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のんきな患者

    一

 

 吉田は肺が悪い。(かん)になつて少し寒い日が来たと思つたら、すぐその翌日から高い熱を出してひどい咳になつてしまつた。胸の臓器を全部押上げて出してしまはうとしてゐるかのやうな咳をする。四五日経つともうすつかり痩せてしまつた。咳もあまりしない。しかしこれは咳が癒つたのではなくて、咳をするための腹の筋肉がすつかり疲れ切つてしまつたからで、彼等が咳をするのを(がへ)んじなくなつてしまつたかららしい。それにもう一つは心臓がひどく弱つてしまつて、一度咳をしてそれを乱してしまふと、それを再び(しづ)めるまでに非常に苦しい目を見なければならない。つまり咳をしなくなつたといふのは、身体が衰弱してはじめてのときのやうな元気がなくなつてしまつたからで、それが証拠には今度はだんだん呼吸困難の度を増して浅薄な呼吸を数多くしなければならなくなつて来た。

 病勢がこんなになるまでの間、吉田はこれを人並の流行性感冒のやうに思つて、またしても「明朝はもう少しよくなつてゐるかもしれない」と思つてはその期待に裏切られたり、今日こそは医者を頼まうかと思つてはむだに辛抱をしたり、何時までもひどい息切れを冒しては便所へ通つたり、そんな本能的な受身なことばかりやつていた。そしてやつと医者を迎へた頃には、もうげつそり頬もこけてしまつて、身動きも出来なくなり、二三日のうちにははや褥瘡(とこずれ)のやうなものまでが出来かかつて来るといふ弱り方であつた。或る日はしきりに「かうつと」「かうつと」といふやうなことを殆ど一日云つてゐる。かと思ふと「不安や」「不安や」と弱々しい声を出して訴へることもある。さういふときはきまつて夜で、どこから来るともしれない不安が吉田の弱り切つた神経を堪らなくするのであつた。

 吉田はこれまで一度もそんな経験をしたことがなかつたので、そんなときは第一にその不安の原因に思ひ悩むのだつた。一体ひどく心臓でも弱つて来たんだらうか、それともこんな病気にはあり勝ちな、不安ほどにはないなにかの現象なんだらうか、それとも自分の過敏になつた神経がなにかの苦痛をさういふ風に感じさせるんだらうか。——吉田は殆ど身動きも出来ない姿勢で身体を鯱硬張(しやちこば)らせたまま辛うじて胸へ呼吸を送つてゐた。そして今()し突如この平衡を破るものが現はれたら自分はどうなるかしれないといふことを思つてゐた。だから吉田の頭には地震とか火事とか一生に一度()ふか二度遭ふかといふやうなものまでが真剣に写つてゐるのだつた。また吉田がこの状態を続けてゆくと云ふのには絶えない努力感の緊張が必要であつても、もしその綱渡りのやうな努力になにか不安の影が射せばたちどころに吉田は深い苦痛に陥らざるを得ないのだつた。——しかしそんなことはいくら考へても決定的な知識のない吉田にはその解決がつくはずはなかつた。その原因を臆測するにもまたその正否を判断するにも結局当の自分の不安の感じに由る外はないのだとすると、結局それは何をやつてゐるのか訳のわからないことになるのは当然のことなのだが、しかしそんな状態にゐる吉田にはそんな諦めがつくはずはなく、いくらでもそれは苦痛を増して行くことになるのだつた。

 第二に吉田を苦しめるのはこの不安には手段があると思ふことだつた。それは人に医者へ行つて貰ふことと誰かに寝ずの番についてゐて貰ふことだつた。しかし吉田は誰もみな一日の仕事をすましてそろそろ寝ようとする今頃になつて、半里(はんみち)もある田舎道(ゐなかみち)を医者へ行つて来てくれとか、六十も越してしまつた母親に寝ずについてゐてくれとか云ふことは云ひ出し憎かつた。またそれを思い切つて頼む段になると、吉田は今のこの自分の状態をどうしてわかりの悪い母親にわからしていいか、——それよりも自分が辛うじてそれを云ふことが出来ても、じつくりとした母親の平常の態度でそれを考へられたり、またその使ひを頼まれた人間がその使ひを行き渋つたりするときのことを考へると、実際それは吉田にとつて泰山を動かすやうな空想になつてしまふのだつた。しかし何故(なぜ)不安になつて来るか——もう一つ精密に云ふと——何故不安が不安になつて来るかといふと、これからだんだん人が寝てしまつて医者へ行つて貰ふといふことも本当に出来なくなるといふことや、そして母親も寝てしまつてあとはただ自分一人が荒涼とした夜の時間のなかへ取残されるといふことや、そして()しその時間の真中でこのえたいの知れない不安の内容が実現するやうなことがあれば最早自分はどうすることも出来ないではないかといふやうなことを考へるからで——だからこれは目をつぶつて「辛抱するか、頼むか」といふことを決める以外それ自身のなかには何等解決の手段も含んでゐない事柄なのであるが、たとへ吉田は漠然とそれを感じることが出来ても、身体も心も抜差しのならない自分の状態であつてみればなほのことその迷妄(めいまう)を捨て切つてしまふことも出来ず、その結果はあがきのとれない苦痛がますます増大してゆく一方となり、そのはてにはもうその苦しさだけにも堪へ切れなくなつて、「こんなに苦しむ位なら一そのこと云つてしまはう」と最後の決心をするやうになるのだが、そのときはもう何故か手も足も出なくなつたやうな感じで、その傍に坐つてゐる自分の母親がいかにも歯痒(はがゆ)いのんきな存在に見え、「此処と其処だのに何故これを相手にわからすことが出来ないのだらう」と胸のなかの苦痛をそのまま(つか)み出して相手に叩きつけたいやうな癇癪(かんしやく)が吉田には起こつて来るのだつた。

 しかし結局はそれも「不安」や「不安や」といふ弱々しい未練一杯の訴へとなつて終つてしまふほかないので、それも考へてみれば未練とは云つてもやはり夜中なにか起つたときには相手をはつと気づかせることの役には立つといふ切羽(せつぱ)つまつた下心もは()つてゐるにはちがひなく、さうすることによつてやつと自分一人が寐られないで取残される夜の退引(のつぴき)ならない辛抱をすることになるのだつた。

 吉田は何度「己が気持よく寐られさへすれば」と思つたことかしれなかつた。こんな不安も吉田がその夜を()むる当てさへあれば何の苦痛でもないので、苦しいのはただ自分が昼にも夜にも睡眠といふことを勘定に入れることが出来ないといふことだつた。吉田は胸のなかがどうにかして(なご)んで来るまでは否でも応でも何時も身体を鯱硬張(しやちこば)らして夜昼を押し通してゐなければならなかつた。そして睡眠は時雨空(しぐれぞら)の薄日のやうに、その上を時々やつて来ては消えてゆく(ほとん)ど自分とは没交渉なものだつた。吉田はいくら一日の看護に疲れても寝るときが来ればいつでもすやすやと寐て行く母親がいかにも楽さうにもまた薄情にも見え、しかし結局これが己の今やらなければならないことなんだと思ひ諦めてまたその努力を続けてゆく外なかつた。

 そんなある晩のことだつた。吉田の病室へ突然猫が這入つて来た。その猫は平常吉田の寝床へ這入つて寝るといふ習慣があるので吉田がこんなになつてからは(やか)ましく云つて病室へは入れない工夫をしてゐたのであるが、その猫がどこから這入つて来たのか不意にニヤアといふいつもの鳴声とともに部屋へ這入つて来たときには吉田は一時に不安と憤懣(ふんまん)の念に襲はれざるを得なかつた。吉田は隣室に寝てゐる母親を呼ぶことを考へたが、母親はやはり流行性感冒のやうなものにかかつて二三日前から寝てゐるのだつた。そのことについては吉田は自分のことも考へ、また母親のことも考へて看護婦を呼ぶことを提議したのだつたが、母親は「自分さへ辛抱すればやつて行ける」といふ吉田にとつては非常に苦痛な考へを固執してゐてそれを取上げなかつた。そしてこんな場合になつては吉田はやはり一匹の猫位でその母親を起すといふことは出来難い気がするのだつた。吉田はまた猫のことには「こんなことがあるかもしれないと思つてあんなにも神経質に云つてあるのに」と思つて自分が神経質になることによつて払つた苦痛の犠牲が手応(てごた)へもなくすつぽかされてしまつたことに憤懣を感じないではゐられなかつた。しかし今自分は癇癪(かんしやく)を立てることによつて少しの得もすることはないと思ふと、その訳のわからない猫をあまり身動きも出来ない状態で立ち去らせることの如何にまた根気のいる仕事であるかを思はざるを得なかつた。

 猫は吉田の枕のところへやつて来るといつものやうに夜着の襟元から寝床のなかへもぐり込まうとした。吉田は猫の鼻が冷たくてその毛皮が戸外の霜で濡れてゐるのをその頬で感じた。即ち吉田は首を動かしてその夜着の隙間を塞いだ。すると猫は大胆にも枕の上にあがつて来てまた別の隙間へ遮二無二首を突込まうとした。吉田はそろそろあげて来てあつた片手でその鼻先を押しかへした。このやうにして懲罰といふこと以外に何もしらない動物を、極度に感情を押し殺した僅かの身体の運動で立ち去らせるといふことは、訳のわからないその相手を殆ど懐疑に陥れることによつて諦めさすといふやうな切羽(せつぱ)つまつた方法を意味してゐた。しかしそれがやつとのことで成功したと思ふと、方向を変へた猫は今度はのそのそと吉田の寝床の上へあがつてそこで丸くなつて、毛を()めはじめた。そこへ行けばもう吉田にはどうすることも出来ない場所である。薄氷を踏むやうな吉田の呼吸が(には)かにずしりと重くなつた。吉田はいよいよ母親を起さうかどうしようかといふことで抑へてゐた癇癪を(たか)ぶらせはじめた。吉田にとつてはそれを辛抱することは出来なくないことかもしれなかつた。しかしその辛抱をしてゐる間はたとへ寝たか寝ないかわからないやうな睡眠ではあつたが、その可能性が全然なくなつてしまふことを考へなければならなかつた。そしてそれを何時まで持ち(こら)へなければならないかといふことは全く猫次第であり、何時起きるかしれない母親次第だと思ふと、どうしてもそんな馬鹿馬鹿しい辛抱は仕切れない気がするのだつた。しかし母親を起すことを考へると、こんな感情を抑へて恐らく何度も呼ばなければならないだらうといふ気持だけでも吉田は全く大儀な気になつてしまふのだつた。——暫らくして吉田はこの間から自分で起こしたことのなかつた身体をじりじり起しはじめた。そして床の上へやつと起きかへつたかと思ふと、寝床の上に丸くなつて寝てゐる猫をむんずと(つか)まへた。吉田の身体はそれだけの運動でもう浪のやうに不安が揺れはじめた。しかし吉田はもうどうすることも出来ないので、いきなりそれをそれの這入つて来た部屋の隅へ「二度と手間のかからないやうに」叩きつけた。そして自分は寝床の上であぐらをかいてそのあとの恐ろしい呼吸困難に身を(まか)せたのだつた。

 

     二

 

 しかし吉田のそんな苦しみもだんだん耐へ難いやうなものではなくなつて来た。吉田は自分にやつと睡眠らしい睡眠が出来るやうになり、「今度はだいぶんひどい目に会つた」といふことを思ふことが出来るやうになると、やつと苦しかつた二週間ほどのことが頭へのぼつて来た。それは思想もなにもないただ荒々しい岩石の重畳(ちようでふ)する風景だつた。しかしそのなかでも最もひどかつた咳の苦しみの最中に、いつも自分の頭へ浮んで来る訳のわからない言葉があつたことを吉田は思ひ出した。それは「ヒルカニヤの虎」といふ言葉だつた。それは咳の(のど)を鳴らす音とも聯関があり、それを吉田が観念するのは「俺はヒルカニヤの虎だぞ」といふやうなことを念じるからなのだつたが、一体その「ヒルカニヤの虎」といふものがどんなものであつたか吉田はいつも咳のすんだあと妙な気持がするのだつた。吉田は何かきつとそれは自分の寐つく前に読んだ小説かなにかのなかにあつたことにちがひないと思ふのだつたがそれが思ひ出せなかつた。また吉田は「自己の残像」といふやうなものがあるものなんだなといふやうなことを思つたりした。それは吉田がもうすつかり咳をするのに疲れてしまつて頭を枕へ(もた)らせてゐると、それでも矢張り小さい咳が出て来る、しかし吉田はもうそんなものに一々(くび)を固くして応じてはゐられないと思つてそれを出るままにさせておくと、どうしてもやはり頭はその度に動かざるを得ない。するとその「自己の残像」といふものがいくつも出来るのである。

 しかしそんなこともみな苦しかつた二週間ほどの間の思ひ出であつた。同じ寐られない晩にしても吉田の心にはもうなにかの快楽を求めるやうな気持の感じられるやうな晩もあつた。

 或る晩は吉田は煙草を眺めてゐた。床の脇にある火鉢の裾に刻煙草(きざみたばこ)の袋と煙管(きせる)とが見えてゐる。それは見えてゐるといふよりも、吉田が無理をして見てゐるので、それを見てゐるといふことが何とも云へない楽しい気持を自分に起させてゐることを吉田は感じてゐた。そして吉田の寐られないのはその気持のためで、云はばそれは稍々(やや)楽しすぎる気持なのだつた。そして吉田は自分の頬がそのために少し(づつ)火照(ほて)つたやうになつて来てゐるといふことさへ知つてゐた。しかし吉田は決してほかを向いて寝ようといふ気はしなかつた。さうすると折角自分の感じてゐる春の夜のやうな気持が一時に病気病気した冬のやうな気持になつてしまふのだつた。しかし寝られないといふことも吉田にとつては苦痛であつた。吉田は何時か不眠症といふことについて、それの原因は結局患者が眠ることを欲しないのだといふ学説があることを人に聞かされてゐた。吉田はその話を聞いてから自分の睡むれないときには何か自分に睡むるのを欲しない気持がありはしないかと思つて一夜それを検査して見るのだつたが、今自分が寐られないといふことについては検査してみるまでもなく吉田にはそれがわかつてゐた。しかし自分がその隠れた欲望を実行に移すかどうかといふ段になると吉田は一も二もなく否定せざるを得ないのだつた。煙草を()ふも喫はないも、その道具の手の届くところへ行きつくだけでも、自分の今のこの春の夜のやうな気持は一時に吹き消されてしまはなければならないといふことは吉田も知つてゐた。そして若しそれを一服喫つたとする場合、この何日間か知らなかつたどんな恐ろしい咳の苦しみが襲つて来るかといふことも吉田は大概察してゐた。そして何よりもまづ、少し自分がその人の(せゐ)で苦しい目をしたといふやうな場合直ぐに癇癪(かんしやく)を立てゝおこりつける母親の寐てゐる隙に、それもその人の忘れて行つた煙草を——と思ふとやはり吉田は一も二もなくその欲望を否定せざるを得なかつた。だから吉田は決してその欲望をあらはには意識しようとは思はない。そしていつまでもその方を眺めては寐られない春の夜のやうな心のときめきを感じてゐるのだつた。

 或る日は吉田はまた鏡を持つて来させてそれに枯れ枯れとした真冬の庭の風景を反射させては眺めたりした。そんな吉田にはいつも南天の赤い実が眼の覚めるやうな刺戟で眼についた。また鏡で反射させた風景へ望遠鏡を持つて行つて、望遠鏡の効果があるものかどうかといふことを、吉田はだいぶんながい間寝床のなかで考へたりした。大丈夫だと吉田は思つたので、望遠鏡を持つて来させて鏡を重ねて覗いて見るとやはり大丈夫だつた。

 或る日は庭の隅に接した村の大きな(くぬぎ)の木へたくさん渡り鳥がやつて来てゐる声がした。

「あれは一体何やろ」

 吉田の母親はそれを見つけて硝子(ガラス)障子のところへ出て行きながら、そんな独り言のやうな吉田に聞かすやうなことを云ふのだつたが、癇癪を起すのに慣れ続けた吉田は、「勝手にしろ」といふやうな気持でわざと黙り続けてゐるのだつた。しかし吉田がさう思つて黙つてゐるといふのは吉田にしてみればいい方で、若しこれが気持のよくないときだつたら自分のその沈黙が苦しくなつて、(一体そんなことを聞くやうな聞かないやうなことを云つて自分がそれを眺めることが出来ると思つてゐるのか)といふやうなことから始まつて、母親が自分のそんな意志を否定すれば、(いくらそんなことを云つてもぼんやり自分がさう思つて云つたといふことに自分が気がつかないだけの話で、いつもそんなぼんやりしたことを云つたりしたりするから無理にでも自分が鏡と望遠鏡とを持つてそれを眺めなければならないやうな義務を感じたりして苦しくなるのぢやないか)といふ風に母親を攻めたてゝ行くのだつたが、吉田は自分の気持がさういふ朝でさつぱりしてゐるので、黙つてその声をきいてゐることが出来るのだつた。すると母親は吉田がそんなことを考へてゐるといふことには気がつかずにまたこんなことを云ふのだつた。

「なんやらヒヨヒヨした鳥やわ」

「そんなら鵯{ひよ}ですやらうかい」

 吉田は母親がそれを(ひよどり)に極めたがつてそんな形容詞を使ふのだといふことが大抵わかるやうな気がするのでそんな返事をしたのだつたが、しばらくすると母親はまた吉田がそんなことを思つてゐるとは気がつかずに、

「なんやら毛がムクムクしてゐるわ」

 吉田はもう癇癪を起すよりも母親の思つてゐることが如何にも滑稽になつて来たので、

「そんなら椋鳥(むく)ですやらうかい」

 と云つて独りで笑ひ度くなつて来るのだつた。

 そんな或る日吉田は大阪でラヂオ屋の店を開いてゐる末の弟の見舞をうけた。

 その弟のゐる家といふのはその何ヶ月か前まで吉田や吉田の母や弟やの一緒に住んでゐた家であつた。そしてそれはその五六年も前吉田の父がその学校へ行かない吉田の末の弟に何か手に合つた商売をさせるために、そして自分達もその息子を仕上げながら老後の生活をして行くために買つた小間物屋で、吉田の弟はその店の半分を自分の商売にする積りのラヂオ屋に造り変へ、小間物屋の方は吉田の母親が見ながらずつと暮して来たのであつた。それは大阪の市が南へ南へ伸びて行かうとして十何年か前まではまだ草深い田舎であつた土地をどんどん住宅や学校、病院などの地帯にしてしまひ、その間へはまた多くはそこの地元の百姓であつた地主たちの建てた小さな長屋がたくさん出来て、野原の名残りが年毎にその影を消して行きつつあるといふ風の町なのであつた。吉田の弟の店のあるところはその間でも比較的早くから出来てゐた通筋(とほりすぢ)で両側はそんな町らしい、いろんなものを商ふ店が立ち並んでゐた。

 吉田は東京から病気が悪くなつてその家へ帰つて来たのが二年あまり前であつた。吉田の帰つて来た翌年吉田の父はその家で死んで、しばらくして吉田の弟も兵隊に行つてゐたのから帰つて来ていよいよ落着いて商売をやつて行くことになり嫁を貰つた。そしてそれを機会に一先づ吉田も吉田の母も弟も、それまで外で家を持つてゐた吉田の兄の家の世話になることになり、その兄がそれまで住んでゐた町から少し離れた田舎に、病人を住ますに都合のいい離家(はなれ)のあるいい家が見つかつたのでそこへ引越したのがまだ三ヶ月ほど前であつた。

 吉田の弟は病室で母親を相手に暫らく当り触りのない自分の家の話などをしてゐたがやがて帰つて行つた。しばらくしてそれを送つて行つた母が部屋へ帰つて来て、また暫らくしてのあとで、母は突然、

「あの荒物屋の娘が死んだと」

 と云つて吉田に話しかけた。

「ふうむ」

 吉田はさう云つたなり弟がその話をこの部屋ではしないで送つて行つた母と母屋(おもや)の方でしたといふことを考へてゐたが、やはり弟の眼にはこの自分がそんな話も出来ない病人に見えたかと思ふと、「さうかなあ」といふ風にも考へて、

「何であれもそんな話を彼方(あつち)の部屋でしたりするんですやろなあ」

 といふ風なことを云つてゐたが、

「それやお前がびつくりすると思うてさ」

 さう云ひながら母は自分がそれを云つたことは別に意に介してないらしいので吉田は直ぐにも「それぢやあんたは?」と聞きかへしたくなるのだつたが、今はそんなことを云ふ気にもならず吉田はぢつとその娘の死んだといふことを考へてゐた。

 吉田は以前からその娘が肺が悪くて寝てゐるといふことは聞いて知つてゐた。その荒物屋といふのは吉田の弟の家から辻を一つ越した二三軒先のくすんだ感じの店だつた。吉田はその店にそんな娘が坐つてゐたことはいくら云はれても思ひ出せなかつたが、その家のお婆さんといふのはいつも近所へ出歩いてゐるのでよく見て知つてゐた。吉田はそのお婆さんからはいつも少し人の好過ぎる稍々(やや)腹立たしい印象をうけてゐたのであるが、それはそのお婆さんがまたしても変な笑ひ顔をしながら近所のおかみさんたちとお喋りをしに出て行つては、(なぶ)りものにされてゐる——そんな場面をたびたび見たからだつた。しかしそれは吉田の思ひ過ぎで、それはそのお婆さんが聾で人に手真似をして貰はないと話が通じず、しかも自分は鼻のつぶれた声で物を云ふので一層人に軽蔑(けいべつ)的な印象を与へるからで、それは多少人々には軽蔑されてはゐても、面白半分にでも手真似で話して呉れる人があり、鼻のつぶれた声でもその話を聞いてくれる人があつてこそ、そのお婆さんも何の気兼もなしに近所仲間の仲間入りが出来るので、それが飾りもなにもないかうした町の生活の真実なんだといふことはいろいろなことを知つて見てはじめて吉田にも会得(ゑとく)のゆくことなのだつた。

 そんな風ではじめ吉田にはその娘のことよりもお婆さんのことがその荒物屋についての知識を占めてゐたのであるが、だんだんその娘のことが自分のことにも関聯して注意されて来たのはだいぶんその娘の容態も悪くなつて来てからであつた。近所の人の話ではその荒物屋の親爺(おやぢ)さんといふのが非常に吝嗇(けち)で、その娘を医者にもかけてやらなければ薬も買つてやらないといふことであつた。そしてただその娘の母親であるさつきのお婆さんだけがその娘の世話をしてゐて、娘は二階の一と間に寝た切り、その親爺(おやぢ)さんも息子もそしてまだ来て間のないその息子の嫁も誰もその病人には寄りつかないやうにしてゐるといふことを云つてゐた。そして吉田はあるときその娘が毎日食後に目高を五匹宛()んでゐるといふ話をきいたときは「どうしてまたそんなものを」といふ気持がしてにはかにその娘を心にとめるやうになつたのだが、しかしそれは吉田にとつてまだまだ遠い他人事(ひとごと)の気持なのであつた。

 ところがその後しばらくしてそこの嫁が吉田の家へ掛取りに来たとき、家の者と話をしてゐるのを吉田がこちらの部屋のなかで聞いてゐると、その目高を()むやうになつてから病人が工合がいいと云つてゐるといふことや、親爺さんが十日に一度位それを野原の方へ取りに行くといふ話などをしてから最後に、

「うちの網は何時でも()いてますよつて、お(うち)の病人さんにもちつと取つて来て飲ましてあげはつたらどうです」

 といふやうな話になつて来たので吉田は一時に狼狽(らうばい)してしまつた。吉田は何よりも自分の病気がそんなにも大つぴらに話されるほど人々に知られてゐるのかと思ふと今更のやうに驚ろかないではゐられないのだつたが、しかし考へてみれば勿論それは無理のない話で、今更それに驚ろくといふのはやはり自分が平常(へいぜい)自分について虫のいい想像をしてゐるんだといふことを吉田は思ひ知らなければならなかつたのだつた。だが吉田にとつてまだ生々(なまなま)しかつたのはその目高を自分にも飲ましたらと云はれたことだつた。あとでそれを家の者が笑つて話したとき、吉田は家の者にもやはりそんな気があるのぢやないかと思つて、もうちよつとその魚を大きくしてやる必要があると云つて(にく)まれ口を叩いたのだが、吉田はそんなものを飲みながらだんだん死期に近づいてゆく娘のことを想像すると堪らないやうな憂鬱な気持になるのだつた。そしてその娘のことについてはそれ切りで吉田はこちらの田舎の住居の方へ来てしまつたのだつたが、それからしばらくして吉田の母が弟の家へ行つて来たときの話に、吉田は突然その娘の母親が死んでしまつたことを聞いた。それはそのお婆さんが或る日(あが)(かまち)から座敷の長火鉢の方へあがつて行きかけたまま脳溢血かなにかで死んでしまつたといふので非常にあつけない話であつたが、吉田の母親はあのお婆さんに死なれてはあの娘も一遍に気を落してしまつただらうとそのことばかりを心配した。そしてそのお婆さんが平常あんなに見えてゐても、その娘を親爺さんには内証で市民病院へ連れて行つたり、また娘が寝た切りになつてからは(ひそか)に薬を貰ひに行つてやつたりしたことがあるといふことを、あるときそのお婆さんが愚痴話に吉田の母親をつかまへて話したことがあると云つて、やはり母親は母親だといふことを云ふのだつた。吉田はその話には非常にしみじみとしたものを感じて平常のお婆さんに対する考へもすつかり変つてしまつたのであるが、吉田の母親はまた近所の人の話だと云つて、そのお婆さんの死んだあとは例の親爺さんがお婆さんに代つて娘の面倒をみてやつてゐること、それがどんな工合にいつてゐるのか知らないが、その親爺さんが近所へ来ての話に「死んだ婆さんは何一つ役に立たん婆さんやつたが、ようまああの二階のあがり下りを一日に三十何遍もやつたもんやと思うてそれだけは感心する」と云つてゐたといふことを吉田に話して聞せたのだつた。

 そしてそこまでが吉田が最近までに聞いてゐた娘の消息だつたのだが、吉田はそんなことをみな思ひ出しながら、その娘の死んで行つた淋しい気持などを思ひ()つてゐるうちに、不知不識(しらずしらず)の間にすつかり自分の気持が頼りない変な気持になつてしまつてゐるのを感じた。吉田は自分が明るい病室のなかにゐ、そこには自分の母親もゐながら、何故か自分だけが深いところへ落ち込んでしまつて、そこへは出て行かれないやうな気持になつてしまつた。

「矢張り吃驚(びつくり)しました」

 それからしばらく経つて吉田はやつと母親にさう云つたのであるが母親は、

「さうやろがな」

 (かへ)つて吉田にそれを納得さすような口調でさう云つたなり、別に自分がそれを云つたことについては何も感じないらしく、またいろいろその娘の話をしながら最後に、

「あの娘はやつぱりあのお婆さんが生きてゐてやらんことには、——あのお婆さんが死んでからまだ二た月にもならんでなあ」と嘆じて見せるのだつた。

 

     三

 

 吉田はその娘の話からいろいろなことを思ひ出してゐた。第一に吉田が気付くのは吉田がその町からこちらの田舎へ来てまだ何ヶ月にもならないのに、その間に受けとつたその町の人の誰かの死んだといふ便りの多いことだつた。吉田の母は月に一度か二度そこへ行つて来る度に必ずそんな話を持つて帰つた。そしてそれは大抵肺病で死んだ人の話なのだつた。そしてその話をきいてゐるとそれらの人達の病気にかかつて死んで行つたまでの期間は非常に短かかつた。ある学校の先生の娘は半年ほどの間に死んでしまつて今はまたその息子が寝ついてしまつてゐた。通筋(とほりすぢ)の毛糸雑貨屋の主人はこの間まで店へ据ゑた毛糸の織機で一日中毛糸を織つてゐたが、急に死んでしまつて、家族が直ぐ店を畳んで国へ帰つてしまつたそのあとは直きカフェーになつてしまつた。——

 そして吉田は自分は今はこんな田舎にゐてたまにそんなことをきくから、いかにもそれを顕著に感ずるが、自分がゐた二年間といふ間もやはりそれと同じやうに、そんな話が実に数知れず起つては消えてゐたんだといふことを思はざるを得ないのだつた。

 吉田は二年ほど前病気が悪くなつて東京の学生生活の延長からその町へ帰つて来たのであるが、吉田にとつてはそれは殆どはじめての意識して世間といふものを見る生活だつた。しかしさうはいつても吉田は、いつも家の中に引込んでゐて、そんな知識といふものは大抵家の者の口を通じて吉田にはいつて来るのだつたが、吉田はさつきの荒物屋の娘の目高のやうに自分にすすめられた肺病の薬といふものを通じて見ても、さういふ世間がこの病気と戦つてゐる戦の暗黒さを知ることが出来るのだつた。

 最初それはまだ吉田が学生だつた頃、この家へ休暇に帰つて来たときのことだつた。帰って来て匆々(さうさう)吉田は自分の母親から人間の脳味噌の黒焼を飲んでみないかと云はれて非常に嫌な気持になつたことがあつた。吉田は母親がそれをおづおづでもない一種変な口調で云ひ出したとき、一体それが本気なのかどうなのか、何度も母親の顔を見返すほど妙な気持になつた。それは吉田が自分の母親がこれまで滅多にそんなことを云ふ人間ではなかつたことを信じてゐたからで、その母親が今そんなことを云ひ出してゐるかと思ふと何となく妙な頼りないやうな気持になつて来るのだつた。そして母親がそれをすすめた人間から既に少しばかりそれを貰つて持つてゐるのだといふことを聞かされたとき吉田は全く嫌な気持になつてしまつた。

 母親の話によるとそれは青物を売りに来る女があつて、その女といろいろ話をしてゐるうちにその肺病の特効薬の話をその女がはじめたといふのだつた。その女には肺病の弟があつてそれが死んでしまつた。そしてそれを村の焼場で焼いたとき、寺の和尚(をしやう)さんがついてゐて、

「人間の脳味噌の黒焼はこの病気の薬だから、あなたも人助けだからこの黒焼を持つてゐて、()しこの病気で悪い人に会つたら()けてあげなさい」

 さう云つて自分でそれを取出して呉れたといふのであつた。吉田はその話のなかから、もう何の手当も出来ずに死んでしまつたその女の弟、それを葬らうとして焼場に立つてゐる姉、そして和尚と云つても何だか頼りない男がそんなことを云つて焼け残つた骨をつついてゐる焼場の情景を思ひ浮べることが出来るのだつたが、その女がその言葉を信じてほかのものではない自分の弟の脳味噌の黒焼をいつまでも身近に持つてゐて、そしてそれをこの病気で悪い人に会へば呉れてやらうといふ気持には、何かしら堪へ難いものを吉田は感じないではゐられないのだつた。そしてそんなものを貰つてしまつて、大抵自分が()まないのはわかつてゐるのに、そのあとを一体どうする積りなんだと、吉田は母親のしたことが取返しのつかないいやなことに思はれるのだつたが、傍にきいてゐた吉田の末の弟も

「お母さん、もう今度からそんなこと云ふのん(いや)でつせ」

 と云つたので何だか事件が滑稽になつて来て、それはそのままに(けり)がついてしまつたのだつた。

 この町へ帰つて来てしばらくしてから吉田はまた首縊(くびくく)りの繩を「まあ馬鹿なことやと思うて」()んでみないかと云はれた。それをすすめた人間は大和(やまと)塗師(ぬしや)をしてゐる男でその繩をどうして手に入れたかといふ話を吉田にして聞かせた。

 それはその町に一人の鰥夫(やもを)の肺病患者があつて、その男は病気が(おも)つたまま殆ど手当をする人もなく、一軒の(あば)ら家{や}に捨て置かれてあつたのであるが、たうとう最近になつて首を(くく)つて死んでしまつた。するとそんな男にでもいろんな借金があつて、死んだとなるといろんな債権者がやつて来たのであるが、その男に家を貸してゐた大家がそんな人間を集めてその場でその男の持つてゐたものを競売にして後仕末をつけることになつた。ところがその品物のなかで最も高い値が出たのはその男が首を縊つた繩で、それが一寸二寸といふ風にして買ひ手がついて、大家はその金でその男の簡単な葬式をしてやつたばかりでなく自分のところの(とどこほ)つてゐた家賃もみな取つてしまつたといふ話であつた。

 吉田はそんな話を聞くにつけても、さういふ迷信を信じる人間の無智に馬鹿馬鹿しさを感じない訳に行かなかつたけれども、考へてみれば人間の無智といふのはみな程度の差で、さう思つて馬鹿馬鹿しさの感じを取除いてしまへば、あとに残るのはそれらの人間の感じてゐる肺病に対する手段の絶望と、病人達の何としてでも自分のよくなりつつあるといふ暗示を得たいといふ二つの事柄なのであつた。

 また吉田はその前の年母親が重い病気にかかつて入院したとき一緒にその病院へついて行つてゐたことがあつた。そのとき吉田がその病舎の食堂で、何心なく食事した後盆槍(ぼんやり)と窓に映る風景を眺めてゐると、いきなりその眼の前へ顔を近付けて、非常に押殺した力強い声で、

「心臓へ来ましたか?」

 と耳打をした女があつた。はつとして吉田がその女の顔を見ると、それはその病舎の患者の附添に雇はれてゐる附添婦の一人で、勿論そんな附添婦の顔触にも毎日のやうに変化はあつたが、その女はその頃露悪的な冗談(じようだん)を云つては食堂へ集つて来る他の附添婦たちを牛耳(ぎうじ)つてゐた中婆さんなのだつた。

 吉田はさう云はれて何のことかわからずにしばらく相手の顔を見てゐたが、直ぐに「あゝ成程」と気のついたことがあつた。それは自分がその庭の方を眺めはじめた前に、自分が咳をしたといふことなのだつた。そしてその女は自分が咳をしてから庭の方を向いたのを勘違ひして、てつきりこれは「心臓へ来た」と思つてしまつたのだと吉田は悟ることが出来た。そして咳が不意に心臓の動悸(どうき)を高めることがあるのは吉田も自分の経験で知つてゐた。それで納得の行つた吉田ははじめてさうではない(むね)を返事すると、その女はその返事には委細かまはずに、

「その病気に利くええ薬を教へたげまひよか」

 と、また脅かすやうに力強い声でぢつと吉田の顔を覗き込んだのだつた。吉田は一にも二にも自分が「その病気」に見込まれてゐるのが不愉快ではあつたが、

「一体どんな薬です?」

 と素直に聞き返してみることにした。するとその女はまたこんなことを云つて吉田を閉口させてしまふのだつた。

「それは今此処で教へてもこの病院では出来まへんで」

 そしてそんな物々しい駄目をおしながらその女の話した薬といふのは、素焼の土瓶へ鼠の仔を捕つて来て入れてそれを黒焼にしたもので、それをいくらか(づつ)か極く少ない分量を飲んでゐると、「一匹食はんうちに」癒るといふのであつた。そしてその「一匹食はんうちに」といふ表現でまたその婆さんは可怕(こは)い顔をして吉田を(にら)んで見せるのだつた。吉田はそれですつかりその婆さんに牛耳られてしまつたのであるが、その女の自分の咳に敏感であつたことや、そんな薬のことなどを思ひ合せてみると、吉田はその女は附添婦といふ商売柄ではあるが、きつとその女の近い肉親にその病気のものを持つてゐたのにちがひないといふことを想像することが出来るのであつた。そして吉田が病院へ来て以来最もしみじみした印象をうけてゐたものはこの附添婦といふ寂しい女達の群のことであつて、それらの人達はみな単なる生活の必要といふだけではなしに、夫に死別れたとか年が寄つて養ひ手がないとか、どこかにさうした人生の不幸を烙印(らくいん)されてゐる人達であることを吉田は観察してゐたのであるが、あるひはこの女もさうした肉親をその病気で、なくすることによつて、今こんなにして附添婦などをやつてゐるのではあるまいかといふことを、吉田はそのときふと感じたのだつた。

 吉田は病気のためにたまにかうした機会にしか直接世間に触れることがなかつたのであるが、そしてその触れた世間といふのはみな吉田が肺病患者だといふことを見破つて近付いて来た世間なのであるが、病院にゐる一と月ほどの間にまた別なことに()つかつた。

 それは或る日吉田が病院の近くの市場へ病人の買物に出かけたときのことだつた。吉田がその市場で用事を足して帰つて来ると往来に一人の女が立つてゐて、その女がまじまじと吉田の顔を見ながら近付いて来て、

「もしもし、あなた失礼ですが…… 」

 と吉田に呼びかけたのだつた。吉田は何事かと思つて、

「?」

 とその女を見返したのであるが、そのとき吉田の感じてゐたことは多分この女は人違ひでもしてゐるのだらうといふことで、さういふ往来のよくある出来事が大抵好意的な印象で物分れになるやうに、このときも吉田はどちらかと云へば好意的な気持を用意しながらその女の云ふことを待つたのだつた。

「ひよつとしてあなたは肺がお悪いのぢやありませんか」

 いきなりさう云はれたときには吉田は少なからず驚ろいた。しかし吉田にとつて別にそれは珍らしいことではなかつたし、無躾(ぶしつけ)なことを聞く人間もあるものだとは思ひながらも、その女の一心に吉田の顔を見つめるなんとなく知性を欠いた顔附から、その言葉の次にまだ何か人生の大事件でも飛出すのではないかといふ気持もあつて、

「ええ、悪いことは悪いですが、何か …… 」

 と云ふと、その女はいきなりとめどもなく次のやうなことを云ひ出すのだつた。それはその病気は医者や薬では駄目なこと、やはり信心をしなければ到底助かるものではないこと、そして自分も配偶(つれあひ)があつたがたうとうその病気で死んでしまつて、その後自分も同じやうに悪かつたのであるが信心をはじめてそれでたうとう助かることが出来たこと、だからあなたも是非信心をして、その病気を癒せ——といふことを縷々(るる)として述べたてるのであつた。その間吉田は自然その話よりも話をする女の顔の方に深い注意を向けないではゐられなかつたのであるが、その女にはさういふ吉田の顔が非常に難解に映るのかさまざまに吉田の気を(はか)つてはしかも非常に執劫(しつえう)にその話を続けるのであつた。そして吉田はその話が次のやうに変つて行つたとき成程これだなと思つたのであるが、その女は自分が天理教の教会を持つてゐるといふことゝ、そこでいろんな話をしたり祈祷(きたう)をしたりするから是非やつて来てくれといふことを、帯の間から名刺とも云へない所番地をゴム版で刷つたみすぼらしい紙片を取出しながら、吉田にすすめはじめるのだつた。丁度その時一台の自動車が来かかつてブーブーと警笛を鳴らした。吉田は早くからそれに気がついてゐて、早くこの女もこの話を切り上げたらいいことにと思つて道傍へ寄りかけたのであるが、女は自動車の警笛などは全然注意には入らぬらしく、(かへ)つて自分に注意の薄らいで来た吉田の顔色に躍起になりながらその話を続けるので、自動車はたうとう往来で立往生をしなければならなくなつてしまつた。吉田はその話相手に捕まつてゐるのが自分なので体裁の悪さに途方に暮れながら、その女を促して道の片脇へ寄せたのであつたが、女はその間も他へ注意をそらさず、さつきの「教会へ是非来てくれ」といふ話を急にまた、「自分は今からそこへ帰るのだから是非一緒に来てくれ」といふ話に進めかゝつてゐた。そして吉田が自分に用事のあることを云つてそれを断わると、では吉田の住んでゐる町を何処だと()いて来るのだつた。吉田はそれに対して「大分南の方だ」と曖昧(あいまい)に云つて、それを相手に教へる意志のないことをその女にわからさうとしたのであるが、するとその女はすかさず「南の方の何処、××町の方かそれとも○○町の方か」といふ風に退引(のつぴき)のならぬやうに聞いて来るので、吉田は自分のところの町名、それからその何丁目といふやうなことまで、だんだんに云つて行かなければならなくなつた。吉田はそんな女にちつとも嘘を云ふ気持はなかつたので、そこまで自分の住所を打ち明かして来たのだつたが、

「ほ、その二丁目の? 何番地?」

 といよいよその最後まで同じ調子で追求して来たのを聞くと、吉田はにはかにぐつと(しやく)にさはつてしまつた。それは吉田が「そこまで云つてしまつてはまたどんな五月蠅(うるさ)いことになるかもしれない」といふことを急に自覚したのにもよるが、それと同時にそこまで退引のならぬやうに追求して来る執劫な女の態度が急に重苦しい圧迫を吉田に感じさせたからだつた。そして吉田はうつかりカツとなつてしまつて、

「もうそれ以上は云はん」

 と(きつ)と相手を(にら)んだのだつた。女は急にあつけにとられた顔をしてゐたが、吉田が(あわ)ててまた色を収めるのを見ると、それでは是非近々教会へ来てくれと云つて、さつき吉田がやつてきた市場の方へ歩いて行つた。吉田は、とにかく女の云ふことはみな聞いたあとで温和(おとな)しく断つてやらうと思つてゐた自分が、思はず知らず最後まで追ひつめられて、急に慌ててカツとなつたのに自分ながら半分は可笑(をか)しさを感じないではゐられなかつたが、まだ日の光の新らしい午前の往来で、自分がいかにも病人らしい悪い顔貌(がんばう)をして歩いてゐるといふことを思ひ知らされた揚句、あんな重苦しい目をしたかと思ふと半分は腹立たしくなりながら、病室へ帰ると_々、

「そんなに悪い顔色かなあ」

 と、いきなり鏡を取り出して顔を見ながら寝台の上の母にその顛末(てんまつ)を訴へたのだつた。すると吉田の母親は、

「なんのお前ばつかりかいな」

 と云つて自分も市営の公設市場へ行く道で何度もそんな目に会つたことを話したので、吉田はやつとその訳がわかつて来はじめた。それはそんな教会が信者を作るのに躍起になつてゐて、毎朝そんな女が市場とか病院とか人のたくさん寄つて行く場所の近くの道で網を張つてゐて、顔色の悪いやうな人物を物色しては吉田にやつたのと同じやうな手段で何とかして教会へ引張つて行かうとしてゐるのだといふことだつた。吉田はなあんだといふ気がしたと同時に自分等の思つてゐるよりは(はる)かに現実的なそして一生懸命な世の中といふものを感じたのだつた。

 

 吉田は平常よく思ひ出すある統計の数字があつた。それは肺結核で死んだ人間の百分率で、その統計によると肺結核で死んだ人間百人についてそのうちの九十人以上は極貧者、上流階級の人間はそのうちの一人にはまだ足りないといふ統計であつた。勿論これは単に「肺結核によつて死んだ人間」の統計で肺結核に対する極貧者の死亡率や上流階級の者の死亡率といふやうなものを意味してゐないので、また極貧者と云つたり上流階級と云つたりしてゐるのも、それがどの位の程度までを指してゐるのかはわからないのであるが、しかしそれは吉田に次のやうなことを想像せしめるには充分であつた。

 つまりそれは、今非常に多くの肺結核患者が死に急ぎつつある。そしてそのなかで人間の望み得る最も行き届いた手当をうけてゐる人間は百人に一人もない位で、そのうちの九十何人かは殆ど薬らしい薬ものまずに死に急いでゐるといふことであつた。

 吉田はこれまでこの統計からは単にさういふやうなことを抽象して、それを自分の経験したさういふことにあてはめて考へてゐたのであるが、荒物屋の娘の死んだことを考へ、また自分のこの何週間かの間うけた苦しみを考へるとき、漠然とまたかういふことを考へないではゐられなかつた。それはその統計のなかの九十何人といふ人間を考へてみれば、そのなかには女もあれば男もあり子供もあれば年寄もゐるにちがひない。そして自分の不如意や病気の苦しみに力強く堪へてゆくことの出来る人間もあれば、そのいづれにも堪へることの出来ない人間も随分多いにちがひない。しかし病気といふものは決して学校の行軍のやうに弱いそれに堪へることの出来ない人間をその行軍から除外してくれるものではなく、最後の死のゴールへ行くまではどんな豪傑でも弱虫でもみんな同列にならばして嫌応なしに引摺(ひきず)つてゆく——といふことであつた。

──昭和七年一月──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/06/12

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梶井 基次郎

カジイ モトジロウ
かじい もとじろう 小説家 1901・2・17~1932・3・24 大阪市西区に生まれる。32歳で夭折の天才として、透徹した表現力が讃歎されてきた。

掲載作は、1932(昭和7)年1月「中央公論」に初出の事実上の絶筆であり、現世に足を置いたいわば臨死体験の一種とみるとき、「のんきな」という言い方が強い意義を帯びて迫ってくる。