江戸女流文学に魅せられて
江馬細香との出会い
もう三○年以上前のことになる。ある日、故中村真一郎氏の随筆『氷花の詩』(冬樹社・昭和四六年)を読んでいた。亡くなった金沢の友人が「二冊あるから」と貸して下さったものだ。私は以前から中村氏のエッセイ、評論を愛読していた。氏は作家でありフランス文学者なので、当然ヨーロッパ全般の文学に造詣が深く、また平安王朝文学にも通じておられる。『氷花の詩』には中村氏の知の世界が、西洋と日本を、現在と過去を自在に往き来して、縦横に語られていた。
思いがけないことに、その中に「私の中の古典・江戸の漢詩」「江戸の漢詩人たち」の章があった。中村氏はまた江戸漢詩の愛好家でもあることを、私ははじめて知った。そういえば、ときどき文芸誌に
頼山陽とは、江戸後期の儒者・詩人で『日本外史』の著者として広く知られている。明治維新の際に、勤王方の若い青年たちに広く読まれ、彼らの士気を鼓舞したといわれる。その点で銅像を建てて仰ぎ見られるような大きな存在である。
だが、中村氏の取り上げ方は、少し違っていた。頼山陽の詩人・文人としての業績に強い光をあて、彼の生き方の自由さ、柔軟さを浮き彫りにするものであった。
その中の一節にこうあった。「同じ女流詩人でも、頼山陽の恋人だった
私は勤王思想の
友人が書いた新聞随想によって、細香が大垣の人であることを知ったのは、しばらく後である。大垣ならば隣の岐阜県である。私は北陸の実家に帰郷する際に、いつもそこを素通りしていた。おいしい柿の産地であると知っていた。そんな近くに頼山陽の弟子として、すぐれた詩画を残した女性が生涯くらしていた、と知った時には小さなショックを感じた。
江戸時代の女性は封建制度の下で束縛されていて、山陽の住んでいる京都へ行ったりはできないものと思い込んでいたからである。そんな近くならば一度訪ねてみようと、はじめて気持が動いた。昭和四八年二月のことである。
その頃、私は夫の転勤のため金沢から愛知県に移り、六年たっていた。夫の職業が時間的に不規則であり、娘が小学校に入ったばかりだったので、私はフルタイムの仕事につけなかった。PTAの役員や子供会の世話役を一通りこなした後、通信教育で、医療保険請求事務の仕事を習得して、近くの医院にパートタイムで勤めていた。私は四〇歳を少し過ぎたばかりで、体力気力に恵まれ、まだまだ意欲的であった。
はじめての大垣訪問
はじめており立った大垣の街には、早春の弱い日が射しちらちらと風花が舞っていた。新聞の写真に紹介されていた細香の生家江馬家の門はなかなか見つからなかった。私はそんな有名な人のご子孫は、きっと東京や大阪に出られて、生家の跡を記した標示板が教育委員会によって立てられているだろう、と勝手に予想して来たのだ。それが見事にはずれて、探し当てた江馬家にはご子孫の方が住んでおられた。私の足はひるんだ。しかしここで帰ってしまっては、大垣まで来た意味がない。また出直すには時間がかかる。何事にもスタートに手間のかかる私は、自分を励まし励まししたのを記憶している。とにかくお訪ねして来意を伝えよう、と思った。
お会いしてすぐ並の方ではないとわかる、知的な雰囲気の初老の紳士江馬庄次郎氏は、紹介状なしに訪ねてきた私をとがめもなさらなかった。すぐ近くの禅桂寺にある、細香とその父江馬蘭斎のお墓を教えて下さった。帰りにもう一度伺うと、奥様がお座敷一杯に山陽や細香の書画、手紙、詩稿などを広げて見せて下さった。二〇〇年近い年月を経ているのに、墨の色、朱筆の色は匂いたつように鮮やかである。細香が詩を作り、京都にいる師の山陽に送る。山陽が朱筆で添削を施し、評語を書き加えて送り返した、細香の創作の原点の詩稿である。私は素晴らしい宝物に囲まれていると気がついた。
けれども奥様が丁寧に説明して下さるのが、半分も理解できない。そのうえ詩稿や手紙そのものが読めない。ほとんど漢字の崩し字、しかも漢文である。私は呆然とした。中村真一郎氏の著作によって、おぼろげに感じていた細香像がそこに立っているのに手が届かない。私は何も知らないけれども紛れもない本物の豊かな文学の世界がそこにある、と実感した。
私はこれから勉強して、後日またお伺いします、と約束しておいとました。
これが、私が江戸女流文学の最もすぐれた一部分に触れた日である。私が触れたのは氷山の一角にすぎないことが、後にわかる。
ここまで書いてきて、ふと気がついた。私自身、江戸時代について、いくつの誤った先入観をもっていたことだろう。頼山陽を勤王思想に
そこから私の勉強がはじまった、女性史と名のつく本を図書館で探しだした。まだそのころ女性史関係の本は少なかった。そしてそれらの中に、江馬細香という名前はまったく出てこなかった。それどころか江戸時代の女性そのものが、女性史の中にあまり現れてこない。多くの学者がいるのだから、たいていのことは研究され尽くしているだろう、という私の思い込みはここでもまた
それから私は度々各地の図書館へ通いだした。大垣図書館では大垣市史や細香の漢詩集『
例えば次の詩を読んだ時に、人かげのない渡し場から湿った砂を踏みしめて歩む細香の清々しい気持を自分のもののように思った。
江行即事
渡口無人垂柳青
一条沙路捨舟行 一条の
斜陽影徹江潮底 斜陽 影は徹る
照見飛魚溌溌軽 照見す
柳が青々として風に吹かれ、初夏の夕日は飛びはねた魚が銀鱗をひらめかせて泳ぎ去るのを、はっきりと見せてくれる。
筆写が昔の人々の有効な勉強方法であったことを実感した。
一方、私は江戸時代に出版された書物の中に、細香についての情報を求めた。同時代の人の証言が何よりも大切だ、と思ったからだ。『森銑三著作集』(中央公論社)に「近世人物研究資料綜覧」があり、江馬細香に関する江戸時代の文献が二○点ほどあげられていた。江馬細香は当時からすぐれた詩人として、多くの人から注目されていたことがわかる。私はそれらの大半を名古屋市立鶴舞図書館、刈谷図書館村上文庫、西尾図書館岩瀬文庫などで見ることができた。国立国会図書館の蔵書も取りよせてもらった。
それらの文献には、さまざまな証言が記されていた。しかしそれは断片的なものばかりであった。私は江馬細香の生涯に関する物話を、たっぷりと読みたかったのである。女性が束縛され不自由であったという時代に、芸術に精進し、人を愛しつづけ、そして精神的に自立して生きた女性の生涯の物語を書いた本は、まだ存在していなかった。
たしかに女流詩人江馬細香が生きた証として、詩集があり書画がある。同時代の人たちの印象記や人物評もある。しかし私が読みたいと思う細香の物語は、まだ書かれていないのである。それならば私が書くしかないのだろうか。私は迷った。私は漢詩文に素人である。私にできるだろうか。
金沢大学でお世話になった恩師に相談すると、即座に「勉強すればァ」という答えが一言返って来た。先生はあきれた表情をうかべておられる。そんな簡単なことで迷っているのか、とおっしゃりたいのだろう。
そうして漢和辞書を引き引き、細香詩の最もやさしいものから正確な解読をはじめた。それによってともかくも、頼山陽の門人であった頃の細香の物語を書いて、金沢の友人と作っていた同人誌『
その続きを書こうとして、私は壁に突き当たった。細香の生涯をおおまかに
江馬文書研究会に入る
その頃、大垣の江馬家に残るぼう大な蘭学の資料の整理が始まっていた。私もそれに参加させていただき、整理の手伝いをしながら勉強していった。
細香の父江馬蘭斎は前野良沢、杉田玄白について蘭学を修め、美濃ではじめて蘭医として開業した人である。自宅を蘭学塾として、門人たちに蘭学を教授していた。代々江馬家は大垣藩医を勤め、藩主の信頼を得て、また地域からも尊敬されていた。
蘭斎には三人の子どもがあったが、長男門太郎は幼いときに亡くなり、妻乃宇も相ついで亡くなった。長女多保(後の細香)と次女
蘭齋は二人の娘に読み書きを手ほどきし、画を学ばせた。「多保 五才画」と署名した幼い細香の画幅が残っている。あどけない筆致ながら生き生きとした竹と雀の画である。彼女は幼い頃から画の領域で、すぐれた才能のひらめきをみせたらしい。蘭斎は娘のために絵画の師を求め、彼女の才能を伸ばすことを心掛けている。細香が一八歳になった頃、婿養子を迎えて家を継がせようとした。そのとき細香が「結婚しないで芸術の道に精進したい」とその気持ちを父に伝えると、蘭斎はあっさりとその願いを聞き入れた。そして妹の柘植子に婿養子を迎えてしまった。
女性は父親に絶対服従といわれていた江戸時代に、何とものわかりのいい父親だろう、と私は驚いた。あとに知ることになるが、この時代に福岡の漢学者亀井
蘭斎は文化一〇年に江馬家を訪れた頼山陽に、娘細香を人門させている。細香を妻にしたいという山陽の願いは断り、門人となることを許したのである。これもなかなか興味深い事実で、彼は山陽を娘の結婚相手としては認めなかったが、その学識、詩才を高く評価していたことになる。
現在からは古臭く見える漢詩文や蘭学は、当時は最先端の芸術・学問であり、漢学者も蘭学者も甚だ新しい思想の持ち主なのである。細香が生まれ育った時代、環境はそのようなものであった。
研究会での日々
大垣の江馬家で数年間おこなわれた資料の整理と、その後の手紙類の解読の作業に参加して、私は多くの事を学んだ。毎月の例会はたいへん刺激に富んだものであった。
日曜の朝、一○時頃から各専門の先生方が続々と江馬家の門をくぐって集まられる。医史学関係のお医者さまのグループは暖かい縁側に陣取って、蘭斎以下代々江馬家で使われたオランダの医学書、それらの訳述書などを調査整理される。ブカン、ブランカール、チソットなど、聞き馴れぬ亜熱帯の果物のような医書の名前が、しきりに話題になっている。お座敷中央の大きなテーブルには、前野良沢、杉田玄白など蘭学者たち、頼山陽はじめ江戸後期の著名な文人たちからきた書簡がうずたかく積まれている。ここは蘭学史の専門家が整理、解読しておられる。時折楽しそうに笑って、面白い箇所を読んで下さる。奥の方には江馬家文書の内、歴史、地理、文学その他の国書、漢書が積まれている。ここでは歴史、語学、薬学の専門家たちがその一冊ずつを調査、分類される。私はもっぱらこのグループの手伝いをした。
「写本一冊、五二丁、墨付き四八丁、縦二八センチ、横一八センチ、奥付に江馬蔵書の印あり………」それをカードに記入しながら、この作業の重要さ、江馬家の知的遺産の多彩さに目を
初期の頃、京都から西鶴研究の大家野間光辰先生もよく参加された。先生は江馬家の人々の随筆、見聞録などを筆写しておられた。私はときおり先生にいろんなことを教えていただく時間があった。ここで学んだことの大きさは測り知れない。江戸後期の知的最前線の様相がこの場に現れていると思った。
古くから日本の学問の骨格をなしていた漢学の中には、倫理・論理・文学・歴史など、あらゆるジャンルが含まれている。さらに医学・天文・地理・暦学・
江馬細香という女流詩人が生まれ育ったのは、この環境だった、と実感した。この環境を作った江馬蘭斎にすぐれた娘がいれば、彼はどう育てようとするか。当時の常識であった「女大学」を無視するのは当然と思われた。
そして江戸時代の知的世界の、ダイナミックな動きと面白さに目を瞠った。鎖国といわれていた時代に、蘭学者たちはあらゆる手段で世界の情報を求め、交換し、ひそかに国内に向かって警告を発しているのである。
こんなに面白い、知的刺激に満ちた時代なのに、何故誰も目を向けず、明治維新ばかりを語るのだろう。これが昭和五〇年頃の、私の素朴な、しかし切実な感想だった。昭和五四年に、私は同人誌『朱鷺』に三回にわたって発表した作品を、『江馬細香—化政期の女流詩人』として一冊にまとめ、自費出版した。昭和六〇年頃に田中優子著『江戸の想像力』や杉浦日向子著『江戸へようこそ』が出版されて、江戸ブームのような気運がおきた。私と同じ時代、同じ世界に興味を持つ人がいることを知り、知己を得たように嬉しかった。
はじめての著書
自費出版するに当たって、私が気をつけたことが一つある、それは独善に陥らないことであった。自費出版は、自分が費用を負担さえすれば本にしてもらえる。本になるまでの過程で、鋭い批評眼を持つ編集者の目に触れることが少ない。そのため独りよがりの饒舌に陥りやすい。だから自分が批評家の目を持たねばならない、と思った。
私は同人誌に発表したものを、できるだけ多くの人に読んでもらい、その批評、感想を参考にした。偶然、紹介して下さる方があって、かつて雑誌『文芸』の名編集者であった、坂本一亀氏に読んでもらえることになった。作品を送ってから半年以上、返事はなかった。九月のある激しい雨の日に、坂本氏から速達が届いた。茶封筒がすっかり濡れて、宛て名が滲んでいた。手紙には返事が遅延したことについてわびてあり「その間、一度もご催促をうけず、恐縮して」いる、とあった。そして細かく適切な批評をして下さり、最後に、時間的組み立てを変えて、構成を複雑にし「山をつくる」ように、という実に有効な助言をして下さった。
その手紙を読んで私は納得する所があり、書き直しはじめた。何度書き直したことだろう。最も困難な箇所は前後七回書き直している。出来上がった原稿は、もと中央公論の編集者であった大学同期の神崎忠夫君が、布表紙上製函入りの美しい、堅牢な本に作ってくれた。昭和五四年一一月のことである。出版費用は、それまでパートタイムのアルバイトでためた貯金をすべてあてた。この本はのちにBOC出版部で、普及版を作っていただいて今日に至っている。
初版に一〇〇〇部刷り、ちょうど開催された大垣市先賢展『蘭斎と細香』に間にあって、多くの人に読んでもらうことができた。またぜひ読んでほしいと思った方々には贈呈した。本に手紙を付け、厚紙で包装する。その作業を、それまで一切口出しせずに私の仕事を見守っていた夫が、懸命に手伝ってくれて「楽しいなァ」と言った。
贈呈した方々から感想、批評のお手紙がたくさん届いたが、何より驚いたのは、中国文学者吉川幸次郎先生からのお手紙が届いたことである。吉川先生が読んで下さっていることは、野間光辰先生からのお便りで知っていたが、まさかあの厳しい先生から直接お手紙をいただけるとは思わなかったので、私は背筋が寒くなった。
吉川先生は胃の手術の後の静養中に読んで下さった様子で「……ぼつぼつと拝読の処、仲々どうしてどうして、近ごろの読書のうち最も感心するものとなりました。重ねて謝々……」とあり、私はひとまずほっとした。先生は蘭斎と美濃蘭学について、また山陽と細香について、よく行き届いた感想を述べて、「……主人公細香副主人公山陽共にあたたかき同情に包まれているのも好まし」と書いて下さった。台所の一隅に机を置いて勉強している主婦にとって、大きな励ましであった。先生はその五カ月後に亡くなられた。中国文学研究の世界的権威であった方が、その最晩年の二、三日を、私の本で過ごして下さったことを、私の生涯の栄誉として忘れない。
この本は多くの人に読まれて、翌年金沢市から、泉鏡花の名を冠した市民文学賞を受けた。副賞としてもらった金一封は、実にありがたかった。そのお陰で、私はこの本を四○○部重版することができたのである。多くの方々が、さまざまな形で好意の手を差しのべて下さったことに、深く感謝している。
細香詩集の口語訳
二、三年後の事、吉川先生のお弟子である入谷仙介先生の強いお勧めがあって、私は細香の詩集『湘夢遺稿』上下二冊の口語訳に取りかかった。これは何時かやってみたい仕事であったが、私は半ば諦めていたのだ。細香の漢詩はわかりやすく、現代人の感性に通うものがあるが、やはり漢詩の骨格は厳然とあり、中国古典を踏まえたものが多い。素人の私にはとうてい無理であった。入谷先生のご指導が得られることになって、ようやく取りかかる決心がついた。社会人になっている娘が、高校時代に使った漢文の教科書を貰っておいたので、取りだして勉強しなおした。教科書は実によくできていて、読んで楽しかった。
ちょうど夫が浜松に転勤で単身赴任した。私は月に一、二度掃除や洗濯のために浜松に通った。大きなショルダーバッグに、いつも原稿用紙と『湘夢遺稿』のコピーを入れ、両手に洗濯物や食料品の紙袋を下げて歩いた。腕も肩もしびれるほどに重かった。浜松では市立図書館をよく利用した。何処の街でも立派な図書館ができていて、大きな辞典類が揃っているのがありがたかった。六、七年間の孤独な、そして実に楽しい仕事が続いた。
入谷先生のご尽力で、『湘夢遺稿』上下二冊の口語訳は、平成四年の暮に汲古書院から出版された。その直後に、中日新聞、名古屋朝日新聞から取材を受け、年があけると間もなく、東京朝日新聞からも学芸記者が取材にきて、いずれも大きく紙面で紹介してくれた。日本の漢詩文が少しずつ見なおされる気運が出はじめていたが、個人の詩集の全訳は初めてということで、注目されたのだった。この詩集は多くの人が読んで下さって、誤訳の指摘をしてもらえた。それは重版で訂正することができた。
重版が出た頃だったと思う。ニューヨーク在住の翻訳家佐藤紘彰氏から手紙が届いた。佐藤氏は江馬細香に興味を持ち、前著『江馬細香—化政期の女流詩人』をすでに読んで手紙を下さったのだ。やがて氏は『湘夢遺稿』の抄訳を手掛けて完成された。私はできるだけのお手伝いをした。
『湘夢遺稿』は一九九八年一月に、コロンビア大学出版部から出版された。「Breeze Through Bamboo」(竹林をわたる微風)という題で、細香の漢詩の雰囲気をよく表していて、私は満足した。コロンビア大学から出版されるまでに、いろいろと紆余曲折があったようだ。しかしコロンビアのバーバラ・ルーシュ教授の強い推薦があったと聞いた。ルーシュ女史は日本文学文化教授で、中世日本研究所所長でもある。九七年一一月には、研究所三○周年記念の国際シンポジウムを主催された。アメリカでは日本文学にたいする研究が進んでいて、九八年三月にはワシントンD・Cで「日本徳川時代後期の女性作家たち」というテーマの学会も開催されている。なお九九年末に、コロンビア大学版の「Breeze Through Bamboo」は、アメリカの政府機関である日米友好協会から翻訳文学賞を受けた。
アメリカで細香の詩集が好評を得た理由は何であろうか。次の詩を読むと、私にはそれがよくわかる。
冬夜
爺繙欧蘭書
児読唐宋句
分此一灯光 此の一灯の光を分かちて
源流各自泝 源流 各々
爺読不知休 爺は読みて
児倦思栗芋
堪愧精神不及爺
爺歳八十眼無霧 爺は歳八十 眼に霧なし
一九世紀のはじめ頃、美濃の一隅で、一つのランプの光を分けあって、それぞれの勉学にはげむ父と娘。疲れて、ふとおやつがほしくなる娘、しかし、一向に疲れを知らぬ父の姿に畏敬の念を感じて恥じる。
この父娘像は、当時のアメリカか、ヨーロッパのどこかの都市に置きかえても少しも違和感がない。佐藤氏の英訳では次のようになる。
WINTER NIGHT
Father opens European, Dutch books;
Child reads T'ang, Sung verse.
Sharing this single lamp,
each traces his own source.
Father reads on and never rests,
child, tired, thinks of chestnuts, yams.
I'm ashamed I am, in spirit, so far from father,
who, eighty years of age, has no mist in his eyes.
アメリカのある学者は、「細香の詩は徳川時代の女性が経験した世界を開示した。…この詩集の最大の強みは詩そのものの質の良さにある」と絶賛した。私は細香の詩が世界の多くの人に共感されることを確信した。
話はさかのぼるが、平成三年(一九九一)のこと、国立婦人教育会館での「女性の自己表現と文化」というシンポジュウムに出席したことがある。ちょうどその頃、『湘夢遺稿』の口語訳が完成に近づいていた。そのときある高名な詩人が「日本の女性の自伝的文学は一○世紀に確立し、中世、近世には衰微し、近代に至って復活した」と発言して、私は奇異な感じを受けた。江戸時代の女性の漢詩人たちが、素晴らしい作品を書いているのに、伝統的な和歌、和文の世界で女性たちが何も書いていないはずはないと考えた私は、友人浅野美和子さんに教えられて買った『江戸女流文学全集』四巻を以前から読みつづけていたからである。
江戸女流文学の研究に取りかかる
『江戸女流文学全集』四巻の中には、江戸時代に女性によって書かれたあらゆるジャンルの作品が収められている。平安女流文学以来の伝統である和歌、日記、随筆、物語類、ほかに江戸時代の新興文学ともいえる俳諧の諸作品がある。ただその頃隆盛であった漢詩文、戯作類は入っていない。
私は第一巻を開いて見たときの驚きを思いだす。六〇〇頁に近い分厚い本の序文に、作者たちの簡単な紹介があり、次に大まかな目次、それからは翻刻した作品のみがぎっしりと入っている。作品の解説、時代背景、人物や語句の注などは一切ついていない。挿絵が少し載っているが、そのほかは古風な活字が隙間もなく並んでいる。第一巻から第三巻まですべてがそうである。第四巻は和歌、俳諧、狂歌なので少し余白があり、息がつける感じがする。これらの分厚い四冊の全集を前にして、私はため息をついた。
何という無愛想な本だろう、読者に読ませようという工夫など何もない。これが平安女流文学ならこんなことはない。多くの学者が研究しつくして、数多の出版社から親切な注と通釈文つきのテキストが出ている。原文と読み比べながら味読し、さまざまな想像を楽しむことができる。それに比べこの四冊の本はどうだろうか。苦労して何とか読み通したところで、面白いかどうか分かったものではない。面白くなかったら、それこそ徒労というものだ。
それでもなお懲りずに、辞書を引きながら読みつづけたのは、江馬細香その他の女流漢詩人の作品の魅力、江馬蘭斎たちの持っていた漢学、蘭学の世界の面白さを知っていたからである。伝統的な和歌、和文の世界で女性が何をしていたのか。どの時代にもすぐれた女性はいたはずだし、長く太平が続き教養の時代といわれている江戸時代に、女性たちがぼんやりしていたとは考えられなかった。
最初にぶつかったのは、武田勝頼の最期を描いた「理慶尼の記」である。作者
次に読んだ「おあん物語」は、関が原の戦いの頃に大垣城に籠城した少女が、健気に逞しく生きる話である。これは江戸時代から多くの人に好んで読まれたらしい。やがて私は江戸中期頃の女性の最大の書き手、
私はこれらの作品を、ただ読み流しにはしなかった。その作品が何を語っているか、私がどう感じ、どこに感動したか。それを一五枚から三○枚くらいの原稿にまとめていった。どこかに発表するつもりはなかったが、自分がどう読んだかを確認しておきたかったのである。この原稿は親しい友人三人に読んでもらうと、そのまましまい込んだ。
平成二年に女性史研究家柴桂子さんが、研究誌『江戸期おんな考』を発刊されたので、私もそれに参加した。そしてしまい込んでいた原稿を取り出し、第二号から連載することにした。その際に作品を読みなおし、作品が生まれた土地を訪ね、さらに原稿を書きなおしたのはもちろんである。
年に一回の雑誌の発行が四回まで進んだ年であった。藤原書店で『女と男の時空—日本女性史再考』六巻の出版が企画され、高橋ますみさん、福田光子先生のご推薦で、浅野美和子さんと私が執筆者の中に加えてもらった。私が書きたいテーマはもちろん"江戸女流文学"である。とにかく文学好きの素人の目で、現代文学を読むのと同じ感覚で読んだ江戸女流文学の流れを、一〇〇枚足らずの原稿にまとめてみた。これは苦しいけれど、たいへん楽しい仕事であった。今、こんな古い物語や日記を読んでいるのは、私一人ではなかろうか、と思った。ベストセラーを読むのとは正反対の快感である。素人の無謀ともいえる作業の中で発見したことは、江戸女流文学を、平安女流文学を最高とする価値基準で評価しても無意味だ、ということであった。平安女流文学は、朝廷を中心とする閉鎖的な世界の少数の貴族の女性によって創造されたものである。それに比べ、江戸女流文学は全国各地の、さまざまな身分の女性たちが参加している。全く違う文学世界が開けて当然なのであった。
その時期、『湘夢遺稿』の口語訳が七、八年かけてようやく出版された直後で、多くの読者からの反響に答えるのに忙殺されていた。そして『江戸期おんな考』第四号の原稿も手を抜くことはできなかった。そんなに忙しい時に、どうしてこんな大きなテーマに取り組んでしまったのだろう。振り返ってみると何か不思議な力が、私を後ろから推し進めていたように感ずる。
私の一〇〇枚ほどの原稿を見ながら、藤原書店の社長が「これを一冊で読みたいなァ」と言われたことが実現した。平成一〇年の三月末に『江戸女流文学の発見—光ある身こそくるしき思ひなれ』が藤原書店から出版されたのである。第一部の散文作品は『江戸期おんな考』に連載した作品を元にして書き改め、第二部の韻文作品(漢詩、和歌、俳諧)のたいていは書き下ろした。主要人物注、資料、参考文献、主要人物生没年図、人名索引など、編集担当の西之坊奈央子さんが懸命に手伝って下さって、三月一八日に出来上がった本が一冊、手元に届いた。表紙のカバーには江戸時代の女流文人が、筆を手に文机に依っている版画が載った。旗本身分の鳥文斎栄之の作品である。裏表紙は江馬細香が描かせた「白鴎社集会図」である。堅牢な美しい本になり、私は感動した。新聞や雑誌の書評欄のいくつかが取り上げて、紹介、論評してくれた。
同年一〇月八日の夕方、五時頃。毎日新聞事業局の女性の方から電話があった。私は名古屋駅前にある、名古屋毎日新聞と思ったので気軽に対応した。しかしどうも様子が違う。聞くと東京からだ、という。「いま選考委員会が終わったところです」何かその場の雰囲気が伝わってくるような話しぶりである。よく聞くと、私の『江戸女流文学の発見』が、毎日出版文化賞に選ばれた、という。「全会一致で決まりました」とまたいわれる。私は、不思議な気持ちになった。現実感が全くない。応募もしていないし、候補に上がっていることさえ知らなかった。「いたずら電話でしょう」というと、「よくそうおっしゃる方がありますよ」とその人は笑った。翌日、藤原書店からお祝いの花束が届いて、ようやく実感が湧いた。私は女性の作品だけを対象にした賞ではなく、男女を問わず、広い分野の本の中から選ばれたことを、江戸女流文学者たちのために喜んだ。
多くの友人が上京して、授賞式を本当に華やかに盛り上げて下さった。夢のような時間であった。けれども読まれることの少ない江馬細香の漢詩集や、江戸女流文学の諸作品を、一人で辞書を引きながら読んでいたあの孤独で充実した時間が、今も私には輝いてみえるのである。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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