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沖見茶屋

 一  黒い流れ

 

 風がそよいだ。甘い香りがする。

 耀子は「木犀の花」と、呟いた。

 家の軒下に小学生の耀子の背丈より高い木が二、三本植えられている。入口に近い木の細っそりした葉のつけ根というつけ根に、小指の先端ほどの小さな花がびっしりと咲いていて、甘美な香りを風に乗せてくる。

「これは木犀という木だ。二種類あって白い花が咲くのを銀木犀、橙色の花のほうは、金木犀というのだよ」

 木の名は、二、三日前、父から教わった。

 耀子の父は、シンガポールから帰ってきたばかりで耀子はまだちょっとよそよそしくて、頷いたまま黙っていた。

 長くシンガポールに住んでいた父は、第二次世界大戦が始まると、身辺の危険を逃れて帰国してきたのだ。

 耀子たち一家はシンガポールから、父より二年早く引き揚げてきていた。

 父の帰国で、一家は兄の映も入れて、三回に分けて日本に帰ってきたことになる。

 耀子は、木犀という木の名ばかりか、まだ日本内地のことをあまり知ってはいなかった。

 

 戦争前のしばらく平穏だった時代、一家はシンガポールでとりたてて貧しくもなくそれほど贅沢でもなく、普通に暮らしていた。母はいつだったか、台所で玉ネギを剥くのを手伝う耀子に話してくれたことがある。「東京で世話してくれた人がいて、父さんと結婚したとき、父さんはもう、四十四歳だったのよ」

「ふーん、母さんより何歳年上なの」

「十八」

「えっ、そんな年上の人となぜ結婚したの」

「やさしい人だなって思ったの。それにちょっといい男でしょう。わたしも再婚だったしね。で、年の違わない義理の娘もいたのよ」

 母は目も鼻も口までもくしゃっと真ん中に寄せて笑った。母は、小学生の耀子に、大人にするような話でもあっけらかんと話して聞かせた。父もいろんな話をしてくれた。初めて聞くものが多くて珍しく興味はつきなかったが、忙しくて中断するので、「父さんの話」をお願い、と言って、耀子は聞きたがった。

「ぼくは九歳からの徒弟修行で理髪の技を身につけた。母親が五歳のとき、父親は八歳のときに死んじゃったのだからなあ」

 父親が、母親の死後、自分のために再婚したのを知っていたから、父は、義母と生まれたばかりの義妹を放ってもおけず、床屋になろうと決心する。明治の半ば過ぎのことで村でも男たちは髷を切りに床屋に集まり、断髪と整髪で、じゅうぶん繁盛していたという。

 九歳の父は、身長が足りないので朴歯の高下駄を履いて徒弟修行を続けたのだとおかしそうに話した。

「一丁前になってからは、鋏と剃刀を持って台湾や南洋の島々を渡り歩いたんだ」

 母と結婚してシンガポールに移住した父はミドルロードに理髪店を開くことができた。

 母も客の髭剃りぐらいは手伝っていた。

 耀子が外から帰り、店のドアを軽く押して入ると、涼しいトニックの香りが全身を包み込む。深呼吸をしながら、にっこりして「ただいま」と大声を出してしまう。この別世界が耀子には大のお気に入りだった。

 父はさらに小さなホテルのマネージャーの職を得ると、そのホテルにも店を持って忙しく働いた。

 まだ末の子は生まれていなくて、小さい昌子は甘えて店でも母に纏わりついていた。

 耀子は幼いころから、いつも二歳違いの映の後ろにくっついて歩いた。

 日本人小学校に上がってからも、耀子は、自分の同級生よりも映の友達と親しんだ。

 どこに行くにも小走りで繋がっていた。

「お兄ちゃん、きょうはチッカセイビンと遊ぶのでしょ」

 チッカセイビンとは竹下正敏を音読みしたものだとはずっと後になって知った。チッカセイビンも映と同じように温和で、耀子をほんとうの妹のように甘えさせてくれた。映はデンキエイだ。「田崎映」はタザキアキラなのに音読みをしてデンキエイとなる。木登りや、危ない一本橋渡りなどをさせてくれた。目が丸く顔も丸いお盆のようだったチッカセイビンのことはいまでも克明に覚えている。耀子たちの理髪店から二軒隣のスポーツ店の一人息子で、勉強がよくできた。

 それから薩摩屋のリュウちゃん。高いセメントの塀に囲まれたホテルの一人息子だ。ソラマメのようにしゃくれた顔も、体も、痩せていて体が小さく少し気難しかった。

 庭にはヴワチックの実が生っていた。形も皮の色もキウイに似ているが、白い半透明な果肉は皮を剥ぐそばから甘い汁を滴らせた。

 そのリュウちゃんのホテルの庭で、太い木を抜いたことがある。大勢の人が集まって幹に巻きつけた綱を引っ張っていた。そのとき、周りを駆け回っていた犬が、突然、綱を引く人に飛びつき咬みついたのだ。強い日射しでできた濃い影が動くのを見て興奮したのだろう。

 群集の中で大声を上げ助けを求めたのは、映だった。土の上に咬みちぎられた肉片と血が飛び散っていて、耀子は大泣きをしたのに、映は泣き声を上げては、いなかった。茫然自失していたのかもしれない。知らせで飛んできた父に背負われて病院へ行った。成人してからも、その傷痕は、右の膨ら脛を深く刳ってそのまま残った。

 映とのいちばん古い思い出は黒い川の流れだ。四歳か五歳になっていた。暗闇のなか、ひたひたと続く物音で耀子は目を覚ました。何だろうと、恐ろしくて泣きだしそうになったとき、耀子、と低く呼ぶ声がした。

「耀子、ここへ来て下を見てごらん」

 お兄ちゃんだ。窓のそこだけ薄明るい。カーテンの向こうの鎧戸が少し開けられていた。

 二階の窓から下を覗くとそこに黒い川が流れていた。

 明けきらない街路の暗がりに水面を光らせて川はひたひたひたひたと流れる。黒い流れは小さな波を立てながら過ぎて行く。漣と見えたのは暁闇に射している曙光が、移動する獣の背や四肢に届いた微かな反射だった。

「あれはカンビンの列だ」

「カンビン?」

「うん、羊だよ、ほら、マレー語でカンビン」

 川の流れのような黒い羊の群れは、一声も鳴かず足早に切れ目なく、長い時間続いた。

「この羊たちはたぶん、オーストラリアから来たんだ。きっと屠殺されるよ」

「トサツ?」

「殺されるのだよ。肉になって人に食べられるのさ」

「嫌っ」

 耀子は固く目を瞑った。マレー人の子どもたちが歌う童謡を、呪文のように唱えた。

 ウジャン ラッタン カンビン ラリー。

 (雨が降ってきた、ほら、カンビンが逃げていく)

 眼下を通り過ぎていくカンビンたちも早くお逃げ……。

 耀子は映と顔を見合わせた。お兄ちゃんの目を見つめた。いつのまにか手を繋いでいて握り締めた二人の手は汗ばんでいた。

 

 二  カンビン・ラリー

 

 中国との軋轢が戦争に発展してシンガポールの日本人たちが不安を感じ始めているなかで、小学五年生になる映は一人、日本内地の小学校、和歌山県新宮市の学校に転校した。

 「シンガポールには日本人中学校(旧制)がないから仕方ないよね。中学の受験準備をしなきゃならないもの、な」

「新宮の、父さんの遠縁の高本のおじさんが預かってくれることになってよかったねえ、安心だよ」

 父と母は代わりあって、息子に話しかけた。

 船便も、ちょうど和歌山へ帰国する知り合いに頼んで連れていってもらえることになっている。耀子は三年、昌子も新一年生になる春休み、家族で映の送別会をした。

「おまえ、医者になりたいんだろ。だったら寂しくても我慢できるよね。医学専門学校へ進むためだからなあ」

 父は息子にというより、自分に言い聞かせるような口ぶりで話しかけた。母は強い調子で続けた。

「映は男でしょう。新宮のおじさんは父さんの親戚だし、寂しくなんかないよね。一所懸命勉強しないと医者にはなれないのだからね、ほら、明るい顔して」

 映はなんとも答えず曖昧な笑顔を見せているが明るい顔とは言えなかった。

 医者にさせたいのは母さんじゃないか。お兄ちゃんは嫌なのでしょう。嫌に決まっているじゃない。耀子は、お兄ちゃんが隠れて泣いているの、見たんだから。嫌なら嫌だっていえばいいのに……。耀子は泣き声をあげそうになって、母の作った巻き鮨を口の中にいくつも無理に押し込んだ。胸が詰まって吐きそうになるのをこらえて、手洗いに駆け込んだ。鳴咽と一緒に何度も吐いた。口と顔を洗えば洗うほど涙が溢れてくる。

 明日、お兄ちゃんは行ってしまう。

 耀子は、あのカンビンの群れを思い出した。

 映と繋いだ汗ばんだ手。羊の群れは黒い流れとなって漣を鈍く光らせて過ぎていく。

 ウジャン ラッタン カンビン ラリー。

 カンビンの群れのなかに黒い羊になったお兄ちゃんがいる。お兄ちゃん、早く逃げて。

「あのカンビン、きっと屠殺されるんだ」って言ったでしょ。殺されるんだよ、逃げて。

 耀子は映と楽しく遊んた日々を思って、頬を濡らした。

 映が日本に向かった日から毎日、お兄ちゃんの手紙を待ちわびた。

 それは「拝啓、耀子は元気か。ぼくも元気だよ。勉強しろよ」というなんの愛想もないものだったが、それでもうれしかった。

 何度目かの封筒のなかに、見たこともない赤い実が入っていた。それはカエデの実だとかかれてあった。父に聞いて「カエデってモミジのことだ」と、教えられた。

<秋の夕日に照る山もみじ>と学校の唱歌で習った、日本の紅葉の情景を想像してうっとりした。でも、耀子の知識ではまだ紅葉の秋には遠いはずなのに、この実はなぜ赤いのだろうと不思議だった。初夏に生ったカエデの実は、紅葉でなく初めから赤いのだと、これも父から聞いた。薄い実は手のひらを傾けるとひらひらと回りながら落ちていく。その動きがおもしろくて何度やっても飽きなかった。

 シンガポールにも赤い木の実があった。

 現地の人たちは「サガシード・ツリー」と呼ぶらしい。耀子たちが赤実の木と呼んだ高い木に大豆粒ほどの赤くて固い実が、長さ三十センチはある莢に入って生った。その木はシンガポールの開拓者、ラフルスの銅像がある広場を囲んで生えていた。手入れの行き届いた広い芝生に、黒く熟れた莢からはじけとんだ赤実はいくらでも落ちていた。耀子は、母や昌子たちと拾った赤実を五、六粒、返事に添えて映に送った。

 その実は母がお手玉にしてくれたり、おはじき遊びに使ったりしてよく遊んだ。が、赤実を拾ってはしゃぐ、父や母や昌子たちのピクニックのなかに、映の姿がないことに気づくと、耀子はひとりでに無口になってしまう。

 カエデの実以来、手紙は途絶えた。耀子はカエデの実を押し葉にして大切にとっておいたのを、ときどき取り出しては涙ぐんだ。

「耀子」と呼ぶお兄ちゃんの、鼻にかかった声を聞きたかった。

 それでも、うちにいて来年、夏に生まれる赤ん坊の準備をする母の、台所仕事などを手伝っていると、自然にカエデの実を眺める回数が減り、少しずつ兄の影も薄らいでいった。

 外に出て遊ばなくなった耀子は、学校から帰ると家の三階に上がって『大衆文学全集』を隠れて読んだ。『木賊(とくさ)の秋』や『照る日曇る日』などを読み耽った。総ふりがなつきだったから、耀子にも読めた。意味がわからないのは、母にとぼけて聞いた。この子はこのごろ変なことばかり言うねえ、と何度もばれそうになって肝を冷やした。けれども母の忙しさに紛れて追求は免れることができた。

 映が日本に帰ってから戦局はどんどん広がって、在留邦人の生活にまで、不安の翳り、身の危険が、色濃く見えてきた。

「たいへんだ。山口くんがやられたよ」

 外から帰った父の話では、知り合いの山口さんが人力車に乗ったら、どこかへ連れ去られて鼻と片耳を剃刀で削ぎ落とされそうになり、皮膚一枚を危うく残して帰されたという。人力車の車夫は中国系らしいと、囁かれた。

 今年のお正月に、耀子の家で注連縄のお飾りをしていたら、橙の代わりに使ったマンダリン・オレンジも注連縄も、引きちぎられて、玄関のポーチに踏みにじられていた。他の家もそうだったという。それは二、三軒だけではなかったらしい。日が経つほど日本人への嫌がらせがひどくなるようだった。日本人小学校へは集団で登校するか、父兄に付き添われてくるようにと、学校から指示が出た。帰りも地区ごとに塊って帰った。

 M商社の社宅に住んでいる子は、会社の車で送迎してもらっていた。

 父は映の勉強の邪魔になるといって、自宅にラジオを置かなかった。映が日本に帰ってからも、ずっとそうしていた。朝になると新聞を持ち、近所の今川焼屋へ行ってラジオを聞かせてもらっていた。ニュースを聞いては、母と低声で話し合う日がつづき「父は残って、母と子どもたちだけで引き揚げよう」と決めたようだった。四月の昌子や耀子の進級と七月の母の出産を待っての、慌ただしい帰国だった。生まれたのは女の子で父は幸子と名付けた。

「父さんはなぜ帰らないの、一緒に行きたいよう。お兄ちゃんだって待ってるよ、きっと」

 耀子は泣きながら、不安と不満をごちゃまぜにして母にぶつけた。

「生活のためなのよ。父さんには感謝しなくてはね、お金を送ってくださるのですよ」

 母はうきうきした声で耀子に答える。

 父を置いて帰国すれば、父と離れて暮らさなければならないのに何がうれしいのだろう、と、耀子は母の上機嫌に腹を立てた。

 でも、お兄ちゃんに会える。

 

 三  海の人

 

 昭和十四年、耀子十歳、小学四年生の九月初め、父に見送られて乗船した。母と耀子、二歳違いの昌子と、十歳下の幸子の四人だ。そのとき幸子はまだ生後三十五日だった。

 二週間の船の生活はおもしろく、父のいない寂しさはだんだん紛れていった。

 この海は太平洋。見渡すかぎり海だ。島影ひとつ見えない。一日一回はスコールがやってきた。勢いよく降る雨を裸の体に浴びるのは、男の子たちの楽しみになった。強い雨に打たれて頭から雫を垂らし、唇の色が紫色に変わるころ雨は通り過ぎていった。

 海から太陽が出て海へ沈んだ。朝焼けの美しさに人々は歓声を上げ、夕暮れの壮大な太陽の輝きに声をのんだ。三百六十度全部、海に見とれていると、大きな海に吸い込まれそうになって目を閉じる。

 お兄ちゃん、こんな広い海を一人ぼっちで渡ったのね。寂しかっただろうなあ。

 夜に近く、空に宵の星たちがきらめきを強くしていくのを眺めていると、映と向き合っている気がした。母に「暗くなったら危ないから甲板に出たら駄目」といくら叱られても目を盗んでは、ちょっと覗いてみる、それだけでも気が済んだ。

 南シナ海を通過しているとき、ものすごい台風に遭遇してしまった。船が天に高く持ち上げられたかと思うと、今度は横に辷りながら海底に届くばかりに落下していく。

 甲板に打ち寄せる大波がハッチからどっと船室になだれ込んでくる。食堂では夕食の膳が、テーブルの上を右に走り、左に滑った。その度に床に落下した食器が大きな音を立てて割れた。それでも子どもたちは平気で、船が大揺れするのをおもしろがっていた。

 一晩じゅう、この波の翻弄が続いた。

 眠れないままにふっと、父の話してくれた「ご先祖さまの話」を思い出した。

——田崎の家は、昔は鯨捕りの網元だったんだ。二百年ほども前から鯨を捕っていたらしい。銛を打ち込んだ勇魚(いさな)(くじらをそう呼んだ)が苦しまないように、命綱を胴に巻きつけた勢子たちが何人かで止めを刺しにいく。田崎のご先祖さまも、鯨刀をこう、口にくわえて、勇魚が浮いてきたところへ、荒波をものともせずに抜き手を切って泳いでいったのだよ。

 父の得意そうな話しぶりを思い出すと、お店の大好きなコロンやトニックの匂いまで流れてくる気がした。

 あのとき、父が「だからぼくたち一族は海の人なんだ。みんな海に向かって飛び出すのだ」と遠くを見る目差しをしていたのも思い出した。海の人か、だから耀子も海が好き。

 耀子は大きく息を吸うと、ようやく眠りについた。

 明るくなっても大人たちは起きてこない。名前も知らないまますっかり仲よしになった子どもたちは甲板に上がった。まだ、台風の余波があって船は大きく傾く。その度に奇声を発してわざと蹌いてみせて、笑い合った。

 空にはもう、一片の雲もなく灼熱の陽射しが、船に吹きつけた潮水を乾燥させていた。子どもたちは壁やポールや手摺りにできた食塩を、指で擦り取っては舐めて歩いた。大冒険、大探検をしている気分で蹌きながら舐める塩は、何にも勝っておいしかった。

 母は生まれて日の浅い幸子にかかりっきりで、耀子は自由に遊ぶことができた。それでも、幸子の相手をしたり、お繦褓を畳んだりする手助けはさせられた。

 船内での入浴は家族ごとに浴室が使えた。浴槽から出かかる母に「タオルを取ってくるから抱いていて」と幸子を渡されたときだった。急に船体が傾き耀子の足が辷った。幸子を抱いたまま耀子は浴槽のなかに沈んでしまった。慌てて立とうとすればするほど、辷って立てない。やっと母の手にすがって助かった。ひどく叱られると思ったら、よく幸子を放さずにいてくれた、えらかったと褒められて変な気持ちだった。ぐったりして息の止まっていた幸子は、母がうつ伏せにして、胃のところを押すとずいぶん水を吐いた。浴槽の湯をたっぷり飲んでいたのだと思うと耀子は顔をそむけたくなった。水を全部吐くと、びっくりするような大きな声を出して泣きじゃくった。母も泣いた。母が子どものように声を上げて泣くのを耀子は初めて見た。幸子は泣きやむと裸の母の乳房にしがみつくようにして乳を吸い、小さな寝息を立て始めた。浴槽で耀子に赤ん坊を抱かせたことを父や他の人に言ってはならないと、耀子は母からきつく言い渡された。耀子はただひたすら幸子が死ななくてよかったと、心の底から神様にお礼を言い母の背中にバスタオルを広げ掛けた。

 船は台湾の基隆(キールン)港に三日間避難し、東シナ海を北上して玄海灘を横切り、ようやく門司に着いた。ここで乗客は一時、下船を許された。あと、神戸までの短い航路を残すだけだったが、陸地に足を下ろしてみんな安堵の色を浮かべていた。母はこのとき、土産物店で博多人形を買った。

 幼児の胸に赤い腹掛けをしている「這い這い人形」と言われるものだった。なぜ博多人形を買う気になったのか、母の気持ちを確かめたかった。しかし、なにか聞いてはいけない気がして、聞くことはできなかった。

 ふっくらと愛らしい顔を少し傾けた人形は、新宮の家の神棚に供えられてから、すっかり色が褪せてもずっと長いあいだ、飾り棚に置かれてあった。

 上陸した神戸の港や、そのあとの列車の旅はあまり覚えていない。きっと耀子が映に会うことに気をとられていたからかもしれない。

 ただ、紀勢西線はトンネルが多く、機関車から吐き出す煤煙が誰もかもの鼻腔を真っ黒にしていたのは忘れられない。

 

 四  ポールの妹

 

 一年半ぶりに会った映は、耀子から遠い人になっていた。口数が極端に少なくなり、いつも不機嫌だった。背丈が伸びて余所のお兄さんみたいだった。

 日本はせせこましくていかん、と、いつも嘆いていた父の言葉が、日を追ってわかってきた。

 小学五年生になったばかりで転校した映は「ポール」と呼ばれていたらしい。シンガポールのポールだが、愛称ではない。内地の水が合わず、体じゅうに乾癬が出たときには、「痒い痒い三年、また三年、治って三年、また三年」

 と、しつこくから揶揄(からか)われもしたという。

耀子が転校して、運動場へ出ると、

「あいつ、ポールの妹だってよ」

「へえ、ポールの妹、イモポールやんか」

 と、上級生の男の子が寄ってきた。

 くやしくて泣いた。

「あんなん放っとき。あんたの兄さんも転校してきたときは、えらい揶揄われとったで。なんにも悪いことせえへんのになあ。よく泣かされとったよ」

 四年二組に入って友達になったカオルが教えてくれた。

 一人ぼっちで日本に来て誰も友達がいないのに、揶揄うなんてひどいよ。シンガポールがなぜ悪いの。痒いボツボツだってなぜ揶揄うの。体じゆうにボツボツが出たら、痒くて痛くて辛いのに、そんな人をどうして嗤えるの。と、耀子は怒りで体を熱くして唇を、噛んだ。内地の人は意地悪だから嫌い。せせこましいってこんな人のことよ、と、父の言葉を噛み締めた。チッカセイビンや薩摩屋のリュウチャンが懐かしい。

 家に帰ってからそのことを話したかったけれど、映はますます暗く依固地になっていたから言いだしそびれて、耀子は黙っていた。お兄ちゃん、変わってしもうた。

 県立新宮中学校に入学すると、耀子との距離はもっと大きく開き、道で出会っても知らん顔をする。気がつかないのかと大声でお兄ちゃんと呼んだら、黙ったまま睨みつけて行ってしまった。家に帰ると耀子ちょっとと、映の部屋に呼ばれた。

「あのなあ、外では会うても声かけんといてくれ、わかったな」

 言葉つきまでも新宮弁になってよそよそしい。

「なぜ?お兄ちゃんに、お兄ちゃんって言うのが、どうしていけないの」

「どうしていけないの」

 映はさも馬鹿にしたように、耀子の口真似をする。

 耀子はあきれて映の目を見た。でも、その目はあのカンビンのときのように耀子の目と切り結ばない。お兄ちゃんじゃなくなったその目は落ち着きなく泳いでいた。

 映の制服はカーキー色の国民服に変わっていた。ステープル・ファイバーと言われる生地で作られたぺらぺらの服は、映にぴったり似合っている、と、耀子は映に向かって口を尖らせた。

 昭和十五年から、国内向けの綿製品の製造販売が禁止されたから、綿布は純綿と言われみんな、大事に使った。

「世の中暮らしにくうなった」と、言いながら、母は幸子を連れて食糧の買い出しに歩き回って帰ってきた。

 軍事教練の行軍で、何十キロも行進してきた映は、ひどく疲れているようすで体を洗うと倒れ込んでしまった。

 ようやく、三分粥ほどの薄い粥と、ジャガイモだけ塩で薄く味をつけたのを副食にした夕食が済んだ。母の買い出しの成果のジャガイモがあったのはご馳走なのだ。どの顔も満足していた。耀子も学校の畑作業に疲れ、後片付けを済ませるとすぐ眠ってしまった。

 どれくらい時間が経ったのだろうか。

 ふっと、人が激しく争う息づかいを感じた。母に誰かが組みついている。初めは誰かが母さんを殺しに来た、と思った。叫ぼうと思っても声が出ない。

「映、何をするの、早くお部屋へ戻りなさい。耀子や昌子が目を覚ましたらどうするの」

 母の押し殺した声がした。えっ、あれはお兄ちゃんなの……。

 母にしがみついている人はすすり泣いているようだ。

 起き上がった母は座ったまま、黒い人影を抱きしめながら、背中を撫でてやっていた。

 何がなんだかわからないまま、耀子はまた深い眠りに落ちた。

 翌朝、母も映も平気な顔だった。咋夜のあれは、夢だったのだろうか。でも、たしか母は、映と言っていた。お兄ちゃんらしい人影も見たように思う。でも夢を見ていたのだろうか。耀子には夢と現実の区別がつかなかった。

 その後、母は家事をしながら、その仕事とはなんの脈絡もない独り言を呟くことがあった。

「あれは親の情が足りなんだからや。うん、そうなのよ」

「えっ、何」

「いや、なんでもない」

 耀子にはそれ以上追求できない。

「十や、十一で放り出したんや、そりゃあ、寂しかったんやろ……」

 耀子はたびたび繰り返される、母のそんな独り言に戸惑いながら、きっとお兄ちゃんのことに違いない、あの夜のできごとは夢ではなかったのだと確信した。でも、あのとき、なぜお兄ちゃんは母さんのところにいたのだろう。なぜすすり泣きなんかしたのだろう、と気になった。映はますます不機嫌になった。

 耀子が転入した小学校は、千穂が峰というこぢんまりした山並みの麓にある。その山上には神倉神杜があって、二月の「お燈祭り」は勇壮なことで有名だ。白装束の男たちが縄の帯を締めて、白い手甲脚絆も勇ましく、燃える炬火を手に、手に、山の頂上から石段を駆けおり、熊野速玉神社まで市内の大通りを駆け抜ける。映は、中学に入って一度だけ参加した。家じゅうでわくわくして晴れがましい気分だった。が、映はにこりともせずいやいや参加していると言わんばかりの膨れっ面だった。耀子は、お兄ちゃんがまったくわからなくなった。

 

 千穂小学校は市内三校の中で、いちばん児童数が多かった。やたらに騒がしく言葉も荒く思えて、学校はあまりおもしろくなかった。欠席だけはしないで通学していたが、同じクラスのカオルの他に友達らしい友達はなかなかできなかった。

 

 五  熊野川

 

 学校にようやく慣れたころ、カオルに誘われて、カオルの友達と一緒に初めて熊野川へ泳ぎに行った。速玉神社の裏の道を河原に下りていくと、対岸が霞んで見えるほどの大きい川が熊野川だった。残暑の日射しが川波に反射して眩しかった。河口側に、対岸の三重県へ、汽車が黒い煙を吐き汽笛を鳴らして鉄橋を渡って行くのが見える。もう一本、道路橋が川上寄りに架かっていた。広く靄っている流れは熊野灘に注いでいる。熊野灘、玄界灘、太平洋と連想して、耀子は父を思い、早く帰ってきてまた「父さんの話」を聞かせて、と心の中で念じた。

 父からは機会を見て一度、帰国しようかと思っている。多分、年を越したら、と、手紙が来ていた。あと四か月、と口の中で呟く。

「父の話」が甦る。

——日本へ帰ると、新宮と三輪崎の町境に小高い峠がある。そこからは海が見渡せるのよ。沖までよく見えるそこに、うちら鯨組の「山見」を置いたらしい。山見というのは、鯨が来ないかと見張る高台でな、後に鯨を捕らなくなって、ぼくの曽祖母(ひいばば)様が峠の茶屋をひらいての。沖が見える茶屋やのって、「沖見茶屋」と言われたそうや。

 耀子はいつか「沖見茶屋」に行ってみたいと強く思った。

 

 耀子はまったく泳げなかった。みんなシュミーズ姿になると平気で川に入っていった。耀子も服を脱ぎ、こわごわ、水に足を入れる。うちは「海の人」族なのにと苦笑した。

 川が思っていたより大きかったので、恐ろしくそばに浮かんでいた筏にすがりついて足を動かした。新宮は木材の集散地だ。山奥から筏で川を下ってきていた。筏は広い面積を占めて川面に浮かんでいた。みんな、おもしろがって筏に腰かけたり、組まれた木材に掴まったりして足をばたつかせた。耀子も慣れてくると、大胆に銚び移ったりして、いろんな遊びを考えるのが楽しかった。筏があるから安心だった。

 もう日暮れに近くなってきた。最後にみんなでバタ足運動をして、気勢を上げてから終わりにしよう、とカオルが言った。全員、並んで筏に両手をかけ一斉にバタ足を始めた。水しぶきが顔にかかっても、もう恐いことはなかった。力の限り足を動かした。

 気がつくと、みんなの筏だけ、広い河口に向かって走っている。矢のような速さに思えて、みんなは「どうしよう」と、いままでの元気はなく、大声で助けてえと叫んだ。叫んでみて、事の重大さがわかり、五人の子どもたちは大声で泣きだした。しかし、泣けど叫べど誰もいなかった。

 海へ出てしまったらもう絶望だ。熊野灘の荒波に飲まれ、ばらばらに海に投げ出された光景を思うと、耀子は恐怖で震えだした。

「反対側からバタ足をしてみよう」

と言う、誰かの意見を入れて、一人ずつ慎重に川下側に位置を変え、一所懸命、足を動かしてみても、遡行できる力にはならない。河口の流れはものすごい力で押し流してくる。

 そのとき、河口に漁船が一隻、エンジン音を響かせて入ってくるのが見えた。みんなは出せるだけの声を出して船を呼んだ。船は夕日の輝きの中をまっすぐにやってきた。光を背にして黒い影になったおじさんが筏にロープを結んで曳航してくれ、やっと河原に着くことができた。みんなの手をとって下ろし、最後に筏から下りるときのおじさんの顔は、まともに夕日の光を浴びて赤く燃えているようだった。みんなは大声でお礼を述べた。

 すると、もっと大きな声が返ってきた。

「もう、絶対、筏に乗ったらあかんどう。()りゃ、死んでも自業自得やけど、材木は大きな損害やさけのう」

 暗さが急遠に広がる河原を急いで歩きながら、みんなは饒舌だった。

「真っ赤な顔しとって、あのおっちゃん、赤鬼やったなあ、大っきい声でどなりつけて」

「うん、おとろしい赤鬼じゃ」

「でも、助けてもろうてよかったあ、死ぬとこやったんやど」

「そうや。やっぱりあのおっちゃん、命の恩人や、悪口言うたらあかん」

 赤鬼という言葉で耀子は母を思い出した。

 こんなに遅くなったらきっと顔を真っ赤にして怒るにちがいない。母は耀子に、習い事を次々に勧めた。きょうの算盤屋はもう間に合わない。それに断るつもりの算盤屋だ。進んで行く気にはなれない。耀子は萎れて家に帰った。母はぐったりしている耀子を励ました。

「二百十日の台風が過ぎると、残暑が和らいで凌ぎやすくなるからね。お習字も算盤も休んだらお終いや。きょうは、おおぜいの友達と遊べたんやからしようがないけどな」

 どうやら怒られずに済んだ。筏のことは母に言わないでおこう、叱られるだけだ。

「明日は速玉さんにお参りやろ、早うご飯食べて、宿題したら寝なさい」

 

 毎月、一日を「東亜奉公日」といって、新宮では学生、生徒、児童が熊野権現・速玉神社に集まって、兵士の武運を祈る。

 日本じゅうが「紀元二千六百年奉祝」気分に覆いつくされた日がある。ラジオからは奉祝歌が流れ、小学生以上の子どもはその歌を歌って、日の丸の小旗を持ち市内を練り歩いた。西暦は千九百四十年だけれどもわが日本は皇紀二千六百年である。と、教えられた。みんな、「神国日本」を信じていただろう。

 生活物資が出回らなくなった。砂糖、マッチ、木炭などが切符制になって、人数割りで決まった量しか買えない。

 昭和十六年十二月八日、アメリカに宣戦布告をして、「第二次世界大戦」が始まった。

 耀子は六年生、昌子は四年生、幸子は二歳だった。中学二年生になった映は医学専門学校をめざして勉強していた

 母は「兄ちゃんの勉強の邪魔をしたらあかん」が口癖になり、みんなは「お腹空いた、何かない」が口癖だった。

 母は新宮に来てから何度も引っ越しをした。

 外地からの転入は珍しいらしく、人々は珍奇な目で一家を見ていたし、戦時下だったから借家も思いのままにはいかず、住みにくかったようだ。

 やがて、母はいままでより少し大きな家を見つけて買い取った。

 畑つきのその家は千円で買えたという。

「小学校の校長先生でも、給料は九十円ぐらいなんだって」

 昔は千円普請と言われて豪壮な家が建てられたのよ。などと父の送金のことに触れていたから、少しは貯金があったのだろう。

 新宮市下地(しもぢ)。その家の周りには畑が付いていて、風呂場と手洗い場が母家から離れて建っていた。玄関脇に木犀などの植え込みがあり、二畳の玄関の奥に八畳の座敷があり、大きな押し入れに並んで立派な床の間があった。隣が六畳の居間、玄関の間の横が六畳の茶の間、玄関を入って、三和土の向こうの仕切り戸を開けると、台所になっていた。

 母は朝早くから暗くなるまで、家の周りの小さな畑を耕していろんな野菜を育てた。幸子はおとなしくて、耀子がままごとを教えると畑の草や土で一人遊びをしていたから、母は助かるよと喜んでいた。

「野菜は畑で取れても、魚や肉は並ばないと買えんし、米は着物と交換になってしもうた」

 戦争が激しくなって食べるものが手に入りにくくなると、リンゴを幾箱も買ってきてご飯代わりに食べた。やがていくらお金を払っても物資は手に入らなくなる、どうしよう。

 母は映には遠慮して、耀子に相談事でも愚痴でも、みんなぶちまける。

 耀子も女学校の受験を控えているのに、映ばかりが気を遣ってもらっていて、と、不満だった。

 

 六  父よ、父

 

 落ち着きのない生活の中、それでも耀子は、県立新宮高等女学校にどうにか入学することができた。近くに丹鶴城址があり、帰りに寄り道したりした。制服は、セーラー服が禁止となり、白いカバーのついたヘチマ衿の上衣で、下衣はモンペという姿だった。

 女学生であっても、校庭の開墾や軍馬の飼料にする草を刈る作業が、「勤労奉仕」として割り当てられた。

 映たち中学生には、軍隊の教練が課せられて二年生以上は「夜間行軍」に参加しなければならなかった。木銃を担ぎ編み上げ靴にゲートルを巻いて、徹夜で四十キロ以上の道を行進し続ける。

 戦況が激しくなって食糧もなく、映の医専への受験は絶望的になった。受験準備も不足で傍目にも諦めざるを得ないだろうと思えた。

 学生の徴兵検査の年齢が引き下げられ、少年志願兵の募集が盛んになっている。新宮中学校の生徒は、兵庫県の造船所へ「勤労動員」され、映も荷物を担いで出かけることになる。

 年が明けて、日本は、凄い勢いで南方の島々を攻め取っていった。戦果は大きく報道され、学校の児童たちはアジアの地図に小さな日の丸の旗を貼って喜んだ。マレー半島を自転車で南下して、シンガポールに侵攻という新聞記事を読んだ。父はどうしているのだろう。父と話し合っている場面を想像してみる。

「父さん、シンガポールはどうなるの」

「日本軍はマレー半島を銀輪部隊で進軍してきているのだよ」

「自転車で?」

「あと五十里だ」

「自転車で進軍してきて、戦闘はどうなるの」

 父は答えない。耀子は父を思って気が気ではなく、自分は敵、味方、どちら側の人間なのか、こんがらがって混乱しているうちに、シンガポールは陥落して「昭南島」になった。

 父は軍属になったと知らせてきた。

 父を思って詩を書いた。

 作文の時間に書いて先生に出した。

 その詩が、全校朝礼のときに、校長先生の訓話の中で紹介されてしまい、耀子は顔が上げられなかった。

 

  シンガポールに危機迫る

 

 シンガポールに危機迫る

 父はあと五十里だと、言った

 わが故郷シンガポール

 人種の(るつぼ)シンガポール

 みんな無事でとわたしは祈る

 

 戦争賛歌として書いた意識はなく、どちらかと言えばひそかに逆の気持ち、父への思いを込めたのだ。

 山下奉文とパーシバルの会見で、「イエスか、ノーか」と、山下が追ったというエピソードが大きく報道され快挙ともてはやされる陰で、耀子は父の無事を願っていた。

 父からは、お国のために元気に働いていると、手紙がきた。母に聞くと、気がかりな送金も変わらず続いていた。月に一回、分厚い大衆雑誌『キング』のぺージの真ん中を、紙幣の大きさに切り抜いて、百円札を五枚潜ませたのが届いていたのだ。統制で自由に送金することはできなくなっていた。

 

 予告も何もなく、突然、父が帰国した。

 映は四学年になって動員され兵庫県にいた。映が勤労動員で留守だと聞くと、がっくりと肩を落とし寂しい表情を浮かべた。

「なんだ、映はいないのか」

 父の顔に落胆だけではない老いの影があった。父は四年間、家族に会っていない。映にいちばん会いたかったにちがいなかった。

「ずっと一緒に暮らせるといいのに。あちらは危険なのでしょう」

 耀子は内地暮らしを強く勧めた。父は曖昧に答えてはっきりしないまま、日曜日になると、みんなを先祖の墓参りに誘った。

 新宮から四キロの郊外にある三輪崎町。そこは父の生まれ故郷だ。父の家には、父の義妹、お順叔母の家族が住んでいる。その家に隣接して広い墓地があった。墓参を済ませると浜に下りていった。菩提寺の宝蔵寺の前の道をまっすぐに行き、坂を下ると夏場、海水浴客で賑わった砂浜が広がっている。戦争中では海で遊ぶ人もいないだろう。耀子は素足になって白く寄せる波と戯れた。初めて海を見た幸子は母にしがみついたまま、それでも母が一緒に海に入ってくれるのを喜んで、甘えた笑い声を立てている。波間に漂う海草を素早く拾う遊びをしようと、耀子は昌子を誘い、それを何度も繰り返した。親子五人揃っ

たのは何年ぶりだろう。耀子は甲高い調子はずれの笑い声を立てた。

 父はいつもの癖で、腰に両手の拳を当てて両足を広げ、胸を反らして家族の戯れるようすを、じっと見つめている。

 その日は、ふかしたサツマイモの弁当と、父のシンガポール土産の、イギリス製のビスケットと紅茶のお八つで、この上もなくうれしい昼食となった。ゆっくり時間をかけた食事のあいだ、父は、幸子を膝の上に乗せたくて、何度も抱きよせるのに、幸子は見慣れない父を嫌がって母を呼んだ。

「幸、幸子の大事な父ちゃんじゃないか。もうすぐまた、お別れになるのだから、抱っこしてもらいなさい」

「えっ、やっぱりシンガポールに行ってしまうの、父さん」

 耀子は父の背中に回って父の肩から首に両腕を回して揺さぶった。

「嫌だ、せっかく帰ってきたのに、なぜ行っちゃうの」

 目の奥がアイロンをかけられたように、熱くなった。傾きかけて柔らかくなった陽射しを蓄えた父の上着に顔を当てて甘えた。温い涙をその上着はいくらでもやさしく吸いとった。父そのものが吸いとってくれているようで、帰国以来、なんとなくしっくりしなかった父への懐かしさが耀子を締めつける。

 昌子がじっと見ているのに気がついて背中から離れた。昌子は父のそばまで寄っていき、父の手に肩を抱かれた。もう慣れて父の膝に乗っていた幸子が「いやん、あっちいけ」と、昌子を押した。

 夕方の浜風がときどき吹いてくる。父の揃えた革靴の上にも砂が音もなく吹き寄せた。

 砂浜に敷いた蓙にも砂が強く吹き、目を開けていられなくなった。母は、「さあ、みんな、立ちなさい。耀子、片付けて。昌子も手伝って」と、父と子のこの上もなく好もしい感情を、問答無用というように切り裂いた。

 月が出て、夜が来ていた。

 父は耀子の手をしっかりと繋いだ。もう片方は昌子の手をとっている。月の光が射す薄明かりのなか、砂をさくさくと踏み締めながら歌を歌った。「浜千鳥」だった。母は、眠ってしまった幸子をおぶって、後ろに従った。父と三人の声が波に吸い込まれていく。「浜千鳥」は父の愛唱歌だ。

 

 夜鳴く鳥の 悲しさは

 親を尋ねて 海越えて

 月夜の海に 消えてゆく

 濡れた翼の 銀の色

 

 父は一か月いて、再渡航することになった。

「お父さんはね、軍属なの。軍属って、兵隊さんじゃないけれど、軍隊の細々した御用を勤める役なんだって。それで、シンガポールで現地召集されて、通訳ができたし、いろいろ便利に役立っていたらしいのね。だからこんどの帰国は許されたらしいよ」

「でも、なぜまた、行かなんだらあかんの」

「現地召集といっても、召集は召集や。自由は利かへんのやろ。でも、内地で仕事に就くことができたら、そのまま帰国できるはずだったの。ところが雇ってくれる会社がなかったんや、あの年齢ではねえ」

 戦時下の内地に、六十歳の父が入り込める職場はなかったから、再渡航するしかなかったという。

「家族を養うためには、少しぐらい身が危険でも行かなきゃって。ご苦労かけるわね」

 母は声を曇らせた。

 耀子は、せっかく帰国したのに、わざわざ危険地帯へ赴く父を引き留められないのが悔しかった。

 父の出発の日、三輪崎の実家からお順叔母さんがお別れの挨拶にやってきた。耀子が沸かした朝風呂に入った父に、

「兄さま、足の爪を切ってあげるで」

 と、父を椅子に座らせて、お順叔母は父の足の爪を切り、真新しい靴下を履かせた。

「あにさま、いとしよのう」

 靴下にぼとぼとと零した涙が沁み込んだ。

「涙見せるな、お順よ。縁起悪くなるでのう」

 父は義妹を幼いときから実の妹のようにして、面倒をよく見てきたと聞いている。いまも変わらず兄らしい優しい口調でお順叔母に語しかける。

 母は、とっておきのうどん粉を、水で捏ねたのを、父が持ち帰った椰子の油で焼いて、父と、お順叔母さんの弁当にと、包んだ。

 映は「チチカエル、コラレタシ」の電報になんの応答もなく、帰宅もせず、母を悲しませた。

「勤労学徒」として、持場を離れることができないのだろうと、父は逆にみんなを慰めた。

 しかし、これが映との今生の別れになったらどうしようと、誰もが思っていた。父は映にいちばん会いたいはずだ。耀子は、お兄ちゃんは何してるのと、映の首に縄をつけてでも引っ張り寄せたい気持ちだった。

 一家で新宮駅まで見送りに行った。父は一回り小さく見えた。父を乗せた汽車は、黒い煙を吐き、喉を引き裂かれた怪鳥のように、鋭い汽笛を鳴らして走り去った。

 父の出発の後、耀子は、映に手紙を書いた。

 父が帰国し、一か月いたこと。そして再渡航して行ってしまったこと。お順叔母も来て、みんなで新宮駅から見送ったこと。

 父と家族はみんな揃って、三輪崎の浜辺でお弁当を食べたこと。「浜千鳥」を歌って海辺を歩いたこと。

 しかし、父が、映はいないのか、と、がっかりしていたことは書かなかった。

 けれども、映からの返事はなかった。

 父が昭南島に再渡航してから、戦局が悪化し始めた。

 

 七  三ノ戸先生

 

 女学校に入って、担任は国語の三ノ戸先生であった。「二葉亭四迷」は、文学みたいなものばかりやってて、オメェみたいなの「くたばっちめえ」と言われたのをペンネームにしたと聞いて、その発想の自由さに驚いた。

 三ノ戸先生は日々、耀子の目のウロコをはがす言葉を吐いた。夏休みが近づいていた。

「おれ、引っ越すのだが、手伝ってくれるか」

 職員室の前ですれ違ったとき声をかけられた。

「わたし一人?」

「そう、いけないかい、いけなきゃいい」

「いいです。行きます」

 三ノ戸先生の顔がちょっと赤くなった。

 耀子は、母に、友達のうちに宿題をしに行くと、出任せを言って家を出た。

 日曜の閑散とした裏通りを、先生の曳くリヤカーの後押しをしながら歩いた。先生の荷物は本ばかり多くて、布団と衣類を乗せるともうお終いだった。ぐんぐん大股に歩く先生について行くのは、なんだか恥ずかしかった。

 新しい下宿は、丹鶴小学校の近くで、女学校にも近かった。

 雑貨町のそば屋で、ザブザブのすいとんをご馳走してもらった。

 部屋に入って畳を拭いてあげた。

「もういいよ。ちょっと休んでいきなさい」

 雑巾を洗ってバケツを大家さんに返してから入口近くに落ち着き悪く座った。

 先生は突然、「時代の重圧を感じているか」と尋ねられた。「食糧や着るもので感じる」と答えて笑われた。「もっと視野を広く物事を見つめなさい。いま何が起きているか」と言われ、「きみの父上がなぜ内地にいられなかったのか、その意味を考えろ」とも言われたけれど、耀子には難しすぎて、意味もなく笑うことしかできなかった。先生は何も言わずに、読みかけの本を読み始めた。

「先生、帰ります」と言うと、目も上げずに

「うん」と言った。

 耀子は、一目散に家まで駆け続けて帰った。

 三ノ戸先生が「うん」とだけ言って本を読んでいたことが、耀子にはなんともうれしかったのだ。そこには、おおげさにいえば先生との許し合った空間があった、と思えたから。

 耀子の、好奇心は強くなり、物事をそのままには受けとらず、裏側も見ようと考えるようになっていった。

 戦死者の遺骨の出迎えが、毎日のように続いた。町内の男の数が少なくなっていくようだ。出征していく兵士の顔に悲壮感が濃くなり、駅や神社で見送る人々の、万歳三唱の声が耀子には、義務的な響きに聞こえてならなかった。

「そんなことはない。そんなん、うっかり人に言うたらあかんよ、警察に引っ張られるよ」

 母に厳しい顔で耀子は叱りつけられた。

 日本史の時間に「先生、天皇の中宮ってなんですか」と質問して、先生をどぎまぎさせたり、休憩時間に教壇に立って軍人首相の演説の真似をして「諸君、我々は戦っておる」とふざけて見せて、級友を笑わせたりした。

 思い切った行動や発言をしていると、三ノ戸先生が微笑んでこちらをじっと見ていてくれるような気がするのだった。

 しばらく手紙がこなかった父から写真が届いた。痩せて顔も別人のようだった。これ、父さんなの? みんな信じられない顔をした。

 きっと激務なのよ。と、耀子は涙ぐんだ。

「もう、帰らせてもらえばいいのに」

 母も重い声を出した。

 続いてキャラメル、バター、それに椰子油などが送られてきた。椰子油はきつい匂いがするが、贅沢は言えない。貴重な食糧なのだ。内地では配給で、それもほとんど無に等しかった。てんぷらやパンやいろんな料理に、惜しみながら大事に使った。キャラメルは缶入りの大きな包装だったから一粒、一粒と、ずいぶん長く楽しませてもらった。ミルクのとろける味。バターの香りと舌触り。みんなみんな胃の腑に沁みた。

 昌子と耀子に、一台ずつミシンを買ってあるんだ。シンガーミシンだよ。でも船便がなくって送れない、そのうち送るからと書いてあったから、二人で手を取り合って叫んでしまった。いくら父の厚意でも食べればなくなる。映にも母は空き缶に詰めて送ってやっていた。映からは、夜中に布団の中で、こっそり舐めていると、このときばかりは返事がきた。「現金なものね」と、それでも母はうれしそうにぺろりと舌を出して笑った。

 

 町じゅうの食料が底をつき、いくらお金をだしても品物がない。畑の作物にしても収穫まで時間がかかり、季節もある。家の周りの畑だけでなく、三輪崎の近くにある、父所有の山地も開墾し始めた。およそ四キロの道を、鍬を担いで耀子もついて行った。

 学校でもまともな授業はなく、草刈りや開墾など作業ばかりしていた。戦局は緊急の度を加え、敵機の襲来さえも心配になった。

 サイレンが断続して鳴り「警戒警報発令」と地区の役員がメガホンで知らせて回ると、生徒は学校に集まった。首から下げた手縫いの四角い袋には、三角巾と、包帯と、住所氏名を縫いつけた小袋のなかに妙り大豆を入れたのが入っていた。女学生は看護要員だった。

 包帯の折転帯の巻き方、担架の扱い方などを習った。おちついて勉強などできなかった。

 学校の休日には勉強より、山畑の開墾が重要になった。母と耀子は開墾地への道で、風呂用の薪にと、林の下に落ちている枝を拾って束にしながら背負う。映がまだ学徒動員に行かないとき、母は映にも手伝いを言いつけた。家に残る昌子には、まだ小さい幸子の面倒をみる役目がある。風呂も沸かしておくのだ。医学専門学校行きを断念せざるを得なくなった映に、家に残れる理由がない。映は行かないわけにはいかないので、膨れっ面をして二人の後をのそのそとついてくる。畑に着けば男の力が勝るので、母は気長に、映を連れていくことだけに気を遣った。

 険しい町境の坂道の途中、広角の集落を過ぎて、三輪崎に近く峠があった。峠に立つと視界が開けてぱっと明るくなる。道の上方は台地になっていて、そこに上がると思いがけず青い海が望まれた。ずっと沖で船影が動いているのが見てとれる。

「お兄ちゃん、来てごらん。ほら沖が見えるだろう。ここはね、お前のご先祖さんが鯨捕りをしていたとき、物見の人が立っていた所だろうって言われているのだよ」

「そんなこと、知ってらい」

 映も以前、父から聞いたらしい。

 耀子も前から「沖見茶屋」を見たいと思っていたのだが、こんな身近なところにあったとは。

「見張り台がいらなくなって、峠の茶屋を開いたんだって」

 母は父から聞いた話を伝える。

「ここが沖見茶屋かあ」

「田崎家は、二百年前から、鯨捕りだったんだ」

 映は得意らしくそう言って沖のほうに向かって目を細めた。

 三輪崎で墓参をしたときの、父の語も思いだされる。

——「名字を許されていたのは、その墓に田崎何某とあるのでもわかるだろ。太地の鯨方に負けんくらいの働きやったんやって」

 父もお兄ちゃんも、ご先祖の血筋を誇りにしているのが伝わってくる。

 しかし、耀子は女だからか、鯨を捕るということにすんなりとは馴染めず、鯨が哀れな気がして密かに拘泥っていた。

「でも、殺生したのやね、母さん」

 気になっていることを耀子が低声で言うと、母は姿勢をしゃんとして答えた。

「人間の生命はほかの者の殺生のうえで繋がってきとるのやろ? 牛肉も魚も、野菜やって生命あるものや。そやから鯨捕りは、アメツチノオヤガミ様から戴いた鯨を大切に無駄なく使わせて貰うとるのって、百年以上もの昔からな」

 いつの間にか、四国生まれの母が紀州訛になっていた。

 その晩、耀子は興奮して眠れなかった。

 

 動員先から戻らない映のいない分、耀子の負担は大きくなり、三ノ戸先生の下宿にも行けなくなっていた。

 学校の廊下ですれ違ったりするとき、耀子は平静でいることができなかった。とても長い時間会っていない気がして、喉の辺りが絞られる感じで息苦しい。

 俯いて通り過ぎようとしたら、声をかけられた。

「田崎ぃ—、疲れとんのと違うか」

「いいえ、いろいろあって、お邪魔できませんでした」

「だんだん暮らしにくくなってきたね。がんばれ。あ、この本を読むといいよ。きみに上げるよ。そうそう、父上は」

 と言いかけて黙った。

 手に持っていた本を貰った。石川啄木の歌集『一握の砂』だった。耀子は貪り読んだ。啄木の歌は何十首も覚えた。曲のついたものは、何度も習って愛唱した。

 家に帰ると、日暮れまでの短い時間と畑で鍬を打ち込んだ。

 幸子は五歳になって、近所の人たちと親しくなり、隣のおばさんにかわいがられた。畑仕事のあいだ預かってくれることになり、昌子も畑を手伝った。

 週末には山の畑に出かけた。山畑の開墾は捗らず難渋した。サツマイモを掘ったり、固い山肌に鍬を打ち込むとき、啄木の生活苦を思い、悲惨を思う。そして三ノ戸先生を思った。

 山畑への行き帰り、母と二人、沖見茶屋の峠でよく休んだ。水筒のお茶を飲むと、母は唐突に言った。

「耀子、お嫁にいく気ないか」

 暮れなずむ海に目を細めていた耀子は、母の顔を驚き眺めた。

 四国の、母の姉のところの長男が、結婚に失敗して独りになっている。失敗といっても姉が、気に入らないって実家へ帰してしまったそうだ。おまえなら、気心も知れているしいいと思うんだけれど、と、言う。

「母さん、耀子に初めから後妻に行けというの」

 言葉を返しながら、三ノ戸先生を思った。

「後妻ったって大きな家よ。中学校の数学の先生やし、田ん圃もミカン畑も、小作に出すくらい広いの。白い御飯がなんぼでも食べられるんよ」

 伯母の家には幼いときに行った記憶がある。広い田ん圃のなかにがっしりとした家があった。いわゆる<千円普請>だというのも聞いている。家の前に灌漑用の小川が流れていて、映たちと泳いで遊んだ気がする。

 庭にはツバキやビワや、ユスラウメなどが沢山、植えられていた。

 三ノ戸先生の家だって北海道の牧場だって言っていた。豪農なのよ、と、関係もないのに心の中で反駁した。

「長男って、あの幹雄さんでしょう。いやだあ」

「何故なの。優しいいい人だよ」

「だって三十幾つでしょう。耀子はまだ十六歳になったばかりなのよ」

「そりゃあ、ちょっとかわいそうだけど、嫁いでくれると助かるんだけどな」

「どうして」

「今度ねえ、四国の姉さんが疎開してきてもいいって、家族を引き受けてくれることになってるの」

「それじゃあ、政略結婚じゃないの。耀子は人身御供ってわけね」

 と、唇を固く結んだ。運命が知らないうちに暗転しているのかと沈んだ気持ちになってくる。

 沖見茶屋、この先祖ゆかりの地は、いま、耀子の運命をどう見てくれているのだろうか。

 はるか沖のほうを見遣った。

 鈍色に変わり始めた波をかきわけて、漁船だろうか、小船が視界を()ぎっていった。

「もう帰ろう、幸子がお腹空かして待っているよ」

 耀子は立ち上がると、一人、振り返りもせず足早に坂を下った。

 幹雄との縁談はそれきりになった。

 

 山地の多い和歌山県は他の県よりも早く逼迫していった。母はいくら労働しても追いつかず、そのうえ空襲警報が頻繁になり、四国の姉宅を頼って疎開すると決めた。映は動員中なので、転校しないでそのまま卒業までいさせるという。

 父の送金は戦時にもかかわらず思いのほか多いらしく、母は父に帰国を勧めたいし、現実の内地の暮らしはきついし、どうしたらいいのかねえ、と愚痴っていた。

 そりゃあ、父さんが帰国してくるのがいいに決まってるじゃないと、耀子は迷い悩む母に腹を立てた。そのうちに、いくらお金を積んでも何一つ買うことができなくなった。

 母はいままで住んでいた畑つきの家も、自分一人で買って、売るのも自分の思うままにしている。四国に疎開するのも独り決めたのかと思っていたら、父から疎開に賛成すると手紙が来た。

 

 八  アメツチノオヤガミ様

 

 耀子は四国に行くのは気が重かった。

 これから厄介になるのに、どんな顔をして行けばいいのだろう。母さんってだから嫌よ、と眉を顰めた。

 それでも生きていくためだ。幹雄との話などなかったことにすればいい、と割り切った。

 

 耀子はあの日、沖見茶屋で鯨捕りの話しをした母が「アメツチノオヤガミ様」と言ったのを忘れていない。

 父さんも言っていたけど、ただの、神様でも仏様でもない、もっと、もっと大きいもの……。すべてを委ね、甘えられる「アメツチノオヤガミ様」だ。

 父が信奉し、映も畏敬し、祖父も曽祖父も田崎を名乗るもっと以前からの、<始祖>に遡って子、孫、曽孫、玄孫……と、何百年ものあいだ崇め続けてきた。

 遥かに一筋の血で繋がってきた「遠つ・み祖」の存在に、耀子もいまはっきりと畏敬の祈りを捧げることができると思った。

「アメツチノオヤガミ様が守ってくれる、わたしは田崎の子」。

 何があっても平気。そう思うと元気が湧いてくる。

 

 慌ただしく引越作業が終わって、耀子は学校に挨拶に行った。その日、二学期の始業式が済んだばかりのはずだった。が、クラスのみんなはモンペを縫っていた。

 学徒動員の作業中に履くように、紺絣の布地が配給された。前日には何も聞かされていなかったのに、急に「兵庫県の工場で落下傘を縫うように」と、動員令が来たのだという。

 一日違いで動員を免れた。無事、四国へ引越すことができると耀子はひそかに安堵した。

「いつ出発なの」

「明後日」

「じゃあ、うちの引越と同じ日や、ごめんやでえ、一緒に行けなくて」

 カオルのそばに行って小声で謝った。

「ええの、ええの、そういう運命なのよ。それより、きょうは三ノ戸先生おらんよう。動員の打合せで出張やって、あら、お気の毒」

 口を歪めて言うカオルが、とても意地悪く見えた。しばらく時間を過ごして、もしや、と職員室に行ってみても、三ノ戸先生は出張から帰ってこないまま、とうとう会えなかった。お別れに『一握の砂』の扉に、何か記念の言葉を書いて貰いたくて持って行ったのにと、思い切り悪く帰ってきた。

 

 徳島県那賀郡広野村。

 広い田ん圃の稲穂はときおり吹き寄せる涼しい風に(あお)られて、大きく波打っていた。

「母さん、広い田ん圃やな。ずうっと向こうまで波打っていて海みたい。お米がもう稔っているよ、ほら」

「そうや、すごいやろ。でも、これはほとんどお国に供出してしまうんだって。兵隊さんの兵糧になるんや」

 ふうん、と答えながら、耀子はなんだ、と少しがっかりした。

 村は上野、中野、下野と別れていて、伯母は中野に住んでいた。中野集落は村を取り巻いて流れる那賀川の豊かな水で肥沃になった田が一番広くあって、伯母はその集落で一、二といわれるほどの、夫の遺産を受け継いだ。家の周りの広大な田を小作に出していた。

 ミカン畑や野菜畑も広いが、これも賃金を払って人に耕させていた。

「地主というても、年貢米も窮屈になってなあ。供出米も出さんならんし、あんたたちには分けてあげられんけん、悪いなあ」

 伯母は挨拶に述べた言葉を、その後も口癖のように繰り返した。

 中学校の数学教師の幹雄との二人暮らし、窮屈なはずはない、と耀子は思ったが、母のいう幹雄の嫁になって、白い御飯を腹いっぱい食べたいとは思わない。幹雄が戦時下なのに結城の和服に着替え両肘を曲げて、手の先を左右の肩のそばでひらひらさせながら神経質に歩く仕草や、立居振舞のすべてが嫌だった。が、無口なので救われる。

 

 新宮のカオルが、動員先から、手紙を送ってきた。三ノ戸先生が応召されて、北海道から戦地へ向かわれたと書いてあった。少し泣いて、<来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし十五の心>と、呟いた。丹鶴城の石垣や先生の下宿の部屋が浮かんできたけれど、不思議と憑きものが落ちたようにさっぱりと耀子の心のなかは片づいているのだった。昌子と耀子は県立富岡高等女学校一年と三年に転入し、四国の生活に慣れるのに苦労していたから感傷にひたる余裕はなかった。

 米や食糧が、耀子たちの期待どおりではなかったにしても、しばらくのあいだはまだ、伯母の口添えでどうにか買うことができた。

 値段が高く騰って、と母は嘆いていたが、父の送金はありがたかった。『キング』のぺージを切り抜いた「送金」は四国に疎開してからも、数か月は続いていた。

 しかし、戦局が不利に傾いて父の音信が絶え、耀子たち家族が父の無事を祈るしかない状態になると、貯金を頼りにする心細い生活に移っていった。

 

 広い田に早苗が植えられ、緑濃いそよぎとなり、やがて黄金色に輝く稲穂のさざめきに移り変わる。それは波が打ち寄せる海だ。果てしない大海原に波がうねる。

 ときどき、山奥の村から石灰岩を積んでトラックが現れ、十キロ先の耀子たちの通う女学校や、幹雄の勤める中学校のある町へと消えて行く。あれは戦艦だ。

 学校へ通う学生たちの自転車は、小さい漁船の群れだ。

 その幹線道路と田の畦道の交わる辻に、赤いヨダレ掛けをした地蔵さまが立っている。

 伯母の家の生け垣はもう、畦道の先だ。

 学校の帰り、少しでも時間が早いと、そこで耀子は、自転車を下りる。

 中古とはいえ、その自転車を手に入れるのには大変な努力を要したのだ。昌子と二台分だったから、いくら伯母の口利きでも難儀だった。物がないのだから、大切にしないと後がないよと母に厳しく言い渡されている。

 自転車を大切に地蔵さまの横に立てる。そして地蔵さまに向かって手を合わせる。

「地蔵さま、そしてアメツチノオヤガミ様、どうか父さんを守ってあげて」と。

 父さんどうしているかしら。

 それから傍らの石、耀子が「父さん石」と名付けた石に腰を下ろし目を閉じる。

 風の吹き過ぎる度、稲の葉擦れが大きくなり、寄せては返す潮騒となる。目の前に三輪崎の湾が浮かんでくる。孔島(くしま)、鈴島が静かに浦の白波を見せて横たわっている。鈴島は、「月の鈴島」といわれる風光明媚の島。海賊の孔子(くし)礼意(れいい)が住んで悪戯をしたと伝えられるのは「伝説の孔島」だ。沖に小さな船。

 父さん……。目裏に父が現れる。「父さんの話」、聞かせて。

 あの理髪店の皮張りの椅子に凭れた耀子と、そして父の声が甦る。

——ぼくは幼名を丑松といった。明治十四年九月二十日、和歌山県東牟婁郡三輪崎村六百二十番地(現在・新宮市三輪崎)に生まれた。

 家は漁師の筋で、菩提寺・宝蔵寺の過去帳の最初には武助<安永四年没>とあるのんや。武助がいつ生まれたのか、それ以前の記録は、宝蔵寺の火災で焼失したらしい。しかし武助にも父さまや祖父さまがいたはずだから少なくとも二百三十年以上続いている家系で、代々、勇魚を捕る漁師だったらしいでの。

 と、父は頬を緩める。

——羽刺を纏め、鯨捕りの指揮をとる親方は何十艘もの鯨船を指図したらしいで。

 初めは田崎「圓之丞屋(えんのじょや)」、福島「文之丞屋(ぶんのじょや)」と岡崎「角衛門屋(かくいみや)」の三軒だったけどの。網とり式になってからは、三輪崎の鯨方も増えての、何十軒という網元ができて盛んやった。

 しかし、明治時代、アメリカや、ノルウェーの捕鯨法が現れて、とうとう、大正六年のイワシ鯨の捕獲で三輪崎の捕鯨はお終いになった。後に太地に漁業権は売ったというこっちゃ。

 鯨捕りの話では、「古式捕鯨」のようすを聞いて胸躍らせたのを思い出す。

 耀子はあのとき、鯨を追って抜き手を切る男の一人が、血筋をひく者として実在することが、すぐには信じられなかった。

——網とり法や捕鯨砲による漁法のずっと以前は、古式漁法が行われていたそうや。

 浜の近くに寄って来た鯨を七、八艘のモッソウ船、樽船などいろいろな船を繰り出して追い込んで、銛で突く。何本も突く。鯨が逃げても麻綱がついとるのって、なんぼでも伸びる。後から刺水主が海に飛び込んで、弱った鯨を追っ.ていく。鯨刀を前歯でぎゅっと噛んで抜き手を切って追う。そして鯨が苦しまんように、できるだけ早く止めを刺してやらんならん。刺水主はくわえていた鯨刀で過たず、心臓を剔って逃げる。最後の力を振り絞って暴れる鯨に弾かれて命を落とした刺水主は数知れないのやよって。荒れ狂う鯨はやがて静かになる。

 みんなは鯨を哀れみ恐れ、鯨の霊と「アメツチノオヤガミ様」に恵みのお礼を念じる。儀式が済むと舷を叩いて狂喜乱舞しながら、船足を揃えて、止めを刺し鼻の孔に綱を通した鯨を浜の大納屋まで運ぶのよ。

 みんな大喜びで幟を何本も押っ立ててそりゃあ大ごとよ。浜で皮、肉、骨、油、鬚などに分けられて、どこも捨てることもなく加工されたり、売り買いもされたもんやって。アメツチノオヤガミ様の戴き物やよって、大事に押し戴いて分け合うての。

 外国ではいくら鯨を捕っても、鯨油をとるだけ。あとはみんな捨てよる勿体ないことや。<鯨一頭で七浦潤う>といわれたもんや。うちの遠い先祖さんもそうやって刺水主をやったんやどう。

 慶長の初めにはもう三輪崎浦で銛突き法の刺し組がいたという話や。古式捕鯨は、太地より早かったのやって。もっとも延宝三年にはもう、網とり式が開発されたということや。

 長い「父の話」はいつもここで、一段落した。

 ふうっと大きく息をついて、我にかえった。

 

 九  木曜島の夜

 

母が畦道を疲れた足取りで歩いてくるのに気づいた。鍬を担いで、片手の篭にはナスが入っている。力なく足元が頼りなく見える。

「耀子、何しとんや、ぼやっとして」

「ああ、母さん、お疲れさん」

 油を売っていた後ろめたさから、いつもより機嫌よく言葉をかけ、自転車を押して門へ向かった。後ろからの母の声は尖っている。

「何言っとるの。早う、晩ご飯の用意をしなさい、うろうろしないで」

 母は、父からの送金が途絶えて以来、姉の家に置いてもらっているという引け目を、一段と強く感じているみたいだ。機嫌が悪い。それは疲れのためばかりとは言えなかった。

 夕食と言われても、二、三本のサツマイモと、大根が半分、配給の小麦粉が少し残っているだけだ。伯母に借りた畑地で穫りいれたナスを、母から受け取って大急ぎで団子汁を煮た。

 伯母の家の食卓は、ホウレンソウの胡麻よごしと、鮎の塩焼き、それに白いご飯だ。

 裏の離れを惜りて入居しているから、関係なく食事をとることができるのだが、台所を使わせてもらっているので、献立の違いは見まいとしても目につく。

 でも、伯母は、味噌、醤油や塩などは、自由に使いなさい、と、言ってくれている。これだけでも、感謝しなければならないたいへんな援助だといえた。

 映から、腹がへってしかたがない。何か送って欲しい、と手紙がきて、母は伯母に頼んで、妙り米を送ってやったらしい。

 風呂も一日おきに沸かすのだが、母家の二人が入ってから、妹たちを入れ、母と耀子はぬるくなった終い湯に入った。追い焚きはできなかった。体を洗うよりも、風呂場を洗うのに気を使って、くつろげる状態ではなかった。

「母さん、どこかへ引っ越そうか」

「何言うの、伯母さんのお陰で親子四人が生きていけてるんじゃない」

「お兄ちゃん、早く卒業してほしいわあ」

「お父さんも、どうしちゃったんやろねえ」

 二人は石鹸もない風呂で体を流し合い、ほんの少し慰め合っているのだった。

生活が苦しくなればなるほど耀子は父を思う。このごろは父のことを思うだけで「父の話」を思い起こす。

「木曜島」の話は、耀子が、父はほんとうに「海の人」の一族だと納得した、父の深海潜水物語だ。

——ぼくは五歳で父を、八歳で母を亡くしたって話したよね。そりゃあ、苦労やった。床屋で修行して、一丁前になると、ぼくは、ちょっと自由が欲しゅうなった。小さいときから働くばかりで、仕事のことしか知らん。外を見てみたいと思うた。五歳のお順は、分家の叔父さんに頼んで預かって貰うてのう。

 明治二十八年、日清戦争の後で景気がよくなかった。床屋も客が減ってきた。

 そのころ、三輪崎の若い者が、木曜島へ出稼ぎに行くのが流行っていて、ぼくも行こうと決めたんだ。渡航費は貯金を当てれば十分足りる。四十九日かかって、シンガポールを経由してオーストラリアについた。ぼくは十五歳やった。木曜島はオーストラリアの北のトレス海峡、小島が多く集まっている海峡にある小さな島や。

 発見されたのが木曜日だったので「サウスデイ・アイランド」と呼ばれるようになったのだ。そこで白蝶貝や高瀬貝を採る。白蝶貝には、たまに天然の真珠が入っていたりすると、それはダイバーの自由になるのやよって。

 それを聞いたとき、真珠じゃなくて白蝶貝の貝殻だけを欲しがるのが不思議で父に聞いたのを覚えている。真珠の粒より、価値があったのだろうか、と、首を傾げると、父は得意そうに大きく頷いた。

——ヨーロッパ人の服につける貝釦の原料や。社交界のご夫人方に評判だったそうでの。

 だが、収入のよいダイバーは、すぐにはやらせてもらえなくてな。初めは雑用係で、潜水服を洗ったり、採れた貝を母船に運んだりする水夫じゃ。三年契約と六年契約があって、ぼくは三年のほうにした。早く金を貯めて独立したかったから。一所懸命働いて、親方に認められると、潜水夫になれる。イギリス人やドイツ人が親方だった。

 父が渡ったころの、「木曜島」は日本人が多かったという。競争が激しく労働もかなりきつかったようだ。

——慣れないうちは、水夫の兄貴分にこき使われてな。現地人やイギリス人は潜水したがらないので、ダイバーになってしまえばいい金になったのだよ。現地人は貨幣の価値をあまり知らんし、働かんでも食える。中国人は、海に入るのが大嫌い、水が恐い国民なんやって。他の外国人は、十尋以上の深い海には、四、五回潜ったらダウンする。日本人だけは、四十回も五十回も潜るんや、家が貧乏で仕送りせんならんこともあるけれど、仲間同士が競り合うていたようやな。紀州者とか、伊勢者とか言うて。浜に小屋を建てて仲間で住んどったよ。三輪崎組は「三輪崎ハウス」に住んで、みんな仲がよかったから、ぼくは楽しく働けた。

 島には小説家のサマセット・モームとかいう人が住んでいるという酒場があっての、覗きに行ったら現地人の姉妹が店をやっていての。島の人たちは人がよくて朗らかやった。その酒場も繁盛しているようで、賑やかに歌ったり踊ったりして楽しい夜が続いとった。

 ぼくは、親方にかわいがられての、二年目に潜水させてくれるようになった。潜るのは生命がけや。水圧がものすごうて、潜水病になってしまうんやでえ。危ない、と思うたら、途中まで引き上げて貰うて、しばらく息をつくんや。そしたらまた潜れる。エアー切れしたらお陀仏やからなあ。金儲けは大変よ。よう働いたもんやと思うわ。

 ぼくは必死で働いて、三年の契約が切れて仕事を止めたとき、月々の仕送りをしてもまだ貯金が相当あった。「さあ、日本へ帰ろう」と胸が高鳴ったそのとき、丑松なんて古臭い名前は、変えようと思いついた。シンガポールに寄港したとき、「ここは英領やな。そうや、英がええ。ハイカラな名あや」と、思いついて決めた。みんなに「丑よ」とか「丑松」と呼ばれるよりも、「英、英」と呼ばれるほうがずっと気持ちがええ。生まれ変わって特別の人間になったみたいでのう。

 しかし、父の名は、英じゃなくて、英一なのだ。どうして、英一なのと聞いたら、おかしそうに笑いながら話してくれたのだが、父らしい、と、耀子も笑ってしまった。

——それがな、三輪崎に帰って、役場へ行って改名届を出すときになって、英の一文字ではちょっとハイカラ過ぎるかなって、恥ずかしゅうなって、つい、一をつけてしまったのさ。だから英一。田崎英一、ええ名やろ。

 そのとき、母も昌子も幸子もいて、みんなが揃って笑い声を立てたら、父はうれしそうに笑顔を一人一人に向けていた。

 耀子は、今すぐ父が家族に加われたらどんなに幸せだろう、と、思いながら気がついたことがある。だから、お兄ちゃんも「映」なのか、と。

 

 十  ぼくの家族

 

 新宮高女入学のとき、父が買ってくれた靴は、傷みがはげしく履けなくなった。慣れない藁草履を作って履かなくてはならない。いくら大事に使っても、中古の自転車もパンクを繰り返しているうちに修理不能になった。

 昌子も同じで、朝、五時に起きて往復五里の道を、藁草履を履いて歩いて通学するしかなかった。足に豆ができるのはまだ我慢できたが、藁打ちの足りない草履が道の途中でばらばらに解けてしまうのには泣かされた。

 宿題より先に藁を打ち、草履を編まなければならないのがこたえた。友達のタエちゃんは米と物々交換で黒の革靴を手に入れて、砂埃りの道を闊歩して行くのだ。藁を打つ手に豆が幾つもできるころには、それでもどうにか藁草履が、往復歩けるように強く編めるようになった。

 しばらく父さん石に行っていないと気がついて、地蔵さまで父の無事を祈った。

 と、父の温顔と言うしかない柔らかな顔が浮かんできた。父の声が聞こえてくる。

——三輪崎に帰ったとき、ぼくは独立したかったんだ。新天地で何かやりたい。台湾へ行こう、と思っていると、結婚を勧める人がいた。考えてみるとぼくはいつも独りやった。ぼくにも家庭というもんが欲しいと思うた。

 その女の人は宇久井の人でキワと言うた。

 ぼくはまだ十九歳やった。二年後、雪子が生まれた。おまえたちの義理の姉さんやな。

 赤ん坊ってこんなにかわいいものかと思うた。けど、看護婦やったキワはじきに離婚してしもうたんや。雪子はまだ小さいし、勧める人があってすぐ再婚したのやけど、後添えのおキトは体が弱くて、床についてばかりだったな。子ぅもよう生まんと。でも、雪子にはええ母親になってくれて助かったのやけどなあ、雪子が女学校に入る前に、肺結核で亡くなってしもうての。仕方ないから雪子を連れて台湾へ渡ったんだ。家族やもんな。

 台湾というところはの、店を持てなくても道端で、箱と布切れと、鏡が一個あれば商売になった。おもしろいようにお客が来てくれて、すぐに一軒の店を持つことができたんだ。

「日本人の理髪店」って評判になって忙しくお順の息子、春男を呼んで、修行させながら店を手伝わせた。春男は筋がよくてじきに腕のいい理髪師になってね。雪子も、台北の女学校に入学できたし、春男に理髪店を任せて、ぼくは、なんか大きいことがしてみたかった。

 そこで思い切って、木曜島で稼いだ金で、台湾のラワン材とチーク材を買いつけたのや。

 大正五年、大バクチやな、素人がそんなんできるわけないやろ。ところがどっこい、それを、東京の深川へ持って行ったところ、洋家具やら、洋館やらが流行し始めていたというわけで、どんどん儲かってしもうて。

 そのころだったのね、若あい母さんと会ったのは、と、揶揄うと大まじめに答えられ、びっくりして笑いをひっこめた。

——そのころ、母さんも結婚に失敗して、東京の渡辺裁縫女学校に入って教員の資格を取っての、四国の実家のほうで尋常高等小学校で裁縫教員をして、がんばっていたのって。

 紹介してくれたのが、母さんの親戚の浅草の叔母さんだったの。で、「台湾でもええ」と結婚を承知してくれたっていう訳でした。

 でも、ぼくには雪子がいる。あの子には、寂しい思いをさせてきたし、おキトには子どもがいなかった。それで、田崎の家を継がせようと、二十四歳で養子縁組みをさせてたんや。

 ぼくと新しい母さんが結婚して、台湾に行ってみると、雪子と母さんは、四、五歳しか年齢の差がないもんやから、ぎくしゃくすることが多くてな、それでも、二、三年は近くに住んでいたのだけど、やっぱりしっくりとはいかなんだ。

 そこで、ぼくは雪子と離れて暮らすことにしたのさ。どこへ行こうかと考えたとき、すぐにシンガポールが頭に浮かんだのよ。なにしろ、新しい名前を貰うた街やからな。

 母さんもすぐ賛成してくれた。台湾の材木の店は雪子に任せて、床屋をしていた春男と虎男を連れて、シンガポールに移住したのや。

 シンガポールでは、ぼくがどんなときでも手放さなかった床屋の道具が役に立ってくれて、店も持てた。ここが新しい家族の出発点になってくれる、と、うれしかったな。

 父が白く塗った漆喰の壁に、中央館と、看板の文字を黒いペンキで太く大きく書き直していたのは、覚えている。

 耀子はシンガポールのあのミドルロードの「中央館」を思い起こすと、父の気持ちが胸に沁みて、あのころの日々は得がたいものであったのかと、苦しくなる。マレー人の炒り豆屋さんの顔もとっても懐かしい。

 三階建ての白い壁の「中央館」。

 暑い街角の果物屋を通り過ぎて、急いで店に入ると天井の扇風機が回っていて、いい匂いの空気が流れていた。あの店で客の切れめの、ちょっとの間に話してくれた不思議物語。

* ぼくがね、子どものころ、三輪崎の浜へ降りて行くと、友達の末松が一人で一所懸命に相撲を取っていた。真っ赤な顔をしてなあ「おい、末松、何しとるんな」って肩を掴んで揺さぶったら「へえ」って気を失いよった。あれは、狸に化かされて、一人相撲を取らされていたのやって、みんなで大笑いしたことがあった。

* ぼくが初めて革靴を買うたときや。十七ぐらいやったかな。ステッキも買って、三輪崎の宝蔵寺の裏を得意な気持ちで歩きよったらな。向こうから、道路の真ん中をチョロチョロッと火の玉が、燃えながらやってくる。「こら、こら」って、ステッキで突っついてやると、あっちへ逃げだした。どんどん、どんどん追っかけると、どんどん、どんどん逃げる。そしてとうとう、ある家の裏口へ来たのよ。「あれ、どこへ行く、余所の家へ入ったらいかん」とまだ追いかけたらな、

「ちょうど今、この家の婆さまが生き返った。死んどったのに不思議や」

 と、みんなが喜んでおるんや。あれは(ばば)さまの人魂やでえ。

* ぼくの漁師仲間の磯やんが漁に出た。その日は薄曇りの寒い日だったんやと。昼過ぎまで夢中で網を打って魚を捕っていたのって飯にしようと思うて、網を引き上げようとしたら、なんと、舷近くに、いっぱい裸の人が、泳ぎ寄って来ていたんと。そして、振り向くと、舳からずっとこちらへ、一人、また一人と舷に上がってくるのんと。「こらあっ」って叫んで櫓で一人の背中を思いっきりぶっ叩いたら、ぽちゃぽちゃぽちゃと海へ跳び込んで、上から海の中を覗いてみたら、なにごともなかったように、なにもかも消えてしまっていたのやと。それは、きっと海で遭難して亡くなった人が迷うて出て来たのやろうって。もし、磯やんがもう少し気がつくのが遅かったら、どうなっていたやろかねえ、ああ、恐ろし。

* ぼくが小さいとき、高い熱を出して死にかけたんやって。なんや知らん辺りがぼうっと明るくなってきてん。すると、上のほうからよい匂いがして振り仰ぐと、紫のきれいな船がすうっと降りてきての。美しい女の人に抱っこされて、その船に乗ったのや。静かに船が上へ上がって行こうとしたとき、「丑松う、行ったらあかん、目え覚ませっ」ておっ母ちゃんが(いが)りよるんや。はっと気がつくと汗びっしょりになってふとんの上で生き返ったのさ。何がなんだか分からなかったけれど、あのままやったら死んでいたそうや。おっ母ちゃんが、丑松うって(いが)ってくれたさけ気いついてよかったけどのう。

 海にはいろんな不思議がいっぱいある。

 海坊主、幽霊船、大蛸入道……、海って生命の源やよってなあ、奥が深い。物語も昔からいろんな人たちによって語り継がれてきたのって、みんななにかの意味があるとぼくは思うのだよ。

 人間も海から始まった。アメツチノオヤガミさまも、海からござらっしゃったのって、田崎の者は、殊に海を大事にせんならん。これから生命を繋いでいく子孫の者もやで。

 父の顔はいつもより重々しく見えた。

 

 十一  孤走の船

 

 昭和十八年は、年明けとともに、ガダルカナルの海戦があり、南方のガダルカナル、ブーゲンビルは撤退やむなく、東京上空にもB25という敵機が飛んできたという。

 五月にはとうとう北方のアッツ島が玉砕したと新聞に載った。「玉砕」という言葉を初めて新聞で見て、玉が砕けるイメージを描いて吐息が出た。誰も口にすることはなかったが不安が濃く人々を覆っていた。

「父さん、大丈夫かなあ」

 耀子が言うと母は、仕方なさそうに答える。

「父さんは軍属だって言うていたから、怪我や病気までは無理としても、もしも亡くなったりしたのだったら知らせがあるはずや。知らせがないから、生きているよ、きっと」

 いつも同じ繰り返しだ。

 貧しく苦しい耐乏生活の中、いつの間にか昭和十九年を迎えた。

 父からはずっとなんの連絡もなかった。

 三月、映が動員先で新宮中学校を卒業して、四国へ帰ってきた。痩せてはいたが、ぐっと大人になって頼もしく思えた。家族は、殊に母はほんとうにうれしそうに出迎えた。

 すぐに、隣村の小学校に代用教員として採用され、新学期から勤め始めた。

 一家は、映の帰宅を機に、近くの独り暮らしのおばさん宅の二階を借りて、伯母の家を出た。

 映の不機嫌は、すっかり影をひそめた。母も映によって安堵し、家の中に活気が感じられる。父のことはみんな、そっとしておこう、と思っているようだ。

 

 本土上空に敵機が飛んで来て都市が空襲された。四国の小さな町でも機銃掃射を受ける。

 耀子たちがもう少しで学校に着く町外れまで来たとき、警戒警報はなく突然に、空襲警報のサイレンが鳴り始めた。

「空襲!」

 みんなは空を見上げた。青い空に銀翼がきれいに三機、輝いて見えた。次の瞬間、キーンという金属音と共にその三機は急降下してきた。

「危ない!」

 耀子たちは急いで田ん圃の畦道の凹みに逃げ込んで身を伏せた。

 と同時に、畦道すれすれに弾丸の撃ち込まれる鈍い音が連続して聞こえた。

 敵機の去った後、顔を上げてみると、道路に機銃の弾痕が一列に並んでついていた。

 怪我人は一人もいなかった。

「映画みたいやったね」

 みんなは、興奮して言葉少なに、肩を寄せ合い学校へ小走りで駆け込んだ。

 小型ながら、宮岡中学校の校庭にも爆弾を落としていった。空襲のあった翌日、脇道を通り中学校に行ってみると、校庭に、小さい池のような爆発痕を見せて地面が掘られていた。死傷者はなかったと聞いた。

 それでも耀子たちは、いまに神風が吹いてくれる、と空頼みに縋って暮らしているのだった。

 耀子は、学校の帰り、地蔵さまの父さん石に腰を下ろした。ずいぶんここに来るのは久しぶり、と辺りを見渡す。足元にはオオイヌノフグリが水色の小花を撒き散らして咲いていた。

「父さん……」

 いくら目を閉じて呼びかけても、目裏に父の姿が不思議に甦らない。父のことを地蔵さまに懸命に祈って帰った。

 

 重労働の夏休みが終わって二学期になった。暑い。海岸に軍の塹壕を掘る作業が始まった。

 学校では、軍に協力して、来る日も、来る日もモッコの砂運びが続いていた。アメリカ兵の本土上陸に備えて海岸で迎え撃つ計画なのだ。銃後の守りという言葉が飛び交い、孟宗竹で作った竹槍で、向かってくる敵兵を突き殺す訓練が始まった。町内会のおじさんや、おばさんが訓練に参加していた。学校でも猛訓練を受けた。みんな、大まじめだった。

 海岸のモッコ運びは、砂浜の部分が終わって、海岸に迫る崖に横穴を掘る作業に移った。兵隊さんに従って耀子たちも移動した。

「皆さん、ご苦労じゃのう」

 班長の中山軍曹は、寡黙らしい重い口を開いて、労いの言葉をかけてくれた。これまでそんな言葉をかけてきた兵隊さんはいなかったから、びっくりして、中山班長の顔を見た。

 軍曹は狼狽を隠して鶴嘴に力を込めた。

 岩を掘る作業はきつい。運ぶのも重い。作業は、小刻みな休憩を挟んで進んでいた。

 耀子たちが、何度目かの休憩をしていたとき、数メートル掘られた横穴が崩落したのだ。落盤事故! みんなは穴の前に駆け寄った。

 大きな岩が取り除かれたそこに、中山軍曹が横たわっていた。「軍曹殿、中山軍曹殿」と、呼んでも叫んでももう、息を吹き返すことはなかった。みんな、中山軍曹の「ご苦労じゃのう」と言われた言葉を噛み締めた。

 

 二百十日の台風をやり過ごし、稲刈りが始まると少し涼しさが感じられる。稲刈り奉仕から帰って足を洗っていると、母が真剣な顔をしてみんなを呼んだ。手に電報を持っている。

 明日、父の遺骨が還ってくるのだという。みんなは唐突な話で絶句した。

 一人に、畳半分のスペースしか与えられない不自由な捕虜交換船でやっと帰国できたその人は、父の遺骨を抱いて帰ってくれたのだった。捕虜交換船は、捕虜同士を交換して帰還させる、国際法による措置なのだという。

 この春、借りたこの部屋は、父を迎えるには狭く、床も莚敷きであまりに粗末だったから、伯母の家の表の間を借りて、法要を行った。

 骨壷の、見覚えのある犬歯の金冠を見つけた母は、「あんた」と呼びかけて遺骨の上に涙をこぼした。

「田崎さんにはたいへんお世話になりました。軍属になられてからも、在留組は何かと便宜を計ってもらいましてねえ」

 父の古い友達だったというその人は、それ以上、父の暮らしぶりについてはあまり語ろうとはしなかった。

「こう言っちゃあなんですが、戦争は恐ろしいことです。敵も味方もなくなりますからねえ」

「ほんとうです。主人も危ないところで何をしていたか知りませんが、家族は、心配ばかりしていました」

 母は、あなたはご無事でよかったです。と小さな声で言ってしまった。

「生命は失くしませんで、生き延びましたが、実のところ心も体もぼろぼろです。これから内地でどうやって生きていけばいいのでしょう。でも、亡くなられた方には申し訳なく思ています。ほんとうにすみません」

「いいえ、そんな。生きていてくださったから、こうして遺骨を届けて下されたのです。ご苦労さまでございました。心からお礼を申しあげます、たいへんだったのでしょう」

「一九四二年、昭和十七年の二月十五日にシンガポールが陥落してからが、地獄でしたね。田崎さんもぼくも、現地の人たちの友人が沢山いましたし、英語もマレー語もぺらぺらでしたから。でも、戦争は食うか食われるか、悩んでなんかいさせてくれませんよ。お前たちは軍属だ、と言われて、ずいぶん辛い立場にも立たされましたが、逆にうまく立ち回れたこともあったのは事実です」

 とにかく、田崎さんだから遺骨もちゃんと荼毘にして、お運びできたのです。軍属といっても仕事が特別でしたからね。軍の病院で治療を受け安静に終焉を迎えることができたのです。でも、病名は脚気ということですが過労死ですよね。昭和十九年十月二十八日、朝でした。もう最期というときに、家族に何か伝えたいことは、と訊ねますと、大きく見開いた目で私をじっと見て、何度か深く息を吸い、目を閉じられると、もう呼吸は止まってしまいました。

 父さん、言いたかったことは何だったの。

 耀子は、体がなんだか絞り上げられているように痛かった。

「これで責任を果たせましたし、ご恩返しもできました」と言うとその人は住所を告げずに帰っていった。名前も耀子は覚えていない。

 

 夜、家族だけの通夜をした。

「さあ、みんな、父さんにお顔をちゃんと見せて上げなさい」

 母はそう言うと、父の骨壷を開けたまま映に渡した。ちょっと驚いた映は、気持ちを落ち着けて壷を膝の上に乗せ、両手で囲うようにして、一礼した。

「映、父さんになにか言ってあげて」

 母には答えず、映は父のお骨を潰してしまわないようにそろりと幾つか摘み上げ左手に載せた。目を閉じ、そして丁寧に両手で押し戴くと、一つ、二つと、壷に返していく。そのとき、映の左手の指の巧妙な動きの中で、一つだけお骨を残しているのを、耀子は見てしまった。映は静かに骨壷を耀子に回してきた。ずっと無言だ。

 耀子は、映のことが気になって、遺骨を両手で抱き取る形に捧げ持って、「お帰りなさい、父さん」とだけ小声で話しかけた。それでもぽろりぽろりと大粒の涙が滴り落ちてくる。昌子に回した。昌子が泣きながら「父さん、会いたかったのよ」と言うと、「幸子もよ」と幸子が続けて言ったから、母もみんなも泣き笑いになった。映にひそかに目を配ると、湯飲みを持って、うまく左手のものを口に入れ、ちょっと噛み砕いて、大急ぎでお茶と一緒に嚥み込んでしまった。

 あ、父さんを……、と言おうとして止めた。これからも誰にも黙っていよう、と咄嵯に思った。

 いま映は、父と、ほんとうに相見えることができた。誰にも引き離せないアメツチノオヤガミさまのもとに一体になれた。

 

 線香の火と蝋燭の灯りを燃やし続けて父の通夜は終わった。

 父はアメツチノオヤガミさまの懐に帰った。

 

 父の石に腰掛けて、父を待った日々。

「父さん……、お、か、え、り、な、さ、い」

 耀子は目を閉じる。広い海のずっと向こうに走っていく一艘の船が見える。

 

 三輪崎の沖見茶屋に、父が笑いながら沖を指さして立っている。

 

<参考文献>

・「木曜島の夜会」 司馬遼太郎

・「みわさきあれこれ」より 「捕鯨こぼれ話」ほか 海野猪一郎

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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尾津 晃代

オヅ アキヨ
おづ あきよ 作家 1929年 シンガポールに生まれる。日本随筆家協会賞。

掲載作は同人誌『凱』2003(平成15)年24号初出。

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