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デモクラシーをめぐる争い

 〇 ブルジョア・デモクラシーの憲法と自由および暴力

 

1 憲法をめぐる争い

 アメリカと日本のブルジョアジーが、日本の人民をふたたび戦争にかり立てる準備をしようとすることにたいして、日本国憲法が大きな障害をなしていることは事実である。そしてまたこれらの陰謀に反対する人民たちを、抑圧せんとする支配階級の計画にたいしてもまた、言論、集会、結社、学問、思想等々の自由を保障する憲法が、その実現をさまたげていることは、うたがいえない事実である。今日、陰謀と詭弁とによって戦争準備と自由の抑圧とが進行しているけれども、しかしこれは、憲法政治の無力を立証するものではない。それはむしろ逆に、憲法が明かに平和と自由をまもる楯となりうることを物語るものである。憲法という権力者と人民とのあいだに、むすばれた基本的な契約は、イギリスにおいてはすでに一三世紀の初頭にはじまり、他のヨーロッパ諸国にあっては、一八世紀から一九世紀にかけて、成立したことは周知のとおりだが、それはつねに時の支配者と被支配者との、ギリギリの力の緊張の上に成立したものであった。だから支配階級はいつも自分に有利な憲法をつくろうとし、被支配者は支配者の専断からのがれる保障を、憲法にもとめようとして争った。このような事実は、各国の憲法史が明かにしているところであるが、この基本的な関係は今日においてもいぜん、少しも変らないのである。やはりいまもなお憲法は、支配者と被支配者との、力の対抗的緊張の上にあるのであって、支配階級はそれを、自分たちに有利に解釈しようとし、その解釈が限界にきた場合には、さらにこれを都合よく改変しようとする。したがって、憲法はすでに完了的に、成立しているものではなく、それは変化し、つくられつつあるものと解さなければならない。いまわが国において、憲法の改訂が問題になっているのは、このような関係において、アメリカおよび日本の支配者のために、改悪されんとしているのであって、それは決して、日本やアメリカの被支配人民のためでもなければ、また偽っていわれているように、いわゆる日本国民全体のためでもないことが承知されなければならぬ。今日、憲法の改悪の問題をめぐって、必死の攻防戦が展開せられているのは、このような関係においてである。

 それではなぜ支配階級もしくはその亜流は、憲法を反動的に解釈したり、あるいはさらに積極的に、これを改悪しようとするに反して、被支配階級およびその階級的立場に立つ者は、これをまもり、さらにこれを歴史の方向にしたがって、改正しようとするか。このことの論理は近代憲法の成立過程をみれば、きわめてはっきりしているが、もともと支配階級は、被支配階級の利益になるような憲法を欲しないのであって、折があればそのような条章を、何とかして抹消してしまおうとする。そうすれば支配階級にとってどれだけ利益であるかわからないからである。ところがこれに反して被支配階級は、憲法をより歴史的に発展的に改正することを欲し、たといその時の力関係で、これができないとしても、これの改悪にたいしては断乎たたかおうとする。それはそうすることが被支配階級の利益になるからである。だからここにおいて、歴史の要請に沿うことのうちに、自分たちの利益を見出すプロレタリアートの立場と、歴史の要請に反することによって、自分たちの利益をまもろうとするブルジョアジーの立場とに、はっきり分れる。

 このような憲法をめぐっての闘争の主題は、実に被支配階級が自由、すなわち政治的自由をいかにその手に収めるか、という点にかかっている。すなわち被支配階級は、憲法による自由の保障を獲得・拡大せんとし、支配階級はその自由を、何とかして抑圧することを考えるのである。憲法闘争の中心点は、歴史的にはまさにここにあった。むろん今日の日本における闘争の直接の主題は、人民の自由権にかんする条項よりは、むしろ、第九条の武装放棄の規定の存否にかかっているかのごとく見えるが、しかし支配階級の真の狙いは、人民の自由権をいかに有名無実化するかにおかれている。この点日本のブルジョアジーの要求も、アメリカ、イギリス、フランス等の、資本主義国のブルジョアジーの要求と本質的に変らないのである。ただ日本の場合には、とくに戦争放棄の規定の存否が、特殊的に闘争の主題となっているにすぎぬのであって、またこの規定の存廃も、それは結局人民の自由の問題につながるのである。すなわち、この平和規定をもっていることは、それ自身人民の自由の擁護を容易にしているし、また反対にこの規定を抹消して徴兵、戦争準備、大陸侵攻等の一連のプログラムを具体化することは、必至的に人民の自由の禁圧を結果することになる。しかしてまた自由の抑圧なしに平和条項を改悪することは事実上困難でもある。結局憲法改悪への含みをもって、自由抑圧法としての破壊活動防止法および教育二法律、防衛関係諸法規等が強引に成立せしめられたごときこれである。

 

2 憲法自由の意義

 それでは憲法闘争の主題をなす「自由」とは何か。憲法に規定する自由権の中には、今日ではすでに多くの問題をのこさないところの、信教の自由や、居住、移動、職業選択、国籍離脱、ないしは身体的自由の保障にかんする規定など、封建的権力に対して要求せられたものが、一しょに記されているので、比較的その焦点はぼけているけれども、憲法に規定せられている自由権の規定は、今日のブルジョア的権力に対抗する自由を保障するものにほかならない。さらにいえば、それは単なる対抗ではなしに、ときの政府を否定し、これを打倒するための学問、思想および行動の自由のことである。じつに言論、集会、結社、出版、学問、思想等の自由は、政府の政策を批判、攻撃する自由だけでなく、これをうち倒すための言論集会および結社等の自由にほかならないのである。このように解さなければ、憲法的自由を十分に理解したとはいえない。なぜならば、政府をたんに批判するだけの自由であれば、それは政治的自由のきわめてすくなかった封建時代にもありえたのであって、封建君主のうちのある宏量なる者にあっては、その家臣や領民に、自分の政治に対する批判を求めているのである。徳川家康が、「直言の功は一番槍の功に勝る」といってむしろ無遠慮な批判を、その家臣に要求したごときこれである。だがしかし、家康的言論の自由が、近代的憲法的自由と基本的にちがっている点は、今日の資本主義社会の自由のごとく、それが政府にたいする否定=打倒を意味するものではなく、あくまで、徳川政府を肯定し、これの存続のための批判の自由にすぎなかったという点である。

 かくして近代的憲法によって保障されている自由とは、窮極するところ政府の打倒につながる自由にほかならないが、このような性格をもった近代的政治的自由は、議会政治=政党政治、すなわち自由なる政権争奪

争を可能にしている政治によって、制度的に確立せられたのであった。いいかえれば憲法に抽象的に規定された自由は、この政党政治制度によってこそ、はじめて具体的存在となることができたのであり、そしてこの制度は、また憲法によって擁護せられているのである。そこでもし在野の人民が、政党を結成して、言論や集会や出版や学問や思想の力によって、ついに政府の打倒を意図する批判を展開することの自由が制限せられたり、剥奪せられたりすれば、それがたとえある在野の一小政党に限られていたとしても、それは政府によって憲法が蹂躙(じゅうりん)され、政府自身が非合法を行ったことになるのである。一般には政府の行うことはすべて合法であって、それに反することが非合法であるとする理解が残留しているが、これは封建的卑屈さを表明する以外の何ものでもない。そこで政府の反憲法的非合法にたいしては、憲法に拠って憲法を擁護するために、権力と闘争することが、あたえられた最高の手段であると考えられる。もしそれが無力であるという理由によって、憲法に拠ることを拒否するならば、それは非合法に対するに非合法をもってすることになって、政府の非合法を糾弾する立場を、みずから放棄することになるからである。それのみならず、憲法をまもり、あるいは憲法の改正を要求する立場をも、併せて失うことになるのである。それは憲法以前のすなわち法治主義以前の、したがって近代以前の昔において、一般であった立場である。

 

3 憲法における暴力と自由

 それでは近代ブルジョア的憲法が、政府打倒のための広汎なる自由を保障する歴史的意義は何か。それは政権争奪の渦中から、物理的な実力としての、政治的暴力を追放するためである。憲法政治=政党政治以前の国家にあっては、政権の争奪は、すべで軍事力をもって行われた。しかもその場合の軍事力の行使は、一点の疑いもなく、まことに自然に行われたのであった。中国の映画『白毛女』をみた私は、政権争奪にさいしての軍事力の行使が、人民によって、いかに無理なく承認されているかをみて、興味ぶかく感じた。これは近代議会主義政治成立以前の、イギリスやフランスや、またアメリカが経験したところのものと同じであって、クロムウェルや革命フランスの政府はもちろん、リンカーンの権力ですら、軍事力によって確立せられたのであった。そしてそのころの人々は、誰も軍事力によって彼らの権力が樹立せられたことを非としなかった。それは今日のごとく軍事力以外の仕方によって、ともかく政権を奪うことを可能とする制度が確立されていなかったからであって、国民党を武力によって打倒して、連立政権を樹立した中国の場合、さらに一九一七年のロシアの場合もまた同じである。そこでこのような政治の歴史における前近代的段階においては、今日からみれば当然「暴力」と考えられることも、だれもこれを「暴力」と考えなかった。そのころは政治暴力というアイディアも、政治暴力を不可とする道徳意識も、いまだ成立していなかったからである。

 政治的暴力という概念が成立したのは、軍事力のごとき物理的な実力によらないで、政府を打倒することの自由が、ともかくも制度的に確立して以後のことである。すなわち、政治的自由の制度的確立によって、はじめて政府的公権力の争奪に際しての暴力の否定が、可能となったのである。そこでこのような近代ブルジョア・デモクラシーの論理のもとにおいては、政治的自由を要求するということは、ただにその意思を政治に反映せしめるためだけではなく、それは自分たちが非暴力的手段によって、公権力的地位を獲得するための可能性を要求することを意味するのである。したがっていままで選挙権をもたなかった一般無産人民が、平等普通選挙権を要求し、さらに無産階級の党の結成とその闘争の自由を、しだいにたたかいとりつつ、ともかくも曲りなりにも、今日の段階にまで到達したということは、被支配階級の党もまた政権獲得闘争の渦中において勝利しうる可能性をどれほどか得たことを意味する。無論今日の段階において、無産階級の党が公権力的地位につくことは、一般にまだきわめて困難であるし、そのためには歴史の方向にむかって、なおデモクラシーをおしすすめるための長きたたかいの年月が必要であろうが、しかしブルジョア・デモクラシーの方式によって権力を獲得することが、まったく不可能であるとして、ブルジョア・デモクラシーの論理に反して行動することをゆるさない程度にまでには、それは到達していると考えてよい。

 まことにブルジョア・デモクラシーの論理のもとにおいては、政治的自由と政治的暴力とは対立的に考えらるべきものである。無論われわれの概念する政治的自由は、その本質的意義においては、権力的強制にたいする対立概念であるが、手段的意義においては、この自由はまた暴力と対立する。すなわちすでに見たように、政治的自由を獲得したということは、暴力を手段として権力闘争を行うことの必要性が、その自由の量だけ少くなり、それだけ暴力を否定しうる条件が成立したことになるのであるから、この近代的政治的自由をますますのばしていけば、政治的暴力の最後の一片をだに地上から抹消しつくしうることになる。少くとも理論的にはそう考えなければならぬ。なぜならば人民が時の政府を打倒するための完全な自由をもっているとしたら、その政府を打倒するに際して、もはや暴力を行使する必要がなくなってしまうからである。それだのにある党が、武力的権力闘争を計画し、これを実践したとすれば、それはむしろ人心を失う結果になって、かえってときの政府を打倒する目的に反することになるのである。それは、ともかくも暴力によらないで、やれる方法があるのに、それを無視することにたいする不満が、人民の間に成立するからである。このことは個人的暴力が嫌われる場合と変らない。それは、われわれが個人間の争いを解決するに際して、腕づくをもってやることを排撃するのは、実力によらないでも、討論によって勝敗をきめ、あるいは世論の判断にまつことによって、問題を解決することができるからである。この論理は国家と国家との対立の場合にもまた発見することができる。すなわち国家と国家とが、戦争的暴力によって問題を解決しようとするような不幸を避けるためには、戦争によらないで紛争を解決しうる条件を生みいだし、これを発展させるよりほかない。そのためには国際会議をひらき、それへの参加と発言を自由にして、その黒白を、全人類の正邪の判断によって決定するような方法をとることである。もしかりにこのような会議が成立しているのに、なおそれによることなしに、戦争に訴える不当をあえてしたとすれば、それは当然全人類の非難をさけることはできない。

 そこでこのような暴力否定の論理が承認されるとすれば、政治的自由の要求と、暴力行使への志向とは、まったく矛盾することになる。すなわち、はじめから暴力をもって事を決するつもりなら、べつに近代政党政治のもとにおける政府打倒のための批判・闘争の自由など要求する必要はないからである。だから暴力主義と政治的自由の要求とを、同時に二元的に両立せしめることは絶対できないのである。それは相手をなぐりつけることにきめていながら、話合いによって決めよう、というのがおかしいのと同じである。あるいはまた、はっきり戦争することに決定していながら、会議に参加し、あるいはその会議における平等と自由の成長について、要求したりすることが、矛盾的であるのと同様である。これはまさに欺瞞である。

 ところが矛盾するはずの暴力主義と近代的政治的自由の要求とが、同時に行われうるかのごとく見える場合がある。すなわち

(1)暴力の体系に包摂された自由  それはたとえば暴力によって権力を奪取することを基本方針としつつ、同時に政治的自由は政治的自由として、別にこれを獲得して行こうという場合である。それは時と場合に応じて暴力で行くか、それとも自由を獲得することによって非暴力で行くかどうか、をきめるというのでなしに、とにかく自由を獲得しておけば、その方が暴力による権力奪取をより容易ならしめると考えるからである。だからそのときには、ただ暴力主義の補助手段としてのみ、自由の獲得が問題になっていることになる。したがってそれは暴力と自由の二元主義ではなしに、自由の要求が暴力の体系のうちに包含されていることになるのである。つまり自由の要求そのものが暴力になるのである。このように暴力を、主体的にとらえ、しかして政治的自由の要求を暴力に奉仕せしめようとする行きかたは、明かに論理的には成立する。しかし、その場合には自由を主張し、これを要求することが偽りとなる。したがってそれは人間的自由の発展の法則、いいかえれば歴史の事実の論理に反する。その理由はこうだ。

 人民が政治的自由を要求してきたのは、政治的暴力をより容易にするためでは絶対になかった。古代ローマの平民の要求も、近代ブルジョアジーの自由の要求も、すべてそうであった。とくに産業ブルジョアジーが権力を獲得していらい、プロレタリアートが要求して、たたかいとった政治的自由は、決してその政治的暴力をより可能ならしめるためのものではなかったのである。すなわち、わけても一八三五年のチャーチスト運動以来、労働階級がその政治的自由のためにたたかい、そして自分たちの代表を議会におくる自由(権利)をかくとくしたことは、それだけ労働階級の解放への前進を意味した。ところがかりに労働階級が、どうせいまの議会はブルジョア議会であるから、これに期待することはできないと考えて、近代ブルジョア・デモクラシーによって性格づけられた政治的自由のためのたたかいを放棄していたとしたら、労働階級の言論、集会、結社等の自由はもちろん、平等普通選拳も無記名投票も、議員に歳費を支給することも、毎年議会を開くことも(これらはチャーチスト運動のときの労働階級の政治綱領であった)実現せず、したがって今日においても、労働階級の代表は、いまだ一人も議会におくられていなかったにちがいない。そして議会はなお百年まえのそれのごとく、ブルジョアジーの代表たちのみによって独占せられ、彼らの勝手な取引の場にとどまっていたであろう。かくてともかくも今日の状態にまで、人民の自由をたかめ得たのは、それはとりもなおさず自由をもたなかったプロレタリアートの、自由獲得のためのたたかいによったのであって、まことにプロレタリアートが自由を前進せしめたということは、動かすことのできない歴史の事実にほかならぬ。したがって今日といえども、この歴史の論理を無視することはゆるされない。

 ところがここで問題になるのは、歴史の上における、自由のための被圧迫人民のたたかいは、必然的に暴力化したという点である。古代における奴隷や、平民の反乱はもちろん、とくに近代においても、労働階級は、しばしば暴力化したのであった。このことは自由と暴力とが背反しないで二元的に共存できることを物語るものである、という反論が用意せられるかもしれない。

(2)自由に包摂された暴力  なるほど近代的政治的自由のための闘争のうちにおいて、プロレタリアートは、しばしばいわゆる「暴力」を行使した。しかしこの場合の「暴力」は、プロレタリアートがその行使を餘儀なくせられたのであって、それは暴力を基本的な方針として、それを行使したのではない。プロレタリアートは自由のためのたたかいの過程において、やむなく暴力手段にいでたのである。すなわちブルジョアジーは、自分たちが封建的地主勢力を向うにまわして、彼ら自身の階級的権力を樹立するまでは、なるほど人民の自由をおしすすめる歴史的役割をになった。しかし一たび彼ら自身の権力が確立して、自分たちが支配階級になると、一転して自由の抑圧者にかわったのであった。かくして今度は労働階級が自由の拡大のためのたたかいの先頭に立つことになったが、そのとき彼らの行手をふさいだものは、ブルジョアジーの弾圧(暴力)にほかならなかった。これに対して、労働階級はまったくやむなく実力をもって抵抗したのである。だからこの場合のプロレタリアートの「暴力」は、暴力を権力かくとくの基本方針とする暴力((1)のごとき)とは意味がちがうのであって、それは政治的自由の確立のための手段としての、いいかえれば、自由に対する奉仕者としての「暴力」にほかならない。さらにいえば、それは暴力に否定的に対立する自由を、拡大発展せしめるための「暴力」である。そこでこの場合には、(1)の場合に自由が暴力の体系の中に組み入れられたのとは逆に、今度は「暴力」が自由の体系の中にはいることになる。いいかえれば「暴力」が暴力でなくなってしまうのである。歴史における自由のためのたたかいの過程における暴力はこのようにして安定した。今日ひろく暴力を拒否することを学んだ人びとが、歴史における被支配者の抵抗的実力行使を高く評価し、かつそれに親愛をすら感ずるのは、暴力が暴力としてでなく、それらが、それぞれその社会段階における自由の体系の中で、安定しているからであるからである。

 かくしてわれわれは、自由と暴力の問題をつかむにあたって、(1)の暴力の体系の中に自由が包摂される場合と、(2)の自由の体系の中に「暴力」が包まれている場合とのちがいを、明確にしておかなければならぬ。ところがこの点にかんする理解は、今の日本では一般にまだきわめて不十分であって、あたかも暴力主義と近代の政治的自由の要求とが、両立するかのごとき二元論的な誤りに気づかなかったり、あるいは自由のためにたたかうのは、結局暴力行使を容易ならしめるためである、といったような混乱が平気で行われているのである。これは一にこの国の政治学および政治史学の貧困に原因していると考えられる。

 このような理論的混乱は、早急に克服されなければならないが、はたしてそれは何にもとづいているのであろうか。私はその最大の原因として、自由の論理構造が、歴史的にちがっていることにたいする認識の不十分さを指摘しなければならぬ。この論文のためには、私はきわめてわずかのスペースしかもっていないので、この問題にふかく入っていくことはできないが、近代ブルジョア・デモクラシーのもとにおける自由、社会主義社会における自由、さらに封建的絶対主義段階における自由、あるいは封建的領主制段階における自由等の諸自由の論理構造は、そのときの社会的経済的諸関係のちがいにもとづいて、それぞれちがっているのである。だからこのちがいを考えずに、「自由」という言葉が同じであるからといって、その性格をまで一緒くたにして論ずることは、まちがっている。すなわちブルジョア・デモクラシーのもとにおいては、自由とは、けっきよく権力に対立し、権力を打倒するための自由にほかならないが、社会主義社会における自由の構造は、決してそうではないし、また資本主義以前の社会における自由もまたそうではない。したがって前近代的段階の社会においては、その自由の要求は、決してわが国今日のそれのごとく、政府を打倒するための自由を発展させる、という意味をもたないのである。そこで政治史的には前近代的な、すなわち政党政治以前の国家(ロシア、中国など)の、もしくは政党政治の破壊されていた国家(東欧)の人民が、その自由を拡大するために、なしたたたかいの経験を、そのまま、ともかくも政党政治の行われている国へもってくることはまったく軽卒である。まことにこの両者のギャップをうずめるためには、すぐれた天才的な実践者の叡智が必要とされる。今日の日本において、またイギリスにおいて、フランスにおいて、このような叡智は、はたしてどのように形成されようとしているであろうか。しかしいずれにしても、政党政治の国における自由のためのたたかいは、すべてときの政府に対する打倒的批判の自由の獲得に向って、意識的に集中されなければならぬことはいうまでもない。これこそは今日にいたるまで、少くとも一八三〇年の、イギリスのウィッグ党内閣の成立いらい、一二〇年の間、プロレタリアートが、国際的に踏みしめてきたその道である。したがってこれがためには、かってプロレタリアートがなしたごとく、その政府打倒の自由ための制度を前進せしめるために、自由にかんする諸法律の制定、反動法規の廃止のための闘争を組み、そしてさらにプロレタリアートの代表を議会におくり易くするための選挙法の改正、すなわち、たとえば全国一区比例代表制のごとき要求に向って、努力しなければならぬ。さらにプロレタリアートが権力をとった場合の会議は、いかなる方式にしたがうべきか、すなわち代表の選出の仕方、投票の仕方、会議の持ち方等々にたいする科学的な計画を用意して、今日のブルジョア議会を、一歩づつその方向に近づけるために、人びとに訴え、知識人に呼びかけ、そして啓蒙して行く作業が必要となる。このようにブルジョア的議会をプロレタリア的議会に近づける作業は、それはかならず真の労働階級の代表が、より多くブルジョア議会に席をしめることと、また結び合うはずである。

 

4 暴力者としての支配階級

 この間題はブルジョア・デモクラシーからプロレタリア・デモクラシーへの転化の問題に関連する。公式的にはブルジョア・デモクラシーの極点においてそれはプロレタリア・デモクラシーに転化するのであるが、しかし事実は、よく熟れた柿が自然に落ちるように、この転化が行われるとはかぎらない。それは近代史的な経験によってみても、このような、少くとも労働階級の、したがって人民の政治的自由を、ますます拡大するような要求をもったたたかいに対しては、ブルジョアジーの反撥は、きわめて熾烈であったし、今後もまたそうであることは、容易に想像できるところである。それのみならず、ブルジョアジーは、人民が現に有する政治的自由をも抑圧することを欲して破防法のごとき、直接に自由を剥奪する法律をつくることを志すとともに、貧しい人民の代表が、議会に出られないように、選挙法をますます改悪し、さらにそれの結論として戦争準備のための憲法の改悪をその日程に上している状態である。このようなブルジョアジーによる人民の自由の抑圧ないしは、自由の成長の圧迫への努力は、いうまでもなくブルジョアジーが、近代議会主義そのものの発達をさまたげ、さらにこれを有名無実化するためのものであると解さなければならぬ。このことはブルジョア・デモクラシーの発達が、労働階級の政治的自由のための闘争によってもたらされたことをかえりみるならば、容易に理解しうるところである。そこでこのような自由の抑圧、もしくは自由の成長に対する圧迫こそは、ブルジョア・デモクラシーの論理のもとにおいては、政論の世界から暴力を排除せんとすることに対する妨害であるがゆえに、それこそが暴力であると断じなければならぬ。なぜならばその時の政府の打倒にむすびつく自由があってこそ、はじめて暴力を排除しうるのであるから、自由が奪われれば、それだけ暴力への必然性を多くすることになり、さらに自由の成長への要求を抑圧すれば、それは暴力への可能性を政治の世界にのこすことになるからである。この理論は否定することのできない歴史の真実にもとづく。それは近代政治の運動の法則にしたがっているからである。したがって、かく解するとすれば、つねに暴力の側にたち、政治的暴力の温存のために、歴史における反動的な役割をになってきた者が、何人であったかを、われわれは了解することができる。近代史において政治的暴力の排除のためにたたかってきたものこそは、じつにつねにそのときにおいて自由があたえられること少く、かつその自由がいつも奪われる危険性のもとにあったプロレタリアートにほかならなかったことを知るのである。この事実を、われわれはもはやうたがうことはできないであろう。

 かくして近代政治史は支配階級とその政府こそが、暴力者であることを立証し、そしてさらに今日においては、自ら約束した憲法を蹂躙せんとする非合法を行う者こそ、支配階級にほかならぬことを、明かにしているのである。この近代政治の歴史における論理に盲目であると、往々にして資本主義を否定せんとするプロレタリアートが暴力者であり、非合法者であるべきである、かのごとき考え方を、つくり上げてしまう。盲目でないにしても、この点に対する理解が不明確であると、ブルジョアジーこそ、其の意味における暴力者であり、非合法者であるとの刻印をおすことを忘れて、逆に、自分たちが暴力者であるとの烙印を押されることに甘んずる。これはどうしたことであろうか。まことにブルジョア・デモクラシーのもとにおいては、暴力と非合法とは許すことのできない「悪」なのであるから、この制度のもとにおいてたたかう場合には、つねに自らが非暴力者であり、合法者であるに反して、他が暴力者であり、非合法者にほかならぬことを、事実と論理とをもって明かにすることによって勝利はより確実となる。

 これらの点について、人民の自由と、労働階級の解放のためにたたかい、さらに暴力を追放し、そしてまた国際的暴力として戦争を否定せんとする者は、いかに考え、いかになすべきかについて、ふかき考慮が加えられるよう私は希わざるをえない。一人の政治の学問に志す者として、私はなお語るべきことの多くをもっているが、最後に、もう一度、ブルジョア・デモクラシーが、ともかくも、一応原則的に成立している国においての、人民解放のためには、それはあたかも前近代的政治のもとにおいては、その自由の論理にしたがうべきであるごとく、やはりブルジョア・デモクラシーの自由の論理にしたがわなければならぬことを、くり返さなければならない。

 

 〇 現代アメリカ的自由の限界

 

1 アメリカ的専制の条件

 今日の段階ではアメリカは、もはやすすんだデモクラシーの国家とはいえない。それは日本をもふくめて、世界の数少ないすぐれた資本主義国家のうちでは、もっとも民主主義的におくれた国家であるといってさしつかえない。それだのにこのアメリカが、いわゆる自由世界のうちで、もっとも企業的にすすみ、富み栄えているということは、いわゆる社会主義国家のうちでもっとも独裁的なソ連が、いちばん強大であるように、まことに皮肉なことである。しかしアメリカが国家的に強く、かつ社会的に繁栄しているということは、それが非民主的な一種の専制国家であるためではない。その繁栄は別の理由によるのである。

 アメリカはいまもなお、すぐれたデモクラシーの国家であるという見方が、ひろくのこっている。それはこの戦後になってアメリカから多くのものを学んだ日本人のばあいに、とくにそうであって、日本もアメリカのように民主的になり、アメリカのような二大政党の国家になることが望ましい、というような評論家があらわれたりするのはそのためである。ところがこのアメリカの民主主義をすすんだものであるとするのは、たしかに一種の錯覚にもとづいての評価であるにちがいない。それはかつて富豪であった者にたいしては、いまもなおかれが富んでいるかのように錯覚するばあいがあるのと似ている。そして富豪であるあいだに富んでいる者らしいふるまいが身につくように、アメリカ人も一七七六年に独立宣言を発していらいの、そのころとしてはきわめて民主主義的にすすんだ社会的な風土のなかで、自分自身をすぐれた民主主義的人間に創り上げていくことに成功していることはうたがいない。われわれがアメリカの歴史のなかに、もっとも民主的にすぐれた人間を発見することができるのはそのためである。けれども国家的な民主主義の制度、つまり自由のための制度ということになると、アメリカの制度がひどく立ちおくれてきていることが、最近目立ってきたのである。それはちょうど一人一人の日本人が、民主主義的にはまだきわめて低い段階にあるにもかかわらず、その国家の民主主義制度だけは、途方もなくすすんでいて、「日本には自由が多すぎる」などという困った意見が、一部の文学者から出されているほどであるのと反対である。すなわち体の小さな日本人には、その民主主義制度の服は、だぶだぶだが、体が大きくなったアメリカ人にとっては、その服はひどく小さくなって、もうこれ以上、その国民を民主的に成長させることが、むつかしくなっているのである。

 アメリカが民主主義の制度の上で、立ちおくれてきた理由の半分は、運命的なものであるといってよい。周知のようにアメリカの独立のときは、まだ本国のイギリスでは、産業革命(約一七六〇年~一八三〇年)が、はじまったばかりの、一七七六年の昔のことであった。そしてその国家の制度を成文憲法をもって、ほとんど動きのとれないように、決めてしまった一七八八年といえば、イギリスにはじまる近代議会主義の政治制度も、まだその姿をととのえるまでには、いたっていないころのことであった。だから前章(注 原著の「第5章」のこと)でのべたような分け方にしたがえば、それは近代前史も、ようやく半ばをすぎたばかりで、ブルジョアジーの支配は、まだ完成するところまで、いっていなかったのである。だから独立宣言にみるような、あの輝かしい初期のアメリカ的マインドをもって、自由の制度をうち立てようとしたにしても、その制度感覚が、今日からみれば、なお問題にならないほど幼稚なものであったとしてもやむをえなかった。

 そのころの自由の制度にかんする理念は、せいぜい政府と議会と裁判所との三つを、機能的にはっきりわけて、たがいに抑制しつつ調和が保たれるようにすればよいといった程度のものであった。それはフランス人のモンテスキューが、ときのイギリスの制度に学びつつ、一七四八年にかいた『法の精神』の第十一章の、いわゆる三権分立の理念を、超えることはできなかったのである。したがってアメリカは、議会で多数を占めた政党の首領が、政府の首班に指名せられるというような、すすんだ議会政治=政党政治の行き方をとることができず、政府=官僚の首長としての大統領は、直接に国民から選ばれる(形式的には間接選挙)、という建て前がとられることになった。だから、大統領(政府)は、議会から選ばれたのではないから、議会を尊重するとしても、これにたいして責任を負わない。大統領はその施政方針を教書として、議会にしめすが、議員の質問にいちいち答弁するようなことはしないのである。むろん議会は自分が選んだわけでもない大統領の不信任を決議して、これを辞めさせるというようなことはできない。したがって大統領の所属する政党の反対党が、議会の多数を制しても、それとは関係なしに大統領は、その任期をおわり、途中で死亡しても、副大統領が昇格するだけで、政府は議会の多数派によって、とってかわられることはない。

 それでは大統領は、自分を選んだ国民に責任を負うのかというと、負うことになっているし、また負うつもりではいるが、事実は責任を負うにも、負うことができないのである。なぜならば国民を代表する機関としての議会が、大統領の責任追求の機能を十分はたすことのできないアメリカで、どうして一億七千万の国民が、大統領の責任を問うことができようか。だから大統領は議会での議論や新聞論調やまた世論調査などによって、国民の意向を察知して、行政するだけである。どんなに国民の反対があったとしても、彼は四年間の任期を務めることができるし、また任期中つとめることを義務づけられていることになる。このように大統領を辞めさせることができないということは、大統領の責任を追求することが、十分できないということである。責任政治とは責任をとって、辞めさせることができる政治という意味にほかならないことはいうまでもない。だからアメリカの大統領にたいして、その国民に責任を負えということは、「口なき天」もしくは「見えざる神」に責任を負えというのと同じで、責任の負いようがないのである。かくて大統領の政治責任の問題は、けっきょく大統領個人の良心の問題に帰着する。ここにアメリカの大統領が、独裁者となりうる制度的理由の一つがある。したがって君主専制国家では、だれが君主の意志を形成するか、ということが問題になるのと同じように、アメリカでは、だれが大統領の意志を形成するか、ということが重大な問題になるわけである。このばあいに、大統領側近の高級文武官僚や財界の巨頭の比重は、きわめて大きい。それは大統領を頂点とする寡頭専制政治(オリガキー)におちいる危険をいつも孕んでいるといってもよいのである。アメリカの学者の言い方にしたがえば、それは少数のパワー・エリート(権力的領導者)による専制支配への危険である。アメリカが民主主義的におくれてきた第一の理由はここにある。

 その理由の第二は、アメリカでは政党は大きくはなるが、質的に発達をとげることができないということである。とりわけ第三党すなわち労働者の党を成長させることが、まったく不可能であるということである。それはアメリカが連邦制をとっていて、各州がつよい自治権をもっているということと重大な関係がある。アメリカが連邦制をとっているというこの宿命的な事実が、アメリカの民主的な立ちおくれの原因の一つを構成しているということは悲劇的である。

 アメリカではその州制によって、大統領が選ばれるばあいに、国民の意志は州単位にあらわされることになる。それはデモクラシーの理念からいえば、もっともデモクラシーに遠い選挙制度である。すなわち、たとえばニューヨーク州で共和党の大統領候補が、わずかでも多数をとれば、ニューヨーク州の意志は共和党候補にきまったとして、同州の大統領選挙人四十五人の全部を共和党が独占する。カリフォルニア州では、民主党が勝てば、加州の大統領選挙人三十二名全部を民主党がとる。こうして四十八州を通計して、五三一名の大統領選挙人のうち、かりに共和党が、その半数以上をとれば、共和党の候補が大統領となるのである。だからニューヨークやカリフォルニアやペンシルバニアのような大きな州で、少しの差で勝ったとすると、あとの州では大差で負けるというようなばあいでも、選挙では勝てることになる。このような制度のもとでは、政党もまた州単位に、自主性をつよくもつことになるから、全連邦的な統一政党をつくることがむつかしい。

 そればかりではない。この選挙制度のもとでは、第三党はほとんど頭をもたげることはできない。どの州においても、小政党はかき消されてしまうことになるからである。アメリカの二世紀に近い歴史のうちで、ただ三度だけ、人民党(一八九二年)、社会党(一九二〇年)、進歩党(一九四八年)といった比較的ラディカルな政党の大統領候補が、それも全国での得票数を総計して、わずかに百万票内外(総投票数の六~八%)をとったことがあるにすぎない。そのうえ、第三党にとってさらに不利なことは、州議会および連邦議会の議員を選ぶにあたっても、各州は共和党と民主党以外の政党の候補者の当選を、ほとんど不可能にするような選挙法をきめていることである。しかもこの選挙法を改める力を、第三党は育てることができないとあってみれば、この状態を変えることなど思いもよらないことだということになろう。

 

2 政党の未発達と不十分な階級形成

 こうしてアメリカは、政党の質的発達という点からのみいえば、まだ十九世紀末期のイギリスか、せいぜい二十世紀はじめに、ヨーロッパ大陸各国が到達していた水準のところに釘付けされてしまっていることになる。イギリスではすでに、一九二四年、二九−三一年、四五−五一年の三度労働党が政権をとり、ほかのヨーロッパ各国でも、労働者階級の政党が強大になり、日本のようにおくれていた国においてさえ、社会主義建設を呼号する社会党が、政権の座に迫ろうとしているのに、アメリカでは、社会主義政党に期待をかけることは全然できない。社会党共産党をはじめ、社会主義の綱領をもつ政党も、少数の州にあるにはあるが、それはまだヨーロッパ十九世紀後半頃の社会主義政党の発達段階にとどまっていて、政党というよりは、まだ思想団体というに近いのである。

 かくてアメリカの労働組合は、一七九〇万(A・F・L=C・I・O一六二〇万、独立組合一七〇万=一九五七年)の労働者を組織するほど巨大であるにもかかわらず、労働者階級は、その要求を政治的に実現するための、自分たちの政党をもたない。だからアメリカの労働者階級は、ブルジョア階級の政党にしかすぎない共和党と民主党とを、うまくあやつって、その要求をとおすほかはない。これは十九世紀のイギリスの労働者が、保守党と自由党との対立を適当に利用して、十時間労働法の議会通過に成功し、穀物条例の撤廃を実現したころの状態を想いおこさせるものがある。

 このようなありさまであるから、アメリカの労働者階級は、ほんとの(ヒュア・ジッヒ=対向的)階級として、形成されないのである。身分制がなくなっている今日では、政党なしに階級は形成されない。階級はもの(とくに生産手段)をもっているかどうかによって、機械的にきまるのではなく、けっきょく国家権力をとっているかどうか、によってきまるのであるから、権力をとる自由と、権力をとる手段としての政党とをもたなければ、自分たちを対向的階級として明確にすることはできない。生産手段を所有しているということは、権力をとる場合の有利な条件であるというにすぎないのである。かくて権力を争う主体としての政党をもたず、したがって政党をもつ支配階級にたいして、権力闘争の場において、自分たちを対抗的にあらわすことができないアメリカの労働者階級が、それ自身としては階級であっても、ヒュア・ジッヒの階級となることができない理由は、ここにある。

 ところが階級と権力と政党との関係の問題は、案外、なおざりにされてきた。したがって階級を生産手段の所有・非所有ということと機械的にむすびつけて、考える傾向がまだつよいので、生産手段の所有・非所有の関係が、はっきりしなくなると、階級はなくなったというように早合点をするようになる。たとえば今日のアメリカでは、すでに資本家という特別の階級は存在せず、生産手段は、株式所有が一般化したため、多数人の手にうつったという考え方のごときこれである。ところで支配階級といわれるばあいの《支配》ということであるが、これは物にたいする支配のことではなくして、対人的支配の意味である。したがって支配階級ということは、対人的支配権(権力)をもっている階級という意味であり、被支配階級とは、この支配権をもっていない階級のことでなければならない。ところが対人的な支配は、組織によらずしては形成されないから、非組織的状態にある街頭の群集にたいしては、かのフォードやロックフェラーといえども、命令することはできないのである。しかしかれらはその企業(組織)のもとで働く数万の人々にたいしては、絶対の服従を要求することができる。このように支配・被支配の関係を成り立たせる条件としての組織は、今日、無数に存在する。そしてどの組織においても、かならず組織における支配権(権力)をもっているものと、そうでないものとに別れている。アメリカではこの組織の支配者は絶対権をもっていて、大学でさえ、そのコーポレーションの支配権を掌握している大学総長の権力は、絶対に近いといわれる。

 ところがこのような一つ一つの組織における支配者たちも、それだけではまだ支配階級として形成されているとはいえない。かれらはまだ国家権力とむすびついていないからである。またかれらのつくっている経営者団体その他のグループも、まだ階級形成の契機としては十分ではない。それらは国家権力をとる手段ではないからである。その手段としては、今日ではただ政党があるだけである。そこでアメリカにおける諸企業の経営者たち、すなわちブルジョア的生産様式のもとにおける経営者たち、いいかえればブルジョアたちが、自からを支配階級とすることに成功しているのは、かれらの政党である共和党と民主党とが、たがいに代わりあって国家権力を行なう座についているからである。

 このようにして、アメリカのブルジョアたちは、支配階級となっているのに、各組織、とくに企業において、支配をうけている被雇傭者(ひこようしゃ)たちは、すでにみたように自分たちを、被支配階級にまとめる政党をもたない。労働組合はあっても、それは経営者団体と同じで、権力闘争の手段ではない。労働者階級の党を名乗る政党はあっても、それは問題にならないほど微弱である。加うるにこれらの小政党の党員たちは、自分の党の力では、絶対に国家権力をとることができないことを知っているから、かれらはその政策が、民主・共和の両党によって、採用されることを望むようになる。こうなれば、それは政党ではなしにプレッシャー・グループでしかない。そのような政党を、労働者たちが支持・育成しようとするはずはない。それでは胃袋をとってしまえば、それに代って胃の働きをする機関ができるように、労働組合が政党の機能を、はたすことができるかというとそうではない。アメリカの労働組合は、プレッシャー・グループとしての機能をはたすために、政治関係の委員会をもってはいるが、しかしその活動は、ほとんど経済闘争の場に釘づけされ、労働組合理論家も組合の幹部も、それを正しいとしている。かくしてアメリカの労働者階級は、みずからを対向的階級にまで高めることはできないのである。労働者階級が、対向的階級として成長していくことができなければ、ブルジョア階級もまたその対向性を発揮する必要がなくなるのは当然である。アメリカの学者たちが、ヨーロッパの学者とちがって、階級という概念を身近かなものと感ぜず、したがって「支配階級」というかわりに、「パワー・エリート」というべきである、などというような社会科学的センスをもつようになるのも、ここにその社会的理由があるように思われる。

 このようにしてアメリカは労働者階級の政党を禁止するのではなくして、発育不能におとしいれているのである。だからキバの短い労働者たちが、たとい一七〇〇万の組織をつくっていても、かの国のブルジョアたちは、これをおそれる必要はない。むしろ労働組合は、ブルジョアたちの階級権力を維持するための、一つの重要な調節機関として役立ってさえいるのである。

 

3 労働組合の道徳的堕落と階級専制

 かくしてアメリカの労働組合は厖大な資金と、賃金のためにたたかう力はもっているが、その賃銀闘争を権力闘争に、むすびつけるようなことをせず、また近代的自由のために、権力を向うにまわしてたたかうようなことをしない。かれらは自分たちもまた反共であるという理由で、共産党が弾圧されることに反対しないのである。一九五四年に「一九五四年共産党取締法」が公布されたときも、アメリカの労働組合は沈黙していたばかりでなく、むしろ支持的でさえあった。これは天にむかって唾を吐くことと同じであるということを解しないほど、アメリカン・デモクラシーの精神は、労働者のなかですら、うしなわれているのである。共産党の自由の喪失は、共産主義者だけの問題ではない。それはアメリカ国民のすべてが、結社の自由を、それだけうしなったことを意味するのである。

 自由のためのたたかいをやめることは、近代においては精神的堕落としてあらわれる。自由と人権こそは、近代における最高のモラルであるから、そのためにたたかうことをやめて、どうしてその道徳的高さを保つことができよう。アメリカの労働組合が堕落し、白人労働者が、黒人労働者にその矛盾を転嫁して、なお恥じないといわれるのは、その道徳的堕落のためであると考えるほかはない。

 このようにして、ものに味すべき地の塩が味をうしなったアメリカでは、自由をまもり高めることが困難となり、それはいわゆる自由世界のなかで、もっとも自由の少ない国家の一つに転落することになったのである。自由主義者俳優・チャップリンですら住まうことのできないアメリカ、一九五七年には、「赤狩り」の暴威をふるったかのマッカーシーが死んでも、なお良心的な日本の民主主義者、都留重人の人権を平然として傷つけたアメリカは、こうしてつくられているのである。たしかにこの国は、メイ・フラワ一号と、ジェファーソンとジャクソンとリンカーンたちの精神的遺産を、まったく喰いつぶしてしまったようである。だからいまはアメリカで自由をまもり育てることはむつかしくなった。自由をまもるためには、大学の教授団や弁護士会や、またほかの有志の力に期待すること、すなわち小グループをたくさんつくって抵抗することが必要だというような自由擁護の理論は、アメリカのこの現実をふんまえてこそ理解できる理論である。

 このように、かつてのかがやかしい「自由の国」アメリカが、自由のない国アメリカに転落をはじめていることを、世界の人々が知ったのは、ようやく第二次世界戦争のあとのことであった。しかしこの国の、あのすばらしかった自由の成長率が、緩慢な下降をはじめたのは、一九二九年にはじまる未曾有のパニックのあと、それは皮肉にも、自由とヒューマニズムの精神をもって行なわれたかのニュー・ディール政策(新経済政策)を契機として、経済にたいする国家の役割が飛躍的に大きくなっていったころであるとみなければなるまい。しかしこのニュー・ディールの精神は、やがて第二次世界戦争の末期、ルーズヴュルト大統領の死とともに、ほとんどまったく滅びるのだが、それにもかかわらず、国家の機能(メカニズム)だけは、いよいよ大きくなり、国家の機構は、ますます複雑かつ巨大になっていった。アメリカの大統領すなわち行政官僚への権力の集中は、こうして空前の高さに到達するのである。これはたださえ少くない議会の掣肘力(せいちゅうりょく)を、さらに相対的によわめる結果となり、アメリカ的専制が、アメリカン・デモクラシーの名のもとに完成するのだが、もしこの専制に、歴史的な見地からの呼び名をあたえるとすれば、それはまさに典型的なブルジョアジーによる階級専制と呼ばれなければならないものである。

 しかしこのような専制への移行は、議会に被支配階級の政党の代表をおくることも、また議会が最高官僚としての政府首班の任免を決定することもできないような、古典的な制度をもつ国家においてそうなのであって、それをあたかも、どこの国家にも共通する近代史的必然であるかのように考えるのはまちがっている。国家の機能の拡大と、行政府の優越・専制ということとのあいだには、論理的関連の必然性はない。自由の精神と自由の制度とを発達させようとする社会的勢力が、ときの階級権力のまえに屈し去ったとき、政治的専制は必然的になるのである。この歴史の論理は、近代史を貫ぬいて、いまもなお変らないと考えられる。だからもし国家機能の拡大は、かならず官僚専制を生み出すというような必然観が成立するとすれば、歴史がすすみ、社会生活の仕方がいよいよ複雑化し、したがって国家の役割が大きくなればなるほど、人々は専制のもとで、自由をうしない、そしてついに人間は自己を喪失した生ける屍にならなければならないということになる。はたして歴史は、人間をこのペシミズムにおとしいれる考え方をみとめるであろうか。

 

4 アメリカ的ペシミズム

 しかしこのアメリカ的専制のもとにおいて、多くの絶望の理論が生産されるのは理由のないことではない。すなわち人々を、少数の領導者(エリート)によって、どうにでも導かれていく、Mass(大衆)としてとらえる考え方のごときこれである。なるほどこの考え方は、いまの発達したデモクラシーの段階でのマスの力の大きさをみとめているけれども、そこでいわれているマスは、けっきょく日本でもまた「一億総白痴化」といったペシミスティックなことばがつくられているように、新聞、ラジオ、テレビなどを手段とする一握りの領導者によって、どこへでも導かれていくマスとして、とらえられているのである。したがってこのマスの一員でしかない個々人が、自分自身を喪失するのは当然であるという考え方にみちびかれる。だからこのマス・デモクラシーの理論のもとでは、上部にある少数の領導者が、その考えを変えてくれないかぎり、下の方にあるマスを構成している一人一人は、どうしようもない、ということになる。それはまさに専制下の人民の宿命を思わせるものがある。ところが近代的デモクラシー以前の人民の場合には、その生活の苦しみが、専制への反抗のうめきとなってあらわれたけれども、豊かな生活、とくに世界一の繁栄のもとでくらすことができると人々はその専制に不満を感ずることもなく、権力的領導者が右に向えば右に、左を打てば左を打つようになる。このような状態をつづけている間に、アメリカ人はおそるべき政治的無関心におちいっていったのではなかろうか。アメリカの学者たちが、現代人は政治的関心をもたないようになるという考え方をするようになっているのは、この間の消息をしめすものといえようか。

 アメリカ的デモクラシーの現実と、ちょうど見合っているこの理論は、けっきょく人間不信につながっていく。人間は自ら選択し、反対し、怒り、泣く、主体的存在であるにもかかわらず、そこではもはや人間は主体的存在ではないのである。けれどもどのように考えられようとも、人間は主体的である。印刷術の発達によって、新聞をつくるようになった人類は、口伝てのデマゴギーに迷わされていた状態から解放されて、世界と自分の国の問題について、いままでよりもよく知り、そして考えることができるようになった。またラジオが普及すると、文字によってではなく、権力的領導者の声によって、かれを想像することができるようになり、テレビにおいては、文字や声だけで知っていたかれとちがって、その人柄が野卑であり、映し出されているその瞬間に、かれの頭脳を何がかすめ通ったかということまで、わかるようになった。そしてテレビがカラーになれば、かれの顔色のわるいことまで、知ることができるのである。このようにわかることは、人間がその反応力を増大したことである。反応力の増大は「白痴化」を意味しない。したがって自分の考えを定め、そしてそれを社会的な勢力にまで、まとめあげていくことのできる手段(たとえば自分たちの政党)をもっているならば、むしろマス・メディアの発達によって、少数の領導者の思うままにあやつられることから、しだいに解放されることができるはずである。

 人間はもともと積極的な存在である。人間がポジティヴな存在であることは、その反面にネガティヴな側面をも併せもつことになるが、だからといって、ネガティヴな側面をだけみていこうとする見方は、現代をその歴史の方向において、正しく理解することにはならないのである。だから現代人を機械の奴隷のようにいうことは当らない。アメリカの社会心理学者たちは、このんで近代的人間の、このネガティヴな側面をとらえようとする。そして発達した分業のもとで、人々はやはり自己を失っているとするのである。この多分に自虐的な理論を生み出す態度は、宗教家たちが、いつでもその時代を神に見放された時代(末世)としてとらえようとする態度に共通するものがある。しかし宗教家のばあいには、神にもっとも見放されたその時代は、もっとも救いを必要とする時代、すなわち神にもっとも近づこうとしている時代として、これを積極的にとらえているのである。したがって終末思想は、宗教的な絶望の理論のようであって、じつは神の恩寵に期待する肯定的なオプティミズムの反面をもつ理論であるから、いまのアメリカ的理論が、救いのないペシミズムにおちいっているのとは意味がちがう。

 したがってアメリカ的自己喪失の理論は、精密な機械のまえで(官庁や会社の細分化された事務の場合にも同じだが)、小さな部分の仕事をしている現代人が、その部分的な仕事を受けもつことによってこそ、人と人との大きな組織的なつながりのなかにはいり、その大きな人間関係のなかにおいて、新しい自己を発見し、拡充しているという積極的な側面を見忘れさせる役割をはたすことになる。もしこのぺシミズムのうえに、自分の考え方を築くとなると、生産的人間としては手工業的段階において、教師および学生としては、私塾の段階において、音楽にあっては交響楽以前において、人間はもっとも人間らしくあったという反歴史的な考え方に陥没していくことになるのである。これではその理論はもはや病的というほかはない。

 かくして、たといその理論が、近代的人間のネガティヴな一面をつたえているとしても、人間はこのような絶望の理論に、永く満足することはできない。それが証拠には、そのような理論を主張している学者に、「お前自身もまた自己を喪失しているのか」と、きいてみるがよい。おそらくかれは「自分はそうではない」と答えるにちがいない。そしてかれの理論をうけ入れているほかの者も、やはり同じように回答するにきまっている。それはかれらはつねに、みずから考え、批判し、選んでいる主体的な自分を知っているからである。そこでさらにかれらに聞いてみよう。それではアメリカの上層部を構成して、アメリカの経済と政治とを左右している連中はどうなのか、と。むろんそのような支配層は、「自己を失っているどころか、自分の意志どおり行なっていくことができる」と答えるにちがいない。つまり現代アメリカの支配者たちと、この種の理論家たちだけが、自主性をもっていて、あとのものは、すべて現代的自己喪失者だということになるのである。これではけっきょくその理論は、アメリカの被支配的大衆は無力である、ということを、もってまわって説明するための理論だということになるのではないか。

 

5 楽天的資本主義観

 このような悲観的な人間不信の考え方が、今日のアメリカで勢力を増していっているのに反して、これはまたきわめて楽観的な資本主義永久繁栄論が、同じアメリカにおいて支配的になっていきつつあることは、そのコントラストの妙、まことに興味ぶかいものがある。資本主義永生論の根拠は、さきにものべたように、現代資本主義が、アメリカの学者が、このんで「革命」ということばをもって表現するほどの変り方をしたという点にもとめられているが、それよりももっと深いところにある理由、すなわちこの理論をとなえている学者たちの理論以前の心理的なささえになっているものは何か、という問題を追及していくならば、おそらくそれはアメリカ資本主義の運命にたいするつよい楽観意識であろう。すなわちアメリカの資本主義は壊われないという確信が、はじめから、不動のものとしてあったのである。いいかえればとくに一九三〇年ごろ以降の現代資本主義の研究の結果、はじめてこの楽観論が生れてきたのではなしに、その資本主義にたいする信頼感をもって、研究をすすめた結果、さらにその信頼感をつよめることができたというようなものではなかったか。わたくしは日本にもよく紹介されているJ・バーナムやA・A・バーリーや、G・C・ミーンズといったような経済学者の書物が、この安心感をもって貫ぬかれているのをつよく感じとることができるのである。

 そこでこの資本主義の運命にたいする安心感を心理的に生み出している窮極的な条件であるが、それは現代アメリカが世界に冠たる位置をもっているということだけではなく、むしろそれよりも、もっと重要な条件として、アメリカの資本主義的な権力が安定しているということを、あげなければならないであろう。すなわち国家における専制権力、およびもろもろの企業(組織)における専制権力がともに安定し、国家権力と企業の権力とのあいだに深い調和(この調和については次節でのべる)が保もたれ、そのバランスが破られる可能性が、ほとんどないということである。これは資本主義の永生を主張するばあいの、決定的な条件として考えられなければならないものである。したがってこの条件が失われるならば、ほかにどのような楽観的な条件がそろっていても、それをもって、資本主義の永生を決定することはできない。このようにしてアメリカでは、現代的人間にたいするひどいペシミズムと、その資本主義にたいするたいへんなオプティミズムとが、アメリカ的デモクラシーの名におけるブルジョア的階級専制を媒妁人として、結婚することになるのである。

 この状況のもとで、アメリカは将来どのようになるのか。それを予想することは、むろんむつかしいが、やがてアメリカはおそるべき精神的停滞におちいらざるをえないのではないか。そして歴史の進歩から、けっきょくとりのこされていくのではないか。このことはアメリカ人には、まだふかく意識されていないかもしれない。陽気でユーモラスで、ピューリタンの精神をうけついでいるアメリカ人、そして労働の生産性において、世界でいちばん高いアメリカが、世界史の進歩におくれるという予想を立てることは、まったく無謀であるともみえよう。歴史家のA・トインビーのごときは、これとまったく反対の楽観的な結論をみちびき出しているのである。けれどもトインビーのまちがいは、アメリカがいまもなお高いデモクラシーの国であるという、きわめて常識的な前提から出発していることに原因がある。

 もちろんいままでのアメリカは、ジェファーソンやリンカーン時代の遺産があったから、そのデモクラシーをもって、世界にさきがけることができたが、今日ではもはやそうではないばかりか、さらにわるいことには、その停滞をうちやぶる野性が、そこではもはや被支配人民のなかにおいてさえ、失われているということを、計算に入れなければならない。すなわち今日のアメリカとアメリカ人とは、すでに世界の貴族の位置にあるのである。このようになったときは、その国にとっていちばん危険なときであることを、世界の歴史は、われわれに教えているのである。にもかかわらず、その国の社会科学者は、アメリカ的現実を解剖し、哲学者はアメリカ的思考を解釈し、そして神学者はコンミュニズムを攻撃するだけで、その歴史の理想を語り、その理想によって自分の理論をみちびくことを忘れはじめているようにみえる。労働組合もまたその理論と行動とを、歴史の彼方にむかって躍進させる力を失い、幾人かの労働ボスは年額五万ドル(一八〇〇万円)という高額の給料を、しかも終身保証され、組合の経理は、大統領から教書(一九五九年一月)をもって、忠告されなければならぬほど乱脈をきわめているといわれる。そして、したがってというべきであろうが、絶対的な会社の権力を握る重役、富豪たちは文武高級官僚とむすびつつ、国家における支配権を、その二つの政党によって、きわめて安定的に、独占的に掌握しているのである。

 かくしてアメリカは、かつては相対的にすすんでいたそのデモクラシーによって、その資本主義の体制下の社会を、世界にさきがけて前進させることができたけれども、もはやこの国は今日以後の歴史の問題を解決するための道徳的なエネルギー源を枯渇させてしまっているようにみえる。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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岡本 清一

オカモト セイイチ
おかもと せいいち 政治学者 1905~2001 京都府生まれ。同志社大学法学部教授を経て、昭和43年新制の京都精華短期大学(現、京都精華大学)の初代学長となる。「自由自治」の理念を掲げ、学長の選挙権被選挙権を全教職員がもち、学生には拒否権をあたえる学長公選制等によってその理念を具現化した。主著に『ブルジョア・デモクラシーの論理』、『自由の問題』、『企業革命論』がある。特に、『自由の問題』は戦後労働組合活動に関わる者の間で永く読み継がれ、バイブル的存在となった。

掲載作は総タイトルを『デモクラシーをめぐる争い』と付し、『ブルジョア・デモクラシーの論理』(法律文化社 1954)より「ブルジョア・デモクラシーの憲法と自由および暴力」を、『自由の問題』(岩波新書 1959)より「現代アメリカ的自由の限界」を抜粋、採録した。

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