ざめたと云ひながら、極少数のとつけ加へざるを得なかつたのは此のためである。

 メルシエが平民と云つたときに、その平民とは誰を意味したのか自分は知らない。しかしトルストイが労働者と云つた時に、その労働者とは果して何人(なんぴと)を意味したのかを察する事は(かた)くない。彼は朝から晩まで働きづめに働いて器械の様な単調無趣味な労作を繰返して居る人をもつて真の労働者であると思つたであらうか。もしさうであるとしたら、そんな労働者がそんなに高貴な藝術を製作し得ると考へたと云ふことになる。だが、何でトルストイともあらうものが、今日の労働者の状態を知らないで居られよう。彼の書いた殆んど何の本にでも此の悲惨な労働者の生活を語らないものはないと云つてもいゝ位である。あの様な小やみなき激労の後の疲れはてた肉体をもつて、あの様に無趣味な器械的動作にのみ用ひられる枯痩荒廃した精神をもつて、トルストイの云ふ様な高貴なる藝術の製作されないのは勿論、彼等のために提供されたる藝術を享楽する心の余裕をさへ()ち得ないだらうと云ふことをトルストイが知らないで居る筈がない。トルストイがこゝで謂ふ労働者とは、人間がその本然性に従つて、また人間に本具した先天的義務に服従して、生活の為の適当なる労働をなし、そして人間としての本質的なる生活活動をなして居る人民のことであるのは云ふ迄もない。さう云ふ人間こそほんとの藝術を製作し得る。

 近頃はまた、戦争の一結果として、労働者なども大分景気がよくなつて、中には一日参圓五圓の儲けをするものも少なくない、彼等の生活は吾々のそれに比べて何れだけいゝかしれない。けれども、それで居て彼等は尚彼等の真の生活を創造する事が出來ない。彼等には自覚がない。まだ人間が生れない。

 然らば平民と云つても、労働者と云つても、それが直ちに、吾々の(いは)ゆる、真の意味の民衆ではあり得ない。

 それ故に、新しい民衆とは直ちに平民もしくは労働者を意味しない。それがほんとの民衆となるためには真に人間を自覚しなければならぬ。それ故にまた、新しい民衆とは全く上流階級もしくは知識階級に存しないと云ふのではない。誰が、トルストイやドストエフスキイやロマン・ロオランやなどを民衆でないと()はう。上流階級者も知識階級者も、ほんとに自分の位置をさとつて、自分の今の生活の不合理を感じて、そして、ほんとの人間にならうとする時に、又、なるために生活革命をなした時に、彼は最早貴族でない、富豪でない、彼は民衆の一人である。

 民衆とは即ちヒュウマニティーを遺憾なく生き得るもの、少くともヒュウマニティーに生きようと努力するもの、全人類をヒュゥマニティーの自由なる活動とせんとする者の(いひ)である。

然らば民衆は果して何処に居るのか。

 ロマン・ロオランが「諸君は平民藝術を欲するか。然らば先づ平民を持つ事から始めよ。その藝術をたのしむ事の出來る自由な精神をもつて居る平民を。そして容赦のない労働や貧窮に踏みにじられない閑暇のある平民を。凡ゆる迷信や、右党()しくは左党の狂信に惑はされない平民を。自ら主人公たる、そして目下行はれつゝある闘争の勝利者たる平民を。ファウストは云つた『始めに行為あり』と」と云つたは真実である。

 真の民衆はまだ存しないと云つてよいのだ。吾々は先づ民衆を得なければならないのだ。目ざめたる民衆は人類の新なる魂だ。人類はこれに聴かねばならぬ。人類は此の魂の打ちならす鐘に耳を(そばだ)てねばならぬ。目ざめたる魂は常にその人間性を(みが)いて不断にこれを表現せねばならぬ。それは人類に対しての義務だ。生命に対しての最高の奉仕だ。

 芽ばえかけた新らしい生命の幼木を踏みにじると云ふことは、生命に対する大なる罪だ。生命は民衆の出現によつてその自由なる世界を楽しまうとして居るでないか。そしてその世界の出現を目ざめたる民衆に托して居るでないか。そしてその努力と闘争との喜びを溢るゝばかりに若き心霊のうちに盛つて居るでないか。

 先づ自己のうちに平民を得よ。そしてまた人類のうちに平民を得よ。即ち人間性の真に徹せよ。人間性の絶対的価値を把握せよ。

 勇気と力と智恵と愛とは泉の様に湧いて来るであらう。そしてそこによき藝術は創造せられ、よき運動の波は打ちはじめられるであらう。

 吾々は自分の過去の罪障をも、現在の自分の弱いことをも無学であるのも凡てみなよく知つて居る。けれどそれがために新しい生活への進行を(はゞ)まれる事はない。吾々は最早、上手とか下手とか云つて居られない。技巧のことなんぞ云つては居られない。たゞ一途に人間性の開展をはからねばならない。人間性の深みを掘らねばならない。

 藝術は生の終るところから始まる。生が完成されたところには藝術はないと云つた藝術家の野心は大きい、深い。吾々の藝術は、(いたづ)らにこまやかになつた繊弱な神経に夢魔のやうに悩まされおびやかされて居る、謂ゆる現代人と称するものゝ藝術でない。一時青年の間に、近代人とか現代人とかの理想が流布して、何かと云へば、あの男は新しいとか旧いとか、まるで人間界が此の新旧の二分野しかないかの如くに語られた。しかし今や新なる民衆には、その謂ゆる現代人の心すら廃れ行くべき性質のものとなつた。藝術は常に新しい生命を人類に持ち来すものでなければならぬのは云ふまでもない。しかし何でも新しいものならいゝと云ふ道理が何処にあるか。役にも立たぬ新らしさは呪ふべきである。役に立つ、ほんとの新らしさはたゞそれが人間性に適応して居るか居ないかによつてきまるのである。

 一つの力が人類の間に生れかゝつて居る。こゝに一つの新しい内発的な、自律的な、ムーブメントが起るべきである。そして、自分はそれの起ることを確信するものだ。

 

(大正七年一月「新潮」)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/01/09

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加藤 一夫

カトウ カズオ
かとう かずお 評論家 1887・2・28~1951・1・25 和歌山県西牟婁郡に生まれる。若くして基督教に親近し伝道師にもなったが自然主義・自由主義に感化されて行く。「科學と文藝」を創刊、民衆藝術論を経てトルストイに親しみ人道主義を鼓吹したが、アナーキズム的な自由人へ進み行くなど、加藤なりに必然の転進を続けながら晩年は基督教の日本化をはかるに至っている。

掲載作は1918(大正7)年「新潮」1月号初出。

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